小山正明の情報(こやままさあき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
小山 正明さんについて調べます
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小山正明と関係のある人
藤川球児: 7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の対広島戦で失点し、連続無失点試合数は38, 連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。 辻恭彦: 1年目は秋季キャンプから一軍へ合流したがエース村山実の投球練習でストレートとカーブに圧倒されてスライダーは捕球できず耳元をかすって後逸し、村山に「もうええ、こっちが怖いわ」と言われ、続いて受けた二枚看板の小山正明の投球は完璧なコントロールという事もあって捕球できたが良い音を出せず「ヘタクソ」と言われて終了するなど、プロの洗礼を受けた。 古川啓三: 村山実、小山正明、ジーン・バッキーの三本柱で確実に勝星を稼ぎながら谷間の日を他の投手で埋め、投手力での優勝を果たした。 三浦大輔: 2013年には、6月12日の対ロッテ戦(QVCマリン)で完封勝利し、小山正明の39歳1か月での球団最年長完封記録を39歳3か月で更新するなどチームトップの9勝を挙げた。 若生智男: 1964年には小山正明・山内一弘の「世紀のトレード」に並行して、マイク・ソロムコと交換で阪神タイガースへ移籍。 米山哲夫: 初安打:1971年5月23日、対ロッテオリオンズ5回戦(小倉球場)、2回裏に東尾修の代打で出場、小山正明から 永田雅一: だが、長谷川が(入団当初の投手ではなく野手として)一定の成績を収めたことと、小山正明と山内一弘の「世紀のトレード」を実現させた実績はあったものの総じてチーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせてベンチに電話をかけ監督の濃人渉に選手交代を指示するなど現場への介入も多かったため、批判も受けた。 野田誠三: 小山正明 ダリル=スペンサー: まず、8月14日に坂井勝二から2打席連続敬遠されると、8月15日のダブルヘッダー第1試合の先発は「精密機械」の異名を取るほどの制球力を誇る小山正明であったが、スペンサーに対しては4打席全てストレートの四球であった。 田中義雄: 1958年から1959年まで阪神の監督を務め、小山正明・村山実の投手2本柱や、鎌田実・吉田義男・三宅秀史の鉄壁の内野陣などを育成して、1960年代の2度の優勝の基礎を作った。 皆川睦男: また、シーズン30勝は1964年の小山正明(30勝)以来4年ぶりの快挙だった。 村山実: 1964年には小山正明が山内一弘とのいわゆる「世紀のトレード」で東京オリオンズへ移籍したために村山への負担が増すと思われたが、杉下茂一軍ヘッド兼投手コーチによって徹底的に鍛え上げられたジーン・バッキーが29勝を挙げる活躍を見せて小山の穴を完全に埋め、負担が減った村山も復活を見せて22勝を挙げ、2度目のリーグ優勝に貢献する。 村山実: また、同年6月25日の天覧試合(巨人戦、後楽園)では先発した小山正明を救援したが、長嶋茂雄に左翼ポール際のサヨナラ本塁打を浴びる。 榎本喜八: 同年はプロ野球史上5人目となる通算3500塁打を達成したが、負け試合だったということもあり、榎本に手を差し出したチームメイトは小山正明だけであった。 青木宥明: 2年目の1961年5月5日には、阪神の小山正明に投げ勝ち1-0で初完封を記録するが、度重なる故障により、3年目の1962年限りで現役を引退。 西村一孔: 西村より2年先に阪神タイガースに入団していた小山正明は、その速球の印象は今でも強烈に残っていると語っている。 木樽正明: この話を聞いた小山正明が「アイツ(木樽)ほど投手としての才能に恵まれたヤツはいない。 西山和良: 西山もサードを守っていた三宅秀史も特にアピールをしていなかったことからこの試合で阪神の先発投手としてマウンドに上がっていた小山正明は「あれはホームランだった」と述懐している。 永尾泰憲: 初安打:1973年5月6日、対大洋ホエールズ3回戦(川崎球場)、2回表に小山正明から中前安打 小川清一: 但し、パームボールについては阪神時代に小山正明より教わったが、実戦で生かされないままだった。 ジョージ=アルトマン: 次々に外野の間を抜け、フェンスオーバーをする打球に若手は見とれて言葉も出ず、ベテランの小山正明は「こりゃ、たまらんわ。 御園生崇男: 1951年に現役引退を表明し、翌年から1958年まで一軍投手コーチ、二軍監督を歴任して渡辺省三、小山正明、西村一孔を指導、育成した。 王貞治: 同年6月25日の天覧試合となった対阪神戦では、7回に2対4と2点差を巨人が追う場面で阪神のエース小山正明から4号同点2ランを打って、これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打の第1号となった。 西村一孔: また、投球フォームに特徴のある選手で、小山正明はその投球フォームを『首を振って変な格好から投げてくる』と表現している。 安田泰一: 1972年オフに小山正明との交換トレードによっで鬼頭洋とともにロッテオリオンズへ移籍し、1973年に引退。 藤村富美男: 小山正明は「当時"西の藤村、東の川上"てな言われ方をしとったけど、川上さんでも藤村さんみたいな人間的魅力でお客さんを呼んだわけやなかった。 石井茂雄: その後は梶本隆夫・米田哲也・足立光宏らと共に1960年代の阪急の主力投手として活躍し、1964年には自己最高の28勝をマークするも、小山正明(大毎)が30勝を挙げたため最多勝には届かなかった。 稲尾義文: 初安打:1963年5月7日、対阪神タイガース1回戦(広島市民球場)、5回裏に大石清の代打として出場、小山正明から2塁打 木樽正明: 最終第5戦では小山正明をリリーフし同点の7回から登板するが、森昌彦に決勝三塁打を喫し敗戦投手となる。 岩下光一: 阪神との日本シリーズでは全7試合に先発し、10月18日の第5戦(後楽園)で延長11回に小山正明からサヨナラ2点本塁打を放つなど、28打数8安打6打点と活躍し優秀選手賞を受賞。阪神は7回途中から4番手の小山正明、東映は8回から3番手の土橋正幸の投げ合いで延長戦に突入。 |
小山正明の情報まとめ
小山 正明(こやま まさあき)さんの誕生日は1934年7月28日です。兵庫出身の野球選手のようです。
父親、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。小山正明の現在の年齢は90歳のようです。
小山正明のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 小山 正明(こやま まさあき、1934年7月28日 - )は、兵庫県明石市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 優れた制球力から「投げる精密機械」と称えられ、金田正一、米田哲也に次ぐ日本プロ野球歴代3位の320勝、同5位の290完投を記録した。通算無四球試合も鈴木啓示に次ぐ歴代2位。2001年に野球殿堂入り。 小山が通った高砂高校はもともと女学校で、小山の入学する1年前の1949年に男女共学となって野球部が設立されたばかりであり、野球では全く無名であった。小山は高校3年秋に進学を勧める父親を説得し、その父親のつてで大阪タイガースの入団テストを受ける。なお、小山の父が息子の入団テストを依頼する手紙を監督の松木謙治郎宛に書いたが、それが大変な達筆であったと松木は数十年後に回顧しており、小山本人からはたいした印象を受けなかったとされる。なお、小山の父・英一は書道塾を営んでいたという。その後、タイガースからの合否通知がなかなか届かず、自宅から近い明石市内でキャンプを行っていた大洋松竹ロビンスの入団テストも受けたが、当時は大洋ホエールズと松竹ロビンスの球団合併で選手が増えていたこともあり不合格となった。結局、テストから5ヶ月たった翌1953年3月になって阪神から練習生として採用との通知が届き、契約金なしの月給5,000円で打撃投手も兼ねたテスト生として入団。なお、小山は阪神の球団オーナーの野田誠三の遠縁にあたることから、お情け採用だった可能性もある。 シーズンに入ると練習生から二軍選手に昇格。さらに、8月の対近鉄戦で完投勝利を収めると、この投球が評価されて一軍に昇格した。一軍に上がるとレギュラー陣の打撃投手を務めるが、藤村富美男・金田正泰などのベテランや後藤次男などに指名されることが多く、打ちやすいコースに投げられないと藤村は黙って隣のケージに移動していったことが一番堪えたという。後年「クビにならないように必死だった。戦争帰りの人たちはとにかく怖かった」と述懐している。 制球の良い渡辺省三が先輩にいたことと、打者陣の厳しい要求に応えることで制球に磨きがかかった。 1953年に5勝。 1954年にはチーム最多となる11勝を挙げて先発ローテーションに定着。 1956年には17勝、防御率1.66(リーグ6位)と好成績を収め、25勝の大崎三男、22勝の渡辺省三と並んでエース格となる。この年は速球で三振を取ることだけが投手の一番の仕事ではないと思い知り、いわゆる「コントロール」に目覚めた年で、この頃より自分で配球を組み立てながら投げられるようになった。 1958年は開幕前に伊東でミニキャンプを張るが、シートバッティングで投げていた際に、ぬかるんだグラウンドに足を取られて右太股を肉離れしてしまう。しかし、5月から復帰すると1ヶ月の内に7勝を荒稼ぎし、シーズンでは24勝(12敗)防御率1.69(リーグ4位)と初めて20勝を達成し、阪神のエースにのし上がった。またこの年は新たにパームボールを覚え、日米野球で来日したセントルイス・カージナルスとの対戦で投げ、ことごとく空振りを奪ったという。 1959年も20勝、防御率1.86(リーグ3位)を記録するが、同年のシーズン中の7月に大毎オリオンズのオーナー・永田雅一と東京で密会し移籍の勧誘を受ける。同年オフの契約更改において、小山は球団代表の戸沢一隆に大毎移籍を訴えるが、A級10年選手でもないため移籍できるはずもなく、小山は渋々契約更改に同意した。戸沢はセ・リーグ会長の鈴木龍二に対して大毎の協約違反を訴えるが、契約更改が完了したということで鈴木が戸沢を宥めたという。 1960年も25勝を挙げて3年連続20勝以上を達成した。 1962年に監督に就任した藤本定義は、村山・小山の両者に一定の間隔を空けて登板させるローテーションを組む。この頃、記者に投手のローテーションを聞かれた藤本が「小山、村山、雨や」と答えたのが広く知れ渡った。この年、小山はセ・リーグ記録となる5試合連続完封を含むシーズン13完封、47イニング連続無失点(2006年に藤川球児が更新するまで球団記録)を記録。シーズンでは27勝11敗、防御率1.66(リーグ2位)を挙げて、25勝14敗、防御率1.20(リーグ1位)の村山実と2本柱としてリーグ優勝に貢献し、沢村賞を受賞した。一方で、最高殊勲選手投票(当時は単記制)では村山に次ぐ2位だったが、実績を考慮したセ・リーグから「優秀功労賞」として表彰された。最高殊勲選手の選考結果に小山が不満を抱えていると言われたが、そのようなことを言われることこそが小山本人には不満だったという。なお、ロッカールームで二人きりになった際、小山は村山に対してさっと握手を求め「ムラ、おめでとう。よかったな。お前が選ばれてよかったんや」と激励。小山の気持ちを思ってつらくも感じていた村山はこの言葉に救われたという。 同年の東映フライヤーズとの日本シリーズでは4試合に登板、3試合に先発するが0勝2敗に終わる。特に阪神2勝3敗で迎えた第7戦では先発して9回を無失点で抑えるが阪神も得点できずに0-0で延長戦へ突入。10回表に小山が1点を失ったため、決着が付いたと早とちりした小山はロッカールームに引き上げて風呂に入ってしまう。しかし、10回裏に阪神が同点に追いついき延長11回に入るが、そこで小山がベンチにいないことが発覚し大騒ぎになる。あわてて村山がリリーフに出るが、12回表に西園寺昭夫に決勝本塁打を打たれて阪神は日本一を逃してしまった(小山本人は入浴の事実は否定している)。日本シリーズで敗れた後、藤本定義はMVPの選から漏れた小山が初めからやる気を失っていたとして、MVPの投票結果の発表時期を日本シリーズ終了後にするようにセ・リーグ会長の鈴木龍二に直訴。鈴木もこれを受け入れ、1963年以降は日本シリーズ終了後にMVPの結果が発表されるようになった。 阪神では村山と共にタイガースのエース格として活躍したが、「両雄並び立たず」などという声も球団内からは聞かれ、1963年に14勝(14敗)防御率3.59と不振に終わると、その暮れには小山放出の噂が流れる。小山は藤本が既に村山を残し自分は放出する意向であることを知っていたため、忘年会で会った藤本に「来年も頼んまっせ」と言われた時には大変な反発を覚えたという。時を移さずして、長打の打てる打者がほしかった阪神とエース投手がほしかった大毎オリオンズとの思惑が一致し、山内一弘との「世紀のトレード」が成立して大毎に移籍。新聞紙上で報道が過熱する中で阪神本社からは何も連絡がないことにたまりかねて球団社長宅を訪ねたところ、「大毎の永田雅一オーナーから直接電話で『小山を譲ってくれないか』と連日連夜の催促で、大弱りなんだよ」と言われ、小山がその場で「そこまで向こうが言ってくれてるんなら、僕は別に(トレードは)構いませんよ」と答えるとすぐにトレードは成立した。後に「僕の返事を聞いたときの球団社長の、あの満面の笑みは未だに忘れられないよ」と述懐している。永田は小山の入団を大変喜び「君に馬(競走馬)をプレゼントしよう」と言って馬主になることを持ちかけたが、競馬をやらない小山には意味が通じず「自宅に馬を飼う場所がありません」と断ったため、代わりに外車を小山に贈った。 1964年に大毎から球団名を変更した東京オリオンズは、阪神甲子園球場より狭い東京球場を本拠地球場としており小山にとって移籍は不利と思われたが、阪神時代に王貞治を打ち取るために覚えたパームボールを駆使した打たせて取る投球で30勝を挙げ、最多勝利のタイトルを獲得。 1965年に20勝をマークし、同年の納税額から推定した収入額が3,570万円に達し、現役選手ではトップとされた。これは年俸(推定約1,000万円)に加えて、トレードによる特別ボーナスの支給が約2,500万円あったためである。 1966年も2年連続で20勝を挙げる。1966年10月4日の対西鉄ライオンズ戦では87球で完投し、西鉄の稲尾和久も75球で完投、合計162球の最少投球数試合の記録を作った。 東京時代は独身寮に単身赴任しており、真面目で練習熱心な姿勢はチームの手本であった(1966年から1968年までは投手コーチも兼任)。入団したばかりの村田兆治が徹夜麻雀から朝帰りした時にランニングへ出かける小山と鉢合わせして、村田はとっさに何も言わず自分の部屋に逃げ込んだ。その後、練習中に謝りに来た村田に対して「お前ほどの才能がありながらそれを無駄にするのはさびしくないか」と言い、当時球界を代表するベテラン投手だった小山に諭された村田は感激し、真剣に練習へ取り組むようになった。また、木樽正明が入団3年目にして肩を故障してしまい、不本意な成績で野手転向も検討された時にも、「アイツ(木樽)ほど投手としての才能に恵まれたヤツはいない。もう一度考え直して欲しい」と当時の球団首脳に直訴し、投手としての選手生活を続行させた。いくら大投手とはいえ、ベテランである小山にとって若手が台頭することは自らの死活問題に関わるはずだが、そんなことよりも野球人として才能を愛する人柄がよく現れている。 1970年は16勝、防御率2.30(リーグ3位)とリーグ優勝に貢献。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも3試合に登板。最終第5戦では先発し、6回2失点と好投するが、打線の援護がなく日本シリーズ初勝利はならなかった。しかしセ・パ両リーグで日本シリーズにおいて先発登板し、日本プロ野球史上唯一の両リーグ100勝を記録した。 1971年7月3日の対東映フライヤーズ戦では自ら決勝点となる勝ち越しの適時二塁打を記録して完投勝利を挙げ、日本プロ野球史上4人目の通算300勝を達成。試合後にはチームメイトから胴上げされた。 1972年9勝に終わると、新監督として金田正一を迎えたロッテは小山を大洋の鬼頭洋・安田泰一と交換しようとする。しかし、小山は前オーナーだった中村長芳との間にシーズン終了後の特別表彰と功労金の約束があったとして簡単に応じず、結局ロッテから功労金を受け取ってトレードを了承した。なお同時期ヒューストン・アストロズのレオ・ドローチャー監督が小山の獲得に動いたが実現はしなかった。 1973年は選手兼任コーチとなり戦列を離れていたが、シーズン途中に監督の青田昇の要請で現役復帰し、同年10月24日再び引退。 引退後は阪神(1974年 - 1975年, 1982年 - 1983年, 1998年一軍投手コーチ)、西武(1990年 - 1991年一軍投手コーチ)、ダイエー(1993年一軍ヘッドコーチ→1994年一軍ヘッド兼投手コーチ)でコーチを歴任。コーチ業の合間を縫って、朝日放送テレビ・ラジオ解説者(1976年 - 1981年, 1984年 - 1988年)、サンテレビジョン解説者(1989年, 1992年, 1995年 - 1997年)も歴任。西武コーチ時代は2年連続リーグ優勝・日本一に貢献し、入団2年目の石井丈裕にパームボールを伝授して素質を開花させた。阪神コーチ1期目には谷村智博にパームボールを伝授したほか、移籍してきたかつてのライバル・米田哲也を登板間隔に気を使いながら起用し、米田はそのおかげで調整がやりやすくなった。2期目には福間納にチェンジアップを取り組ませ、山本和行にパームを教え決め球に使うと打者が面白いように引っかかってくれたという、3期目には投手陣に投げ込みを課して故障者が続出した。 3期目退任後の1999年からはサンテレビ解説者に復帰し、2001年からはデイリースポーツ評論家としても活動。サンテレビ解説者は2017年限りでレギュラー解説から勇退し、2018年からゲスト解説として出演しているが、デイリースポーツ紙上では評論を継続している。 飄々とした無駄な力の入っていない投法で、村山の顔をゆがめ全力投球するスタイルとは対照的だった。 精密機械と称された制球力のみならず、直球の威力も本人は「ゆったりしたフォームからビュッとホップする球が来るから打者も面食らったんじゃないか」と語り、バックで守っていた吉田義男は「小山の調子がいい時は内野手はヒマだった」(飛球が多いため)、「針の穴を通す」という巧妙な制球力と証言している。また、球団の先輩選手から「真っ直ぐはいつまでも続かんぞ」と言われたことと、小山自身も直球とカーブだけでは力が衰えた時に対処できなくなると考え、ナックル、フォークなども試してみたが、アメリカの雑誌を参考にしたパームボールが一番掌にしっくりくるとしてこれを習得。小山はパームボールを阪神時代から投げるようになっていたが、広い阪神甲子園球場から狭い東京球場に本拠地が替わった東京オリオンズ移籍後はパームボールを本格的に駆使するようになりテスト生から300勝投手になった。なお、本人曰く3種類のパームボールを投げ分けていたという。 他の大投手と同様に走り込みによる下半身強化の重要性を説き、「コマは心棒がしっかりしていてこそ安定する。投手も同様に下半身の安定があって初めてボールをコントロールできる。下半身を鍛えること、これがワシの生命や」と度々コメントしている。後輩の木樽正明によると、小山のマウンドでのスパイク跡は全く同じ場所に踏み出されており、土が全く掘れていなかったという。 1954年3月21日の中日とのオープン戦で、ノーヒットノーランを達成したことがある。公式戦においてはノーヒットノーランを達成したことは無いが、1安打完封勝利が5度あり、そのうち1956年6月6日の大洋戦では1回無死から先頭の沖山光利にヒットを打たれた後に残りの27人をノーヒットに抑え完封勝利。オリオンズに移籍した1965年7月15日の阪急戦では無安打のままで迎えた9回2死からウィンディにヒットを浴び、ノーヒットノーランを逃している。 阪神時代は王貞治を苦手とし、王が新人で「三振王」と揶揄された頃の天覧試合でも本塁打を打たれており、1962年は自身は27勝11敗、防御率1.66という好成績にもかかわらず一本足打法に切り替えた王から、1試合3被本塁打を含む7被本塁打を記録した。対王貞治13被本塁打。このため王対策としてパームボールを徹底的に活用。1963年は14勝14敗、防御率も3点台とシーズン成績は芳しくなかったが、王からの被本塁打を0に抑えた。 江本孟紀は小山のフォームを参考にし、肩をあまり動かさず、手首を「ピュッ」と利かせてボールを切る、無駄と無理のない投球を心掛けた。もっとも「針の穴(を通すような制球)」は最後までマネできなかったという。 投球のテンポが良く、捕手からの返球を受けるとすぐに振りかぶって次の投球動作に入っていた。複雑なサインをやりとりするのは自信のないヤツがすること、との自負心もあったと言われる。 妻は阪急軍初期の名選手だった宮武三郎の娘。小山が合宿所で猿を飼いたいと思い立ち、週刊誌面にて猿を譲渡してくれる人を募集したところ、宮武家から返事があり、宮武家を訪れたことがきっかけだという(当時、宮武三郎は既に亡くなっており、小山自身も当初は宮武三郎の家とは知らなかったという)。 芥川比呂志に似ていると言われ、芥川も「テレビあれこれ」という随筆で「われながら、見れば見るほどよく似ている。横顔が似ているとか、口元が似ているなどという生易しいものではなく、どこから見ても似ていて、後ろ向きになるといよいよ似ている。自分で見ても、腹が立つくらい似ているのだから、他人が見ると尚更らしい」と書いている。 真夏でも熱いお茶しか飲まないなど徹底した健康管理に努め、ライバルであった村山実ですら「小山さんのプロとしての姿勢は勉強になった」と賞賛した。また、小山には煙草を吸う習慣がないため、天覧試合で配られた恩賜の煙草も自分では吸わずに父親に手渡した。 一言居士な一面もあり、青田昇によると1962年の阪神優勝の際に、優勝記念として選手に純金のプレートが配られたが、小山はそのプレートに優勝年月日や球団名が彫られていることに対し『削られた分の金はどうなる』とクレームを入れたことがあるという 2012年には兵庫県立高砂高等学校の同級生の計らいにより、小惑星に自らの名前(13553 Masaakikoyama)が命名されたことに驚き、「大きな土地をもろたよ。行かれへんけどな。」「現在、過去と生きてきて、天体とは全く縁がなかった。驚いてる、ビックリしてるというのが正直な感想。一度は見てみたいかな。」と語っている。 各年度の太字はリーグ最高 大阪(大阪タイガース)は、1961年に阪神(阪神タイガース)に球団名を変更 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更 1555打数 244安打 9本 76打点(.157) 最多勝利:1回 (1964年) 最多奪三振:1回 (1962年) ※当時連盟表彰なし、セントラル・リーグでは、1991年より表彰 最高勝率:1回 (1962年) 沢村栄治賞:1回 (1962年)※13完封は受賞者最多 野球殿堂競技者表彰(2001年) シーズン30勝以上:1回 (1964年) シーズン20勝以上:7回 (1958年 - 1960年、1962年、1964年 - 1966年) シーズン最多無四死球試合:10 (1958年、1962年) ※セ・リーグ記録 連続イニング連続無失点:47 (1962年7月7日 - 7月29日) 両リーグ100勝以上 (セ:180勝、パ:140勝) ※日本プロ野球史上唯一 通算防御率:2.454 ※2000投球回以上かつ最優秀防御率未獲得では歴代最高 オールスターゲーム出場:11回 (1957年 - 1960年、1962年 - 1967年、1970年) シーズン最多完封勝利:13 (1962年) ※セ・リーグ記録 連続試合完封勝利:5 (1962年7月7日 - 7月22日) ※セ・リーグ記録 節目の記録 1000奪三振:1959年8月16日、対国鉄スワローズ22回戦(後楽園球場)、岩下守道から ※史上17人目 100勝:1960年4月3日、対広島カープ2回戦(広島市民)、9回3失点完投勝利 ※史上27人目 150勝:1962年7月19日、対広島カープ17回戦(後楽園球場)、9回無失点完封勝利 500試合登板:1964年5月3日、対東映フライヤーズ9回戦(東京スタジアム)、先発登板 2000奪三振:1964年5月21日、対阪急ブレーブス12回戦(東京スタジアム)、石川進から 史上4人目 200勝:1964年8月13日、対南海ホークス27回戦(大阪球場)、9回1失点完投勝利 ※史上10人目 600試合登板:1966年5月17日、対南海ホークス7回戦(東京スタジアム)、先発登板 ※史上6人目 250勝:1967年5月19日、対南海ホークス5回戦(東京スタジアム)、9回1失点完投勝利 ※史上6人目 700試合登板:1968年7月19日、対近鉄バファローズ15回戦(東京スタジアム)、7回一死から中継ぎ登板 ※史上4人目 300勝:1971年7月3日、対東映フライヤーズ9回戦(後楽園球場)、9回1失点完投勝利 ※史上4人目 800試合登板:1971年8月1日、対阪急ブレーブス15回戦(東京スタジアム)、6回一死から中継ぎ登板 ※史上3人目 49 (1953年) 6 (1954年 - 1956年) 14 (1957年) 47 (1958年 - 1973年) 71 (1974年 - 1975年) 81 (1982年 - 1983年、1998年) 87 (1990年 - 1991年) 82 (1993年 - 1994年) サンテレビボックス席 ABCフレッシュアップベースボール - 出演していたABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル スーパーベースボール - 出演していたABCテレビのプロ野球中継現行統一タイトル(1984年のオールスターゲームではテレビ朝日制作分に出演) 日本盛燗一発 ^ 松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1973年 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』44頁 ^ 【7月3日】1971年(昭46) 丈夫で長持ち テスト生投手、パームボールで300勝達成 - スポニチ ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』151頁 ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』154頁 ^ 野球殿堂記者投票への考察=第44回(2001年度)根本陸夫が競技者、長谷川良平が特別表彰。これは逆でしょ ^ 『プロ野球20世紀の男たち 山内一弘&小山正明「“世紀の大トレード”の覚悟」/プロ野球20世紀の男たち』週刊ベースボールONLINE 2019年10月1日 ^ 『炎のエース ザトペック投法の栄光』202頁 ^ (日本語) 【甲子園同窓会】 バッキー×江夏×小山 ~猛虎と呼ばれた男たち~, https://www.youtube.com/watch?v=2OEPE5tGZA0 2023年12月11日閲覧。 ^ 『プロ野球トレード光と陰』33頁 ^ 【12月26日】1963年(昭38) 小山正明と山内一弘“世紀のトレード”異例の同席発表 ^ 1965年暮れに発売された『週刊ベースボール』(1966年1月4日号)特集記事「プロ野球稼ぎ頭50傑」による(金田正一、巨人入団前夜/週べ1965年1月4日号 - 野球:週刊ベースボールONLINE) ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』100頁 ^ “野球殿堂記者投票への考察=第44回(2001年度)根本陸夫が競技者、長谷川良平が特別表彰。これは逆でしょ: 蛭間豊章記者の「Baseball inside」”. weblog.hochi.co.jp. 2022年6月26日閲覧。 ^ 「苦しいところから日のあたるところまで経験できた」元西武・石井丈裕 黄金期に上げた”でっかい花火”と今後の夢 ^ 今の投手も350勝できるはずや、同じ人間やからと米田哲也は言った|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva ^ 日外アソシエーツ「スポーツ人名事典 新訂第3版」、2002年1月1日、ISBN 4816917012、p549。 ^ 『週刊プロ野球データファイル』2011年10月12日、026号、ベースボール・マガジン社、P14 ^ 『プロ野球〈猛虎(タイガース)復活〉読本―「知将」野村克也は"ダメ虎"阪神を再生する!? (別冊宝島 (437)』宝島社、ISBN 4796694374、1999年5月1日、p108 ^ 通算320勝投手の小山正明氏、鳥谷の名球会入り見届けサンテレビの解説“勇退” デイリースポーツonline ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P35 ^ 『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』49頁 ^ 【7月3日】1971年(昭46) 丈夫で長持ち テスト生投手、パームボールで300勝達成 Sponichi Annex ^ 文春Numberビデオ「魔球伝説」 ^ 球界勝利数トップ3「投げすぎで投手の肩は壊れぬ」で意見一致 ^ “「怪奇現象ピッチング」の320勝投手にロッテのエース・木樽正明が驚愕”. 2023年12月4日閲覧。 ^ 朝日新聞東京本社版、1988年3月24日付朝刊18面 ^ クラシックSTATS鑑賞 : 王貞治、投手別本塁打数|本塁打大全 ^ 江本孟紀著、野球バカは死なず、文藝春秋、2018年、P128 ^ 『猛虎大鑑1936-2002』97頁 ^ 週刊ベースボール編集部「【週ベ60周年記念企画92】『連載小説 黒眼鏡の打者…五味康祐』【1960年1月13日新年特別号】」『週刊ベースボール』、ベースボール・マガジン社、2018年1月27日。 ^ 『決められた以外のせりふ』(新潮社 1970年)所収。丸谷才一『文章読本』(中公文庫・141頁)にも同文が引用されている ^ 月刊タイガース小山正明氏特別インタビュー ^ 「制球王小山正明1」特別な土産(後編) ^ 『サムライ達のプロ野球』ぱる出版、1994年2月10日、239頁。 ^ 小山正明氏“虎の星”に!小惑星に命名 デイリースポーツ 2012年3月8日閲覧 ^ https://npb.jp/bis/players/31933807.html 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1986年 『猛虎大鑑1936-2002 スーパー・カタログ・阪神歴代成績上位「打者200人&投手100人」 完全保存版』(BBmook スポーツ・スピリット21)』ベースボール・マガジン社、2002年 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年 近藤唯之『プロ野球トレード光と陰』新潮文庫、1991年 新宮正春『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』講談社文庫、1999年 村山実『炎のエース ザトペック投法の栄光』ベースボール・マガジン社、1993年 兵庫県出身の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 個人年度別成績 小山正明 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 野球殿堂 小山正明 - 公益財団法人野球殿堂博物館 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 杉下茂 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 金田正一 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実, 堀内恒夫 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 星野仙一 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 松岡弘 1979 小林繁 1981 西本聖 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 野茂英雄 1991 佐々岡真司 1992 石井丈裕 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 西口文也 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2001 松坂大輔 2002 上原浩治 2003 井川慶, 斉藤和巳 2004 川上憲伸 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 前田健太 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2020 大野雄大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 江藤正 1952 野口正明 1953 川崎徳次 1954 宅和本司, 田中文雄 1955 宅和本司 1956 三浦方義 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保征弘 1963 稲尾和久 1964 小山正明 1965 尾崎行雄 1966 米田哲也 1967 池永正明 1968 皆川睦男 1969 鈴木啓示 1970 成田文男 1971 木樽正明 1972 山田久志, 金田留広 1973 成田文男 1974 金田留広 1975 東尾修 1976 山田久志 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 今井雄太郎, 村田兆治 1982 工藤幹夫 1983 東尾修, 山内和宏 1984 今井雄太郎 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 山沖之彦 1988 渡辺久信, 西崎幸広, 松浦宏明 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野田浩司, 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 K.グロス 1996 K.グロス 1997 西口文也, 小池秀郎 1998 西口文也, 武田一浩, 黒木知宏 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 涌井秀章 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 和田毅, 金子千尋 2011 D.ホールトン, 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平, 涌井秀章 2016 和田毅 2017 東浜巨, 菊池雄星 2018 多和田真三郎 2019 有原航平 2020 千賀滉大, 石川柊太, 涌井秀章 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平、伊藤大海 表 話 編 歴 1950 杉下茂 1951 金田正一 1952 金田正一 1953 金田正一 1954 杉下茂 1955 金田正一 1956 金田正一 1957 秋山登 1958 金田正一 1959 金田正一 1960 金田正一 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 金田正一 1964 金田正一 1965 村山実 1966 村山実 1967 江夏豊 1968 江夏豊 1969 江夏豊 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 江夏豊 1973 高橋一三 1974 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 池谷公二郎 1978 斉藤明雄 1979 新浦寿夫 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 江川卓 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 遠藤一彦 1987 川口和久 1988 槙原寛己 1989 川口和久 1990 木田優夫 1991 川口和久 1992 仲田幸司 1993 今中慎二 1994 桑田真澄 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤隆 1997 山本昌 1998 石井一久 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 井川慶 2003 上原浩治 2004 井川慶 2005 門倉健, 三浦大輔 2006 川上憲伸, 井川慶 2007 内海哲也 2008 C.ルイス 2009 C.ルイス 2010 前田健太 2011 前田健太 2012 杉内俊哉, 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 R.メッセンジャー 2015 藤浪晋太郎 2016 菅野智之 2017 M.マイコラス 2018 菅野智之 2019 山口俊 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 戸郷翔征 2023 今永昇太 2024 戸郷翔征 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 藤村隆男 1953 大友工, 石川克彦 1954 杉下茂 1955 大友工 1956 堀内庄 1957 木戸美摸 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 伊藤芳明 1962 小山正明 1963 山中巽 1964 石川緑 1965 山中巽 1966 堀内恒夫 1967 堀内恒夫 1968 島田源太郎 1969 高橋一三 1970 村山実 1971 坂井勝二 1972 堀内恒夫 1973 倉田誠 1974 松本幸行 1975 星野仙一 1976 加藤初 1977 新浦寿夫 1978 鈴木康二朗 1979 藤沢公也 1980 福士敬章 1981 江川卓 1982 都裕次郎 1983 津田恒美 1984 江川卓 1985 北別府学 1986 北別府学 1987 川端順 1988 小野和幸 1989 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 北別府学 1992 斎藤雅樹 1993 山本昌広 1994 紀藤真琴 1995 石井一久 1996 斎藤雅樹 1997 三浦大輔 1998 桑田真澄 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 入来祐作 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 安藤優也 2006 川上憲伸 2007 高橋尚成 2008 館山昌平 2009 D.ゴンザレス 2010 久保康友 2011 吉見一起 2012 杉内俊哉 2013 小川泰弘 2014 山井大介 2015 M.マイコラス 2016 野村祐輔 2017 薮田和樹 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 藤本英雄 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 大友工 1957 義原武敏 1958 藤田元司 1959 義原武敏 1960 鈴木隆 1961 中村稔 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 村山実 1965 金田正一 1966 城之内邦雄 1967 金田正一 1968 金田正一 1969 堀内恒夫 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 松本幸行 1975 外木場義郎 1976 堀内恒夫 1977 小林繁 1978 安田猛 1979 北別府学 1980 山根和夫 1981 江川卓 1982 小松辰雄 1983 江川卓 1984 山根和夫 1985 池田親興 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 小野和幸 1989 斎藤雅樹 1990 槙原寛己 1991 佐々岡真司 1992 岡林洋一 1993 荒木大輔 1994 桑田真澄 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 石井一久 1998 野村弘樹 1999 野口茂樹 2000 工藤公康 2001 石井一久 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 井川慶 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 上原浩治 2009 D.ゴンザレス 2010 吉見一起 2011 チェン 2012 内海哲也 2013 内海哲也 2014 R.メッセンジャー 2015 石川雅規 2016 K.ジョンソン 2017 井納翔一 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 奥川恭伸 2022 小川泰弘 2023 村上頌樹 2024 A.ジャクソン 表 話 編 歴 1936春夏 藤村富美男 1936秋 若林忠志 1937春 景浦將 1937秋 若林忠志 1938春 御園生崇男 1938秋 青木正一 1939 若林忠志 1940 木下勇 1941 若林忠志 1942 若林忠志 1943 三輪八郎 1944 若林忠志 1946 渡辺誠太郎 1947 若林忠志 1948 御園生崇男 1949 若林忠志 1950 内山清 1951 内山清 1952 三船正俊 1953 藤村隆男 1954 小山正明 1955 西村一孔 1956 小山正明 1957 西尾慈高 1958 渡辺省三 1959 小山正明 1960 村山実 1961 小山正明 1962 小山正明 1963 小山正明 1964 村山実 1965 G.バッキー 1966 村山実 1967 村山実 1968 村山実 1969 江夏豊 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 古沢憲司 1973 江夏豊 1974 江夏豊 1975 江夏豊 1976 古沢憲司 1977 江本孟紀 1978 江本孟紀 1979 江本孟紀 1980 小林繁 1981 小林繁 1982 小林繁 1983 小林繁 1984 野村収 1985 池田親興 1986 池田親興 1987 M.キーオ 1988 仲田幸司 1989 仲田幸司 1990 中西清起 1991 野田浩司 1992 葛西稔 1993 仲田幸司 1994 湯舟敏郎 1995 湯舟敏郎 1996 藪恵壹 1997 川尻哲郎 1998 藪恵壹 1999 藪恵壹 2000 星野伸之 2001 星野伸之 2002 井川慶 2003 井川慶 2004 井川慶 2005 井川慶 2006 井川慶 2007 下柳剛 2008 安藤優也 2009 安藤優也 2010 安藤優也 2011 能見篤史 2012 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 能見篤史 2015 R.メッセンジャー 2016 R.メッセンジャー 2017 R.メッセンジャー 2018 R.メッセンジャー 2019 R.メッセンジャー 2020 西勇輝 2021 藤浪晋太郎 2022 藤浪晋太郎 2023 青柳晃洋 2024 青柳晃洋 表 話 編 歴 1950 榎原好 1951 星野武男 1952 野村武史 1953 野村武史 1954 清水宏員 1955 荒巻淳 1956 荒巻淳 1957 植村義信 1958 荒巻淳 1959 荒巻淳 1960 小野正一 1961 小野正一 1962 坂井勝二 1963 小野正一 1964 堀本律雄 1965 小山正明 1966 妻島芳郎 1967 小山正明 1968 坂井勝二 1969 坂井勝二 1970 木樽正明 1971 木樽正明 1972 成田文男 1973 木樽正明 1974 成田文男 1975 村田兆治 1976 村田兆治 1977 村田兆治 1978 村田兆治 1979 村田兆治 1980 村田兆治 1981 村田兆治 1982 村田兆治 1983 水谷則博 1984 水谷則博 1985 深沢恵雄 1986 村田兆治 1987 村田兆治 1988 村田兆治 1989 村田兆治 1990 村田兆治 1991 小宮山悟 1992 小宮山悟 1993 小宮山悟 1994 小宮山悟 1995 伊良部秀輝 1996 園川一美 1997 小宮山悟 1998 小宮山悟 1999 黒木知宏 2000 黒木知宏 2001 黒木知宏 2002 N.ミンチー 2003 N.ミンチー 2004 清水直行 2005 清水直行 2006 久保康友 2007 清水直行 2008 小林宏之 2009 清水直行 2010 成瀬善久 2011 成瀬善久 2012 成瀬善久 2013 成瀬善久 2014 成瀬善久 2015 涌井秀章 2016 涌井秀章 2017 涌井秀章 2018 涌井秀章 2019 石川歩 2020 石川歩 2021 二木康太 2022 石川歩 2023 小島和哉 2024 小島和哉 日本の野球選手 兵庫県立高砂高等学校出身の人物 阪神タイガース及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) 最多奪三振 (NPB) 最高勝率 (野球) 沢村栄治賞 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 埼玉西武ライオンズ関連人物 福岡ソフトバンクホークス関連人物 名球会 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 兵庫県出身のスポーツ選手 1934年生 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2017年10月 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2024/11/17 01:13更新
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koyama masaaki
小山正明と同じ誕生日7月28日生まれ、同じ兵庫出身の人
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