簑田浩二の情報(みのだこうじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


簑田 浩二さんについて調べます
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簑田浩二と関係のある人
木田勇: リリーフでも登板しており、無死満塁の状況で阪急の福本豊、簑田浩二、加藤英司から全て速球で連続奪三振を取る離れ業もやってのけた。 三枝規悦: 6月24日のロッテとの対戦では12安打5失点を喫するが、9回に簑田浩二が逆転サヨナラ2点本塁打、初完投勝利を記録した。 富澤宏哉: その後全審判と阪急首脳陣、簑田浩二など一部の選手達も交えて協議を続けるが結論に達しない。 吉沢俊幸: 1980年は開幕からレギュラーとして起用され、簑田浩二との1、2番コンビが固定化される。 石嶺和彦: 入団当時は身長174cm、体重70kgしかなく、キャンプで福本豊や簑田浩二、ボビー・マルカーノらの強烈な打球を見て自分が貧弱に思えたという。 大熊忠義: 12針を縫う大怪我をしたことが引退への大きな転機となり、簑田浩二に左翼手の定位置を譲る。 松本匡史: 新本拠地東京ドーム完成に伴う外野守備陣の強化と、簑田浩二(阪急)の交換要員(結果的に簑田は金銭トレードで獲得)として名前が挙がったことで、事実上の戦力外となり33歳で引退。 藤本敦士: フレッシュオールスターMVPとのダブル受賞は簑田浩二、石井浩郎、青木宣親に続く史上4人目の記録。 ロベルト=マルカーノ: 福本豊、加藤英司、簑田浩二、長池徳士らとともに阪急黄金時代を支えた。 藤井康雄: 1989年は開幕から前年の簑田浩二が移籍以来不在だった右翼手のレギュラーとなり、ブルーサンダー打線の一角を占めた。 広瀬叔功: 高校の後輩には後にプロでも活躍した簑田浩二がいる。 石井晶: シーズン中から際どいタイミングでも必ずと言っていいほど本塁に突っ込ませ、客観的にはアウトのタイミングでも福本豊、簑田浩二の脚を計算に入れて大胆な決断を実行。 津末英明: 1990年シーズン途中に同僚の簑田浩二とともに現役を引退し、三軍コーチに就任した。 上田利治: 1978年日本シリーズ第7戦における審判団への抗議を巡り、抗議の対象になった大杉の打球の行方を左翼手として最も近くで見ていた簑田浩二が、現役引退後に「富澤線審が『ホームラン』と判定してからにすぐに、『完全なファウルじゃないか!』『ボールを見失ったとハッキリ言え!』などと富澤に詰め寄ったので押し問答になった」、「選手はこの日のために春のキャンプから長いシーズンを戦ってきた。 上田利治: 阪急監督時代は福本豊・簑田浩二・松永浩美・弓岡敬二郎などの走れる人材に恵まれたこともあり、盗塁策を積極的に採用。 蓑田浩二: 東京スポーツに「セパ盟主の裏側を知る名手・簑田浩二」の自伝を掲載したこともあった。 福良淳一: 1988年は読売ジャイアンツへ移籍した簑田浩二の後を継ぐ形で背番号が1に変更された。 山倉和博: この年は同時に簑田浩二らも引退している。 福本豊: 1978年からは簑田浩二が台頭、簑田は自身も俊足なのを生かして、この年から1983年まで25盗塁以上を記録した。 |
簑田浩二の情報まとめ

簑田 浩二(みのだ こうじ)さんの誕生日は1952年3月11日です。広島出身の野球選手のようです。

現在、卒業、結婚、引退、テレビに関する情報もありますね。簑田浩二の現在の年齢は73歳のようです。
簑田浩二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 簑田 浩二(みのだ こうじ、1952年3月11日 - )は、広島県廿日市市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。現在はプロゴルファー(ティーチングプロ)として活動している。 攻・走・守すべてに長けたオールラウンダーとして知られ、1983年にはトリプルスリーを達成している。 大竹高校では1969年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが呉港高に敗退、甲子園には届かなかった。卒業後の1971年に三菱重工三原へ入社し、都市対抗野球大会には補強選手としての出場を含め4度出場した。1972年のドラフトでは当時、高校の先輩である広瀬叔功が主力選手として活躍していた南海ホークスから4位指名を受けるが、当時はプロ野球に興味がなく、自信もなかったことから入団を拒否。南海への入団拒否の背景には、戦力を失いたくない三菱重工三原側の慰留もあったとされる。1974年の都市対抗では左翼手として準々決勝に進むが、新日本製鐵八幡のエース萩野友康に抑えられ敗退。 内外野をこなすユーティリティプレイヤーとして評価され、1975年のドラフト2位で阪急ブレーブスに入団。阪急のことは社会人時代から名が知られていた山口高志が入ったチームという程度しか知らず、広島出身でカープファンであった簑田にとっては同年の日本シリーズでその年リーグ初優勝を果たしたカープを倒したチームと言うことで、複雑な気持ちもあったという。また、22歳の時に社内結婚しており、阪急入団時には妻のお腹には子どもが宿っていた。 身体が小さいこともあり、入団時から野球選手として1つの面だけで優れているよりも、全ての面を兼ね備えていることを理想としていた。もともと内野手であったが、加藤秀司、ボビー・マルカーノ、大橋穣、森本潔(または森本とのトレードで中日ドラゴンズから移籍してきた島谷金二)と並ぶ内野陣に付け入る余地はなく、2年目の1977年には外野手に転向。しかし外野も大熊忠義、福本豊、バーニー・ウイリアムスらレギュラーの壁は厚く控えに甘んじていたが、ターニングポイントとなったのが2年目に巨人と対戦した日本シリーズ第4戦であった。 その試合では1点ビハインドの9回2死無走者の場面で四球で出塁した藤井栄治の代走で出場し、代打の高井保弘の場面で、浅野啓司-吉田孝司バッテリーの警戒の中、盗塁を成功させた(簑田自身は9回2死、代打高井の場面でバッテリーはさほど警戒していないと感じていた。また、監督の上田利治からは「チャンスがあれば初球から行け」と指示されていた)。その後、高井のレフト前ヒットで二塁から本塁に突入。高井が打った瞬間から三塁コーチの石井晶は腕を回していた。しかし、当の簑田本人は三塁に到達する前に既に本塁で刺されると思っており、実際本塁でのタイミングはアウトと思われていた。しかし、吉田のタッチをうまくかわして同点のホームインを成し遂げ、阪急の逆転勝利につなげた。このとき、阪急ベンチ全員が喜んでいる中で上田監督だけは「スタートが遅い。2死なんやからもっと思い切ってスタートを切れ」と注文を付けた。簑田にとっては野球の奥深さを考えさせられるきっかけになったという。また「あのプレーは運も良かった。レフトに(張本勲の)守備固めで入っていた二宮(至)の返球がすばらしく、ノーカットだったら完全にアウトだった。しかし、サードの高田(繁)さんが中継した返球が1メートル内側に逸れた。たぶん吉田さんもノーカットと叫んだはずだが、大歓声で聞こえなかったんじゃないか(吉田本人は「よし」と叫んだといい、やはり高田には聞こえていなかったであろうとの推測を語っている)。いろんな偶然が重なって僕がヒーローになったけど、もしアウトなら試合は負けていて、シリーズの流れも違ったものになっただろう。」とも語っており、それからは状況に応じて考えたプレーをするように心がけるようになったという。 翌1978年にはケガで離脱した大熊に代わり、2番打者、左翼手に定着。初めて規定打席に到達し、打率.307(リーグ7位)、61盗塁を記録。福本(70盗塁)に及ばず盗塁王のタイトルは獲得できなかったが、「福本さんとチームの中の役割が違うのだから当然」と語っている。 同年より8年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得。簑田は「最も気持ちよかったのは守備。特にホームで相手走者を刺すプレーは1点のプレーと言う意味ではホームランと同じ。自分がホームランを打つよりも快感だった。」と語っている。補殺が多かったことから強肩外野手のように評されることが多いが、簑田自身は「自分は遠投90メートルもいかないし、それほど強肩じゃない。バックホームで走者を刺すのにそんな強肩は必要ない。ホームからフェンスまで広いところでも100mちょっと、野手はそれよりも前で守っているし、特にこのような場面では普通よりも前で守る。基本的にカットマンを狙って投げるが、ワンバウンドでホームに届かせるには50mちょっと投げられれば十分」といい「それよりも重要なのは状況に応じて守備位置を考えること」と解説している。 1980年には31本塁打、39盗塁、31犠打を記録。この“30-30-30”は日本唯一。 1981年には右翼手にコンバートされ、背番号もウイリアムスの1を受け継ぐ。簑田は「レフトよりライトのほうが楽しかった。走者を三塁に進ませない返球など、プレーの幅が広がった。」と振り返っている。 1982年後期からは3番打者としての起用が中心となる。 1983年には打率.312(リーグ5位)、32本塁打、35盗塁を記録、中西太以来30年ぶり史上4人目のトリプルスリーを達成。甘いマスクが女性ファンにも人気を呼び、「打ってよし、守ってよし、走ってよし、顔もよし」とマスコミに報道されたこともある。この記録はオールスター前くらいに達成ペースにあることを番記者から言われ、中西以来30年ぶりの快挙と知り、強く意識したという。特に意識したのは盗塁で、当初は3番という立場で4番打者(水谷実雄、ブーマー・ウェルズ)の前でアウトになってはいけないという意識から盗塁は少なかったが、シーズン後半は意識して盗塁を増やし、達成した。なお、この年は守備面でも両リーグ最多の17補殺を記録した。 しかし、1985年の開幕9試合目となる4月17日の日本ハムファイターズ戦で頭部死球を受け長期離脱してからは怪我に泣かされる事が多くなる。翌1986年、4月30日のロッテ戦で自打球により左足脛骨の亀裂骨折の重傷を負い、一軍復帰が8月にまでずれ込んだ。この年、プロ入り初の盗塁ゼロに終わると、その後は急激に成績が低下していく。1987年は121試合に出場こそしたものの全盛期からは程遠い数字に終わる。 1988年、金銭トレードで読売ジャイアンツに移籍(背番号は2)。同年に開場した東京ドームに対応できる守備の名手として期待された。 1989年の日本一にも貢献。近鉄に怒涛の3連勝を決められ、後が無くなった第4戦で、不調の緒方耕一に代わり1番で起用され、初回に二塁打を放ち、三進後、浅いセンターフライでタッチをかいくぐり先制得点を挙げ流れを変えた。簑田のバッティング練習を見ていた桑田真澄は、「右の篠塚さんみたいだ」とその高い打撃技術を絶賛した。 1990年に津末英明とともにシーズン途中での現役引退を表明し、閉幕まで一軍打撃コーチ補佐や一塁ベースコーチを務めた。 引退後は巨人で一軍守備・走塁コーチ(1991年)→一軍総合コーチ(1992年)→一軍外野守備・走塁コーチ(1993年 - 1995年)を歴任し、1994年のリーグ優勝・日本一に貢献。1995年に30億円補強をしたものの優勝を逃した責任を取らされる形で須藤豊ヘッドコーチと共に解任になり、球団事務所に赴くと日本テレビ・ラジオ日本の野球解説者とスポーツ報知の野球評論家を提案されたが断念、後に簑田は「読売系に世話になりたくないと思って。あとになって短気は損気だなと思いましたけど」と述べている。 退団後はテレビ東京野球解説者・デイリースポーツ野球評論家(1996年 - 2001年)を務め、現在はフリーの評論家として活躍する傍ら、日本インストラクタープロゴルフ協会認定プロゴルファーとして、浅草橋駅近くの「友愛ゴルフアカデミー」でレッスンを行っている。東京スポーツに「セパ盟主の裏側を知る名手・簑田浩二」の自伝を掲載したこともあった。 現役時代に最も頭に来たのが自身に付けられたあだ名である。何かと制約の多い二番打者に定着した1978年にストレスから試合前に下痢をしてトイレに駆け込むことが多かった。オフに球団主催のゴルフコンペで選手たちを馬に見立てて、競走馬風のネーミングが付けられたが、簑田に付けられた馬名は「マンゲリホープ」。慢性下痢の期待株という意味だったが、「こりゃええわ!」とみんなに笑われ真っ赤になった簑田は「いったい誰がこんな名前をつけたんだ!」と激怒。球団職員の仕業だと分かったが、後に巨人にトレードに出された時も「球団と簑田が険悪な関係だった」と報じられ、その具体例として「マンゲリホープ」が引き合いに出されるほど有名になった。1983年に阪急が客寄せのアイデアとして福本豊、バンプ・ウィルスと簑田の俊足トリオを競走馬と対決させるイベントを企画した。配布された出馬表にはバンプ・ウィルスはそのままで、福本は「フクモトユタカ」なのに、簑田はまたも「マンゲリホープ」と書かれた。腹を立てた簑田はここでも出馬を取り消している。 各年度の太字はリーグ最高 ベストナイン:3回 (外野手部門:1978年、1983年、1984年) ダイヤモンドグラブ賞:8回 (外野手部門:1978年 - 1985年) オールスターゲームMVP:2回 (1978年第2戦、1984年第1戦) ジュニアオールスターゲームMVP:1回 (1976年) 初出場:1976年4月3日、対近鉄バファローズ前期1回戦(阪急西宮球場)、2回裏に正垣宏倫の代走として出場 初盗塁:1976年4月10日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(宮城球場)、8回表に二盗(投手:佐藤博正、捕手:榊親一) 初安打・初本塁打・初打点:1976年10月4日、対日本ハムファイターズ後期13回戦(後楽園球場)、8回表に村上雅則から2ラン 初先発出場:1976年10月7日、対南海ホークス後期13回戦(大阪球場)、9番・中堅手として先発出場 100本塁打:1983年5月15日、対南海ホークス6回戦(阪急西宮球場)、6回裏に大坪幸夫からソロ ※史上124人目 150本塁打:1985年4月6日、対南海ホークス1回戦(阪急西宮球場)、1回裏に山内孝徳から左中間ソロ ※史上74人目 1000試合出場:1985年6月2日、対西武ライオンズ10回戦(高知市野球場)、3番・右翼手として先発出場 ※史上253人目 1000安打:1985年8月24日、対近鉄バファローズ18回戦(ナゴヤ球場)、9回表に鈴木康二朗から左翼線適時二塁打 ※史上143人目 200本塁打:1988年6月30日、対阪神タイガース12回戦(阪神甲子園球場)、2回表に久保康生から左中間満塁 ※史上55人目 トリプルスリー:1回(1983年) オールスターゲーム出場:4回 (1978年、1983年 - 1985年) 本盗:1978年第2戦(7月23日、阪神甲子園球場) ※重盗、史上初 24 (1976年 - 1980年) 1 (1981年 - 1987年) 2 (1988年 - 1990年) 71 (1991年 - 1995年) 全力闘球 - 出演していたテレビ東京のプロ野球中継の現行タイトル。 スポーツTODAY ^ 別冊宝島1809 『プロ野球最強の「3番打者」ランキング』 宝島社、2011年 、p.42、43 ^ 吉目木晴彦『魔球の伝説』講談社、1990年、112-120頁。ISBN 4-06-204699-7。 ^ “トリプルスリー~万能型野球人の証明~ 写真特集”. 時事通信社. 2018年3月12日閲覧。 ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ “【11月18日】1975年(昭50) 「使えなかった腹切る」ロッテスカウト自信作は“人斬り”だった”. スポニチアネックス. 2008年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月7日閲覧。 ^ 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社 ^ “簑田浩二「77年日本シリーズ、好走塁の真相」”. SPORTS COMMUNICATIONS (2011年7月11日). 2023年9月27日閲覧。 ^ 文春ビジュアル文庫「巧守好走列伝」 ^ 文春Numberビデオ『巧守好走列伝』 ^ “山田、柳田の同時達成はほぼ間違いなし! 過去のトリプルスリー達成者とは?”. BASEBALL KING (2015年9月8日). 2023年2月7日閲覧。 ^ “【9月24日】1983年(昭58) 公約通り 簑田浩二 30年ぶりの“トリプル3”(野球)”. スポニチ Sponichi Annex (2010年9月24日). 2010年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月27日閲覧。 ^ 週刊ポスト2016年5月27日号、P22 ^ “浅草橋でレッスンプロ 元巨人・簑田浩二のセカンドライフ|あの人は今こうしている”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2014年5月19日). 2023年2月7日閲覧。 ^ “元巨人の「トリプルスリー男」が球界を去った理由 いまはゴルフのレッスンプロ”. デイリースポーツ online (2020年7月11日). 2022年8月14日閲覧。 ^ 東京スポーツ連載 『簑田浩二 セパ盟主の裏側を知る名手 3割30本30盗塁男が激白』〈10〉2007年6月20日。 ^ “【時空スタジアム(6)】 1983年・西宮球場 世界の盗塁王vs競走馬 この日は満員スタンドに”. 産経WEST (2014年9月13日). 2017年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月7日閲覧。 ^ 新宮正春『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』講談社、1999年、389頁。ISBN 4-06-264521-1。 ^ “【7月11日】2004年(平16) メジャーでも記録なし!魅せた新庄のヘッドスライディング(野球)”. スポニチ Sponichi Annex (2008年7月11日). 2011年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月27日閲覧。 広島県出身の人物一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 簑田浩二 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 中沢伸二 一 柏原純一 二 B.マルカーノ 三 島谷金二 遊 真弓明信 外 福本豊 / 簑田浩二 / 佐々木恭介 指 土井正博 表 話 編 歴 投 東尾修 捕 香川伸行 一 落合博満 二 大石大二郎 三 スティーブ.O 遊 石毛宏典 外 島田誠 / テリー.W / 簑田浩二 指 門田博光 表 話 編 歴 投 今井雄太郎 捕 藤田浩雅 一 ブーマー.W 二 大石大二郎 三 落合博満 遊 弓岡敬二郎 外 簑田浩二 / 高沢秀昭 / T.クルーズ 指 L.リー 表 話 編 歴 1972 池辺巌, 広瀬叔功, 福本豊 1973 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1974 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1975 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1976 B.ウイリアムス, 弘田澄男, 福本豊 1977 大熊忠義, 弘田澄男, 福本豊 1978 B.ウイリアムス, 福本豊, 簑田浩二 1979 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二 1980 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二 1981 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1982 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1983 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1984 島田誠, 高沢秀昭, 簑田浩二 1985 金森永時, 島田誠, 簑田浩二 1986 西岡良洋, 山本和範, 山森雅文 1987 秋山幸二, 新井宏昌, 島田誠, 高沢秀昭 1988 秋山幸二, 高沢秀昭, 平野謙 1989 秋山幸二, 平野謙, 本西厚博 1990 秋山幸二, 西村徳文, 平野謙 1991 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1992 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1993 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1994 秋山幸二, イチロー, 佐々木誠 1995 秋山幸二, イチロー, 田口壮 1996 秋山幸二, イチロー, 田口壮 1997 イチロー, 井出竜也, 田口壮 1998 イチロー, 大友進, 大村直之 1999 秋山幸二, イチロー, 大友進 2000 イチロー, 柴原洋, 田口壮 2001 柴原洋, 田口壮, 谷佳知 2002 井出竜也, 小関竜也, 谷佳知 2003 大村直之, 柴原洋, 谷佳知, 村松有人 2004 谷佳知, 村松有人, SHINJO 2005 大村直之, サブロー, SHINJO 2006 稲葉篤紀, 森本稀哲, SHINJO 2007 稲葉篤紀, サブロー, 森本稀哲 2008 稲葉篤紀, 坂口智隆, 森本稀哲 2009 糸井嘉男, 稲葉篤紀, 坂口智隆 2010 糸井嘉男, 坂口智隆, 栗山巧 2011 岡田幸文, 糸井嘉男, 坂口智隆 2012 陽岱鋼, 糸井嘉男, 岡田幸文 2013 陽岱鋼, 糸井嘉男, 秋山翔吾 2014 陽岱鋼, 糸井嘉男, 柳田悠岐 2015 柳田悠岐, 秋山翔吾, 清田育宏 2016 秋山翔吾, 陽岱鋼, 糸井嘉男 2017 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝 2018 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝 2019 秋山翔吾, 荻野貴司, 西川遥輝 2020 柳田悠岐, 大田泰示, 西川遥輝 2021 荻野貴司, 辰己涼介, 柳田悠岐 2022 髙部瑛斗, 辰己涼介, 福田周平 2023 辰己涼介, 万波中正, 近藤健介 2024 辰己涼介, 周東佑京, 万波中正 表 話 編 歴 1950 岩本義行, 別当薫 1953 中西太 1983 簑田浩二 1989 秋山幸二 1995 野村謙二郎 2000 金本知憲 2002 松井稼頭央 2015 山田哲人, 柳田悠岐 2016 山田哲人 2018 山田哲人 表 話 編 歴 1位:住友一哉(入団拒否) 2位:簑田浩二 3位:木村基治 4位:加藤安雄 5位:森正敏(入団拒否) 6位:中司得三(入団拒否) 表 話 編 歴 1位:石川勝正(入団拒否) 2位:伊藤正信 3位:池之上格 4位:簑田浩二(入団拒否) 5位:小川一夫 6位:河合充(入団拒否) 7位:本田勤 8位:入山功(入団拒否) 日本の野球選手 三菱重工三原硬式野球部の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 日本の野球指導者 野球解説者 日本の男子ゴルファー ゴルフ指導者 野球出身のゴルファー 広島県出身のスポーツ選手 1952年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/03/29 18:12更新
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