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米田哲也の情報 (よねだてつや)
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【6月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

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米田 哲也さんについて調べます

■名前・氏名
米田 哲也
(読み:よねだ てつや)
■職業
野球選手
■米田哲也の誕生日・生年月日
1938年3月3日 (年齢86歳)
寅年(とら年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
鳥取出身

(昭和13年)1938年生まれの人の年齢早見表

米田哲也と同じ1938年生まれの有名人・芸能人

米田哲也と同じ3月3日生まれの有名人・芸能人

米田哲也と同じ出身地鳥取県生まれの有名人・芸能人


米田哲也と関係のある人

種部儀康: 上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高の義原武敏や境高の米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。


別所毅彦: 本塁打の通算35本のうち投手として出場したときに31本を記録しており、投手として出場した試合の本塁打数としては、金田正一、米田哲也に次ぎ歴代3位の記録となっている。


梶本隆夫: 後に入団する米田哲也とヨネカジコンビを形成し、Bクラスが多かった昭和30年代の阪急を支えたが、二人とも年間50試合前後の登板数であり、このタフさがチームの支柱となっていた。


王貞治: また、同年オフに、阪急ブレーブスの米田哲也とのトレード話が持ち上がっていたが、不成立で終わった。


新山彰忠: 阪神コーチ時代の1986年は開幕直後はブルペンを担当したが、米田哲也コーチの後を受けてベンチを任された。


藤本定義: 戦後の1957年から1959年にかけて阪急ブレーブス監督時代に日本で初めて「先発ローテーション」を本格的に導入し、当時エースだった米田哲也・梶本隆夫を一定間隔で先発起用した。


加藤英司: 初出場・初打席:1969年7月10日、対ロッテオリオンズ8回戦(東京スタジアム)、8回表に米田哲也の代打で出場、成田文男から三振


石井茂雄: その後は梶本隆夫・米田哲也・足立光宏らと共に1960年代の阪急の主力投手として活躍し、1964年には自己最高の28勝をマークするも、小山正明(大毎)が30勝を挙げたため最多勝には届かなかった。


安藤治久: 米田哲也・梶本隆夫の2投手で支えていた低迷期の阪急ブレーブス(通称:ヨネカジコンビ時代)で、2人に次ぐ年間登板数を重ねていた。


三浦大輔: この年には開幕から4連敗を喫したが、7月13日のヤクルト戦で一軍公式戦22年連続勝利(米田哲也に並ぶNPB歴代3位)を達成したことを皮切りに5連勝。


水谷孝: 当時の阪急には梶本隆夫、米田哲也、足立光宏、石井茂雄といった好投手が揃っていたが、1968年には先発陣の一角に食い込み15勝7敗、防御率2.83(リーグ7位)と米田の29勝に次ぐ好成績をあげる。


鈴木啓示: 1000奪三振:1970年4月29日、対阪急ブレーブス3回戦(日生球場)、4回表に米田哲也から ※史上36人目


川端崇義: 新人選手による一軍公式戦での初本塁打が満塁本塁打であった事例はパ・リーグ史上9人目となり、オリックスの新人選手に限ると、阪急ブレーブス時代の1956年4月11日に投手の米田哲也が記録して以来56年ぶり。


皆川睦男: 在任中は山本和行をリリーフエースに、池内豊を中継ぎエースにそれぞれ配置転換して投手陣を整備したが、米田哲也とは相性が悪かった。


金田義倫: 入団後はエースの梶本隆夫や米田哲也の球速に驚き、目立つよう練習で多投していたところ、同期の野呂瀬義昭とともに打撃投手を任されるようになる。


金子千尋: 3試合連続完封を達成したのは球団では米田哲也以来45年ぶりとなった。


稲尾和久: それに加え、三原脩監督が稲尾を重点的に起用する方針を採ったため、米田哲也や梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても稲尾の登板試合数は極端に多い。


岩瀬仁紀: 8月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)では米田哲也・金田正一に次いで史上3人目となる通算900試合登板を達成したが、この試合は1つもアウトを取れず、髙城俊人と桑原将志にそれぞれ適時安打を打たれ降板し、敗戦投手となっている。


山田久志: 山田が入団した頃の阪急は、ヨネカジコンビと呼ばれた米田哲也、梶本隆夫の他、石井茂雄、足立光宏など一流投手の揃った投手王国で、山田は「俺なんかどうやって入っていったら…」と不安だったという。


加藤秀司: 初出場・初打席:1969年7月10日、対ロッテオリオンズ8回戦(東京スタジアム)、8回表に米田哲也の代打で出場、成田文男から三振


ジョージ=アルトマン: 日本でも山田久志、東尾修、皆川睦男、米田哲也、鈴木啓示、梶本隆夫、稲尾和久の7人の殿堂入り投手から本塁打を放っている。


皆川睦雄: 在任中は山本和行をリリーフエースに、池内豊を中継ぎエースにそれぞれ配置転換して投手陣を整備したが、米田哲也とは相性が悪かった。


工藤公康: 5月23日、対西武戦に先発登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。


吉田義男: コーチの編成はヘッドコーチに土井淳、投手コーチに米田哲也、打撃コーチは並木輝男、守備コーチは一枝修平、これにすでに在籍している高橋重行、竹之内雅史を加えた。


山下健: 後に入団した梶本隆夫、米田哲也らとバッテリーを組み低迷期の阪急を支えた。


国頭光仁: ちなみに背番号18は、翌年から同郷の米田哲也が背負った。


張本勲: デビュー戦は阪急戦で、米田哲也の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。


岡本一光: 初盗塁:1977年10月7日、対近鉄バファローズ13回戦(阪急西宮球場)、5回裏に二盗(投手:米田哲也、捕手:有田修三)


足立光宏: 同年は米田哲也(20勝)・梶本隆夫(14勝)に次ぐ8勝に防御率1.96を挙げて頭角を現す。


種茂雅之: 初本塁打:1963年5月12日、対阪急ブレーブス10回戦(東京スタジアム)、4回裏に米田哲也から左越ソロ


米田哲也の情報まとめ

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米田 哲也(よねだ てつや)さんの誕生日は1938年3月3日です。鳥取出身の野球選手のようです。

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エピソード、家族・親族などについてまとめました。卒業、引退、テレビ、映画、家族に関する情報もありますね。米田哲也の現在の年齢は86歳のようです。

米田哲也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥取県西伯郡大篠津村(現・米子市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。血液型はAB型。

プロ野球歴代2位(達成当時は歴代1位)の949試合に登板し、歴代2位の通算350勝を記録した。通算先発626登板、通算1940失点、通算1659自責点、通算120与敬遠、通算4561被安打の日本記録保持者。

その驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」「タフマン」などと呼ばれる。

祖父・長次郎は海産物仲買業を営み、『伯耆国実業人名録』(明治37年 (1904年))に載せられていた大篠津の代表的な商人であった。父・雅明は薪炭雑貨商。米田は美保中学校では陸上の走高跳の選手であったが、卒業後は1953年に境高校へ進学した。

元々は捕手であったが、高校入学後に真木一夫部長の「お前の顔では投手が恐がる、逆に投手になって相手を怖がらせるんだ」という言葉がきっかけで投手に転向。1年次の同年秋から本格派投手として注目を集め、高校時代からカーブ・シュート・スライダーも習得する。社会人野球の米子鉄道管理局ともよく練習試合をしたが、「そんなに打たれた記憶はない」という。米子と言う土地柄、プロ野球はラジオで聞く程度であったが、湊山球場で行われた大阪×国鉄戦を見たことがあり、その時の印象として「阪神の渡辺省三さんはコントロールはいいけど球は遅いし、国鉄のカネさん(金田正一)は球は速いけどコントロールは悪かった。これならプロでも行けるんじゃないかと思った」と語っている。同年次に米子東高の左腕エース義原武敏がおり、1年秋から幾度となく激闘を演じた。

1953年の秋季中国大会県予選決勝では1-2で惜敗し、2年次の1954年には夏の甲子園県予選決勝で延長10回の投げ合いの末に敗退するが、両校とも東中国大会に進む。境高は1回戦で倉敷工に敗退し、義原の米子東高は優勝して甲子園出場と明暗を分けた。同年の秋季中国大会にも進むが、準決勝で防府高に惜敗。3年次の1955年夏も県予選準決勝で米子南高に敗れ甲子園出場はならなかったが、義原の投球が評判の頃、義原を見に行ったスカウトが対戦相手の米田の投球を見て驚き、中央でも知られた存在になる。県内では他に倉吉農の種部儀康が同期。

最初は大学進学を考え、慶應義塾大学の日吉グラウンドでも練習していた。しかし卒業後の1956年、チームメイトであった外野手の浜田耕二と共に阪急ブレーブスへ入団。真っ先に誘ってくれた丸尾千年次スカウトに恩義を感じて決めたが、その後に地元後援者の説得により、大阪タイガース(後の阪神タイガース)とも急接近した。大阪のユニフォームを着て練習にも参加している(背番号は41)。阪急との二重契約が発覚したが、元最高裁判所判事の井上登コミッショナーの裁定により阪急への入団となった。これにより、同郷の国頭光仁から背番号18を引き継いだ。裁定は「両契約とも不備なく成立していることから、先に契約した阪急が優先」という中立な裁定の形式をとっていたが、実際には、米田本人に希望を事前に聞き、米田が阪急を選択した。米田は金銭面の条件は大阪のほうがよかったが、「背番号18をもらえる」という魅力で阪急に決めたと後に述懐している。

投球だけでなく打撃にも自信があり、打撃練習ではチームの長距離打砲であった中田昌宏よりも打球を飛ばしていた。最初は打者転向を勧められたが、「打者としてダメだったらそこまでだが、投手としてダメでもそこから打者としてやっていくことはできる」と投手としてやっていくことを決意。投手として通算33本塁打は金田正一に次ぐ歴代2位。また投手として唯一、満塁本塁打とサヨナラ本塁打の両方を記録している。プロ入り4打席目に満塁本塁打を放っており、これは1983年に駒田徳広(巨人)が初打席満塁本塁打を放つまで最短記録であった。

1年目の同年から9勝、2年目の1957年には21勝を挙げ、規定投球回にも達してリーグ3位の防御率1.86を記録。その後は右のエースとして活躍し、左腕エースの梶本隆夫と共にヨネカジコンビを成した。

1961年オフには王貞治(巨人)とのトレード話が持ち上がったことがあり、この時は阪急サイドが拒否してトレードは不成立に終わった。同様に10年目の1965年オフにも巨人へのトレードが内定していたが、寸前で不成立になっている。

1962年にはリーグ最多の231奪三振(当時連盟表彰なし)、1966年に25勝で最多勝(受賞はこの1回のみ)を記録。同年には通算200勝を達成。20勝以上を8回、歴代最長の19年連続2桁勝利を記録し、その登板数の多さと黙々と投げ込む姿から「ガソリンタンク」「人間機関車」などと形容された。なお、「ガソリンタンク」の本当の由来はそのスタミナではなく、うわばみのようにいくらでも酒を飲むことから、酒をガソリンに例えて呼ばれたものである。

1967年には18勝を挙げて球団史上初のリーグ優勝に貢献。同年の巨人との日本シリーズは4試合に登板し、第1戦の先発を任され金田正一と投げ合うが、6回4失点で敗戦投手となる。第5戦、第6戦でも先発するが早々に打込まれ降板した。1968年には自己最高の29勝を挙げてMVPに輝き、同年の巨人との日本シリーズでは、第1戦で8回からリリーフに立ち、因縁の金田に投げ勝って日本シリーズ初勝利を飾る。第3戦では先発し堀内恒夫と投げ合うが、5回5失点で敗戦投手。最終第6戦にも先発し堀内と再度の対決、6回を3失点に抑えるが後続が打たれ日本一はならなかった。1969年のリーグ3連覇にも貢献するが、シーズン終盤には故障もあって精彩を欠き、巨人との3回目の日本シリーズでも、最終第6戦でのリリーフ登板のみに終わる。

1971年には史上5人目の通算300勝を達成し、巨人との日本シリーズでは、第2戦で山田をリリーフして白星を挙げる。最終第5戦に先発するが3回に2失点、敗戦投手となった。1972年は10勝7敗に終わる。巨人との日本シリーズでは最終第5戦に先発するが2回で降板、勝敗はつかなかった。

1973年は15勝3敗、防御率2.47を記録し、初の最優秀防御率に輝く。山口高志が入団した1975年に登板機会が激減し、志願してシーズン途中に阪神タイガースに移籍。この時にはかつてのライバルであった小山正明が一軍投手コーチを務めており、登板間隔に気を使った起用で調整がやりやすかったとのことである。小山に代わって投手コーチとなった皆川睦男とは相性が悪く、阪神を1976年限りで自由契約になると、1977年には阪急時代の監督であった西本幸雄率いる近鉄バファローズにコーチ兼任として移籍。史上2人目の通算350勝を達成し、同年限りで現役を引退。通算1000登板を狙いたいとも考えていたというが、股関節が硬くなり重心が高くなったことと痛風を発症したことから、諦めたという。

通算949試合登板は歴代2位。現役最終年の1977年に記録を更新後、40年間にわたり最多登板記録を保持していたが、2017年に岩瀬仁紀に抜かれた。通算350勝は金田正一の400勝に次ぐ歴代2位で、右腕では歴代1位、350勝のうち、阪神では在籍2年弱で10勝に終わっているが阪急、近鉄時代に稼いだ340勝はパ・リーグ1位。通算敗戦数でも左腕では金田が、右腕では米田がそれぞれ歴代1位だが、他にも奪三振、投球回数、被安打、与四死球はこの二人が左右の投手のそれぞれ歴代1位(与四死球に関しては米田のほうが多い)である。米田は、「たくさん勝っている投手って、僕もそうだけど、カネさん、小山正明さん、鈴木啓示と弱いチームに長くいた選手が多い。強いチームに勝ちたいという反骨心が必要なんでしょうね」と語っている。現役22年で肘や肩の故障はほとんどなかったことを誇りにしている。

フォークボールも武器にしており、「ヨネボール」として有名である。プロ10年目ごろから投げ始め、習得するのに5年かかったという。覚えたての頃はブルペンで投げていると、指から抜けて観客の頭に当たってしまった程だった。村田兆治はフォークを練習し始めた頃、ベンチに座って試合中も指先を鍛練している米田をじっと観察し、ついにその球の握りを盗み取ったという。

引退後は西宮市でスナック「セナ350」を経営する傍ら、毎日放送(1978年 - 1981年)→関西テレビ放送・フジテレビジョン(1982年 - 1984年)解説者・日刊スポーツ評論家(1979年 - 1984年)を務めた。

1985年には新監督に就任した吉田義男の前に監督要請を固辞した西本幸雄からの推薦で、阪神一軍投手コーチに就任。開幕前の安芸キャンプでは吉田が「休日前の外泊は原則認めない(門限は午前0時)」「宿舎での飲酒は食事中のみで、部屋での飲酒は厳禁」「休日のゴルフは禁止」と3つのキャンプ規則を発表した際、米田は一人だけ反対を唱えた。土井淳ヘッド兼バッテリーコーチは報道陣に「休日は体を休ませ、明日への力を補充させるために費やすべきである」と伝えたが、それは表向きの理由で、実際はこの規則を決めるコーチ会議で「コーチは個人的に選手を食事に誘わない方がよい」という意見が出された。「他の選手が妬むから」というのが理由であったが、米田はこの会議の席で「外泊してもええやないですか。それに僕は選手を連れて食事に行きますよ。お酒を飲んでも、それで翌日の練習に〝よし、やるぞ〟って気が起こればいい。厳しくするのはそれができなかったときで十分。そのときこそ、厳しくプロの心構えをたたき込んでやればええんとちゃいますか」と意見した。結局、米田の意見は通らなかったが、選手の間から少しも怒りや憤りの声が聞こえてこなかった。首脳陣の中で一人でも異論を唱えたコーチがいたことで、選手達の不満は爆発せずに収まった。在任中は中田良弘に「お前を必ず復活させる」と言って復活させ、中西清起の思い切りの良さと制球力を評価してストッパーに推薦し、21年ぶりのリーグ優勝と球団史上初の日本一に貢献。1986年は開幕直後に新山隆史コーチと交代でブルペン担当となり、米田の気持ちが吉田から離れ、シーズン後には退団。

阪神退団後は関西テレビ・フジテレビ・ラジオ大阪解説者・日刊スポーツ評論家(1987年 - 1992年途中)を務め、1992年途中から1993年までは古巣・阪急の後身であるオリックス一軍投手コーチを務めた。土井正三監督が抑えで使うつもりであったが、自分でも力投型で、抑えのタイプではないと思っていた野田浩司に「お前、無理。絶対、お前は先発だ。俺が先発に行かしたる」と言って先発5番手に入れた。

オリックス退団後は日刊スポーツ評論家(1994年)に1年だけ復帰し、1995年には同じ300勝投手鈴木啓示監督の要請で近鉄一軍投手コーチを1年だけ務めた。近鉄退団後は日刊スポーツ評論家(1996年 - 1997年)を務めたほか、山根俊英らと共に鳥取県内で少年野球教室を開いたこともある。

エピソード

体調管理やスタミナ確保にも関心を寄せ、登板した夜は水分補給のみで何も食べずに就寝し、翌日の軽食から次第に食事を増やして、登板前日には当時1枚3000円もするステーキなどボリューム満点のものを口にし、焼いたニンニクをガリガリとかじった。時間をかけてゆっくり食べる「米田ディナー」は、金田のキャンプ時代の鍋と共に有名。この米田ディナーのカギを握っていたのが、元松竹の映画女優であった夫人で、急なリリーフの場合を除き、先発予定日に合わせて食材を用意。ローテーションが変わったり、登板日が読めなくなると、監督の西本に直接電話して夫がマウンドに登る日を聞きだすとまで言われていた。

小学生低学年から弓ヶ浜を往復10キロを走り込んだ事によって強靭な足腰を身につけたと語っている。「コントロールは腕でなく腰でつけるもの」が持論で、「ウェートトレーニングか何か知らないけど、松坂大輔みたいにプロレスラーみたいな体になったら腰も回らなくなるでしょ」と最近のトレーニング方針に苦言を呈している。この経験からコーチ時代にランニング中心の練習メニューを導入したが、選手の評判はあまりよくなかったという。

現役時代に一番苦手にしていた打者を聞かれて米田は「榎本喜八(大毎オリオンズ)さんでしたよ。こちらが追い込んでから内外野の間にコツンと当てて落とす(ヒットをよく打たれた)」と語っている。

ライバルとして、梶本と小山を挙げている。もっとも、梶本については「仲も良かったし、よく飲みにも連れて行ってもらったし、ライバルと言う感じはあまりしなかった」とも語っているが、小山については「小山さんがガクっと衰えていくのを見て、自分まで闘争心がなくなってしまった。小山さんがもう少し頑張ってくれていたら自分も400勝くらい行ったかも知れない」と語っている。なお、やはり同世代の大投手で対戦も多かった稲尾和久について、稲尾は阪急戦通算60勝17敗(勝率.779)という驚異的な勝率を残しており、「彼が相手だととにかく勝てないのでライバルというより悪魔のような存在だったよ」と語っている。ダブルヘッダーで2勝されて「ごちそうさん」と帰って行ったこともあるという。

阪神在籍中に、未だ10代だった掛布雅之に後に妻となる女性を紹介している。

その掛布と同じ新潟県生まれのプロ野球選手だった松田和久は高校の後輩である。

家族・親族

米田家

父・米田雅明(薪炭雑貨商)

父・雅明の養父・米田長次郎(海産物仲買業)は『伯耆国実業人名録』(明治37年(1904年))に載せられていた大篠津の代表的商人だった。

略系図

 
 
 
 
米田長次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
米田雅明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
米田哲也
 
 
 
 
 
 
 
 

2024/06/20 18:05更新

yoneda tetsuya



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