木俣達彦の情報(きまたたつひこ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
木俣 達彦さんについて調べます
■名前・氏名 |
木俣達彦と関係のある人
本多逸郎: スカウト時代は木俣達彦と大島康徳を担当した。 二宮至: 初盗塁:1977年5月31日、対中日ドラゴンズ7回戦(後楽園球場)、8回裏に二盗(投手:三沢淳、捕手:木俣達彦) 井手峻: 高木守や木俣達彦からは、「サインが分かったら何でもいいので教えてほしい」と言われていた。 下須崎詔一: チームは同期の左腕エース浜崎正人の好投もあり準々決勝に進出するが、木俣達彦、林俊宏のいた中京商業高校に11-2で敗れた。 新宅洋志: 捕手としてのポテンシャルは優れていたが、打力で勝る木俣達彦が正捕手に君臨していた為、出場機会は少なかった。 秋葉敬三: 準々決勝に進出するが、林俊彦、木俣達彦のバッテリーを擁する中京商に敗退。 岡野義光: しかしその後は伸び悩み小川敏明、木俣達彦の台頭もあって出場機会に恵まれなかった。 加藤斌: 甲子園では1回戦で気仙沼高に苦戦したものの勝ち上がり、準決勝では林俊彦、木俣達彦の強力バッテリーを擁する中京商を2-0で完封。 片貝義明: しかし当時の中日捕手陣は木俣達彦、新宅洋志と実力者が揃っており、一軍での出番はほとんど無かったため、小松辰雄や牛島和彦が入団して来た頃には若手投手の「教育係」的存在となった。 藤本和宏: 対戦打者の木俣達彦も「球が速く、ストレートを主体に押してきた。 中原勇一: 当時の正捕手は木俣達彦であり、その控えではあるが、3年目の1979年は5試合に先発マスクを被る。 中尾孝義: 初出場:1981年4月4日、対読売ジャイアンツ1回戦(後楽園球場)、6回表に木俣達彦の代走として出場 金山仙吉: 1977年に一軍に定着し、木俣達彦の控えながら23試合に先発出場。 近藤真一: 試合当日の巨人戦のチケットの入手は困難といわれていたが、偶然総合コーチの木俣達彦のチケットがキャンセルになった事から、球場での観戦が実現したものである。 星野仙一: 総合コーチには現役時代バッテリーを組んだ木俣達彦、投手コーチに池田英俊、二軍監督兼寮長に岡田英津也と明治大学の先輩である両者を招聘した。 山中巽: 当時のチームメイトには同期の江藤省三三塁手(巨人他)、相羽欣厚中堅手(巨人他)、大森秀男捕手(巨人)、1年下の林俊彦投手(南海)、木俣達彦捕手(中日)がいた。 江藤省三: 高校同期に山中巽、相羽欣厚、大森秀男(巨人)、1年下に林俊彦、木俣達彦がいた。 日野茂: この時の試合は、2-3でリードされた7回表に代打の一枝が適時打で同点、8回表には木俣達彦のソロ本塁打で勝ち越した。 夏目みな美: 『FLASH』2009年5月26日号に掲載の「地方局美人アナ大追跡!」で、『サンデードラゴンズ』の放送日に出社から放送後の反省会まで密着取材を受けた(放送中の写真では、メインキャスターの若狭敬一・取材を受けた日のゲストコメンテーターの木俣達彦も写っていた)。 黒江透修: 球が木俣達彦のミットに入った時、三塁走者の黒江はまだ本塁の3m手前でどうみてもアウトであったが、黒江は木俣に体当たり。 角上清司: 木俣達彦 本多逸郎: ^ 木俣達彦著、『ザ・捕手:私が出会った監督・選手たち』、中日新聞社、2011年、p130-p131 相羽欣厚: 高校同期に山中巽、江藤省三、大森秀男(巨人)、1年下に林俊彦、木俣達彦がいた。 後藤和昭: 東海大一高では、1961年秋季中部大会1回戦に進むが、中京商の林俊彦、木俣達彦のバッテリーに抑えられ敗れる。 星野秀孝: その間に捕手・木俣達彦の逆転3ラン本塁打によって勝ち越し、星野はプロ入り7年目で初勝利を手にした。 小川敏明: 1964年も90試合に出場するが、1965年は中京商の後輩である木俣達彦が正捕手となり、わずか1試合の出場に留まった。 近藤貞雄: また木俣達彦によると、5回ごろに水を飲みに行ったところ鈴木と堂上照がベロベロになっており、ゲーム終盤にはみんな輪になって飲んでいたという。 高木守道: 使用後のストッキングは木俣達彦がこっそり使用していた。 服部受弘: 杉下は中利夫・高木守道・大島宏彦(中日新聞社最高顧問、元中日球団名誉オーナー)との対談(司会:木俣達彦)で「1958年限りで服部・西沢と自分に対し『チームの若返りのために30歳以上の選手たちを辞めさせるための妥協点』として永久欠番指定が打診されたが、自分(20番)は監督として引き続きユニホームを着るため固辞した。 権藤博: 現役時代バッテリーを組んだ木俣達彦は著書の中で「しなやかで弾力的な足腰を使ったフォームで、おそらく150キロを超える直球を投げていた」と記している。 |
木俣達彦の情報まとめ
木俣 達彦(きまた たつひこ)さんの誕生日は1944年7月7日です。愛知出身の野球選手のようです。
卒業、引退、現在に関する情報もありますね。木俣達彦の現在の年齢は80歳のようです。
木俣達彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 木俣 達彦(きまた たつひこ、1944年7月7日 - )は、愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。 岡崎市立広幡小学校、岡崎市立葵中学校卒業。中学2年次の1958年に投手から捕手へ転向。1960年に進学した中京商業高校では甲子園に4回出場。1961年には春の選抜に控え捕手として出場したが、1回戦で小倉工に惜敗。同年の夏の甲子園では準々決勝に進むが、浪商のエース尾崎行雄らに抑えられ、完封負けを喫す。1年上のチームメイトに山中巽、江藤省三、相羽欣厚、大森秀男(巨人)がいた。同年の秋田まごころ国体では同期の林俊彦とバッテリーを組み、決勝で報徳学園を6-1で降し優勝を飾る。1962年にも甲子園に春夏連続で出場し、春の選抜では出雲産高、岐阜高を破り準決勝に進出するが、日大三高にサヨナラ負け。夏の選手権は準々決勝で鹿児島商のエース浜崎正人を攻略したが、準決勝で同年に春夏連覇を果たす作新学院の加藤斌に完封を喫した。 1963年、慶應義塾大学を受験するが不合格となり中京大学に進学。1年次の同年から正捕手になり、愛知大学リーグでは在学中に2季連続優勝を経験し、秋季では首位打者とMVPを獲得。同年の全日本大学野球選手権大会では準決勝に進むが、後にプロで同僚となる新宅洋志らのいた駒大に敗退。 中日ドラゴンズからの誘いがあり、2年次の1964年に中京大学を中退して入団。 1965年には定位置を獲得し、小柄ながら強打の捕手として永く中日の正捕手として活躍する。 1967年は故障もあって出場試合が減少するが、15本塁打を記録し、長距離打者の片鱗を見せる。 1968年は復活し、21本塁打を記録。江藤慎一の次の5番打者、または6番打者として主軸を担うようになる。 1969年にセントラル・リーグの捕手では史上初の30本塁打となる33本塁打を打ち、5番打者に定着する。 1970年にも30本塁打と2年連続30本を記録したが、1973年は不振に陥り、下位打線へ下がる。確実性を上げるため、本格的にマサカリ打法へ着手する。 1974年にはリーグ2位の打率.322を記録し、巨人のV10を阻止する20年ぶりのリーグ優勝に貢献。同年のロッテとの日本シリーズでは全6試合に先発出場するが、19打数4安打2打点と2勝4敗で敗退。以後、4度3割を記録した。谷沢健一、島谷金二、大島康徳、井上弘昭などの若手打者が育ったことから、この頃から7番打者が定位置となる。 1980年にはセ・リーグの捕手として史上初の2000試合出場を達成、プロ野球史上では野村克也に継ぐ史上2人目の記録となったが、この頃から守備面での衰えが目立ち始め、捕手としての出場が引退まで2000試合には満たなかった。同年は近藤貞雄監督就任に伴い、木俣の後釜となる捕手の獲得が急務との判断により中尾孝義をドラフト指名。 1981年からは中尾を正捕手に据え、出場機会が減少。更に膝を故障する。1982年、8年ぶりのリーグ優勝を見届けに、星野仙一と共に現役を引退。 1983年のオープン戦で行われた引退試合では、木俣が対戦した中で最高の投手と評価していた江夏(当時日本ハム)へ特別に依頼し、登板してもらった。 引退後は父の経営する建設会社で常務をする傍ら、CBC解説者・中日スポーツ評論家(1983年 - 1986年)として活動。 1987年からは中日に一軍総合コーチとして復帰し、1988年のリーグ優勝に貢献するが、1989年退任。 退任後は再びCBC解説者・中日スポーツに評論家(1990年 - 1994年)として復帰し、1995年には1年だけ中日一軍打撃コーチを務めた。 1996年から三たびCBC解説者・中日スポーツ評論家となり、現在に至る。解説者としては捕手の経験を生かして試合展開を大胆に予測するのが特徴であり、評論活動の傍らでプロ野球マスターズリーグ「名古屋80D'sers」にも参加。 2005年4月に発売された『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』(ベースボール・マガジン社)では「木俣は『ミスター・ドラゴンズ』の資格十分である」と紹介されている。中日OB会の副会長も務めていたが、高木守道が2012年から監督に就任する為、木俣がOB会会長代行を務めることになった。同年11月25日よりOB会会長代行から正式にOB会会長に就任し、2015年11月29日まで務め、その後は鈴木孝政が受け継いでいる。 2017年3月2日にBCリーグ・滋賀ユナイテッドベースボールクラブヘッドコーチに就任。 2018年1月12日に滋賀のシニアアドバイザーに就任。 2019年7月からは地元・岡崎の愛知県立岩津高等学校で特別コーチとして指導している。専用グラウンドも、ナイター設備もなく、決して恵まれた環境ではないが、週に1、2度、指導を続けている。 典型的な長距離打者であったがゆえに粗さが目立ち、打率も低い為、それを改善するために、一本足打法でグリップを極端に下げてからトップの位置に持っていく「マサカリ打法」を編み出し、上からボールをぶつけるレベルヒッターへ転向し安打を量産。本人曰く「マサカリ打法とは、打法改造する前の1971年に中日スポーツの記者からつけてもらった」という。 捕手としては野村克也、阿部慎之助、谷繁元信、古田敦也に次いで通算で5位の安打数も記録している。3割が4回、30本塁打が2回。昭和のセ・リーグを代表する“打てる捕手”であった。 各年度の太字はリーグ最高 ベストナイン:5回 (1969 - 1971年、1977年、1979年) 初出場・初先発出場:1964年6月2日、対国鉄スワローズ9回戦(中日スタヂアム)、8番・捕手として先発出場 初安打:1964年6月6日、対大洋ホエールズ11回戦(中日スタヂアム)、5回裏に稲川誠から右中間二塁打 初打点:同上、7回裏に稲川誠から内野ゴロの間に記録 初本塁打:1965年5月19日、対大洋ホエールズ7回戦(川崎球場)、3回表に及川宣士からソロ 100本塁打:1970年7月13日、対ヤクルトアトムズ12回戦(明治神宮野球場)、7回表に簾内政雄からソロ ※史上57人目 150本塁打:1972年5月24日、対大洋ホエールズ7回戦(中日スタヂアム)、6回裏に平松政次からソロ ※史上30人目 1000試合出場:1972年9月7日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、5番・捕手として先発出場 ※史上163人目 1000本安打:1974年7月9日、対ヤクルトスワローズ11回戦(中日スタヂアム)、2回裏に渡辺孝博から左越2ラン ※史上87人目 200本塁打:1976年5月3日、対ヤクルトスワローズ6回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に会田照夫から左越ソロ ※史上24人目 1500試合出場:1977年4月10日、対読売ジャイアンツ3回戦(ナゴヤ球場)、7番・捕手として先発出場 ※史上53人目 1500本安打:1978年8月15日、対横浜大洋ホエールズ18回戦(横浜スタジアム)、5回表に高橋重行から左前安打 ※史上35人目 250本塁打:1979年7月28日、対ヤクルトスワローズ14回戦(明治神宮野球場)、7回表に酒井圭一から2ラン ※史上16人目 2000試合出場:1981年4月30日、対広島東洋カープ5回戦(ナゴヤ球場)、7番・捕手として先発出場 ※史上15人目 オールスターゲーム出場:8回 (1970年、1971年、1974年、1975年、1977年 - 1980年) 23 (1964年 - 1982年) 66 (1987年 - 1989年) 84 (1995年) 77 (2017年) 侍プロ野球 CBCドラゴンズナイター ドラ魂KING J SPORTS STADIUM サンデードラゴンズ(コメンテーター) 久野誠のドラゴンズワールド 木俣達彦の燃えよドラゴンズ(司会) PUMP UP! 1053 『ザ・捕手:私が出会った監督・選手たち』(中日新聞社、2011年10月、ISBN 9784806206316) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、189ページ ^ “『月報 岡崎の教育』1980年12月号” (PDF). 岡崎市教育ポータルサイト OKリンク. 岡崎市教育委員会. 2022年6月13日閲覧。 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 朝日新聞縮刷版p1053 昭和57年12月30日朝刊15面「中堅がごっそり ユニホームを脱ぐプロ野球選手 多い‘68年ドラフト組 くっきり世代交代 厳しい職探しにも悩み」 ^ 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』ベースボール・マガジン社、2005年6月1日、52頁。ISBN 978-4583613246。 ^ 池田哲雄(編)「中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡」『週刊ベースボール別冊冬季号』第34巻第1号、ベースボール・マガジン社、2007年1月1日、68頁。 ^ 木俣達彦ヘッドコーチ就任のお知らせ - 滋賀ユナイテッドベースボールクラブ公式サイト(2017年3月2日) ^ 木俣達彦シニア アドバイザー就任のお知らせ - 滋賀ユナイテッドベースボールクラブ(2018年1月12日) ^ 部員13人の公立高を指導する中日OB木俣さん「研究した理論の継承ありがたい」無償で打撃伝授 愛知県出身の人物一覧 中京大学の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 オセアン滋賀ブラックスの選手一覧 個人年度別成績 木俣達彦 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 投 高橋一三 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 土井正三 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 高田繁 / D.ロバーツ / 山本一義 表 話 編 歴 投 平松政次 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 安藤統夫 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 高田繁 / 江尻亮 / 中暁生 表 話 編 歴 投 平松政次 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 国貞泰汎 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 柴田勲 / 高田繁 / 水谷実雄 表 話 編 歴 投 小林繁 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 高木守道 三 掛布雅之 遊 河埜和正 外 若松勉 / 山本浩二 / 張本勲 表 話 編 歴 投 小林繁 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 F.ミヤーン 三 掛布雅之 遊 高橋慶彦 外 山本浩二 / 若松勉 / M.ラインバック ISNI VIAF 日本 日本の野球選手 中京大学附属中京高等学校出身の野球選手 中京大学硬式野球部の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 野球解説者 滋賀GOブラックス 愛知県出身のスポーツ選手 1944年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/18 18:56更新
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kimata tatsuhiko
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