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与那嶺要の情報 (よなみねかなめ)
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【4月7日】今日誕生日の芸能人・有名人

与那嶺要の情報(よなみねかなめ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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与那嶺 要さんについて調べます

■名前・氏名
与那嶺 要
(読み:よなみね かなめ)
■職業
野球選手
■与那嶺要の誕生日・生年月日
1925年6月24日 (年齢2011年没)
丑年(うし年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
不明

(大正14年)1925年生まれの人の年齢早見表

与那嶺要と同じ1925年生まれの有名人・芸能人

与那嶺要と同じ6月24日生まれの有名人・芸能人

与那嶺要と同じ出身地の人


与那嶺要と関係のある人

黒沢俊夫: 俊足で、NPB歴代2位となる通算10個のホームスチールを成功させたが(1位は与那嶺要の11個)、この年の5月20日の対近畿日本戦(西宮球場)では1試合2本盗を達成している(NPBタイ記録)。


樋笠一夫: 1954年のアメリカ遠征で、チームメイトたちは英語を話せる与那嶺要を道案内に集団でストリップ小屋に繰り出したところ、樋笠は英語も話せず地理も不案内な中を一人で乗り込んで齧り付きで鑑賞しており、チームメイトはみなその行動力に驚いた。


江藤省三: 最終回に省三は与那嶺要監督に呼ばれ、「代打、江藤」と言われた瞬間に痺れた。


樋笠一夫: 移籍後初出場となった同19日の名古屋戦(後楽園)では与那嶺要と共にファンに入団挨拶したが、その直後の試合で代打で登場し、エース杉下茂からいきなり本塁打を放った。


長嶋茂雄: 一方、対戦相手の中日はこの日、名古屋市内での優勝祝賀パレードに参加するため監督の与那嶺要、星野仙一、高木守道ら主力選手は名古屋に留まり試合への欠場を余儀なくされたため、控えと若手主体のオーダーで臨んだ。


岩本尭: 巨人では、前年限りで青田昇が放出されていたことから、岩本は新人ながら与那嶺要・南村不可止と共に外野の一角を占め、1年目から7番を打ってチームのリーグ3連覇に貢献。


山崎善平: 1試合2本盗:同上 ※黒沢俊夫、与那嶺要と並びプロ野球記録。


鈴木泰明: 新・巨人の星(与那嶺要


萩原寛: 1951年になると、南村不可止・与那嶺要の加入により急激に出場機会が減少する。


福本豊: また日本シリーズ史上最多となる、1シリーズで3盗塁死という記録(1984年対広島)も持っており、2018年現在でも1953年の与那嶺要(巨人)、2018年の田中広輔(広島)と並ぶ最多記録タイである。


川上哲治: 巨人は第二次黄金時代に入り、千葉・青田や与那嶺要らと共にチームを支えた。


清水隆行: 2003年、3月28日の中日ドラゴンズとの開幕戦で前年巨人相手にノーヒットノーランを達成した川上憲伸から先頭打者本塁打を放ち幸先のいいスタートを切ったが(巨人では1956年与那嶺要以来)、ニューヨーク・ヤンキースに移籍した松井秀喜の穴を埋める中堅手の守備練習や開幕早々の肉離れなどの故障などが重なり打率.240、14本塁打の成績に終わり、規定打席にも到達しなかった。


井手峻: 妻の実家の家業を手伝う気でいたが、与那嶺要監督から「僕は君が戦力として必要だ。


星野秀孝: その後局面はデーブ・ジョンソンの満塁本塁打となり、高木時夫一軍バッテリーコーチに罰走を命じられてそのまま二軍落ちしたほか、激昂した与那嶺要監督に「あんた八百長やったの?」と詰問されるなど、首脳部の信頼を一気に失い、翌年には南海ホークス・西岡三四郎との交換トレードを通告された。


木次文夫: 大成できなかった原因として、バットに当たれば打球は飛ぶが、身体のシャープさに欠けてバットスイングが鈍く、練習での改善は困難であった(与那嶺要)、野球選手に必要な敏捷さがなかった(水原茂)との評価がある。


水原茂: 選手には川上哲治、千葉茂、与那嶺要、広田順、別所毅彦ら名選手が揃っていた。


川本徳三: 当時の巨人打線は千葉茂、川上哲治、青田昇、与那嶺要、宇野光雄という強力打線であり、この時の好投で自信を掴んだ。


小松原博喜: 1951年になると6月から加入した与那嶺要に定位置を奪われ、以降は徐々に出場機会を減らした。


張本勲: 同年の猛打賞22回は与那嶺要に20年ぶりに並び、1996年にイチローに更新されるまで日本記録だった。


盛田嘉哉: 1軍監督が与那嶺要に代わり代走専門の選手を1軍に置かなくなったため出場機会は減少したものの、24試合出場で5盗塁を記録した。


高木守道: 中日で4年連続で監督を務めたのは当時、与那嶺要、星野に次いで3人目だった。


王貞治: 当初は一塁に与那嶺要を外野からコンバートさせて、王は外野のポジションでの起用を水原監督は考え、オープン戦で右翼を守らせ、与那嶺を一塁に起用したが、王には外野は務まらないということで一塁に王を起用し与那嶺はもとの外野に戻った。


田尾安志: 監督の与那嶺要がコメントで「アンダースロー用の代打で期待している」と述べており、田尾はレギュラー取って3割を打ってやるぐらいの気合いで入団したという。


近藤和彦: この時はまだ天秤打法ではなく、大下弘や、与那嶺要に憧れてバットを立てて構えていた。


渡辺博之: またこの年は、打率.353を記録して与那嶺要(.361)に続く打率2位につけ、ベストナインにも選ばれた。


松井稼頭央: 818試合目での達成はイチロー、ブーマー・ウェルズ、与那嶺要に次ぐ歴代4位だった。


近藤貞雄: 1972年に中日の監督に就任した与那嶺要の要請で、古巣中日にヘッドコーチ兼投手コーチとして再度招かれる。


後藤修: スポーツニッポンでも評論を行っていたが、スポニチ時代の1972年には混戦のセ・リーグ優勝争いを佐藤栄作辞任後の「三角大福中」による自民党総裁選になぞらえ、V8を狙う巨人は福田赳夫、伝統と玄人芸を誇る名門・阪神は大平正芳、大洋は別当薫監督でなく青田昇ヘッドコーチを田中角栄にし、中日は与那嶺要監督で三木武夫、ヤクルトは中曽根康弘とした。


鈴木孝政: 中日はこの年のドラフトで球団と親会社は仲根正広の指名を希望していたが、このドラフト会議に監督の与那嶺要の代理で出席したヘッド兼投手コーチの近藤貞雄がミーティングでのスカウト報告を聞いたときに引っかかるものを感じ、鈴木に対するとにかくボールが速いの評価に近藤はこれほど魅力的な要素はないと判断し、中日の指名順番が回ってきたときに仲根が残っているにもかかわらず鈴木を1位指名した。


岩本堯: 巨人では、前年限りで青田昇が放出されていたことから、岩本は新人ながら与那嶺要・南村不可止と共に外野の一角を占め、1年目から7番を打ってチームのリーグ3連覇に貢献。


与那嶺要の情報まとめ

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与那嶺 要(よなみね かなめ)さんの誕生日は1925年6月24日です。

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父親、母親、現在、引退、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。2011年に亡くなられているようです。

与那嶺要のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

与那嶺 要(よなみね かなめ、本名:ウォレス・カナメ・ヨナミネ(Wallace Kaname Yonamine)、1925年(大正14年)6月24日 - 2011年(平成23年)2月28日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)マウイ島オロワル生まれのプロアメリカンフットボール選手(ランニングバック)、プロ野球選手(外野手、左投左打)・コーチ・監督(外国籍を有する監督としてはNPB史上初)。

父親は沖縄県、母親は広島県出身のハワイ移民日系2世。日本IBMの社長を務めたポール与那嶺は息子。2025年より北海道日本ハムファイターズに所属するマイカ与那嶺は大甥(弟の孫)に当たる。

ウォーリー(Wally)という愛称で親しまれ、ウォーリー与那嶺と表記されることもある。

小学生になると、夏休みには父親が働く製糖会社パイオニア・ミルのサトウキビ畑の刈り入れを手伝う。この家業の手伝いが「足腰の強さを培った」ともいわれている。フェリントン・ハイスクールでは、アメリカンフットボール・バスケットボール・野球の万能選手だった。

俊足を買われ、1947年にアメリカンフットボールのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(当時はNFLとは別のAAFCというリーグに所属していた)に契約金14,000ドルで入団。ハーフバックとして活躍するが、同年オフにハワイへ帰郷した際、野球を楽しんでいたところ左手首を骨折したことが原因で、49ersを退団。次にハワイアン・ウォリアーズでプレーするが、2年目に左肩を脱臼してフットボール選手としての現役続行を断念した。

1950年に野球に転向し。マイナーリーグAAA級サンフランシスコ・シールズ傘下のC級ソルトレイクシティ・ビーズ(英語版)に入団する。同年は打率.335を打ってリーグ5位に入り、翌年の2A昇格が決まっていた。しかし、同年オフにホノルルで行われた、ハワイ選抜対パ・リーグ選抜に出場して日本プロ野球選手の好待遇を知り、与那嶺は日本でのプレーを望む。

日米球界の架け橋となったキャピー原田によって読売ジャイアンツに紹介され、シールズ監督のレフティ・オドールの勧めもあって、1951年シーズン途中の6月2日に来日する。しかし、アメリカ国籍の選手が日本プロ野球でプレーするのは戦後初めてだったことから、日本人への影響を踏まえて慎重に検討され、6月19日になってようやく2年契約の年俸100万円で読売ジャイアンツ入団を果たす。戦後初の外国人選手となった。与那嶺は入団までしばらく野球ができなかったことから、東京の町でランニングをしていた。特に、朝早くの皇居ランニングを気に入っており、当時ハワイから来日していたダド・マリノと一緒に走ったこともあったという。

同年6月19日の対中日ドラゴンズ戦でデビュー。2点リードされた7回裏無死一二塁の場面で、代打を探すためにコーチボックスからダグアウトへ戻った監督の水原茂に対して、与那嶺は「I'll try!」(やります!)と叫び、初打席に代打として起用される(事前に何も言われておらず準備もしていなかったところに、突然水原から代打を命ぜられたともいう)。そこで与那嶺は杉下茂からいきなり三塁線に絶妙のセーフティバントを決めた。翌20日の対広島カープ戦では小松原博喜に替わって「7番・左翼手」で先発出場して4打数2安打を打つと、そのまま左翼手のレギュラーに定着。8月末以降は1番打者に起用されるようになった。

優れた打撃技術だけでなく、同年9月12日の対国鉄スワローズ戦で1イニング3盗塁と2イニング連続本盗を記録した持ち前の快足に加え、併殺崩しや本塁突入時の激しいクロスプレイなど、本場仕込みの走塁技術を発揮。一方で、激しいプレーはすぐには日本人に受け入れられなかった上に、戦後まもない時期で日系アメリカ人を裏切り者とみなす風潮があり、与那嶺に対して汚いヤジを飛ばしたり物を投げ込んだりする観客もいた。与那嶺は「1年目は地獄だった。でも、彼らの気持ちを変えるのが自分の務めと自分に言い聞かせた。後に続く者のためにも、自身のためにも」と回想している。

一方、アメリカンフットボール選手時代には移動は飛行機で宿泊は一流ホテルだったところ、日本では移動は三等客車の列車で宿泊は和風旅館と、著しい待遇の違いに苦しんだ。また、蒸し暑い夏の気候や食事にも苦労し、特に毎食「タマゴメシ」(卵かけご飯。アメリカ人は生卵を食べる習慣がない)が出るのには閉口したという。しかし、与那嶺は生活面でも日本人と同じにしようと努力して、チームメイトとも良好な関係を築き、シーズン終了後に選手リーダー格の千葉茂から「あんたは俺たちと同じことをやった。あんたはいい奴だ。日本で暮らしてみないか。俺たちもできるだけ援助するよ」とまで言われている。同年シーズンは規定打数(現在でいう規定打席)不足ながら打率.354、26盗塁の好成績を残した。

翌1952年にはいずれもリーグ2位の打率.344、38盗塁、リーグ最多の163安打、104得点を記録し、オールスターゲームにも初出場を果たす。オールスターには以後8年連続で選出されている。同年の猛打賞22回は青田昇を超える当時の日本記録(1972年に張本勲が並び、1996年にイチローが更新)。この年は打率.312でリーグ6位に入った千葉茂と1・2番コンビを組み、二人とも四割を超える高出塁率を記録した(与那嶺.405、千葉.412)。

1953年からはこれまで中堅手のレギュラーであった青田昇の大洋移籍に伴って、与那嶺が中堅手を務めるようになるが、このシーズンもリーグ5位の打率.307を残した。

1954年には、渡辺博之・西沢道夫と激しく首位打者を争うが、9月中旬以降.433と好調を維持し、打率.361という自己最高の成績で、同僚の川上哲治(打率.322)を押しのけて自身初の首位打者を獲得。加えて、172安打、69四球、出塁率.441、93得点のいずれもリーグトップで、リードオフマンの役目を全うした。1955年は9月4日の広島カープ戦で負傷して閉幕まで20試合を欠場、打率.311(リーグ4位)に留まり、川上(打率.338)に首位打者を奪い返される。

1956年3月21日の対国鉄戦で球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打を放つ(その後に巨人で記録した選手は2003年の清水隆行、2007年の高橋由伸)。同年は打率.338で2度目の首位打者となり、リーグ5位の13本塁打を残す。同年オフには、年俸が600万円にも達し、チームで一番の高給となっていた。川上がフロントに対して、与那嶺の給料が自分より高いことについて説明を求めたとの噂もあったという。

翌1957年は風邪のために春季キャンプで出遅れ、オープン戦は22打席無安打に終わる。与那嶺は開幕戦の先発から外れるが、第4戦の4月2日の大洋戦から先発に復帰。川上が開幕から3割5分台で打撃成績トップを走っていたが、6月に入ると与那嶺が逆転し、最終的には与那嶺が打率.343で2位の田宮謙次郎(.308)を大きく引き離して2年連続3回目となる首位打者を獲得。初のMVPにも選出された。

1958年からは再び左翼手に戻り、この年の5月25日対広島カープ戦で1000本安打を達成するが、793試合目での達成は当時のNPB最速記録であった(1989年にブーマー・ウェルズが781試合で更新)。1958年は.293、1959年は.287と2年連続でリーグ3位の打率を残した。

35歳のシーズンとなった1960年、打率.228と成績が急降下する。同年11月19日、かつては首位打者を激しく争った川上が監督に就任すると、与那嶺は来季の戦力構想から外れる。成績の下降も然ることながら、日本語の上達が思わしくないこともまたその理由であった。巨人退団にあたって球団から功労金として、引退するなら100万円、他球団に移籍するなら50万円の提示を受ける。他球団でのプレーを希望していた与那嶺は50万円を了解するが、ちょうどこのシーズンでA級10年制度の資格を得たため、資格を持ったまま他球団と交渉することを希望し、自由契約の発表を待って欲しいと伝える(与那嶺は権利の有無で年俸に40,000ドルもの差が出ると主張したという)。しかし、巨人側は与那嶺の希望を無視し、A級選手の移籍交渉解禁の12月16日を待たずに12月3日に自由契約を発表した。与那嶺は中日ドラゴンズと近鉄バファローから誘いを受けるが、巨人と対戦できることを理由として12月7日に年俸15,000ドルで中日に入団した。

巨人時代はベストナインを通算7回受賞するなどの活躍で第2期巨人黄金時代を支えた。1番・与那嶺、2番・千葉茂は当時球界屈指の1・2番コンビであり、4番打者の川上とは首位打者を争うライバルであった。

1961年4月8日の巨人を相手にした開幕戦では9回に決勝本塁打を放つなど、開幕当初は好調だったが、力の衰えは隠せず7月下旬からレギュラーを外れる。結局、本塁打は開幕戦の1本のみで、打率.178に終わる。1962年はわずか3安打に留まり、この年限りで現役を引退、12月26日にコーチ就任が発表された。

引退後は中日(1963年 - 1966年一軍打撃コーチ, 1970年 - 1971年ヘッドコーチ→1972年 - 1977年監督)、東京・ロッテ(1967年 - 1969年一軍打撃コーチ)、巨人(1978年 - 1979年二軍外野守備・走塁コーチ→1980年一軍打撃コーチ)、南海(1981年一軍打撃コーチ→1982年一軍ヘッド兼打撃コーチ)、西武(1983年二軍打撃コーチ→1984年一軍守備・走塁コーチ)、日本ハム(1985年一軍守備・走塁コーチ→1986年ヘッドコーチ→1987年 - 1988年一軍ヘッド兼打撃コーチ)と、長期間切れ目なく各球団で監督・コーチを歴任。中日監督時代は1972年には新人監督での開幕連勝記録を達成し、1974年には、古巣・巨人のV10を阻止し、1954年以来となる20年ぶりのリーグ優勝を果たした。

南海のコーチには監督のドン・ブレイザーの要請で就任。

1987年オフにフジテレビ系『プロ野球ニュース』の企画「特別出前表彰式」に出演。都内の自宅にて、やや困惑した顔で中井美穂から表彰状を受け取っていた。

1988年シーズンを最後にアメリカへ帰国するが、夫人が真珠専門店「与那嶺真珠」を経営していたため、その後も1年の半分は日本で過ごしていた。1990年にホノルルのシェラトン・ワイキキで引退記念パーティー行われ、州知事・上院議員のほか、友人のピッツバーグ・パイレーツ球団代表など700人が集まった。その席上、ハワイへの恩返しとして、スポーツと学業に優れる生徒を毎年1名選定して年間5,000ドルの奨学金を支給する制度「ヨナミネ・スカラシップ」を発表した。1994年には米国人として初めて野球殿堂入りを果たす。

1998年には、ハワイ高校体育協会に20万ドル寄付し、以降は故郷のハワイで悠々自適の日々を送っていたが、2006年にプロ野球マスターズリーグ参加を機に18年ぶりに再来日した。

2007年には、本派本願寺ハワイ別院からハワイ人間州宝(英語版)として表彰された。

2009年には、オリックス・バファローズの招きで7月16日のロッテ戦で始球式を行ったなど80歳を超えても元気な姿を見せたが、前立腺がんのため2011年2月28日にホノルルのシニアホームで死去。85歳没。

死去から3ヶ月後の2011年5月27日、東京都港区六本木の、本人が生前通っていた六本木教会にて『お別れの会』が催され、長嶋茂雄や王貞治、中日監督時代の教え子で1974年優勝時の投手だった星野仙一ら400人が参列し、故人との別れを惜しんだ。王は「全てを教えてくれ、野球人生が大きく変わった。与那嶺さんの加入は、プロ野球発展の節目の一つ」とスピーチした。また楽天監督を務める星野は「ウォーリーは生きています。私が『ウォーリーイズム』を楽天で作っています。必ずいい地盤を築き、ウォーリーに報告したい」 と挨拶し、最後は盛大な拍手と大歓声に包まれた。お別れの会は当初3月22日に千代田区麹町の聖イグナチオ教会で行う予定だったが、11日前(3月11日)に発生した東日本大震災により延期されていた。

出身地であるハワイ州のダニエル・K・イノウエ国際空港内には、功績を称え、サンフランシスコ・フォーティナイナーズや巨人の選手時代、中日監督時代のユニフォームなどが展示されている。

アメリカ仕込みのスライディング、タックルなどの激しいプレースタイルは、当時「スカートをはいたお嬢様野球」と揶揄された日本プロ野球に新風を吹き込んだ。「スライディングの際、足の甲で相手野手のグラブを蹴り上げてボールをこぼれさせる」「本塁突入時に、捕手のミットをはじき飛ばす、肩で捕手の左肩を狙って転倒させる」という走塁技術や、現在では当たり前に行われている打者の一塁ベースランニングの常識(コーナー内側を足で蹴り、90度の角度にすばやくスライドする)を日本プロ野球界に普及させた選手でもあった。また、犠打ではなく自身が出塁することを目的としたドラッグバントや、フライ球へのダイビングキャッチなどの新しい戦術は、与那嶺によってもたらされたと言われる。

初めのうち、激しい走塁は「汚いプレー」として、他チームや観客だけでなく審判からも激しく批判を受けた。しかし、巨人監督の水原茂が全面的に応援してくれたため、プレーを続けることができたという。

日本プロ野球界の走塁の意識を変えた外国人選手として、与那嶺はダリル・スペンサーと共に名前がよく挙がる選手であり、加藤良三は「日本の野球に革命をもたらしました。戦闘的スライディングはその一例で、芸術的な打撃はいまもまぶたに残っています」と語っている。

川上哲治は与那嶺について「とにかく、足が速かった。速いだけでなく、それまで見たこともないような頭を使った走塁術がすごかった」と振り返っており、「当時の日本の野球は、ただ打って、投げる、という単純な野球だった。そこに、彼が米国の進んだ野球を持ち込んできた。そういう近代野球への目を開かせてくれたという意味で、大きな貢献だった」とその功績を称えている。

ホームスチール通算11回は歴代1位であり、来日した1951年にはシーズン最多ホームスチール記録となる5回を決めている。ただし、日本シリーズ史上最多となる「1シリーズで3盗塁死」という記録(1953年対南海、7試合)も持っており、2018年現在でも1984年の福本豊(阪急、7試合)、2018年の田中広輔(広島、6試合)と並ぶ最多記録タイである。

打撃の方も、研究熱心だったこともあり、外国人選手が手こずる変化球打ちもすぐにマスターした。日本人的なボールを呼び込んで腰を回して打つ打法を、完全に自分のものにしていた。

芸術的な打撃と走守に優れる選手であったが、アメフト選手時代に肩を怪我した影響で弱肩であったため、肩が唯一の弱点ともいわれた。

アメリカからさまざまな雑誌を取り寄せて、MLBの情報に詳しかった。テッド・ウイリアムスなど当時の有名選手の理論を自分に採り入れるだけでなく、チームメイトにも教えたりし、巨人にとって大きな役割をしたと評価される。

日本語は日常会話であれば理解できたものの、読み書きはほとんどできず、細かな表現にはつたない部分もあった。与那嶺の日本語があまり上達しなかったのは、野球の練習に専念するために日本語の勉強の時間を惜しんでいたためとされる。中日監督時代の遠征の際、ある選手が門限を破って帰ってきたのを見付けた与那嶺は、「今晩は、寝ないで反省しろ!」と叱り付けたかったのを上手く言えず、「こんばんは」を何度も繰り返すばかりで言葉が先に進まず、結局何も言えないまま自室に帰してしまったことがある。周りにいた者たちは「なぜ監督は挨拶していったのだろう?」と不思議がったという。ただし本人も何も対策しなかったわけではなく、周囲の人に新聞を読み伝えてもらうことにより、スポーツ紙記者の考えなどはきちんと頭に入れていた。

野球に対する姿勢は厳しかったが、日常では穏和な性格で知られ、非常に大らかでアットホームな優しさを持っていた。谷沢健一は与那嶺の監督時代の思い出として、「開幕戦の前や移動日に家に全員招待してくれて、与那嶺夫人の手料理を振る舞ってもらって、息子さんや娘さんも歓待してくれた。そうやってチームの和ができていった。なかなか日本の監督さんにはないタイプだった」と語っている。また谷沢は「打撃理論が全く合わなかった」と述べている。星野仙一は「与那嶺さんに怒られたことは一度もない。懐の深い、米国の合理性と義理人情を両方持っている」と評したこともある。

大変な愛妻家で、当時のプロ野球選手は夫人を球場に呼ぶことはあまりなかったが、与那嶺は平気で夫人を観戦に呼んでいた。与那嶺がハッスルしている日は大抵夫人が観戦に来ていたことから、チームメイトから「これなら、毎日奥さんを来させなきゃダメだ」と冗談の種にされていた。

現役引退後サラリーマンと解説者をしていた権藤博を二軍投手コーチで招聘しており、権藤は与那嶺について「現場復帰への道を開いてくれた恩人」「熱い思いと行動力、そしてアメリカの合理主義を併せ持つ生き様は私の描く理想の野球を具現化する存在」と述べている。

1950年代前半頃、広島総合球場での対広島戦で小競り合いになると地元の広島ファンが降りて来たが、その中にヤクザがいて、「与那嶺、町中を歩いていたらぶっ殺すからな!!」と脅された。この体験は本人にとってトラウマになっていたらしく、後々まで「広島はヤクザが多くてホント怖いヨ」と口にしていた。

1975年の9月7日のヤクルト戦で鈴木孝政が9回表途中からリリーフしロジャー・レポーズから逆転2ラン打たれてその後1点入って延長になって続投の場面でベンチにいたら与那嶺は鈴木に「お前が行かなくて誰が行くんだ」と言い2発殴りベソかきながら10回表を投げその裏にサヨナラで勝ち投手になり、鈴木は「普段は優しいんですよ。」、与那嶺から「何で殴られたから分かるか。お前なら打たれてもベンチで観客席も皆が納得するんだ。だからお前を殴ってでもマウンドに行かせたんだ。」と与那嶺から言われ、鈴木は「自信になりました。あの2発には今でも感謝してます。」と述べている。

現役時代は川上と毎年打率上位を争い(与那嶺入団以降では、川上・与那嶺がいずれも3回首位打者を獲得している)、現役引退後も互いに監督として競い合った。与那嶺が1960年限りで巨人を退団し中日に移籍したのは、水原茂の後任として監督に就任した川上が、成績が急低下した与那嶺を戦力外と見なし、自身のチーム構想に組み入れなかったことが原因とされている。そのため川上を激しく敵視しており、関連するエピソードをいくつも残している。

当時同じ中日選手だった板東英二の著書『プロ野球知らなきゃ損する』には「中日の選手が川上さんと呼ぶと『川上じゃない、哲と呼べ』と訂正させた」、「ベテランなのに若手と一緒に泥まみれになり、哲をやっつける為に鬼の形相でキャンプ練習に取り組んでいた」「与那嶺さんが巨人との試合で逆転ホームランを打った時、ウォーリーの大合唱が起きて試合が中断するほどだった」などの記述があり、近藤貞雄も「ドラゴンズの人間がうっかり彼の前で『川上さんが』などと口にしようものなら、『川上さんなんて言わんでよろしい、テツでいい』と一喝するなど、ライバル意識は衰えることがなかった」と著書で記している。中日監督時代には、川上率いる巨人との試合で劣勢になると「哲のヤロー!! チックショー!!」と叫んだり、試合前のミーティングでも「哲に負けるな!!」と片言の日本語で吠えまくっていたという。1974年に川上率いる巨人のV10を阻むセントラル・リーグ優勝を決めた際には、「とうとうやったヨ、哲やっつけたヨ。Happyネ。長い間日本にいて良かったヨ、本当に良かったヨ……」と大はしゃぎしていたという。なお、川上はこの年限りで巨人軍監督を引退しており、与那嶺はまさに1960年のリベンジを果たした形となった。

もっとも、川上本人も憎まれていたことは十分に承知しており、「(川上が巨人の監督に就任した当時の)与那嶺は既に体力が衰えていたため、彼を戦力外としたのは仕方のないことだった」「与那嶺は日本語が上手くなかったためにコーチとしての留任も全く考えられなかった」と川上は語っている。

1978年に二軍外野守備・走塁コーチとして巨人に復帰し、1980年には打撃コーチを務めたが、同年に長嶋茂雄が監督を解任されると、同時に与那嶺も辞表を提出した。この時の長嶋解任には川上が関わっていたとする説があり、それに反発してコーチを辞任したのではないかと見られている。コーチ辞任後は巨人OB会には不参加を貫いた(コーチ時代はOB戦に出場している)ほか、1996年にナゴヤ球場で行われた中日対巨人のOB戦では、川上が巨人OBの監督として出場した一方、与那嶺は中日OBとして出場している。その一方で、川上が関与していなかった世界少年野球大会では巨人のユニフォームを着用し、協賛行事の日米OBオールスターゲームに出場したことがある。

少年時代の王貞治が後楽園球場での試合を観戦した際、王少年は観戦に来た大勢のファン達と同様に、巨人の選手達に向かってサインを希望した。周囲の少年達はサイン用の色紙や本格的な硬球を差し出しサインを希望したが、経済的に豊かとは言えなかった王少年は玩具のゴムボールを差し出し、そこにどうにかサインをもらおうと頑張っていた。だが選手達も忙しいこともあり、王少年は必死で差し出したものの、粗末で目立たないゴムボールなどは見向きもされなかった。その時、与那嶺だけが王少年のゴムボールに気付き、立ち止まって快くサインに応じた。

後年、このエピソードの真偽を問われた与那嶺は、「何で日本の選手はサインをしてあげないのか、不思議に思いました。彼が王君だったかは分かりませんが、目の大きな子供が軟球を差し出していました。誰もサインをしてあげなかったので、僕がしたことは覚えています」と返答した。王は与那嶺が死去した際、「小学生の時に後楽園球場で初めてサインをいただいたのが与那嶺さん。プロ入りした時、野球の何たるかを教えてくれた恩人ともいえる方でした。温和な人柄でこんな形でお別れするのは残念でなりません」とコメントを寄せた。

各年度の太字はリーグ最高

首位打者:3回(1954年、1956年 - 1957年)※2年連続はセ・リーグ初

最多出塁数:3回(1954年、1956年、1957年)

最多安打(当時連盟表彰なし):3回(1952年、1954年、1957年)

最高殊勲選手(MVP):1回(1957年)※外国人の受賞は戦後初

ベストナイン:7回(外野手部門:1952年 - 1958年)

野球殿堂競技者表彰(1994年)

日本シリーズ技能賞:1回(1953年)

日本シリーズ最高打撃賞:1回(1952年)

日本シリーズ本塁打王賞:1回(1953年)

1000試合出場:1959年10月20日対中日ドラゴンズ戦 ※史上52人目

1000本安打:1958年5月25日対広島カープ戦

通算最多ホームスチール:11回 ※NPB記録

シーズン最多ホームスチール:5回(1951年) ※NPB記録

1試合最多ホームスチール:2回(1951年9月12日対国鉄スワローズ戦)※NPB記録

1イニング最多盗塁:3(1951年9月12日対国鉄スワローズ戦の7回)※NPBタイ記録

シーズン猛打賞回数:22(1952年)※当時のNPB記録

通算打撃妨害出塁:15 ※中利夫(21回)に次ぐNPB第2位

オールスターゲーム選出:8回(1952年 - 1959年)

7(1951年 - 1960年)

37(1961年 - 1962年、1965年 - 1966年、1972年 - 1977年)

35(1963年 - 1964年)

55(1967年 - 1969年)

61(1970年)

64(1971年)

76(1978年 - 1980年)

71(1981年 - 1982年)

87(1983年 - 1984年)

85(1985年 - 1988年)

1947年シーズン終了時

^ “総勢9人! 歴代外国人監督の通信簿”. 週刊ベースボールONLINE (2019年6月15日). 2020年3月16日閲覧。

^ “インタビュー 与那嶺 要 (ウォーリー・ヨナミネ)” (英語). ディスカバー・ニッケイ. Japanese American National Museum (2003年12月16日). 2025年3月12日閲覧。日本野球変えた「ウォーリー」与那嶺要氏、死去、与那嶺要氏が死去 85歳 プロ野球戦後初の外国人選手 - 琉球新報、近藤唯之『プロ野球監督列伝』新潮社、1984年、278頁、池井優『ハロー、マニエル、元気かい プロ野球外人選手列伝②』創隆社、1985年、214、215頁、松原 明の大リーグ:ホノルル空港の与那嶺さん、その4

^ 日本IBM、本格復活へ提案力勝負 社長に与那嶺氏

^ “【日本ハム】マイカ与那嶺と育成契約「与那嶺という名に恥じぬように」大伯父はウォーリー与那嶺”. 日刊スポーツ. (2025年2月14日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202502140000492.html 2025年2月14日閲覧。 

^ 若者たちへのエール、逆境を未来へのチャンスと考えて 安田秀一

^ 『プロ野球助っ人三国志』73頁

^ 『プロ野球助っ人三国志』74頁

^ 近藤祐司 (2011年3月4日). “巨星墜つ、日系人初のNFL選手“ウォーリー””. NFL JAPAN. 2011年9月30日閲覧。

^ 『ジャイアンツ栄光の70年』47頁

^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』288頁

^ 戦後初外国人選手、与那嶺要氏が死去

^ 『プロ野球三国志』84頁

^ 『プロ野球三国志』85頁

^ 『「ウォーリー」与那嶺氏死去 走塁に革命』日刊スポーツ 2011年3月2日

^ 『プロ野球三国志』83頁

^ 『菊とバット』230-232頁

^ 『プロ野球記録大鑑』266頁

^ 『プロ野球助っ人三国志』79頁

^ 『プロ野球記録大鑑』279頁

^ 『日本プロ野球トレード大鑑』88頁

^ 『菊とバット』232-233頁

^ “日本野球変えた「ウォーリー」与那嶺要氏、死去”. スポニチ (2011年3月2日). 2020年12月19日閲覧。

^ “ソフトバンク 藤本監督が新人監督初の開幕7連勝!柳田弾の1点を千賀、森が守り切る”. デイリースポーツ online (2022年4月1日). 2022年10月28日閲覧。

^ ベースボールマガジン 別冊新緑号(2023年5月号:門田博光と南海ホークス)、パンチ佐藤の漢の背中!(75)ゲスト◎高柳秀樹[元南海・ダイエー]、77頁

^ 『プロ野球助っ人三国志』81頁

^ 週刊ベースボール、2011年3月21日号 P95

^ “与那嶺要氏死去、85歳=元巨人外野手、中日監督-プロ野球”. 時事通信. (2011年3月1日). http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011030100917 2011年3月1日閲覧。 

^ “万雷の拍手で与那嶺氏と別れ…星野監督「良いチームつくります」”. スポーツニッポン. (2011年5月27日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/27/kiji/K20110527000903870.html 

^ “星野監督「ウォーリーイズム」で虎狩りだ”. 日刊スポーツ. (2011年5月28日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20110528-782149.html 

^ http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/profiles/26/

^ 『プロ野球助っ人三国志』77頁

^ 球界に悲しみ…長嶋さん「恩人です」王さん「残念」

^ 川上氏 与那嶺氏の死を悼む「寂しい気持ち」

^ 落合初春 (2016年6月13日). “亜細亜大・宗接唯人が華麗な本盗で話題に! プロ野球界の本盗王は誰だ?”. 週刊野球太郎. 2025年2月12日閲覧。

^ “打率.143でMVP 鷹・甲斐が盗塁を刺し続け、多くの記録が刻まれた日本S”. Full-Count. Creative2 (2018年11月4日). 2018年11月4日閲覧。

^ 『剛球唸る!』120-121頁

^ 近藤唯之の『プロ野球監督列伝』では敗戦投手となった投手に言った台詞とされている。どちらが真相なのかは不明。

^ 松本幸行の後日談より

^ 野球太郎No.053 2024ドラフト総決算&2025大展望号 (バンブームック) 竹書房、2024年、伝説のプロ野球選手に会いに行く~谷沢健一(元中日ドラゴンズ)、234頁

^ https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/03/02/kiji/K20110302000348360.html

^ 2013年12月25日、日刊スポーツ「2軍コーチで現場復帰/権藤博 自伝20」より

^ 週刊ベースボール2024年12月16日号、レジェンドを訪ねる、昭和時代の言い残し、鈴木孝政、65頁

^ 近藤貞雄著『退場がこわくて野球ができるか』ドリームクエスト、2000年、P72

^ 与那嶺著・『野球を変えた男』より。

^ 大和球士 1963

^ 『プロ野球記録大鑑』722頁

^ 『プロ野球記録大鑑』283頁

^ 『プロ野球記録大鑑』527頁

5,Robert K. Fitts「Wally Yonamine - The Man Who Changed Japanese Baseball-」2008 UNIVERSITY OF NEBRASKA PRESS LINCOLN AND LONDON, USA

『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年

『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年

小川勝『プロ野球助っ人三国志』毎日新聞社、1994年

ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳『菊とバット』文藝春秋〈文春文庫〉、1991年

『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年

宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年

別所毅彦『剛球唸る! - 栄光と熱投の球譜 (野球殿堂シリーズ)』ベースボール・マガジン社、1989年

有本義明『プロ野球三国志』毎日新聞社、1992年

大和球士『青春ホームラン王 実録小説王貞治』ベースボール・マガジン社〈スポーツ新書〉、1963年、13-15頁。全国書誌番号:63007555。 

読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧

読売ジャイアンツの選手一覧

中日ドラゴンズの選手一覧

東海ラジオ ガッツナイター(与那嶺の発する「野球はガッツ」という名言からこの番組の表題が付いたとされている)

侍ジャイアンツ - 1973年放映開始のTVアニメに中日の監督として登場した。声は嶋俊介が演じた。

新・巨人の星 - 1977年放映開始のTVアニメに中日の監督として登場した。声は鈴木泰明が演じた。

個人年度別成績 与那嶺要 - NPB.jp 日本野球機構

野球殿堂 与那嶺要

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

通算成績と情報 Pro-Football-Reference (英語)(プロフットボールでの記録)

池田豊 1936

桝嘉一 1937

根本行都 1938 - 1939

小西得郎 1939 - 1941

本田親喜 1941 - 1942

桝嘉一 1943

三宅大輔 1944

竹内愛一 1946

杉浦清 1946 - 1948

天知俊一 1949 - 1951

坪内道典 1952 - 1953

天知俊一 1954

野口明 1955 - 1956

天知俊一 1957 - 1958

杉下茂 1959 - 1960

濃人貴実 1961 - 1962

杉浦清 1963 - 1964

西沢道夫 1964 - 1967

杉下茂 1968

水原茂 1969 - 1971

与那嶺要 1972 - 1977

中利夫 1978 - 1980

近藤貞雄 1981 - 1983

山内一弘 1984 - 1986

星野仙一 1987 - 1991

高木守道 1992 - 1995

星野仙一 1996 - 2001

山田久志 2002 - 2003

落合博満 2004 - 2011

髙木守道 2012 - 2013

谷繁元信 2014 - 2016

森繁和 2017 - 2018

与田剛 2019 - 2021

立浪和義 2022 - 2024

井上一樹 2025 - 現在

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治, 鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一, 二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義, 藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂, 西沢道夫

78 松木謙治郎, 浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘, 小鶴誠

81 飯田徳治, 岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂, 白石勝巳, 荒巻淳

88 長嶋茂雄, 別当薫, 西本幸雄, 金田正一

89 島秀之助, 野村克也, 野口二郎

90 真田重蔵, 張本勲

91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎

92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男

93 稲尾和久, 村山実

94 王貞治, 与那嶺要

95 杉浦忠, 石井藤吉郎

96 藤田元司, 衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫, 小山正明

02 山内一弘, 鈴木啓示, 福本豊, 田宮謙次郎

03 上田利治, 関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治, 森祇晶

06 門田博光, 高木守道, 山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二, 堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学, 津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄, 秋山幸二, 佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹, 工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜, 金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾, 山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信, 黒田博樹

25 イチロー, 岩瀬仁紀

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一, 平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

25 掛布雅之

59 正力松太郎, 平岡凞, 青井鉞男, 安部磯雄, 橋戸信, 押川清, 久慈次郎, 沢村栄治, 小野三千麿

60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登, 宮武三郎, 景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三

69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧

70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚

71 小西得郎, 水野利八

72 中野武二, 太田茂

73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄, 西村幸生

78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎

79 平沼亮三, 谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫, 小川正太郎

82 鈴木龍二, 外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄, 山内以九士

86 中河美芳, 松方正雄

87 藤田信男, 山下実

88 横沢三郎, 芥田武夫, 永田雅一

89 池田恒雄, 伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征, 村上實

96 牧野直隆, 保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志, 井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟, 長谷川良平

02 中澤不二雄, 生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守, 豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規, 君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎, 大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男, 村山龍平

16 松本瀧藏, 山中正竹

17 郷司裕, 鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉, 石井連藏

21 川島勝司, 佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

25 富澤宏哉

02 フランク・オドール, 正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン, 鈴鹿栄

1950 小西得郎

1951 水原茂

1952 水原茂

1953 水原茂

1954 天知俊一

1955 水原円裕

1956 水原円裕

1957 水原円裕

1958 水原円裕

1959 水原円裕

1960 三原脩

1961 川上哲治

1962 藤本定義

1963 川上哲治

1964 藤本定義

1965 川上哲治

1966 川上哲治

1967 川上哲治

1968 川上哲治

1969 川上哲治

1970 川上哲治

1971 川上哲治

1972 川上哲治

1973 川上哲治

1974 与那嶺要

1975 古葉竹識

1976 長嶋茂雄

1977 長嶋茂雄

1978 広岡達朗

1979 古葉竹識

1980 古葉竹識

1981 藤田元司

1982 近藤貞雄

1983 藤田元司

1984 古葉竹識

1985 吉田義男

1986 阿南準郎

1987 王貞治

1988 星野仙一

1989 藤田元司

1990 藤田元司

1991 山本浩二

1992 野村克也

1993 野村克也

1994 長嶋茂雄

1995 野村克也

1996 長嶋茂雄

1997 野村克也

1998 権藤博

1999 星野仙一

2000 長嶋茂雄

2001 若松勉

2002 原辰徳

2003 星野仙一

2004 落合博満

2005 岡田彰布

2006 落合博満

2007 原辰徳

2008 原辰徳

2009 原辰徳

2010 落合博満

2011 落合博満

2012 原辰徳

2013 原辰徳

2014 原辰徳

2015 真中満

2016 緒方孝市

2017 緒方孝市

2018 緒方孝市

2019 原辰徳

2020 原辰徳

2021 高津臣吾

2022 髙津臣吾

2023 岡田彰布

2024 阿部慎之助

1952 与那嶺要

1953 川上哲治

1954 日比野武

1955 飯田徳治

1956 豊田泰光

1957 大下弘

1958 豊田泰光

1959 寺田陽介

1960 金光秀憲

1961 宮本敏雄

1962 吉田義男

1963 城戸則文

1964 山内一弘

1965 森昌彦

1966 柴田勲

1967 森本潔

1968 D.スペンサー

1969 長嶋茂雄

1970 長嶋茂雄

1971 末次民夫

1972 王貞治

1973 末次民夫

1974 有藤通世

1975 大橋穣

1976 福本豊, 柴田勲

1977 張本勲

1978 島谷金二

1979 高橋慶彦

1950 小鶴誠

1951 川上哲治

1952 別所毅彦

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 川上哲治

1956 別所毅彦

1957 与那嶺要

1958 藤田元司

1959 藤田元司

1960 秋山登

1961 長嶋茂雄

1962 村山実

1963 長嶋茂雄

1964 王貞治

1965 王貞治

1966 長嶋茂雄

1967 王貞治

1968 長嶋茂雄

1969 王貞治

1970 王貞治

1971 長嶋茂雄

1972 堀内恒夫

1973 王貞治

1974 王貞治

1975 山本浩二

1976 王貞治

1977 王貞治

1978 若松勉

1979 江夏豊

1980 山本浩二

1981 江川卓

1982 中尾孝義

1983 原辰徳

1984 衣笠祥雄

1985 R.バース

1986 北別府学

1987 山倉和博

1988 郭源治

1989 W.クロマティ

1990 斎藤雅樹

1991 佐々岡真司

1992 J.ハウエル

1993 古田敦也

1994 桑田真澄

1995 T.オマリー

1996 松井秀喜

1997 古田敦也

1998 佐々木主浩

1999 野口茂樹

2000 松井秀喜

2001 R.ペタジーニ

2002 松井秀喜

2003 井川慶

2004 川上憲伸

2005 金本知憲

2006 福留孝介

2007 小笠原道大

2008 A.ラミレス

2009 A.ラミレス

2010 和田一浩

2011 浅尾拓也

2012 阿部慎之助

2013 W.バレンティン

2014 菅野智之

2015 山田哲人

2016 新井貴浩

2017 丸佳浩

2018 丸佳浩

2019 坂本勇人

2020 菅野智之

2021 村上宗隆

2022 村上宗隆

2023 村上頌樹

2024 菅野智之

1950 藤村富美男

1951 川上哲治

1952 西沢道夫

1953 川上哲治

1954 与那嶺要

1955 川上哲治

1956 与那嶺要

1957 与那嶺要

1958 田宮謙次郎

1959 長嶋茂雄

1960 長嶋茂雄

1961 長嶋茂雄

1962 森永勝治

1963 長嶋茂雄

1964 江藤慎一

1965 江藤慎一

1966 長嶋茂雄

1967 中暁生

1968 王貞治

1969 王貞治

1970 王貞治

1971 長嶋茂雄

1972 若松勉

1973 王貞治

1974 王貞治

1975 山本浩二

1976 谷沢健一

1977 若松勉

1978 水谷実雄

1979 F.ミヤーン

1980 谷沢健一

1981 藤田平

1982 長崎啓二

1983 真弓明信

1984 篠塚利夫

1985 R.バース

1986 R.バース

1987 篠塚利夫, 正田耕三

1988 正田耕三

1989 W.クロマティ

1990 J.パチョレック

1991 古田敦也

1992 J.ハウエル

1993 T.オマリー

1994 A.パウエル

1995 A.パウエル

1996 A.パウエル

1997 鈴木尚典

1998 鈴木尚典

1999 R.ローズ

2000 金城龍彦

2001 松井秀喜

2002 福留孝介

2003 今岡誠

2004 嶋重宣

2005 青木宣親

2006 福留孝介

2007 青木宣親

2008 内川聖一

2009 A.ラミレス

2010 青木宣親

2011 長野久義

2012 阿部慎之助

2013 T.ブランコ

2014 M.マートン

2015 川端慎吾

2016 坂本勇人

2017 宮﨑敏郎

2018 D.ビシエド

2019 鈴木誠也

2020 佐野恵太

2021 鈴木誠也

2022 村上宗隆

2023 宮﨑敏郎

2024 T.オースティン

 投  別所毅彦

 捕  野口明

 一  西沢道夫

 二  千葉茂

 三  藤村富美男

 遊  平井三郎

 外  与那嶺要 / 南村不可止 / 杉山悟

 投  大友工

 捕  広田順

 一  川上哲治

 二  千葉茂

 三  与儀眞助

 遊  平井三郎

 外  金田正泰 / 与那嶺要 / 南村不可止

 投  杉下茂

 捕  広田順

 一  西沢道夫

 二  箱田弘志

 三  宇野光雄

 遊  広岡達朗

 外  与那嶺要 / 渡辺博之 / 杉山悟

 投  別所毅彦

 捕  広田順

 一  川上哲治

 二  井上登

 三  児玉利一

 遊  吉田義男

 外  渡辺博之 / 与那嶺要 / 町田行彦

 投  別所毅彦

 捕  藤尾茂

 一  川上哲治

 二  井上登

 三  児玉利一

 遊  吉田義男

 外  与那嶺要 / 田宮謙次郎 / 青田昇

 投  金田正一

 捕  藤尾茂

 一  川上哲治

 二  井上登

 三  三宅秀史

 遊  吉田義男

 外  与那嶺要 / 田宮謙次郎 / 青田昇

 投  金田正一

 捕  藤尾茂

 一  川上哲治

 二  井上登

 三  長嶋茂雄

 遊  吉田義男

 外  田宮謙次郎 / 森徹 / 与那嶺要

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2025/03/31 02:34更新

yonamine kaname


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高山 忠雄(たかやま ただお)
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鴇田 正憲(ときた まさのり)
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十束 るう(とつか るう、1997年6月24日 - )は、日本のAV女優、グラビアアイドル、タレント。女優。旧芸名は、渚 志帆。 長崎県佐世保市に生まれ、まもなく熊本県へ転居。ひとりっこである。6歳…


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