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谷沢健一の情報 (やざわけんいち)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

谷沢健一の情報(やざわけんいち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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谷沢 健一さんについて調べます

■名前・氏名
谷沢 健一
(読み:やざわ けんいち)
■職業
野球選手
■谷沢健一の誕生日・生年月日
1947年9月22日 (年齢76歳)
亥年(いのしし年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
千葉出身

(昭和22年)1947年生まれの人の年齢早見表

谷沢健一と同じ1947年生まれの有名人・芸能人

谷沢健一と同じ9月22日生まれの有名人・芸能人

谷沢健一と同じ出身地千葉県生まれの有名人・芸能人


谷沢健一と関係のある人

千藤三樹男: 同期に谷沢健一・荒川尭・小田義人らがおり、自身も含め7人がプロ入りしている。


阿野鉱二: 他の大学同期に谷沢健一外野手、荒川尭遊撃手、小田義人一塁手らがおり、自身も含め7人がプロ入りしている。


長崎慶一: しかし打つ方が全然駄目で、最初は同じく六大学で首位打者になった3学年上の谷沢健一が1年目から活躍していたため、自分もそれなりにやれると思っていたが、プロの球の速さとキレとコントロール全てについていけなかった。


中井美穂: 「四死球(ししきゅう)」を「よんしきゅう」と読むなど野球の知識に乏しい状態での抜擢であり、当初は大矢明彦、平松政次、谷沢健一ら解説者にサポートされていたが、徐々に成長して評価を高めた。


安藤統男: 2-2の7回裏に阪神が4点を勝ち越してリードを保ったままマウンドを降りたが、8回表に伊藤宏光がケン・モッカに3ランを浴びると、9回表には山本和行が宇野を歩かせたところから、田尾安志と谷沢健一に連打され、宇野が同点のホームを踏んだところで池田の10勝目が無くなった。


石井義人: 谷沢健一には「バットをテニスのラケットのように使える選手」と評された。


上田二朗: 決勝では東京六大学選抜の星野仙一、橘谷健(東大-川崎重工)両投手と投げ合い、田淵幸一、谷沢健一らの強力打線を抑えて1-0で完封勝利。


木俣達彦: 谷沢健一、島谷金二、大島康徳、井上弘昭などの若手打者が育ったことから、この頃から7番打者が定位置となる。


高木守道: 谷沢健一・大島康徳・宇野勝ら主力の相次ぐ故障や不振、エース小松辰雄が7勝どまりに終わるなど苦しい采配を強いられたとはいえ、就任時よりも勝率が悪化した。


水原茂: 在任中には4位、5位、2位と優勝は果たせなかったものの、星野仙一、島谷金二、谷沢健一といった若手の選手育成に心血を注ぎ、自身をヘッドコーチとして支えた後継監督の与那嶺要による、巨人のV10を阻む1974年の優勝の土台を作った。


中村勝広: 東京六大学野球リーグでは、谷沢健一、荒川堯らのいた1968年秋季リーグで優勝を経験したが、自身の活躍の機会はなかった。


衣笠祥雄: 同年は37歳にして102打点を記録し、谷沢健一に3点差をつけて三冠初タイトルとなる打点王を獲得。


金城基泰: 1976年、巨人の張本は中日の谷沢健一と熾烈な首位打者争いを繰り広げていたが、谷沢は中日のシーズン最終戦である対広島ダブルヘッダーの第一戦で4打数3安打を放ち、土壇場で張本を逆転して初の首位打者を獲得する。


石井昭男: 1985年には、前年いずれも30本塁打を放った3番打者の谷沢健一、4番大島康徳、5番ケン・モッカが相次いで故障で倒れる中、35試合に先発出場。


土橋正幸: 「プロ野球ニュース」解説者の谷沢健一とは、犬猿の仲とされた。


張本勲: 1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には6糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい記録である。


斎藤喜: 高校同期には後に中日ドラゴンズで活躍する谷沢健一がいる(谷沢とは高校時代に3、4番のクリーンアップコンビを形成していた)。


西山喜久恵: 1996年12月29日に出演した『プロ野球ニュース』は、達川光男・谷沢健一・夏木ゆたかと共に、実家である西山別館より1時間の生中継で放送された。


荒木雅博: オフに、翌年は中日OB・谷沢健一と同じタイプのバットを使用することが報道された。


江本孟紀: 2018年1月29日に「叙勲受章祝賀会」が行われ鳩山由紀夫、原辰徳が祝辞を述べ、乾杯の音頭はアントニオ猪木が取り、司会は松本秀夫が務め、金田正一、野村克也、川淵三郎、森喜朗、周防郁雄、山本浩二、谷沢健一、上田次朗、佐々木主浩など球界、政界、芸能界から約650名が出席した。


小田義人: 一塁手としてベストナインに選ばれたか、この時のベストナインは三塁手は富田勝、遊撃手は荒川尭、外野手は山本浩二・谷沢健一と後にプロで活躍する選手が多く選ばれている。


風見しんご: 当時中日の選手会長だった谷沢健一は「あの乱闘で自分自身も含め中日の選手6人とコーチ4人が負傷させられ、結局レギュラー野手4人とエースの負傷も響いて、中日は二連覇を逃した」と話している。


片山文男: その後、谷沢健一率いる社会人野球クラブチームの西多摩倶楽部に入部、その後谷沢がYBCフェニーズを立ち上げたのにともなって転籍。


星野仙一: 就任後は谷沢健一に水面下で引退を勧告し、谷沢は引退。


ケン=モッカ: 三塁守備は失策の多さと守備範囲の狭さから不安定だったものの、打撃では3割を超える打率を3回残し、円熟期の田尾安志・平野謙・谷沢健一・大島康徳・宇野勝・中尾孝義らとともに、強竜打線と呼ばれる打線の一員として活躍する。


金森久朋: 一時フォーム改造に取り組んだ際は谷沢健一前監督、松岡弘監督がつきっきりで指導した。


笠井崇正: 客員教授で1・2年時に講義を担当した谷沢健一の勧めで2015年11月に独立リーグのベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)のトライアウトを受験、ストレートで最速146km/hを計測した。


井手峻: 相手のサインを見破ったとしても、それを聞くことを好まない選手も存在し、谷沢健一は「俺には絶対に言わないでくれ」と言っていた。


若松勉: 1976年は張本勲、谷沢健一と激しい首位打者争いを繰り広げ、終盤に失速したものの打率はリーグ3位の.344を記録した。


野村克也: この年には中日ドラゴンズで山田久志監督の退任が決まっていたため、大会後の報道では後任監督候補の1人に挙げられていたが、当時の球団社長である西川順之助は、球団外部から「野村氏を監督に」と強く推す声はあったが沙知代を問題視して野村案を斥け、早々に落合博満と谷沢健一に候補を絞り込んでいたと語っている。


谷沢健一の情報まとめ

もしもしロボ

谷沢 健一(やざわ けんいち)さんの誕生日は1947年9月22日です。千葉出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

酒マッサージによるアキレス腱痛の克服、詳細情報などについてまとめました。現在、引退、テレビ、卒業、解散、母親に関する情報もありますね。谷沢健一の現在の年齢は76歳のようです。

谷沢健一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

谷沢 健一(やざわ けんいち、1947年9月22日 - )は、千葉県東葛飾郡柏町(現:柏市)出身の元プロ野球選手。現在は野球解説者、YouTuber。左投左打、ポジションは一塁手、外野手。 1987年に「柏市民特別功労賞」の最初の受賞者となった。現在は神奈川県在住。

現役時代は中日ドラゴンズで17年間主軸打者として活躍し、引退後はフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、サンケイスポーツ・毎日新聞野球評論家を歴任。1994年からは西武ライオンズの打撃コーチを歴任。現在はフジテレビ・東海テレビ・J SPORTS野球解説者、YouTuberとして活動している。

自宅はスポーツ用品店を営んでいたため、幼少期からスキー、テニス、陸上などさまざまなスポーツをたしなんでいた。千葉県の習志野市立習志野高等学校では2年生から外野手のレギュラーとなり、控え投手もこなす。2年生のときには、津田沼から谷津遊園の区間で東京オリンピックの聖火ランナーを務めたことがある。

1964年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合を神宮球場で観戦した。

1965年、夏の甲子園予選東関東大会の県予選準決勝に進出するが、銚子商の木樽正明投手に完封され大敗。甲子園出場はならなかった。銚子商は甲子園で準優勝。高校同期に捕手の須藤和彦、阪急ブレーブスに入団した遊撃手の斎藤喜がいる。谷沢もこの年のドラフト会議で阪急から4位指名されたが、球団からの接触は一切なかったという。

1966年、一般入試で早稲田大学第二文学部社会専修に入学。東京六大学野球リーグでは在学中2回の優勝を経験。

1967年春季リーグでは打率.396で首位打者を獲得、リーグを代表する左の強打者として活躍した。

1968年秋季リーグでは田淵幸一、山本浩二(当時:浩司)、富田勝ら「法政三羽ガラス」が最上級生にいた法大に競り勝ち優勝。

1969年には主将を務めるが、明大、法大の後塵を拝し春秋季とも3位と優勝には届かなかった。第7回、第8回アジア野球選手権大会の日本代表に選出されている。

史上屈指の打者といわれた石井藤吉郎監督をして「俺が見た中で早大史上最高の左打者」とまで言わしめた(石井も左打者だった)。六大学打撃10傑の常連で大学通算打率.360を記録、6季連続で打率3割以上に達し、ベストナインにも6度選出されている。同期の荒川尭遊撃手とのコンビは“早稲田のON砲”と呼ばれたが、その名にふさわしく両者合計37本の本塁打を放った。リーグ通算82試合に出場し308打数111安打、18本塁打、63打点、打率.360。

1970年3月、早稲田大学第二文学部社会専修卒業、学位は文学士。

1969年のドラフト1位で中日ドラゴンズに外野手として入団(背番号:14)。意中の球団は巨人であったが、石井に相談したところ「セの球団だし行ってはどうか」とアドバイスを受けた。この年、早稲田大学からは大洋ホエールズに荒川尭、読売ジャイアンツに小坂敏彦投手、阿野鉱二捕手が入団。その後も千藤三樹男外野手、安田猛投手、小田義人一塁手と同期のプロ入りが続き、最終的には谷沢を含め同期計7人がプロ選手となった。

1970年は開幕から左翼手として起用され規定打席に到達。打率.251(リーグ22位)ながら新人王に輝く。巧打の中距離打者として活躍。

1972年は開幕から三番打者に定着し全試合に出場。

1973年は一塁手に回り、打率.295(リーグ3位)の好成績を記録。

1974年は22本塁打を放ちリーグ優勝に大きく貢献、巨人の10連覇を阻止した。同年のロッテとの日本シリーズは全6試合に一塁手、五番打者として先発出場。2勝4敗で敗れたが、第3戦では成田文男から連続本塁打を放つなど、シリーズ通算23打数7安打6打点と活躍した。

1976年はイメージチェンジの発想により、背番号を14(いいよ)→41(よい)に変更、またジーン・マーチンが一塁手に回り、右翼手として起用される。同年は打率.355(正確には.35483)で首位打者を獲得。先に日程を終了していた張本勲(打率.35477)を驚異的な追い上げで逆転したもので、その差.00006(6糸)は2位との差としては最も小さい記録である。また初のベストナイン(外野手)にも選出された。

1977年のシーズン中盤には一塁手に戻る。

1978年には、大学時代からの持病のアキレス腱痛が悪化し6月から故障欠場。9月には一応の先発復帰を果たすが、有効な治療法がなく選手生命が危ぶまれた。しかし酒マッサージの創始者の小山田秀雄に出会い、日本酒を患部に塗ってマッサージする療法で2年にわたり治療を続け、ついには回復する(後述)。ヤクルトが初優勝を決めた1978年10月4日の試合では9回に併殺打を打ちこの試合の最後の打者となっている。

1979年9月23日対横浜大洋ホエールズ戦(ナゴヤ球場)の7回に代打で登場してファンの大声援を浴びヒットを放って谷沢健在をアピールした。

1980年には若松勉を抑え、打率.369で2度目の首位打者に輝く。またカムバック賞も受賞して見事復活を遂げた。ただし同年のチームは谷沢の活躍にもかかわらず最下位に低迷し勝率.372にとどまる。

1981年9月には、巨人の加藤初、西本聖からプロ野球タイ記録となる4打席連続本塁打を放つ。

1982年のリーグ優勝にも四番打者として貢献。同年の西武との日本シリーズでは2勝4敗で敗退するが、22打数8安打6打点を記録した。

1984年には打率.329(2位)、自己最多の34本塁打(4位)、99打点(2位)を記録。

1985年10月23日に対広島戦(広島市民球場)で高木宣宏から右前安打を放ち、2000安打を達成し名球会入り。

1986年シーズン終了後に39歳で引退

1987年のオープン戦に引退試合を行い本塁打を放った。すでに解説者へ転身しており選手としての調整ができず、引退試合でも打席に立つとき以外は解説者を務めていた。

引退の理由として、監督に就任した星野仙一(1986年オフ当時)の「監督谷沢は選手谷沢を使えるか?」という発言が決めの一手となったと引退記者会見で述べている(記者会見の様子はNHK特集「監督 星野仙一」で放送された)。引退直後のテレビ出演時には、星野との話し合いのなかで、「あと3年現役を続けられるのなら必要な戦力だが、1年しかできないなら要らない」と言われて引退を決意したとも語っている。しかし、2010年に出版した著書「野球のソムリエ」のなかではこのような発言や星野との確執を否定するような記述もみられ 、自身のYouTubeで田尾から星野から「あと3年~」発言はあったのかと尋ねられたときも、「あったかもしれない」という一言に留めたことから、記者会見での発言の意図や真意は定かではない。

1989年に、早稲田大学大隈講堂で習志野高の後輩である掛布雅之(元・阪神)と講演会を行った際には、引退が早すぎたかとの質問に答えて「自分でもあと一年くらいはやれたと思うが監督の意向が入っており仕方がなかった」と語っている(口調は穏やかでいまさら拘泥するつもりはないという風情の発言であった)。

さらに後年に語ったところでは、1986年10月に球団事務所に呼ばれ、フロントから『次の監督は星野さんで、谷沢くんは構想に入ってない』『年俸がこれだけでいいなら残っていいよ』と言われたことから「来季構想には入ってないけど、年俸次第で残っていいなんて意味がわからない。こんなあやふやに考えているんだと思って引退を決意した」との事情を明らかしている。また、自身のYouTubeでも、上記のフロントとのやり取りで引退を決意した後に星野監督に会い、上記の「監督谷沢は選手谷沢を使えるか」発言を星野から言われたと回想している。

1年先輩の星野とは、世間では現役時代から大の不仲と噂され、マスコミ相手でのふたりだけの2ショットシーンは入団初期に行われた「週刊ベースボール」の対談企画によるたった一度だけだった。ただし、星野が2018年に逝去した際には評論家を務めていた中日スポーツに高木守道、木俣達彦、大島康徳とともに生前を偲ぶコメントを寄せていた。また、自身のYouTubeチャンネルでは2020年11月5日に「【中日ドラゴンズ】星野仙一さんとの思い出・秘話」を投稿し、決して世間で語られるほどの不仲ではなかったことを示唆している。実態としては、星野が谷沢の行動の一部を嫌っていたというのが真相らしく、谷沢によれば「星野さんとの確執がどうのこうのって言われるけど、僕からするとまったくない。ただ、シーズンが始まる前、僕が自宅に選手を集めて決起集会をやっていたんだけど、そういうのを星野さんは嫌がっていたみたいよ(笑)」とのことで、田尾安志も「谷沢さんは派閥をつくるとかそんなことどうでもよく、本当に穏やかで誰とでも飲みに行ける人。むしろそういうところが星野さんとしては気に食わなかったのかも」と証言している。また、親会社の中日新聞社の経営陣が、戦時合併の名残で大きく分けて新愛知系(大島家)と名古屋新聞系(小山家)の2派に分かれ、前者が星野を、後者が谷沢を後援していたことも影響して不仲説が流布したとされる。

引退後は名古屋を離れ、地元の柏に移住。フジテレビ・ニッポン放送・サンケイスポーツで野球解説者と野球評論家として活動した。

1994年からは西武ライオンズ二軍打撃コーチに就任し、同年途中から一軍に配置転換された。

1995年も引き続き一軍打撃コーチを務めたが、チーム打率4位に低迷し、チームも3位に終わり同年退団。

その後はフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ・J SPORTS(東海テレビ制作中継の解説)野球解説者・東京中日スポーツ(2019年まで)野球評論家となり、現在に至る。

1998年4月、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科に入学。国際経営学を専攻し、国際的視野からのプロ野球球団経営のあり方を研究、修士論文を提出し、修士号を取得した。現在は、早稲田大学客員教授として、体育実技/硬式野球とスポーツ論を担当している。ちなみに、体育実技/軟式野球の担当は應武篤良早大野球部監督(当時)である。なお、日本ティーボール協会副会長として長年ティーボールの普及に尽力している。

2004年より社会人野球のクラブチームである西多摩倶楽部(東京都あきる野市)の監督を務め、楽天の育成選手となった金森久朋らを育てた。

2005年のシーズンを最後に退任。同年9月に、「谷沢野球コミュニティ千葉」(YBC)を設立し、理事長に就任した(2007年にNPO法人格を取得)。故郷の千葉県柏市を本拠地として社会人野球のクラブチーム「YBCフェニーズ」(現:YBC柏)を結成し、2007年のクラブ選手権では南関東大会準決勝に進出した。同チームはクラブチームながら三軍制という特異な形態である。

また、2009年5月に独立リーグ球団・三重スリーアローズ(2010年発足、2011年解散)のアドバイザーツーオーナー(ATO)という役職に就任することが発表された[1]。谷沢のブログによると、この役職はYBCフェニーズ監督でもある谷沢の立場上の制約に伴うもので、三重の選手やコーチに対する指導、選手の入退団に関する事項への関与をしないという前提で日本野球連盟に認められた。2010年11月からは東京大学運動会硬式野球部の臨時コーチ、2017年4月からは山口県の誠英高等学校の硬式野球部のアドバイザーに就任した。

酒マッサージによるアキレス腱痛の克服

早稲田大学野球部のころからアキレス腱に痛みを抱えていたが、その都度痛み止めを注射して痛みをごまかしてきた。アキレス腱痛をかばう走り方もしてきたため足の甲や踵が変形していった。だが、1978年ごろついにかばいきれないほど悪化し、二軍落ちを味わう。そして、30近い療法を試すがどれもうまくいかず失意にあえいだ。

そんな折に、半身不随だった自分の母親が九州のある医者のマッサージを受けて回復したというある中日ファンから、電話で何度も熱心にその治療法を推薦された。この熱意に折れて、ファンの顔を立てる程度の気持ちで(当時完全に諦めていて、引退を考えていた)、谷沢はその医者を訪ねることにした。その医者は酒マッサージの創始者の小山田秀雄だった。小山田はかつて西鉄ライオンズでトレーナーとして従事し、連投を重ねた稲尾和久の肩を酒マッサージしてケアした経験があった。小山田に実際に会い、酒マッサージについて聞かされたときは、最初は酒でマッサージという概念が全く信じられずにいたが、熱心に小山田に誘われて治療を受けることにした。

日本酒をたっぷり注いだ風呂に入り、念入りにアキレス腱をマッサージするというものだが、その際に使われる日本酒は当時の日本酒級別制度の定めた二級酒であった。一級酒や特級酒は「飲むのにはいいが、マッサージのときに患部へ塗るとベタベタするから」というのがその理由である。こうしたマッサージでアキレス腱痛を克服してレギュラーにカムバックし、1980年には.369で自身二度目の首位打者のタイトルを獲得、1982年にはリーグ優勝を経験するなど、1986年に引退するまで第一線で活躍し続けた。1985年には『谷沢健一の酒マッサージ:とてもよく効く日本酒健康法』(ABC出版)という著書も発表している。田尾安志を始め、同僚選手たちも谷沢の紹介で小山田の酒マッサージを受けたという。

また谷沢の体験は娘に影響を与え、次女の谷沢京子は東京、名古屋、広島で酒マッサージ師として活躍している。一方長女の谷沢順子はテキサス州立大学でアスレティックトレーナーの資格を取得後、陸上競技米国代表チーム、WBC米国代表チームなどでトレーナーを歴任したのち、2018年よりアリゾナ・ダイヤモンドバックスにマニュアル・セラピスト兼トレーナーとして加入した。

詳細情報

年度別打撃成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
1970 中日 126 479 427 39 107 17 6 11 169 45 6 7 6 6 34 3 6 66 8 .251 .315 .396 .711
1971 123 463 423 47 110 12 3 16 176 41 7 6 6 1 30 5 3 61 10 .260 .314 .416 .730
1972 130 537 465 58 135 21 4 15 209 53 2 6 1 1 63 5 7 42 11 .290 .383 .449 .833
1973 126 518 454 47 134 26 0 10 190 45 0 2 2 2 53 1 7 35 13 .295 .377 .419 .796
1974 125 516 466 73 135 31 0 22 232 77 2 1 4 4 39 2 3 51 7 .290 .348 .498 .846
1975 129 527 470 57 138 20 0 17 209 71 2 6 3 4 46 4 4 46 9 .294 .362 .445 .806
1976 127 547 496 66 176 36 1 11 247 52 4 3 4 6 37 0 4 51 9 .355 .404 .498 .902
1977 130 554 493 65 154 29 4 14 233 55 5 1 5 1 53 3 2 51 15 .312 .381 .473 .854
1978 70 199 184 17 52 14 0 2 72 18 1 4 1 2 11 0 1 27 6 .283 .327 .391 .718
1979 11 13 12 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 .167 .231 .167 .397
1980 120 481 425 61 157 27 1 27 267 80 2 3 0 4 50 10 2 59 10 .369 .438 .628 1.066
1981 127 506 462 57 147 22 3 28 259 79 4 2 0 5 39 4 0 63 6 .318 .371 .561 .932
1982 129 526 471 57 132 20 1 21 217 85 2 2 2 4 47 8 2 59 17 .280 .348 .461 .809
1983 130 548 485 60 153 33 0 21 249 87 1 2 1 3 57 7 2 56 13 .315 .390 .513 .903
1984 130 572 505 84 166 20 1 34 290 99 3 4 1 1 63 7 2 67 15 .329 .405 .574 .980
1985 104 405 360 37 104 9 0 11 146 47 1 2 0 2 42 5 1 44 6 .289 .363 .406 .769
1986 94 241 220 22 60 11 1 13 112 35 0 0 2 1 17 1 1 28 5 .273 .326 .509 .835
通算:17年 1931 7632 6818 847 2062 348 25 273 3279 969 42 51 38 47 682 65 47 807 160 .302 .368 .481 .848

各年度の太字はリーグ最高

タイトル

首位打者:2回(1976年、1980年)

最多出塁数:1回(1984年)

最多安打:1回(1984年)※当時連盟表彰なし(1994年より表彰)

表彰

新人王(1970年)

ベストナイン:5回(外野手部門:1976年、一塁手部門:1980年、1982年 - 1984年)※複数部門にまたがっての5度受賞はセ・リーグ最多タイ(ほかに原辰徳)

月間MVP:3回(1980年4月、1982年4月、1984年5月)

カムバック賞:1回(1980年)

記録

初出場・初先発出場:1970年4月12日、対読売ジャイアンツ1回戦(後楽園球場)、7番・左翼手として先発出場

初打席・初安打:同上、2回表に高橋一三から中前安打

初本塁打・初打点:1970年4月23日、対広島東洋カープ2回戦(中日スタヂアム)、2回裏に宮本洋二郎から左越ソロ

100本塁打:1976年9月4日、対大洋ホエールズ22回戦(川崎球場)、9回表に山下律夫から右中間へソロ ※史上90人目

1000安打:1977年6月29日、対ヤクルトスワローズ11回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に会田照夫から左前安打 ※史上102人目

1000試合出場:1977年9月23日、対阪神タイガース23回戦(ナゴヤ球場)、6番・一塁手として先発出場 ※史上196人目

150本塁打:1981年4月22日、対阪神タイガース4回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に池内豊から右越ソロ ※史上61人目

1500安打:1982年6月27日、対ヤクルトスワローズ9回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に鈴木正幸から右越二塁打 ※史上45人目

1500試合出場:1983年5月17日、対広島東洋カープ3回戦(浜松球場)、4番・一塁手として先発出場 ※史上74人目

200本塁打:1983年6月1日、対読売ジャイアンツ10回戦(ナゴヤ球場)、2回表に定岡正二から右越ソロ ※史上40人目

300二塁打:1983年8月4日、対横浜大洋ホエールズ17回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に広瀬新太郎から ※史上23人目

3000塁打:1984年9月29日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、6回表に北別府学から右越ソロ ※史上26人目

250本塁打:1985年4月16日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(横浜スタジアム)、3回表に金沢次男から2ラン ※史上23人目

2000安打:1985年10月23日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、4回表に高木宣宏から右前安打 ※史上22人目

4打席連続本塁打:1981年9月20日 - 9月21日 ※史上9人目、歴代2位タイ

4打数連続本塁打:同上 ※史上11人目12度目、歴代2位タイ

最多二塁打3回 ※セ・リーグ最多タイ

オールスターゲーム出場:9回(1970年 - 1973年、1976年、1980年、1981年、1983年、1984年)

背番号

14(1970年 - 1975年)

41(1976年 - 1986年)

80(1994年 - 1995年)

2024/06/14 11:52更新

yazawa kenichi


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