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小山正明の情報 (こやままさあき)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

小山正明の情報(こやままさあき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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小山 正明さんについて調べます

■名前・氏名
小山 正明
(読み:こやま まさあき)
■職業
野球選手
■小山正明の誕生日・生年月日
1934年7月28日 (年齢89歳)
戌年(いぬ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
兵庫出身

(昭和9年)1934年生まれの人の年齢早見表

小山正明と同じ1934年生まれの有名人・芸能人

小山正明と同じ7月28日生まれの有名人・芸能人

小山正明と同じ出身地兵庫県生まれの有名人・芸能人


小山正明と関係のある人

野村克也: 当時の野村は小山正明らの内角攻めを苦手にしていたが、このオフに近鉄から移籍してきたジャック・ブルームから春季キャンプで「腕を折りたためばいいんだ」と教わり、スタンスを狭くしてバットを余らせて持つように打撃フォームを改造した。


若生智男: 1964年には小山正明・山内一弘の「世紀のトレード」に並行して、マイク・ソロムコと交換で阪神タイガースへ移籍。


村山実: 1964年には小山正明が山内一弘とのいわゆる「世紀のトレード」で東京オリオンズへ移籍したために村山への負担が増すと思われたが、杉下茂一軍ヘッド兼投手コーチによって徹底的に鍛え上げられたジーン・バッキーが29勝を挙げる活躍を見せて小山の穴を完全に埋め、負担が減った村山も復活を見せて22勝を挙げ、2度目のリーグ優勝に貢献する。


野村収: 1972年には中学時代から参考にしていた小山正明のピッチングや練習を間近に見て刺激を受けて、いきなり14勝10敗、防御率4.13という好成績を残す。


上原浩治: 日本での通算与四球率は1.20で、「精密機械」と呼ばれた北別府学の1.90、小山正明の1.80といった、往年の名投手達の記録を大きく上回っている。


榎本喜八: 同年はプロ野球史上5人目となる通算3500塁打を達成したが、負け試合だったということもあり、榎本に手を差し出したチームメイトは小山正明だけであった。


ジョージ=アルトマン: 次々に外野の間を抜け、フェンスオーバーをする打球に若手は見とれて言葉も出ず、ベテランの小山正明は「こりゃ、たまらんわ。


石井丈裕: 1990年シーズンは、キャンプでコーチの小山正明からパームボールを伝授され、遅い球種を得たことで投球の幅が大きく広がった。


石井丈裕: アマチュア時代は速球と手元で曲がるスライダーを武器にしていたが、西武で小山正明コーチからパームボールを習得し、投球の幅が大きく広がった。


戸梶正夫: この年の阪神は戸梶ーバッキーのほか、福塚ー村山実や山本ー小山正明など相性の良さで捕手を起用し、今でいう「プラトーン・システム」でやりくりした。


藤村富美男: 小山正明は「当時"西の藤村、東の川上"てな言われ方をしとったけど、川上さんでも藤村さんみたいな人間的魅力でお客さんを呼んだわけやなかった。


大杉勝男: 1967年は飯島滋弥コーチの「月に向かって打て」の助言で開眼し、4月12日の対東京オリオンズ戦(後楽園球場)では両者無得点で迎えた延長13回無死無走者の打席で小山正明からサヨナラ本塁打、5月の段階で両リーグトップの13号を放つ。


吉田勝豊: 10月13日の第1戦(甲子園)で小山正明から2点本塁打、同18日の第5戦(神宮)では村山実から先制の3点本塁打を放つ。


野田誠三: 小山正明


ダリル=スペンサー: まず、8月14日に坂井勝二から2打席連続敬遠されると、8月15日のダブルヘッダー第1試合の先発は「精密機械」の異名を取るほどの制球力を誇る小山正明であったが、スペンサーに対しては4打席全てストレートの四球であった。


沖山光利: 6月6日の対阪神戦で小山正明と対戦。


吉田義男: 吉田本人は自らの努力も認める一方で「グラウンド(甲子園球場)の状態が良くイレギュラーバウンドも少なかったし、何より小山正明、渡辺省三、村山実などコントロールのいい投手が多かったので守りやすかった」と環境の良さにも敬意を表している。


三宅秀史: 翌9月6日の試合前、川崎球場のレフト側で安藤統夫とキャッチボールをしていた際、センター側でキャッチボールをしていた小山正明の送球が山本哲也のミットを大きく逸れ、その球を左眼に受けた。


皆川睦男: また、シーズン30勝は1964年の小山正明(30勝)以来4年ぶりの快挙だった。


藤川球児: 7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の対広島戦で失点し、連続無失点試合数は38, 連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。


福塚勝哉: この年の阪神は戸梶正夫ージーン・バッキー、山本哲也ー小山正明など相性の良さで捕手を起用し、今でいう「プラトーン・システム」でやりくりした。


濃人渉: 1969年、近藤貞雄を再び投手コーチに招聘、有藤通世をルーキー年から三塁手のレギュラーに抜擢、「ミサイル打線」復活を目指し、与那嶺を再び打撃コーチとして招き、球団名がロッテに変わった2年目の1970年、投の成田文男、木樽正明、小山正明、打の江藤愼一、アルトマン、榎本喜八、山崎裕之、有藤道世らを率いてパ・リーグ独走優勝。


福間納: 1年目は小山正明コーチと投手陣のパイプ役となり、投手には左打者への攻め方、タイミングの外し方など分かりやすく貴重なアドバイスをした。


西村一孔: 同年のタイガースには、藤村隆男、渡辺省三、小山正明といった好投手が在籍していたが、その中でルーキーの西村が開幕投手に選出された。


米田哲也: この時にはかつてのライバルであった小山正明が一軍投手コーチを務めており、登板間隔に気を使った起用で調整がやりやすかったとのことである。


藤村富美男: 野球関係の書物に同時期活躍した小山正明、吉田義男、奥井成一ら同僚選手、青田昇らライバル選手やマスコミ関係者から同様の意見が多く聞かれる。


鬼頭洋: その後も先発として活躍するが、1973年に小山正明との交換トレードで安田泰一とともにロッテオリオンズへ移籍。


米田哲也: 米田は、「たくさん勝っている投手って、僕もそうだけど、カネさん、小山正明さん、鈴木啓示と弱いチームに長くいた選手が多い。


山内一弘: 直後に「世紀の大トレード」と言われた小山正明との交換トレードが成立し、阪神タイガースに移籍。


森永勝也: この年はセ・リーグの防御率ベストテンの5位までが1点台(村山実、小山正明、金田正一、秋山登、稲川誠)、10位の権藤博でも2.33を記録、チーム防御率も森永のいた広島だけが3点台(3.30)で他の5チームはすべて2点台と言う史上まれにみる投高打低の年であり、森永は規定打席到達者で唯一の3割打者であった。


小山正明の情報まとめ

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小山 正明(こやま まさあき)さんの誕生日は1934年7月28日です。兵庫出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、人物などについてまとめました。父親、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。小山正明の現在の年齢は89歳のようです。

小山正明のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

小山 正明(こやま まさあき、1934年7月28日 - )は、兵庫県明石市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。

優れた制球力から「投げる精密機械」と称えられ、金田正一、米田哲也に次ぐ日本プロ野球歴代3位の320勝、同5位の290完投を記録した。通算無四球試合も鈴木啓示に次ぐ歴代2位。2001年に野球殿堂入り。

小山が通った高砂高校はもともと女学校で、小山の入学する1年前の1949年に男女共学となって野球部が設立されたばかりであり、野球では全く無名であった。小山は高校3年秋に進学を勧める父親を説得し、その父親のつてで大阪タイガースの入団テストを受ける。なお、小山の父が息子の入団テストを依頼する手紙を監督の松木謙治郎宛に書いたが、それが大変な達筆であったと松木は数十年後に回顧しており、小山本人からはたいした印象を受けなかったとされる。なお、小山の父・英一は書道塾を営んでいたという。その後、タイガースからの合否通知がなかなか届かず、自宅から近い明石市内でキャンプを行っていた大洋松竹ロビンスの入団テストも受けたが、当時は大洋ホエールズと松竹ロビンスの球団合併で選手が増えていたこともあり不合格となった。結局、テストから5ヶ月たった翌1953年3月になって阪神から練習生として採用との通知が届き、契約金なしの月給5,000円で打撃投手も兼ねたテスト生として入団。なお、小山は阪神の球団オーナーの野田誠三の遠縁にあたることから、お情け採用だった可能性もある。

シーズンに入ると練習生から二軍選手に昇格。さらに、8月の対近鉄戦で完投勝利を収めると、この投球が評価されて一軍に昇格した。一軍に上がるとレギュラー陣の打撃投手を務めるが、藤村富美男・金田正泰などのベテランや後藤次男などに指名されることが多く、打ちやすいコースに投げられないと藤村は黙って隣のケージに移動していったことが一番堪えたという。後年「クビにならないように必死だった。戦争帰りの人たちはとにかく怖かった」と述懐している。

制球の良い渡辺省三が先輩にいたことと、打者陣の厳しい要求に応えることで制球に磨きがかかった。

1953年に5勝。

1954年にはチーム最多となる11勝を挙げて先発ローテーションに定着。

1956年には17勝、防御率1.66(リーグ6位)と好成績を収め、25勝の大崎三男、22勝の渡辺省三と並んでエース格となる。この年は速球で三振を取ることだけが投手の一番の仕事ではないと思い知り、いわゆる「コントロール」に目覚めた年で、この頃より自分で配球を組み立てながら投げられるようになった。

1958年は開幕前に伊東でミニキャンプを張るが、シートバッティングで投げていた際に、ぬかるんだグラウンドに足を取られて右太股を肉離れしてしまう。しかし、5月から復帰すると1ヶ月の内に7勝を荒稼ぎし、シーズンでは24勝(12敗)防御率1.69(リーグ4位)と初めて20勝を達成し、阪神のエースにのし上がった。またこの年は新たにパームボールを覚え、日米野球で来日したセントルイス・カージナルスとの対戦で投げ、ことごとく空振りを奪ったという。

1959年も20勝、防御率1.86(リーグ3位)を記録するが、同年のシーズン中の7月に大毎オリオンズのオーナー・永田雅一と東京で密会し移籍の勧誘を受ける。同年オフの契約更改において、小山は球団代表の戸沢一隆に大毎移籍を訴えるが、A級10年選手でもないため移籍できるはずもなく、小山は渋々契約更改に同意した。戸沢はセ・リーグ会長の鈴木龍二に対して大毎の協約違反を訴えるが、契約更改が完了したということで鈴木が戸沢を宥めたという。

1960年も25勝を挙げて3年連続20勝以上を達成した。

1962年に監督に就任した藤本定義は、村山・小山の両者に一定の間隔を空けて登板させるローテーションを組む。この頃、記者に投手のローテーションを聞かれた藤本が「小山、村山、雨や」と答えたのが広く知れ渡った。この年、小山はセ・リーグ記録となる5試合連続完封を含むシーズン13完封、47イニング連続無失点(2006年に藤川球児が更新するまで球団記録)を記録。シーズンでは27勝11敗、防御率1.66(リーグ2位)を挙げて、25勝14敗、防御率1.20(リーグ1位)の村山実と2本柱としてリーグ優勝に貢献し、沢村賞を受賞した。一方で、最高殊勲選手投票(当時は単記制)では村山に次ぐ2位だったが、実績を考慮したセ・リーグから「優秀功労賞」として表彰された。最高殊勲選手の選考結果に小山が不満を抱えていると言われたが、そのようなことを言われることこそが小山本人には不満だったという。なお、ロッカールームで二人きりになった際、小山は村山に対してさっと握手を求め「ムラ、おめでとう。よかったな。お前が選ばれてよかったんや」と激励。小山の気持ちを思ってつらくも感じていた村山はこの言葉に救われたという。

同年の東映フライヤーズとの日本シリーズでは4試合に登板、3試合に先発するが0勝2敗に終わる。特に阪神2勝3敗で迎えた第7戦では先発して9回を無失点で抑えるが阪神も得点できずに0-0で延長戦へ突入。10回表に小山が1点を失ったため、決着が付いたと早とちりした小山はロッカールームに引き上げて風呂に入ってしまう。しかし、10回裏に阪神が同点に追いついき延長11回に入るが、そこで小山がベンチにいないことが発覚し大騒ぎになる。あわてて村山がリリーフに出るが、12回表に西園寺昭夫に決勝本塁打を打たれて阪神は日本一を逃してしまった(小山本人は入浴の事実は否定している)。日本シリーズで敗れた後、藤本定義はMVPの選から漏れた小山が初めからやる気を失っていたとして、MVPの投票結果の発表時期を日本シリーズ終了後にするようにセ・リーグ会長の鈴木龍二に直訴。鈴木もこれを受け入れ、1963年以降は日本シリーズ終了後にMVPの結果が発表されるようになった。

阪神では村山と共にタイガースのエース格として活躍したが、「両雄並び立たず」などという声も球団内からは聞かれ、1963年に14勝(14敗)防御率3.59と不振に終わると、その暮れには小山放出の噂が流れる。小山は藤本が既に村山を残し自分は放出する意向であることを知っていたため、忘年会で会った藤本に「来年も頼んまっせ」と言われた時には大変な反発を覚えたという。時を移さずして、長打の打てる打者がほしかった阪神とエース投手がほしかった大毎オリオンズとの思惑が一致し、山内一弘との「世紀のトレード」が成立して大毎に移籍。新聞紙上で報道が過熱する中で阪神本社からは何も連絡がないことにたまりかねて球団社長宅を訪ねたところ、「大毎の永田雅一オーナーから直接電話で『小山を譲ってくれないか』と連日連夜の催促で、大弱りなんだよ」と言われ、小山がその場で「そこまで向こうが言ってくれてるんなら、僕は別に(トレードは)構いませんよ」と答えるとすぐにトレードは成立した。後に「僕の返事を聞いたときの球団社長の、あの満面の笑みは未だに忘れられないよ」と述懐している。永田は小山の入団を大変喜び「君に馬(競走馬)をプレゼントしよう」と言って馬主になることを持ちかけたが、競馬をやらない小山には意味が通じず「自宅に馬を飼う場所がありません」と断ったため、代わりに外車を小山に贈った。

1964年に大毎から球団名を変更した東京オリオンズは、阪神甲子園球場より狭い東京球場を本拠地球場としており小山にとって移籍は不利と思われたが、阪神時代に王貞治を打ち取るために覚えたパームボールを駆使した打たせて取る投球で30勝を挙げ、最多勝利のタイトルを獲得。

1965年に20勝をマークし、同年の納税額から推定した収入額が3,570万円に達し、現役選手ではトップとされた。これは年俸(推定約1,000万円)に加えて、トレードによる特別ボーナスの支給が約2,500万円あったためである。

1966年も2年連続で20勝を挙げる。1966年10月4日の対西鉄ライオンズ戦では87球で完投し、西鉄の稲尾和久も75球で完投、合計162球の最少投球数試合の記録を作った。

東京時代は独身寮に単身赴任しており、真面目で練習熱心な姿勢はチームの手本であった(1966年から1968年までは投手コーチも兼任)。入団したばかりの村田兆治が徹夜麻雀から朝帰りした時にランニングへ出かける小山と鉢合わせして、村田はとっさに何も言わず自分の部屋に逃げ込んだ。その後、練習中に謝りに来た村田に対して「お前ほどの才能がありながらそれを無駄にするのはさびしくないか」と言い、当時球界を代表するベテラン投手だった小山に諭された村田は感激し、真剣に練習へ取り組むようになった。また、木樽正明が入団3年目にして肩を故障してしまい、不本意な成績で野手転向も検討された時にも、「アイツ(木樽)ほど投手としての才能に恵まれたヤツはいない。もう一度考え直して欲しい」と当時の球団首脳に直訴し、投手としての選手生活を続行させた。いくら大投手とはいえ、ベテランである小山にとって若手が台頭することは自らの死活問題に関わるはずだが、そんなことよりも野球人として才能を愛する人柄がよく現れている。

1970年は16勝、防御率2.30(リーグ3位)とリーグ優勝に貢献。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも3試合に登板。最終第5戦では先発し、6回2失点と好投するが、打線の援護がなく日本シリーズ初勝利はならなかった。しかしセ・パ両リーグで日本シリーズにおいて先発登板し、日本プロ野球史上唯一の両リーグ100勝を記録した。

1971年7月3日の対東映フライヤーズ戦では自ら決勝点となる勝ち越しの適時二塁打を記録して完投勝利を挙げ、日本プロ野球史上4人目の通算300勝を達成。試合後にはチームメイトから胴上げされた。

1972年9勝に終わると、新監督として金田正一を迎えたロッテは小山を大洋の鬼頭洋・安田泰一と交換しようとする。しかし、小山は前オーナーだった中村長芳との間に約束があったとして簡単に応じず、結局ロッテから功労金を受け取ってトレードを了承した。なお同時期ヒューストン・アストロズのレオ・ドローチャー監督が小山の獲得に動いたが実現はしなかった。

1973年は選手兼任コーチとなり戦列を離れていたが、シーズン途中に監督の青田昇の要請で現役復帰し、同年10月24日再び引退

引退後は阪神(1974年 - 1975年, 1982年 - 1983年, 1998年一軍投手コーチ)、西武(1990年 - 1991年一軍投手コーチ)、ダイエー(1993年一軍ヘッドコーチ→1994年一軍ヘッド兼投手コーチ)でコーチを歴任。コーチ業の合間を縫って、朝日放送テレビ・ラジオ解説者(1976年 - 1981年, 1984年 - 1988年)、サンテレビジョン解説者(1989年, 1992年, 1995年 - 1997年)も歴任。西武コーチ時代は2年連続リーグ優勝・日本一に貢献し、入団2年目の石井丈裕にパームボールを伝授して素質を開花させた。阪神コーチ1期目には谷村智博にパームボールを伝授したほか、移籍してきたかつてのライバル・米田哲也を登板間隔に気を使いながら起用し、米田はそのおかげで調整がやりやすくなった。2期目には福間納にチェンジアップを取り組ませ、3期目には投手陣に投げ込みを課して故障者が続出した。

3期目退任後の1999年からはサンテレビ解説者に復帰し、2001年からはデイリースポーツ評論家としても活動。サンテレビ解説者は2017年限りでレギュラー解説から勇退し、2018年からゲスト解説として出演しているが、デイリースポーツ紙上では評論を継続している。

選手としての特徴

飄々とした無駄な力の入っていない投法で、村山の顔をゆがめ全力投球するスタイルとは対照的だった。

精密機械と称された制球力のみならず、直球の威力も本人は「ゆったりしたフォームからビュッとホップする球が来るから打者も面食らったんじゃないか」と語り、バックで守っていた吉田義男は「小山の調子がいい時は内野手はヒマだった」(飛球が多いため)、「針の穴を通す」という巧妙な制球力と証言している。また、球団の先輩選手から「真っ直ぐはいつまでも続かんぞ」と言われたことと、小山自身も直球とカーブだけでは力が衰えた時に対処できなくなると考え、ナックル、フォークなども試してみたが、アメリカの雑誌を参考にしたパームボールが一番掌にしっくりくるとしてこれを習得。小山はパームボールを阪神時代から投げるようになっていたが、広い阪神甲子園球場から狭い東京球場に本拠地が替わった東京オリオンズ移籍後はパームボールを本格的に駆使するようになりテスト生から300勝投手になった。なお、本人曰く3種類のパームボールを投げ分けていたという。

他の大投手と同様に走り込みによる下半身強化の重要性を説き、「コマは心棒がしっかりしていてこそ安定する。投手も同様に下半身の安定があって初めてボールをコントロールできる。下半身を鍛えること、これがワシの生命や」と度々コメントしている。後輩の木樽正明によると、小山のマウンドでのスパイク跡は全く同じ場所に踏み出されており、土が全く掘れていなかったという。

1954年3月21日の中日とのオープン戦で、ノーヒットノーランを達成したことがある。公式戦においてはノーヒットノーランを達成したことは無いが、1安打完封勝利が5度あり、そのうち1956年6月6日の大洋戦では1回無死から先頭の沖山光利にヒットを打たれた後に残りの27人をノーヒットに抑え完封勝利。オリオンズに移籍した1965年7月15日の阪急戦では無安打のままで迎えた9回2死からウィンディにヒットを浴び、ノーヒットノーランを逃している。

阪神時代は王貞治を苦手とし、王が新人で「三振王」と揶揄された頃の天覧試合でも本塁打を打たれており、1962年は自身は27勝11敗、防御率1.66という好成績にもかかわらず一本足打法に切り替えた王から、1試合3被本塁打を含む7被本塁打を記録した。対王貞治13被本塁打。このため王対策としてパームボールを徹底的に活用。1963年は14勝14敗、防御率も3点台とシーズン成績は芳しくなかったが、王からの被本塁打を0に抑えた。

江本孟紀は小山のフォームを参考にし、肩をあまり動かさず、手首を「ピュッ」と利かせてボールを切る、無駄と無理のない投球を心掛けた。もっとも「針の穴(を通すような制球)」は最後までマネできなかったという。

投球のテンポが良く、捕手からの返球を受けるとすぐに振りかぶって次の投球動作に入っていた。複雑なサインをやりとりするのは自信のないヤツがすること、との自負心もあったと言われる。

人物

妻は阪急軍初期の名選手だった宮武三郎の娘。小山が合宿所で猿を飼いたいと思い立ち、週刊誌面にて猿を譲渡してくれる人を募集したところ、宮武家から返事があり、宮武家を訪れたことがきっかけだという(当時、宮武三郎は既に亡くなっており、小山自身も当初は宮武三郎の家とは知らなかったという)。

芥川比呂志に似ていると言われ、芥川も「テレビあれこれ」という随筆で「われながら、見れば見るほどよく似ている。横顔が似ているとか、口元が似ているなどという生易しいものではなく、どこから見ても似ていて、後ろ向きになるといよいよ似ている。自分で見ても、腹が立つくらい似ているのだから、他人が見ると尚更らしい」と書いている。

真夏でも熱いお茶しか飲まないなど徹底した健康管理に努め、ライバルであった村山実ですら「小山さんのプロとしての姿勢は勉強になった」と賞賛した。また、小山には煙草を吸う習慣がないため、天覧試合で配られた恩賜の煙草も自分では吸わずに父親に手渡した。

一言居士な一面もあり、青田昇によると1962年の阪神優勝の際に、優勝記念として選手に純金のプレートが配られたが、小山はそのプレートに優勝年月日や球団名が彫られていることに対し『削られた分の金はどうなる』とクレームを入れたことがあるという

2012年には兵庫県立高砂高等学校の同級生の計らいにより、小惑星に自らの名前(13553 Masaakikoyama)が命名されたことに驚き、「大きな土地をもろたよ。行かれへんけどな。」「現在、過去と生きてきて、天体とは全く縁がなかった。驚いてる、ビックリしてるというのが正直な感想。一度は見てみたいかな。」と語っている。

2024/06/13 13:36更新

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小山 真理(こやま まり)
1972年6月7日生まれの有名人 神奈川出身

小山 真理(こやま まり、1972年6月7日 - )は、日本のフリーアナウンサー。ホリプロアナウンサーズプロモーション(旧・ホリプロアナウンス室)所属。神奈川県海老名市出身。実践女子大学生活科学部卒業…

小山 乃里子(こやま のりこ)
1941年8月16日生まれの有名人 北海道出身

小山 乃里子(こやま のりこ、1941年〈昭和16年〉8月16日 - 2024年〈令和6年〉1月20日)は、日本のフリーアナウンサー。政治家。元神戸市会議員。 兵庫県神戸市東灘区・六甲アイランド在住…

小山田 春樹(おやまだ はるき)
1953年4月4日生まれの有名人 神奈川出身

小山田 春樹(おやまだ はるき、1953年〈昭和28年〉4月4日 - )は、日本のフリーアナウンサー、元政治家。元日本テレビアナウンサー、報道記者。京都市会議員を1期務めた。神奈川県逗子市出身。 …

小山内 鈴奈(おさない れいな)
1996年9月18日生まれの有名人 青森出身

小山内 鈴奈(おさない れいな、1996年9月18日 - )は、フジテレビアナウンサー、YouTuber、ゲーマー。 リセットボタンはオサナイで! 生まれてからずっと青森県で育ち、就職とともに上京…

小山 留生(こやま るい)
1990年9月17日生まれの有名人 神奈川出身

小山 留生(こやま るい、1990年9月17日 - )は、日本のモデル、タレント。神奈川県横浜市出身。ABP inc.所属。 2007年スカウトをきっかけにデビュー。 2008年4月からファッショ…

小山 夏希(こやま なつき)
1990年7月13日生まれの有名人 東京出身

小山 夏希(こやま なつき、1990年7月13日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。ミスヤングチャンピオン2013ファイナリスト。 2013年7月、ミスヤングチャンピオン2013のファイ…

小山 セリノ(こやま せりの)
1961年5月11日生まれの有名人 出身

小山 セリノ(こやま せりの、1961年5月11日 - )は、主に1970年代後期に活動していた日本の元歌手、元タレント。 所属していた事務所は「エイプリルミュージック」。 母は歌手、女優の丹下…

小山田 弘子(おやまだ ひろこ)
1987年8月2日生まれの有名人 北海道出身

小山田 弘子(おやまだ ひろこ、1987年8月2日 - )は、北海道出身のタレント。身長155cm、B86・W58・H80。血液型はA型。Vivienne所属。 日本サッカー協会公認3級審判員、英語…

小山田 経子(おやまだ つねこ)
1978年5月29日生まれの有名人 山口出身

小山田 経子(おやまだ つねこ、1978年5月29日 - )は、日本の行政書士、グラビアアイドル、政治活動家。 山口県出身。東京都行政書士会新宿支部所属。タレントとしてはエクセルヒューマンエイジェン…

小山 璃奈(こやま りな)
2003年3月4日生まれの有名人 神奈川出身

小山 璃奈(こやま りな、2003年3月4日 - )は、日本のグラビアアイドル、ファッションモデル。神奈川県出身。ボックスコーポレーション所属。女性アイドルグループ「マジカル・パンチライン」の元メンバ…

小山 ルミ(こやま るみ)
1952年8月11日生まれの有名人 北海道出身

小山 ルミ(こやま るみ、1952年8月11日 - )は、日本の元歌手、女優、タレント。本名は小山 留美。北海道札幌市出身。父はアイルランド人の軍人で、母は日本人。 中学在学中にモデルの仕事を始め…

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小山正明
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