吉田義男の情報(よしだよしお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
吉田 義男さんについて調べます
■名前・氏名 |
吉田義男と関係のある人
川淵三郎: プロ野球では大の阪神ファンであり、吉田義男と親しくなってからは、吉田から1990年代前半当時のフランスサッカー連盟の重鎮を紹介されたことで、フランスとのパイプ作りに成功した。 鎌田実: 名手の吉田義男がいるから出番がないと。 広岡達朗: 日本シリーズで阪神に負けた日、広岡は好敵手・吉田義男に「しばらく野球から離れるよ」と言った。 辻佳紀: 1969年に田淵幸一の入団で控えに回されると、村山実が選手兼任監督に就任した1970年には「吉田義男派」であった本人の希望で近鉄バファローズへ移籍。 矢野輝弘: 1998年には、一軍監督の吉田義男からリード面を高く評価されたことを背景に、正捕手として一軍公式戦110試合に出場。 湯舟敏郎: 1997年シーズンから吉田義男が監督に就任し、不調から復活し、4年ぶりの10勝を挙げチームの最下位脱出に貢献した(この年二位に躍進した横浜に対して6勝負け無しと抜群の相性があった)。 小山正明: 精密機械と称された制球力のみならず、直球の威力も本人は「ゆったりしたフォームからビュッとホップする球が来るから打者も面食らったんじゃないか」と語り、バックで守っていた吉田義男は「小山の調子がいい時は内野手はヒマだった」(飛球が多いため)、「針の穴を通す」という巧妙な制球力と証言している。 アロンゾ=パウエル: 吉田義男監督からは後半戦からの奮起を促され、8月7日からの対ヤクルト3連戦で一塁手として先発出場したが、その3連戦でも9打数無安打に終わった。 ランディ=バース: 翌1984年オフにも解雇の話は持ち上がったが、監督再任となった吉田義男が「守備力の低さを差し引いてもお釣りがくる打力である」という理由で解雇に反対し、残留した。 一枝修平: 阪神コーチ時代は一貫して、吉田義男監督の参謀格として手腕を発揮。 杉浦忠: 吉田義男監督不在時には3試合のみ代理監督を務めた。 白坂依志夫: ペンネームは、デビュー当時の阪神タイガースの二遊間コンビ、白坂長栄と吉田義男に由来するが、特にタイガース・ファンという訳ではなかった。 市田忠義: しんぶん赤旗日曜版紙上において吉田義男と対談を行った。 原辰徳: 同一チームにおける3度目の監督就任は球団史上初であり、他球団でも代理や代行を除けば天知俊一(中日)と吉田義男(阪神)の2人しか前例がない。 江夏豊: 1975年からは吉田義男が監督に就任し、江夏は4月5日の対中日ドラゴンズ戦(開幕戦)に先発で起用され、4年ぶりに中日から勝ち星を挙げる。 三宅秀史: 三宅と共に阪神のレギュラーとして活躍した吉田義男(遊撃手)と鎌田実(二塁手)も守備の名手として知られており、鎌田、三宅、吉田の三人による二三遊間はまさに鉄壁で、「日本球界最高の守備陣」といわれ「試合前のシートノックだけで金が取れる」と評された(ただし、一塁手の遠井吾郎だけはお世辞にも守備がうまいとはいえなかった)。 皆川睦雄: 葬儀では南海時代の先輩岡本伊三美が弔辞を読み、野村克也、吉田義男、金田正一、王貞治、母校の高校のOBらが参列した。 定詰雅彦: 1999年、監督が吉田義男から野村克也に交代すると、起用構想から外れた。 藤村富美男: 吉田義男は著書『阪神タイガース』の中で「あの方(藤村)のプレーは、面白かったんです。 川藤幸三: 1973年に阪神がマジック1から優勝を逸した時の現役で、1985年の優勝時にも現役として吉田義男監督を胴上げした唯一の選手であった。 藤村富美男: 2010年3月14日に「阪神タイガース歴史館」をリニューアルしてオープンした「甲子園歴史館」では、永久欠番である藤村、村山実、吉田義男の3人に対しては、特に手厚く残した功績を伝える内容にしたと、リニューアル発表時に報道された。 かみじょうたけし: 吉田義男 加藤博一: 同年は高橋慶彦(広島)と盗塁王争いを演じ、阪神から1956年(吉田義男)以来の盗塁王誕生かと思われたが高橋の38盗塁に及ばず、34盗塁でタイトルを逃した(阪神の盗塁王は、その後世紀を超えて赤星憲広が出現するまで誕生しなかった。 横地由松: しかし当時の阪神の二遊間は鎌田実、吉田義男という鉄壁の布陣だったため、レギュラーには届かなかった。 久慈照嘉: 1997年、6年連続規定打席到達し自己最多の3本塁打を記録したものの、同年に監督就任した吉田義男からは久慈の肩の弱さから併殺を取れないことを指摘され、同年に入団し、主に二塁・三塁を守っていた今岡誠を翌年からは遊撃手として育てる方針が固まっていた。 平塚克洋: 1997年には吉田義男が監督に就任し、左翼手兼一塁手で起用され、主軸打者として活躍。 三宅秀史: 俊足強肩で守備の名手として知られ、吉田義男と鉄壁の三遊間を構成。 野村克也: 前任の吉田義男が「今のメンバーで核になるような選手はいまへんわ。 田中義雄: 1958年から1959年まで阪神の監督を務め、小山正明・村山実の投手2本柱や、鎌田実・吉田義男・三宅秀史の鉄壁の内野陣などを育成して、1960年代の2度の優勝の基礎を作った。 掛布雅之: 1975年には、藤田の前の正遊撃手だった吉田義男が、一軍監督としてチームに復帰。 |
吉田義男の情報まとめ
吉田 義男(よしだ よしお)さんの誕生日は1933年7月26日です。京都出身の野球選手のようです。
引退、卒業、テレビ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。
吉田義男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 吉田 義男(よしだ よしお、1933年7月26日 - )は、京都府京都市中京区出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・コーチ・監督、野球解説者、野球評論家、タレント、甲子園歴史館の運営会議顧問である。 現役時代は「牛若丸」と称され、華麗かつ堅実な守備で知られた守備の達人であった。引退後は3度にわたって阪神タイガースの監督を務めた。阪神を初めて日本一に導き、また阪神の監督を3度経験した唯一の人物である。 ニックネームは「よっさん」。1989年から1996年まで野球フランス代表監督を務め、「ムッシュ」とも呼ばれる。甥の谷真一も近鉄バファローズの元プロ野球選手。 旧制京都市立第二商業学校(京都二商)在学中、名古屋金鯱軍監督だった岡田源三郎や、阪急ブレーブスの浜崎真二監督にその才能を認められるなど、プロから注目されていた。戦後の学制改革による京都二商の廃校に伴い新制府立山城高校に編入学。浜村淳・山城新伍・釜本邦茂・元毎日放送アナウンサーの野村啓司は高校の後輩である。 1950年、高校2年の夏の甲子園に遊撃手として出場するも、1回戦で北海高等学校に敗退。1年上のチームメイトに捕手の川本浩司(大映スターズ)がいた。翌1951年、高校3年の夏の甲子園府予選は、決勝で清水宏員、上市明(大映スターズ)のバッテリーを擁する平安高等学校に完封負け、京津大会には進めなかった。 卒業後は立命館大学に進学し、1年生からレギュラーとして活躍。しかし1953年に中退し、阪神タイガースに入団。大学時代の野球部同期に西尾慈高投手がいるが、のちに中退し阪神入団。他の同級生には俳優の長門裕之がいるが長門も中退している。 阪神入団の経緯は、阪神スカウト・青木一三からの勧誘で、殺し文句は「藤村富美男さんが『君なら絶対プロでやっていける』と言っている」というものだった。しかしこの話は青木の創作で、藤村はおろか阪神の他の選手の誰も吉田のことは知らなかった。なお、真偽は不明だが報告を聞いて立命館時代の吉田に興味を示した阪急の浜崎真二監督が、吉田の体格を聞いた途端「そんな小柄な選手が採れるか」と一蹴したという逸話があり、浜崎の身長が小柄な吉田より、さらに約10cmも低かったことからユーモラスな挿話として有名になった。 阪神では俊足巧打・好守の遊撃手として、1年目の1953年から16年間不動のレギュラーとして活躍する。同年は規定打席(リーグ18位、打率.267)に到達し、新人遊撃手として100安打を達成。1954年には初の盗塁王を獲得、1955年には初のベストナインに選出され、1957年にはリーグ3位の打率.297を残す。 1962年のリーグ優勝に貢献し、東映フライヤーズとの日本シリーズでは全7試合に一番打者として先発出場。第1戦で延長10回にサヨナラ二塁打、第7戦では4安打を放つなど活躍。34打数16安打5打点の好記録を残し、敢闘選手に選出された。 1964年にはリーグ3位の打率.318を記録、生涯唯一の3割越えを果たす。また179打席連続無三振を達成(1975年に小川亨に更新されるまでプロ野球記録)するなど、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。同年の南海ホークスとの日本シリーズでも全7試合に一番打者として先発するが、27打数6安打1打点とあまり活躍の場はなかった。 1967年には開幕から藤田平に定位置を譲り二塁手に回る。1969年はコーチを兼任し、後継である藤田の台頭を見届け、同年をもって現役を引退し、コーチも退任。吉田は「その気になれば、まだ選手としてやれたかもしれない。事実、人を介して非公式に他チームから打診もされた。だが、私はやはり、阪神以外のユニホームを着る気にはなれなかった」と著書に記している。球団にも残らなかった。これについて吉田は、秋季キャンプで球団社長の戸沢一隆から村山実の監督就任を告げられた際に「村山に協力してほしい」と要請されたが、後日球団事務所で戸沢から引退を勧告されたと記している。この際、チーム内に村山と吉田の「派閥」があったことを彼ら自身は否定しているが、江夏豊の証言や政岡基則の著書では選手の側にはそれがあったとされている。 現役時代の背番号「23」は吉田の引退後につけた選手は一人もなく、1987年に阪神の永久欠番となった(後述)。 なお、1965年に記録した12打点は、2リーグ制以降で規定打席に到達した選手では最少記録となっている。 引退後はフジテレビ・関西テレビ解説者(1970年 - 1974年)を務め、当時フジテレビアナウンサーであった岩佐徹とはその後も親交が深く、何度も野球中継で解説者・実況の間柄で共演を果たしている。この時期、今上天皇(当時:10 - 11歳、浩宮)がプロ野球を観戦した際(1970年の日本シリーズ第3戦、1971年の日本シリーズ第4戦及び同年のロッテ-阪急戦)、解説役として同席した。天皇が即位した2019年5月のインタビューによると、最初の日本シリーズ時に浩宮は吉田がファウルを捕球することを期待しており(グローブ持参を申し渡されていた)、「ショートを守っている時よりも緊張しました」と当時を回想している。 解説者時代の1970年 - 1974年に西宮市の門戸厄神でステーキ店「モンド」を経営した(経営難のため閉店)。1970年、阪急ブレーブスの監督だった西本幸雄が直接来店して内野コーチに誘ったが固辞し、その後西本が近鉄バファローズの監督だった時期にもコーチの話があった。中日ドラゴンズからもコーチのオファーが来たが、「『今度ユニホームを着るときも、阪神で』という気持ちがどこかにあって、申し訳ないが全てお断りした」と記している。 引退後の一時期、日本楽器の臨時コーチを務め、後に阪神に入団する榊原良行を指導している。 2度目のフジテレビ・関西テレビ解説者時代の1978年 - 1984年はプロ野球ニュースの解説を担当していた。 第2期監督退任後は1988年に知人の山崎茂樹(同和火災本社企業部長)を通じて京都・上七軒の料亭で、日立製作所フランス社長の浦田良一を紹介される。熱狂的な阪神ファンで、日仏交流に情熱を注ぐ浦田の熱意が口説き落とされ、1989年に渡仏。 クラブチーム・パリ大学クラブ技術顧問(1989年)→監督(1990年 - 1993年)、フランス代表監督(1990年 - 1995年)を務め、仏スポーツ専門紙「レキップ」には「プチ(小さな)サムライ」と紹介された。在任中の1992年には野球殿堂入り。 生活費以外は持ち出しになるのを覚悟の上で、1989年暮れにはパリに小さなアパートを買い、本腰を入れて取り組むための拠点を確保。個人主義の国フランスで、野球を成り立たせるチームブレーを理解させるのは、かなり大変であった。打者は、遠くへ飛ばすことしか考えておらず、揃ってアッパースイングで、野手は格好良くシングルハンドでしか捕球しなかった。練習開始の時刻を誰も守らず、遅れても平然としていて言い訳すらしなかったが、 投手コーチとして参加してくれた新山彰忠と二人で、「まあ、今日じゅうに集まってくれたらよしとしようや。郷に入れば郷に従え、やで」と慰め合い、辛抱強く、異国の習慣に付き合うことにした。 言葉も初めは全く分からなかったが、ノックバットがコミュニケーションの道具となり、捕れない所へ、ぎりぎり捕れる所へ打ち、ノックを打ち分けて見せて興味を持ってもらえたほか、自らグラブをはめて、ダブルプレーのコツを実演して見せる。指導して行くうちに、ゲッツーの楽しみも、送りバントなど自己犠牲の重要性も分かってもらえるようになり、バットは水平に、あるいは上から叩きつけるダウンスイングの方が、強い打球が飛ぶ、ということも理解された。連日ノックで上達するフランス人とは信頼関係で結ばれていき、新山も、打撃練習で1日500球くらい打ちやすい球を投げて、神様のように感謝された。 正式にフランス代表の指導を始めると、両翼898m、内野に芝生を張ったペルシング球場も完成し、古巣・阪神はじめ日本の各球団から練習用ボー ルの提供も受けた。浦田良一、エミトラベル社長でパリ大学クラブ理事長の古川秀雄が、少しでもフランス野球の橋渡しにと、骨身を惜しまず、吉田を陰で支えた。 第3期監督退任後、1999年から朝日放送(ABC)の野球解説者、2000年から日刊スポーツの客員評論家を務める。 2001年から始まったプロ野球マスターズリーグで大阪ロマンズの監督を務めていたが、2007年限りで他のチームの監督と共に勇退。 2010年1月25日には、この年3月14日に阪神甲子園球場内にオープンした甲子園歴史館の運営会議顧問に就任した。 2011年7月20日、野球フランス代表監督を務めフランス野球界への貢献を評価され、フランス野球ソフトボール連盟の名誉会員に選ばれた。同日、パリ国立スポーツ博物館で式典が行われた。同連盟の名誉会員は吉田で7人目だが日本人の名誉会員は初めて。 同年11月16日には国際野球連盟の五輪復帰委員会の委員に任命され、以後、夏季五輪における野球・ソフトボール競技復活のため精力的に活動した。 2014年、フランス野球ソフトボール連盟は自身が主催する国際大会を創設するにあたり、その大会の冠名を吉田のフランス野球界への貢献に敬意を込めて、フランス国際野球大会“吉田チャレンジ”と命名した。 高齢になったため、2020年代以後は現地での放送での解説担当は極力控えており、事実上のゲスト解説扱いとなっている。 2023年1月13日、監督時代に活躍したランディ・バースの野球殿堂入り通知式に参加し、ゲストスピーチを行った。同年11月5日、阪神が同年の日本シリーズに吉田の監督時以来38年ぶりの制覇を達成した際は自宅でテレビ観戦した。監督の岡田彰布によると、シリーズ優勝決定後に最初に自身の携帯電話に連絡があったのは吉田だったという。 最初の監督は金田正泰の後を受ける形で就任し、監督としては異例ともいえる背番号1番をつけた(メジャーリーグのビリー・マーチンに倣ったもの)。最初の年はライバル巨人が低迷する中、初めて本塁打王を獲得した田淵幸一らの活躍によりシーズン後半まで広島・中日と優勝を争ったが9月に脱落して3位に終わる。球団初の最下位に沈んだ巨人に、16勝9敗1分けと大きく勝ち越した。吉田は掛布雅之と佐野仙好にサードのポジションを争わせた。試合では右投手の時は掛布、左投手に対しては佐野を起用し、8番に入れた。そして、夏場を過ぎた頃、「サードは掛布で固めましょう」という一枝修平コーチの進言を入れて、佐野をレフトにコンバートした。就任時に「走るチームにします」という抱負を語ったが、終わってみると2リーグ分裂後では当時最低となる31盗塁という皮肉な一面もあった。シーズン終了後、南海との間で江夏豊の放出を含む大型トレードを敢行した。吉田によると、監督就任時に球団は既に江夏をトレードに出す方針を固めていたが、吉田は再生を期して「結果が出なければトレードを覚悟してほしい」と本人に言い含めた上で残留させた。しかしそのシーズンの成績が振るわなかったことからトレードが決まり、その際に「人事の話はフロントから言う方がいい」という長田球団社長の意向に従って吉田は「トレードのことは知らない」と言い続け、本人に直接伝えることはなかった。この点に関して、吉田は「江夏に申し訳ないことをした。自ら伝えるべきだった」と記している。江夏はこの時の吉田のトレードに対する対応を、現場の最高位責任者が「知らなかった」ですましウソをついたことを長年恨んでいた。江夏は2017年12月22日付の私の履歴書の中で「移籍話は急に出てきたものではなかった。奔放な言動で、球団に迷惑をかけたこともあったかもしれない。75年に就任した吉田義男監督とも、ソリが合っていたとはいえない。だが一番の問題は力の衰えだったと思う。プロは成績が全てだ。自分のなかでは阪神への愛憎が渦巻いていた。人間関係にも疲れ、タイガースを出たいとも思った。半面、タイガースが俺を出すはずがない、という自負もあった。」と回想している。また江夏は1985年には阪神が優勝した際のスポーツ紙の企画で面談した時、「あのときはすまなかった」と吉田から謝罪を受けた。その後も吉田は江夏と顔を合わせる機会ごとに同趣旨の発言を行っている。 守備難であった田淵のサブを求め、太平洋の片岡新之介に目を付けたほか、二軍視察の際に活躍を見た加藤博一を獲得。 吉田は攻撃力を重視する方針を取り、マイク・ラインバックとハル・ブリーデンの2人の外国人選手を獲得した。これに急成長した掛布雅之が加わり、1976年はチーム193本塁打(ブリーデン40本、田淵39本、掛布27本、ラインバック22本など)の当時のプロ野球記録を作る。一方、江夏が抜けた投手陣は交換で獲得した江本孟紀を先発に据えると共に、山本和行と安仁屋宗八の2人を「ダブルストッパー」として抑えに起用した。これらの戦力により、終盤まで巨人と激しい優勝争いを展開し、勝率6割を超えながら最後に2ゲーム差で力尽きた。田淵は1975年に43本塁打打ち、初の本塁打王になったが、半面、守備の方は、肥満のせいで動きが鈍くなり、キャッチングにも粗さが目立ち始め、同年には田淵への守備を巡ってヘッドコーチの辻佳紀と対立し、辻はオフに退団した。吉田によると辻が、田淵の守備を「怠慢だ」とマスコミに対してあからさまに非難したので、「外部に向かって言う前に、本人に注意するように」とたしなめたところ、辻は聞き入れず退団した。 3年目の1977年は終盤に球団ワーストタイとなる9連敗を喫したのが響き、勝率5割を切る(.466。当時の阪神の史上最低勝率)借金8で4位に低迷し、「吉田更迭論」が高まった。マスコミ辞令は現実のものとなり、吉田はあっさり辞めさせられた。東田正義は吉田との確執から32歳の若さで引退した。 江本は引退後の著書の中で、プレーのサインに複雑なものを使わず1種類だけであったことを「阪神へ移籍して最も驚いた」点として挙げ、吉田が試合に負けても敗因や相手の戦術を分析するのではなく「単純に『相手がよく頑張ったから』としか考えていないようだった。この感覚のズレへの違和感は、最後までぬぐえなかった」と記している。 当時の阪神のサインは人差し指1本出したらストレート、人差し指と中指の2本出したらカーブ、指を全部振ればフォークを投げるという、実に単調な決め方であった。あまりに単純な配球のサインの出し方に、江本は田淵に「ブロックサインは、どうなっているんですか?」と聞いた。すると、田淵は「なんだ、それ?」というような表情を浮かべながら、「そんなのウチにはないよ。人差し指を1本立てたらストレート、人差し指と中指の2本立てたらカーブ、薬指まで3本立てたらスライダーという感じで出しているんだよ。出したらピッチャーが投げにくいって言うしね」と答えた。そのため1回しか出さない単純なサインであり、それを聞いた江本は呆気に取られてしまった。あまりにも単純なサインであるにもかかわらず、ある程度は勝っていたため、南海から一緒に阪神に移籍した島野育夫にこのことを話すと、「おい、阪神は南海より強いんじゃないか」と驚くことしきりであった。島野は皮肉で言っているのではなく、本気でそう考えていた。 後の2020年に本人は日刊スポーツの評論家の立場で「田淵を一塁手にコンバートさせていれば田淵の選手生命はもっと伸びていたかもしれない」と指導者としての後悔を口にした。 1985年、2度目の監督に就任。当初阪神が就任を依頼して固辞された西本幸雄と解説者として親交があり、野球観が共通しているというのが球団側の説明した理由であった。吉田は著書で西本からの推薦があったとしている。吉田はチームの潜在力は認めたが、今すぐに優勝争いができるとは考えておらず、初年度は基盤固めを目指す方針であった。チームスローガンは「フレッシュ、ファイト、フォア・ザ・チーム」の頭文字から取った「3F野球」としている。コーチの編成はヘッドコーチに土井淳、投手コーチに米田哲也、打撃コーチは並木輝男、守備コーチは一枝修平、これにすでに在籍している高橋重行、竹之内雅史を加えた。米田は西本の推薦で就任した。春季キャンプ地を当初予定だったハワイ・マウイ島から安芸市営球場に変更し、若手選手を自分の目で確かめたいという信念を貫いた。 ところがチームは三冠王を獲得したランディ・バースを筆頭に4月から猛打を炸裂させて勝ち進み、21年ぶりの優勝という声が6月頃にはファンやマスコミの間で聞かれるようになる。吉田はそうした状況でも試合後のインタビューで「チーム一丸となって、チャレンジャー精神で戦うだけ」と言い続けた。しかし、なかなか「優勝」の2文字を口にしないことに川藤幸三が苦言を呈し、選手に対しては8月下旬になってようやく「優勝しよう」と語ったという。吉田本人によると「「一丸」、「挑戦」、「力を出し切れ」、と当たり前の事を当たり前にやれと言い続けました。いくらマスコミにから促されても絶対に「優勝する」と言わなかったのは、勝負は下駄を履くまでわからないからです。現役時代の1964年1つ負けたら大洋が優勝するという体験をしている。ダブルヘッダーで4試合勝つなど9連勝して奇跡の優勝をするんです。だから「優勝」というのは勝ってから言おうと心に決めてました。」と語っている。 シーズン終盤、優勝のプレッシャーがないかと聞かれて「ほとんどの選手は経験したことないからわからんのと違いますか」ととぼけたこともあった。また優勝マジックが1となった際には報道陣からの「これで王手ですね」「いよいよリーチですよ」との問いに対し「王手とリーチはどう違いますんかな?」と答えて笑わせていた。「阪神フィーバー」が社会現象と言われる盛り上がりの中、10月16日にリーグ優勝、日本シリーズでも西武を退けて、阪神は初の日本一に輝いた。リーグ優勝と日本一のインタビューにおいては「ファンの方々の声援が我々を奮い立たせてくれた」というコメントを連発した。 セ・リーグ新記録となる219本塁打などの猛打が注目される中、犠打も当時のセ・リーグ新記録141、完投能力を持つ選手の少ない投手陣は細かな継投を駆使するなど、このシーズンは豪快さと手堅さを併せ持った采配であった。シーズン終了後に、阪神を優勝に導いた功績により正力松太郎賞を受賞している。 翌1986年は掛布がケガで戦線を離脱する中、バースが前年に続いて三冠王の活躍を見せ、チームは夏頃まで巨人・広島と首位を争ったが脱落して3位に終わる。投手起用を巡ってコーチの米田哲也と対立し、シーズン後に米田は退団した。前回監督時の経験から吉田は解説者仲間からコーチを起用し、「一蓮托生内閣」と称したが、再びコーチが途中で交代することとなった。1987年は2年前の優勝が嘘のような低迷にあえぎ、勝率は球団ワーストの.331、9年ぶりの最下位に低迷し、バースが雑誌のインタビューで監督批判を行う、打撃コーチ補佐の竹之内雅史が吉田と采配などで対立し退団するなど、チームの雰囲気は悪化した。 またマスコミとも険悪になり、試合終了後ロッカールームから出てきた吉田に向けたカメラのフラッシュに嫌気がさし、「傘(を)差したろか?」とつぶやいたコメントが翌日のスポーツ紙には「傘(で)刺したろか?」と歪曲されて報道され、また元チームメイトの話として「吉田は水虫の治療費も監督としての経費としてフロントに請求するような男」と報じるなど、優勝経験監督とは思えない扱いを受けた。このシーズン終了後の10月12日に解任。後任の村山の就任に当たって「祝」という見出しを付けた在阪のスポーツ紙もあった程で、21年ぶりに優勝に導いた監督という功績は十分に顧みられない状況であった。 ただし、球団は退任にあたり吉田の現役時代の背番号「23」を永久欠番に指定し、更に「優勝監督」として3000万円の功労金を出している。吉田は後に、初年度の優勝の影で本来の目的であった基盤作りができなかったことを指摘している。吉田は退任後「天国(優勝)と地獄(最下位)を体験した」として、「一蓮托生内閣」のコーチたちと「天地会」という親睦会を作った。現在はこの2つのシーズンを経験した他の阪神OBも加わっている。 1997年、藤田平が監督を解任され、後任監督をスパーキー・アンダーソンに要請するも「妻との余生をゆっくり過ごしたい」と断られ、球団社長の三好一彦の要請で、退任から10年を経て、3度目の監督に就任。ヘッドコーチは一枝修平、内野守備走塁コーチは平田勝男、バッテリーコーチは木戸克彦が就任。前年オフのドラフトで今岡誠、関本健太郎、濱中治と、後にチームの主軸に成長する野手3人を上位指名した。一方で即戦力補強は思うに任せず、「(ユニホームの)縦縞を横縞に変えても」とFAでの獲得を目指した清原和博には断られ、3億円以上の年俸で獲得したマイク・グリーンウェルは5月3日に来日初出場して5月11日を最後に退団・帰国してしまった。5月17日の対ヤクルト戦ではマイク・ディミュロ審判に抗議してプロ24年目にして吉田は初の退場処分を受けた。6月10日対ヤクルト戦から前中日のダネル・コールズが加わったが、攻撃力向上に中々結び付かなかった。それでも1997年は新本拠地・ナゴヤドームで苦戦した中日の上を行き5位となり、何とか3年連続の最下位は免れた。チーム本塁打は6年ぶりの3桁となる103本に増加し、藪恵壹と湯舟敏郎が2桁勝利を挙げた。オフに中日ドラゴンズと大型トレードを敢行し、久慈照嘉と関川浩一を放出して大豊泰昭と矢野輝弘を獲得した。遊撃手レギュラーであった久慈の放出は今岡誠の出場機会増加を目的としていた。当初は中村武志獲得を希望したが、桧山進次郎放出に電鉄本社から待ったが掛かったため第2捕手であった矢野獲得に方針を切り替えた。ドラフトでは、井川慶や坪井智哉を指名した。打撃コーチに福本豊に声を掛けて、岡田彰布がオリックスから阪神に指導者として復活するいきさつにも関わった。 翌1998年、寅年にちなんで「阪神が優勝した」という仮定の上での優勝会見が、エイプリルフールの4月1日に日本外国特派員協会で開催された。壇上に置かれたコップの中身が水ではなく酒であるなど、あくまでギャグの会見で、吉田自身も「皆様1年間、応援ありがとうございました。こんなに嬉しいことはないです」「優勝したと言えと裏で言われるんですけれども、心が小さい私には、大変難しいんでございますが」「身に余る祝辞を賜りまして、穴があったら入りたい」などとジョークを飛ばし、外国人記者はもちろん日本人にも大受けであった。 1998年はクリーンアップを新戦力デーブ・ハンセン、アロンゾ・パウエル、大豊泰昭に総入れ替えして臨んだ。が、開幕カード対横浜3連戦を3連敗し、続く対中日、対広島戦も1勝2敗と負け越しでスタートした。 4月15日の対ヤクルト戦から正捕手を山田勝彦から矢野輝弘に切り替え、新人の坪井智哉を外野手レギュラーに抜擢し、今岡誠を遊撃手レギュラーで使い続けた。結果、投手陣では藪恵壹と川尻哲郎が2桁勝利を挙げるが湯舟敏郎が骨折で離脱し、新戦力ハンセン、パウエル、大豊が揃って不振で、レギュラー外野手新庄剛志、桧山進次郎が共に.220台の低打率で負の連鎖が止まらず、チーム本塁打が86本と極端な長打力不足に泣かされた。同年チームは最下位に終わり、10月7日に球団臨時株主総会・取締役会によって三好一彦社長の辞任が決定し、吉田も三好の後を追う形で退任した。 第3期の2年はどちらのシーズンも優勝決定戦の相手となる(1997年はヤクルト、1998年は横浜の優勝を目の前で見る屈辱を味わった)。これらの試合は全国ネットで中継され、1997年は16対1の大差をつけられるなど「弱い阪神」を多くの人に印象づける結果になった。一方人材補強の面では在任中に今岡誠・関本健太郎・濱中治・坪井智哉・井川慶らを育成すると共にトレードで矢野輝弘を獲得。今岡、坪井、矢野は吉田の監督時代にレギュラーとなり、他の選手も退任後に成長して2003年の優勝に貢献した。当時阪神の球団本部長・専務だった野崎勝義によると吉田は監督として最後の編成会議の際に「今のメンバーで核になるような選手はいまへんわ。脇役ばっかりで戦っているようなもんですわ。」と述べたという。吉田の後任監督野村克也も「エースと四番打者は育てられない」と同様の要望を球団に出している。 吉田の監督手腕について、掛布雅之は「守備に攻撃的姿勢を求める」「攻めダルマ」、岡田彰布は打たれた投手を敢えて翌日も同じ打者に勝負させる「腹の据わった監督」と振り返っている。 華麗で俊敏な遊撃守備は、「捕るが早いか投げるが早いか」「蝶が舞い蜂が刺す」「史上最高の遊撃手」などの賞賛を受け、その身のこなしから「今牛若丸」と呼ばれた。その守備力は、17年間の現役生活で15度のリーグ最多守備機会を記録し、1試合15守備機会、シーズン94併殺など数々のリーグ記録、日本記録を更新した。1955年の日米野球では全日本チームのメンバーとして出場し、ニューヨーク・ヤンキース監督のケーシー・ステンゲルから「(吉田の守備は)メジャーリーグでも通用する」と称賛を受けている。 若手時代、南海ホークスの遊撃手だった木塚忠助のプレーを見て守備の動きを学んだと語っている。ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)設立以前の当時は、遊撃手や捕手についてはベストナインがゴールデングラブ賞の代わりとなっていたが、吉田は9度も受賞している。三塁の三宅秀史、二塁の鎌田実と組んだ内野守備は史上最強と言われた。 「名手吉田」と呼ばれる陰には人知れぬ精進があった。入団初年度は38、2年目も30の失策を記録し、「牛若丸は失策王」とも言われたと著書に記している。入団当初、しばらくはグローブとボールとをいつも手元に置いていた。食事の合間にも、グローブからボールを離す動作を止めなかった。右手の指の感覚でボールの縫い目を瞬時に探す練習であった。こうして、プレー中も捕球からスローイングの敏捷な動作が生まれたのである。その捕球から送球への俊敏な動作は敵打者はおろか味方の一塁手すらついていけなくなりそうになることがあり、一塁を守っていた遠井吾郎に「もう少しゆっくり放って下さい」と頼まれたこともあるという。しかし、それは猛練習によって身についた動きのリズムを逆に崩すことになり、いくらチームメイトのお願いでも譲るわけにはいかなかったため、走者がいないのにわざわざ二塁へ送球して鎌田から一塁の遠井へ送球していた。それでもギリギリ追いつくかどうかだった。 また、捕球を安定にするためには体の正面で捕球することが大切なことを意識し、「両足とグラブが正三角形の頂点を作る」練習を繰り返した。どんなゴロが来てもグラブを伸ばすのではなく、フットワークを使って正面で捕ることを心がけた。この安定した捕球も送球への動作を崩さないための大切な要素だと語っている。 当時監督だった松木謙治郎は、ボールをグラブにぶつける動作を繰り返したことで手首も強化され、非力だった打力の向上にも役立ったとしている。ただし、キャンプ等で相部屋となった選手は、吉田がボールをグラブに入れる「バシ」という音が四六時中繰り返されるため、閉口したという。 吉田本人は自らの努力も認める一方で「グラウンド(甲子園球場)の状態が良くイレギュラーバウンドも少なかったし、何より小山正明、渡辺省三、村山実などコントロールのいい投手が多かったので守りやすかった」と環境の良さにも敬意を表している。また、投手の投球の性格によって投手の調子が判断できたと語っている。たとえば小山の調子が良い時は速球が走っているため飛球や三振が多く「内野手はヒマだった」という。一方、渡辺省三の調子が良い時は低目に変化球がコントロールされているのでゴロが多く「内野手は忙しかった」と語っている。その逆の場合は「今日は調子が悪いな」という見極めができたという。 巨人の広岡達朗は学生時代から存在を意識した遊撃手のライバルであった。大学入学前に同行した安部球場での練習試合の際、併殺を逃れるためにスライディングした広岡に左すねをスパイクされたことが出会いであったという。広岡は、当時は吉田の華麗な守備と常に比較されたため「(吉田を基準に守備力を評価されたため)甚だ迷惑した」と語っている。後年解説者となった広岡は遊撃手を批評する際には頻繁に吉田の名を挙げ、自分も含めて殆どの内野手は「取ってなんぼ、アウトにしてなんぼ」のレベルだが、吉田は「取ってアウトは当たり前、見せてなんぼ」の選手だったと脱帽している。二人が共に現役にあった間、遊撃手のベストナイン選出は吉田の9回に対して広岡は1回であった。広岡は基本に忠実、正確確実なプレーを信条としたが、これは吉田への対抗意識も多分にあるという。一方、吉田は広岡について「現役時代は私のほうが上だと言ってもらえることが多かったが、監督としては足元にも及ばない」と語っている。ただし、1985年の日本シリーズでは広岡の率いる西武に勝っている。 藤田平が台頭した現役最晩年は二塁手としてもプレーしているが、自身は「私は二塁手は失格ですわ」と語るなど、やや否定的な評価をしている。 他球団の松原誠(大洋)が吉田に守備の教えを乞うたところ、快く応じてくれたという。 打率こそ高くはなかったが、通算1800本以上の安打を放つなど打撃も優れており、新人年から8年連続でシーズン100安打も記録していた。また、粘り強く、三振が非常に少なかった。確実に進塁打を打つ能力に長けていたため、相手投手に嫌がられた。 同い年で、吉田の現役全期間において同リーグ内のエース投手であった金田正一とは、400打席近く対戦した。金田は「あいつとだけは対戦したくない」と常々口にしていたほどに吉田を苦手にしており(吉田から三振を奪ったのは15回だけである)、金田からプロで初めてサヨナラ本塁打を放った打者も吉田である。2019年の金田の死去に際しては「ぼくは背が低かったが高めのボールが好きで、バットを寝かせて構えた。カネさんが投げ下ろしてくる剛速球が高めにきたところをよく打ちました」と回想し、それでも金田がマウンドから「おいっ、チビっ、打ってみぃ!」と挑発したというエピソードも交え、「永遠のNO・1投手です」と称えた。 4度のリーグ最多犠打、通算264犠打を記録している。このうち通算犠打については、吉田が現役を引退した時には当時のプロ野球記録でもあった(現在のプロ野球記録は川相昌弘の533犠打)。 1954年に51盗塁、1956年に50盗塁で2度の盗塁王に輝いた。阪神では20世紀最後の盗塁王である。1954年のシーズンは20歳で開幕を迎えており、この年齢での盗塁王獲得は日本プロ野球最年少の記録となっている。通算350盗塁は、2009年に赤星憲広が更新するまで40年にわたって阪神の球団記録だった。 2度目の監督退任後に渡仏し長きにわたりフランスのナショナルチームを率いた縁で、のち川淵三郎にフランスサッカー連盟の重鎮を紹介した。これでJFAとフランスとの間でコネクションができ、のちに日本代表監督にフィリップ・トルシエが就任するきっかけなどを作るなど、日本サッカー界においても多大な貢献をした。 朝日放送ラジオ(ABCラジオ)では、吉田が90歳だった2024年3月16日に、「野球!野球!野球! 吉田義男90歳」という2部構成の有料イベントを「ABCラジオ朗読会」としてあましんアルカイックホール・オクトで開催。1世紀近くにわたる吉田の野球人生を、本人の声色を真似た松村邦洋(芸能界きっての阪神ファン)による語りと、『おはようパーソナリティ小縣裕介です』『おはようパーソナリティ古川昌希です』の出演者および中邨雄二・藤崎健一郎による朗読で紹介した。ちなみに、朗読では中学生以降の吉田の役を古川昌希(いずれも出演の時点では朝日放送テレビのアナウンサー)が演じたほか、朗読会の前後(阪神の監督時代に指導していた中西清起や濱中治を交えて阪神の戦力を分析したトークショーなど)には本人も登壇している。 各年度の太字はリーグ最高 大阪(大阪タイガース)は、1961年に阪神(阪神タイガース)に球団名を変更 盗塁王:2回(1954年、1956年) 最多安打(当時連盟表彰なし):1回(1955年) ※1994年より表彰 ベストナイン:9回(1955年 - 1960年、1962年、1964年、1965年) ※遊撃手部門を9度受賞は歴代最多。6年連続は松井稼頭央に次ぐ歴代2位、セ・リーグ最長 野球殿堂競技者表彰(1992年) オールスターゲームMVP:1回(1956年 第2戦) 日本シリーズ敢闘賞:1回(1962年) 日本シリーズ首位打者賞:1回(1962年) 正力松太郎賞(1985年)※監督として表彰 ナンバーMVP賞(1985年) 初出場・初安打:1953年3月28日、国鉄1回戦(後楽園)で7番・遊撃手で先発出場で3打数1安打 初打点:1953年4月16日、洋松6回戦(日生) 初本塁打:1953年5月26日、洋松7回戦(西京極)で9回に神田昌男から 1000安打:1960年8月31日、対広島23回戦(広島市民)で鵜狩好応から ※史上35人目 1000試合出場:1961年4月12日、対広島2回戦(甲子園)で1番・遊撃手で先発出場 1500安打:1965年5月2日、対巨人4回戦(後楽園)で3回に高橋明から安打を放ち通算1500安打 1500試合出場:1965年5月9日、対国鉄3回戦(甲子園)で1番・遊撃手で先発出場 2000試合出場:1969年9月18日、対アトムズ23回戦(神宮)、9番・二塁手で先発出場 ※史上2人目 オールスターゲーム出場:13回(1954年 - 1966年) 23(1953年 - 1969年) ※1987年より阪神の永久欠番。 1(1975年 - 1977年) ※阪神の歴代監督の中では最も若い背番号。ニューヨーク・ヤンキースのビリー・マーチンへの憧れから 81(1985年 - 1987年) 83(1997年 - 1998年) 『海を渡った牛若丸―天才ショートの人生航路』(ベースボール・マガジン社、1994年 ISBN 9784583031170) 『阪神タイガース』(新潮新書、2003年 ISBN 9784106100314) 『牛若丸の履歴書』(日本経済新聞社、2009年 ISBN 9784532194901) - 日本経済新聞連載の「私の履歴書」に加筆再構成したもの。 朝日放送テレビの野球解説者として、阪神戦の中継や関連番組へ定期的に出演している。ただし、近年は高齢のため、テレビ・ラジオとも中継への出演を極力控えている。 スーパーベースボール ABCフレッシュアップベースボール ラジオで虎バン!(2020年度から随時出演) 芸能人格付けチェック(朝日放送→朝日放送テレビ)
虎バン
いずれも朝日放送→朝日放送ラジオのナイターオフシーズン限定番組 武田和歌子のぴたっと。(2013年 - 2015年度の水曜17・18時台に出演) 堀江政生のほり×ナビ(2016年度の水曜18時台に出演) 伊藤史隆のラジオノオト(2017年度の火曜18時台に「虎バンパートナー」として出演) 吉田義男の虎たまプレミアム→虎たまプレミアム(2018年度から2023年度までナイターオフシーズン限定で放送) - 2019年度までは、放送上「メインパーソナリティ」と扱われていた。 祝100年!いとしの甲子園(2024年8月3日、NHKラジオ第1) 野球道(関西テレビ・フジテレビ系列のプロ野球中継における現行統一タイトル〔関西テレビローカルは「プロ野球中継」〕) プロ野球ニュース 関西みらい銀行 ^ これについて吉田は、事実は異なり実際には助監督の西村正夫の誘いがあったが自ら断ったと記している。 ^ この間の経緯については吉田の著書でも記述にぶれがあり、『阪神タイガース』では「協力」の内容は知らされず、吉田は現役として残るニュアンスで受け取ったとしているのに対し、『牛若丸の履歴書』ではコーチとして協力するよう求められ、後日球団事務所に行った際には「コーチ契約の話かと思ったら身を引けと告げられた」となっている。当時の「スポーツニッポン」を調べた中川右介は、12月13日の最初の戸沢との面談では選手としての残留を求められ、21日の二度目の面談で戸沢の発言は「ユニフォームを脱いでも必要」と変わり、24日の三度目の面談の際に引退を勧められたとしている。 ^ 一例として2008年3月に朝日放送の道上洋三が茨城ゴールデンゴールズと対戦するために編成した「ABCドジョーズ」に両者が参加した際、会話したことが『牛若丸の履歴書』に記されている(同書P94 - 97)。 ^ 非公式記録であるが、1リーグ時代の1940年8月8日に山田潔(イーグルス)が1試合16守備機会を記録している。[1] ^ 2005年に千葉ロッテマリーンズの西岡剛がタイ記録を樹立。 ^ “胃がんステージ4告白の藤井直伸の妻、美弥さんも決意「私も共に闘います」【全文】”. デイリースポーツ online (2022年3月3日). 2022年3月3日閲覧。 ^ 「連載 我が野球人生」『日刊スポーツ』2007年12月11日、3面。 ^ 吉田義男『牛若丸の履歴書』日本経済新聞社、2009年、38-39頁。 ^ “阪神・中野、新人遊撃手100安打到達 球団では吉田義男以来68年ぶり”. デイリースポーツ (2021年9月22日). 2021年9月22日閲覧。 ^ 吉田義男著『阪神タイガース』(新潮新書、2003年 ISBN 9784106100314)、184頁 ^ 中川右介『阪神タイガース 1965-1978』KADOKAWA《角川新書》、2016年、pp.186 - 188 ^ 中川右介『阪神タイガース 1965-1978』、p182。政岡の著書は『猛虎人脈 阪神はなぜ優勝できない!?』(リイド社、1982年)である。 ^ 朝日新聞1971年10月17日23頁 ^ 寺尾博和「小学生時の新天皇陛下に日本Sで説明役/吉田義男」『日刊スポーツ』2019年5月9日。2019年8月31日閲覧。 ^ 「日本プロ野球界をけん引した名将たち 第7弾吉田義男氏編7 監督受諾の条件は三好一彦との「同志」の絆」『日刊スポーツ』2022年4月20日。2022年4月30日閲覧。 ^ 日仏を野球でつないだ浦田良一氏が死去/寺尾で候 ^ 吉田義男『阪神タイガース(新潮新書)』新潮社、2003年9月1日、ISBN 4106100314、p180。 ^ 『阪神タイガース(新潮新書)』、p181。 ^ 「吉田元阪神監督、名誉会員に フランス野球界に貢献」『47NEWS』共同通信社、2011年7月21日。2015年5月27日閲覧。 ^ 「IBAFの五輪復帰委員に元阪神監督・吉田義男氏」『Sponichi Annex』2011年11月17日。2014年7月6日閲覧。 ^ 「La billetterie du France International Baseball Tournament ouverte !」『FFBS』2014年6月20日。オリジナルの2014年7月14日時点におけるアーカイブ。2014年7月6日閲覧。 ^ 「【阪神】85年日本一監督の吉田義男氏は自宅で決戦見届ける、シャンパンも冷やし準備万端」『日刊スポーツ』2023年11月5日。2023年11月13日閲覧。 ^ 「【阪神】岡田監督「速攻で一番最初に電話入ってたのが吉田監督でしたね」/一問一答」『日刊スポーツ』2023年11月6日。2023年11月13日閲覧。 ^ “【内田雅也の猛虎監督列伝(18)~第18代・吉田義男】マスコミに担がれ、マスコミに切られた”. スポーツニッポン (2020年5月8日). 2021年4月29日閲覧。 ^ 『阪神タイガース』147頁 ^ 『阪神タイガース』146頁 ^ 日本経済新聞朝刊『私の履歴書・江夏豊(21)決別 契約更改なく「トレード」 力の衰え痛感「成績が全て」 』2017年12月22日 ^ 江夏豊、波多野勝『左腕の誇り 江夏豊自伝』草思社、2001年。 ^ 【9月8日】1977年(昭52) “最短”でリリースされた阪神ドライチ 唯一の完投勝利は仙台 ^ 『阪神タイガース』148頁 ^ 『阪神タイガース』147頁 ^ 『九州ライオンズ激闘史―1950-1978 (B・B MOOK 1123)』ベースボール・マガジン社、2014年、101頁。 ^ 江本孟紀『野球バカは死なず』文藝春秋<文春新書>、2018年、pp.177 - 178 ^ 江本孟紀『阪神タイガースぶっちゃけ話 「阪神優勝!?」を10倍楽しく見る方法』清談社、ISBN 978-4909979230、2021年10月16日、pp.78 - 79 ^ “田淵氏殿堂入り「阪神球史に残る大打者」/吉田義男”. 日刊スポーツ (2020年1月14日). 2020年9月14日閲覧。 ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、47-48頁。 ^ 『阪神タイガース』150-151頁 ^ 「「負ける覚悟」求めた米田哲也コーチ/吉田義男氏編17」『日刊スポーツ』2022年5月4日。2023年4月16日閲覧。 ^ “1985年 ヨッさん突然キャンプ地変更 「若手にチャンスを」日本一の土台作り”. サンケイスポーツ (2020年4月26日). 2021年4月29日閲覧。 ^ 【𠮷田義男が明かす】″1985年日本一”の真相(前編)バースがクビ!?真弓と岡田を配置転換!キャンプ地変更でバッシング!阪神タイガース密着!応援番組「虎バン」ABCテレビ公式チャンネル - YouTube ^ “【10月16日】1985年(昭60) 阪神21年ぶりV!苦節8年、吉田義男が男になった日”. スポーツニッポン (2009年10月1日). 2019年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日閲覧。 ^ “ドラフト1位遠山、吉田監督は”ケチなひと”!? (水本義政)”. 産経WEST (2013年1月23日). 2021年4月29日閲覧。 ^ 【セ・パ誕生70記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.3 [1987年編] (週刊ベースボール別冊立春号)ベースボール・マガジン社、2020年、92頁 ^ 『別冊宝島 プロ野球<ウラ読み>読本』宝島社、1998年、204頁。ISBN 978-4796694209。 ^ “【9月7日】1987年(昭62) 2年で完全崩壊 吉田義男監督「けじめをつけたい」”. スポーツニッポン (2010年9月1日). 2018年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日閲覧。 ^ 週刊文春2020年1月30日号、サラリーマン球団社長、清武英利、120頁 ^ 吉田義男著『阪神タイガース』(新潮新書、2003年 ISBN 9784106100314)『阪神タイガース』192頁 ^ “吉田義男氏「ヨコジマ発言叱られた」”. 日刊スポーツ. 2021年4月29日閲覧。 ^ “【5月17日】1997年(平9) “国際派”よっさん、外国人審判に宣告された24年目の初退場”. スポーツニッポン (2009年5月1日). 2019年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日閲覧。 ^ [2] ^ “内田雅也が行く 猛虎の地<14>ホテル竹園芦屋(旧竹園旅館)”. スポーツニッポン (2018年12月17日). 2021年4月29日閲覧。 ^ “星野氏 中村紀洋獲得のためタクシーのトランクで脱出の過去”. NEWSポストセブン (2011年10月14日). 2021年4月29日閲覧。 ^ “話の肖像画「世界の盗塁王」元プロ野球選手・福本豊(27)「外でやろう」障害者野球にも力”. 産経新聞 (2021年3月20日). 2023年5月7日閲覧。 ^ “【阪神】愛弟子岡田彰布に「こけたらあきませんな」“吉田越え”願う虎のレジェンド/寺尾で候”. 日刊スポーツ (2023年4月10日). 2023年5月7日閲覧。 ^ “【内田雅也の猛虎監督列伝(27)~第27代 吉田義男】異例3度目就任「ムッシュ」が見せた涙と笑い”. スポーツニッポン (2020年5月17日). 2021年4月29日閲覧。 ^ 週刊文春2020年2月13日号、サラリーマン球団社長、主流派閥との闘い、清武英利、61頁 ^ “【「鬼筆」越後屋のトラ漫遊記】ノムさん「エースと4番は育てられない」…痛感させられる藤浪の資質 (2/4ページ)”. サンケイスポーツ (2015年9月6日). 2021年4月29日閲覧。 ^ 【掛布雅之さん】プロ野球歴代ベストナインを選んでもらった! - YouTube ^ 【1985年 日本一秘話③】いよいよ日本シリーズ!日本一を決めたときの思い出!西武・郭泰源の調子が良かったら優勝できていない!?名将・吉田義男からの学びとは! - YouTube ^ <第18回>吉田さんはイメージと違う腹の据わった監督だった|野球|日刊ゲンダイDIGITAL ^ “【10月23日】1955年(昭30)ヤンキース名将認めた「打者ではヤマウチ」”. スポーツニッポン. 2007年10月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月27日閲覧。 ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年 ^ 本間勝交遊録|阪神タイガースの球団発行誌「月刊タイガース」 ^ 『牛若丸の履歴書』、52頁。 ^ 文春Numberビジュアル文庫「巧守好走列伝」文藝春秋社 ^ 松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1973年、334頁。 ^ 『文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」』文藝春秋社、1990年。 ^ 『牛若丸の履歴書』、40頁。 ^ 「レジェンドに聞け」『週刊ベースボール』2014年6月2日号、ベースボール・マガジン社、72頁。 ^ 守備は吉田さんに、打撃は王さんにききました! - YouTube ^ “阪神・近本 30試合連続安打でマートンに並ぶ球団記録 球団史上3人目の新人年から4年連続100安打”. デイリースポーツ online (2022年7月6日). 2022年7月6日閲覧。 ^ 「牛若丸の一打 吉田 義男(阪神) ^ よく三振する打者はだれか?|野球史 野球の記録で話したい ^ 「金田正一の苦手は吉田義男のみ 桑田真澄は和田、宮本、井端」『News ポストセブン』(小学館)2014年1月19日。2016年11月29日閲覧。 ^ 「【5月28日】1957年(昭32) どうも苦手…金田正一 プロ8年目で初のサヨナラ被弾」『Sponichi Annex【日めくりプロ野球】』(スポーツニッポン新聞社)2012年5月28日。オリジナルの2013年5月15日時点におけるアーカイブ。2016年11月29日閲覧。 ^ 「吉田義男氏「投手から挑発するのはカネさん1人」」『日刊スポーツ』2019年10月6日。2019年10月22日閲覧。 ^ 「“虎のビッグボス”はフランス野球の父であり、日本サッカーの父だった/吉田義男氏編1」『日刊スポーツ』2022年4月12日。2022年6月13日閲覧。 ^ 『3月16日(土)「ABCラジオ朗読会 野球!野球!野球!吉田義男90歳」開催のお知らせ!』(プレスリリース)朝日放送ラジオ、2024年3月1日。https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000373.000040629.html。2024年3月24日閲覧。 ^ “祝100年!いとしの甲子園”. NHK. 2024年8月10日閲覧。 京都府出身の人物一覧 立命館大学の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 松村邦洋 - 幼少期からの阪神ファン。阪神監督・野球解説者時代の吉田の物真似を十八番にしている縁で、吉田本人とも番組やイベントでたびたび共演している。 個人年度別成績 吉田義男 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 森茂雄 1936 石本秀一 1936 - 1939 松木謙治郎 1940 - 1941 若林忠志 1942 - 1944 藤村富美男 1946 若林忠志 1947 - 1949 松木謙治郎 1950 - 1954 岸一郎 1955 藤村富美男 1955 - 1957 田中義雄 1958 - 1959 金田正泰 1960 - 1961 藤本定義 1961 - 1965 杉下茂 1966 藤本定義 1966 - 1968 後藤次男 1969 村山実 1970 - 1972 金田正泰 1973 - 1974 吉田義男 1975 - 1977 後藤次男 1978 ドン・ブレイザー 1979 - 1980 中西太 1980 - 1981 安藤統男(統夫) 1982 - 1984 吉田義男 1985 - 1987 村山実 1988 - 1989 中村勝広 1990 - 1995 藤田平 1996 吉田義男 1997 - 1998 野村克也 1999 - 2001 星野仙一 2002 - 2003 岡田彰布 2004 - 2008 真弓明信 2009 - 2011 和田豊 2012 - 2015 金本知憲 2016 - 2018 矢野燿大 2019 - 2022 岡田彰布 2023 - 2024 藤川球児 2025 - 現在 表 話 編 歴 1977 王貞治 1978 広岡達朗 1979 西本幸雄 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 田淵幸一 1984 衣笠祥雄 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 工藤公康 1988 門田博光 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄, イチロー 1995 イチロー 1996 仰木彬 1997 古田敦也 1998 佐々木主浩 1999 王貞治 2000 松井秀喜 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治, 星野仙一 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 王貞治 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳, 阿部慎之助 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 デニス・サファテ 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 2004 イチロー 2013 田中将大 2021 稲葉篤紀, 大谷翔平 2022 村上宗隆 2023 栗山英樹, 大谷翔平 2024 大谷翔平 表 話 編 歴 1982 広岡達朗 1983 青木功 1984 山下泰裕 1985 吉田義男 1986 清原和博 1987 岡本綾子 1988 千代の富士貢 1989 ラグビー日本代表 1990 野茂英雄 1991 中嶋悟 1992 亀山努 1993 三浦知良 1994 長嶋茂雄 1995 イチロー 1996 伊達公子 1997 中田英寿 1998 清水宏保 1999 松坂大輔 2000 高橋尚子 2001 イチロー 2002 稲本潤一 2003 松井秀喜 2004 北島康介 2005 武豊 2006 WBC野球日本代表 2007 中村俊輔 2008 上野由岐子 2009 原辰徳 2010 本田圭佑 2011 澤穂希 2012 内村航平 2013 上原浩治 2014 羽生結弦 2015 ラグビー日本代表 2016 大谷翔平 2017 桐生祥秀 2018 大坂なおみ 2019 ラグビー日本代表 2020 藤井聡太 2021 大谷翔平 2022 井上尚弥 2023 栗山英樹・WBC日本代表 表 話 編 歴 1950 小西得郎 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 水原円裕 1957 水原円裕 1958 水原円裕 1959 水原円裕 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 藤本定義 1963 川上哲治 1964 藤本定義 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 与那嶺要 1975 古葉竹識 1976 長嶋茂雄 1977 長嶋茂雄 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 近藤貞雄 1983 藤田元司 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 阿南準郎 1987 王貞治 1988 星野仙一 1989 藤田元司 1990 藤田元司 1991 山本浩二 1992 野村克也 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 長嶋茂雄 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 星野仙一 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 星野仙一 2004 落合博満 2005 岡田彰布 2006 落合博満 2007 原辰徳 2008 原辰徳 2009 原辰徳 2010 落合博満 2011 落合博満 2012 原辰徳 2013 原辰徳 2014 原辰徳 2015 真中満 2016 緒方孝市 2017 緒方孝市 2018 緒方孝市 2019 原辰徳 2020 原辰徳 2021 高津臣吾 2022 髙津臣吾 2023 岡田彰布 2024 阿部慎之助 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 水原茂 1963 川上哲治 1964 鶴岡一人 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 仰木彬 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 王貞治 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1952 与那嶺要 1953 川上哲治 1954 日比野武 1955 飯田徳治 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 豊田泰光 1959 寺田陽介 1960 金光秀憲 1961 宮本敏雄 1962 吉田義男 1963 城戸則文 1964 山内一弘 1965 森昌彦 1966 柴田勲 1967 森本潔 1968 D.スペンサー 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 王貞治 1973 末次民夫 1974 有藤通世 1975 大橋穣 1976 福本豊, 柴田勲 1977 張本勲 1978 島谷金二 1979 高橋慶彦 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1950 金山次郎 1951 土屋五郎 1952 金山次郎 1953 金山次郎 1954 吉田義男 1955 本多逸郎 1956 吉田義男 1957 飯田徳治 1958 岡嶋博治 1959 岡嶋博治 1960 中利夫 1961 近藤和彦 1962 河野旭輝 1963 高木守道 1964 古葉竹識 1965 高木守道 1966 柴田勲 1967 柴田勲 1968 古葉竹識 1969 柴田勲 1970 東条文博 1971 高田繁 1972 柴田勲 1973 高木守道 1974 中塚政幸 1975 大下剛史 1976 衣笠祥雄 1977 柴田勲 1978 柴田勲 1979 高橋慶彦 1980 高橋慶彦 1981 青木実 1982 松本匡史 1983 松本匡史 1984 高木豊 1985 高橋慶彦 1986 屋鋪要, 平野謙 1987 屋鋪要 1988 屋鋪要 1989 正田耕三 1990 緒方耕一, 野村謙二郎 1991 野村謙二郎 1992 飯田哲也 1993 緒方耕一, 石井琢朗 1994 野村謙二郎 1995 緒方孝市 1996 緒方孝市 1997 緒方孝市 1998 石井琢朗 1999 石井琢朗 2000 石井琢朗 2001 赤星憲広 2002 赤星憲広 2003 赤星憲広 2004 赤星憲広 2005 赤星憲広 2006 青木宣親 2007 荒木雅博 2008 福地寿樹 2009 福地寿樹 2010 梵英心 2011 藤村大介 2012 大島洋平 2013 丸佳浩 2014 梶谷隆幸 2015 山田哲人 2016 山田哲人 2017 田中広輔 2018 山田哲人 2019 近本光司 2020 近本光司 2021 中野拓夢 2022 近本光司 2023 近本光司 2024 近本光司 表 話 編 歴 投 別所毅彦 捕 広田順 一 川上哲治 二 井上登 三 児玉利一 遊 吉田義男 外 渡辺博之 / 与那嶺要 / 町田行彦 表 話 編 歴 投 別所毅彦 捕 藤尾茂 一 川上哲治 二 井上登 三 児玉利一 遊 吉田義男 外 与那嶺要 / 田宮謙次郎 / 青田昇 表 話 編 歴 投 金田正一 捕 藤尾茂 一 川上哲治 二 井上登 三 三宅秀史 遊 吉田義男 外 与那嶺要 / 田宮謙次郎 / 青田昇 表 話 編 歴 投 金田正一 捕 藤尾茂 一 川上哲治 二 井上登 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 田宮謙次郎 / 森徹 / 与那嶺要 表 話 編 歴 投 藤田元司 捕 藤尾茂 一 藤本勝巳 二 土屋正孝 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 大和田明 / 坂崎一彦 / 森徹 表 話 編 歴 投 秋山登 捕 土井淳 一 近藤和彦 二 井上登 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 中利夫 / 並木輝男 / 森徹 表 話 編 歴 投 村山実 捕 森昌彦 一 王貞治 二 小坂佳隆 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 近藤和彦 / 並木輝男 / 森永勝治 表 話 編 歴 投 G.バッキー 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 重松省三 表 話 編 歴 投 村山実 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 中暁生 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 武良布枝 大竹しのぶ 田中将大 コシノジュンコ 三谷幸喜 鈴木京香 佐々木則夫 鈴木明子 松山ケンイチ 松井冬子 琴奨菊和弘 綾瀬はるか 尾木直樹 澤穂希 中村勘九郎 樹木希林 桂文枝 吉田沙保里 入江陵介 菅野よう子 日馬富士公平 田中将大 滝川クリステル 宮藤官九郎 宮本信子 杉良太郎 風吹ジュン 岡田准一 杏 片岡愛之助 阿川佐和子 中園ミホ 尾上松也 蜷川実花 山中伸弥 井上真央 阿部寛 仲間由紀恵 タモリ 黒柳徹子 羽生結弦 堺雅人 長澤まさみ 大泉洋 土屋太鳳 三宅宏実 上橋菜穂子 所ジョージ 有村架純 又吉直樹 高畑充希 辻沙絵 草刈正雄 新垣結衣 大谷翔平 萩野公介 伊調馨 秋本治 春風亭昇太 村田沙耶香 村田諒太 村上茉愛 加藤一二三 吉岡里帆 高橋一生 宮本信子 鈴木亮平 林真理子 阿部サダヲ 安藤サクラ 池江璃花子 小平奈緒 佐藤健 出川哲朗 永野芽郁 中村勘九郎 夏井いつき 野村萬斎 長谷部誠 井上尚弥 上沼恵美子 サンドウィッチマン 渋野日向子 瀬戸大也 田中圭 戸田恵梨香 中西麻耶 長谷川博己 広瀬すず 吉野彰 黒柳徹子 サンドウィッチマン 杉咲花 染谷将太 チコちゃん 宮崎美子 宮本亞門 室伏広治 吉沢亮 石川佳純 清原果耶 小池栄子 坂口健太郎 谷真海 三谷幸喜 芦田愛菜 黒柳徹子 西村宏堂 羽生結弦 坂東彌十郎 福原遥 松本潤 村上宗隆 森保一 吉田都 北口榛花 国枝慎吾 堺雅人 俵万智 寺島しのぶ 寺田宜弘 バカリズム 吉高由里子 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の野球選手 立命館大学硬式野球部の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 盗塁王 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 日本の野球監督 阪神タイガース及びその前身球団の監督 NHK紅白歌合戦審査員 日本の野球殿堂表彰者 日本プロ野球永久欠番保持者 野球解説者 野球フランス代表 日本のタレント 私の履歴書の登場人物 京都府立山城高等学校出身の人物 京都府出身のスポーツ選手 京都市出身の人物 1933年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/19 23:32更新
|
yoshida yoshio
吉田義男と同じ誕生日7月26日生まれ、同じ京都出身の人
TOPニュース
吉田義男と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「吉田義男」を素材として二次利用しています。