堂上照の情報(どのうえてらし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
堂上 照さんについて調べます
■名前・氏名 |
堂上照と関係のある人
松原誠: 7月11日の広島戦(広島市民)には8回表に佐伯和司から左前安打を打って史上31人目の1500本安打、8月17日の中日戦(ナゴヤ)で4回表に堂上照から左越ソロ本塁打を打って史上12人目の250本塁打を達成。 豊田誠佑: 現役引退後は大学先輩の星野仙一監督の下でコーチとなり、関東・北信越地区担当のスカウトを務め、2008年シーズン終了時より堂上照に代わりナゴヤ球場に隣接する選手寮「昇竜館」の館長に就任。 笠間雄二: 卒業後は1971年に電電北陸へ入社し、高校→社会人の1年先輩である堂上照とはバッテリーとクリーンアップを組み、笠間は強打の捕手として「北陸の田淵」と注目される。 広澤克実: 初本塁打:1985年6月5日、対中日ドラゴンズ6回戦(明治神宮野球場)、5回裏に堂上照からソロ 小松崎善久: 初出場・初打席:1985年6月18日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)、9回表に堂上照の代打として出場、凡打 堂上直倫: 父の堂上照は中日で投手として、兄の堂上剛裕は中日や読売ジャイアンツ(巨人)で外野手としてプレーした。 落合英二: 2007年に中日ドラゴンズに入団した堂上直倫とは、父である堂上照が球団寮の寮長ということもあって以前から付き合いがあり、2006年のファン感謝デーで行われた引退セレモニーでは「成し遂げられなかった日本一の夢をここにいる選手・コーチ、それにこのナゴヤドームのどこかで見ている堂上直倫君に託します」とあいさつ、場内をどよめかせた。 近藤貞雄: また木俣達彦によると、5回ごろに水を飲みに行ったところ鈴木と堂上照がベロベロになっており、ゲーム終盤にはみんな輪になって飲んでいたという。 デーブ=ジョンソン: 9月19日の中日戦(後楽園)での20号本塁打(日本で通算33号)は王と張本勲の8度目のアベックホームランの後に堂上照から放ち、トリオ唯一度の本塁打の揃い踏みを果たす。 藤沢哲也: ^ 但し、ここで3アウトチェンジとなり、次のイニングから堂上照に交代したため、長嶋との対戦は幻に終わった。 堂上剛裕: 実父は元中日ドラゴンズ投手の堂上照、実弟は中日ドラゴンズ内野手である堂上直倫。 衣笠祥雄: 1983年、4月9日の中日との開幕戦(広島市民球場)では2点を追う5回一死満塁の打席で堂上照から、5月7日の対横浜大洋ホエールズ戦(横浜スタジアム)では9回二死満塁の打席で増本宏から、6月2日の対阪神戦(阪神甲子園球場)では3-3の同点で迎えた4回二死満塁の打席で池内豊からそれぞれ満塁本塁打を放ち、同年は3本の満塁打を放った。 松原誠: 250本塁打:1976年8月17日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤ球場)、4回表に堂上照から左越ソロ ※史上12人目 大町定夫: 初奪三振:1980年5月28日、対中日ドラゴンズ7回戦(阪神甲子園球場)、8回表に堂上照から 松本匡史: 初打席・初安打・初打点:同上、7回裏に堂上照から中前適時打 笠原大芽: 親子・兄弟の一軍公式戦出場は堂上親子(父・堂上照、兄・堂上剛裕、弟・堂上直倫)に次いで二例目となる。 |
堂上照の情報まとめ
堂上 照(どのうえ てらし)さんの誕生日は1951年6月9日です。石川出身の野球選手のようです。
兄弟、卒業、引退、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。堂上照の現在の年齢は73歳のようです。
堂上照のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 堂上 照(どのうえ てらし、1951年6月9日 - )は、石川県輪島市出身の元プロ野球選手(投手)。現役時代の愛称は「ジャンボ」。 兄弟でプロ野球選手である堂上剛裕、堂上直倫の実父。 金沢高では後にプロで対戦する1年後輩の笠間雄二とバッテリーを組み、クリーンアップも組んだ。卒業後は電電北陸を経て、1970年のドラフト6位で中日ドラゴンズに入団。オーソドックスなオーバースロー右腕で主に中継ぎ、時には先発として活躍。 1974年に一軍初登板を果たす。10月14日の後楽園球場でのダブルヘッダー第2試合で3番手で登板しこの試合が引退試合となった長嶋茂雄と対戦し内野フライに打ち取っている。 1976年に初勝利を挙げる。 1978年には自己最多の54試合に登板し、エース級の相次ぐ故障もあって途中からは先発ローテーションを死守したが、9勝を挙げるも18敗を喫している。同年にはオールスターにも出場し、同僚の木俣達彦と第3戦でもバッテリーを組んだ。 1982年には主に中継ぎで防御率1.25を記録し、8年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。同年の西武との日本シリーズでも中継ぎとして4試合に登板する。 1985年限りで現役を引退。球団職員となった。 2003年5月に球団の寮である「昇竜館」の館長であった村田広光の死去に伴い、後を引き継いで新館長に就任。中日スポーツでは週1回若手の活躍をレポートする「堂上照 昇竜館日記」を連載。 2007年からはスターキャット制作二軍戦中継の解説を不定期で担当していた。 2008年シーズン終了をもって豊田誠佑に寮長職を譲って退団。 現在は名古屋市港区の名港スポーツセンター内にある野球スクール「練成館」館長 。 投手でありながら、打撃の能力も高く、投手として完投した上に4打数4安打といった活躍をした事もあり、何度か代打にも起用され結果も残したほか、プロ通算で4本塁打を記録している。 中日及び巨人に所属して2017年に現役を引退し、現在は中日の球団職員を務める剛裕は長男で、中日一筋で2023年に引退した直倫は次男である。なお、息子2人が兄弟で同じチームに所属することについては、入団当時の剛裕は内野手であったためにポジションで競合する可能性が高く、同時に試合に出場できる事が少なくなることなどから「親心としては本当は別々のチームでプレイして欲しかった」とも語っている。 自身の寮長時代には剛裕も直倫も入寮していた時期があり、親子3人が同一球団に所属するプロ野球選手であるうえに同じ寮で生活することになったが、堂上は「あの時は気を使ったねー。自分の子供を甘やかすわけにはいかないから、必然的にあの子らに厳しくなってねェ」と振り返っている。 剛裕がドラフトで指名された時は嬉しかったが、直倫の時は高校生ドラフト1巡目ながら残念なような気持ちになった。堂上は子供の頃より阪神ファンであったため、後に「直倫には阪神に入ってほしかった」と語っている。 現役時代のコーチ、監督である近藤貞雄によれば、チーム内の“怒られ役”でもあったということである。 中日が串間にキャンプインした時は呑みに行くのに宮崎市内の方が近いにもかかわらず「巨人の連中がモテモテの宮崎に行くもんか」という理由で、串間から日南線と日豊本線を乗り継いで都城、都城からタクシーに乗り換えるなど交通費2万円をかけて鹿児島の天文館通りへ向かっていた。 各年度の太字はリーグ最高 初登板:1974年10月14日、対読売ジャイアンツ26回戦(後楽園球場)、5回裏に3番手で救援登板、3回2失点 初奪三振:1975年6月29日、対広島東洋カープ13回戦(中日スタヂアム)、8回表に池谷公二郎から 初勝利:1976年8月5日、対大洋ホエールズ18回戦(川崎球場)、7回裏に4番手で救援登板、2回無失点 初セーブ:1976年8月6日、対阪神タイガース18回戦(岡山県野球場)、8回裏1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点 初先発:1976年8月11日、対ヤクルトスワローズ17回戦(ナゴヤ球場)、5回2/3を3失点 初先発勝利・初完投勝利:1976年8月17日、対大洋ホエールズ19回戦(ナゴヤ球場)、9回2失点 初完封勝利:1977年10月1日、対読売ジャイアンツ25回戦(後楽園球場) 初安打・初打点:1976年8月11日、対ヤクルトスワローズ17回戦(ナゴヤ球場)、4回裏に渡辺孝博から2点適時打 初本塁打:1977年5月22日、対大洋ホエールズ7回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に奥江英幸からソロ オールスターゲーム出場:1回 (1978年) 38 (1971年) 13 (1972年 - 1985年) 94 (1996年 - 1998年)※チームスタッフ時代。正式なコーチ登録ではないが、ユニフォームと背番号が与えられていた ^ 名港スポーツセンター「練成館」 ^ 【ダンカンが訪ねる昭和の侍】堂上照さん、「頼むから打ち損ないになって~や~」で投げていた ^ プロ野球選手の正月 それぞれのキャンプ 石川県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 個人年度別成績 堂上照 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1位:氏家雅行 2位:稲葉光雄 3位:三沢淳 4位:村上義則 5位:伊藤泰憲 6位:堂上照 7位:盛田嘉哉 日本の野球選手 金沢高等学校出身の野球選手 NTT北陸硬式野球部及びその前身チームの選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 石川県出身のスポーツ選手 1951年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/10 17:12更新
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donoue terashi
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