杉下茂の情報(すぎしたしげる) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


杉下 茂さんについて調べます
■名前・氏名 |
杉下茂と関係のある人
入谷正典: 3学年上の杉下茂とのダブルエースとして名を馳せ、同年は春秋を通じてチームの全勝ち星を二人で分けあった。 小林繁: 1975年、川上に代わって長嶋が監督に就任した巨人は球団創設以来初めてセ・リーグ最下位となり、シーズン終了後に小林は新任の杉下茂一軍投手コーチに反発して引退を決意し、プロゴルファー転向を考えたことがある。 河合保彦: チーム名が「名古屋」から再び「中日」に戻った1954年には野口明の控え捕手として68試合に出場し、杉下茂らとバッテリーを組んでリーグ初優勝に貢献。 児玉泰: 同年から先発陣に入って7勝を挙げ、杉下茂・石川克彦・徳永喜久夫らと共に中日初のリーグ優勝に貢献。 松本和雄: ^ 杉下茂著『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』(中日新聞社、2013年11月)ISBN 9784806206590、186頁 山本昌広: 9月3日の横浜戦(静岡・草薙球場)では8回1失点で勝利投手となり、杉下茂以来球団史上2人目となる通算150勝を達成した。 豊田泰光: 同年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでは第6戦で勝ち越し2塁打を放つが、中日のエース杉下茂らに通算24打数4安打と抑えられ日本一はならなかった。 東谷夏樹: 岡山県立琴浦商業学校在学時代は投手をしており、1948年、明治大学に在学していた杉下茂からナックルボールの投げ方を伝授してもらったという逸話が残る。 小西得郎: また、杉下茂の中日入り(1949年)は、小西が仲介したものであるという。 大矢根博臣: 2020年シーズン終了時点で、前者は中日の球団記録であり、後者も杉下茂・服部受弘・吉見一起に次ぐ球団史上4位(いずれも通算投球回1000イニング以上の投手に限る)である。 別所毅彦: この中には1955年6月9日の中日ドラゴンズ戦で杉下茂から放ったサヨナラ本塁打も含まれている。 大島信雄: チームは杉下茂の活躍もあり、球団初の日本一を達成した。 野田誠三: 杉下茂 水原茂: しかし、1954年は杉下茂擁する中日ドラゴンズにペナントを奪われて2位となり優勝を逃している。 東谷夏樹: “【ありがとう八十年(144)】杉下茂、帝京商の恩師「お前の指なら投げられる」”. 野村亮介: 背番号は、かつて中日では杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄ら歴代エースが背負い、2013年オフに中田賢一が退団してからは空き番となっていた20に決まった。 涌井秀章: 背番号は杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄、宣銅烈、中田賢一ら好投手が着用していた中日のエースナンバーである20となった。 別所毅彦: シーズンでは21勝(9敗)防御率2.44(4位)でいずれもタイトルには及ばなかったが、最多勝の杉下茂(28勝)、最優秀防御率の松田清(2.01)を抑えて、3年ぶりにベストナインを獲得している。 関根潤三: 2011年時点でテレビ局・ラジオ局専属のプロ野球解説者の中ではTBSラジオの杉下茂 に次いで高齢となっていた。 藤村富美男: 野球では1974年に野球殿堂入りを果たし、完全にタイガースとも縁が切れたわけではなく、1977年オフには球団が藤村を総監督に据える構想を描き、藤村は後藤次男への監督要請前に承諾したが、1966年の総監督・藤本定義 - 監督・杉下茂という二頭政治の失敗を目の当たりにしている後藤は「それなら引き受けられない」と反発した。 大矢根博臣: 1956年(昭和31年)はエースの杉下茂から「自分の決め球を作れ」という助言を受け、決め球となる「沈むシュート」(ツーシーム)を習得。 天知俊一: ^ ツーシームみたいに 杉下茂『週刊ベースボール』2011年10月17日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-10/17, 73頁。 木下強三: 同年は7月15日の中日戦(広島総合)で杉下茂からプロ初本塁打となる2ラン本塁打を放ち、8月8日の大阪戦(広島総合)では小山正明から本塁打を打って勝負強さを印象付けた。 石川克彦: 2年目の1953年には杉下茂に次ぐ先発投手として活躍。 村山実: 1964年には小山正明が山内一弘とのいわゆる「世紀のトレード」で東京オリオンズへ移籍したために村山への負担が増すと思われたが、杉下茂一軍ヘッド兼投手コーチによって徹底的に鍛え上げられたジーン・バッキーが29勝を挙げる活躍を見せて小山の穴を完全に埋め、負担が減った村山も復活を見せて22勝を挙げ、2度目のリーグ優勝に貢献する。 江藤慎一: 当時の中日は吉沢岳男が正捕手としての地位を確立していたため、杉下茂監督は前年引退した西沢道夫が守っていた一塁へと江藤をコンバート、最終的に外野を守らせる構想もあった。 福家雅明: SFFについては、三振を取られた中畑清が「ストレートと同じスピードで落ちる」、杉下茂が「真のフォークを投げる投手」と評したエピソードが残っており、「日本で最初にSFFを投げた男」とも言われる。 苅田久徳: 高橋吉雄・片山栄次・小松原博喜・今泉勝義・大沢紀三男をチームに誘い、杉下茂を本格的に投手として起用。 村山実: 村山のフォークボールについては、日本初のフォークボーラーとされた杉下茂も認めており、「本物のフォークボールを投げたのは、私と村山、村田、野茂、佐々木だけだ」と語っている。 吉原正喜: 巨人入団同期の千葉茂は「巨人に吉原以上の捕手は後にも先にもいない」とまで言わしめるほど高く評価し、「フォークボールの神様」として知られる杉下茂も生前に「文字通り巨人軍最強の捕手は吉原で、三拍子も四拍子も揃った選手だった。 |
杉下茂の情報まとめ

杉下 茂(すぎした しげる)さんの誕生日は1925年9月17日です。東京出身の野球選手のようです。

父親、卒業、病気、退社、母親、現在、引退、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。2023年に亡くなられているようです。
杉下茂のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 杉下 茂(すぎした しげる、1925年9月17日 - 2023年6月12日)は、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。 中日ドラゴンズでは投手として1度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献。個人ではNPBで合計11個のタイトル(6個)・主要表彰(5個)を獲得している。 NPB史上初の本格的なフォークボールの使い手(フォークボーラー)とされ、当時は珍しさがあったものの驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操って球界に絶大な影響を与えたことから「フォークボールの神様」と呼ばれている。 1954年に32勝を挙げるなど中日ドラゴンズのエースとして活躍し、沢村栄治賞を史上初めて3度受賞しているほか、史上4人目・セ・リーグ史上初となる投手五冠王に輝いている。その実力は、「ミスタージャイアンツ」長嶋茂雄からも「生涯でナンバーワンと思えた人間の一人」と称された。歴代屈指の名投手コーチとも言われている。 杉下家の本家は「岐阜の小京都」として知られる郡上八幡だが、実家は大きな中華料理屋で、茂は父親が50歳ほどの時に生まれた。茂にとって父親は身体を壊して寝込んでいる印象しかないが、野球好きで、寝床にいながら東京六大学野球の試合をラジオで聞きつつスコアブックを付けていた。また母は野球好きではなかったが、日曜日には弁当を持って神宮球場へ連れて行ったという。茂が2 - 3歳の頃に一家は父親の職場がある中央区新川へ転居したが、その際にグローブとミットを買ってもらい、明正小学校低学年の頃に3歳上の兄とキャッチボールを始めた。当初は兄が投手、茂が捕手でプレーしていたが、茂は「本当は投手が良かったが弟だから仕方ない」として諦めていたという。4年生の2月に父親が病没すると神田区(現:千代田区)神田へ転居し、錦華小学校へ転校した。錦華小学校は神田区では区大会で負けなしの強豪で、4 - 5歳年上の仲間に混ざってプレーしていたところを野球部へ勧誘された。初の試合のみ捕手を務め、2試合目から投手としてプレーする。 旧制帝京商業学校では野球部に所属し、監督だった天知俊一の元で4番・一塁手としてプレーした。長身を生かして投手として登板することもあったが当時は弱肩で、守備時の送球は下手投げに近い横手投げだった。1944年3月に卒業後12月25日に入隊し、野球経験者という理由だけで中隊対抗の手榴弾投げ競争の代表選手に選ばれた。そのために弱肩を言い出せず、投球フォームを上手投げに矯正して必死に遠投を練習した結果、肩が強くなって優勝した。1945年には中国に出征し、同年3月21日に海軍に所属していた兄・安佑が特攻隊として沖縄方面へ出撃して戦死し、少佐に二階級特進となった。終戦後は杉下自身も捕虜収容所に入れられ市中引きずり回しまでさせられたが、井戸水の上澄みだけを飲むようにしたことが功を奏し生き延び1946年1月に帰国した。 復員後は社会人野球のいすゞ自動車へ入社し、当時監督だった苅田久徳によって本格的に投手として起用される。同時期に存在したプロ野球「大和軍」が消滅したため、苅田自身や高橋吉雄らが加入して「いすゞ自動車硬式野球部」として本格的に活動を開始した。初の対外試合は日本コロムビア戦で、苅田から投手で起用されるといきなりノーヒットノーランを達成した。その際の球審は奇しくも天知で、病気療養の弱肩投手から強肩速球派投手に進化していた杉下に驚愕していた。 第二次世界大戦で中断していた東京六大学野球リーグが1946年春に再開されると、杉下は野球を続けるために都市対抗野球終了後にいすゞ自動車を退社し、明治大学旧制専門部へ入学した。監督の苅田が法政大学出身だったために、杉下へ「都市対抗が終わったら法政に入れ」と言っていたが断り、杉下の入学に関しても天知は一切関与していないという。監督だった八十川胖の指導で練習を行うがその練習はいい加減なもので、午前中に300球近くを投げ込んだ後に打撃練習へ2時間登板、投げ方も横や下など定まらない投球で、一日1000球も投げ込んだという。また、八十川から杉下が天知の教え子と聞くや、杉下が一塁手をやっていたらしいというだけで一塁でノックを受けさせたほどである。 大学卒業直前の1948年正月、岡山県立琴浦商業学校に投手として在籍していた東谷夏樹にナックルボールを教えていた杉下を見かけた天知から、「『フォークボール』というものがある」と教えられる。しかし、試合で初めて投じた1球目が当たり損ないの安打になったことで縁起の悪さを嫌い、すぐに封印してしまった。封印後も八十川から吐くほどにまで投球練習をさせられてついに肩を壊したが、杉下は「残念だったのは在学中に一度もリーグ戦で優勝できなかったこと」と述べている。 明治大学旧制専門部での3年間を終えた杉下は、そのまま学部(3年間)へ進学するかプロ入りするかで迷った挙句、1949年に中日ドラゴンズへ入団した。 父親の没後に駄菓子店を営んでいた母親からは「お金は何とかなるから学部へ進め。野球を職業にしてはいけない」と猛反対され、明治大学監督の宮坂達雄からは財界からスポンサーを探したが、杉下自身は他人の世話になって大学を卒業することに抵抗を感じていたという。杉下の中日入団に関しては天知と駿台倶楽部会長だった小西得郎の世話があったという。また、入団直前には当時の人気コメディアンで亡くなったばかりの高勢実乗の2代目としてスカウトされたが、その理由は「杉下の風貌がよく似ていた」だけだったという。契約金50万円・年俸36万円での入団で、当時はラーメンが1杯50円の時代だったが、「10年やればサラリーマンの生涯賃金より多くなるはず」と言われたという。 プロ初登板となった1949年4月3日の対南海ホークス2回戦(中日球場)で初勝利を挙げると、対東映フライヤーズ戦では封印していたフォークボールを用いて大下弘から3打席連続三振を奪った。同年は右肩を痛めるも8勝を挙げ、1950年からは1955年まで6年連続20勝を含む、9年連続2桁勝利を記録した。 1950年の春季キャンプでは右肩の痛みから球拾い専門となったが5月頃から痛みが消え、再発防止のために名古屋での試合後は超短波治療を受け続け、55試合登板で27勝(15敗)、防御率3.20の好成績を残した。またこの年の4月21日には佐賀県鹿島市に在する祐徳稲荷神社がかつて運営していた祐徳国際グラウンドでの対西日本パイレーツ第5回戦の6回表にプロ入り初本塁打となる満塁本塁打を野本喜一郎(後に埼玉県立上尾高等学校、東洋大学監督)から放っているが、これはセントラル・リーグ初の“投手が打った満塁本塁打”1号であり、前身時代を含めた中日球団史上初となる“プロ入り初本塁打が満塁本塁打”という快記録でもあった。 1951年2月下旬にはサンフランシスコ・シールズ監督のフランク・オドールからキャンプに招待されて渡米する。杉下自身は後年、「どうして選ばれたのか分からないが投手はオレ一人。その代わり野手は川上さん、藤村さん、小鶴さんと当時の強打者ばかり。球団代表が『半年間帰国出来ないかもしれん』と監督(天知)に話すと困った顔をしていたそうだ」「川上さんは将来の日本球界を背負って立てるように『監督やコーチをよく見ておくように』と指示が出ていたらしい」と述べている。その甲斐あって同年は28勝(13敗)で初の最多勝、防御率2.35で沢村賞を初受賞した。1952年も32勝を挙げる活躍で2年連続の沢村賞を受賞している。 杉下にとってプロ野球生活最高の年となった1954年は、32勝・防御率1.39・273奪三振を記録して中日ドラゴンズの初優勝を飾るだけでなく、自身も最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封を挙げ、日本プロ野球史上4人目、2リーグ分立後初となる投手五冠王に輝いた。それ以外にもMVPとベストナイン、沢村賞に関しては史上初の3度目の受賞となった。優勝を争った読売ジャイアンツからはチームで14勝(12敗)を挙げたが、杉下ひとりで11勝を挙げた。同年の日本シリーズ(対西鉄ライオンズ戦)においても7試合中5試合に登板し、4試合で完投、最終戦では後述するように普段は1試合に数球しか投げなかったフォークを多用し、3勝1敗で球団史上初となる日本一に貢献してシリーズMVPに輝いた。 杉下と金田正一(国鉄スワローズ)の投げ合いは1950年代のプロ野球を代表する名勝負として現在でも語り草となっている。 1954年の中日ドラゴンズは読売ジャイアンツと優勝を争っていたが、国鉄との試合に敗れれば優勝を逃す成績となっていた。監督の天知俊一は杉下に対し、国鉄のエース・金田が登板する試合は必ず登板するよう指示しており、杉下もそのように調整を行っていた。結局、杉下は金田と投げ合って全勝を収め、金田は対中日ドラゴンズ戦で1勝7敗と大きく負け越す結果となった。杉下は「3年目の石川が21勝を挙げて、(自身との)2本柱が出来たことが大きかった。僕が投げるのは主に巨人戦と金田が先発する国鉄戦。金田からは点が取りにくいから相手打線を抑えるしかない。それ以外は石川の担当だ」と述べている。 1955年5月10日の試合(川崎球場)でも金田と投げ合い、1-0の僅差スコアでノーヒットノーランを達成した。この試合で杉下が許した走者は四球のみの準完全試合だったが、その四球は奇しくも金田に与えたものだった。試合後、球審を務めた円城寺満から杉下へ「すまんかったのぉ。あの(四球となった金田への)高めの球はストライクと言ってもよかった」と声をかけられたが、杉下は後年、「ストライクゾーンが広い現代なら文句無しのストライク。高低は球1個分以上、左右も半分は違う」と述べている。また、1957年8月21日の試合(中日球場)では0-1で敗戦投手となったが、その試合で金田は完全試合を達成している。 1957年10月23日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)ではプロ入りから僅か8年目で通算200勝を達成、敗戦投手は後にプロレスラーへ転向する馬場正平だった。 プロ10年目が終わった1958年に球団事務所を訪問すると、球団から「思い切ったことを考えているから、後日また来るように」と言われる。3日後、杉下が再度訪問すると「西沢(当時37歳)と服部(当時38歳)には辞めてもらう。30歳以上の選手は不要」と伝えられた。杉下自身も翌年には34歳になるものの、杉下には残留が要請された。しかし、その要請も投手としての登板を考慮されないものであり、別の日に訪問すると監督就任を要請された。杉下は前年にも11勝を挙げているために本人は寝耳に水だったが、監督就任を受諾する条件として服部と西沢の背番号(10・15)を永久欠番とし、引退試合を行うことを要請した。この条件は了承され、杉下は自身の背番号20も欠番にするかと問われても、「まだチームにいます」として拒否した。中日ドラゴンズ時代に挙げた通算211勝は、2012年に山本昌に抜かれるまで球団記録だった。 1959年から1960年まで中日ドラゴンズの選手兼任監督に就任したが、監督業に専念したために公式戦の出場は一切無かった。監督1年目は伊奈努(当時24歳)、児玉泰・大矢根博臣(共に当時25歳)ら若手投手が揃い、野手も捕手で入団した新人の江藤慎一を一塁で起用、入団2年目の前田益穂を三塁や遊撃に抜擢した。一気に若返ったチームは、64勝61敗5分で阪神と同率2位になったが、監督2年目の1960年は投手陣が崩れ、63勝67敗の5位に終わった。 1961年には毎日大映オリオンズへ投手コーチとして訪問したが、永田雅一からの一言で現役復帰を果たし、同年限りで引退した。この年は僅か4勝しか挙げられなかったため、生涯シーズン平均20勝を越えることが出来なかった。 1962年には大毎の一軍投手コーチに就任し、菅原紀元・若生智男・坂井勝二とタイプが異なる10勝投手を3人輩出すると、最終戦終了後に即座に辞表を提出した。後日、天知に呼び出されて東京・新橋の料亭へ行くと、阪神タイガース監督の藤本定義がおり、天知からの「藤本さんの野球を勉強してこい」の一言で阪神タイガースの一軍投手兼ヘッドコーチに就任した。就任後、フロントからは「新聞記者を大切にして下さい」と言われ驚いたが、これは中日では親会社が新聞社のため、記者のことを一切気にしていなかったからとされていた。エース・村山実と両輪だった小山正明が1963年のいわゆる「世紀のトレード」で移籍後、解雇寸前だったジーン・バッキーを春季キャンプ中に身体の使い方から投球方法まで徹底的に指導して29勝・防御率1.89の二冠を獲得させ、チームもリーグ優勝させた。シーズン終了後には野球評論家として、速球派左腕であるものの変化球に難があり評価が二分していた江夏豊(大阪学院大学高等学校)を調査して獲得を薦めたが、藤本から「江夏は記者との話し方を知らないから教えてやれ。お前が取れと言ったんだからな。責任がある」と言われてしまった。 1966年には阪神タイガースの監督に就任、藤本は総監督となったが、この年は投手陣の不振で読売ジャイアンツとは15ゲーム差の4位に低迷していた。ある日の試合で、杉下は審判から「権藤正利がフォームに難があり、マウンドで非常に(ボークと)紛らわしい動作をするので、きちんと静止させるように。静止しないなら完全にボークです」と指摘された。その後、8月10日の対読売ジャイアンツ戦にて審判から「権藤と話して下さい。相手球団からも抗議が来ている」と言われたため、権藤に「今日だけは(紛らわしい動作を)止めてくれ」と伝えた。5回裏2死満塁で三塁側の巨人コーチである牧野茂が三走の黒江透修に本盗のサインを出し、黒江は本塁でアウトとなったものの牧野が「ボークだ」と猛抗議し、判定が覆った。権藤の癖を知り尽くした策略だったが、結局その1点で負けたこともあり、怒り心頭の選手とは裏腹に審判の説明を少し聞いただけであっさり引き上げ、選手に何の説明もしない杉下について、捕手・辻佳紀が試合後に「かつての名投手か何だか知らんが、ボーク問題は微妙なんだ。自分ひとりが説明を聞いて納得しても我々の気持ちは収まらんよ。責任者は喧嘩するつもりでやってもらわんと。それが何だい?ああやって簡単に引き下がっちゃって。ファイトファイトと言って一番ファイトが無いのは誰だい」と吠えた。杉下自身も、「オーナー(野田誠三)も烈火のごとく怒ってしまった。『あんな生温い抗議するヤツにユニフォームを着させてはいけない』と。そう言われても仕方ない。試合前に(審判から)『ボークを取ります』と言われたんだから…」と述べている。また後年、「この年は新人で藤田平が入団し、藤田を試合で使うようオーナーから指令があったものの、当時の正遊撃手は吉田義男。峠は越していたかもしれないが、あれだけの吉田を使わずに高卒新人を使えというのは無茶な話だ。この時は吉田を二塁に回して対応したが、随分頭を悩ませた」と語っている。結局、杉下は同年8月13日に遠征先の広島で休養を命じられ、藤本が再び指揮を執ることになった。球団からは「杉下が気疲れから休養の申し出があり、それを受けた」とマスコミ各社に連絡があった。 1968年には古巣・中日の監督に復帰するが、前年まで3年連続2位だったことから新聞には「このままの布陣ではBクラス」と連載された。春季キャンプ直前になって監督の西沢道夫が健康上の理由で辞任し、杉下に球団から「何とかしろ」と就任要請が来たが、4月20日から9連勝で首位に立つも最下位に低迷、シーズン終了を待たず8月に解任された。 解任翌年の1969年から1975年まで、東京放送(TBS)・中部日本放送の野球解説者や東京中日スポーツの野球評論家として活動。1974年には、ロッテオリオンズの投手コーチだった植村義信からの依頼で村田兆治にフォークボールの投げ方を教えた。村田は自己流のアレンジを加えて投げ方を習得したが、この年の日本シリーズで中日と対戦した際に、フォークボールで三振の山を築いた。その結果、杉下は中日球団の関係者から激しく怒られたという。 1975年シーズン終了後、セ・リーグ会長の鈴木龍二から「(最下位に終わった)巨人をどう思う?お前が何とかしてやれ」と言われ、読売ジャイアンツの一軍投手コーチに就任した。前年に長嶋茂雄が引退して監督に就任したが、いわゆるV9戦士に衰えが目立ち、球団史上初の最下位に終わっていた。1976年は太平洋クラブライオンズから加藤初が移籍して15勝、小林繁が前年の5勝から18勝、新浦寿夫も11勝を挙げてリーグ優勝を果たし、野手はベテランが多かったが投手が頑張れば若手へスイッチできることを表した。1977年に連覇を果たしてからは1978年から2位、5位と低迷し、1979年秋の「地獄の伊東キャンプ」で若手と中堅を徹底的に鍛え上げた。杉下は1980年を最後の年と決めており、シーズン中は高橋善正をコーチとして育成するためにベンチとブルペンを交代で担当していた。結局、チームは優勝を逃したものの最終戦に勝利して長嶋の留任条件であるAクラス(3位)を確保し、翌朝には長嶋とコーヒーを飲みながら「伊東の成果が出ましたね。江川を筆頭に投手陣は盤石。来年は優勝できます」と話していたが長嶋は解任、杉下もコーチを退任した。 1978年には往年のライバル、金田が中心となって「名球会」が設立された。昭和生まれで野手は通算2000本以上の安打、投手は通算200勝以上を日本プロ野球の公式戦で挙げた選手、元選手が入会条件とされた。杉下は中日で通算200勝を達成していたが、大正生まれのために入会の対象外となった。名球会が発足した当時の存命者では別所毅彦、野口二郎、藤本英雄(通算200勝以上)、川上哲治(通算2000本安打以上)も同様の理由で対象外となっている。 1981年にTBSの野球解説者へ復帰したが、1993年から西武ライオンズの一軍投手コーチを務めた。杉下は、当時の西武に清原和博・秋山幸二、投手も工藤公康などが揃った黄金時代だったことから「寝ていても勝てるような布陣」と述べている。同時に、「選手を、というより森(投手コーチ)を一人前にするのが仕事だった。郭・渡辺・工藤・潮崎・鹿取らが主力だからコーチなんか要らない。色んな球団に行ったけど一番楽だった」と述べている。 1985年に野球殿堂入りを果たし、プロ野球マスターズリーグ「名古屋80D'sers」の監督を2006年から2年間務めたほか、2007年からは中日スポーツ紙上に自伝風コラム「伝える」を掲載していた。 1996年以降は中日ドラゴンズの春季沖縄キャンプに毎年参加し、90歳を超えても臨時コーチとして投手の指導に当たっていた。中日以外にも各チームのキャンプを巡回しては精力的に投手の指導を行い、特にフォークボールの指導には熱心だった。 2019年頃より肺機能が低下したことに加え、新型コロナウイルスの蔓延もあって臨時コーチとしては2019年春季キャンプが最後となった。その後も感染を防ぐために自宅で過ごしていたが、2022年6月に間質性肺炎と診断され、療養に入る。2023年6月12日に肺炎のため、東京都内の病院で死去、97歳没。 杉下の死去により、1950年代に日本プロ野球の監督を務めた人物は全員、鬼籍に入ったことになる。 明治大学在学中に天知俊一から教えられた「フォークボール」は、試合で初めて投じた際に当たり損ないの安打になって以降、杉下自身が縁起の悪さを感じて封印した。しかし、プロ入り後は封印していたフォークボールを駆使し、「青バット」と呼ばれた大下弘から三振を奪うなど「日本初のフォークボーラー」として名を売った。 日本初のフォークボーラーとして名を売ったものの、杉下は現在のフォークボーラーのような高い奪三振率は記録していない。その理由として「フォークボールを『最後の切り札』とする信念のもと、勝負所でのみ投じていたため」である。そのため、1試合で投じるフォークボールは多くても5〜6球程度と少ないものだった。 杉下はフォークボールについて「神様用のボール」と述べたうえで、「神様以外には見せ球しか使っていないが、それだけで相手は(フォークボールが)いつ来るかで迷ったという。また、『神様を倒して日本一の投手になる』と思っていた」と述べている。ある日、広岡達朗から川上が杉下のフォークボールの打ち方を寝ないで研究していたことを聞くと「川上さんにも打たれたことは無い。流石に真っ直ぐ(直球)だけだとやられるから、“神様”を誤魔化すための球だった」と語っている。 また、杉下の第一印象がフォークボールの使い手ということから「僕の現役時代を知らない人はフォークボールばかり投げていたと思っているかもしれないが、投じるのは1試合で数球だ。しかも(プロ入りした)1949年から日本一になった1954年まで。現役は1961年まで続けたが1955年以降はほとんど投げていない。直球に自信があったし、まやかしのボールで打ち取っても面白くなかった」と述べ、さらに初対戦の打者にはまず投げないと語っていた。「まず外角低めへ2球、最後は内角高め。最初に内か外かは投げた本人にも分からない。捕手はミットを左右に動かして球を追いかけても捕球出来ないから、よくバッテリーを組んだ河合保彦は身体で止められるように中腰で構えていた。投げる目標は河合のマスクの奥のおでこ。高めギリギリに投げて捕手の手前でバウンドしたから、落差は最大で1メートルくらいあったと思う。サインはパーで直球、グーがカーブ、チョキがフォーク」と述べている。 杉下の配球はあくまでも速球中心とし、そこにカーブなどの変化球を交えるスタイルでフォークボールには固執しなかった。しかし、直球勝負にこだわりすぎるあまり、1956年3月25日には樋笠一夫に日本プロ野球史上初となる「代打逆転サヨナラ本塁打」を浴び、広岡にもサヨナラ本塁打を打たれている。さらに選手晩年には新しい投球方法を模索するも結果が出ず、1961年に移籍した毎日大映オリオンズでは僅か4勝に終わり、フォークボールに回帰することなく同年限りで現役を引退した。引退後の自著では、現在のようにフォークボール中心の投球を行っていれば、それ相応の成績が残せていたかもしれないと回想している。 杉下が投じていたフォークボールは現在の一般的なフォークボールとは異なり、球が全く回転することなく左右に揺れながら落ちる、いわゆる「ナックルボール」に近いものである。その球は蝶のようにひらひら舞うとされ、そして調子の良い時は三段に渡って振れながら落ち、打者の手元でさらに二段階に渡って落ちたという。川上哲治が「ボールの縫い目が見えた」「捕手が取れないのに打てる訳がない」と言うほどの変化が起きるのは杉下の長い指があってこそで、杉下は人差し指と中指の第二関節の間をボールが触れることなく通過したとも言われている。しかし、杉下は「(球が)右へ行くのか左へ行くのか、ボールの気の向くまま。精密なコントロールなどとは無縁なものでした」と述懐しているほか、フォークボールを投じる際はとにかく腕を思い切り振り、捕手の顔面を目掛けて投げることだけに集中していたという。周囲からは「魔球」と呼ばれ、他球団でも多くの打者が研究したが、杉下は自身の財産だとして秘密を守り、オールスターゲームなどで他チームの捕手とバッテリーを組んだ際には決して投げず、マスコミにも握り方を見せることを拒否した。 現役時代に杉下と名勝負を繰り広げた金田正一は、「自分が見た最高の投手は藤本さんでも別所さんでもない。正真正銘のフォークボールを投げた杉下さん」と語っており、青田昇からも「金田よりお前の方が速かった」と言われたことがあると述べている。杉下も「フォークボールの亜流を投げた者は大勢いるが、本物のフォークボールを投げた者は5人。私と村山実、村田兆治、野茂英雄、佐々木主浩だ」と言い、現在の投手がフォークボールと称して投げているのはスプリットだと語っているほか、失投でないフォークボールが打たれたのは長嶋茂雄に一度だけだと語っている。 杉下自身が最初にフォークボールを伝授したのは板東英二だという。 プロ野球選手としては決して手の大きい方ではない板東がフォークボールを習得したことは杉下自身も印象に残ったようで、1975年に読売ジャイアンツの投手コーチに就任後、江川卓に投げ方を指導する際には、わざわざ板東を遠征先に呼び出し、「フォークボールの握り方を見せてやってほしい」と頼んだという。また、村山実など1960年代から1970年代にかけてフォークボールを武器に活躍した投手の大半は、自身の教え子であるとテレビ番組で発言していた。 杉下は「村山が関西大学の頃から、ある人を通して教えていた。中日や巨人も狙っていたが肝臓が悪いと聞いて手を引き、阪神に入った。最初の中日監督時代はライバルチームだが記者を通して頼まれ、ブルペンでこっそり指導したこともある。三塁コーチに立つと、彼がフォークを投げるときは全部分かったから打者に伝えたよ。阪神でコーチと選手の関係になると『腕の位置を下げて、いい変化をするところを探ってごらん』と助言した。フォークは横手でも下手でも投げられるんだ。彼は『お客さんは、僕が真上から投げ下ろす“ザトペック投法”を見に来ます。イメージを壊したくないので、いよいよダメになったら(腕の位置を)下げます』とオーバースローにこだわった」と述べている。しかし、杉下自身は速球こそが投手の価値で変化球は衰えを補う「最後の手段」と位置づけており、変化球は好投手の必須条件ではなく、投手の技術でもないと語った。 各年度の太字はリーグ最高 中日(中日ドラゴンズ)は、1951年に名古屋(名古屋ドラゴンズ)に、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更 ※1959年から1962年、1966年から1996年までは130試合制 最多勝利:2回(1951年、1954年) 最優秀防御率:1回(1954年) 最多奪三振:2回(1950年、1954年)※4年のブランク受賞は同賞史上最長タイ(他は鈴木啓示、上原浩治)。当時連盟表彰なし、セントラル・リーグでは1991年より表彰。 最高勝率:1回(1954年) 沢村栄治賞:3回(1951年、1952年、1954年)※最多タイ記録(他は金田正一、村山実、斎藤雅樹、山本由伸) 最高殊勲選手(MVP):1回(1954年) ベストナイン:1回(投手部門:1954年) 野球殿堂競技者表彰(1985年) 日本シリーズMVP:1回(1954年) 日本シリーズ最優秀投手賞:1回(1954年) 初登板・初勝利:1949年4月3日、対南海ホークス2回戦(中日球場) 初本塁打:1950年4月21日、対西日本パイレーツ5回戦(祐徳国際グラウンド)、6回表に野本喜一郎から左越満塁本塁打 100勝:1953年4月25日、対大洋ホエールズ3回戦(大阪スタヂアム)※史上15人目 1000奪三振:1954年10月10日、対読売ジャイアンツ25回戦(中日球場)、与那嶺要から ※史上11人目 150勝:1954年10月14日、対広島カープ25回戦(中日球場) 200勝:1957年10月23日、対読売ジャイアンツ25回戦(後楽園球場)※史上7人目 投手三冠:1回(1954年)※史上5人目、セ・リーグ初 ノーヒットノーラン:1955年5月10日、対国鉄スワローズ戦(川崎球場)、9回無安打1四球無失点 ※史上21人目28度目 2841.2イニングボークなし 日本シリーズ4完投:1954年 ※シリーズ最多タイ記録 オールスターゲーム出場:6回(1951年 - 1956年) 20(1949年 - 1962年) 63(1964年 - 1966年、1968年) 71(1976年 - 1980年、1993年 - 1994年) 『フォークボール一代:勝利への投球、その闘いの足跡』(ベースボール・マガジン社:1988年12月) ISBN 978-4583027210 『幻のメジャーリーガーとフォークボール:50年以上前、私は野球の本場アメリカからスカウトされた』(本の友社:2004年4月) ISBN 978-4894394568 『伝える:わたしが見てきた野球80年』(中日新聞社:2010年11月) ISBN 978-4806206194 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』(中日新聞社、2013年11月)ISBN 9784806206590 『杉下茂物語』(金子家基著、室町書房、1955年) 『中日ドラゴンズ名選手の時代:テレビマンが描いたドラゴンズ痛快伝説』(浅野芳光著、名古屋丸善出版サービスセンター、2007年11月、ISBN 9784895973854) 『杉下茂「魔球」の行方:日本初の本格派フォークボール投手と中日ドラゴンズの栄光:昭和29年』 (富永俊治著、アルマット、2010年8月、ISBN 9784877315283) ^ 最多勝利2個、最優秀防御率1個、最多奪三振2個、最高勝率1個 ^ 沢村栄治賞3個、最優秀選手1個、ベストナイン1個 ^ 中日球団において"プロ入り初本塁打が満塁本塁打"だったのは、杉下の後は根尾昂が記録するまで71年間現れなかった。 ^ 天知は杉下が中日ドラゴンズへ入団した1949年、中日の監督に就任している。その後、1952年シーズン後に辞任し、1954年に監督へ復帰している。 ^ 中日ドラゴンズでは、2024年に髙橋宏斗が防御率1.38で更新するまで70年間にわたり球団記録だった。 ^ 1シーズンで読売ジャイアンツから10勝以上を挙げた投手は、2024年現在でも杉下のみである。 ^ 4試合の完投は1958年の稲尾和久(西鉄ライオンズ)と並ぶ日本シリーズタイ記録。 ^ 1954年から2006年まで、日本シリーズ最優秀選手(MVP)の受賞者には副賞としてトヨタ自動車協賛の高級乗用車が贈られ、杉下は最初の受賞者となった。ただし、広島東洋カープが日本一となった場合は資本関係の都合でマツダ協賛となる。 ^ なお、中日ドラゴンズはこれ以降、2007年まで日本シリーズ優勝から遠ざかることとなり、杉下は長らく「中日選手として唯一、日本シリーズMVPに輝いた男」と称されることとなった。 ^ このため、この記録は日本プロ野球史上では金田のみが持つこととなった。 ^ 指が大きく開くのは杉下家の遺伝であるようで、杉下の息子は野球をやっていないにもかかわらず、人差し指と中指は90度開くという。 ^ 杉下 茂 野球殿堂博物館 ^ ツーシームみたいに 杉下茂『週刊ベースボール』2011年10月17日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-10/17, 73頁。 ^ 杉下茂さん死去 97歳「フォークボールの神様」中日などで215勝 ^ 『プロ野球データブック'84』(宇佐美徹也著、講談社文庫、1984年)p.421 ^ “巨人・長嶋終身名誉監督 佐々木朗に太鼓判「ナンバーワンです」”. デイリースポーツ online (2022年6月4日). 2022年6月7日閲覧。 ^ 『週刊プロ野球データファイル』2011年3号、ベースボール・マガジン社、P21 ^ プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、杉下茂、産経新聞出版、P297-346、2015年 ^ “79年前甲子園が中止になった夏、そして徴兵…"フォークボールの神様" 杉下茂94歳の証言”. (2020年8月11日) https://www.chunichi.co.jp/article/103180/2 ^ “杉下茂さん 戦争体験 平和語る”. (2020年8月14日) https://www.tokyo-np.co.jp/article/48776 ^ 関三穂『プロ野球史再発掘(2)』ベースボール・マガジン社、1987年、P9 - 25。 ^ 2009年12月27日付中日スポーツ「伝える」 ^ 山本勉(セントラル・リーグ公式記録員) (2019年1月18日). “【球跡巡り・第11回】フォークボールの神様・杉下茂 神様の前でセ初の投手満塁弾 祐徳国際グラウンド”. NPBニュース. 日本野球機構. 2021年5月4日閲覧。 ^ “杉下茂が魔球“フォーク”を多投しなかった理由 味方から「一人で野球やるな」と言われて(小林信也)”. デイリー新潮. (2020年11月26日). https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11291055/?all= 2020年12月28日閲覧。 ^ 日本プロ野球偉人伝vol1 杉下茂 ベースボールマガジン社 2013年10月 ^ 『朝日新聞』1957年10月24日付朝刊 (12版、7面) ^ “山本昌[中日 ついに神様超え!]”. 週刊ベースボールONLINE (2012年12月3日). 2020年11月26日閲覧。 ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』233-235頁、中日新聞社、2013年11月)ISBN 9784806206590、 ^ “週刊ベースボール60周年記念企画 巨人・牧野茂コーチの策略/週ベ回顧”. 週刊ベースボール. 2019年4月2日閲覧。 ^ 伊原監督が無期限休養 管理野球浸透せず日刊スポーツ2014年6月5日配信 ^ 杉下著『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』、269頁 ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』、248頁 ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』240頁 ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』、270頁 ^ 『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』241-242頁 ^ ““フォークボールの神様”杉下茂さん死去 97歳肺炎で 中日のエースとして1954年に球団初の日本一、監督も務める”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2023年6月16日). https://www.chunichi.co.jp/article/710937 2023年6月16日閲覧。 ^ 日本プロ野球偉人伝vol1 ベースボールマガジン社2013年10月 ^ 『伝説のプロ野球選手に会いにいく』白夜書房2008 P89 ^ 2006年10月29日放送、TBSラジオ「栗山英樹のエキサイトサンデー」にゲスト出演した時の発言。また、板東の著書にも記述がある。 ^ “100勝利”. 日本野球機構. 2023年6月17日閲覧。 ^ “1000奪三振”. 日本野球機構. 2023年6月17日閲覧。 ^ “200勝利”. 日本野球機構. 2023年6月17日閲覧。 ^ “無安打無得点試合 (ノーヒットノーラン)”. 日本野球機構. 2023年6月17日閲覧。 東京都出身の人物一覧 明治大学の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 天知茂 - 名古屋市出身の俳優。芸名は当時の中日ドラゴンズ監督・天知俊一と杉下の名前が由来。 個人年度別成績 杉下茂 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 池田豊 1936 桝嘉一 1937 根本行都 1938 - 1939 小西得郎 1939 - 1941 本田親喜 1941 - 1942 桝嘉一 1943 三宅大輔 1944 竹内愛一 1946 杉浦清 1946 - 1948 天知俊一 1949 - 1951 坪内道典 1952 - 1953 天知俊一 1954 野口明 1955 - 1956 天知俊一 1957 - 1958 杉下茂 1959 - 1960 濃人貴実 1961 - 1962 杉浦清 1963 - 1964 西沢道夫 1964 - 1967 杉下茂 1968 水原茂 1969 - 1971 与那嶺要 1972 - 1977 中利夫 1978 - 1980 近藤貞雄 1981 - 1983 山内一弘 1984 - 1986 星野仙一 1987 - 1991 高木守道 1992 - 1995 星野仙一 1996 - 2001 山田久志 2002 - 2003 落合博満 2004 - 2011 髙木守道 2012 - 2013 谷繁元信 2014 - 2016 森繁和 2017 - 2018 与田剛 2019 - 2021 立浪和義 2022 - 2024 井上一樹 2025 - 現在 表 話 編 歴 森茂雄 1936 石本秀一 1936 - 1939 松木謙治郎 1940 - 1941 若林忠志 1942 - 1944 藤村富美男 1946 若林忠志 1947 - 1949 松木謙治郎 1950 - 1954 岸一郎 1955 藤村富美男 1955 - 1957 田中義雄 1958 - 1959 金田正泰 1960 - 1961 藤本定義 1961 - 1965 杉下茂 1966 藤本定義 1966 - 1968 後藤次男 1969 村山実 1970 - 1972 金田正泰 1973 - 1974 吉田義男 1975 - 1977 後藤次男 1978 ドン・ブレイザー 1979 - 1980 中西太 1980 - 1981 安藤統男(統夫) 1982 - 1984 吉田義男 1985 - 1987 村山実 1988 - 1989 中村勝広 1990 - 1995 藤田平 1996 吉田義男 1997 - 1998 野村克也 1999 - 2001 星野仙一 2002 - 2003 岡田彰布 2004 - 2008 真弓明信 2009 - 2011 和田豊 2012 - 2015 金本知憲 2016 - 2018 矢野燿大 2019 - 2022 岡田彰布 2023 - 2024 藤川球児 2025 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治, 鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一, 二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義, 藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂, 西沢道夫 78 松木謙治郎, 浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘, 小鶴誠 81 飯田徳治, 岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂, 白石勝巳, 荒巻淳 88 長嶋茂雄, 別当薫, 西本幸雄, 金田正一 89 島秀之助, 野村克也, 野口二郎 90 真田重蔵, 張本勲 91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎 92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男 93 稲尾和久, 村山実 94 王貞治, 与那嶺要 95 杉浦忠, 石井藤吉郎 96 藤田元司, 衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫, 小山正明 02 山内一弘, 鈴木啓示, 福本豊, 田宮謙次郎 03 上田利治, 関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治, 森祇晶 06 門田博光, 高木守道, 山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二, 堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学, 津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄, 秋山幸二, 佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹, 工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜, 金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾, 山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信, 黒田博樹 25 イチロー, 岩瀬仁紀 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一, 平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 25 掛布雅之 59 正力松太郎, 平岡凞, 青井鉞男, 安部磯雄, 橋戸信, 押川清, 久慈次郎, 沢村栄治, 小野三千麿 60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登, 宮武三郎, 景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三 69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧 70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚 71 小西得郎, 水野利八 72 中野武二, 太田茂 73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄, 西村幸生 78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎 79 平沼亮三, 谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫, 小川正太郎 82 鈴木龍二, 外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄, 山内以九士 86 中河美芳, 松方正雄 87 藤田信男, 山下実 88 横沢三郎, 芥田武夫, 永田雅一 89 池田恒雄, 伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征, 村上實 96 牧野直隆, 保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志, 井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟, 長谷川良平 02 中澤不二雄, 生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守, 豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規, 君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎, 大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男, 村山龍平 16 松本瀧藏, 山中正竹 17 郷司裕, 鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉, 石井連藏 21 川島勝司, 佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 25 富澤宏哉 02 フランク・オドール, 正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン, 鈴鹿栄 表 話 編 歴 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 杉下茂 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 金田正一 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実, 堀内恒夫 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 星野仙一 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 松岡弘 1979 小林繁 1981 西本聖 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 野茂英雄 1991 佐々岡真司 1992 石井丈裕 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 西口文也 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2001 松坂大輔 2002 上原浩治 2003 井川慶, 斉藤和巳 2004 川上憲伸 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 前田健太 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2020 大野雄大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 2024 桑原将志 表 話 編 歴 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 稲尾和久 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 秋山登 1961 堀本律雄 1962 安藤元博 1963 高橋明 1964 J.スタンカ 1965 宮田征典 1966 城之内邦雄 1967 城之内邦雄 1968 金田正一 1969 高橋一三 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 村田兆治 1975 山田久志 1976 足立光宏 1977 足立光宏 1978 松岡弘 1979 山根和夫 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 川上哲治 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 川上哲治 1956 別所毅彦 1957 与那嶺要 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 長嶋茂雄 1962 村山実 1963 長嶋茂雄 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 長嶋茂雄 1967 王貞治 1968 長嶋茂雄 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 長嶋茂雄 1972 堀内恒夫 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 山本浩二 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 若松勉 1979 江夏豊 1980 山本浩二 1981 江川卓 1982 中尾孝義 1983 原辰徳 1984 衣笠祥雄 1985 R.バース 1986 北別府学 1987 山倉和博 1988 郭源治 1989 W.クロマティ 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 J.ハウエル 1993 古田敦也 1994 桑田真澄 1995 T.オマリー 1996 松井秀喜 1997 古田敦也 1998 佐々木主浩 1999 野口茂樹 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 金本知憲 2006 福留孝介 2007 小笠原道大 2008 A.ラミレス 2009 A.ラミレス 2010 和田一浩 2011 浅尾拓也 2012 阿部慎之助 2013 W.バレンティン 2014 菅野智之 2015 山田哲人 2016 新井貴浩 2017 丸佳浩 2018 丸佳浩 2019 坂本勇人 2020 菅野智之 2021 村上宗隆 2022 村上宗隆 2023 村上頌樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 梶岡忠義 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 渡辺省三 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 秋山登 1961 権藤博 1962 村山実 1963 柿本実 1964 G.バッキー 1965 金田正一 1966 堀内恒夫 1967 権藤正利 1968 外木場義郎 1969 江夏豊 1970 村山実 1971 藤本和宏 1972 安田猛 1973 安田猛 1974 関本四十四 1975 安仁屋宗八 1976 鈴木孝政 1977 新浦寿夫 1978 新浦寿夫 1979 平松政次 1980 松岡弘 1981 江川卓 1982 斉藤明夫 1983 福間納 1984 小林誠二 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 盛田幸妃 1993 山本昌広 1994 郭源治 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 大野豊 1998 野口茂樹 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 桑田真澄 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 三浦大輔 2006 黒田博樹 2007 高橋尚成 2008 石川雅規 2009 チェン 2010 前田健太 2011 吉見一起 2012 前田健太 2013 前田健太 2014 菅野智之 2015 K.ジョンソン 2016 菅野智之 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2019 大野雄大 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 青柳晃洋 2023 村上頌樹 2024 髙橋宏斗 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 藤村隆男 1953 大友工, 石川克彦 1954 杉下茂 1955 大友工 1956 堀内庄 1957 木戸美摸 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 伊藤芳明 1962 小山正明 1963 山中巽 1964 石川緑 1965 山中巽 1966 堀内恒夫 1967 堀内恒夫 1968 島田源太郎 1969 高橋一三 1970 村山実 1971 坂井勝二 1972 堀内恒夫 1973 倉田誠 1974 松本幸行 1975 星野仙一 1976 加藤初 1977 新浦寿夫 1978 鈴木康二朗 1979 藤沢公也 1980 福士敬章 1981 江川卓 1982 都裕次郎 1983 津田恒美 1984 江川卓 1985 北別府学 1986 北別府学 1987 川端順 1988 小野和幸 1989 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 北別府学 1992 斎藤雅樹 1993 山本昌広 1994 紀藤真琴 1995 石井一久 1996 斎藤雅樹 1997 三浦大輔 1998 桑田真澄 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 入来祐作 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 安藤優也 2006 川上憲伸 2007 高橋尚成 2008 館山昌平 2009 D.ゴンザレス 2010 久保康友 2011 吉見一起 2012 杉内俊哉 2013 小川泰弘 2014 山井大介 2015 M.マイコラス 2016 野村祐輔 2017 薮田和樹 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 大友工, 長谷川良平 1956 別所毅彦 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 藤田元司 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 権藤博 1963 金田正一 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 江夏豊 1974 松本幸行, 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 高橋里志 1978 野村収 1979 小林繁 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 小松辰雄 1988 小野和幸, 伊東昭光 1989 斎藤雅樹, 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二, 山本昌広, 野村弘樹 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹, B.ガルベス 1997 山本昌 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2000 M.バンチ 2001 藤井秀悟 2002 上原浩治, K.ホッジス 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 下柳剛, 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 S.グライシンガー 2008 S.グライシンガー 2009 吉見一起, 館山昌平 2010 前田健太 2011 吉見一起, 内海哲也 2012 内海哲也 2013 小川泰弘 2014 R.メッセンジャー, 山井大介 2015 前田健太 2016 野村祐輔 2017 菅野智之 2018 大瀬良大地, 菅野智之 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋, 九里亜蓮 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 杉下茂 1951 金田正一 1952 金田正一 1953 金田正一 1954 杉下茂 1955 金田正一 1956 金田正一 1957 秋山登 1958 金田正一 1959 金田正一 1960 金田正一 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 金田正一 1964 金田正一 1965 村山実 1966 村山実 1967 江夏豊 1968 江夏豊 1969 江夏豊 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 江夏豊 1973 高橋一三 1974 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 池谷公二郎 1978 斉藤明雄 1979 新浦寿夫 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 江川卓 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 遠藤一彦 1987 川口和久 1988 槙原寛己 1989 川口和久 1990 木田優夫 1991 川口和久 1992 仲田幸司 1993 今中慎二 1994 桑田真澄 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤隆 1997 山本昌 1998 石井一久 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 井川慶 2003 上原浩治 2004 井川慶 2005 門倉健, 三浦大輔 2006 川上憲伸, 井川慶 2007 内海哲也 2008 C.ルイス 2009 C.ルイス 2010 前田健太 2011 前田健太 2012 杉内俊哉, 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 R.メッセンジャー 2015 藤浪晋太郎 2016 菅野智之 2017 M.マイコラス 2018 菅野智之 2019 山口俊 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 戸郷翔征 2023 今永昇太 2024 戸郷翔征 表 話 編 歴 1950 真田重男 1951 別所毅彦 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 別所毅彦 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 権藤博 1962 村山実 1963 金田正一 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 堀内恒夫 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 新浦寿夫 1979 小林繁 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1984 山根和夫 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 小野和幸 1989 斎藤雅樹 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 山本昌 1998 佐々木主浩 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 藤井秀悟 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 高橋尚成 2008 S.グライシンガー 2009 D.ゴンザレス 2010 前田健太 2011 吉見一起 2012 内海哲也 2013 前田健太 2014 菅野智之 2015 前田健太 2016 野村祐輔 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 柳裕也 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 投 杉下茂 捕 広田順 一 西沢道夫 二 箱田弘志 三 宇野光雄 遊 広岡達朗 外 与那嶺要 / 渡辺博之 / 杉山悟 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 藤本英雄 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 大友工 1957 義原武敏 1958 藤田元司 1959 義原武敏 1960 鈴木隆 1961 中村稔 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 村山実 1965 金田正一 1966 城之内邦雄 1967 金田正一 1968 金田正一 1969 堀内恒夫 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 松本幸行 1975 外木場義郎 1976 堀内恒夫 1977 小林繁 1978 安田猛 1979 北別府学 1980 山根和夫 1981 江川卓 1982 小松辰雄 1983 江川卓 1984 山根和夫 1985 池田親興 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 小野和幸 1989 斎藤雅樹 1990 槙原寛己 1991 佐々岡真司 1992 岡林洋一 1993 荒木大輔 1994 桑田真澄 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 石井一久 1998 野村弘樹 1999 野口茂樹 2000 工藤公康 2001 石井一久 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 井川慶 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 上原浩治 2009 D.ゴンザレス 2010 吉見一起 2011 チェン 2012 内海哲也 2013 内海哲也 2014 R.メッセンジャー 2015 石川雅規 2016 K.ジョンソン 2017 井納翔一 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 奥川恭伸 2022 小川泰弘 2023 村上頌樹 2024 A.ジャクソン 表 話 編 歴 1936春夏 牧野潔 1936秋 加藤智男 1937春 森井茂 1937秋 森井茂 1938春 松尾幸造 1938秋 森井茂 1939 松尾幸造 1940 村松幸雄 1941 森井茂 1942 河村章 1943 松尾幸造 1944 森井茂 1946 森井茂 1947 松尾幸造 1948 服部受弘 1949 服部受弘 1950 清水秀雄 1951 近藤貞雄 1952 大島信雄 1953 杉下茂 1954 石川克彦 1955 石川克彦 1956 杉下茂 1957 伊奈努 1958 中山俊丈 1959 伊奈努 1960 伊奈努 1961 板東英二 1962 柿本実 1963 河村保彦 1964 河村保彦 1965 柿本実 1966 山中巽 1967 小川健太郎 1968 小川健太郎 1969 小川健太郎 1970 小川健太郎 1971 伊藤久敏 1972 水谷寿伸 1973 稲葉光雄 1974 星野仙一 1975 松本幸行 1976 星野仙一 1977 松本幸行 1978 星野仙一 1979 星野仙一 1980 藤沢公也 1981 三沢淳 1982 小松辰雄 1983 小松辰雄 1984 鈴木孝政 1985 小松辰雄 1986 郭源治 1987 杉本正 1988 小松辰雄 1989 小野和幸 1990 西本聖 1991 小松辰雄 1992 郭源治 1993 今中慎二 1994 今中慎二 1995 今中慎二 1996 今中慎二 1997 山本昌 1998 山本昌 1999 川上憲伸 2000 野口茂樹 2001 山本昌 2002 山本昌 2003 川上憲伸 2004 川崎憲次郎 2005 川上憲伸 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 川上憲伸 2009 浅尾拓也 2010 吉見一起 2011 M.ネルソン 2012 吉見一起 2013 吉見一起 2014 川上憲伸 2015 山井大介 2016 大野雄大 2017 大野雄大 2018 小笠原慎之介 2019 笠原祥太郎 2020 大野雄大 2021 福谷浩司 2022 大野雄大 2023 小笠原慎之介 2024 柳裕也 2025 高橋宏斗 ISNI VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の野球選手 明治大学野球部の選手 いすゞ自動車硬式野球部及びその前身チームの選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) 最優秀防御率 (NPB) 最多奪三振 (NPB) 最高勝率 (野球) 最優秀選手 (NPB) 沢村栄治賞 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督 阪神タイガース及びその前身球団の監督 読売ジャイアンツ関連人物 埼玉西武ライオンズ関連人物 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 太平洋戦争の人物 捕虜となった人物 私の履歴書の登場人物 東京都出身のスポーツ選手 東京都区部出身の人物 1925年生 2023年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2025/03/31 16:50更新
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sugishita shigeru
杉下茂と同じ誕生日9月17日生まれ、同じ東京出身の人


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