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赤星憲広の情報 (あかほしのりひろ)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

赤星憲広の情報(あかほしのりひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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赤星 憲広さんについて調べます

■名前・氏名
赤星 憲広
(読み:あかほし のりひろ)
■職業
野球選手
■赤星憲広の誕生日・生年月日
1976年4月10日 (年齢48歳)
辰年(たつ年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
愛知出身

(昭和51年)1976年生まれの人の年齢早見表

赤星憲広と同じ1976年生まれの有名人・芸能人

赤星憲広と同じ4月10日生まれの有名人・芸能人

赤星憲広と同じ出身地愛知県生まれの有名人・芸能人


赤星憲広と関係のある人

関本健太郎: 1番打者・赤星憲広とのコンビは高い評価を得た。


藤原満: また、藤原の成功に気を良くした野村克也は、以後自身が監督を務めたチームではヤクルトスワローズの飯田哲也、阪神タイガースの赤星憲広・田中秀太、東北楽天ゴールデンイーグルスの鉄平・森谷昭仁といった俊足打者に対し、自ら指令してこのタイプのバットを使用させた。


中津真莉: また、赤星憲広のウェブサイトにて、赤星のオフィシャルグッズ「RSナンバージャージ」のモデルとして写真が掲載されている。


横沢七郎: これはデビューからの連続無本塁打記録としては日本プロ野球史上最長だったが(最長連続無本塁打の日本記録は赤星憲広の2528打席)、2014年7月31日に岡田幸文に記録を更新された。


大島洋平: 赤星憲広から日本のプロ野球界でナンバーワンの外野守備と評されたこともあり非常に評価が高い。


森野将彦: 9月16日、山本昌がノーヒットノーランを達成した対阪神タイガース戦で、赤星憲広の三ゴロを失策。


福井敬治: 2003年5月31日の阪神戦で、9回表に一塁の守備固めに入ったが、ノーアウト一、二塁で赤星憲広のバントが三塁線の小フライになり、一塁側から飛びついてキャッチを試みるが落球。


徳原恵梨: 2022年4月4日、元阪神タイガースの赤星憲広と結婚したことが発表された。


野原祐也: 9月12日の対横浜ベイスターズ戦で山口俊から代打でプロ初安打を記録し、翌日の9月13日の試合では、怪我により欠場した赤星憲広にかわり、1番センターでスタメン出場した。


狩野恵輔: 2017年12月1日付で、赤星憲広が主宰する中学生硬式野球チーム「レッドスターベースボールクラブ」の総監督に就任。


東出輝裕: 併殺打3は、規定打席到達の打者では、高橋由伸、赤星憲広、アーロン・ガイエルらと並びリーグ最少であった。


多岐篤司: 現役を引退してからは、妻の実家が兵庫県尼崎市の公設地方卸売市場で営んでいた「浜光水産」(鮮魚の仲卸会社)の社長や、「RED STAR Baseball Club」(阪神選手としての後輩に当たる赤星憲広主宰の少年野球クラブチーム)で投手コーチを務めていた。


日下隆: これは2008年9月22日に阪神タイガースの赤星憲広に更新されるまでのNPB記録であり、2016年3月25日に千葉ロッテマリーンズの岡田幸文に更新されるまでパ・リーグ記録であった。


梅津智弘: 初奪三振:同上、6回表無死に赤星憲広を見逃し三振


片岡篤史: チームが優勝を決めた9月15日の広島東洋カープ戦では、8回裏に代打で登場して同点ソロ本塁打を放ち、9回裏にも一死一塁から右前へのヒットで一・三塁として赤星憲広のサヨナラ打を演出した。


清水隆行: 2010年より日本テレビ(同年限りで引退した立浪和義、赤星憲広とともに)・RFラジオ日本の野球解説者、スポーツ報知の野球評論家を1年間務める。


岩田徹: その後は、赤星憲広が設立した少年野球チーム「レッドスターベースボールクラブ」の設立メンバーとして10年間監督を務め2014年2月に退団した。


柴田勲: 一方で通算盗塁死193も福本と高橋慶彦に次ぐ第3位で、盗塁死の影響を考慮した赤星式盗塁に従うと柴田の順位はNPBで7位、セ・リーグ単独ではこの方式の考案者でもある赤星憲広に次ぐ2位となる。


狩野恵輔: 赤星憲広がオーナーを務める中学生硬式野球クラブ「レッドスターベースボールクラブ」で監督を務めている。


松永浩美: ちなみに、甲子園球場の内野グラウンドの土は、松永を上回る俊足の持ち主であった赤星憲広が阪神に入団した2001年頃から硬めに整備されている。


福地寿樹: このシーズンは42盗塁で、赤星憲広と1差でセ・リーグ盗塁王を獲得、15年目にして初のタイトル獲得となった。


手塚一志: 当時まだブレイク前だった今岡誠、濱中治、赤星憲広らの打力向上に貢献しつながる打線を実現。


加藤博一: 同年は高橋慶彦(広島)と盗塁王争いを演じ、阪神から1956年(吉田義男)以来の盗塁王誕生かと思われたが高橋の38盗塁に及ばず、34盗塁でタイトルを逃した(阪神の盗塁王は、その後世紀を超えて赤星憲広が出現するまで誕生しなかった。


吉田義男: 通算350盗塁は、2009年に赤星憲広が更新するまで40年にわたって阪神の球団記録だった。


立浪和義: 1月26日、同じく前年限りで現役引退した赤星憲広・清水崇行と共に日本テレビ(日テレ)のプロ野球中継解説者となることが発表された(主に中日戦。


前田春香: みんなの甲子園 - 2022年に赤星憲広とのコンビでMCを担当。


柴田講平: 2009年には、自身と同じく俊足の外野手だった赤星憲広にちなんで、「赤星二世」「ポスト赤星」と呼ばれた。


玉巻映美: 2016年には、第88回選抜高等学校野球大会期間中のダイジェスト番組『みんなの甲子園』(MBSテレビ)で、メインキャスター・赤星憲広のアシスタントを藤林と共に2018年まで担当。


宮市亮: この頃から阪神タイガースのファンで、特に桧山進次郎と赤星憲広の大ファンだった。


岡田彰布: 試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。


赤星憲広の情報まとめ

もしもしロボ

赤星 憲広(あかほし のりひろ)さんの誕生日は1976年4月10日です。愛知出身の野球選手のようです。

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父親、卒業、引退、テレビ、映画、結婚、ドラマ、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。赤星憲広の現在の年齢は48歳のようです。

赤星憲広のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

赤星憲広の入ってねぇーんだよ!

赤星 憲広(あかほし のりひろ、1976年4月10日 - )は、愛知県刈谷市出身の元プロ野球選手(外野手、右投左打)、野球解説者、野球評論家、タレント。妻はタレントの徳原恵梨。マネジメント契約はオフィスS.I.Cである。

父親が少年野球のコーチをしていたため、赤星は幼少期から野球に親しんで育った。小学校時代、赤星は父親がコーチを務める少年野球チームに入部しようとしたが、「俺がやめるまで、お前にはやらさない」と言われたことに反発し、「だったらサッカーをやるよ!」という気持ちになり、小学校の部活ではサッカー部を選択した。父親がコーチを辞めたため少年野球チームにも所属したが、先に始めたサッカーの魅力が勝っていた(赤星曰く、サッカーが8で野球が2)。小学校6年の時にはフォワードとしてサッカーの愛知県代表に選出されたこともある。しかし同じく小学校6年の時に野球チームのキャプテンに選ばれ、掛け持ちはできないと判断した赤星はサッカー部を辞め、野球に専念することにした。

刈谷市立刈谷南中学校時代は軟式野球部に所属。1・2年生時は内野手だった。赤星によると、ポジションが同じで赤星よりも足が速い上級生(後に読売ジャイアンツのトレーナーとなる鬼頭健介)に出会ったことで、初めて「この人を越えたい」という気持ちを抱き、それをきっかけに努力することの楽しさに目覚めた。努力することに楽しさを見出したことで、野球に取り込むことも楽しくて仕方がないと感じるようになった。赤星曰く、野球に取り組んでいる際の性格が「熱く」なったのも中学時代で、「小学校時代に眠っていた部分が目を覚ました」と振り返っている。赤星は「野球というスポーツがなかったら、きっと僕はこんなひとつのことに熱くなれる人間になっていない」、「僕は野球に凄く感謝している」と述べている。3年生の時は投手を務めた。

刈谷南中学校を卒業後、愛知県立大府高校に進学、野球部に入部した。この時、赤星は野球のためだけに高校へ行きたくないと考えたことに加え、前述の「あらかじめ与えられた能力で簡単に勝つ」ことを嫌う性格から「『甲子園に行きたいから私学へ』という道ではなくて、むしろ一番簡単そうじゃない道を選んで、それを乗り越えてみせる」という思いを抱き、あえて強豪私立高校ではなく県立高校へ進学することを選んだ。

入部当初、赤星は右打者であったが、監督の馬場茂から「左で打つならすぐにベンチに入れてやる」と左打者への転向を勧められ、それに従った。転向後、内野安打が増えて出塁の機会が多くなり、足を活かす野球を考えるきっかけになった。1年生の秋にレギュラーとなり、1番打者として活躍。チームの得点パターンは赤星が出塁して二盗・三盗を決め、その後スクイズプレイを決めるというものであった。1993年の第65回選抜高等学校野球大会に二塁手として、翌1994年の第66回選抜高等学校野球大会に遊撃手として出場した。選抜高等学校野球大会で赤星は2年連続で同じような適時失策を犯し、チームはいずれの大会でも初戦敗退を喫している。

中学・高校時代は同じ右投げ左打ちの小柄な遊撃手である立浪和義が「全てにおいて目標であり等身大の憧れ」であった。

高校時代、赤星はドラフト候補として名前が挙がったがプロになる自信はなく、スカウトからも体の小ささを指摘され、大学か社会人で経験を積んだほうがいいと指摘された。赤星は地元の大学で教員免許を取りたいと考え、中京大学を受験したが対策を立てずに臨んだ小論文が不首尾に終わり、不合格。教員免許を取得できる東都大学野球連盟所属の亜細亜大学から勧誘があったことから同大学に進学、野球部に所属した。実際に赤星は亜細亜大学在学中に社会科の教員免許を取得している。大学卒業後プロ野球選手になれなかった時には、高校の教員になって野球部の監督になろうと考えたこともあったという。

亜細亜大学野球部の練習は非常にハードであった。赤星は大府高校の卒業生として初めて東都大学野球連盟所属の野球部に所属することになったことを強く意識し、大府高校から亜細亜大学へ進学するルートを潰したくないという思いを抱いていた。そのため常に「なんでこんなところに来てしまったのか」という思いと「やめられない」という思いの間で揺れていた。ただ同時に、「絶対やめられないわけだし、これだけ苦しいことをどうせやるんだったら、とことん上を目指してやらないと意味がない」とも思っていた。

1年生の秋に三塁手のレギュラーを獲得し、2年生の春に外野手(主に右翼手)に転向。1学年上の外野手飯塚智広を目標とした。飯塚の卒業後、1番中堅手として活躍。4年生の秋には明治神宮野球大会で優勝を経験した。大学時代の通算成績は、東都大学1部リーグ通算78試合出場、219打数61安打、打率.279、3本塁打(リーグタイ記録の3試合連続本塁打)、27打点。2部では9試合、8打数2安打、打率.250、ベストナイン3回、通算45盗塁(野村謙二郎の52、鈴木香の51に次ぐリーグ歴代3位の記録。1年生だった2部時代を含めれば通算51)というものであった。赤星は大学時代を振り返り、「プロのレベルまで上りつめられたのは、技術的にも、精神的にも、亜細亜に行ったおかげだろう」、「いろいろなものを犠牲にしてまでも野球に打ち込んで、あの4年の間、地獄のような生活をしてきたからこそ、こうやって今がんばっていられるのは間違いない」と述べる一方、「あそこに入って野球を始めた日から終わる日まで、一回もよかったと思ったことはない」「もう1回、あの4年間をやるかと言われたら、絶対に無理」「何億とお金を積まれても無理」「もう思い出したくもない」、練習が厳しいことを「もし知っていたら進学先に選んだかどうかははなはだ怪しい」と回顧している。

赤星は大学での4年間の経験を経て肉体的・精神的に成長したと感じ、東都大学リーグ優勝に貢献したという自負もあったことから、大学卒業時にはプロ野球を強く意識していた。しかし高校卒業時と同様、体が小さいという理由で声はかからなかった。当時の赤星にとってこれは「もうプロはあきらめなさい」と言われたのも同然で、プロ野球選手になることを諦め、JR東日本に入社、社会人野球で野球を続けた。赤星には11の社会人チームから声がかかり、その中にはJR東日本より強いチームもあったが、社会人野球の存続が危ぶまれる中、チームの強さよりも就職先としての安定感を優先させ、JR東日本を選択した。

JR東日本入社後まもなく2000年シドニーオリンピックの強化指定選手に選ばれ、千葉ロッテマリーンズのキャンプに参加。この時赤星は「守備と走塁は何とかなりそうだ」という感触を得た。翌年には阪神タイガースのキャンプに参加。監督の野村克也から高い評価を得た。赤星曰く、強化指定選手に選ばれたことで「もしかして、まだプロ入りの可能性があるのかもしれない」と思うようになったという。2000年、シドニーオリンピック野球日本代表に選出。在職中にJR東日本の車掌の資格を取得したが、一度も乗務することなくドラフト会議で指名を受けることになる。また、都市対抗野球には1年目は9年ぶり出場となった自チームで、2年目は阪神に同期入団する伊達昌司、沖原佳典と補強選手として東京ガスで出場した。

シドニーオリンピック終了後、ドラフト会議で野村の鶴の一声により阪神から4位指名を受けた。背番号は53。当時の赤星は体が小さかった上に「打球が打撃ケージの外に飛ばない」と言われるほど非力で、野村に対しスカウトは「足だけですよ」とコメントしたが、野村は「同点の9回に代走で使う」と答えた。赤星は「オリンピックでレギュラーになれなかった僕がプロにいって活躍できるのか?」という思いにとらわれたものの、最終的には「クビになるのを恐れてプロに行かないという選択をするよりも、飛び込んでみてクビになったほうがいろんな意味で後悔しないだろう」という心境に至り、入団を決めた。しかし指名した事によってサラリーマンという安定した生活を捨てさせてしまった事や、引退の原因となった命を脅かす程の大怪我(後述)を経験させてしまった事から、後年になって野村は赤星に「お前をプロに誘ってしまったばっかりに大変な思いをさせてしまった」と謝罪している。これに対し赤星は「監督に人生を変えていただいた」と野村の選択を尊重しており、感謝の気持ちを伝えている。

入団会見で赤星は、それまで中堅手のレギュラーだった新庄剛志のFA移籍が決まった直後であったことを踏まえ、「新庄さんの穴を少しでも埋められるように頑張ります」と言うつもりであった。しかし実際には「新庄さんの穴はボクが埋めます」と宣言。この宣言により、1位で入団した藤田太陽以上に話題を集めることになった。

阪神入団に際し赤星は、「『体が小さいとプロでやっていくのは絶対無理』という考え方をひっくり返したい」「体が小さくて悔しい思いをしている選手たちの代表として、体が小さくてもやれる人間はいるんだということをみんなに知らせたい」という決意を抱いていた。同時に、「問題は入れてもらえないから勝負できないことだったわけで、入ってしまえばこっちのもの」とも考えていた。プロ野球選手として成功を収めた後、赤星はプロを目指す野球選手が自分を見て「体が小さくても大丈夫」「赤星ができるんだったら、俺もプロになれるんとちゃうか」と思うことが一番うれしいことだと述べている。赤星はまた、「体が小さな選手が体が大きい選手に力で勝とうと思っても絶対に無理だが、動きのよさや速さを発揮することができれば絶対にプロの世界でもやっていける」とも述べている。担当スカウト菊地敏幸。

2001年、監督の野村は当時チーム内にいた俊足選手7人を「F1セブン」と命名し、赤星をその「1号車」に指名した。野村はまた、赤星が入団前に腰部のヘルニアを患った影響から調整が遅れていたにもかかわらず、一軍のキャンプに参加させた。前述のように赤星は非力で、2001年春のキャンプにおいても打球が内野の頭を越えないレベルであった。野村は赤星に「出塁率を上げろ。三遊間に転がせ。内角も逃げるな」「打球が飛ぶというのは天性のもので、努力してもなかなか身につくものではないが、確率を上げることは練習で何とかなる」とアドバイスし、「自分の教えたようにやれば使える」と励ました。打撃練習においては藤本敦士とともに、「ゴム製のバンドを両肘に巻いてゴロだけを打つ」ことを課せられた。試合中、ベンチの中では野村の近くに座り、野村の発する言葉から「プロ野球のイロハを勉強させてもらった」という。赤星は「早い段階で、やみくもに努力するだけでは結果が出ない、考えてこそ結果に結びつくということを学べたのは大きかった」と振り返っている。

走塁面の技術に関しては相当自信があり、クイックをきっちりやる投手が当時は少なかったことから「正直、プロでもこんなもんかと思った」という。赤星は1年目のシーズンを開幕一軍で迎えた。3月31日の対読売ジャイアンツ戦でセーフティーバントによるプロ初安打を記録し、4月3日の対広島東洋カープ戦でプロ初盗塁を決めた。5月にはレギュラーの座を獲得し、2番打者に定着して活躍。新人歴代4位となる39盗塁を記録し、阪神の選手としては1956年の吉田義男以来45年ぶり、阪神入団1年目の選手としては1944年の呉昌征以来となる盗塁王に輝き新人王も受賞。盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初のことであった。新人の盗塁王は(全選手が「新人」であった1936年を除けば)、1946年の河西俊雄(グレートリング、盗塁数は赤星と同じ39)以来NPB史上2人目である。さらにゴールデングラブ賞も受賞した。 新人選手のゴールデングラブ賞受賞は、1998年の高橋由伸以来となった。 シーズンオフに入り、球団側から背番号53を若い番号へ変更することを打診される。一般的に新人選手は若い番号を与えられるほど期待されているといわれ、さらに53は「ゴミ」「誤算」に通じることから赤星自身も「入団当時は嫌で仕方がなかった」が、1年目からよい成績を残せたことで「『53』という数字は縁起のよい番号となり、愛着もわいた」「これを機に…『53』を自分の色に染めてやろう」と思うようになっていたことから変更を断った。

2002年、阪神の監督は野村から星野仙一に交替した。4月18日の対中日ドラゴンズ戦において自打球が右足に当たり、「足の速さをできるだけ活かそう」という思いからレガースをつけていなかったために右脛骨を骨折。3か月以上欠場し前半戦をほぼ棒に振り、復帰後はスランプに陥りながらも78試合に出場し26盗塁を記録。2年連続で盗塁王を獲得した。

2003年は前年のオフに広島から金本知憲がFA権を行使して阪神に移籍し、春季キャンプ中に星野はことあるごとに金本・桧山進次郎・濱中治の名を挙げ、「赤星は代走要員」とコメント。キャンプにおいて赤星は必死に存在をアピールした。シーズン中は2番打者として活躍。2番赤星が出塁し、3番の金本が打席に立つ状況が、互いの苗字から一文字をとって「金星ライン(ビーナスライン)」と呼ばれていた。9月15日に行なわれた対広島戦で、鶴田泰から右翼越えサヨナラ安打を放ってマジック1とし、同日夜にマジック対象のヤクルトが負けたことで阪神の18年ぶりの優勝が決定した。前年秋から一軍チーフ打撃コーチの田淵幸一とともに打撃向上に取り組んだことが功を奏し、3年目にして初めて3割を超える打率を記録した。田淵は赤星を「われわれが目指した『つなぎの野球』は彼なしでは考えられなかった」と評している。盗塁数は球団記録を更新する61で、背番号と同じ数の盗塁をするという目標を初めて達成し、3年連続となる盗塁王を獲得した。さらに守備率10割の日本タイ記録を樹立し、2年ぶりのゴールデングラブ賞も受賞した。同年の147単打は和田豊と並ぶセ・リーグタイ記録(翌年に荒木雅博が更新)。7月にはオールスターゲームに初出場を果たしている。福岡ダイエーホークスと対戦した日本シリーズ第1戦でフリオ・ズレータが打ったサヨナラ安打にダイビングキャッチを試み、左肘を負傷(左肘内側側副靱帯損傷。全治1か月)。この時赤星はアテネオリンピックアジア予選の日本代表メンバーに選出されていたが、ケガを理由に出場を辞退した。

2004年、阪神の監督は星野から岡田彰布に交替した。4月15日の対広島戦で顔面に死球を受けた影響でボールに対する恐怖心が芽生え、それを克服しようと「絶対に逃げてはいけない。ピッチャーに対して踏み込んでいこう」と考えたのが裏目に出て打撃フォームに狂いが生じ、シーズン前半は打撃不振に陥った。打撃不振の影響は走塁面にも及び、出塁機会が少ないことから焦りが生じ、「いいスタートを切らなければと…考えすぎて逆にいいスタートが切れなくなったり、早くスタートを切ろうと思いすぎて、けん制でアウトになったりと、悪循環に陥ってしまった時期があった」。赤星曰く打撃不振から抜け出すきっかけとなったのは7月17日の対広島戦で、第1打席で内角球をヒットにしたことで恐怖感を断ち切ることができたという。それによって走塁面の不振も克服し、シーズン後半の50試合で41、シーズン通算では自己最多記録となる64の盗塁を記録した。日米野球でも7つの盗塁を決め、デイヴィッド・オルティズは赤星を「スーツケースに入れて連れて帰りたい」と称賛した。さらに2年連続で3割を超える打率を記録した。

2005年、4月21日の対巨人戦で通算200盗塁を達成。同月には月間MVPにも選出された。6月12日、北海道日本ハムファイターズとの交流戦において、通算3本目、甲子園球場での初本塁打を記録。以後、引退までに本塁打を記録することはなく、結果的に最初で最後の本拠地本塁打となった。6月15日の西武ライオンズとの交流戦において盗塁を試みた際に相手選手と衝突、左肋骨3本を折る重傷を負う。しかし翌日の試合を欠場したものの長期欠場はしなかった。赤星曰くベンチに座っているのも辛いほどの痛みに苦しんだが、気合で克服した。7月にはオールスターに2度目の出場を果たした。10月1日の東京ヤクルトスワローズ戦では通算250盗塁も達成するとともに福本豊以来2人目となる3年連続60盗塁を達成。リーグ史上初の5年連続盗塁王も獲得した。さらに当時のシーズン最多打席(689打席)、イチローを抜く年間単打165のプロ野球新記録も樹立したが、同年阪神の全試合終了後に首位打者の青木宣親が169まで記録を更新した。この年のシーズンで阪神はリーグ優勝を果たしたが、千葉ロッテマリーンズと対戦した日本シリーズでは4連敗を喫した。

この年、赤星は「野球を通じて人間的に成長することができたという実感を次の世代に伝えたい」という思いから、中学生を対象とした野球チーム「レッドスター・ベースボールクラブ」を設立した。背景には、社会人の野球チームが次々と廃止され、子供が野球をする場所が減少しているという状況の中、2004年に1リーグ制導入を巡るストライキが起こったことで「プロ野球のチームでも簡単になくなってしまうことがある」ことに危機感を持ち、「ユースチームが組織されているJリーグのようにプロ野球の土台となるべき部分を構築したい」という動機もあった。赤星によると指導にあたることで「子供に教えたことは自分もしっかり実行しなければならない」という意識が芽生え、さらに「自分ならどうするか」といったことに考えを巡らせ、結果的に自身の野球に対する考えが深まる効果が生まれたという。

2006年から今岡誠に代わって阪神の選手会長を務めることになった。7月には2年連続でオールスターに出場した。一方、盗塁数は35を記録したが、青木宣親が41盗塁で盗塁王となり、6年連続での盗塁王獲得はならなかった。打撃面では打率、出塁率共に骨折した2002年に次いで低い数字に終わり、規定打席到達者の中で本塁打、打点、長打率がリーグワーストを記録した。赤星は「どこもおかしなところがないのに、結果が出ない。なぜ打てないかがわからないから対処のし様がなかった」と振り返っている。6月8日の日本ハム戦で守備中にフェンスに激突、右足首をねん挫し3試合欠場した。この年のシーズンについて赤星は、「それまで平均点以上の活躍を続けていた自分が初めてどん底を経験した」と振り返り、「プロの世界で生きていくことのプレッシャーを実感した」と述べている。赤星曰く、ある時は4日間眠れずに試合に出たこともあり、不振にあえぐ中でファンの声や報道が気になってそれらに接しては傷つくということを繰り返していたが、ある時「世間の評価をいちいち気にしていてもしょうがない」と考えるようになった。その結果、翌2007年のシーズンではファンやマスコミの声をあまり気にしなくなったという。

2007年は、鳥谷敬と打順が入れ替わり主に2番として出場。シーズン開幕直後、左首から左腕にかけて痺れや痛みを感じるようになった。赤星によると2006年のシーズン中から頸部に違和感を覚えていたという。病院で診察を受けたところ、頸椎椎間板ヘルニアと診断された。これ以降、赤星は首の痛みや手の痺れが原因で「5時間以上の睡眠を取れた記憶がない」ほどの慢性的な睡眠不足に悩まされることになる。それでも赤星は出場を続けたが、5月4日の対広島戦でダイビングキャッチを試みた際に首を強打し、椎間板ヘルニアが悪化。「頸椎椎間板中心性ヘルニアによる脊髄損傷」の診断を受け、医師の勧めにより3週間欠場した。当時赤星は「今年で野球が終わってもいい」という心境で復帰したものの、「どうせ大げさに言っているのだろう」とも考えていた。しかし実際には首の状態は成績に大きな影響を与えた。リードを大きくとった状態で牽制球を投げられ、首を後ろに大きく反らせる形で帰塁すると痺れを感じることがあったが、それを避けるためにリードを小さくすると盗塁ができなくなった。8月22日以降の32試合の盗塁数はゼロである。7月25日の対中日戦で通算300盗塁を、9月14日の対中日戦で球団最速記録となる7年目での通算1,000本安打を達成。2年ぶりの打率3割を記録した。9月23日の対ヤクルト戦で左腰に死球を受け、腰椎を骨折(第2腰椎左横突起骨折)し、3試合欠場した。「頸椎椎間板中心性ヘルニアによる脊髄損傷」との診断を受けた際、赤星は医師から「筋肉の鎧で首を守れば、ヘルニアの症状も緩和されるし、衝撃を受けた際にも脊髄への直接的なダメージを少しは防いでくれるだろう」とアドバイスを受けた。それを踏まえこのシーズンオフは首の強化に取り組み、医師から「アメリカンフットボールの選手みたいだ」と言われるほどに筋肉をつけることに成功した。

2008年は開幕から1番打者として活躍。試合途中から出場するなど球団側が首の状態に配慮した起用をしたことから、全試合出場を果たしながらもシーズンを通して体調は良かった。9月22日に2,089打席無本塁打のプロ野球新記録を樹立。走塁面では10月12日に吉田義男の持つ球団記録に並ぶ通算350盗塁を記録した(日本プロ野球歴代15位、当時の現役選手では石井琢朗に次ぐ2位)。シーズンを通した盗塁数は41で福地寿樹に1つ届かずリーグ2位であった。打撃面では自己最高となる打率.317, リーグ最多の94得点を記録した。ちなみに本塁打は出ず、3年連続で規定打席に到達かつ本塁打0(東出輝裕とともにプロ野球新記録)を記録した。規定打席に達しての本塁打0を4度(2004・2006・2007・2008年)記録したのは久慈照嘉に続いて史上2人目であった。チームは7月下旬に優勝マジック46が点灯したものの8月以降低迷し、優勝を逃した。赤星はこの年のシーズンについて、「優勝と盗塁王を逃したショックは言葉では言い表せないほど大きかった」一方、2005年以来こだわってきた得点でリーグ最多を記録したことには「満足のいくシーズンだった」と振り返っている。

2009年は年初から調子が悪く、肩の痛みや腰部のヘルニアに苦しみ、オープン戦には肩と腰に痛み止めの注射を打って出場した。4月10日の試合後に腰の状態が悪化し、自ら登録抹消を申し出た。復帰後体調の悪化は全身におよび、腰のほか両膝と肩にも痛み止めの注射を打って出場した。4月4日、開幕2試合目の対ヤクルト戦で球団新記録となる通算351盗塁を達成。5月13日、出場登録日数が8年となり、FA権を取得した。8月2日の対巨人戦(阪神甲子園球場)で本塁への突入時に阿部慎之助捕手と接触し、左足を負傷(左下腿筋挫傷)。10日間欠場した。9月12日、甲子園球場で行われた対横浜ベイスターズ戦で内川聖一が打った右中間への飛球にダイビングキャッチを試み、頸椎椎間板ヘルニアが悪化すると同時に中心性脊髄損傷を負った。負傷直後は手足が動かなくなったほどの重症で、赤星はトレーナーに背負われてグラウンドから退場し、救急車で西宮市内の病院へ搬送された。間もなく足は動くようになったものの、腕に深刻なダメージを受けた。感覚が鈍く、思うように動かすことができず、しかも何かに触れると激痛が走る症状に襲われた。医師は赤星に対し、指が以前のように動かせなくなる後遺症が残る可能性を指摘した。

赤星は「まだ野球がやりたい。来年もプレーする」という思いを抱きつつ、痛みに耐えながら手足の指を一本ずつ動かすところからリハビリを開始した。10月12日にリハビリの場所を阪神鳴尾浜球場に移した頃には60 kgあった握力が30 kgほどに戻っており、赤星は翌11月からユニフォームを着てリハビリを行う予定を立てた。しかし10月31日に球団側は引退を勧告。赤星には「いくらなんでも1か月で結論を出すのは早すぎるだろう」という思いがあり「1年は様子を見てほしい」と猶予を求めた。11月4日には予定通りユニフォームを着てグラウンドに立ちキャッチボールなどを行ったが、8日に球団側と行った2度目の会談でも「大きなリスクを抱えた現状では契約できない」旨を通告された。11月16日、球団トレーナーの石原慎二に紹介された医師から、脊柱管を人工骨で広げ頸部脊柱管狭窄症は改善することで脊髄へのダメージを緩和できるようにすれば復帰は可能という診断を受け、そのことを球団側に伝えたが「いくら可能性があっても100%でない限り、その手術に賭けることはできない」と受け入れられなかった。赤星によると、医師から「今度やってしまったら不随の可能性がある」「最悪、命の危険もある」と言われたことが引退を決意した要因の一つになったという。

12月2日、赤星は球団側に引退を申し入れた。同月9日に西宮市内で記者会見を開き、正式に引退を発表。会見において赤星は「ケガさえなければ来年もレギュラーでやっていく自信はあった。まだまだ若い選手に負けない気持ちもある。まだまだできるという気持ちもあった」「完全燃焼した気持ちはない」と述べた。赤星は負傷を招いたプレーについて、「今でも夢に出てくる」としつつ、「飛び込んだことに後悔はありません。野球選手の本能としてやったことなので。それよりも、もう少し寄っておけば捕れたのに…と考えてしまう」と振り返った。赤星は9年間のプロ生活について、「野球のために人生を全部使ってきたし、いろいろなことを犠牲にしてきた。人生のすべて」と振り返っている。生涯通算.295の打率については、「予定外でした。プロでこんなに打てるとは思ってなかった」「自分の中では誇れる数字」と述べている。会見には絶対に泣かないという決意で望み、3度涙をこらえたという。会見終了後、阪神甲子園球場のセンター付近で車椅子の贈呈式を行った。赤星自身の意向により、引退試合は行われなかった。

赤星の引退に際し球団側は赤星の背番号「53」を、使用するのにふさわしい選手が現れるまで空き番号とする準永久欠番に指定した(詳細後述)。

2010年より、日本テレビ・読売テレビの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に就任するとともに、なお、ゲスト解説出演の扱いで朝日放送(2011年からラジオのみ専属解説)、毎日放送、関西テレビ放送の中継にも出演。 さらにCBCテレビ『サンデードラゴンズ』のコメンテーターにも出演している。

2011年オフには、和田豊の監督就任に伴いコーチ就任の依頼を受けるも、体調面を理由に辞退した。

2012年には大阪府交野市で赤星憲広が大会実行委員長を務める「第1回 Ring of Red 交野市チャリティーマラソン」を開催。約5,000名のランナーが参加。

2013年にも同じく、同市で「第2回 Ring of Red 交野市チャリティーマラソン」を開催。約6,000名のランナーが参加。

2014年4月19日より公開されたアニメ映画『名探偵コナン 異次元の狙撃手』にて、アニメの声優に初挑戦した。

2015年オフ、現役時代の同僚である金本知憲の阪神一軍監督就任に伴いコーチ就任の打診を受けるも、2011年同様体調面の不安を理由に辞退した。

2022年4月4日、タレントの徳原恵梨と結婚したことを会員限定アプリ「LITEVIEW」における「赤星憲広の入ってねぇ~んだよ」にて発表した。

球界を代表するスピードスターとまで言われていた。一塁到達まで3.74秒、バント時には3.50秒を記録する元来の足の速さに加え、「球界で最も速いレベル」と言われた盗塁時のスピードが持ち味。巨人で一軍投手総合コーチを務めていた尾花高夫には「誰が1番を打っても、存在感としては赤星の3分の1にも満たないんじゃないか」と言われた。

本塁打に関しては2001年8月4日の対広島戦(広島市民球場、長谷川昌幸から)、2003年8月6日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場、高井雄平から)、2005年6月12日の対日本ハム戦(阪神甲子園球場、江尻慎太郎から)でそれぞれ1本ずつ放ったのみで、以降2009年の引退まで2528打席無本塁打という日本記録を持っている。また、「シーズン複数本塁打ゼロ」「通算10本塁打未満」はいずれも日本プロ野球で通算1000安打以上を記録した打者では史上唯一であり、通算3本塁打も同条件では最も少ない数字となっている。

野村克也は東北楽天ゴールデンイーグルスの監督として赤星と対戦した際、一度に12球の牽制球を投げさせたことがある。赤星によると試合後、野村は「赤星を塁に出すのはソロホームランと同じだから、警戒しすぎるぐらいでちょうどいい」とコメントしたという。野村は赤星の守備について、「肩は強くなくても、あの足で打球に突っ込んでくるだけで走者はストップする」と評した。このように選手として高く評価していた事もあり、赤星が引退する事を告げられた際は引退を撤回させるべく記者から赤星の連絡先を尋ねた他、旧知の阪神関係者にも電話で「赤星へ俺に電話するよう言ってくれ。東京にいい病院を知っているんだ。紹介したいんだよ。引退は医者に診てもらってからでも遅くないだろう」と伝えるなど非常にショックを受けており、その早すぎる引退を心の底から惜しんでいた。

名前にちなんだ「レッドスター」や「赤い彗星」や「セ界一のスプリンター」の愛称でファンの人気を集めており、打席に立つと、スタンドで赤い星マークのボードを掲げるファンもよく見られた。

「足にはスランプが無い」、つまり盗塁は足が速いかどうかで決まるから調子は関係ない、という考えに対し、「あまり走らない人の意見だ」という見解を示している。赤星は盗塁においても、余計なことを考えてしまうことで動きに狂いが生じるという形での、メンタル面のスランプは起こる(逆に、調子のいい時はほとんど何も考えずに走ることができる)と述べている。赤星は自身の経験として、2004年のシーズン前半に陥ったスランプを挙げている。

メンタル面との関係から、盗塁においては牽制球によってアウトになることがないリードの限界を知ることが重要だと述べている。アウトになることがない地点にいれば前に進むことだけを考えられるが、そうでなければ牽制球が投げられた際に帰塁することも考えなければならないため、いいスタートを切ることに集中できなくなると述べている。赤星は盗塁において重要だとされる3S(スタート、スピード、スライディング)よりも気持ち、勇気であると述べている。

「打者が追い込まれる前に走って、少しでもプレッシャーを和らげてあげたい」という思いから、カウントが早い(投手が打者に対して投じた球数が少ない)うちに盗塁することを心がけた。通算381の盗塁のうち最多の140を初球で、100を2球目で決めている。

盗塁において最も重要なのは足の速さではなく「アウトを恐れずにスタートを切る勇気」であり、「僕にとって盗塁の数は勇気の証」だと述べている。赤星曰く、福本豊も同じ考えを持っている。

その一方、盗塁死のリスクの大きさにも着目しており、盗塁の本当の価値を図るための指標として「盗塁-盗塁死×2」で計算される赤星式盗塁を提唱している。

左投手の方が右投手の方よりも盗塁し易いと本人は考えていた。実際下柳剛は2022年3月25日公開分の『フルタの方程式』で「左の方が走り易いって赤星とかも言ってるんで」と証言していた。

赤星は練習についてまず、試合において最高の力を発揮するためのものであると述べている。その上で量をこなせばよいというものではなく、とくに「人の倍やったから自分のほうがすごい」と自己満足に陥ってはならない、量をしっかりとやった上で、その上でやり方や方法も工夫しなければならないと述べている。

赤星はプロ野球においてはいい練習をしたからといって必ず試合に勝てるというものではなく、勝つためには「いい準備」、すなわち「チームとして何をすべきか」ということを考え、実行していくことが重要であると述べている。具体的には自分たちのチームの長所を把握し、長所を発揮するために必要なことを考え、キャンプでの練習やオープン戦での試合の中で実践していくことにあると述べている。

「全国大会に出場する母が詩吟を練習している姿を見て、継続する大切さを学び毎日素振りの練習をした」と『Going!Sports&News』出演時に述べている。

赤星は努力をすることにおいては努力の内容を進化させていくことも重要で、自身の場合は色々な方法で努力をしていく中で自分の能力を向上させるのに効果的な方法を修得していったのだと述べている。

4割の打率を残せば日本はもちろん世界の野球史に残る打者になれる。野球は「失敗のスポーツ」であり、失敗することが珍しくない以上、失敗した時に気持ちを切り替え、引きずらないことがよい結果を残すためのコツであると述べている。

現役時代は応援に訪れたチームのファンにも激昂するなど、度々怒りを爆発させる性格からチームメイトからは「着火マン(チャッカマン)」と呼ばれていた。2008年5月24日の福岡ソフトバンクホークス戦後のヒーローインタビューでは、インタビューが聞こえないと野次を飛ばしたファンに向かって「(マイクが)入ってねえんだよ、この野郎!」と怒号を飛ばした様子が中継で流れた(福岡Yahoo! JAPANドームでのホークス主催試合だったため、ヒーローインタビューは音声が球場内のスピーカーからは流れない形で行なわれていた)。また別の試合では、ネクストバッターズサークルに立つ選手に対するファンの野次に腹をたてていた赤星は最終打席に立った時に本人曰くわざとアウトになり一塁から戻って来るその足でそのヤジを飛ばしたファンのところに駆けつけ「お前ちょっと来い!」と叫び、スタンドにいた警備員に対しても「(そのファンを)止めとけ!俺がいくまで!」とそのファンを引き留めておくよう指示。ところが、赤星が駆けつけた時にはそのファンは立ち去っていたため、ファンを逃がした警備員を呼び「何で止めとかねぇんだ!」と激昂した。「選手にたいして失礼だ」と自身の激昂の正当性を述べながら、これらの出来事を『ダウンタウンDX』に出演した際に語っている。2017年11月15日にオフィスS.I.Cから販売開始されたLINEスタンプ『レッドスター53☆』には、上記エピソードの内「入ってねーんだよ!」と「チャッカマン」のスタンプが採用されている。

現役時代の2003年から毎年その年に記録した盗塁数と同じ数の車椅子を養護施設や病院に寄贈していた。赤星によると、そのきっかけはあるファンのために球場で試合が観戦できる特別な車椅子を作ったことで、加えて足の不自由なファンからファンレターが多く届いたこと、看護師をしていたことのある姉から病院などの施設で車椅子が不足していることを聞いていたこと、さらにプロ野球選手になるという長年の夢をかなえたことで「夢はもう何もないが、夢を達成できたからこそ、今度は人に夢を与え続けなければならない」という心境に至ったことも作用した。選手会長就任後は甲子園球場の車椅子観戦エリア拡大に向けた働きかけも行った。2004年には社会福祉活動に貢献したプロ野球選手に贈られるゴールデンスピリット賞を受賞している。赤星が現役時代に贈呈した車椅子の数は301個にのぼる。なお、引退後も車椅子贈呈の社会福祉活動は評論家活動を行うスポニチ大阪本社と連携して展開している。この他、サッポロビールのCMに出演するようになってからは同社の近畿圏本部も協力しており、近畿圏での「サッポロラガービール」大瓶1本相当の売り上げから1円ずつが寄付されるようになった。

幼少期から物を大事にする性格の持ち主で、少年時代にはグローブの紐が切れると自分で直していた。プロ野球選手となった後もまだ使える用具を新しいものに変えることに強い抵抗を感じ、2年目から同じグローブを使い続けていた。バットについても、1日1本のペースで替える選手もいる中、そのバットが合っていると折れるまで使い続けた。ただし1本のバットを使い続けるのではなく、「キャンプ中からシーズン当初は930 gほどの重さのものを使う。そこから、体力が落ちるであろう夏場に向け、形状は同じでも徐々に軽いものにしていく」方針をとった。使用したバットの形状は1年目が「グリップエンドが極端に大きいタイカッブ型」、2年目以降が「マサムネ型と呼ばれる、もう少し全体的に細いタイプのもの」であった。

ゼット製の野球用具を愛用していた。きっかけはシドニーオリンピック出場時にオフィシャルメーカーからは冷遇されたのに対し、ゼットに丁重な扱いを受けたことにあった。プロ野球選手となり、2003年からスパイクシューズを自由に選べるようになった時、「自分のために親身になって開発・改良を積み重ねようとしてくれた姿勢が嬉しい」という理由から、競合メーカーと比べて「明らかに性能が劣っていたと思われる」ゼット製のものを選び、ともに改良に取り組んだ。赤星は「素足に近い感覚がいい」「足の裏と地面の距離を近くして、できるだけ土を感じられるように」という理由から「足にかかる負担が大きくなるのは覚悟のうえ」で、かかと部分の緩衝材を取り除くなど「スパイクの裏側、特にかかと部分はかなり薄く」なるデザインを要求した。赤星は「もし、他社のスパイクを選んでいたら400盗塁に届いたかもしれないというのが本音だ」としつつ、「(ゼットとの)信頼関係は、盗塁20個、30個以上の価値がある」と述べている。

現役時代は体調管理を徹底するため、専属の栄養士と契約していた事を明かしている。

亜細亜大学時代には「やりがい」と呼ばれるパートナーの体重を利用した練習が行われていたが、赤星は軽量であったためパートナーとして一番人気があった。

上述通り2022年に結婚するまでは長らく独身であった。2016年にゲスト出演した「解決!ナイナイアンサー」で赤星自身が語った所によると「小さい頃からずっと野球をやってきて休みが殆ど無かったが、引退後は家にいることが多くなって『暇な時間』にハマってしまった」「幸せ、居心地が良かった」と感じるようになり、休日は誰とも会わず1人で家に籠る生活を好むようになってしまったという。また、「プロ野球スピリッツ2019」の開幕式(記者会見)に出席した際はこのことを逆手に取られて、女優の永尾まりやによるアドリブでプロポーズ及び結婚会見を行うというコントを披露したが、終始慣れずに緊張している様子を見せていた。

テレビドラマ好きであり、毎回クール毎に放送されているドラマは全て録画してそれらを1.5倍速で視聴した後、そこから作品を7~8個厳選して視聴し続けるという。

前述の通り、プロ野球再編問題に際し球団消滅や選手ストライキなど、日本球界の危機、野球人気の衰退を実感したことをきっかけにレッドスターベースボールクラブを2005年に設立した。卒団生には田川賢吾、安田尚憲らがいる。

各年度の太字はリーグ最高

各年度の太字はリーグ最高

太字年はゴールデングラブ賞受賞年

盗塁王:5回(2001年 - 2005年)5年連続はセ・リーグ記録、日本記録は福本豊の13年連続。新人からの5年連続受賞は史上最長

新人王(2001年) ※盗塁王との同時受賞は史上唯一

ベストナイン:2回(2003年、2005年)

ゴールデングラブ賞:6回(2001年、2003年 - 2006年、2008年)

月間MVP:1回(2005年4月)

JA全農Go・Go賞:3回(好走塁賞:2003年3・4月、2008年3・4月 強肩賞:2006年9月)

ゴールデンスピリット賞(2004年)

ヤナセ・阪神タイガースMVP賞:1回(2008年)

サンスポMVP新人賞(2001年)

サンスポMVP大賞:1回(2005年)

初出場:2001年3月30日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、9回表に川尻哲郎の代打で出場

初打席:同上、9回表に條辺剛から三塁ゴロ

初安打:2001年3月31日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム) 、7回表に柏田貴史から三塁内野安打

初先発出場:2001年4月1日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、1番・中堅手で先発出場

初盗塁:2001年4月3日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に二盗(投手:鶴田泰、捕手:西山秀二)

初得点:同上、1回表にエドゥアルド・ペレスの安打で生還

初打点:同上、2回表に鶴田泰から遊撃適時内野安打

初本塁打:2001年8月4日、対広島東洋カープ17回戦(広島市民球場)、5回表に長谷川昌幸から左越ソロ

200盗塁:2005年4月21日、対読売ジャイアンツ6回戦(東京ドーム)、6回表に二盗(投手:三木均、捕手:阿部慎之助) ※史上65人目

250盗塁:2005年10月1日、対ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、8回表に二盗(投手:花田真人、捕手:米野智人) ※史上38人目

300盗塁:2007年7月25日、対中日ドラゴンズ12回戦(ナゴヤドーム)、1回表に二盗(投手:山本昌、捕手:谷繁元信) ※史上26人目

1000本安打:2007年9月14日、対中日ドラゴンズ20回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に岡本真也から中前安打 ※史上248人目

1000試合出場:2008年8月26日、対中日ドラゴンズ18回戦(阪神甲子園球場)、1番・中堅手で先発出場 ※史上428人目

350盗塁:2008年10月12日、対中日ドラゴンズ24回戦(スカイマークスタジアム)、7回裏に二盗(投手:吉見一起、捕手:谷繁元信) ※史上16人目

シーズン打席:689(2005年)

シーズン盗塁:64(2004年)

通算盗塁:381(日米通算ではイチロー、松井稼頭央に次ぐ)

盗塁王:5年連続5回

連続打席無本塁打:2528(2005年6月12日に江尻慎太郎から打って以降引退まで)

オールスターゲーム出場:3回(2003年、2005年、2006年)

通算盗塁成功率:81.2%(381盗塁88盗塁死) ※歴代3位(300盗塁以上対象)

通算1000安打以上での通算本塁打数最少記録:3

シーズン複数本塁打なし・通算10本塁打未満 ※いずれも通算1000安打以上では唯一

53(2001年 - 2009年) - 赤星の引退後、2014年途中に入団した建山義紀が着けるまで準永久欠番扱いだった。建山の引退後再び準永久欠番扱いとなっていたが、2018年より赤星と同じく左打ちで俊足巧打の外野手である島田海吏が着用している。

ベストスイマー賞(2013年)

HEROs AWARD(2018年)

DRAMATIC BASEBALL(読売テレビ制作の阪神戦中継を中心に出演)

ABCフレッシュアップベースボール(ABCラジオ)

選抜高等学校野球大会中継(毎日放送)

赤星と次郎のオーライオーライ→赤星憲広のオーライオーライ(ABCラジオ)

Going!Sports&News(日本テレビ、2011年4月 - 、コメンテーター)

GI最前線 ジョッキー★ナイト(MBSラジオ、2015年秋季・2016年春季に出演)

虎バン(ABCテレビ、2010年4月 - 、スペシャルコメンテーターとして不定期出演)

みんなの甲子園(MBSテレビ、2010年・2011年・2013年・2016年 - 、ナビゲーター)

月刊すぽるたす(読売テレビ、2010年4月 - 2011年3月、ナビゲーター)

サンデードラゴンズ(CBCテレビ、コメンテーターとして不定期出演)

KEIBA BEAT(関西テレビ、不定期ゲスト)

Mr.サンデー(フジテレビ・関西テレビ、コメンテーターとして不定期出演)

情報ライブ ミヤネ屋(読売テレビ、コメンテーターとして不定期出演)

かんさい情報ネットten.(読売テレビ、コメンテーターとして不定期出演)

探偵!ナイトスクープ(ABCテレビ、「顧問」として不定期出演)

ビジネス新伝説 ルソンの壺(NHK大阪放送局、「壺ナビゲーター」として不定期出演)

モーニングバード!(テレビ朝日、2012年12月からコメンテーターとして不定期出演)

ともに生きる(NHK大阪放送局制作・NHKラジオ第2で全国放送)

上新電機(2003年 - 2008年、今岡誠・矢野燿大、2008年より藤川球児と共演)

ACジャパン「ボランティアは生涯現役」(2010年7月 - 2011年6月、当初は大阪地域キャンペーンのみ、東日本大震災の発生直後には在阪局発の全国ネット番組内でも放送)

大阪市人権啓発スポット広告(2010年7月 - 2011年7月)

西日本高速道路(NEXCO西日本)平成22年度中国道集中工事(2010年)

サントリー 「サントリー黒烏龍茶」(2011年、関西ローカルのみの放送)※現在はサントリーフーズから販売

映画「マネーボール」(2011年11月)

サッポロビール「サッポロラガービール」(2013年 - 関西ローカルのみの放送、ラベルの「赤星」つながりで出演)

逆風を切って走れ - 小さな僕にできること -(2008年初版、主婦と生活社、ISBN 978-4391136135)

決断 -阪神引退からのリスタート(2010年初版、集英社、ISBN 978-4087805604)

一瞬の判断力 - ピンチをチャンスに変える53の法則 -(2012年初版、宝島社、ISBN 978-4796689458)

頭で走る盗塁論 駆け引きという名の心理戦(2013年初版、朝日新聞出版・朝日新書、ISBN 978-4022734846)

頭脳の盗塁術 走りのプロの技術・戦略&バッテリーとの心理戦対策(2019年初版、廣済堂出版、ISBN 978-4331522219)

中堅手論(2022年初版、ワニブックス・ワニブックスPLUS新書、ISBN 978-4847066726)

証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと(2020年初版、宝島社、ISBN 978-4299004833) - 古田敦也、宮本慎也、山﨑武司ほかとの共著

岡田タイガース最強の秘密(2023年初版、宝島社・宝島社新書、ISBN 978-4299049513) - 吉田義男、田淵幸一、江本孟紀、掛布雅之、金村曉、改発博明との共著

Legend of ★Red 赤星憲広#53 引退記念完全保存版(2010年、読売テレビ、EAN:4988013326927)

プロ野球スピリッツシリーズ(コナミデジタルエンタテインメント)- 解説として声の出演

    プロ野球スピリッツ2019

    eBASEBALLプロ野球スピリッツ2021 グランドスラム

    Ring of Red 交野市チャリティマラソン(大阪府交野市との共催で2012年から毎年実施)

    野球教室

    トークショー

    ディナーショー

    ^ 赤星曰く、学年が上がり自分より能力が上の、努力しないと勝てない存在と出会う中でこの性格は変わっていったものの、「あらかじめ与えられた能力で簡単に勝つ」ことが嫌いな点は変わっていないという。

    ^ このうち2回目のエラーについて赤星は、「またエラーをするんじゃないか」という思いに囚われていたところにボールが飛んできたことで起こったもので、技術の問題ではなくすべて気持ちの問題であったと振り返っている。2010年に藤川球児との対談で、高校時代の甲子園には非常に嫌な思い出しかないとコメントし、この対談時に初めて当時の映像を観覧した。赤星は、プレーをするにあたっては前向きな気持ちで臨むことが重要で、気持ちが前向きであれば結果的にエラーをしてしまったとしても後悔は残らず、失敗から学ぶことで次に繋がると述べている。2年連続の甲子園でのエラーがトラウマになってイップスを発症し、これが原因で内野手から外野手に転向している。なお、赤星は亜細亜大学2年時の明治神宮野球大会(三塁手として出場)でも適時失策を犯し、チームは0対1で敗退している。

    ^ 以下は藤本敦士(2号車)、沖原佳典(3号車)、上坂太一郎(4号車)、平下晃司(5号車)、松田匡司(6号車)、高波文一(7号車)であった。

    ^ 後に濱中治は「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と語っている。

    ^ 赤星曰くこの練習により、右脇が開いてアッパースイング気味になる問題点が解消されていった。

    ^ この安打について赤星は、相手投手が左投げの岡島秀樹で「簡単に凡退すれば、次に左ピッチャーと対戦する時に代打を送られる可能性が高くなる」場面であったことから、「たまたま一発で決まってラッキーな面もあった」と振り返っている。

    ^ 赤星はこの盗塁について、プロ生活における通算381個の盗塁の中で最も印象に残っていると振り返っている。

    ^ 野村は赤星について、「よく練習していて、使おうという気にさせる選手だった」と評している。

    ^ 2006年のシーズンオフにも片岡篤史がつけていた「8」への変更を打診されたが、拒否した。

    ^ しかし、実際には星野の構想の中で赤星の中堅手レギュラーは確定しており、この発言の意図は「赤星はガンガン言って、向かってこさせて伸びるタイプだから、あえてそういう発言をした」というものであった。

    ^ 赤星はこのサヨナラヒットを、9年間の選手生活の中で最も印象に残る場面のひとつとして挙げている。

    ^ 赤星は2年間の経験から「パワーのない自分が人と同じ打ち方をして、打てるわけがない。逆に考えれば、人と違うことをすれば何とかなるのではないか」と思い、「バットを『振る』という意識から『ぶつける』という意識に変える」ことにし、「なるべく体の近くまでボールを呼び込んで、体全体の力をインパクトの瞬間にぶつける」ことを心がけた。赤星によるとこの年に「内角の厳しいコースに来たボールは体の回転をうまく使って処理をする」「ギリギリまでボールを見ることで、厳しいコースをカットして粘ることもできるし、フォアボールも増えて出塁率も上がる」打法を身につけ、「技術的にどうやったらヒットを打てるのかというコツみたいなものを身につけることができ」、「調子が悪くても何とかできる方法」を習得した。

    ^ 赤星によると、この年の盗塁記録は3番の金本知憲が赤星が盗塁しやすいよう配慮した打撃をしたことに助けられて達成した部分が大きいという。

    ^ なお赤星は、ダイビングキャッチを試みた際に「首を支点に頭から一回転」したことが後に頸部の椎間板ヘルニアを発症する原因になった可能性があると述べている。

    ^ なお赤星は2023年シーズン終了時点でセ・リーグにおいてシーズン50盗塁以上を記録した最後の選手となっている(翌2006年以降では2010年に梵英心が記録した「43」が最多である)。

    ^ 赤星は自己最多の盗塁を決めながらチーム順位は4位に終わった前年のシーズンを「自分の盗塁が得点につながっていない。チームの勝ちにつながっていない」と感じ、得点にこだわるという目標を立てており、4月には「自分の思ったとおりの結果が出た」と振り返っている。

    ^ 赤星は「今度こそ日本一になるぞ」という思いで臨んだにもかかわらず「完全な力負け」で4連敗を喫したことについて、「野球人生最大の屈辱」と振り返っている。

    ^ 赤星によるとこの年から盗塁に対する他球団の対策が強化され、「2005年までは、スタートを切った瞬間に、これはセーフだと思っていたタイミングが、2006年になるとアウトのタイミングに変わってきた」。この年のシーズンを境に赤星は実際に盗塁を試みるよりも自分自身に対する警戒感を利用して相手投手にプレッシャーをかけ、打者に集中することを妨げることを重視するようになったという。

    ^ 赤星は「こんなに長い間走っていないのは、後にも先にもこの時だけだ。それほど体の状態はよくなかったということだろう」と振り返っている。

    ^ 赤星は手足が動かないことを自覚した時、「このまま戻らないんじゃないか」と思ったという。

    ^ 赤星によると日常生活に影響はないものの、右手親指と小指の痺れはその後も残っているという。

    ^ この時赤星は「引退しなさい。クビです。」という、引退通告のニュアンスを感じ取ったという。

    ^ 赤星は診察した医師が現役続行は厳しいという見解を球団側に伝えていたことを知り、これを覆す見解を求めて全国の医院を巡ったがかえって症状の深刻さを知らされる羽目になり、「復帰する怖さみたいなもの」を感じるようになった。頸部を映したMRI画像を見たところ、「明らかに変形してグチャグチャ」になっていたという。

    ^ この時赤星はそれまでの会談の内容から「絶対に球団の意見は変わらない」と予測していて、「やっぱりな…変わるわけがない」と感じた。赤星は球団側の姿勢について、「こちらの意見を聞いて考えようという姿勢は、僕には感じとれなかった」と述べている。

    ^ 赤星はプロ入り後、「シーズンは144試合ある中で、プロとして大切なことは常に70パーセントぐらいの力をコンスタントに出すこと。でも僕は、みんな70パーセントの力を出すときに、100パーセントじゃないと勝負できない」という思いで試合に臨んでいた。赤星は「危険なプレーをしなければ万が一のことは起こらない」とも考えたものの、「100%の力、100%のパフォーマンス、100%の気持ちで試合に臨めるかといったら、どこかでセーブしないといけない自分がいたり、次にやってしまったらという恐怖感を持ったまま試合に臨まないといけない」「全力プレーができない状況で野球を続けるのは無理」という心境に至った。赤星はかねてから自身の引退について、「やれることはやりきる」「やりきれなくなったときが、現役を退くタイミング」と述べていた。

    ^ 赤星によると、前述のように「あと1年ぐらい様子を見てくれてもいいんじゃないか」という思いが球団に対してあり、自由契約となる選択肢も頭にあったが、最終的には阪神で野球人生を終えるという気持ちを全うさせることを選んだという。

    ^ 赤星は「あの最後のプレーで、自分が本当に野球人だと思えた」とも述べている。

    ^ 赤星が現役時代にユニフォームの下に着ていたアンダーシャツにも「Red Star」の刺繍が入れてあった。

    ^ 2022年現在、通算盗塁では歴代9位タイであるが、赤星式盗塁では歴代4位かつセ・リーグ歴代最多となっている。

    ^ このエピソードは『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系列にて2012年8月27日放送)でも取り上げられた。

    ^ 赤星本人曰く、自分が怒号を飛ばしたファンは、赤星が激昂すること自体が予想外だったのか、驚いた様子だったという。

    ^ ラベルの赤い星にちなんで、飲食店関係者などから「赤星」と呼ばれている。それにちなんで関西ローカルCMに起用された。

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    1999 松井秀喜

    2000 片岡篤史

    2001 中村紀洋

    2002 飯田哲也

    2003 井上一樹

    2004 赤星憲広

    2005 ボビー・バレンタイン

    2006 和田毅

    2007 三浦大輔

    2008 岩隈久志

    2009 小笠原道大

    2010 ダルビッシュ有

    2011 山﨑武司

    2012 藤川球児

    2013 宮本慎也

    2014 栗山巧

    2015 今江敏晃

    2016 内海哲也

    2017 岩田稔

    2018 井口資仁

    2019 秋山翔吾

    2021 矢野燿大

    2022 吉田正尚

    2023 宮西尚生

    1950 大島信雄

    1951 松田清

    1952 佐藤孝夫

    1953 権藤正利

    1954 広岡達朗

    1955 西村一孔

    1956 秋山登

    1957 藤田元司

    1958 長嶋茂雄

    1959 桑田武

    1960 堀本律雄

    1961 権藤博

    1962 城之内邦雄

    1964 高橋重行

    1966 堀内恒夫

    1967 武上四郎

    1968 高田繁

    1969 田淵幸一

    1970 谷沢健一

    1971 関本四十四

    1972 安田猛

    1974 藤波行雄

    1976 田尾安志

    1977 斉藤明雄

    1978 角三男

    1979 藤沢公也

    1980 岡田彰布

    1981 原辰徳

    1982 津田恒美

    1983 槙原寛己

    1984 小早川毅彦

    1985 川端順

    1986 長冨浩志

    1987 荒井幸雄

    1988 立浪和義

    1989 笘篠賢治

    1990 与田剛

    1991 森田幸一

    1992 久慈照嘉

    1993 伊藤智仁

    1994 藪恵市

    1995 山内泰幸

    1996 仁志敏久

    1997 澤﨑俊和

    1998 川上憲伸

    1999 上原浩治

    2000 金城龍彦

    2001 赤星憲広

    2002 石川雅規

    2003 木佐貫洋

    2004 川島亮

    2005 青木宣親

    2006 梵英心

    2007 上園啓史

    2008 山口鉄也

    2009 松本哲也

    2010 長野久義

    2011 澤村拓一

    2012 野村祐輔

    2013 小川泰弘

    2014 大瀬良大地

    2015 山﨑康晃

    2016 髙山俊

    2017 京田陽太

    2018 東克樹

    2019 村上宗隆

    2020 森下暢仁

    2021 栗林良吏

    2022 大勢

    2023 村上頌樹

    1950 金山次郎

    1951 土屋五郎

    1952 金山次郎

    1953 金山次郎

    1954 吉田義男

    1955 本多逸郎

    1956 吉田義男

    1957 飯田徳治

    1958 岡嶋博治

    1959 岡嶋博治

    1960 中利夫

    1961 近藤和彦

    1962 河野旭輝

    1963 高木守道

    1964 古葉竹識

    1965 高木守道

    1966 柴田勲

    1967 柴田勲

    1968 古葉竹識

    1969 柴田勲

    1970 東条文博

    1971 高田繁

    1972 柴田勲

    1973 高木守道

    1974 中塚政幸

    1975 大下剛史

    1976 衣笠祥雄

    1977 柴田勲

    1978 柴田勲

    1979 高橋慶彦

    1980 高橋慶彦

    1981 青木実

    1982 松本匡史

    1983 松本匡史

    1984 高木豊

    1985 高橋慶彦

    1986 屋鋪要, 平野謙

    1987 屋鋪要

    1988 屋鋪要

    1989 正田耕三

    1990 緒方耕一, 野村謙二郎

    1991 野村謙二郎

    1992 飯田哲也

    1993 緒方耕一, 石井琢朗

    1994 野村謙二郎

    1995 緒方孝市

    1996 緒方孝市

    1997 緒方孝市

    1998 石井琢朗

    1999 石井琢朗

    2000 石井琢朗

    2001 赤星憲広

    2002 赤星憲広

    2003 赤星憲広

    2004 赤星憲広

    2005 赤星憲広

    2006 青木宣親

    2007 荒木雅博

    2008 福地寿樹

    2009 福地寿樹

    2010 梵英心

    2011 藤村大介

    2012 大島洋平

    2013 丸佳浩

    2014 梶谷隆幸

    2015 山田哲人

    2016 山田哲人

    2017 田中広輔

    2018 山田哲人

    2019 近本光司

    2020 近本光司

    2021 中野拓夢

    2022 近本光司

    2023 近本光司

    2024 近本光司

    1950 青田昇, 岩本義行, 小鶴誠

    1951 青田昇, 岩本義行, 金田正泰

    1952 杉山悟, 南村不可止, 与那嶺要

    1953 金田正泰, 南村不可止, 与那嶺要

    1954 杉山悟, 与那嶺要, 渡辺博之

    1955 町田行彦, 与那嶺要, 渡辺博之

    1956 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要

    1957 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要

    1958 田宮謙次郎, 森徹, 与那嶺要

    1959 大和田明, 坂崎一彦, 森徹

    1960 中利夫, 並木輝男, 森徹

    1961 江藤慎一, 近藤和彦, 森永勝治

    1962 近藤和彦, 並木輝男, 森永勝治

    1963 江藤慎一, 近藤和彦, 藤井栄治

    1964 江藤慎一, 近藤和彦, 重松省三

    1965 江藤慎一, 近藤和彦, 中暁生

    1966 江藤慎一, 中暁生, 山本一義

    1967 近藤和彦, 柴田勲, 中暁生

    1968 江藤慎一, D.ロバーツ, 山内一弘

    1969 高田繁, D.ロバーツ, 山本一義

    1970 江尻亮, 高田繁, 中暁生

    1971 柴田勲, 高田繁, 水谷実雄

    1972 柴田勲, 高田繁, 若松勉

    1973 江尻亮, 柴田勲, 若松勉

    1974 G.マーチン, 末次利光, 若松勉

    1975 井上弘昭, 山本浩二, ロジャー

    1976 張本勲, 谷沢健一, 若松勉

    1977 張本勲, 山本浩二, 若松勉

    1978 C.マニエル, 山本浩二, 若松勉

    1979 M.ラインバック, 山本浩二, 若松勉

    1980 杉浦亨, 山本浩二, 若松勉

    1981 J.ライトル, 田尾安志, 山本浩二

    1982 田尾安志, 長崎啓二, 山本浩二

    1983 田尾安志, 松本匡史, 山本浩二

    1984 山崎隆造, 山本浩二, 若松勉

    1985 杉浦享, 真弓明信, 山崎隆造

    1986 W.クロマティ, 山本浩二, 吉村禎章

    1987 W.クロマティ, C.ポンセ, 吉村禎章

    1988 C.ポンセ, J.パチョレック, 広沢克己

    1989 W.クロマティ, 彦野利勝, 山崎賢一

    1990 J.パチョレック, 原辰徳, 広沢克己

    1991 R.J.レイノルズ, 原辰徳, 広沢克己

    1992 飯田哲也, 前田智徳, L.シーツ

    1993 A.パウエル, 新庄剛志, 前田智徳

    1994 A.パウエル, G.ブラッグス, 前田智徳

    1995 A.パウエル, 金本知憲, 松井秀喜

    1996 A.パウエル, 松井秀喜, 山崎武司

    1997 鈴木尚典, D.ホージー, 松井秀喜

    1998 鈴木尚典, 前田智徳, 松井秀喜

    1999 関川浩一, 高橋由伸, 松井秀喜

    2000 金本知憲, 新庄剛志, 松井秀喜

    2001 稲葉篤紀, 金本知憲, 松井秀喜

    2002 清水隆行, 福留孝介, 松井秀喜

    2003 赤星憲広, A.ラミレス, 福留孝介

    2004 金本知憲, 嶋重宣, T.ローズ

    2005 青木宣親, 赤星憲広, 金本知憲

    2006 青木宣親, 金本知憲, 福留孝介

    2007 青木宣親, A.ラミレス, 高橋由伸

    2008 A.ラミレス, 青木宣親, 金本知憲

    2009 A.ラミレス, 青木宣親, 内川聖一

    2010 M.マートン, 青木宣親, 和田一浩

    2011 長野久義, M.マートン, 青木宣親

    2012 長野久義, 大島洋平, W.バレンティン

    2013 W.バレンティン, M.マートン, 長野久義

    2014 M.マートン, 丸佳浩, 雄平

    2015 筒香嘉智, 福留孝介, 平田良介

    2016 鈴木誠也, 筒香嘉智, 丸佳浩

    2017 丸佳浩, 鈴木誠也, 筒香嘉智

    2018 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト

    2019 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト

    2020 佐野恵太, 丸佳浩, 鈴木誠也

    2021 鈴木誠也, 近本光司, 塩見泰隆

    2022 近本光司, 佐野恵太, 岡林勇希

    2023 近本光司, 西川龍馬, 岡林勇希

    1972 柴田勲, 高田繁, 山本浩司

    1973 柴田勲, 高田繁, 山本浩司

    1974 柴田勲, 高田繁, 山本浩司

    1975 高田繁, 山本浩二, ローン

    1976 池辺巌, 柴田勲, 山本浩二

    1977 柴田勲, 山本浩二, 若松勉

    1978 J.ライトル, 山本浩二, 若松勉

    1979 J.ライトル, J.スコット, 山本浩二

    1980 J.ライトル, J.スコット, 山本浩二

    1981 J.ライトル, 松本匡史, 山本浩二

    1982 北村照文, 平野謙, 松本匡史

    1983 北村照文, 長嶋清幸, 松本匡史

    1984 長嶋清幸, 屋鋪要, 山崎隆造

    1985 平野謙, 屋鋪要, 山崎隆造

    1986 平野謙, 屋鋪要, 長嶋清幸

    1987 長嶋清幸, 屋鋪要, 山崎隆造

    1988 彦野利勝, 屋鋪要, 山崎隆造

    1989 栗山英樹, 彦野利勝, 山崎賢一

    1990 彦野利勝, 柳田浩一, 山崎賢一

    1991 飯田哲也, 前田智徳, R.J.レイノルズ

    1992 飯田哲也, 亀山努, 前田智徳

    1993 飯田哲也, 新庄剛志, 前田智徳

    1994 飯田哲也, 新庄剛志, 前田智徳

    1995 飯田哲也, 緒方孝市, 音重鎮

    1996 飯田哲也, 緒方孝市, 新庄剛志

    1997 飯田哲也, 緒方孝市, 新庄剛志

    1998 緒方孝市, 新庄剛志, 高橋由伸

    1999 緒方孝市, 新庄剛志, 高橋由伸

    2000 新庄剛志, 高橋由伸, 松井秀喜

    2001 赤星憲広, 高橋由伸, 松井秀喜

    2002 高橋由伸, 福留孝介, 松井秀喜

    2003 赤星憲広, 高橋由伸, 福留孝介

    2004 赤星憲広, アレックス, 英智

    2005 赤星憲広, 金城龍彦, 福留孝介

    2006 青木宣親, 赤星憲広, 福留孝介

    2007 青木宣親, 高橋由伸, 金城龍彦

    2008 青木宣親, 赤星憲広, 鈴木尚広

    2009 青木宣親, 松本哲也, 亀井義行

    2010 青木宣親, 廣瀬純, 赤松真人

    2011 長野久義, 青木宣親, 大島洋平

    2012 大島洋平, 長野久義, 荒波翔

    2013 長野久義, 丸佳浩, 荒波翔

    2014 丸佳浩, 大島洋平, 大和

    2015 福留孝介, 丸佳浩, 大島洋平

    2016 丸佳浩, 大島洋平, 鈴木誠也

    2017 丸佳浩, 桑原将志, 鈴木誠也

    2018 丸佳浩, 大島洋平, 平田良介

    2019 丸佳浩, 鈴木誠也, 大島洋平

    2020 鈴木誠也, 大島洋平, 青木宣親

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    2023 近本光司, 岡林勇希, 桑原将志

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    30 大田垣耕造

    33 林裕幸

    34 野村収

    35 長崎慶一

    11 高橋薫

    12 森憲久

    15 石川雅規

    16 山田秋親

    18 松坂大輔

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    22 的場直樹

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    4 高橋賢司

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    9 阿部真宏

    5 井出竜也

    10 梶山義彦

    24 飯塚智広

    25 鷹野史寿

    26 赤星憲広

    30 大田垣耕造

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    35 長崎慶一

    11 土井善和

    12 河野昌人

    13 渡辺俊介

    14 吉見祐治

    15 石川雅規

    16 山田秋親

    17 杉内俊哉

    18 松坂大輔

    19 杉浦正則

    54 黒木知宏

    2 鈴木郁洋

    21 阿部慎之助

    22 野田浩輔

    3 松中信彦

    4 平馬淳

    5 中村紀洋

    6 田中幸雄

    8 沖原佳典

    9 野上修

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    10 梶山義彦

    24 飯塚智広

    25 廣瀬純

    26 赤星憲広

    1位:藤田太陽(逆指名)

    2位:伊達昌司

    3位:狩野恵輔

    4位:赤星憲広

    5位:加藤隆行

    6位:沖原佳典

    7位:藤本敦士

    8位:梶原康司

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    日本の野球選手

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