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岩本義行の情報 (いわもとよしゆき)
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【4月3日】今日誕生日の芸能人・有名人

岩本義行の情報(いわもとよしゆき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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岩本 義行さんについて調べます

■名前・氏名
岩本 義行
(読み:いわもと よしゆき)
■職業
野球選手
■岩本義行の誕生日・生年月日
1912年3月11日 (年齢2008年没)
子年(ねずみ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
広島出身

岩本義行と同じ1912年生まれの有名人・芸能人

岩本義行と同じ3月11日生まれの有名人・芸能人

岩本義行と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


岩本義行と関係のある人

河内卓司: 悪送球の多い選手で相手チームもそれに期待し、この第1回日本シリーズでの有名な岩本義行のミステリー走塁も岩本の出塁は河内の一塁への悪送球から。


濃人渉: ちなみに、プロ野球界で直接の被爆により被爆者健康手帳を持っている(持っていた)のは、張本勲と濃人のみとされている(直接被爆者自体は他にも、1954年に広島カープへ入団した原田高史がおり、原爆投下後に被爆地に入った「入市被爆者」では岩本義行が交付を受けている)。


児玉利一: 岩本義行、杉浦清、吉田正男、藤本英雄ら錚々たるメンバーと共に六大学史上初の4連覇に貢献。


片山博: 4番・岩本義行を三振に打ち取るも荒川昇治に犠飛を打たれて先制されたが、6回に松竹が追いつき、延長20回の大接戦となった。


平山菊二: 1951年に足の故障でわずか3試合の出場に終わると、安居玉一・岩本義行・青田昇らの移籍入団もあって出場機会が減り、チームが松竹ロビンスと合併して、大洋松竹ロビンスとなった1953年をもって引退した。


大岡虎雄: また腕っぷしも相当のものであったらしく、当時は松竹でもチームメイトであった岩本義行が、"岩本のあんちゃんはケンカが強い"と言われていたが、鈴木龍二は「岩本君より大岡君の方が強い」、大和球士は「大岡が一番じゃないかな、プロ野球三十年史上では」と話している。


大岡虎雄: 岩本義行・小鶴誠とのクリーンナップトリオで水爆打線と呼ばれた強力打線を形成し、34本の本塁打・109打点の好成績でチームのセ・リーグの初代チャンピオンに貢献した。


川崎徳次: 当時のNPBタイ記録(1951年に岩本義行が更新〔4本塁打〕)


濃人渉: 1935年、名古屋新聞社が野球会社設立の準備を始めると同年5月頃、岩本義行を介して岡田源三郎から誘われ、11月1日監督に決定した岡田に続き、契約第1号選手としてチーム創設に参加。


大島信雄: しかし、松竹のオーナーでもあった田村駒の業績悪化により、岩本義行・真田重男・江田貢一・荒川昇治・木村勉(いずれも大洋へ移籍)といった主力選手の放出が行われ、大島は名古屋ドラゴンズへ移籍した。


服部受弘: 3年目の1941年に8本塁打で単独の本塁打王に輝くが、この年は怪力で鳴らした神主打法の岩本義行(南海)が7本塁打、川上哲治(巨人)は4本塁打で、中日はチーム全体でも13本塁打であった。


灰山元治: また現在の「明治神宮野球大会」に似た「明治神宮体育大会」というのが毎年秋にあり、この年広商に勝てなかった岩本義行らのいた広陵中学が吉田を打ち込んで優勝している。


藤原鉄之助: 本塁へ突入してくる走者に、ボールを素手(右手)で握ってタッチしようとする癖があり、松竹ロビンスの岩本義行にスパイクで手を踏まれ、右手の甲に大けがをしたことがあった。


皆川睦男: 岩本信一は、当時兄の岩本義行が当地で鉱山を経営していて、その手伝いに来たところでたまたま審判を頼まれたものだった。


保井浩一: そのため、1965年に近鉄バファローズの監督に岩本義行が就任すると、保井もコーチとして移籍した。


中田翔: また守備面では外野手としてリーグトップの19補殺(球団タイ記録)を記録し、そのうち9が併殺であり、中日の原田督三、松竹の岩本義行の外野手シーズン併殺数のプロ野球記録を62年ぶりに更新した。


入谷正典: 同じ明治大学の出身で洋松ロビンスの主砲であった岩本義行が入谷を非常に苦手とし、鬼も逃げ出す弁慶のような岩本が、まるで青鉛筆のような入谷のスローカーブに全くタイミングが合わず翻弄されていた。


金山次郎: この年、三村勲との1・2番コンビ、小鶴誠・岩本義行・大岡虎雄のクリーンナップトリオで水爆打線と呼ばれた強力打線を形成し、セ・リーグの初代チャンピオンとなった。


山田哲人: トリプルスリー・100打点の同時達成は1950年の別当薫・岩本義行以来、65年ぶりであり、プロ野球史上3人目。


荒川昇治: 1951年オフに小西得郎が大洋ホエールズの監督に就任すると、岩本義行らとともに希望して大洋に移籍。


白石勝巳: なお、植良組の後任監督は広陵中の先輩・岩本義行が引き受けた。


日比野武: 尚、現在までに日本野球機構(NPB)に加盟した全21球団のうち、日比野は公式戦において選手として18球団と対戦しているが、これは岩本義行の20球団に次ぐNPB歴代2位の記録である。


グレッグ=ラロッカ: 9月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦(京セラドーム大阪)で清水直行からシーズン25個目の死球を受け、岩本義行の持つ日本記録を更新した瞬間は観客に向かって手を振り、マウンド上の清水にも一礼した。


岩本信一: 兄は元祖神主打法として知られる岩本義行


小鶴誠: 岩本義行・大岡虎雄・金山次郎らとともに「水爆打線」と呼ばれた強力打線を形成した。


古田敦也: 39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行と門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。


別当薫: なお、この年には盗塁も34個を数え、岩本義行(松竹)とともにプロ野球史上初の「3割・30本・30盗塁」(トリプルスリー)を記録している。


山本八郎: 1959年は岩本義行監督の提案で開幕から三塁手として起用される。東映監督の岩本義行は前回事件の二の舞になることを危惧して、自主的に山本の退場を申し出た。


杉下茂: 1956年から1960年まで東映フライヤーズの監督を務めた岩本義行が2008年9月26日に死去したことに伴い、1950年代にプロ野球の監督を務めた人物では最後の存命者であった。


若林忠志: 第6戦に2番手投手として登板した際、その試合で既に2本の本塁打を放っていた岩本義行を無死満塁から敬遠した。


岩本義行の情報まとめ

もしもしロボ

岩本 義行(いわもと よしゆき)さんの誕生日は1912年3月11日です。広島出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

卒業、解散、現在、引退、家族、兄弟に関する情報もありますね。2008年に亡くなられているようです。

岩本義行のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2008年9月26日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。

「元祖神主打法」「初代トリプルスリー」。

弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる。

旧制三次中学(現:三次高校)から、「その才能を伸ばしてあげたい」という校長の計らいで、二年時に旧制広陵中学(現:広陵高校)に転校。広陵野球部のスラッガーとして活躍し「山陽ベーブ」と異名を執り、敬遠のワンバウンドした球を本塁打にしたなどの逸話を残す。四国松山での強豪松山商業との練習試合は、四方を山に囲まれた道後球場で対戦。プレーを巡って乱闘試合になり、両チームの監督が揉み合うドサクサに紛れ、ベンチでカッカと燃えた岩本は、補欠なのに自分で代打を告げて山に猛打弾を叩きつけた。松山の古老は長くこの逸話を朝風呂でしていたといわれる。

最上級生となった1931年に第17回全国中等学校優勝野球大会に出場。「中学超弩級打者」と評されたが、準々決勝で吉田正男を擁する中京商業(現:中京大中京高校)に惜敗(中京商業はこの年から夏三連覇)。しかし同年秋の神宮野球大会では吉田を打ち込み、更に前年から夏春連覇中で、この年の夏はハワイ遠征で欠場した灰山元治、鶴岡一人らのいた同じ広島の広島商業を決勝で岩本の長打2本で下す。

1934年明治大学に進学。二年生で明大史上初の首位打者(打率.390)。また1シーズン3本塁打、1試合13塁打(本塁打2、三塁打・二塁打各1本)の記録を作った。当時の神宮球場は両翼104メートル強と広かった。戦前の六大学リーグ戦の代表的スラッガーと呼ばれる。リーグ通算77試合に出場し281打数86安打、打率.306、4本塁打、62打点。明大在学中に自ら考案して身に付けたといわれるバットを体の正面でゆったりと構える独特の打法は神主打法と呼ばれた。この打法はバックスイングをほとんど取らず、腕力だけで叩く打法であった。当然、並外れた腕力が必要だが、目線がぶれず、球を捉えやすいという利点があった。加えて、投手に立ち向かう闘志こそその打撃の神髄であった。ヘルメットのまだ無い時代、危ない球から逃げろと忠告されても「逃げて打てるか」と打席のベース寄りに立った。岡本伊三美は「岩本さんは3打席連続で死球を受けたことがあって、1回目は黙って歩き、2回目は『うっ』とうめいて一塁へ。3回目でやっと『痛い』と言ったそうです」と話していた。数々の記録は、その闘志がもたらした勲章であった。法政の若林忠志は「岩本には打法を超える力がある」と述べ、マスコミは「理論を超えた打法」「打法を超越した打撃」と騒ぎ立てた。

1934年、大学卒業後は野球部のない大同電力に就職。1936年発足の職業野球全球団による大争奪戦となったが、「もう野球はあきたけんのう」と断って参加せず。しかし、野球からは離れず1937年、六大学出身のスター選手を揃えたクラブチーム日本一の強豪・東京倶楽部に所属、3番ないし4番を打って第11回都市対抗野球大会で準優勝に貢献した。東京倶楽部は翌1938年シーズン前に解散。東京倶楽部在籍は1年のみで、この年発足した南海軍の創設に参加した。初代監督・高須一雄に"いの一番"に誘われた。岩本以外は全員無名選手だった。一度はプロ野球を断ったが、始まったリーグ戦を上井草球場で見て気が変わったという。高須には岩本が広陵中学時代の上海遠征で、新聞記者として引率して貰ったという恩があった。南海軍、初代背番号1。

初代主将で教育係でもあったが、初戦のオープン戦途中に赤紙の令状を受け、それをポケットに押し込むと 「打て!、打て!」とナインを叱咤し、2年間兵役に服し青島に就く。そのため試合出場はなく、復員した1940年から戦時下の1942年まで南海でプレー。1941年の太平洋戦争開戦直前に行われた職業野球東西対抗戦(現在のオールスターゲーム)でも西軍の四番を打った。この試合に出場した選手の大半はこの後戦地に送られ、吉原正喜、鬼頭数雄、村松幸雄らは帰って来ることはなかった。

1942年には打撃三部門(打率・本塁打・打点)で全て2位。同年7月11日の後楽園球場での対名古屋軍戦で、1試合3本塁打のプロ野球新記録を達成。戦前に記録した唯一人の選手である。1938年の綿製品禁止令以降、粗悪となった用具が更に進んだ年の記録で、本塁打王・古川清蔵が105試合で8本、南海のチーム本塁打が11本という年の1試合3本塁打であった。再び召集され、同年限りで退団。

戦争末期は郷里の三次市に引き上げていた。その頃、呉海軍工廠に勤める知人から「砂糖をやるから取りに来い」という話があり、1945年8月6日に一番列車で行く予定でいたところ、体がだるくて三番列車になり、広島に向かう途中で原爆投下を知らされた。いったん三次に戻ったのち、在郷軍人を集めた広島の救援活動に従事した。このため、「入市被爆者」として被爆者健康手帳の交付を受けている。

戦後はアマチュアの全広島でプレー後、1947年からは広陵の後輩・白石勝巳が創部して監督を務めていた植良組(別府市)に、白石の巨人復帰による後任を頼まれ選手兼任監督として在籍。チームはその後解散。親戚縁者から20万円をかき集め、退職金として選手たちに分け与えた。1949年、この借金の精算のため、石本秀一の要請で大陽ロビンスに37歳で7年ぶりにプロ球界に復帰したが、高齢のため契約金は無かった。

翌1950年に小西得郎が松竹の監督就任要請を固辞したため、チームは監督不在のままキャンプに突入。主将となった岩本は大量補強したチームをまとめるため、キャンプ地・倉敷からオート三輪で東京まで駆けつけ明治の大先輩・小西を説得、小西はイヤイヤながらも要請を受諾した。自身も二リーグとなった同年、3月11日の開幕第2戦(下関市営球場対中日)でセ・リーグ第一号本塁打をバースデー・アーチも兼ねて満塁で放つと、この年3番小鶴誠、5番大岡虎雄とクリーンアップを組み、水爆打線と呼ばれた強力打線を構成し、シーズン127打点に加え、史上初のトリプルスリー(打率.319 39本塁打 34盗塁)を達成してリーグ優勝に大きく貢献した。トリプルスリーの最年長記録など、この年の松竹の打撃記録は多くがプロ野球記録やセ・リーグ記録である。

毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでも3本塁打を打ち、第6試合では4点リードされて無死満塁では毎日から同点本塁打を警戒されて敬遠された(投手は若林忠志)。岩本自身が「ノーアウト満塁で敬遠なんて、自分の長い野球生活でも後にも先にもない」と驚く作戦だった。シリーズは、初戦岩本の無謀な三盗などで毎日に敗れた。このプレーは岩本の“ミステリー走塁”と言われている。岩本は俊足ではないのに、出塁すると、じっとしていられず次の塁に突進したと伝えられる。

1951年8月1日の対大阪タイガース戦(長野上田球場)では、自らの記録を塗り替える史上初の1試合4本塁打を記録。二塁打も放ち1試合18塁打のプロ野球記録を達成。この二塁打も左翼フェンス上部を直撃した。プロ野球は1949-1950年はボールがよく飛び、この年1951年はボールが飛ばなくなった年での記録であった。

31本塁打(本塁打王、青田昇と1本差)、打点87、打率2位.351(首位打者、川上哲治.377)、長打率1位、盗塁は10。この年4月22日の国鉄戦から6月6日の巨人戦まで27試合連続ヒットを記録。この記録は1976年に張本勲に抜かれるまでセ・リーグ記録だった。前年とこの年に、二年連続で外野手シーズン最多補殺8という、セ・リーグ記録も残している。

1951年オフに小西得郎が大洋ホエールズの監督に就任すると、荒川昇治らとともに希望して大洋に移籍。1953年に松竹ロビンスとの合併で、松竹が小西監督の続投に難色を示し監督就任を要請されたが、小西の顔を立てて辞退し小西監督の続投となった。この年はシーズン24死球を記録した(現在もセリーグ記録で、日本記録は2007年にグレッグ・ラロッカが更新した28死球)。岩本は頭部に死球を受けても平然と一塁に歩き、これにはぶつけた投手の方が青くなったという伝説がある。張本勲の話ではヒビの入った頭蓋骨のレントゲン写真を見せてもらった事があるという。また"岩本のあんちゃんはケンカが強い"と雷鳴が鳴り響いていたといわれる。ただ鈴木龍二は「岩本君より大岡君の方が強い」。大和球士は「大岡が一番じゃないかな、プロ野球三十年史上では」と話している。1953年4月29日、41歳2ヵ月のとき、広島カープの18歳6ヶ月の川本徳三からホームランを放つ。これが40代の選手が18歳投手から本塁打を打った初めてのケースで、次の事例は55年後の2008年5月28日に広陵の後輩・金本知憲(阪神)が、ロッテ・唐川侑己18歳10ヶ月となる。岩本は引退までにさらに5人の10代投手から本塁打を打った。

1954年に一旦は引退し、一家で仙台の奥の北上川の畔に粗末な山家を構える。朝の5時から鉱山で鉱石を砕く仕事に従事し、仕事が終わると山に入りバットで樹の枝を叩き折っていたという。アマチュア・水沢駒形野球倶楽部に所属したのは、仲良しの小西得郎が、あまりに悲惨な岩本一家の暮らしを心配し、仙台の野球人や新聞社に繋がりをつけたためである。同年第25回都市対抗野球大会と翌1955年の第26回都市対抗野球大会に富士製鐵釜石の補強選手として出場し健在ぶりを発揮。全試合4番を打ち第25回大会では準決勝進出に貢献する。

1956年に強化三ヵ年計画を打ち出した東映フライヤーズの選手兼任監督として三度目のプロ野球復帰。明治生まれで最後の現役選手でもあった。1956年4月19日の大映戦(駒澤野球場)で最年長サヨナラ本塁打(44歳1ヵ月)、10月4日の西鉄戦(駒澤)では最年長サヨナラ安打(44歳6ヵ月)をマーク。1957年8月18日の阪急戦で五番レフトとして先発出場し、45歳5ヶ月で本塁打を打ち、史上最年長記録となった(駒澤、投手・種田弘)。同年限りで現役を引退。監督は1960年まで5年間務め毒島章一、土橋正幸、山本八郎などの主力選手を率いて、1958年には5選手をオールスターゲームに送り、1959年には同郷の高卒新人・張本勲を抜擢するなどで、チームを初めてAクラス入りさせた。

正捕手・山本八郎が故障すると自分でチェストプロテクター、レガースを付けてホームに座り、若い投手に大声をかけた。45歳までキャッチャーをやったといわれる。ユニフォームを脱げば若い選手とコップ酒を飲み"アンちゃん"の愛称で慕われたという。優勝を期待された翌1960年は5位に終わる。試合に負けると野球シロウトのオーナー・大川博から夜の10時ころ家に電話があり、何故投手を代えなかったとか何故代えたのかとか、何故スクイズをしなかったのか等々、結果論を追及されて、家族一同不愉快な思いをしたという。このため巨人の監督水原茂が辞任、東映が水原を次期監督候補としているという情報が入り岩本は辞任、保井浩一に代理監督を任せるとシーズン終了待たずに辞任し。監督を辞める際には家族全員賛成した。翌1961年は東映のコーチを務めた。

その後は近鉄のコーチ(1962年 - 1964年)を経て別当薫の後任として1965年から1966年の2年間近鉄の監督を務めた。2年連続最下位であったが鈴木啓示らを育てた。1981年に競技者表彰で野球殿堂入り。

試合で活躍した選手にスポンサーなどから贈呈される記念品・副賞の類はお世話になっている人・ファンに上げてしまい、一度も家へ持って帰ったことはないという。

晩年は郷里の三次で余生を送った。長寿で知られグラウンドに自転車で出かけては子供たちに野球を教えたり、地元TVに出演して神主打法を披露したりしていた。武骨・恬淡な人柄で、ほとんど自慢話をすることはなかったという。

2005年に特養ホームに入所。2008年9月26日に急性心不全のため死去。96歳没。

各年度の太字はリーグ最高

大陽(大陽ロビンス)は、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更

大洋(大洋ホエールズ)は、1953年に洋松(大洋松竹ロビンス)に球団名を変更

1956年は8チーム制、1957年は7チーム制、1958年以降は6チーム制。

1960年は7月10日まで指揮。残り試合は保井浩一が代行。(57試合23勝32敗2分)

通算記録は監督代行としての指揮も含む。(1942年に南海軍の監督代行)

ベストナイン:2回 (外野手部門:1950年、1951年)

野球殿堂競技者表彰(1981年)

1試合4本塁打(1951年8月1日、対大阪戦) ※日本プロ野球記録

1試合18塁打(1951年8月1日、対大阪戦) ※日本プロ野球記録

シーズン24死球(1952年) ※セ・リーグ記録

27試合連続安打(1951年4月22日 - 6月6日)

最年長本塁打:45歳5ヶ月(1957年8月18日、対阪急戦) ※日本プロ野球記録

最年長サヨナラ本塁打記録:44歳1ヶ月(1956年4月19日、対大映戦) ※NPB記録、40代でNPB史上初のサヨナラ本塁打

オールスターゲーム出場:3回 (1951年 - 1953年)

現役選手として20球団と対戦 ※日本プロ野球記録

1 (1938年、1940年 - 1942年)

3 (1949年 - 1951年)

2 (1952年 - 1953年)

30 (1956年 - 1960年)

40 (1961年)

50 (1962年 - 1966年)

^ 1936年秋の東大2回戦

^ 「プロ野球界で被爆者健康手帳の交付者は張本勲と濃人渉の2人だけ」という記述が見られるが、これは正確には「直接被爆者としての交付者」である。また、プロ野球界の直接被爆者はほかに原田高史がいる。

^ 98勝〔137試合制〕勝率.737、908得点、825打点、223盗塁(9月28日の1試合10盗塁を含む)、2231塁打、二桁得点29試合は現在もセ・リーグ記録。1417安打、15試合連続二桁安打などは現在もプロ野球記録。

^ 阪神投手陣にとっては正に厄日。一回表の本塁打は阪神干場一夫、三回表は内野フライ。五回表は内山清から、六回表は藤村隆男から、八回表は御園生崇男から本塁打を放つ。新記録がなるかでネット裏はカタズを飲んで見守ったが、岩本自身は他人の記録の更新ではなく、自身の記録の更新がなるかのため、特に緊張はしなかったという。御園生は「マウンドに立つのが本当に厭だったね。なにしろ岩本は身体中から妖気を発散していたからね」と話した。岩本は「三本目のホームランのときゃ、球がソフトボールの大きさに見えたし、四本目のときゃ、バレーボールの大きさに見えてのう。じゃけえ、わしゃマッシンを叩けたで」と吹いた。

^ 青田残り1試合で同数だったが最終戦で青田が1本打つ。岩本は残り6試合で0本に終わった。

^ この対談でもう一人名前が挙がっているのは森徹。

^ “選手データ 岩本義行”. 週刊ベースボールONLINE. ベースボール・マガジン社. 2023年12月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月31日閲覧。“プロ野球20世紀の男たち 坪内道則、岩本義行、金山次郎、小鶴誠&佐々木信也「歴史に消えたチームの主軸」/プロ野球20世紀の男たち”. 週刊ベースボールONLINE. ベースボール・マガジン社 (2019年9月29日). 2023年12月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月31日閲覧。

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^ 橋野薫(大阪本社運動部) (2009年10月5日). “〈地域・県北〉野球 ブランド輝け 第3部スポーツの里(4) 『先輩の姿子どもに夢』”. 中国新聞広島版 (中国新聞社): p. 20 

^ 越智正典 (2009年7月4日). “《ネット裏》昔、プロ野球に岩本義行という"豪傑神主"がいた”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社): p. 3 

^ 「殿堂入りの人々を語る(31) 父の思い出 岩本一彦(岩本義行氏長男)」『野球殿堂博物館 Newsletter』第21巻第2号、野球殿堂博物館、2021年3月13日、3頁、 オリジナルの2021年10月3日時点におけるアーカイブ。 

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^ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P121、145。

^ 小西得郎『したいざんまい』 実業之日本社、1957年、P142、143、273-276

^ セ・リーグ初代覇者の名は日本初のネーミングライツビジネスだった! 消えた球団シリーズ第2弾! 『消えた球団 松竹ロビンス1936~1952 ネーミングライツの先駆け!個性派球団興亡史』

^ 落合初春 (2018年5月31日). “所沢の山賊超え!? 水爆にダイナマイト! 西武打線とプロ野球の歴代最強打線を比較してみた・前編”. 野球太郎. https://yakyutaro.jp/r.php?hash=hbVoj 2022年9月26日閲覧。 

^ 青木スラッガー (2018年6月28日). “37歳糸井「金本曲線」で悲願のトリプルスリー達成なるか”. SPAIA. https://spaia.jp/column/baseball/npb/6423/ 2022年9月26日閲覧。 

^ 別冊宝島1493号「プロ野球&メジャーリーグ大記録のウラ側」2008年8月11日、宝島社

^ #日本野球史6、235-240頁

^ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P122。

^ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P194

^ 『球団消滅―幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』290頁

^ 関三穂『プロ野球史再発掘(5)』、P102 - 103。

^ サンデーモーニング、2007年9月23日放送。

^ 『プロ野球史再発掘(5)』、P105 - 107

^ 片山善弘 (2008年5月29日). “まさかの逆転負けもやっと出た!! 金本甲子園1号弾 55年ぶり!!40代が18歳唐川撃ち!! 猛虎データセンター”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 3 

^ “年長記録” (PDF). 日本野球機構. 2014年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月26日閲覧。

^ 浜田昭八 (2010年10月9日). “張本勲、日本球界唯一の3000本安打達成の"暴れん坊"”. 日本経済新聞. https://www.nikkei.com/article/DGXZZO15765500U0A001C1000000/ 2022年9月26日閲覧。 

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^ プロ野球12球団「監督」ウラ事情、宝島社、2014年、P109

^ “1試合4本塁打の「神主打法」岩本氏が死去”. スポーツニッポン. (2008年9月27日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/09/27/kiji/K20080927Z00002010.html 2022年9月26日閲覧。 

^ “セ1号放った「神主打法」岩本義行氏死去”. 日刊スポーツ. (2008年9月27日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20080927-413097.html 2022年9月26日閲覧。 

^ 週刊ベースボール2012年7月13日号107ページ

大和球士『真説 日本野球史〈昭和篇その六〉』ベースボール・マガジン社、1980年。 

プロ野球を変えた男たち、鈴木明、新潮社、1983年8月

都市対抗野球大会60年史、日本野球連盟 毎日新聞社、1990年1月

東映社長 大川博 真剣勝負に生きる、ダイヤモンド社、1967年3月

プロ野球人国記 中国編、ベースボール・マガジン社、2004年4月

定本・プロ野球40年、報知新聞社、1976年12月

近鉄バファローズの時代、大阪バファローズ研究会、イースト・プレス、2004年12月

中野晴行『球団消滅―幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2004年

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個人年度別成績 岩本義行 - NPB.jp 日本野球機構

殿堂入りリスト 岩本義行 - 公益財団法人野球殿堂博物館

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治, 鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一, 二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義, 藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂, 西沢道夫

78 松木謙治郎, 浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘, 小鶴誠

81 飯田徳治, 岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂, 白石勝巳, 荒巻淳

88 長嶋茂雄, 別当薫, 西本幸雄, 金田正一

89 島秀之助, 野村克也, 野口二郎

90 真田重蔵, 張本勲

91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎

92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男

93 稲尾和久, 村山実

94 王貞治, 与那嶺要

95 杉浦忠, 石井藤吉郎

96 藤田元司, 衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫, 小山正明

02 山内一弘, 鈴木啓示, 福本豊, 田宮謙次郎

03 上田利治, 関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治, 森祇晶

06 門田博光, 高木守道, 山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二, 堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学, 津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄, 秋山幸二, 佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹, 工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜, 金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾, 山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信, 黒田博樹

25 イチロー, 岩瀬仁紀

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一, 平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

25 掛布雅之

59 正力松太郎, 平岡凞, 青井鉞男, 安部磯雄, 橋戸信, 押川清, 久慈次郎, 沢村栄治, 小野三千麿

60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登, 宮武三郎, 景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三

69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧

70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚

71 小西得郎, 水野利八

72 中野武二, 太田茂

73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄, 西村幸生

78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎

79 平沼亮三, 谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫, 小川正太郎

82 鈴木龍二, 外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄, 山内以九士

86 中河美芳, 松方正雄

87 藤田信男, 山下実

88 横沢三郎, 芥田武夫, 永田雅一

89 池田恒雄, 伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征, 村上實

96 牧野直隆, 保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志, 井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟, 長谷川良平

02 中澤不二雄, 生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守, 豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規, 君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎, 大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男, 村山龍平

16 松本瀧藏, 山中正竹

17 郷司裕, 鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉, 石井連藏

21 川島勝司, 佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

25 富澤宏哉

02 フランク・オドール, 正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン, 鈴鹿栄

横沢三郎 1946

苅田久徳 1947 - 1948

井野川利春 1949

安藤忍 1950 - 1951

井野川利春 1952 - 1954

保井浩一 1955

岩本義行 1956 - 1960

水原茂 1961 - 1967

大下弘 1968

松木謙治郎 1969 - 1970

田宮謙次郎 1970 - 1973

土橋正幸 1973

中西太 1974 - 1975

大沢啓二 1976 - 1983

植村義信 1984

大沢啓二 1984

高田繁 1985 - 1988

近藤貞雄 1989 - 1991

土橋正幸 1992

大沢啓二 1993 - 1994

上田利治 1995 - 1999

大島康徳 2000 - 2002

トレイ・ヒルマン 2003 - 2007

梨田昌孝 2008 - 2011

栗山英樹 2012 - 2021

BIGBOSS・新庄剛志 2022 - 現在

藤田省三 1950 - 1952

芥田武夫 1952 - 1957

加藤久幸 1958

千葉茂 1959 - 1961

別当薫 1962 - 1964

岩本義行 1965 - 1966

小玉明利 1967

三原脩 1968 - 1970

岩本堯 1971 - 1973

西本幸雄 1974 - 1981

関口清治 1982 - 1983

岡本伊三美 1984 - 1987

仰木彬 1988 - 1992

鈴木啓示 1993 - 1995

佐々木恭介 1996 - 1999

梨田昌孝 2000 - 2004

 投  真田重男

 捕  荒川昇治

 一  西沢道夫

 二  千葉茂

 三  藤村富美男

 遊  白石勝巳

 外  小鶴誠 / 青田昇 / 岩本義行

 投  別所毅彦

 捕  野口明

 一  川上哲治

 二  千葉茂

 三  藤村富美男

 遊  平井三郎

 外  金田正泰 / 青田昇 / 岩本義行

1950 岩本義行, 別当薫

1953 中西太

1983 簑田浩二

1989 秋山幸二

1995 野村謙二郎

2000 金本知憲

2002 松井稼頭央

2015 山田哲人, 柳田悠岐

2016 山田哲人

2018 山田哲人

日本の野球選手

明治大学野球部の選手

東京倶楽部の選手

福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手

植良組硬式野球部の選手

松竹ロビンス及びその前身球団の選手

横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手

北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手

NPBオールスターゲーム選出選手

水沢駒形野球倶楽部の選手

日本の野球監督

福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の監督

北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の監督

大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の監督

日本の野球殿堂表彰者

大同電力の人物

広島原爆の被爆者

広陵高等学校出身の野球選手

広島県出身のスポーツ選手

1912年生

2008年没

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プロジェクト人物伝項目

ウィキデータにある日本野球機構選手識別子

2025/03/30 08:28更新

iwamoto yoshiyuki


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