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古田敦也の情報 (ふるたあつや)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

古田敦也の情報(ふるたあつや) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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古田 敦也さんについて調べます

■名前・氏名
古田 敦也
(読み:ふるた あつや)
■職業
野球選手
■古田敦也の誕生日・生年月日
1965年8月6日 (年齢58歳)
巳年(へび年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
兵庫出身

(昭和40年)1965年生まれの人の年齢早見表

古田敦也と同じ1965年生まれの有名人・芸能人

古田敦也と同じ8月6日生まれの有名人・芸能人

古田敦也と同じ出身地兵庫県生まれの有名人・芸能人


古田敦也と関係のある人

内山壮真: 憧れの選手はヤクルトOBの古田敦也である。


片岡宏雄: スカウト時代には若松勉、尾花高夫、伊東昭光、イケトラコンビ(池山隆寛・広沢克己)、古田敦也、高津臣吾などをスカウトした。


羽生田忠克: 「フルタの方程式」内で古田敦也から遠投について質問され、「小学5年生の時にソフトボールの遠投で70mを記録した」「硬式球だとバックスクリーンを超えるので試していない」と回答した。


村上宗隆: 4年目での年俸1億円到達は古田敦也、青木宣親、小川泰弘に並ぶ球団最速タイ記録であり、球団最年少記録。


入来智: さらにそれまで力一辺倒の投球だったが、ヤクルト時代バッテリーを組んだ古田敦也からスローカーブ等を交えた緩急の投球を教わったことで、ヤクルト移籍初年度の活躍に繋がり、「僕にとってまさに運命の人」と発言していた。


米野智人: 2006年は前年まで正捕手であった古田敦也が選手兼任監督に就任したため、自己最多の116試合に出場した。


松坂大輔: 古田敦也(ヤクルトスワローズ)とバッテリーを組み、その試合でサヨナラ安打を記録した高校の5年先輩の平馬淳(東芝)からも叱咤激励され続け1失点完投勝利を挙げて日本のオリンピック出場に大きく貢献した。


松井稼頭央: 4盗塁は12球団No.1の盗塁阻止率を誇る古田敦也から決めた。


谷繁元信: 捕手転向の時期については、2021年5月に古田敦也の公式YouTubeチャンネルで「1年の夏」とも答えている。


渡邉恒雄: 7月8日、2リーグ12球団の維持を主張していた当時日本プロ野球選手会会長の古田敦也(ヤクルトスワローズ)による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事言うな。


加藤伸一: いわゆる昭和40年生まれの選手で構成された「40年会」一員で、同会会員は古田敦也、山本昌、佐々木誠、八木裕、水野雄仁、吉井理人、池山隆寛、香田勲男、紀藤真琴、村上隆行、長嶋一茂ら(『ボク達同級生!プロ野球昭和40年会VS48年会』〈関西テレビ放送〉)。


五十嵐亮太: その後の場内一周の際には過去優勝決定試合後に古田敦也らも見せたライトフェンスよじ登りパフォーマンスを見せた。


アンディ=シーツ: 初盗塁:2003年8月20日、対ヤクルトスワローズ20回戦(広島市民球場)、6回裏に二盗(投手:高井雄平、捕手:古田敦也


益田武尚: 父・和毅は嘉穂東高校で野球部監督を務め、立命館大学時代は古田敦也とバッテリーを組んでいた。


松元繁: 同期入団には古田敦也や西村龍次がいた。


マーク=クルーン: 古田敦也は「オールスターでしか捕った事ないけど」と前置きしながらも「シュートする汚い回転のストレート」「ミットの芯を外すので受けていて嫌だった」と振り返っている。


中村悠平: キャンプ中に古田敦也から直々に指導を受けた。守備面ではキャンプ中臨時コーチを務めた古田敦也のアドバイスから新たな引出しを駆使した好リードを見せ、打者有利の本拠地でチーム防御率3位になった投手陣を支えるなど、攻守ともに優勝の大きな歯車になった。2022年1月6日に、8000万円増となる推定年俸1億7000万円+出来高払いの3年契約で契約を更改し、背番号をかつて大矢明彦、古田敦也といった名捕手がつけ、古田の退団後は準永久欠番となっていた「27」に変更することが発表された。


小宮山悟: 交流戦では古田敦也がこの球を空振りした。


土橋勝征: 入団以来、古田敦也と同様に眼鏡がトレードマークだったが、2000年オフにレーシック(視力矯正手術)をし、同僚の稲葉篤紀にも紹介、眼鏡を外した。


林和男: 「2015年 野球殿堂入りを発表!古田敦也氏、林和男氏、村山龍平氏が受賞!」『野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト』2015年1月26日。


佐伯大介: 10月7日 - 東京ヤクルトスワローズの古田敦也選手の引退セレモニーで「ありがとう」が使用される。


南渕時高: 同い年である古田敦也や池山隆寛とは以前から親交があり、彼らからは「ブチ」と呼ばれている。


吉原孝介: 初盗塁:同上、9回表に二盗(投手:中本茂樹、捕手:古田敦也


三浦大輔: 曲がりの大きな変化球があるわけではなかったが、微妙に変化するインローアウトローの出し入れが絶妙でストレートとの見分けが付きにくく、古田敦也は「これほど球種を読むのが難しいピッチャーはいなかった」と語る。


小宮山悟: オフには古田敦也、吉井理人、仲田幸司、山本昌、香田勲男、星野伸之ら40年会メンバーと、中村紀洋、小笠原道大、三浦大輔らをメンバーとする「プロ野球昭和48年会」と合同でイベントを行っている。


大木凡人: 元プロ野球選手の古田敦也は従弟。


石川雅規: 脚力があり、2006年10月13日には選手兼任監督だった古田敦也の代走として途中出場したことがある。


若松勉: 若松の下でプレーした選手はおおむねその人柄を慕うとともに指導者としての手腕を高く評価しており、古田敦也は「この人を勝たせてあげないといけないと思ってしまう監督」と語り、アレックス・ラミレスは特に尊敬する監督として来日時の監督であった若松の名を挙げている。


青木宣親: 10月7日に行われた古田敦也の引退試合では1番田中浩康・2番アーロン・ガイエル・3番ラミレス・4番青木・5番古田と打順が組み替えられ、プロ入り後初めて4番打者として出場した。


川尻哲郎: 初奪三振:同上、7回表に古田敦也から


古田敦也の情報まとめ

もしもしロボ

古田 敦也(ふるた あつや)さんの誕生日は1965年8月6日です。兵庫出身の野球選手のようです。

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経歴、選手としての特徴などについてまとめました。テレビ、卒業、現在、結婚、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。古田敦也の現在の年齢は58歳のようです。

古田敦也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】

古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日 - )は、兵庫県川西市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・監督、野球解説者、スポーツキャスター、タレント、YouTuber。日本プロ野球名球会理事長。株式会社エーポイント所属。マネジメント事務所は株式会社ビッグベンと業務提携。妻は元フジテレビアナウンサーの中井美穂。血液型はB型。

選手としてヤクルトスワローズ→東京ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。史上14位タイの8度の年間打率3割達成者で、シーズン盗塁阻止率.644と通算盗塁阻止率.462は日本記録。捕手としての生涯打率の日本記録保持者。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。

2004年のプロ野球再編問題発生時には日本プロ野球選手会会長として球団側との先頭に立ち、史上初のプロ野球ストライキ決行を主導して交渉を導いた。

『マイナビニュース』にて2014年に実施された「『ミスタースワローズ』といえば誰ですか?」のアンケート(投票者数:マイナビニュース会員733名)では得票率47.5%を記録し、2位以下を大きく引き離して1位を獲得。

経歴

生い立ち

川西市立加茂小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。100人ほどの小学生が所属していた少年野球チームであり、AからDの4チームに分かれていた。入団直後、Dチームに入れられたが、Dチームにはキャッチャーがいなかったという理由と「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される。少年時代に好きだった選手は梨田昌孝である。また、当時は阪急ブレーブスのファンクラブ組織である「ブレーブスこども会」の会員でもあった。屋敷要は小学校の先輩で屋敷と入れ違いで入学。互いの妹同士は同級生である。

地元の中学校で野球を続けるが、野球がうまいため上級生から暴力、1リットルのコーラの一気飲みの強要、度を越した罰走などのいじめを受け野球をやめた。親にやめると話したらいろいろなところに掛け合ってくれて、夏休み明けの2学期から転校した。宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。

3年の8月から受験勉強を始め、関西大学商学部、立命館大学経営学部経営学科の一般入試を受験し、どちらも合格した。合格後は高校時代の監督から立命館の練習に参加するよう勧められ、そこで評価を得た。当時、関西学生野球リーグにおいて関西大学は立命館大学より強豪だったため、関西大学への進学を決めて、入学を断るつもりで立命館大学へ挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命館大学硬式野球部監督の中尾卓一に大喜びされ強引に押し切られた。またその夜、先輩に高級料亭における夕食に誘われ、京都の祇園の夜の街に魅せられたことで心変わりし、1984年春に立命館大学に入学して、硬式野球部に入部した。同期の同学科には寺地永が居る。

立命館大学時代

高校時代は裸眼の視力は0.5程あったが、受験勉強により、0.1にまで下がった。大学キャンパス内で先輩に会った際に大きい声であいさつしなければならないため、大学に入ってから眼鏡をかけるようになった。古田は「見えませんでした、気がつきませんでしたじゃすまされないんで、もう眼鏡をかけるしかないと…」と語っている。

当時の関西学生野球リーグは近畿大学の全盛期であったが、3年時の1986年には、エース岩本利仁とバッテリーを組み、チームを春季・秋季連続優勝に導く。4年時の1987年にはキャプテンを務め、日米大学野球選手権大会日本代表に選出されるなどその実力はプロ各球団からも注目され、この頃にプロを目指すようになった。リーグ通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナイン(捕手)に4度選ばれた。

野球部の中尾監督に日本ハムのスカウトから上位指名の連絡が入っていたため、11月18日のドラフト会議当日には大学が会見用のひな壇を設置し、垂れ幕まで用意されていたが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった。当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という真偽不明の情報が流れたことによって、日本ハムは指名を取りやめたと後に新聞連載に記載している。また、2009年の自著ではやはり乱視が原因なのではないかと振り返っており、後のインタビューでも古田はメガネが原因で外れたと語っている。後年に古田は、この際の屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという強い気持ちに繋がったと述べている。プロ入りが成らなかった古田は一般枠で新卒採用に応募し、トヨタ自動車から内定を得て、1988年3月に立命館大学経営学部を卒業して経営学士号を取得した。

トヨタ自動車時代

1988年4月、トヨタ自動車に入社した古田は人事部に配属され、野球部の練習が無い時間帯には従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営などに従事していた。新人研修ではディーラーで営業の仕事もした。古田は社会人野球時代を経たことで普通の金銭感覚が身につき、当時の経験がプロ入り後にも役立っていたと語っている。

トヨタ自動車硬式野球部では1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。NTT東海硬式野球部の補強選手としてチームの準優勝に貢献した。8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表となるが、古田は当時「(プロに行くために)五輪メンバーに選ばれないといけない」と考え、ジャパンの監督が誰か、バッテリーコーチが誰かと調べて、野球観を調べた。すると「元気があって、国際大会の環境の悪い中でもへこたれない、あきらめないやつが好きだ」との情報を得て、すぐに実行。何十人と来る選考会で「ボール回しでも“ヤー”とか言いながら、一生懸命、声出して野球をやった」。そして、見事に日本代表の座を射止め、野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組み、決勝でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。

古田は1989年のドラフト会議に際し、巨人かヤクルトを希望していると報じられた。ヤクルトは大卒時の1987年のドラフトでも古田を指名候補に入れていたが、この時は2位以上でないとプロ入りしないとの情報を受けて事前に撤退したとされている。ただし、この時のドラフトでヤクルトから1位指名された長嶋一茂によれば、立教大学の先輩で父の茂雄とも親しかったスカウト部長の片岡宏雄に「古田くんをなぜ獲得しないんですか?」と聞いたところ、「メガネだ。目」とメガネが理由であることを聞かされ、疑問に思ったと語っている。

当時のヤクルト野手陣は関根潤三監督の下で池山隆寛、広沢克己ら若手が急成長し次々とレギュラーを獲得して着実に陣容が強化されていたが、その中で唯一残されていた課題が捕手だった。ベテラン八重樫幸雄の後の正捕手の座を争っていたのは主に秦真司と中西親志の二人だったが、秦は打撃に優れるが守備難で捕逸が多く、中西は捕球に優れるが打撃が打率二割に満たない非力さで、さらに両者共に盗塁阻止率が低かったので、強肩・好守の即戦力捕手の獲得が急務だった。自身も捕手だった片岡スカウト部長は、オリンピックで経験を積んで進境著しい古田のプレーに惚れ込んで獲得に動き、担当スカウトの羅本新二に古田との交渉を進めさせ、夏の編成会議で相馬和夫球団社長、田口周球団代表、関根監督ら球団首脳に古田を強く推薦して了承を取り付け、古田の2位指名が内定した。古田はトヨタへ挨拶に訪れた片岡からドラフト指名の意思を正式に伝えられたが、大卒時にプロ球団の裏切りに遭っていた古田は不信感を拭い去ることができず「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も片岡に念を押している。

しかし、10月に相馬・田口の推す若松勉ではなく、ヤクルト本社社長の桑原潤が推す野村克也が新監督に就任すると状況が一変する。野村は大学の間に変なクセがついてしまう傾向があるなどとして「大学出に名捕手はいない」という持論を展開しており、就任直後の『週刊ベースボール』の取材に対しても、高卒4年目で強肩の若手・飯田哲也を自らの手で正捕手に育て上げるという構想を示していた。そして大卒社会人で眼鏡をかけている古田の指名をやめるよう要求してきたが、片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と反発。球団幹部も古田指名の方針を崩さなかった。片岡は指名直前にも野村が「古田はやめよう。捕手はワシが育てる」と食い下がったと語っているが、ヤクルトは当初の予定通り古田を2位で指名した。

これに対し野村は自著で、就任直後のドラフトに際し自分が片岡に今年のドラフト候補に良い捕手はいないのかと質したところ、片岡が古田の名前を出して「メガネをかけているんですが…」「打撃には目をつぶってもらえますか」と言ってきたので、メガネをかけていても問題は無いと言って古田を獲得するよう命じたと主張。また古田との対談でも「編成部長(※スカウト部長の誤り)に『いいキャッチャーいないか?』って言ったら、『一人います。でも、メガネかけているんですよね』って。これが、後々俺が大反対しているように言われて。俺言ったことないから」と大笑いし、「今、コンタクトもあるし、レンズも軽量化して問題じゃないのに、そんなこと言う訳ない。あれには参った。それで編成部長が言うのよ。『バッティングは目をつぶってくれますか?』って。まあ、キャッチャーは守れて、頭よくて、肩が強ければそれで十分って言って、それで(古田獲得に)いこうって。まさか獲れるとは思わなかったけど、これも一つの縁だよね」と主張し、上記片岡の意見とは対立している。

そもそも、野村と片岡の間には同年ドラフトでの黒須陽一郎をめぐる一連の問題を発端とするドラフト指名戦略の違いや片岡が懇意にしていた立大野球部の一つ上の先輩でもある長嶋茂雄に対する野村の度重なる挑発、そしてその息子・一茂の扱いへの不満など、様々な問題を巡っての根深い確執があり、古田指名の件についても当時ヤクルトのスカウトだった鳥原公二(後にスカウト部長)は「野村はドラフト前の会議まで古田との指名約束があること自体を知らなかったため、会議では「もう決めている選手がいる」と訴えるスカウト側との間で攻防があった。古田の指名についても野村は「メガネをかけているなぁ」と独り言をつぶやいただけで、メガネがダメという話はなかった」と片岡とは異なる見解を述べている。

ヤクルト選手専任時代

1990年、新人の中では1位指名の西村龍次と古田がユマの一軍キャンプメンバーに選ばれた。取材陣からは「即戦力の西村と古田が、どれ位の力を出せるかで今年のヤクルトの戦力アップにつながるか解る」と評価される一方で、野村はキャンプでも記者に対して「メガネを掛けているとマスクがズレる」と語るなど、古田への評価はマスコミと野村とで温度差があった。キャンプ終了後、野村は前年の主戦捕手だった秦真司と中西親志の二択から当面の正捕手を秦真司に定め、4月7日の開幕戦は秦がスタメン出場し古田を控えに回した。しかし野村は秦の捕手としての能力を買っておらず、前年には飯田を正捕手として育成する構想すらもっていた。そして秦は打撃力を活かすために三塁にコンバートする方針だったが、広沢克己を三塁に回す為にコンバートを延期し、やむなく秦を暫定起用した。ところがやはり秦はリードや守備での不安を露呈し、第三捕手兼代走としてベンチ入りしていた飯田が4月24日に急遽二塁にコンバートされていたこともあり、4月28日に古田が初めてスタメンで出場する。古田をこの時期にスタメンに抜擢した理由について、野村は「秦や中西のリードに納得できなかったので仕方なく「古田、お前行け」と命じたのがきっかけだった」と述べている。6月上旬までは秦と併用されていたが、新外国人ドウェイン・マーフィーが離脱してそのポジションが空くと野村は秦を外野にコンバート。スタメンに定着した古田の実力はライバルチームからも高く評価されるようになり、新人ながら監督推薦(藤田元司監督)でオールスター出場を果した。そして、試合に出るようになると野村は古田を試合中に叱るようになるが、ここでも古田は持ち前の負けん気を発揮し「どうせ怒られるなら近くにいようと思って「すいませんここに座らせてください」と言って近くに座るようになりました」とポジティブな姿勢を示した。また、当時について「その時に違う指揮官だったり「力と力のガチンコだ」とかばっかり言われていたら僕もそういう選手になっていたと思います。たまたまそこで出会った指揮官がそういう強い気持ちとか攻撃的な気持ちを持つのは当たり前で、それに加えて頭を使えと「頭使えたら弱いやつでも勝てる」という考えだったので僕も若かったですし、非常に勉強にもなりましたね。非常に腑に落ちましたし、そういう意味ではいい刺激を与えていただいたと思っています」と古田自身の野球観の変化を語っている。シーズン後半は中西と併用されたが古田は攻守両面で中西を上回り、正捕手の地位を確かなものとした。大矢明彦以来となる新人の盗塁阻止率リーグ1位(.527)を記録してゴールデングラブ賞受賞を果たし、課題とされていた打撃面でも334打席に立って打率.250、26打点と及第点の数字を残した。

先輩捕手だった八重樫は「古田がレギュラーになってピッチャーとキャッチャーがよく話をするようになったと思います。若い投手が多かったし、古田とも年齢が近かったから、試合後にも自発的にミーティングをするようになっていたね。それまでは"一方通行"だったけど、その点は大きく変わった」「古田の存在はとても大きかったですから。古田の高い要求に、しっかり応える好投手たち。野村監督時代はバッテリーを中心にしっかりとした野球をしていた。そんな印象がありますね」と古田を称えた。

1991年、オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では相手走者の盗塁3度を全て刺し、MVPを受賞。シーズンでは打率.340で首位打者を獲得。首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、捕手による打撃3部門(打率、本塁打、打点)のいずれかのタイトル獲得は野村、田淵幸一に次ぐ史上3人目だった。

この首位打者獲得を巡っては、落合博満との激しいタイトル争いがあった。10月12日終了時点で、古田は.3390、落合は.3352で翌日の直接対決を含めてヤクルトは残り2試合、中日は残り4試合で、中日の方が先に全日程を終了する予定だった。そこで、ヤクルト野村監督は、13日の最後の直接対決で落合を全打席敬遠するよう指示し、結果として落合は1試合6四球となり、現在も残る日本新記録となった(古田は欠場)。落合は3試合残っていたが、14日大洋戦で4打数0安打で打率を.3315まで落として逆転は絶望視され、さらに15日(ダブルヘッダー1試合目)広島戦では第1打席凡退のため.3306となった。ところが、そこからダブルヘッダー2試合目(シーズン最終戦)にまたがって5打席連続安打で打率を.3396として古田を逆転、そのままベンチに退いた。残り16日の広島戦のみを残す古田は、2打数1安打や5打数2安打で再逆転のところ、最終戦は朝6時まで眠れなかったというプレッシャーの中、第1打席で安打を放って事実上首位打者を確定させ、2打席目は凡打でベンチに退いた。広沢は「あの重圧の中、よく打ったものだと思う」と語っている。

1992年、6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打を記録。同年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクル安打を記録し、MVPを受賞した。シーズンでは全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.316、リーグ2位タイ・自己最多の30本塁打、リーグ5位の86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。日本シリーズ(対西武ライオンズ)にも出場したが、チームは3勝4敗で敗れる。

1993年シーズンは2年連続となる全試合出場を果たしリーグ優勝の原動力となり、シーズンMVPに選ばれた。この年の盗塁阻止率.644は2023年現在も破られていない日本記録である。日本シリーズでは前年と同じ西武ライオンズとの対戦で、伊東勤との捕手対決が話題となる。チームは4勝3敗で日本シリーズを制覇。

1994年は、初のCDデビュー(下記)を果たすも、その発売6日後、開幕4戦目の4月14日に対広島東洋カープ2回戦で前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折し、シーズン序盤から長期離脱する。6月14日に一軍・スタメン復帰を果たすも、今度は打撃が不振を極め、スタメン落ちすることもあった。結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、19打点という成績でチームも4位に終わる。

1995年、公式戦全試合に出場。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、4勝1敗で2年ぶりの日本一となった。同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚

1997年は全試合に出場し、4番打者としてリーグ3位の打率.322、本塁打は9本ながら勝負強い打撃でリーグ6位の86打点を記録するなど活躍。西武ライオンズとの日本シリーズでは1勝1敗で舞台を神宮に移した第3戦で3対3の同点の8回裏に渡辺久信から勝ち越し本塁打を放ち、4勝1敗で制覇し、捕手として初めてセ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞した。

若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われた2000年シドニーオリンピックの野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表にチーム最年長選手として選出された。2000年は、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルトは3季連続の4位を喫したが、自身は2度目のシーズン盗塁阻止率6割を達成した。

2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。シーズンでは松井秀喜と首位打者を争い、自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍。大阪近鉄バファローズとの日本シリーズは14打数7安打、打率.500、本塁打1、打点7を記録し、近鉄いてまえ打線を打率.171に抑え、4勝1敗で勝利し、自身2度目のシリーズMVPを受賞した。

2002年4年ぶりに10本塁打に届かなかったが打率3割を記録した。また満塁では11打数8安打(打率.727)を記録するなど満塁での勝負強さが光った。

2003年開幕直前に右手薬指を骨折したが完治しないまま開幕戦を強行出場する。6月28日、対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打数連続本塁打を記録。シーズンでも先発マスクは一試合だけ欠場しただけで打率こそ2年ぶりに3割を割ったが1995年以来の20本塁打以上を記録した。

2004年開幕から打撃好調でタイトル争いにも加わっていたが、上記にあった通り球界再編による選手会の活動が激務で日に日に成績は下降。なんとか通算8回目となるシーズン打率3割を残した(これが現役最後の規定打席到達だった)。39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行と門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。一方で盗塁阻止率はリーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰えが顕著となった。

2005年4月24日(対広島戦、坊ちゃんスタジアム)、捕手としては野村克也以来史上2人目、大卒・社会人を経てプロ入りした捕手としては史上初の通算2000安打を達成。しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸部打撲で全治1週間の怪我を負う。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し11年ぶりに規定打席未到達となり、小野公誠や米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。10月5日には通算1000打点を達成した。

ヤクルト選手兼任監督時代

2005年限りで若松が監督を退任、後任として古田に白羽の矢が立つ。10月18日、かつての恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督として、翌2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで球団と合意した(選手として1年契約、監督としては2年契約)。

監督としての最初の仕事は、翌2006年シーズンに契約を結ばない選手を決めることであった。編成担当から名簿を渡され「いらない選手に×してください」と、頼まれたが、本人は後に辛かったと振り返っている。

2006年、メディアや評論家はそれまでの堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという攻撃的な布陣を敷く。同年の総本塁打161はリーグ最多、総得点669も中日ドラゴンズと並ぶリーグ最多タイだった。一方投手陣は駒数が揃わず、特にリリーフ陣は石井弘寿と五十嵐亮太の怪我及び不調が原因で固定できなかった。監督として70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位の成績を残したが、選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己最低に終わった。同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上最大減俸幅となる1億8000万円減(75%減)の6000万円で契約を更改した。

現役引退・監督退任

2007年、ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、最終的にラミレスがセ・リーグ最多(プロ野球歴代5位)となる204安打を記録し、タイトルを獲得。一方古田は通算2000試合出場こそ達成したものの、その記録を達成した試合では、横浜・石川雄洋が大量得点差のついた状況で盗塁を試みたことに端を発する遠藤政隆の危険球判定にめぐって審判との口論の末に「(審判には)常識がない」という趣旨の暴言を吐いたという理由で退場処分を受けた上、前年から抱えていた右肩痛の回復が遅れ8月までに出場した試合はわずか3試合だった。自身の出場選手登録も2度抹消するなど、ベンチで采配に専念する日々が続いた。

9月17日、ヤクルトのBクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった時点で辞意を固め、9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表した。会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、誰かに責任を負わすわけにもいかない」と語った。引退・退任を表明した後、「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」などの声がヤクルトファンのみならず、他球団のファンからも飛び交った。

9月27日の対広島戦でシーズン初安打を放つ。敵地・広島市民球場での試合であったが、試合後には広島監督のマーティ・ブラウンから花束を送られ、古田がそれに応え両軍ファンにサインボールを投げ込むささやかなセレモニーが行われた。過去に所属経験のない相手球団の主催試合で引退セレモニーが行われるのは異例のことであった。

神宮球場における最後の出場となった10月7日、古田の引退試合が行われた。奇しくも対戦相手は同じ広島であった。神宮での最終打席となる8回裏の第4打席では、前日に広島市民球場で引退試合を行ったばかりの佐々岡真司が登板し(前日、佐々岡が自ら登板を志願していた。佐々岡にとってこれが現役最後の登板となった)、遊ゴロに終わった。古田は後年「(この日の最終打席で)佐々岡が登板することは聞いていた」ことを明かしており、「球が遅いんですよ。(佐々岡も選手としてのピークは過ぎており)プロの球じゃないんです。もうトロトロトロって。もっとピュッときてくれんかなと。『これ引っ掛けるわ』と思ったらショートゴロだった」と対戦を回顧している。また、この試合の8回には石井一、9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被った。引退試合翌々日の10月9日ヤクルトのシーズン最終戦(横浜スタジアム)、アダム・リグスの代打として最後の打席に立ち、吉見祐治からレフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾った。

10月11日、監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、堀澄也オーナーと会談。その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け、快諾した。また球団からは功労金として5000万円が贈られた。一方、前日の10月10日、球団が高津臣吾に対し突如戦力外を通告した件について、球団フロントからの事前通告や話し合いの機会が一切なかった件などに言及するなど、最後までフロントとの間に軋轢が残った。

現役引退

2007年11月21日付で任意引退が公示され、ヤクルトを退団。11月23日のファン感謝デーには高津同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」にコメンテーターとして復帰した。11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演し、その後はコメンテーターとしてテレビ出演。解説者としての初出演は2007年アジア野球選手権大会・野球日本代表の試合(テレビ朝日)。2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなくフジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演した(なお、プロ野球中継解説者としてはテレビ朝日だけ所属契約しているものの、特定局との専属契約はせず、フリーでの出演)。

2015年1月23日、野球殿堂において255票獲得しプレーヤー表彰に選出された。一問一答での「捕手とは?」の質問には、「相手の嫌がることをやらなきゃいけない。死球を当てると厳しく対応される時代だったが、それをかいくぐりながら、そこそこ成績を残せた」と現役時代を振り返った。野村克也は「私がヤクルトで9年間監督を務めた間に4度優勝したが、持論である『優勝チームに名捕手あり』を体現できた。古田の成長と合わせて、ヤクルトは強くなっていった。殿堂入りを誇りに思う。当時の選手では初めての殿堂入りは当然だろう」と祝福のコメントを寄せた。

2016年には「第11回 BFA U-18野球チャンピオンシップ」「第7回女子野球ワールドカップ」「第1回 U-23 野球ワールドカップ」の3大会のアンバサダーを稲村亜美とともに務める(BS-TBSの中継番組にも大会アンバサダーとして出演)。

2019年4月からは静岡県焼津市内の複数企業による企業複合型の社会人野球クラブチーム・焼津マリーンズのアドバイザーに就任。これはクラブ代表の戸﨑義人がトヨタ自動車時代のチームメイトだった縁によるものである。

2021年にはヤクルトの春季キャンプ第2クールからの臨時コーチを務める。ヤクルトへの指導は14年ぶりとなり、ブルペン捕手として石川雅規と14年ぶりにバッテリーを組んだり、打撃投手として投げ込んだりなど、熱のこもった指導が多く取り上げられた。

同年3月20日、日本女子ソフトボールリーグ機構理事に就任することが発表された。

2023年2月、3年連続となるヤクルトの春季キャンプの臨時コーチを務めた後、2月15日から同月末までMLBのアリゾナ・ダイヤモンドバックスの臨時コーチを務めることが発表された。

選手としての特徴

かつて日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」というジンクスがあり、古田も眼鏡を着用していた(乱視がひどく、当時のコンタクトレンズでは自身の眼球に合わなかったため、止む無く眼鏡を着用していた)ことから、大学時代には首位打者を獲得しながらドラフト指名から漏れ、社会人からプロ入りする際にも「最大の欠点」と評された。しかし、プロ入り後は即戦力として活躍し、日本球界を代表する捕手となった。古田は殿堂入りした際の「一番誇れる記録は?」という質問に、「記録っていうか、メガネをかけてやってこれたことかな。目が悪くてメガネかけたプロ野球選手はダメだって言われた時代なんでね。高校生を含めてけっこうたくさんの人に“メガネかけてるんですけど、おかげで野球を続けてます”と言われて、やった甲斐あったかなあと思いましたねえ」と述べている。

正捕手として日本プロ野球名球会入りしているのは野村克也・古田・谷繁元信・阿部慎之助の4人のみである。野村は古田について、「初めてキャンプで見たときから、捕球や二塁への送球は天才的で、肩も強かった。当初はスカウトから『打撃には目をつぶってください』と言われたが、もともと頭のいい子だったから、投手の配球を読むことで上達し、2年目には首位打者も獲得した」と振り返り、賞賛している。また、古田の性格については「大変強気で自信家、そして目立ちたがりのところもある」と分析し、「捕手の本能も持っているが、それと同じくらい投手に近い考えもある」珍しいタイプと評している。

守備

「ID野球の申し子」の異名で名を馳せた。ピッチャーに初球から決め球を要求したり、3つ目のストライクを狙う時にストライクゾーン中央にストレートを要求したりして打者の裏をかいた。

持ち前の強肩に加え、送球前の動作や、捕球してから即座に送球動作へと移る技術、正確で素早く力強いスローイング等を徹底的に磨いた。1991年に12人連続盗塁阻止を記録し(岡田彰布に許して記録が止まった。岡田の盗塁はその年その一個)、1993年にはシーズン盗塁阻止率.644という日本記録を残した。1993年シーズンに加えて2000年シーズンにも盗塁阻止率6割以上の数字を残しており、キャリアでは盗塁阻止率リーグ1位を通算10回記録した。入団から13年連続で盗塁阻止率4割以上を残すなど、非常に高水準で安定した阻止率を長年維持しており、通算の盗塁阻止率でも.462という日本記録を持っている。

この高い捕球・送球能力について、その理由として下半身の柔軟さを挙げられることが多い。古田自身は股関節の柔らかさについて、「これは持って生まれたものだと思うんです。子供のころから、いわゆる女の子座りもできた。膝の関節も、じん帯も緩めなんです。よく伸びるというか、柔らかいというか……。特に膝は緩いかもしれませんね。というよりルーズ気味。人に引っ張られるとグラグラってする時がありますから」と述べている。

ミットを動かさずにボールと判定されてもおかしくない球をストライクに見せるキャッチング技術も持っていた。矢野燿大は「古田さんのキャッチングは、手で捕っているというよりも下半身で捕られているように見えるんです。右バッターのアウトサイドにボールが来るとする。そうすると、古田さんの場合、上半身の体勢はそのままで、下半身だけがアウトサイドに寄っていくんです。で、キャッチングの瞬間、フッと身体が内に寄る。手じゃなくて身体が寄るんです。低めのボールにしてもそう。もともと古田さんって、ぺちゃんって座れるじゃないですか。僕なんかだと股関節が固いから、低めに来たら手でしか上げられない。でも、古田さんは重心で上げられるんですよ。ベンチから、つまり、横から見ていたらようわかります。(中略)だから、審判にも絶対にストライクに見えるんです。僕らみたいに手をちょこっと動かしたりするのは審判にもバレバレなんですけど、古田さんはインコースだろうがアウトコースだろうが、下半身を動かして身体の中心で捕るんで、全部ストライクに見えるんですよね」と語っている(類似趣旨:村田真一)。

ただ単に球がミットに入りやすいという理由で大きなミットを好んで使った。

守備・打撃の両面で、それまで定説とされていた技術に対し、自身の経験に裏打ちされた独自の理論に基づく技術を構築している。かつて「捕手は捕球の際、脇を締めて構える」というセオリーがあったが、敢えて両腕をルーズにして、人差し指をおよそ45度にして構えた。これは脇を締めることで、肘の自由性を失うデメリットを懸念したためであり、脇を締めた状態(ミットを立てた状態)から低目の投球を捕球する際には、『ミットを上から被せにいく捕球しかできない』という。それだと捕球直後には腕を伸ばしきって一段とミットの位置を下げてしまうため、ボールと判定される見込みが高くなる。それを解消させようとミットを下から掬い上げる捕球を求めた結果、“脇を空ける構え”につながった。脇を締めていると真ん中に外に向かって取りにいった時ミットの重みもあってより外側に向くが、脇を締めずに最初から外回りでいけば、より的確にボールを取れる。新人時代には、それを見た野村監督から「お前、もういっぺんやってみい」と言われ、再現してみせると「ほう。お前、そうやるんか。なるほどな、勉強になったわ」と言われたという。

宮本慎也の談話によると、配球を根底にした守備体系の指示については、捕手の古田が全て務めていた。そのため古田の捕手としての出番が激減した2006年以降、それまで守備網に引っかかっていた打球が、あと一歩のところで外野に抜けていってしまう頻度が高まったという。

捕手の他、1993年のリーグ優勝が決定した次の試合で外野手(左翼手)、1997年に野村克則と守備位置を入れ替わる形で一塁手として出場したことがある。

現役時代の捕球により親指と人差し指の間の腱を酷使し、引退後には掌を開くと親指が手首の辺りまで垂れ下がるようになった。その様子を収めた動画を、本人は公式YouTubeチャンネルで2021年5月に公開した。

打撃

捕手としてはプロ野球史上最多の通算8回のシーズン打率3割を記録した。守備負担の大きい捕手を務めながら残した通算打率.294は、7000打数以上の選手中では歴代9位に位置する。プロ2年目の1991年には首位打者を獲得しており、同年の打率.3398は2012年に阿部慎之助が.3405を記録するまでは2リーグ制以降では捕手のシーズン打率の歴代最高記録だった。

新人の頃に落合博満の打撃を捕手側から見て参考にし、自分の打撃に採り入れたという。打撃でも独自の理論を持ち、「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから、初球の重要性を挙げている。

現役時代はピッチャーに合わせてバットを取り替えており、古田は自身を球界一バットを取り替えた男であると主張している。たとえば緩いカーブは短いバットなら先にあたるが、長いバットなら芯に当たるだろうという単純な理由で、相手によってバットを選んでいた。バットを頻繁に替えたのは、敢えてバットのせいにすることによって気持ちの切り替えを図るという狙いもあった。

現役時代、伊勢孝夫打撃コーチからは「強いて言うなら、お前は無手勝流だな」と言われており、引退後の自著でも定まった打撃フォームを持たない人物であったことを自認している。

本人は2021年5月の自身の公式動画で「ホームランを打てない訳ではないけど、打率重視、ヒット狙いの短距離打者」と打撃面の性質を語っていた。

引退後に本人は「後ろ足に体重を乗せ過ぎずに敢えて前にスウェーすることで際どい球に手首が返らないようにする」「スウェーしながら打つときに前肘を抜くようにし、体を後ろに戻して右足を軸に回転して打つと内角に詰まりにくい」と打撃論を語っていた。古田自身の若い頃は指導者が皆「脇を締めろ」と指導したが、2020年代になると脇を締めることに拘らない指導者が増えたとしている。

2024/06/14 09:36更新

furuta atsuya


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