山本八郎の情報(やまもとはちろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山本 八郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
山本八郎と関係のある人
水原茂: 前年9勝を挙げていたがショートリリーフが中心だった久保田治を土橋正幸が先発した次の日の登板させて25勝、お山の大将でわがまま放題で誰も触らなかった山本八郎に対して例外扱いせず、「プロ野球というはチームが勝たなきゃ何にもならんのだ。 岩本義行: 正捕手・山本八郎が故障すると自分でチェストプロテクター、レガースを付けてホームに座り、若い投手に大声をかけた。 広島尚保: 谷本以外のチームメートに山本八郎捕手、勝浦将元三塁手、坂崎一彦外野手がいる。 安藤順三: 卒業後の1954年に東映フライヤーズへ入団し、3年目の1956年からは山本八郎と併用される。 岩本信一: 1958年5月3日の東映-近鉄戦(駒沢)では一升瓶を持った酔客に襲われそうになったが、山本八郎が羽交い締めにして運び去ったことで難を逃れた。 高木公男: 1961年は山本八郎が一塁手に回ったこともあり出場機会が減少、同年限りで現役を引退。 畑隆幸: 翌1955年春の選抜は2回戦(初戦)で坂崎一彦・山本八郎らのいた浪華商に2-3と競り負ける。 飯田徳治: 同年のドラフトでは奥柿幸雄・加藤俊夫・武上四郎・浅野啓司を獲得し、新外国人選手としてデーブ・ロバーツ、トレードで西鉄ライオンズから城戸則文、近鉄バファローズから山本八郎をそれぞれ獲得した。 近藤健介: 日本ハムの高卒新人選手が捕手として公式戦に出場した事例は、前身の東映フライヤーズ時代の安藤順三(1954年)、山本八郎(1956年)に次いで史上3人目であった。 小野寺克男: しかし、前半は土井垣武・後半は山本八郎の陰に隠れ、控えでの出場が主だった。 成田文男: 初奪三振:同上、7回裏に山本八郎から 片岡宏雄: 1年後輩のチームメイトに坂崎一彦、山本八郎らがいる。 田辺義三: 今泉喜一郎とのバッテリーで決勝に進出するが、坂崎一彦・山本八郎・広島尚保らがいた浪華商に延長11回3-4でサヨナラ負け、準優勝に終わる。 グレン=ミケンズ: 完封を逃したミケンズは山本八郎に2ラン本塁打を打たれてしまった。 今津光男: 2年次の1955年に春の選抜で準決勝へ進出するが、山本八郎・坂崎一彦を擁する浪華商に0-1で敗退。 伊香輝男: 1963年には山本八郎の移籍入団に伴い、土井正博が左翼手に回ったため定位置を譲る。 北川公一: 3年目の1966年は開幕当初は代打での出場が主だったが、7月以降は山本八郎に代わり右翼の定位置を獲得し、78試合に先発出場。 鶴岡一人: 尾崎は、尾崎の母が鶴岡と同郷の呉の人で、初対面から「ユキ坊、ユキ坊」と呼んで、長屋の裏口から入れる親しい間柄となったが、尾崎自ら浪商の先輩、山本八郎や張本勲のいる東映に決めた。 岩本義行: 監督は1960年まで5年間務め毒島章一、土橋正幸、山本八郎などの主力選手を率いて、1958年には5選手をオールスターゲームに送り、1959年には同郷の高卒新人・張本勲を抜擢するなどで、チームを初めてAクラス入りさせた。 広瀬叔功: なお、同年5月10日の東映戦では、山本八郎の放った遊ゴロに対する広瀬の一塁への送球が右にそれたことが原因で(一塁手の足がベースから離れたようにも見えたが判定がアウトであったことに山本が激高)、山本が審判をビンタした上に蹴り倒し、無期限出場停止処分になるという騒動がおこっている。 緋本祥男: 開幕から一塁手として起用されるが、打撃面で低迷し山本八郎にポジションを奪われる。 毒島章一: 当時のチームは張本勲、土橋正幸、山本八郎、安藤順三、ジャック・ラドラ、大杉勝男、白仁天、大下剛史、尾崎行雄など荒くれ揃いの中、その温厚な性格と人柄により、永きに渡りフライヤーズの主将を務めた。 勝浦将元: チームメートに山本八郎・坂崎一彦がおり、同年8月には山本・坂崎らとともに全日本高校選抜チームとして初のハワイ遠征を果たす。 坂崎一彦: 自分の後ろを打っている山本八郎もよく打っていたからね。チームメートに谷本隆路、広島尚保の両投手、山本八郎、勝浦将元がおり、谷本以外はプロ入りしている。 |
山本八郎の情報まとめ
山本 八郎(やまもと はちろう)さんの誕生日は1937年9月17日です。大阪出身の野球選手のようです。
卒業、事件、引退、テレビに関する情報もありますね。山本八郎の現在の年齢は87歳のようです。
山本八郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山本 八郎(やまもと はちろう、 1937年9月17日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(捕手、内野手、外野手)・解説者。 浪華商業高等学校では、捕手、五番打者として1955年春夏の甲子園に出場。春の選抜では、谷本隆路、広島尚保両投手の好投もあって勝ち進む。決勝ではエース今泉喜一郎を擁する桐生高を延長11回サヨナラ勝ちで降し優勝を飾る。夏の選手権は、1回戦で新宮高の前岡勤也に抑えられ惜敗。他のチームメートに坂崎一彦・勝浦将元がいる。同年8月には坂崎・勝浦らとともに全日本高校選抜チームとして初のハワイ遠征を果たす。 高校卒業に際して、南海ホークスの勧誘を受けて仮契約を行うが、その後東映フライヤーズからの交渉に応じて契約。二重契約問題に晒されるが、南海が譲歩して山本の東映入りが決まった。1年目の1956年から安藤順三と併用され、70試合に先発マスクを被る。2年目の1957年は6月から四番打者に定着。一時は打撃成績トップにランキングされるほどの活躍を見せるが、8月22日の対大映戦でクロスプレーの際に右腕を骨折、残りのシーズンを棒に振った。 1958年は開幕から四番打者として起用される。5月3日の対近鉄バファローズ戦で岩本信一球審を襲おうとして一升瓶を持った酔客が現れたため、山本は羽交い締めにして運び去る。しかし、5月10日の南海戦(駒沢)で判定をめぐって角田隆良塁審を突き飛ばして退場となる。山本はいったん一塁ベンチに戻るが、再び角田の元へ駆け寄って殴り倒し足蹴にした。退場後にさらに激しい暴行を働いたため、山本は無期限出場停止処分となる。しかし、駒沢球場などで行われたファンからの署名活動により、6月23日に出場停止が解除された。これには、パ・リーグの他球団の選手も署名に参加したという。 1959年は岩本義行監督の提案で開幕から三塁手として起用される。しかし、5月30日の近鉄戦において一回裏一死一、三塁の場面で三塁走者として本塁へディレイドスチールを仕掛けた際、タイミングが明らかにアウトであったにもかかわらず、強引なスライディングで近鉄の加藤昌利捕手の左腕をスパイク。このスライディングに注意した加藤と口論となり、加藤の左肩上を殴打してベンチへ走り去った。これに対して、近鉄側は監督の千葉茂を先頭に「野球選手にあるまじき行為だ」と東映側に詰め寄る。東映監督の岩本義行は前回事件の二の舞になることを危惧して、自主的に山本の退場を申し出た。暴行事件を再発させたため、再び無期限出場停止処分を受ける。山本もさすがに絶望的になったらしく、大阪の実家に戻ると、母校の浪華商業の応援者に付き添われて永平寺に赴き精神修養を行った。9月1日に処分が解除され復帰すると、シーズン後半には右翼手に回った。 1960年には捕手に戻り、大きなトラブルもなく5年目にして初めて規定打席(打率.249、リーグ25位)に達する。1961年監督が水原茂に交代すると、打撃を活かすという名目で一塁手となり、自己最高の打率.296(リーグ11位)、68打点、24盗塁を記録。1962年のリーグ初優勝にも貢献したが、同年の阪神との日本シリーズでは前半3試合で6打数無安打に終わり、後半4試合は出番がなかった。 監督の水原茂との確執があり、1961年オフからトレードの噂が絶えなかったが、1962年オフに近鉄へ放出される。1963年は強肩を活かし中堅手として起用され、ブルーム・小玉明利とクリーンナップを組み、打率.280(11位)、22本塁打を記録。その後も中心打者として活躍し、1965年には15補殺を記録するなど守備でも貢献する。1966年はカール・ボレスの加入によって右翼手に回るが、出場機会が減少し、同年オフに自由契約となる。1967年はサンケイアトムズでプレーするが、出場機会に恵まれず、同年限りで現役を引退。 引退後の翌1968年は関西テレビ解説者を務めたが、居酒屋で客とトラブルになり、暴行事件で逮捕されたこともあり、一年で退く。その後はジュークボックスの販売会社勤務を経て八洲観光に入社。同社が経営する鴨川シーワールドでシャチの飼育係を務めた後、太平洋海事サービス(太平洋總業サービス)へ転職する。同社は山本の転職をきっかけに西武球場のグラウンド整備や清掃業務を受託し、スポーツ施設管理業へ進出している。退職後は大阪で実家の生花店を継ぎ、球界とは一線を引いた。高校時代のチームメートだった坂崎も「当時の全日本のメンバーの中には山本初め、消息のわからない選手もいる」と語っており、1999年に発刊された『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』の本人の紹介ページにも「引退後は消息不明」とされている。しかし、東映の同僚で浪商高の後輩でもある張本勲によれば、2021年4月時点でも存命であるとされている。 礼儀正しい言動と闘志あふれるプレーで、猛者揃いの東映フライヤーズの中でも目立った存在だった。「ケンカはち」「ケンカ八郎」のニックネームでファンが多かった。けんかっ早く、再度の暴力事件を起こして「暴力選手」のイメージが付いてしまったが、剽軽な言動でチームメイトからも愛された。 各年度の太字はリーグ最高 1000試合出場:1965年6月13日 ※史上95人目 オールスターゲーム出場:4回 (1957年、1963年 - 1965年) 8(1956年 - 1966年) 28(1967年) ^ カードの裏面に「内野陣強化のために、今シーズン捕手から三塁手になったが」とある。 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 『ベースボールマガジン2002年秋季号 日本プロ野球「事件史」』84頁 ^ 『ベースボールマガジン2002年秋季号 日本プロ野球「事件史」』21-22頁 ^ 「東映の山本また乱暴」朝日新聞1959年5月31日付 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』90頁 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』94頁 ^ “東映では四番・捕手を務めた名選手。血の気が多く、永平寺で精神修行まで行った山本八郎さんは忘れられない大先輩だ【張本勲の喝!!】”. 週刊ベースボール (2021年4月13日). 2021年4月18日閲覧。 ^ 『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』166頁 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年 『ベースボールマガジン2002年秋季号 日本プロ野球「事件史」』ベースボール・マガジン社、2002年 新宮正春『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』講談社〈講談社文庫〉、1999年 大阪府出身の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 個人年度別成績 山本八郎 - NPB.jp 日本野球機構 日本の野球選手 大阪体育大学浪商高等学校出身の野球選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 堺市出身の人物 1937年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/17 11:46更新
|
yamamoto hachirou
山本八郎と同じ誕生日9月17日生まれ、同じ大阪出身の人
TOPニュース
山本八郎と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「山本八郎」を素材として二次利用しています。