福本豊の情報(ふくもとゆたか) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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福本豊と関係のある人
三浦政基: 前年の10月2日の阪急戦ではチームメイトの金城基泰が一塁走者の福本豊を牽制でアウトにし、史上初の0球セーブを記録。 梨田昌孝: 梨田の現役時代、阪急ブレーブスには『世界の盗塁王』の異名を取る福本豊がいた。 加藤英司: 1968年の都市対抗では同僚の福本豊・岡田光雄と共に富士製鐵広畑の補強選手として出場し、4番打者として活躍。 西本幸雄: 西本の教え子には阪急時代には米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、森本潔、長池徳士、福本豊・山田久志・加藤秀司の「花の44年トリオ」、近鉄では鈴木啓示、佐々木恭介、梨田昌孝、羽田耕一、平野光泰、井本隆、栗橋茂、柳田豊などが挙げられる。 イチロー: さらにこの三塁打で福本豊の持つ三塁打数の日本記録をNPB/MLB通算で更新し、単独1位の116本目とした。 星野伸之: 阪急との接点はほとんどなかったが、家に山田久志、福本豊、山口高志のポスターが貼ってあり、兄と一緒に日本シリーズで見た山田や山口のフォームを真似していたという。 与那嶺要: ただし、日本シリーズ史上最多となる、1シリーズで3盗塁死という記録(1953年対南海)も持っており、2018年現在でも1984年の福本豊(阪急)、2018年の田中広輔(広島)と並ぶ最多記録タイである。 清水次郎: 清水次郎の虎たま! → 福本豊の虎たまデラックス!(2011年度 - 2015年度のナイターオフ番組、2013年度 - 2015年度のプロ野球シーズン中は『Monday! SPORTS - JAM』内の「虎スタ」に統合)- 2014年度までの『虎たま!』では単独でパーソナリティ、2015年度の『虎たまデラックス!』では福本豊のパートナーとして出演。 山口高志: 福本豊は「オレが守ってるときにタカシが完璧にやられた」唯一のケースと述べている。 中田昌宏: その後は西本監督の下で1軍打撃コーチとして福本豊、加藤秀司らを指導。 村田康一: 』(ABCラジオ)の18時台「福本豊のあの人は今 元・プロ野球選手名鑑」にゲスト出演した。 簑田浩二: 1983年に阪急が客寄せのアイデアとして福本豊、バンプ・ウィルスと簑田の俊足トリオを競走馬と対決させるイベントを企画した。 金田義倫: 死去から約1年半後の2021年8月7日に催されたしのぶ会では山田久志、福本豊、イチローらからも献花が届いている。 河野旭輝: この記録は1972年に後輩・福本豊に抜かされるまで日本記録であった(現在4番目の記録で福本を除けば1番目である)。 青井要: この時、福本豊に通算1000盗塁を決められる。 山下律夫: そのまま波に乗ることはできず、同23日の近鉄戦(日生)で先発もいきなり4失点し初回でKOされ、9月2日の阪急戦(富山)に先発した際も福本豊に先頭打者本塁打を打たれるとその後も一死も取れないまま自責点4で降板。 バンプ=ウィルス: MLB通算196盗塁の俊足と堅実な二塁守備を買われ、「1番・福本豊、2番・ウィルス」の俊足コンビを期待された。 田口壮: 背番号は、同年オフに二軍監督を退任・退団した福本豊が長年着用していた7を提示されたが、「あげようと言われましたが、あの福本さんの番号だから恐れ多い」と辞退し、アマチュア時代から着用し、熊野輝光の移籍に伴い空き番となっていた6で落ち着いた。 北條瑛祐: 2019年5月12日の阪神対中日ドラゴンズデーゲーム中継(甲子園)で、地上波テレビ向けに放送される阪神戦中継を初めて実況(解説:福本豊・下柳剛) 江夏豊: 少年野球の選手から、落合博満、山本浩二、福本豊ら球団の垣根を超えて集まった選手・OBの8名を相手に日本での最後の投球を披露した。 西本幸雄: 福本豊は「ノックを受けた阪急の外野手は、そりゃうまくなりましたね」と振り返っている。 高橋慶彦: 通算477盗塁は歴代5位の記録だが、盗塁死も多く、通算206盗塁死は福本豊の299に次いで歴代2位であり、広島・阪神時代に記録した通算202盗塁死はセ・リーグ記録である。 蓑田浩二: 1983年に阪急が客寄せのアイデアとして福本豊、バンプ・ウィルスと簑田の俊足トリオを競走馬と対決させるイベントを企画した。 吉田義男: 打撃コーチに福本豊に声を掛けて、岡田彰布がオリックスから阪神に指導者として復活するいきさつにも関わった。 石井晶: シーズン中から際どいタイミングでも必ずと言っていいほど本塁に突っ込ませ、客観的にはアウトのタイミングでも福本豊、簑田浩二の脚を計算に入れて大胆な決断を実行。 石嶺和彦: 通算盗塁数はわずか13盗塁だが、通算1065盗塁の福本豊が1度しか成功していないホームスチールを2度成功させている。 山口高志: 2試合目で本塁打を奪った太平洋クラブライオンズの4番・土井正博は阪急の福本豊に「山口のストレートは打ちにくい。 山越吉洋: 初安打:1987年6月24日、対南海ホークス12回戦(大阪スタヂアム)、8回表に福本豊の代打として出場、西川佳明から 広瀬叔功: 広瀬と同時代に南海ホークスの主力として、福本豊とも対決した野村克也も「福本も確かに速い。 本西厚博: 初打点:1987年5月15日、対南海ホークス7回戦(阪急西宮球場)、6回裏に福本豊の代打で出場、中村弘道から |
福本豊の情報まとめ
福本 豊(ふくもと ゆたか)さんの誕生日は1947年11月7日です。大阪出身の野球選手のようです。
現在、引退、卒業、テレビ、結婚、趣味、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。福本豊の現在の年齢は77歳のようです。
福本豊のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 福本豊チャンネル 世界の盗塁王 福本豊チャンネル 福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年〈昭和22年〉11月7日 - )は、大阪府大阪市生野区腹見町生まれ、大阪府布施市(現:東大阪市)出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)・コーチ・二軍監督、解説者・評論家、タレント、YouTuber。 現役時代は阪急ブレーブスに20年間所属したフランチャイズ・プレイヤーで、通算1065盗塁は1993年にMLBでプレーしていたリッキー・ヘンダーソンに記録更新されるまで世界記録だったことから「世界の福本」 「世界の盗塁王」の異名を持つ(2023年シーズン終了時点でもNPB記録・世界2位)。シーズン106盗塁、通算115三塁打、通算299盗塁死はNPB歴代1位。 現役通算2543安打、通算208本塁打という確実性とパンチ力を兼ね備えた打撃を持つ。NPB最多記録となる盗塁王を13回獲得、NPB最多記録となるダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を12回受賞している。またパ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞も受賞しており、14年連続シーズン50盗塁の金字塔も立てている。 俊足、主に中堅手として足を生かした広い守備範囲を誇る外野守備で加藤秀司、長池徳二、山田久志らと共に阪急黄金時代の主力として活躍した。 引退後は二軍監督・コーチを経て主に解説者・評論家、タレントとして活動している。2002年に野球殿堂入り。 大阪市生野区腹見町で生まれる。小学3年生の頃に、ゴムボールを手や角材で打つ「三角ベース野球」で初めて野球に触れる。小学5年生の時、父がラーメン店、母が布団仕立て直しを開業するため、布施市(現・東大阪市)に転居。転居後は出前の手伝いもした。「子どもの頃から巨人ファンだった」と記している。布施市立布施第三中学校(現・東大阪市立金岡中学校)時代は準硬式野球部に所属。2年生まではずっと補欠で、練習で川に入ったボールを探すついでに魚を追ったりした。3年生の大阪中学校優勝大会に一塁手でレギュラーとなる。 「母のいとこが相撲部の監督」という事情から大鉄高等学校に進学する。上級生からの制裁で1年生部員が減る中、監督が1年生を朝練習に呼び、その際のフリーバッティングでミートを評価されて「一軍」の練習に参加を認められる。右翼手での守備練習で、内野ゴロのたびに「送球がそれたらボールを拾うのは自分しかいない」と一塁のベースカバーに入っていたところ監督から「野球をよう知っとるなあ」と誉められ、夏の地区予選では1年生ながら右翼手のレギュラーになる。2年生の秋以降、中堅手のポジションになり、打順も1番となる。 1965年の高校3年生夏に、第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たす。同校は夏の甲子園初出場であった。1回戦では、この大会で4強入りした秋田高校と対戦するが、延長13回裏、福本と二塁手が打球を「お見合い」してしまい、サヨナラ負けを喫した。福本は、声を掛け合う連携を怠ったことと後退が必要な二塁手ではなく前進できる中堅手が取るべき打球だったことに気づき、「自分のミスだった」と認めて「ええ経験を積ませてもらえました」と記している。 1年下のチームメートには、高橋二三男(元西鉄→太平洋・ロッテ、外野手)がいた。 卒業後は社会人野球の松下電器(現・パナソニック)に進む。松下以外にいくつかの大学からも入学の誘いがあったが、福本は大学野球の体育会的体質、特に鉄拳制裁を嫌っており、社会人ならそういう問題も少ないだろうと考え松下を選んだ。俊足が武器であったため、監督に「(俊足のスーパースターであった)広瀬叔功になれ」と言われ、当時の広瀬の背番号である12を背中に付けて広瀬をよく観戦しにいったという。福本は後年に「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」と語っている。 1年目の1966年から外野手のレギュラーを獲得。同年の都市対抗に二番打者として出場し、三塁打を放つなど活躍。社会人3年目の1968年には、同僚の加藤秀司(後の英司)・岡田光雄(元近鉄)と共に富士製鐵広畑の補強選手として都市対抗に出場。岡田と神部年男の好投もあって決勝に進出、河合楽器を降しチームを優勝に導く。8月にはアラスカ・ゴールドパナーズとの日米親善野球試合に出場。同年は社会人ベストナインのタイトルを獲得したが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。 同年秋のドラフト会議で、阪急ブレーブスに7位指名を受けた。入団当時の背番号は「40」。なお、阪急ブレーブス以外に、南海ホークスも、早くから福本の俊足に注目していた。しかし168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。 プロ入りのきっかけは、松下電器時代既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。試合でスカウトが来ている時に本塁打を打ったり、都市対抗野球でホームへ好返球をしたりする(ドラフト同期の山田が福本の名を知ったのはこのプレーだという)等のプレーが認められたものだった。これについて、福本は「たまたまあのときだけ、一番いいプレーが出たんや」と語っている。別の著書では、1968年夏に日本生命球場での試合に阪急球団マネージャーの矢形勝洋(のちに球団常務)とスカウトの藤井道夫が加藤の視察に訪れた際、「ついでに」リストアップされたという。また、阪急以外で接触があったのは近鉄バファローズのスカウトが「念のため」として住所と電話番号を尋ねた(それ以来「何の音沙汰もなかった」という)ことと、都市対抗野球出場時、読売ジャイアンツ(巨人)の多摩川グラウンドで練習した際に、巨人のスカウトが「君はいい選手だけど、惜しいねぇ。身長があと5センチあればなぁ…」と言っただけで帰った出来事だけであると記している。 本人はスカウトが自分に興味がないと思っていたことからドラフトに指名されたことを全く知らず、翌朝会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と言われ、そこで初めて自分が指名されたことを知ったという。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。実は阪急は松下電器に何度も連絡を入れていたが、福本を手放したくない松下側が阪急からの面会の申し入れを全て断り、一方で福本には「おまえは小さいからプロ行ったって無理」としてプロ入りを断念するよう勧めていたのが真相で、それを知った福本が「1回話だけ聞かせてください」と松下に懇願して阪急との面会が実現したという。 ようやく面会が叶った阪急の球団職員から肉料理をご馳走され、「プロなったらこんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留していたが、そうしているうちに何度も食事に誘ってもらったため断りにくくなってしまったという。結局、4回目の食事の時に入団を決意した。当初契約金500万円・年俸150万円という条件を提示されたが、松下電器では「ちょっと安すぎるから、プロ入りはやめとけ」という声が多く、給料や賞与が毎年上がっていたこともあり(当時月給は2万8千円だったという)、交渉でそれらを伝えると、契約金750万円・年俸180万円という条件に変わり、契約した。 前記の経緯から、福本は「松下電器に加藤がいたおかげで、僕も阪急ブレーブスの一員になれた」と著書に記している。 当時、福本の父は近畿日本鉄道の社員食堂で働いていたが、福本の阪急入団が決まると「息子とはライバル関係になる近鉄さんに、申し訳が立たん」と退職し、阪急宝塚本線庄内駅近くにラーメン店を開いたという。 プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだったという。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日の開幕戦(対東映フライヤーズ)、長池の代走で盗塁を試みるも、宮崎昭二・鈴木悳夫のバッテリーに盗塁刺され、翌日の同一カードダブルヘッダー第2試合でフランシス・アグウィリーの代走に起用された際、桜井憲・種茂雅之のバッテリーからプロ初盗塁を記録した。このため、プロデビューは、腰痛の治癒を待って8月に入団した山田や、初年度は2軍で多くを過ごした加藤(1969年の公式戦出場は9試合)よりも早かった。だが、オールスター戦前に監督の西本幸雄から「一度ファームへ行って、盗塁の練習でもして来い」と二軍行きを命じられる。二軍ではひたすら打撃練習(寮でも「植木の葉の先にバットを当てる素振り」をしたという)に励んだ。入団当初の福本は周囲のレベルの高さを見て「自分は(ドラフト)7位でそれほど期待もされていない。3年間だけ我慢してそれなりの結果が出なければ、プロ野球は諦めよう」と考えていた。2年目は力のある打球を飛ばせるようになり、本塁打も8本記録した。2年目のキャンプ時、見違えるようなスイングを西本監督に「誰に教えてもろたんや?」と言われ、「いやだなぁ、監督ですよ。監督に言われたとおりに素振りしていたらこうなりました」と答えたという。 1969年10月には大熊忠義が左翼手に回り、その後継として中堅手に起用される。1970年は開幕直後から一番打者に定着し、同年は規定打席(12位、打率.274)にも到達、75盗塁を記録して初の盗塁王を獲得した。 1972年から背番号を7に変更し、同年は打率.301(リーグ5位)と初の3割越えを果たす。日本プロ野球史上唯一の3桁、達成当時はMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)も破るシーズン106盗塁を記録、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1974年は首位打者を張本勲、ドン・ビュフォードと争い、リーグ3位の打率.327を記録。 1975年の阪急はプレーオフを制して3年ぶりのリーグ優勝を達成し、日本シリーズで広島東洋カープを下して、初めて日本一となった。 1977年5月15日、大阪球場で行われた対南海ホークス戦で、森口益光から安打を放ち、ちょうど100人目となる1000安打を達成する。7月6日の対南海ホークス戦(西宮球場)の4回に二盗に成功し、それまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録(596個)を更新(このとき、広瀬は中堅手の守備に就いており、グラウンド上で記録更新を目撃した)。その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。初めて盗塁王を獲得してからは、特別なケースを除いてベンチから盗塁の指示(サイン)が出ることはなくなり、福本の判断で走れるようになった(いわゆるグリーンライト)。出塁すれば「自動的にツーベースヒットと同じ意味」を持ち、加藤秀司が「三振さえしなけりゃ、どんな形でも三塁から」生還できると評した。福本は、1971年からの8年間で6度のリーグ優勝、さらに3年連続の日本シリーズ優勝に大きく貢献した。阪急が初めて巨人に勝った1976年の日本シリーズでは打率.407(11安打)、2本塁打でシリーズMVPに選ばれている。1977年の日本シリーズ第2戦では初回に四球で出塁すると、盗塁と二つの内野ゴロによりノーヒットで先制点を挙げ、著書で「これこそ、僕らが公式戦でやってきた普段着の野球」と記している。 1978年は打率.325を記録し、佐々木恭介に次ぐリーグ2位。1980年には当時のパ・リーグ記録となるシーズン112得点を樹立(1964年の広瀬叔功のリーグ記録を更新、1985年に落合博満が更に更新した)した。 1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)の9回に三塁への盗塁を決め、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。福本は新記録を本拠地の「西宮球場の競り合ったゲームで作る」と決めており、球団からも「西宮での達成」を求められていた。試合はその時点で大差のリードを許し走る気もなかったが、西武の遊撃手である石毛宏典がたびたび牽制のベースカバーに入ったことで「ついカッとなって」走ったという。福本は「何とも気の重い世界記録になってしまった」と記している。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。 盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、固辞した。この際、「立ちションもできんようになる」と言ったと報じられた。2021年のインタビューでは記者との雑談で口にした言葉だったと述べている。真意として、賞の第一号であった王貞治のような「野球人の手本」になれる自信がなかったこと、麻雀や喫煙もたしなむため他の受賞者に迷惑がかかると考えたことを、2013年の取材に対して述べており、2021年のインタビューでも同様の理由を挙げて「今でももらわなくてよかったと思います」と話している。ただし、大阪府知事賞詞(現:感動大阪大賞)の受賞は受け、大阪府知事の岸昌から賞詞を受け取っている。また、記録達成を記念して特例による名球会入会が認められたがこれも固辞し、同年9月1日の対ロッテオリオンズ戦で田村勲から中前打を放ち、史上17人目となる通算2000本安打を達成して正式に入会した。 このシーズンの盗塁は55に終わり、60盗塁を記録した大石大二郎(近鉄)に連続盗塁王の記録を13年で阻まれた。福本によると、939盗塁の達成前に「しんどかった」ことに加え、大石が自分と同じタイプの選手で「西本さんの教え子」でもあることから、「もう走れへんから、(タイトルを)お前にやるわ」と言ったという。連続記録に「こだわりはなかった」というが、相手が大石でなかったら「きっと14年連続を目指して、頑張っていたと思う」とも述べている。 1984年8月7日には1000盗塁に到達。その後は記録を1065まで伸ばした。1000盗塁を超えてからは、誕生日(11月7日)にちなんだ通算1107盗塁を個人的な目標にしていたという。 1985年は、37歳にしてキャリア最高となる95四球を選び、これは落合博満に次いでリーグ2位であった。同年頃からはレフトを守る機会が増え、盗塁のサインがダグアウトから出されるようになる。 1987年4月18日の対ロッテ戦(川崎球場、先発・山田久志)で佐藤健一のライナーを無理に取ろうとして右肩を脱臼する。救急搬送された病院での診断は「全治2か月」であったが、かかりつけの整体師(愛知県在住)に「任せてダメなら引退する」覚悟で2日おきに診察を受け、2週間で復帰した。福本にとって最初で最後の大きな故障離脱であった。この年のオールスター戦には監督推薦で出場、盗塁を試みたが失敗に終わる、これについて「知らないうちに足が動いていた」とコメントしている。これが福本が出場した最後のオールスター戦となった。 1988年のシーズンにはスタメンに入ったのは23試合にとどまり、出場試合数も92に減った(福良淳一、ダラス・ウイリアムズなどが主な1番打者となる)。それでも福本は現役を続行する意思があり、山田が引退を表明(10月10日)してから数日後、千里阪急ホテルに監督の上田利治と球団常務の矢形勝洋に呼ばれて面談した際にそれを「伝えたつもりでいた」が、その場に記者が来たときに矢形の指示でテーブルの下に隠れたという。シーズン終了間際の10月19日、ブレーブスのオリエント・リースへの売却が伝えられた。後の福本の回想によると、その日は来季の身分を、選手兼任コーチと専任コーチのいずれにするかの回答を球団から伝えられる予定だったが、売却により白紙になったという。阪急球団が作成していた1989年カレンダーには1月の箇所に「外野手」として打席での福本の写真があしらわれていた。 10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦があり、試合後の挨拶で監督の上田が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。早くから引退を示唆していた山田に対して、急に引退すると決めた福本は(引退試合もなくやめたため)周囲から「冷たい奴や」と言われたと回顧している。 後年、この時のことについて「引退を取り消すのが面倒くさかった」とも、「体力的にはあと3年はやれたけどね」とも語っている。また、『ベースボール・マガジン』など一部メディアでは、前日にコーチ要請を受け、阪急もなくなるということで引退を決めたと書かれている。『週刊ベースボール』でのインタビューによれば、当初は自由契約を希望したものの、受け入れられず任意引退の形を取られ(取らされ)、それならばと思いコーチ兼任を希望したが拒否されたという。結果的に知人のアドバイスにより引退を決意した。一時は阪神タイガースへの移籍も考えていたという。2021年のインタビューでは上田が「頭のいい人」なので「言い間違いはない」と思ったと述べる一方、「ノムさん(野村克也)みたいにボロボロになるまでやりたかったという気持ちはありました」と引退について話している。 他方で、その8日前、阪急身売りが公表される前の10月15日、毎日放送の野球中継中(南海対近鉄第25回戦)、門田博光の活躍に触れる際、同年代の選手として引き合いに出す形で福本がその年限りで辞めると述べていたことが井上光央アナウンサーによって言及されている。 現役最末期の福本は盗塁数が極端に減っていたが、これは出塁しても「待て」のサインが出るようになったためで、これにプライドを傷つけられていたことも引退の一因になっていると語っている。 1989年3月12日の引退試合(対巨人オープン戦・西宮球場)では、山田とともに阪急のユニフォームで出場し、福本は打席に入って香田勲男と対戦した。その後、コーチとして携わるオリックス・ブレーブスのユニフォームに着替えてベースコーチを担当した。 引退後の1989年はオリックスの一軍打撃コーチ、1990年から1991年まで同球団二軍監督を務めた。1989年に移籍してきた門田博光の相手を「ほかの誰の手にも負えない大きな存在」という理由で任されたが、同学年で現役の門田を見ると「僕かて野球を続けたかったのに…」と悔しさが募ったと回想している。 1992年から1997年まで6年間朝日放送(現:朝日放送テレビ)・サンテレビジョンの野球解説者を務める。この間の1992年6月16日、MLBのリッキー・ヘンダーソンが福本の持つNPB通算盗塁記録を超える1066盗塁を記録した。ヘンダーソンが福本の記録に近づいた際、福本は記録を破る瞬間を見届けるべく渡米している。ヘンダーソンは、福本が始球式を務めたその試合で福本の記録を抜いた。福本はヘンダーソンを祝福し、金色のスパイクをプレゼントしたのに対して、ヘンダーソンは試合後、記録を達成した時の二塁ベースをプレゼントした。福本はヘンダーソンの身体能力、特に盗塁・帰塁の1歩目を「まるでベン・ジョンソンのスタートのようだった。自分の筋力ではできない」と絶賛し、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と述べた。 1998年に阪神タイガースの一軍打撃コーチに就任。これは監督の吉田義男から打撃コーチとして招聘を受け、打撃を若い選手に伝えたいという年来の希望が叶うことから、守備走塁コーチとして先にオファーのあった巨人を断って受諾したものだった。しかし、監督が野村克也に交代した翌1999年は一軍外野守備・走塁コーチに配置替えとなり、その年で退任した。 その後は2000年から朝日放送→朝日放送テレビ・サンテレビジョンの野球解説者、スポーツ報知で野球評論家として活動している。 2002年に野球殿堂入り。2006年1月からは、阪南大学野球部特別コーチに就任。 2011年5月7日にほっともっとフィールド神戸で開催されたオリックス・バファローズ対千葉ロッテマリーンズ戦では、山田・加藤とともに、阪急時代を再現したユニフォーム姿で始球式を務めた。 2016年2月には、オリックス・バファローズの春季キャンプで、臨時コーチとして打撃や走塁を指導した。 2007年、第5回グッドエイジャー賞を受賞。 野球以外では、阪神甲子園球場そばにあるベースボールバー「G.LOVE」のオーナーを務めており、店内には本人の阪急時代のユニフォームや阪急西宮スタジアムの座席などが飾られている(現在は本店舗を含め計3店舗を展開している)。 ルーキーの頃、阪急電鉄から出向した浅井浄(1964年東京オリンピック400メートルリレー走代表で、マネージャーからトレーニングコーチを兼務)に指導を受け、福本は肘がぶれない走法を教えられたと記している。また、福本の足はチーム内でも一番速いというわけではなく、走塁時に左右の歩幅が一定で横に広がらない陸上短距離選手が理想とするような走り方であると足跡を収めた映像を交えて検証されたこともある。なお、初の盗塁王については福本は「単に勢いで取れただけ」と語っている。 打力が付き、レギュラーに定着したが、出塁しても盗塁のタイミングが全く分からずに牽制死、盗塁失敗を繰り返していた。前記の通り、結果次第では3年でプロ野球をやめる可能性があったため、自分がプロに在籍した証を残そうと、友人(高校時代の野球仲間)に8ミリカメラで試合を撮影してもらっていた。1969年のオフに自宅でその映像を早回しで眺めたところ、投手の個性が見えたという。それを実戦で確かめたのは3年目のシーズンだった。福本は「相手投手のクセではなく、僕は投球リズムを盗んだ」と記している。これにより盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。この研究が認められ、その後はフィルム撮影は球団の手で行われることとなった。 しかし、近鉄の神部年男、鈴木啓示の2人だけはなかなか特徴を盗むことができず、何度もフィルムを再生しなおした。神部は軸足(かかとが数ミリ伸び上がったら投球する)、鈴木は顔(顎が下がれば牽制、走者を一度見たら投球)に「癖」があることをついに発見、両投手の攻略に成功した。 東尾修は投球時に左肩が本塁方向に流れることを見抜き、「最初はモーションを盗みやすかった」という。1972年のオフ、ミズノが開いたアドバイザリースタッフとの懇親会で、東尾に頼まれて「すぐに直せるものではないから」この「癖」を教えた。翌シーズンになると東尾はその点を修正した上、逆にわざと左肩を流すようにして牽制球を投じる「ボークすれすれ」の方法も織り交ぜた。東尾はキャンプで審判を集めて「肩が入っていない」とアピールし、福本は塁に出ると審判に東尾の左肩に注意するよう頼むといった攻防もおこなった。 盗塁の3要素と言われる「3S」こと、スタート、スピード、スライディングのうち、スタートは以上のような徹底した投手の癖の研究、スピードは天性の俊足と若い時のフォーム矯正によって研磨された。残るスライディングについては、つま先からやわらかくベースに触れるスライディングを誰にも教わることなく独自に編み出している。スピードを殺さず、足への負担も少ないスライディングだった。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。ヘッドスライディングの危険性については引退後もたびたび解説の場などで口にしている。また、野手をかわすスライディングを高校時代に試みて捻挫した経験があったため、捕手からの送球をかわすことはせず、ベース正面から左足を伸ばして右足を折りたたんで突入するストレートスライディングしかしなかった。ヘッドスライディングを断固拒否し、それをチームメイトにも守るよう言い聞かせる姿勢であったが、かつてチームを共にしていた高橋慶彦は「俺達のレベルだとやっぱり手から帰らないとリードが取れない」と技術的にとても福本の助言を守れなかった事情を説明している。 スパイクシューズも特注で、普段の靴のサイズ(25 cm)よりも小さい24.5cmを使用し、400グラム弱と非常に軽く作られていた。またチームメイトだった松永浩美によると、歯の位置や本数、長さが異なるスパイクを複数所持し、球場の土の質に合わせ使いわけていたという。 福本の盗塁には優れた2番打者の存在も大きかった。福本自身、「有能なサポーターがおらんと、盗塁なんてひとつも成功しない」と語っている。当初は阪本敏三、ついで大熊忠義がその任にあたった。大熊は打席で福本を見ながら、ファウルボールや空振りをするなど、巧みなアシストをした。1975年のシーズンに、盗塁を目論んで一塁からよいスタートを切れたにもかかわらず、大熊がその投球をファウルにしたことに対し、「見送ってくれたら、二塁は楽勝でセーフやったのに」と言った結果、大熊の機嫌を損ねた。頭にきた大熊の申し出で、その翌日から2番打者がウイリアムスになった。ウイリアムスは直球を打ちに行くため、福本は丸1週間全く盗塁出来なくなった。アシストがないと走れないと謝罪し、大熊は元の2番に戻ってくれたという。1978年からは簑田浩二が台頭、簑田は自身も俊足なのを生かして、この年から1983年まで25盗塁以上を記録した。 このように、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781と優秀ではあるが飛び抜けて高くはなく、通算盗塁刺299も日本記録である。また日本シリーズ史上最多となる、1シリーズで3盗塁死という記録(1984年対広島)も持っており、2018年現在でも1953年の与那嶺要(巨人)、2018年の田中広輔(広島)と並ぶ最多記録タイである。これらのことから、盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。福本の前の通算日本記録保持者である広瀬叔功は、「勝つために走る」「チームが必要としている時に走る」自らの姿勢と(盗塁技術習得の一環として)「失敗を恐れずにどんどん走るべき」という福本の考え方を比較して「私の考え方と相容れない」としながらも、「ゲームの中で走ることによって、彼は彼なりの方法で盗塁の技術を極限まで高めた」「私がとやかく言えるような選手ではない」と評している。福本は、広瀬の日本記録を更新した際に「お師匠さん(広瀬)にかなわんことがぎょうさんある。その一つにボクのスタートは完全やない。ここ一番の心理状態も及ばない」「師匠の前で記録を作りたくなかった」とコメントしている一方、「意味のない、無駄な盗塁」(福本がシーズン日本記録を更新した直後に続けて三盗を決めたことをこう評したと伝えられた)という広瀬の言葉に対しては「『無駄な盗塁』などはありえない、と僕は確信しています」と述べている。 1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島東洋カープの高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、答えはたった一言「気合いや」だったので面食らったという(ちなみに、高橋は歴代5位の通算477盗塁を記録しているが、福本に次ぐ歴代2位の通算206盗塁刺を記録している)。なお、第1戦の3回裏、安打で出塁した福本はすぐに盗塁を成功させ、高橋も9回に三盗を成功させている。 野村克也は、福本について「(こちらが)走ると思うと走らない。走らないと思うと走る。あいつに鍛えられた」と評している。また、堀内恒夫は「福本はクロスプレーも巧い。福本は、クロスプレーの際に相手の捕手がベースを覆い隠していた場合には、相手の脚の関節をスパイクの裏で蹴るらしい。そうすることにより、自然に相手の足が動いて隠れていたホームベースがあらわれる」と語っている。 1972年に球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。掛け金が25万円で、福本が負傷してプレーできなくなった場合に球団に1億円が支払われるというものだった。後述するように人一倍体調管理、怪我防止、強靭な体作りに神経を使い、なにより「これだけ金をかけてる以上は絶対に大事にしないといけない」という心構えから、福本は現役中試合中には一度も足を怪我しなかった。保険は3年間で打ち切られたという。 大熊は福本の盗塁後に送りバントやゴロを打って三塁に進めてくれたため、福本はホームに生還できるための技術も磨いた。中腰のポーズで打球がヘルメットのつばの上下どちらに行くかを、スタートする判断の目安としていた。 通算1065盗塁の内訳は二盗915(失敗265)・三盗149(失敗27)・本盗1(失敗6)である。三盗については「セカンドからヒット一本でホームに帰れるのに、わざわざ危険を冒す必要もないし、二盗のような駆け引きもないからつまらない」と述べている。一方で「三盗はマークされないから簡単」とも言ってもいる。1度だけの本盗に成功したのはシーズン最多盗塁を記録した1972年で、7月1日の対近鉄戦であった。このとき福本は「滅多にないテレビ中継があるので狙っていた」という。この本盗では珍しくヘッドスライディングしており、試合後にその理由について「間一髪を争うプレー。手からいくとタッチは上から押さえつけるようになる。この方がセーフの確率が高くなるでしょう」とコメントしている。本盗については打者がバットを振る可能性から「ほんまに怖い」と著書で記し、成功した1回も打席の打者にサインを通さず走ったという。 1試合の最多記録は5盗塁(1972年5月3日・パ・リーグ記録)だが、4盗塁以上が9回、3盗塁以上は40回あり、宇佐美徹也は「ご立派の一言に尽きる」と評している。 11試合連続盗塁を2度(1971年、1974年)記録し、2020年に福岡ソフトバンクホークスの周東佑京が更新するまで49年にわたり日本記録であった。記録を作った当時、福本はこのような記録が存在することを特に意識していなかったという。 福本豊の盗塁対策としてクイックモーションが積極的に用いられるようになったのは有名であり、それを率先して行ったのが野村克也であったことから「野村がクイックモーションの原案者」と言われることもあるが、一番の切っ掛けを作ったという意味では「福本がクイックモーションを作った」と言われることもある。 福本の盗塁が脅威と認識されるようになると、各球団は本腰を入れて対策に乗り出すようになった。なお、福本は盗塁を許すのはピッチャーの責任が7割、キャッチャーの責任が3割であると語っている。 ロッテオリオンズ
読売ジャイアンツ
福本は、巨人との日本シリーズで足を封じられた原因として、「巨人のエース・堀内恒夫の存在が大きかった」と振り返っている。堀内は森と対策を考え、自分はクイックモーションで投げて牽制もするからと、森に二塁にきちんと投げるよう頼み、森はトスされたボールを二塁に投げる練習を繰り返した。また、福本によると堀内の牽制球は「1球ごとにタイミングが違」った上に、自分は短期決戦のプレッシャーから硬くなっていたという。福本は堀内を「日本一走りづらいピッチャー」「クイックも牽制もうまいし、クセも見つからなかった」と評し、堀内はその理由について、重心移動がうまくセットポジションで左肩を一塁に開き気味にしたまま本塁に投球できた点を挙げている。1971年の日本シリーズではこのあと福本は一度も盗塁を企図できなかった。捕手の森も、若手の頃にクイックモーションの名手・堀本律雄投手とバッテリーを組んだ試合では、1960年から1962年の3年間に阻止率.706(51企図に対し36盗塁刺)という驚異的な数字を残し、特に1960年6月1日の大洋戦では一試合5盗塁刺(企図された5回全てを刺す)を記録するなど、クイックモーションの有効性を肌で知っていた。なお、巨人の監督が長嶋茂雄に代わり、捕手も吉田孝司に変わった1977年の日本シリーズでは、第2戦の初回に堀内のクイックをかわして盗塁に成功している。 南海ホークス
近鉄バファローズ
西鉄ライオンズ
守備記録など解説者として人物語録現役時代
1992年5月27日『サンテレビボックス席』で阪神甲子園球場から放送された阪神対大洋戦の中継において、投手戦で0が並んだまま延長に入ったスコアボードに、実況担当の楠淳生が「福本さんどうですか? 点入らないですね」と話しかけると「たこ焼きみたいやな」と返答し、15回裏に阪神が1点を取ってサヨナラ勝ちを収めると「たこ焼きにつまようじがついたな」と述べた。楠は「たこ焼き事件」と呼ばれたこの一件を契機に「福本さんのざっくばらんに磨きがかかって、面白くなりました」と評している。 2008年7月29日のABCフレッシュアップベースボールで神宮から放送されたヤクルト対阪神戦は5回終了後悪天候のため試合を中断していた。当日は2階席に設けた仮設放送席から中継していたが、吹き込んでくる雨から逃げるディレクターに楠と二人で「お前だけで逃げるな!」とツッコミを入れた。楠が他球場の経過等を伝えている間も「雷や、雷や!」と騒ぎ、楠に「しょうもない業務連絡やめてください」とたしなめられると「アホ、そやかて服濡れてしまうやろ」と返答した。放送席の周囲に観客が集まる中、「寒いなーこんなことなかったら麻雀やっとるわー」と話したり、コールドゲームで阪神が勝つと勝利投手のライアン・ボーグルソンを「儲けた白星やな」と評するなど、楠曰く「即興の漫才をやっているような状況」だった。 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高 NPBでは、1984年までは犠飛を考慮せず出塁率を計算していたため、当時の計算方法ではリーグ1位ではなかったが、現在の計算方法ではリーグ1位になる。 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBの外野手における歴代最高 太字年はダイヤモンドグラブ賞の受賞 盗塁王:13回(1970年 - 1982年) ※最多記録、13年連続は最長記録 最多安打:4回(1973年、1974年、1977年、1978年)※当時連盟表彰なし 最優秀選手:1回(1972年) ベストナイン:10回(1972年 - 1974年、1976年 - 1982年) ※外野手として10度受賞は歴代2位タイ、パ・リーグ2位 ダイヤモンドグラブ賞:12回(1972年 - 1983年) ※最多記録、12年連続は最長記録、1972年は池辺巌、広瀬叔功と共に外野手部門でのパ・リーグ史上初の受賞 野球殿堂競技者表彰(2002年) 日本シリーズMVP:1回 (1976年) 日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1977年、1984年) 日本シリーズ打撃賞:1回 (1976年) 日本シリーズ技能賞:1回 (1975年) オールスターゲームMVP:3回 (1973年 第2戦、1974年 第2戦、1982年 第1戦) ※シーズン、オールスターゲーム、日本シリーズでのMVPは川上哲治、大下弘に次ぐ史上3人目の記録(後にトーマス・オマリー、古田敦也、松井秀喜、内川聖一、阿部慎之助が達成) 兵庫県スポーツ優秀選手特別賞:1回 (1988年) ※世界新記録の盗塁1065個を称えて
初盗塁:1969年4月13日、対東映フライヤーズ3回戦(阪急西宮球場)、8回裏に二盗(投手:桜井憲、捕手:種茂雅之) 初先発出場:1969年4月20日、対南海ホークス3回戦(阪急西宮球場)、1番・中堅手で先発出場 初安打:同上、5回裏に泉嘉郎から右翼線二塁打 初本塁打・初打点:1969年10月9日、対東映フライヤーズ25回戦(阪急西宮球場)、6回裏に森安敏明から2ラン 450盗塁:1975年5月14日、対太平洋クラブライオンズ前期9回戦(阪急西宮球場)、8回裏に二盗(投手:加藤初、捕手:楠城徹) 500盗塁:1975年9月21日、対近鉄バファローズ後期10回戦(阪急西宮球場)、7回裏に二盗(投手:太田幸司、捕手:有田修三) ※史上2人目 550盗塁:1976年8月12日、対南海ホークス後期5回戦(大阪スタヂアム)、1回表に二盗(投手:江夏豊、捕手:野村克也) ※史上2人目 1000本安打:1977年5月15日、対南海ホークス前期8回戦(大阪スタヂアム)、9回表に森口益光から左前適時打 ※史上100人目 600盗塁:1977年7月19日、対クラウンライターライオンズ後期1回戦(阪急西宮球場)、3回裏に二盗(投手:古賀正明、捕手:若菜嘉晴) ※史上初 1000試合出場:1977年8月5日、対近鉄バファローズ後期4回戦(阪急西宮球場)、1番・中堅手で先発出場 ※史上192人目(大橋穣と同日達成) 650盗塁:1978年6月7日、対クラウンライターライオンズ前期10回戦(西京極球場)、1回裏に二盗(投手:山下律夫、捕手:若菜嘉晴) ※史上初 700盗塁:1979年4月10日、対西武ライオンズ前期1回戦(阪急西宮球場)、2回裏に二盗(投手:古沢憲司、捕手:野村克也) ※史上初 100本塁打:1979年4月22日、対日本ハムファイターズ前期2回戦(高知市野球場)、3回裏に杉山知隆から左越同点ソロ ※史上100人目 750盗塁:1979年9月11日、対南海ホークス後期9回戦(大阪スタヂアム)、3回表に二盗(投手:杉田久雄、捕手:伊藤勲) ※史上初 1500本安打:1980年6月6日、対日本ハムファイターズ前期10回戦(後楽園球場)、6回表に高橋直樹から ※史上38人目 800盗塁:1980年9月13日、対近鉄バファローズ後期9回戦(日生球場)、1回表に三盗(投手:井本隆、捕手:梨田昌孝) ※史上初 1500試合出場:1981年7月11日、対西武ライオンズ後期1回戦(阪急西宮球場)、1番・中堅手で先発出場 ※史上69人目 850盗塁:1981年8月26日、対西武ライオンズ後期7回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に三盗(投手:古沢憲司、捕手:山中重信) ※史上初 300二塁打:1981年9月21日、対南海ホークス後期12回戦(大阪スタヂアム)、3回表に山内新一から右翼線二塁打 ※史上19人目 150本塁打:1982年4月16日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(川崎球場)、1回表に水谷則博から先頭打者本塁打 ※史上63人目 900盗塁:1982年8月6日、対南海ホークス後期2回戦(阪急西宮球場)、3回裏に二盗(投手:井上祐二、捕手:岩木哲) ※史上初 3000塁打:1983年6月25日、対西武ライオンズ13回戦(島根県立浜山公園野球場)、8回裏に松沼雅之から左翼線二塁打 ※史上22人目 350二塁打:1983年7月3日、対日本ハムファイターズ13回戦(阪急西宮球場)、1回裏に高橋一三から左前二塁打 ※史上11人目 950盗塁:1983年8月2日、対近鉄バファローズ15回戦(平和台球場)、2回表に二盗(投手:住友一哉、捕手:梨田昌孝) ※史上初 2000本安打:1983年9月1日、対ロッテオリオンズ21回戦(阪急西宮球場)、4回裏に田村勲から中前適時打 ※史上17人目 1000盗塁:1984年8月7日、対南海ホークス18回戦(大阪スタヂアム)、9回表に二盗(投手:青井要、捕手:吉田博之) ※史上初 2000試合出場:1985年6月12日、対日本ハムファイターズ11回戦(後楽園球場)、1番・中堅手で先発出場 ※史上21人目 3500塁打:1986年5月9日、対南海ホークス5回戦(大阪スタヂアム)、9回表に竹口昭範から右中間安打 ※史上14人目 1050盗塁:1986年6月7日、対日本ハムファイターズ9回戦(後楽園球場)、3回表に二盗(投手:金沢次男、捕手:田村藤夫) ※史上初 400二塁打:1986年6月12日、対西武ライオンズ10回戦(阪急西宮球場)、4回裏に小野和幸から右翼線二塁打 ※史上8人目 200本塁打:1986年8月17日、対近鉄バファローズ17回戦(藤井寺球場)、1回表に久保康生から右越先頭打者本塁打 ※史上50人目 1000三振:1986年10月10日、対近鉄バファローズ26回戦(阪急西宮球場)、2回裏に谷宏明から ※史上13人目 2500本安打:1988年4月8日、対近鉄バファローズ1回戦(阪急西宮球場)、5回裏に阿波野秀幸から右中間三塁打 ※史上5人目 通算1065盗塁 通算115三塁打 通算299盗塁刺 通算外野手刺殺:5102 通算外野手守備機会:5272 通算初回先頭打者本塁打:43本(表24本、裏19本) ※表24本は日本タイ記録、裏19本はパ・リーグ記録 シーズン20二塁打以上:14回(1970年、1972年、1973年、1975年 - 1984年、1987年) ※タイ記録 シーズン三塁打リーグ1位:8回(1971年、1973年、1974年、1977年 - 1979年、1982年、1983年) シーズン50盗塁以上:14回(1970年 - 1983年) シーズン盗塁:106(1972年) 1試合3盗塁死(1980年6月19日)※タイ記録 13年連続盗塁王(1970年 - 1982年)※獲得回数13回も日本記録 12年連続ダイヤモンドグラブ賞(1972年 - 1983年) ※受賞回数12回も日本記録 14年連続シーズン50盗塁以上(1970年 - 1983年) 3年連続シーズン三塁打リーグ1位(1977年 - 1979年) ※タイ記録 2年以上連続での最多三塁打を3度 ※史上唯一 2年以上連続での最多四球を2度 ※史上唯一 通算1656得点(1969年 - 1988年) 通算449二塁打(1969年 - 1988年) シーズン得点リーグ1位:10回(1972年 - 1980年、1982年) シーズン四球リーグ1位:6回(1976年、1978年 - 1980年、1982年、1983年)※1980年は山崎裕之、1983年は門田博光と同数。他選手と同数でのリーグ最多四球2回はプロ野球史上最多 シーズン100得点以上:4回(1973年、1978年 - 1980年) シーズン100安打以上:18回(1970年 - 1987年) ※タイ記録 シーズン全試合出場:8回(1975年、1977年、1978年、1981年、1983年 - 1986年) ※タイ記録 シーズン初回先頭打者本塁打:8本(1972年) ※タイ記録 1試合5盗塁(1972年5月3日) 17年連続規定打席到達(1970年 - 1986年) ※タイ記録 3年連続シーズン100得点以上(1978年 - 1980年) ※タイ記録 18年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1987年) 9年連続シーズン得点リーグ1位(1972年 - 1980年) 3年連続シーズン四球リーグ1位(1978年 - 1980年) ※タイ記録 最多安打(当時連盟表彰なし):4回(1973年、1974年、1977年、1978年) ※1994年より表彰 通算猛打賞:178回 ※歴代5位 通算盗塁成功率:.781(1065盗塁299盗塁死) ※300盗塁以上では歴代4位 サイクル安打:1回(1981年5月21日、対西武ライオンズ戦、西武球場) ※史上34人目 30試合連続安打(1977年5月18日 - 7月10日) 2試合連続初回先頭打者本塁打(1980年8月9日 - 8月10日) 同一球場で1000安打(西宮球場) 日本シリーズ通算盗塁:14(1969年、1971年、1972年、1975年 - 1978年、1984年) ※歴代1位 日本シリーズ3試合連続盗塁 ※シリーズタイ記録 オールスターゲーム出場:17回(1970年、1972年 - 1987年) オールスターゲーム通算盗塁:17 ※歴代1位 オールスターゲーム通算得点:26 ※歴代1位タイ オールスターゲーム9連続盗塁成功(1976年第2戦 - 1979年第1戦) 40(1969年 - 1971年) 7(1972年 - 1991年) 87(1998年 - 1999年) スーパーベースボール(「虎バン主義」のタイトルで放送する朝日放送テレビ制作分の阪神戦中継。BS朝日では阪神が関与しない試合を含めてテレビ朝日制作分にも出演) サンテレビボックス席(サンテレビ) ABCフレッシュアップベースボール(朝日放送ラジオ) おはよう朝日土曜日です(朝日放送テレビ)
福本豊のプロ野球間違いない!(サンテレビ)※不定期放送 以下はプロ野球のオフシーズン限定番組 熱血!!タイガース党(サンテレビ)※「2代目党首」として出演 クイズ!紳助くん(朝日放送)※レギュラー解答者 虎バン(朝日放送)※番組開始から2012年度までコメンテーターとして出演 立原啓裕 噂のダイヤル1008(朝日放送) 昼ドキ!ワイド1008(朝日放送) 元気イチバン!!ぶっちぎりプレイボール(朝日放送)※木曜日コメンテーター スポーツにぴたっと。 → 武田和歌子のぴたっと。後半戦(朝日放送)※木曜日コメンテーター 福本豊の虎たまデラックス!(朝日放送2015年度 - 2017年度)※メインパーソナリティー 伊藤史隆のラジオノオト(朝日放送ラジオ)※2018・2019年度水曜日「虎バンパートナー」 朝日新聞大阪本社朝刊「みおつくし 語りつくし」(2013年4月6日から5月18日まで大阪版で連載、全30回) サンテレビHPにて「福本党首の熱血ブログ」不定期連載 (日本語) アサヒ芸能 「世界の福本豊 プロ野球足攻爆談!」 『猛虎襲来:阪神タイガース優勝への14の鍵』ゴマブックス、2000年5月、ISBN 4907710577) 『走らんかい!』ベースボール・マガジン社、2009年5月、ISBN 978-4583101705) 『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、2014年7月、ISBN 978-4583107103) 『福本豊:快足に夢をのせて』(小川集作画、永島直樹原作、ぎょうせい(名球会comics 23)、1992年7月、ISBN 4324026521) ^ 三塁打の日米通算ではイチローが2016年にこれを上回った。 ^ この年のドラフト会議は「史上最も豊作だったドラフト会議」と呼ばれる。その中でも阪急は1位山田久志・2位加藤秀司・福本と、後の名球会入り選手を3人も獲得した。 ^ 種茂はのち、1972年にトレードで阪急に入団し、福本は「縁があった」と記している。 ^ この記録は2年後の1974年にルー・ブロック(118盗塁)に更新された。現在はリッキー・ヘンダーソンが1982年に記録した130盗塁が最高記録。 ^ 記録更新後に福本は二塁で牽制死している。 ^ 1976年6月20日の対南海ダブルヘッダーでは、2試合とも1回に「四球出塁→二盗→犠打で三進→加藤の内野フライで生還」という記録を残している。福本自身はこの記録について、あるアナウンサーから教えられるまでは「正直言うて忘れとった」が、「相手が隙を見せたら、ひとつでも前の塁を取ってやろうとした」自分の意識は明確に覚えていると述べている。 ^ 福本はこの受賞を、最終戦で勝利した足立光宏や、自身と同じ11安打に加えて4盗塁を成功させたバーニー・ウイリアムスには「申し訳ない気がした」と記している。 ^ 存命人物が受賞を固辞したのは福本が初めてで、2021年現在は他にイチロー、大谷翔平との3例のみである。 ^ 大阪府知事賞詞は、大阪の府民栄誉賞にあたる賞の名称で、府民の栄誉とよろこびを讃えて交付される言葉のことである。後に橋下徹知事が感動大阪大賞と改名した。このため現在も単に賞詞(知事賞詞)とも言う。福本は同賞の第一号受賞者である。 ^ それ以前には、1971年5月22日に右足首を捻挫して、同日の対東映戦から6月4日の対東映戦までの9試合を欠場、6月5日の対東映戦(ダブルヘッダー第1試合、チームの41試合目)で復帰。1973年6月8日に打撃練習中に右膝をねじり、同日の対近鉄戦から6月12日の対太平洋戦まで5試合を欠場、6月13日の対太平洋戦(ダブルヘッダー第1試合、チームの前期52試合目)で復帰している。 ^ 福本は後から「新聞記者たちの前で意思をはっきり言えばよかった」と思ったと記している。 ^ 福本は2021年6月に自身のYoutubeチャンネルにアップした動画で、上田が何年ぶりかで試合に来た地方球場で前回の試合の時のエラーをその場で詳細に話したり、仲人を引き受けた結婚式で新郎新婦の来歴を紙も見ずによどみなく読んだのを見た経験から、上田が「言い間違い」をするとは考えられないとコメントしている。 ^ オリックスが前身球団(阪急ブレーブス・大阪近鉄バファローズ)の雰囲気を可能な限り再現させる「LEGEND OF Bs2011 蘇る黄金の70's」シリーズの第1戦に当たったことによる。 ^ 福本は野村がマスクを被っている時に盗塁を162回企図し、成功138・失敗24で成功率.852であった。捕手別で見た場合、企図数・成功数はいずれも野村の時が最多である。 ^ 前記の注釈のとおり、試合以外での足の故障による欠場を2回経験している。 ^ 本盗成功時の打者を福本は著書で「大熊」と記しているが、当時の新聞記事では「井上」と記されている。 ^ 走路に砂を入れて柔らかくすることは、日本生命球場や大阪スタヂアムなど、他の対戦チームの球場でもおこなわれていたと福本は述べている。 ^ 福本は別の著書で、このことをロッテの監督だった金田正一に直接伝えたと述べている。 ^ 7年後、福本が守備練習に付き合った山森雅文が、公式戦(9月16日、対ロッテ戦)で同様のプレーを披露し、センターで守っていた福本は自らのプレーを連想し「やったぞ」と叫んだという。 ^ 「阪急は(引用者注:バックホームよりも)カットプレーを重視」したとも記している。 ^ 大熊がこの忠告を口にしたのは、『阪急ブレーブス黄金の歴史―1936→1988』の山田との対談では「試合で死球を受けたとき」、『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』では「フリー打撃の打球を左足に当てた」ときだと記されている。 ^ 福本が1973年シーズン中の復帰から右肩脱臼する前の1986年まで全試合に出場していた場合1769試合となり、2018年シーズン終了時点で歴代3位に相当する。 ^ 2017年シーズン終了時点で、張本勲、野村克也、王貞治、門田博光、衣笠祥雄、福本、金本知憲、立浪和義、長嶋茂雄、土井正博の10人。なお、MLBでプレーしたイチロー、松井秀喜、松井稼頭央の3名は含めないものとする。 ^ “「世界の福本」の独壇場!?盗塁記録アレコレ”. SPAIA. (2017年8月25日). https://spaia.jp/column/baseball/npb/5100 2021年4月4日閲覧。 ^ “【話の肖像画】「世界の盗塁王」元プロ野球選手・福本豊 (73) (26) 引退もついでだった”. 産経新聞. (2021年3月19日). https://www.sankei.com/article/20210319-JJGFHBH7IBJFNANMKOEW3BTX7U/ 2021年4月4日閲覧。 ^ 日本野球機構 |歴代最高記録 ^ “三井ゴールデングラブ賞 歴代受賞選手”. 2021年2月17日閲覧。 ^ 福本豊さん、24個で盗塁王に「笑いますね」「僕、1カ月でしてますよ」 自身は122試合で106盗塁 ^ 福本、2009年、p.58 ^ 福本、2009年、p.60 ^ 福本、2009年、p.187 ^ 福本、2009年、pp.61 - 62 ^ 福本、2009年、p.63 ^ 福本、2009年、p.64 ^ 福本、2009年、pp.65 - 69 ^ 福本、2009年、pp.72 - 74 ^ 朝日新聞社(編)『全国高等学校野球選手権大会70年史』朝日新聞社、1989年 ^ “【落合×福本豊対談】大学から勧誘も松下電器に進んだ理由「社会人に行ったらそういうことは」”. スポーツニッポン. (2024年4月15日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/04/15/kiji/20240410s00001173376000c.html 2024年4月15日閲覧。 ^ 『別冊宝島』1517号「プロ野球情念の天敵対決」宝島社、2008年、pp.87 - 88 ^ 日本野球連盟・毎日新聞社『都市対抗野球大会60年史』日本野球連盟・毎日新聞社、1990年 ^ 「アラスカ・ゴールドパナーズ1968年」大学生を主体としアラスカ・リーグに所属するセミプロチームである ^ 福本、2014年p.50 ^ ベースボール・マガジン社2011、山田との対談より ^ 福本、2014年pp.31 - 32。 ^ 福本、2009年、pp.77 - 79 ^ “「お前、阪急から指名されとるやんけ」名言・珍言で振り返るドラフト会議”. スポーツニッポン. 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(Japan) 会員選手名鑑 福本豊 日本プロ野球名球会 殿堂一覧|公益財団法人野球殿堂博物館 福本豊 福本党首の熱血ブログ サンテレビジョン 福本豊 (@yutaka_fukumoto_2_official) - Instagram 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 2024 桑原将志 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1952 与那嶺要 1953 川上哲治 1954 日比野武 1955 飯田徳治 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 豊田泰光 1959 寺田陽介 1960 金光秀憲 1961 宮本敏雄 1962 吉田義男 1963 城戸則文 1964 山内一弘 1965 森昌彦 1966 柴田勲 1967 森本潔 1968 D.スペンサー 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 王貞治 1973 末次民夫 1974 有藤通世 1975 大橋穣 1976 福本豊, 柴田勲 1977 張本勲 1978 島谷金二 1979 高橋慶彦 表 話 編 歴 1953 与那嶺要 1954 本多逸郎 1955 木塚忠助 1956 関口清治 1957 和田博実 1958 川上哲治 1959 岡本伊三美 1960 鈴木武 1961 中村稔 1962 張本勲 1963 広岡達朗 1964 小池兼司 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 高倉照幸 1968 王貞治 1969 高田繁 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 末次民夫 1973 王貞治 1974 有藤通世 1975 福本豊 1976 B.マルカーノ 1977 大熊忠義 1978 D.ヒルトン 1979 三村敏之 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 山本一人 1952 柚木進 1953 岡本伊三美 1954 大下弘 1955 飯田徳治 1956 中西太 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 山内和弘 1961 野村克也 1962 張本勲 1963 野村克也 1964 J.スタンカ 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 足立光宏 1968 米田哲也 1969 長池徳二 1970 木樽正明 1971 長池徳二 1972 福本豊 1973 野村克也 1974 金田留広 1975 加藤秀司 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 C.マニエル 1980 木田勇 1981 江夏豊 1982 落合博満 1983 東尾修 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 石毛宏典 1987 東尾修 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 西口文也 1998 松井稼頭央 1999 工藤公康 2000 松中信彦 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 城島健司 2004 松中信彦 2005 杉内俊哉 2006 小笠原道大 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 内川聖一 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 柳田悠岐 2016 大谷翔平 2017 D.サファテ 2018 山川穂高 2019 森友哉 2020 柳田悠岐 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 木塚忠助 1951 木塚忠助 1952 木塚忠助 1953 L.レインズ 1954 鈴木武 1955 森下正夫 1956 河野旭輝 1957 河野旭輝 1958 R.バルボン 1959 R.バルボン 1960 R.バルボン 1961 広瀬叔功 1962 広瀬叔功 1963 広瀬叔功 1964 広瀬叔功 1965 広瀬叔功 1966 山本公士 1967 西田孝之 1968 安井智規 1969 阪本敏三 1970 福本豊 1971 福本豊 1972 福本豊 1973 福本豊 1974 福本豊 1975 福本豊 1976 福本豊 1977 福本豊 1978 福本豊 1979 福本豊 1980 福本豊 1981 福本豊 1982 福本豊 1983 大石大二郎 1984 大石大二郎 1985 松永浩美 1986 西村徳文 1987 西村徳文, 大石第二朗 1988 西村徳文 1989 西村徳文 1990 秋山幸二 1991 大野久 1992 佐々木誠 1993 大石大二郎 1994 佐々木誠 1995 イチロー 1996 村松有人 1997 松井稼頭央 1998 松井稼頭央, 小坂誠 1999 松井稼頭央 2000 小坂誠 2001 井口資仁 2002 谷佳知 2003 井口資仁 2004 川﨑宗則 2005 西岡剛 2006 西岡剛 2007 片岡易之 2008 片岡易之 2009 片岡易之 2010 本多雄一, 片岡易之 2011 本多雄一 2012 聖澤諒 2013 陽岱鋼 2014 西川遥輝 2015 中島卓也 2016 金子侑司, 糸井嘉男 2017 西川遥輝 2018 西川遥輝 2019 金子侑司 2020 周東佑京 2021 源田壮亮, 荻野貴司, 和田康士朗, 西川遥輝 2022 髙部瑛斗 2023 周東佑京, 小深田大翔 2024 周東佑京 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 基満男 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 長池徳二 / 張本勲 / 福本豊 表 話 編 歴 投 成田文男 捕 野村克也 一 加藤秀司 二 桜井輝秀 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 長池徳二 / 張本勲 / 福本豊 表 話 編 歴 投 金田留広 捕 村上公康 一 C.ジョーンズ 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 張本勲 / 福本豊 / D.ビュフォード 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 加藤秀司 二 吉岡悟 三 藤原満 遊 大橋穣 外 弘田澄男 / 門田博光 / 福本豊 指 大田卓司 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 加藤俊夫 一 加藤秀司 二 B.マルカーノ 三 有藤道世 遊 石渡茂 外 門田博光 / 福本豊 / L.リー 指 高井保弘 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 中沢伸二 一 柏原純一 二 B.マルカーノ 三 島谷金二 遊 真弓明信 外 福本豊 / 簑田浩二 / 佐々木恭介 指 土井正博 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 梨田昌崇 一 加藤英司 二 B.マルカーノ 三 島谷金二 遊 石渡茂 外 福本豊 / 新井宏昌 / 栗橋茂 指 C.マニエル 表 話 編 歴 投 木田勇 捕 梨田昌崇 一 レオン.L 二 山崎裕之 三 有藤道世 遊 高代延博 外 福本豊 / 栗橋茂 / L.リー 指 C.マニエル 表 話 編 歴 投 村田兆治 捕 梨田昌崇 一 柏原純一 二 落合博満 三 有藤道世 遊 石毛宏典 外 福本豊 / 島田誠 / テリー.W 指 門田博光 表 話 編 歴 投 工藤幹夫 捕 中沢伸二 一 柏原純一 二 落合博満 三 スティーブ.O 遊 石毛宏典 外 福本豊 / 新井宏昌 / 栗橋茂 指 T.ソレイタ 表 話 編 歴 1972 池辺巌, 広瀬叔功, 福本豊 1973 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1974 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1975 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1976 B.ウイリアムス, 弘田澄男, 福本豊 1977 大熊忠義, 弘田澄男, 福本豊 1978 B.ウイリアムス, 福本豊, 簑田浩二 1979 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二 1980 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二 1981 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1982 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1983 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1984 島田誠, 高沢秀昭, 簑田浩二 1985 金森永時, 島田誠, 簑田浩二 1986 西岡良洋, 山本和範, 山森雅文 1987 秋山幸二, 新井宏昌, 島田誠, 高沢秀昭 1988 秋山幸二, 高沢秀昭, 平野謙 1989 秋山幸二, 平野謙, 本西厚博 1990 秋山幸二, 西村徳文, 平野謙 1991 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1992 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1993 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1994 秋山幸二, イチロー, 佐々木誠 1995 秋山幸二, イチロー, 田口壮 1996 秋山幸二, イチロー, 田口壮 1997 イチロー, 井出竜也, 田口壮 1998 イチロー, 大友進, 大村直之 1999 秋山幸二, イチロー, 大友進 2000 イチロー, 柴原洋, 田口壮 2001 柴原洋, 田口壮, 谷佳知 2002 井出竜也, 小関竜也, 谷佳知 2003 大村直之, 柴原洋, 谷佳知, 村松有人 2004 谷佳知, 村松有人, SHINJO 2005 大村直之, サブロー, SHINJO 2006 稲葉篤紀, 森本稀哲, SHINJO 2007 稲葉篤紀, サブロー, 森本稀哲 2008 稲葉篤紀, 坂口智隆, 森本稀哲 2009 糸井嘉男, 稲葉篤紀, 坂口智隆 2010 糸井嘉男, 坂口智隆, 栗山巧 2011 岡田幸文, 糸井嘉男, 坂口智隆 2012 陽岱鋼, 糸井嘉男, 岡田幸文 2013 陽岱鋼, 糸井嘉男, 秋山翔吾 2014 陽岱鋼, 糸井嘉男, 柳田悠岐 2015 柳田悠岐, 秋山翔吾, 清田育宏 2016 秋山翔吾, 陽岱鋼, 糸井嘉男 2017 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝 2018 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝 2019 秋山翔吾, 荻野貴司, 西川遥輝 2020 柳田悠岐, 大田泰示, 西川遥輝 2021 荻野貴司, 辰己涼介, 柳田悠岐 2022 髙部瑛斗, 辰己涼介, 福田周平 2023 辰己涼介, 万波中正, 近藤健介 2024 辰己涼介, 周東佑京, 万波中正 表 話 編 歴 1位:山田久志 2位:加藤秀司 3位:長谷部優(入団拒否) 4位:柳橋明(入団拒否) 5位:新井良夫 6位:島崎基慈 7位:福本豊 8位:柿本進(入団拒否) 9位:切通猛 10位:三好行夫(入団拒否) 11位:村上義則(入団拒否) 12位:門田博光(入団拒否) 13位:石井清一郎 14位:鈴木博(入団拒否) 15位:坂出直(入団拒否) ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 野球選手の画像提供依頼 日本の野球選手 日本の男性YouTuber 元NPB選手のYouTuber 阪南大学高等学校出身の野球選手 パナソニック野球部及びその前身チームの選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 盗塁王 (NPB) 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 名球会 日本の野球殿堂表彰者 日本の野球監督 阪神タイガース関連人物 野球解説者 日本のタレント 大阪府出身のスポーツ選手 大阪市出身の人物 1947年生 存命人物 Pages using the JsonConfig extension 出典のページ番号が要望されている記事 外部リンクがリンク切れになっている記事/2017年10月 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/22 07:47更新
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fukumoto yutaka
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