水原茂の情報(みずはらしげる) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
水原 茂さんについて調べます
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水原茂と関係のある人
西沢道夫: 1977年1月には水原茂と共に野球殿堂入りを果たし、同年には不自由な体を圧して中日の浜松キャンプを訪問したが、12月18日に心不全のため立川市の川野病院で死去。 張本勲: 1957年、2年の初夏に中島春雄の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時読売ジャイアンツ監督の水原茂に、高校を中退して左投手としての入団を勧誘される。 小淵泰輔: 水原茂監督と長嶋は猛抗議したが判定は覆らなかった。 山本八郎: 1961年監督が水原茂に交代すると、打撃を活かすという名目で一塁手となり、自己最高の打率.296(リーグ11位)、68打点、24盗塁を記録。 藤田元司: 1957年、大学時代の先輩である水原茂の誘いで読売ジャイアンツへ入団した。 久保田治: 1961年に監督に就任した水原茂が土橋正幸に次ぐ先発として起用し25勝、防御率2.16(いずれもリーグ3位)を記録した。 平山菊二: 結局連判状が表に出ることはなかったが、三原監督支持派は主将の平山のほかに助監督の千葉・川上などごく一部であったことから、三原脩は優勝しながら監督を更迭され、水原茂が新監督に就任した。 浜田義雄: 1958年に現役を引退、翌年より1969年まで岩本義行、水原茂、大下弘、松木謙治郎の代々の東映フライヤーズ監督の下でコーチを務めた。 遠山一: 花のメルヘン(オリジナル音源での冒頭の台詞は水原茂の孫が担当している / 1970年11月10日発売) 鶴岡一人: 1971年オフ、水原茂の中日ドラゴンズ監督退任を受けて、中日から非公式に監督を打診されたが断った。 伊達正男: しかし中学時代にマウンドに上った経験があり、高松商業の水原茂や和歌山中学の小川正太郎らと投げ合ったこともあった。 星野仙一: 1968年のプロ野球ドラフト会議にて水原茂が監督に就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け、入団。 広岡達朗: 若い頃に地方遠征中に雨で試合が中止になった時には、水原茂監督のサインの出し方、川上哲治のバッティング、別所毅彦のピッチングなど、注文に応じて見事に物まねをしてチームメイトを笑わせていた。 吉沢岳男: それだけに当時の中日の監督であった濃人渉との対立で1962年に近鉄に放出された事実を知った水原茂(当時、東映の監督)は「中日は何という事をしたのだ。 原辰徳: 2013年の第7戦から日本シリーズ9連敗となり、1959年の水原茂の8連敗を超える球団ワースト記録となった。 佐々木行: 花のメルヘン(オリジナル音源での冒頭の台詞は水原茂の孫が担当している / 1970年11月10日発売) 菱川章: 1970年には江藤慎一が水原茂監督との軋轢でチームを去り、長距離打者の育成が急務となった。 二出川延明: 水原茂の項目にあるとおり二出川自身は1958年の日本シリーズで結果的に巨人優勝の流れを止める判定を行っている。 衆樹資宏: 同季はシーズン最多タイとなる5本の三塁打(現在まで水原茂ら7人が記録)を放つ。 義原武敏: そこで、監督の水原茂は「試合中に下を向いたら罰金を取る!」と命令したが、皆どうしても下を向いてしまっていた。 藤本定義: そこへ現場代表として主将の水原茂も説得に加わったことでようやく藤本の態度も軟化し、1ヶ月後の10月末から再び指揮を執っている。 安藤順三: 同年の阪神との日本シリーズでは10月14日の第2戦(甲子園)まで先発マスクを被るが、同16日の第3戦(神宮)からは水原茂監督がデータ研究に長けていた安藤から種茂雅之に捕手を変える。 広岡達朗: 1960年11月19日、巨人は監督の水原茂が辞任し、川上が新監督に就任する。 宮武三郎: 慶大時代のチームメイトには水原茂、山下実、浜崎真二、加藤喜作、楠見幸信、井川喜代一らがいる。 岩本信一: その後は岩本や根本陸夫と共に球界で粋なソフト帽を斜めに被って街を歩いていた一人でもあった水原茂監督に乞われて中日に入団し、二軍コーチ(1969年 - 1972年)→寮長(1973年 - 1978年)を務めた。 西村正夫: 1961年、高松商の先輩・水原茂の誘いで東映フライヤーズのコーチに就任し、1962年のリーグ優勝と日本一に貢献。 江藤愼一: 1969年新たに監督に就任した水原茂に対し、選手を代表して叱責の厳しさに抗議したことで怒りに触れる。 岩本義行: このため巨人の監督水原茂が辞任、東映が水原を次期監督候補としているという情報が入り岩本は辞任、保井浩一に代理監督を任せるとシーズン終了待たずに辞任し。 与那嶺要: 与那嶺が1960年限りで巨人を退団し中日に移籍したのは、水原茂の後任として監督に就任した川上が、成績が急低下した与那嶺を戦力外と見なし、自身のチーム構想に組み入れなかったことが原因とされている。 堀本律雄: 新人の頃、登板前日に土砂降りの大雨だったことから試合中止と早合点して、長嶋茂雄を連れて成城にある石原裕次郎の邸宅を訪問して朝までどんちゃん騒ぎをして、水原茂監督に大目玉を食らった。 |
水原茂の情報まとめ
水原 茂(みずはら しげる)さんの誕生日は1909年1月19日です。香川出身の野球選手のようです。
引退、離婚、父親、再婚、事件、結婚、テレビ、卒業、映画、現在に関する情報もありますね。1982年に亡くなられているようです。
水原茂のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19日 - 1982年〈昭和57年〉3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、解説者・評論家。 1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(みずはら のぶしげ)」。 現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セ・パ両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。 幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。 香川・旧制高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)時代は、先輩・宮武三郎(のちの阪急初代主将)とともに甲子園に出場。投手・三塁手として名をはせる。甲子園では1925年夏と1927年夏の2回、全国優勝を達成した。水原と宮武はともに慶應義塾大学に進み、チームメートとして、また、先輩・後輩の関係が続いた。慶應時代は六大学野球のスター選手(三塁手、投手)として人気を博し、春秋通算で5度のリーグ優勝。しかし、「リンゴ事件」の他、麻雀賭博で検挙され、野球部を除名された。打者としてリーグ通算63試合出場、193打数48安打、打率.249、0本塁打、24打点。投手として通算30試合登板、13勝8敗。野球部は除名処分となったものの、水原はのちに慶應義塾大学の慶應スポーツ新聞会が発行している学生新聞「慶應スポーツ」の題字を担当している。 早稲田大学の三原脩とは、プロに進んで以降もライバルであり、ともに監督として日本シリーズを戦った。特に1956年から1958年にかけて、3年連続で水原率いる巨人と、三原率いる西鉄が日本シリーズで対戦、「巌流島の対決」と呼ばれた(詳細は後述)。1931年6月14日の早慶戦2回戦に登板した際には、三原に満場の度肝を抜くホームスチールを成功されている。 水原は、1931年と1934年の大リーグ選抜来日時には全日本チームのメンバーに選ばれた。1936年秋に巨人に入団すると、前川八郎に代わって三塁手のレギュラーとなる。以降、二番または三番の上位打線を打ち、1937年秋季リーグでは打率.290、31打点といずれもチーム2位を記録した。また、沢村栄治が応召で退団した1938年には秋季リーグで投手も務め、スタルヒンに次ぐ8勝(2敗)を挙げ、防御率1.76とリーグ2位に付けた。1939年からは主将を務め、1940年はベストナイン、1942年には応召によってシーズン途中の8月で途中離脱したにもかかわらず、人望があったということで最高殊勲選手に選ばれている。 戦争ではアジア大陸に渡り、シベリア抑留を経験。1949年7月20日に舞鶴港に帰国。4日後の10:30に東京駅に列車で到着したその足で後楽園球場に行き、そこで行われる巨人対大映戦(ダブルヘッダー)の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」の言と共に帰還をファンに報告する。水原は既に40歳になっていたが、ファンからの水原のプレーを見たいとの声を受けた読売本社からの要請を受けて、現役に復帰する。しかし、シベリア抑留中に極度の栄養失調に陥っていたこともあり、衰えは隠せず復帰したシーズンは公式戦には出場せず、二リーグ制となり、監督に就任した1950年は兼任監督となったが、わずか7試合の出場に留まった。 1949年シーズン終了後、巨人選手たちが三原監督に対する排斥騒動を起こし、その流れに押され12月31日に監督に就任することが発表された。1949年にチームを戦後初優勝に導いた三原は総監督に異動となる。これは三原の水原への扱いに対して不満を持っていた選手の大半がクーデターを起こして、事実上指揮権を奪ったというのが定説となっている。水原自身はこの謀議にはかかわっておらず、「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督就任に反対していたという。 選手兼任監督だった1950年は3位に終わるが、1951年から1953年までリーグ3連覇・日本一となり、巨人の「第二期黄金時代」を築く。選手には川上哲治、千葉茂、与那嶺要、広田順、別所毅彦ら名選手が揃っていた。しかし、1954年は杉下茂擁する中日ドラゴンズにペナントを奪われて2位となり優勝を逃している。 この間、水原の監督就任4年目にあたる1953年からユニホームに黒とオレンジのチームカラーを導入した(MLBのニューヨーク・ジャイアンツを参考にしたもの)。 再び独走でリーグ優勝を達成して臨んだ1955年の日本シリーズは南海と4度目の対戦になった。巨人は第1戦に勝利したが第2戦から3連敗を喫し、シリーズで初めて王手をかけられる。水原は第5戦に当たって、捕手を広田順から藤尾茂へ、二塁手を千葉茂から内藤博文へ、左翼手を樋笠一夫から加倉井実へと若手選手を抜擢する賭けに出ると、これらの選手が活躍して3連勝して逆転日本一を達成した。1955年オフに球団社長に就任した品川主計は水原とそりが合わず、品川は水原を「権威(正力松太郎)に甘える男」と思い込むと、水原は品川を「素人のくせに」と反発するなど、ことごとく二人は対立した。 翌1956年もリーグ優勝を達成すると、日本シリーズの対戦相手はライバルの三原脩率いる西鉄ライオンズとの対戦となり、これはマスコミから(三原の巨人退団の経緯を踏まえて)「巌流島の決戦」と喧伝される。シリーズ前の下馬評では巨人有利とされていたが、稲尾和久・中西太らの若い力に圧倒され、2勝4敗で敗れた。ここで、品川は若返りのための組織の一新としてチーム改革を主張し、投手コーチ・谷口五郎、二軍監督・藤本英雄、コーチ・内堀保の更迭、平井三郎と南村侑広の現役引退を打ち出す。水原は反対するが、藤本は投手コーチ、新田は二軍監督、内堀は二軍助監督とコーチ陣の異動が行われた。 1957年もリーグ優勝したものの日本シリーズでは続けて西鉄ライオンズに敗れる。2年連続で日本シリーズ敗退した上でに、対戦成績は1分4敗で1勝も挙げることなく敗れたため、読売内部から水原の手腕を問う声が高まる。品川は藤本英雄・谷口五郎の両コーチの解任と平井三郎・南村侑広の現役引退を決めるが、水原は藤本の解任に反対した。同年12月6日に水原は品川と会談するが、品川の気持ちが変わらないことを知って、「コーチが悪いのは監督にも責任がある。藤本をやめさせるなら、自分も身を引く。」と辞意を漏らす。巨人球団オーナー・正力松太郎は国家公安委員会委員長を務めており、水原を人事院ビルにあった国家公安委員長室に呼びつけた。正力は品川のコーチ解任人事について、水原に新任コーチの人選を認めることを条件に受け入れるよう命じ、水原はこれを聞いて監督の辞任を撤回する。だが、これを聞いた品川球団社長はその場にいたマスコミの前で「きみは虎の威を借る狐だ。ワシに謝れ」と水原をなじり、正力の仲裁で何とかその場を収めた。この修羅場は「人事院騒動」あるいは「謝れ事件」と報道された。結局、藤本・谷口両コーチは更迭され、水原は現役引退した中尾碩志・樋笠一夫を後任のコーチに据えた。 1958年の日本シリーズは三原の西鉄ライオンズと3度目の対決となった。第1戦から巨人は3連勝して王手をかけるが、明け方まで降り続いた雨のために第4戦は中止。しかし試合開始前に雨は上がっており試合に耐えるグラウンドコンディションだったという。九州各地からバスで観戦に向かうファンたちに配慮しての中止決定とする西鉄側を巨人と水原は執拗に抗議したが認められなかった。その第4戦を落としたものの第5戦は9回表を終わって1点のリード。しかしその裏西鉄の代打小淵泰輔の三塁線への打球を二出川延明塁審がフェアと判定したことに水原・三塁手長嶋茂雄がファウルだと抗議、結局判定は覆らずその後関口清治がセンターにタイムリーヒットを放って同点、延長10回に稲尾和久のサヨナラ本塁打(シリーズ史上初)で試合を落とした。さらに第6戦開始前に西鉄が先発メンバーの変更を申し出(当時は前日に先発メンバーを発表)、これを巡って両軍はもめ、井上登コミッショナーを挟んで悠然と座る三原と苦虫をかみつぶしたような表情の水原が対峙する写真が残っている。この騒ぎで試合開始が遅れ、調整に混乱させられた先発藤田元司が初回に中西太に決勝打となる先制2ランを浴びこの試合も敗れ、稲尾の4連投で4連勝を挙げた西鉄に史上初の3連敗4連勝を許してしまった。水原は辞意を表明するが、これに対して品川は「このまま引き下がってはきみの負けだ。こうなったら何としても西鉄を破るのが男ではないか」と引き止める。水原は品川の慰留の言葉を涙を流して聞いたという。 この年のオフ、投手の別所毅彦が契約更改で登板数の保障を求めたことに、「選手の起用は監督の専権事項」と強く批判。この対立はマスコミを賑わせたが、最終的に別所が誤りを認めて謝罪、水原もできるだけ別所の意向に沿うように努めることで決着した。ここまで通算294勝を挙げていた別所は、ヴィクトル・スタルヒンの持っていた通算勝利記録(303勝)の更新を目標としており、登板機会を増やしたいという意図があったとされる。 1959年もリーグ優勝を果たすが、今度は杉浦忠を擁する南海ホークスの前に4連敗を喫す。日本シリーズは1958年第4戦から翌1959年第4戦まで8連敗になり、巨人監督としては原辰徳(2020年)が9連敗で更新されるまではワースト記録だった。 そして、1960年には三原が同じセ・リーグの大洋監督に就任し、マスコミから巌流島の決戦再びと喧伝される。三原は巧みな選手起用で6年連続最下位だった大洋のチーム力を引き上げた。この年のセ・リーグは混戦であったが、9月中旬以降巨人と大洋が抜け出し激しい優勝争いを繰り広げ、最終的に巨人は大洋に屈してリーグ優勝を逃し2位となる。リーグ優勝が絶望となった10月、水原は試合終了後カメラマンから執拗に写真を取られたことに激怒して、そのカメラマンを殴りつけてフィルムを取り上げた。水原は5年連続で日本一を逃す結果となり、正力オーナーの水原に対する評価も下落。11月19日に「グラウンドの恥は、グラウンドでそそぐ」との名言を残して水原は巨人の監督を辞任した。 これは実質的な解任で、解任は同年シーズン終了後、当時の高橋球団社長から告げられた。同時に背広組として残留の要請をうけたが、給料は半額の10万円を提示され、水原は不服をあらわにした。社長は「君も10万円なりの暮らしをすることだな」と、にべもなかった。球団に残るなら功労金1千万円も保証されたが、水原が夫人に相談すると、夫人は「そんな屈辱はないじゃありませんか」と夫に断るように言った。水原は退団を選び、功労金は支払われなかった。 同年は投手陣の不調と駒不足もあり、新人の堀本律雄を69試合に登板させるなど酷使。堀本は29勝18敗の大活躍で最多勝・新人王を獲得したが、この投げすぎがたたって間もなく肩を壊し、わずか6年で引退した。堀本の引退時に水原は「君には、全く申し訳ないことをしてしまった。俺が君の寿命を縮めてしまったようなものだ。俺がもっと君の登板に配慮しておれば、君はもっともっと稼ぐ事ができたのに」と述べたと言う。堀本は「私はこの水原さんの一言に救われた」と語っている。当時の巨人の選手だった広岡達朗は、1人や2人の突出した選手に頼るのではなく、長いシーズンを見通した投手陣の整備と起用が必要だったと記している。 1960年12月8日に東映フライヤーズのオーナー大川博に「金は出すが、口は出さない」と口説かれて東映監督に就任。水原は着任とともに、ユニフォームを自らデザインして頭文字のFを飛翔する鳥を摸したデザインになっている胸ロゴなどスタイリッシュな物に変更させた。このユニフォームは色づかいが巨人と似ていた(帽子・アンダーシャツなどの色は巨人が黒・東映は焦げ茶)ことや、水原が巨人時代と同じく三塁コーチも兼任していたため、「巨人の水原じゃないか?」と錯覚したファンも少なくなかったようである。 それまで東映は当時万年Bクラスに甘んじていたが、1961年に水原は就任1年目で南海ホークスとシーズン終盤まで優勝争いを繰り広げ2位に上げた。前年9勝を挙げていたがショートリリーフが中心だった久保田治を土橋正幸が先発した次の日の登板させて25勝、お山の大将でわがまま放題で誰も触らなかった山本八郎に対して例外扱いせず、「プロ野球というはチームが勝たなきゃ何にもならんのだ。ホームラン王、首位打者を獲っても20勝してもチームがBクラスじゃ給料上がらん。いかに一致団結して邁進するか、いかにチームのために自分を殺すかだ。」と説教した。張本勲は「やっぱり全然違うなと思いましたね。」と回顧している。同年は9月初めに勢いが落ちた南海に代わりに首位に浮上し、一度は初優勝が目前に迫る。ところが、優勝争いに慣れない面々は守備でエラーを連発するなど誤算が続出し、最終的に息切れし南海の優勝を許した。83勝52敗5分けの貯金31は球団史上最高、張本が首位打者、土橋が30勝、久保田が25勝、西園寺昭夫はリーグ最多の97得点、毒島章一もリーグ最多の11三塁打と投打が噛み合ってきた。 1961年オフには大規模な補強を敢行。浪商2年生だった尾崎行雄を中退させて入団させると、早慶戦で活躍した安藤元博、立教大の青野修三、芝浦工大の岩下光一らも獲得。尾崎はエースとして活躍し、青野、岩下は二遊間を組んでレギュラーとなるなど、補強は成功。張本が打率333(リーグ4位)、31本塁打、99打点(共にリーグ2位)でMVP、久保田が防御率2.12で最優秀防御率、尾崎行雄が20勝を挙げて新人王と、それぞれタイトルを獲得し、チームはリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは藤本定義率いる阪神タイガースと対戦。第1戦と第2戦に連敗し、日本シリーズ10連敗となるが、第3戦に引き分けると、第4戦から4連勝して日本一を達成する。第1戦、第2戦で先発だった土橋は第3戦以降は救援に回って2勝を挙げて種茂雅之と共にMVPを獲得、第3戦からはデータ研究に長けていた安藤順三から種茂に捕手を変えると、種茂は思い切ったリードで投手の力を引き出し、打っても殊勲打を放った、第7戦では主砲張本を守備固めの選手と交代させるなど非情な采配でチームを引き締めた。以後1967年まで監督を務めて、常にAクラスを保った。張本は「私はいつも言うけど80年以上のプロ野球の歴史の中で、名将と言えるのは、三原脩さん、水原さん、鶴岡さん、川上哲治さん、この4人だと思うんですよ。優勝して、その後もっと戦力を上げたいじゃないですか。補強もしたい。そのためにはお金も使いたい。ムダなお金じゃないんだから。ところが球団が聞く耳を持たなかったから水原さんは去っていくわけです。東映に7年いらっしゃて、最後の2年ぐらいは我慢したそうなんですよ。」と回顧している。 1965年頃にオープン戦で韓国に遠征した際、あるゲームで大杉勝男が韓国のノンプロチームをひいきする地元審判の露骨なジャッジに腹を立てて悪態をついたのを見るや、水原は大杉を呼びつけるなりビンタを飛ばした。これを見た韓国の観客は水原の行動に心服し涙したという。 1965年に捕手のレギュラーに定着した白仁天を、水原は翌1966年に外野手に転向させる。1967年には新人の大下剛史をショートのレギュラーに抜擢し、大下自身も「オヤジ(水原監督)には感謝している」と語っていた。 毒島章一は「水原さんは勝負師というかな、勝つためにどうしたらいいか、ということがしっかりしてる。そういう人が来て初めて、チームワーク、勝つことに対する執念が出てきた感じでした。で、その上で細かい野球をやる。それまではわりかし自由で、大雑把な野球でね」と語っている。土橋正幸は「水原は血もない涙もない監督だった。でも、監督はそれぐらいじゃないとダメ、優勝できないね。私は結婚して、仲人、水原だったけど、シーズン中、水原と会話もなかったし、一度も褒められたことがない」と語っている。 1967年11月25日に大川オーナーから監督の解任を通告された。 1968年11月6日に監督に就任し、1969年から1971年まで中日の監督を務める(3年目1971年の62歳で開幕を迎えたシーズンでの監督在任は、2011年オフに高木守道が就任するまで球団史上最年長)。就任時には中京財界の要人を複数従え、そのことが球団内での立場を強くした。在任中には4位、5位、2位と優勝は果たせなかったものの、星野仙一、島谷金二、谷沢健一といった若手の選手育成に心血を注ぎ、自身をヘッドコーチとして支えた後継監督の与那嶺要による、巨人のV10を阻む1974年の優勝の土台を作った。その一方で1年目に江藤慎一をチームから放出している。 水原の下でプロとして開花した星野は、ルーキーイヤーのある日の巨人戦で打ち込まれ敗戦投手となることがあった。星野は首脳陣に「明日も投げさせてください。必ずリベンジしてみせます!」と直訴した。コーチたちは連投に難色を示したが、水原は「仙が投げたいといっているんだ、投げさせてやれ!」といって翌日の巨人戦でも先発した。連投の星野はかなりいいピッチングをしたが、打線の援護なくまたしても敗戦投手になってしまった。面目を失ったと思いダグアウトでうなだれている星野に、そっと手を差し出す人間がいて顔をあげると水原であった。水原は星野に「よくやった。いいか、プロの世界というのは、やられたらかならずやり返す。この精神を忘れるな。それがもてなくなったらプロとしては終わる。今日のことは決して忘れるな。よくやった」といった。星野は「水原さんのあのときの握手してもらったときの手のあたたかさは今でも昨日のことのようにおぼえています。プロの精神を自分は水原さんから教えてもらいました」と言っている。 また、水原は東映に続いて中日でもユニフォームのデザインを担当している。当時MLBでは鮮やかなユニフォームが全盛を迎えており、鮮やかな赤いユニフォームを纏い来日して日本のファンに衝撃を与えたセントルイス・カージナルスにあやかろうと思ったが、自身は1950年 - 1951年の巨人、球団も前年に赤いユニフォームで失敗しているためこれに代えて鮮やかなスカイブルーとを導入、赤は差し色として使用した。さらに胸ロゴの「Dragons」は1966年までのロゴに近いデザインながら、髭をoの下までだったのをロサンゼルス・ドジャースのように頭のDの下まで伸ばしたものに変更しており、この意匠はその後のユニフォームにも継承されることとなる。 1971年10月4日に公式戦終了とともに中日監督を辞任し、監督業からも引退することを表明しユニホーム生活に別れを告げた。水原の監督最終日の第一試合の相手はライバル・三原率いるヤクルトアトムズだった。この試合に水原中日は勝利し1971年の対ヤクルト戦成績を12勝12敗2分の五分とした。第二試合の大洋ホエールズ戦終了後、水原はナインから胴上げされた。 1968年、1972年以降は東京放送(TBSテレビ・TBSラジオ)専属野球解説者として活動した。1968年はスポーツニッポン野球評論家、1972年以降は日刊スポーツ野球評論家も務めた。1977年野球殿堂入り。 1982年2月に吐血して入院、同年3月26日、肝不全のため東京都新宿区の東京女子医科大学病院で死去、73歳没。1947年に腸チフスで現役中に急逝し背番号4が永久欠番となった黒沢俊夫に次ぐ、史上2人目の読売巨人軍の球団葬として行われた。墓所は横浜市鶴見總持寺。 三塁手として深い守備位置からの幅広い守備範囲を誇る一方、強い肩と手首を活かした正確で早い送球で、深く守っていても一塁で刺すことができた。また、三塁前に転がるゆるいゴロを前進して素手で掴むとそのままアンダースローで一塁へ投げ間一髪で打者走者を刺すプレーも得意とした。これは、高松商業時代に当時の慶応大学野球部の監督だった腰本寿の指導を受けたり、アメリカ遠征で当地の選手が三塁線のボテボテのゴロを素手で掴んだりするのを見て採り入れたとされる。 打撃は手首が強かったせいか、腰で打つというより手で打つ方だった。 日本に、アメリカメジャー仕込みのワンポイントリリーフ、ブロックサインを持ち込んだ最初の人といわれる。当時、大抵のチームの監督は三塁、あるいは一塁コーチャーズボックスで指揮を執っている事が多かったが、星野仙一は水原を特集した番組内で故人の思い出を語る中で「水原のオヤジだから、ああ言うブロックサインを送るポーズは絵になった」と語っている。因みに監督就任以来、背番号は「30」を背負っていた時期が長かったが、東映の監督時代最後の年は「81」、中日の監督時代最初の2年間は「68」に変更、中日の監督時代は三塁コーチは専属のコーチに一任し最後の年、「30」に再び背番号を戻し、最終試合で東映の監督時代以来、中日では初めて三塁コーチに立ったと言う。 浪華商業高等学校で監督を歴任した中島春雄とはシベリア抑留時代に捕虜収容所で一緒になった関係で、戦後、同校の強打者だった坂崎一彦を獲得。また、坂崎の後輩・張本勲を中退させて巨人にスカウトしようとしたエピソードがあるが、張本は兄の「プロにはいつでも入れるが、高校は卒業していた方が良い」と言う説得で高校を卒業後、東映入り、その後、水原の監督就任で同一チームに在籍する事になるが、その後、更に20年余りを経て、水原の評論家時代、交換トレードで巨人に移籍している。ちなみに、張本を放出した当時の日本ハム(東映の後身)の球団代表は三原だった。三原は当時のオーナー・大社義規と共に水原時代に入団した選手を中心とした主力選手 の放出に動いていた。加えて、張本の場合は自身も移籍を希望していたという事情もあった。 米飯を食べないことで有名で、地方遠征に行くと、朝食からビールに卵黄を二つ入れてシェークして飲む。昼はそばなどを軽く食べ、夜は酒の肴をあてにひたすら酒を飲んでいた。 慶応大学野球部時代に女優の田中絹代と恋愛関係にあり、当時のマスコミを賑わせた。田中が水原のファンで、田中からどうしても会いたいと電話があり、初めての逢い引きでは神宮外苑で待ち合わせたという。 妻は戦前の映画に出演していた女優の松井潤子である。1935年に結婚した。 各年度の太字はリーグ最高 最高殊勲選手(MVP):1回 (1942年) ベストナイン:1回 (1940年) 野球殿堂競技者表彰(1977年) 19 (1936年 - 1942年) 50 (1949年) 30 (1950年 - 1966年、1971年) 81 (1967年) 68 (1969年 - 1970年) 水原 茂 (みずはら しげる、1936年 - 1954年、1960年 - 1971年) 水原 円裕 (みずはら のぶしげ、1955年 - 1959年) 侍プロ野球(TBSテレビで放送しているプロ野球中継の現行タイトル) 水原茂プロ野球コーナー(TBSテレビ) TBSラジオエキサイトナイター(TBSラジオ) 水原茂の切り捨てごめん(TBSラジオ) ^ 三原は1947年に総監督という肩書でチームに復帰しているが、名目上の監督は1946年復帰から就任していた内野手の中島治康。しかし復帰年の途中から公式戦の指揮は三原が執っていた。 ^ 「殴りつけたのではなく、火のついた煙草を投げつけただけ」という記者の証言もある。なお、騒ぎに気付いてフィルムを取り上げたのは広岡達朗。 ^ 1967年オールスター戦から、フロントの主導でビジター用のみデザインの変更が行われた。 ^ 1967年から1968年途中まではドジャースと同様の書体で髭の長いのロゴを使用していた。 ^ 他に大杉勝男・白仁天・大下剛史等。 ^ 加藤三明. “三田評論”. 慶応義塾. 2015年9月13日閲覧。 ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』166頁 ^ 『巨人軍の男たち』32頁 ^ 『プロ野球トラブルの歴史』45頁 ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、54頁 ^ 『プロ野球トラブルの歴史』46頁 ^ 巨人・原監督 球団ワースト記録の日本シリーズ9連敗 -サンケイスポーツ ^ 広岡達朗著『巨人への遺言 プロ野球 生き残りの道』P54-55 ^ 1961年から67年東映フライヤーズ ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、10-11頁 ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説、38頁 ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 、ベースボール・マガジン社、39頁 ^ ベースボールマガジン、2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説、17頁 ^ 週刊ベースボール2019年11月4日号、張本勲の喝、連載29回、短期決戦の行方は監督の眼力と采配、言葉の力が左右する、98頁 ^ 異郷の捕手・白仁天、20年の波乱と流転。もっとも語り継がれる“事件”とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1962~81年】 - 週刊ベースボール ^ “一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!張本勲コラム「守備の要とも言うべき二遊間。華麗だった阪神の鎌田-吉田、東映の大下-大橋も絶妙だった」 - 週刊ベースボール ^ 『野球小僧 8月号 2012』白夜書房、p.175 ^ 『野球小僧 6月号 2012』白夜書房、p.193 ^ “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月23日閲覧。 ^ 『サムライ達のプロ野球』110頁 ^ ベースボール・マガジン社『プロ野球トレード史II』(1991年)。 ^ 『剛球唸る!』112頁 ^ 『巨人軍の男たち』33頁 青田昇『サムライ達のプロ野球』ぱる出版、1994年 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年 別所毅彦『剛球唸る! - 栄光と熱投の球譜 (野球殿堂シリーズ)』ベースボール・マガジン社、1989年 『ベースボールマガジン1973年春季号 プロ野球トラブルの歴史』ベースボール・マガジン社、1973年 上前淳一郎『巨人軍陰のベストナイン』角川文庫、1982年 香川県出身の人物一覧 慶應義塾大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 個人年度別成績 水原茂 - NPB.jp 日本野球機構 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 表 話 編 歴 池田豊 1936 桝嘉一 1937 根本行都 1938 - 1939 小西得郎 1939 - 1941 本田親喜 1941 - 1942 桝嘉一 1943 三宅大輔 1944 竹内愛一 1946 杉浦清 1946 - 1948 天知俊一 1949 - 1951 坪内道典 1952 - 1953 天知俊一 1954 野口明 1955 - 1956 天知俊一 1957 - 1958 杉下茂 1959 - 1960 濃人貴実 1961 - 1962 杉浦清 1963 - 1964 西沢道夫 1964 - 1967 杉下茂 1968 水原茂 1969 - 1971 与那嶺要 1972 - 1977 中利夫 1978 - 1980 近藤貞雄 1981 - 1983 山内一弘 1984 - 1986 星野仙一 1987 - 1991 高木守道 1992 - 1995 星野仙一 1996 - 2001 山田久志 2002 - 2003 落合博満 2004 - 2011 髙木守道 2012 - 2013 谷繁元信 2014 - 2016 森繁和 2017 - 2018 与田剛 2019 - 2021 立浪和義 2022 - 2024 井上一樹 2025 - 現在 表 話 編 歴 横沢三郎 1946 苅田久徳 1947 - 1948 井野川利春 1949 安藤忍 1950 - 1951 井野川利春 1952 - 1954 保井浩一 1955 岩本義行 1956 - 1960 水原茂 1961 - 1967 大下弘 1968 松木謙治郎 1969 - 1970 田宮謙次郎 1970 - 1973 土橋正幸 1973 中西太 1974 - 1975 大沢啓二 1976 - 1983 植村義信 1984 大沢啓二 1984 高田繁 1985 - 1988 近藤貞雄 1989 - 1991 土橋正幸 1992 大沢啓二 1993 - 1994 上田利治 1995 - 1999 大島康徳 2000 - 2002 トレイ・ヒルマン 2003 - 2007 梨田昌孝 2008 - 2011 栗山英樹 2012 - 2021 BIGBOSS・新庄剛志 2022 - 現在 表 話 編 歴 三宅大輔 1934 - 1935 浅沼誉夫 1935 - 1936 藤本定義 1936 - 1942 中島治康 1943 藤本英雄 1944, 1946 中島治康 1946 - 1947 三原修 1947 - 1949 水原茂(水原円裕) 1950 - 1960 川上哲治 1961 - 1974 長嶋茂雄 1975 - 1980 藤田元司 1981 - 1983 王貞治 1984 - 1988 藤田元司 1989 - 1992 長嶋茂雄 1993 - 2001 原辰徳 2002 - 2003 堀内恒夫 2004 - 2005 原辰徳 2006 - 2015 高橋由伸 2016 - 2018 原辰徳 2019 - 2023 阿部慎之助 2024 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1950 小西得郎 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 水原円裕 1957 水原円裕 1958 水原円裕 1959 水原円裕 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 藤本定義 1963 川上哲治 1964 藤本定義 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 与那嶺要 1975 古葉竹識 1976 長嶋茂雄 1977 長嶋茂雄 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 近藤貞雄 1983 藤田元司 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 阿南準郎 1987 王貞治 1988 星野仙一 1989 藤田元司 1990 藤田元司 1991 山本浩二 1992 野村克也 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 長嶋茂雄 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 星野仙一 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 星野仙一 2004 落合博満 2005 岡田彰布 2006 落合博満 2007 原辰徳 2008 原辰徳 2009 原辰徳 2010 落合博満 2011 落合博満 2012 原辰徳 2013 原辰徳 2014 原辰徳 2015 真中満 2016 緒方孝市 2017 緒方孝市 2018 緒方孝市 2019 原辰徳 2020 原辰徳 2021 高津臣吾 2022 髙津臣吾 2023 岡田彰布 2024 阿部慎之助 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 山本一人 1952 山本一人 1953 山本一人 1954 三原脩 1955 山本一人 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 西本幸雄 1961 鶴岡一人 1962 水原茂 1963 中西太 1964 鶴岡一人 1965 鶴岡一人 1966 鶴岡一人 1967 西本幸雄 1968 西本幸雄 1969 西本幸雄 1970 濃人渉 1971 西本幸雄 1972 西本幸雄 1973 野村克也 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 上田利治 1979 西本幸雄 1980 西本幸雄 1981 大沢啓二 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 上田利治 1985 広岡達朗 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 仰木彬 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 森祇晶 1994 森祇晶 1995 仰木彬 1996 仰木彬 1997 東尾修 1998 東尾修 1999 王貞治 2000 王貞治 2001 梨田昌孝 2002 伊原春樹 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 トレイ・ヒルマン 2008 渡辺久信 2009 梨田昌孝 2010 秋山幸二 2011 秋山幸二 2012 栗山英樹 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 辻発彦 2019 辻発彦 2020 工藤公康 2021 中嶋聡 2022 中嶋聡 2023 中嶋聡 2024 小久保裕紀 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 水原茂 1963 川上哲治 1964 鶴岡一人 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 仰木彬 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 王貞治 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 表 話 編 歴 1937春 沢村栄治 1937秋 ハリス 1938春 苅田久徳 1938秋 中島治康 1939 V.スタルヒン 1940 須田博 1941 川上哲治 1942 水原茂 1943 呉昌征 1944 若林忠志 1946 山本一人 1947 若林忠志 1948 山本一人 1949 藤村富美男 表 話 編 歴 投手:須田博 捕手:田中義雄 一塁手:川上哲治 二塁手:苅田久徳 三塁手:水原茂 遊撃手:上田藤夫 外野手:鬼頭数雄, 山田伝, 中島治康 投手:別所昭 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:杉浦清 外野手:大下弘, 坪内道則, 金田正泰 投手:別所昭, 中尾碩志, 真田重男 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:木塚忠助 外野手:青田昇, 別当薫, 坪内道則 投手:藤本英雄 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:木塚忠助 外野手:小鶴誠, 別当薫, 大下弘 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 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