津末英明の情報(つすえひであき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
津末 英明さんについて調べます
■名前・氏名 |
津末英明と関係のある人
赤嶺賢勇: 沖縄・豊見城高時代には、栽弘義監督の指導を受けて1975年の選抜大会に出場し、初戦でその夏に甲子園優勝をとげた習志野高校を完封、準々決勝では、結果的に準優勝だった東海大相模高校に対して9回裏2死無走者(2死目は原辰徳から見逃し三振を奪った)までリードを保ち、そのあと津末英明からの被安打をきっかけに敗北したが、この大会の活躍で全国的に注目を浴びる投手となった。 青山道雄: 大学の一期上に原辰徳、津末英明、市川和正、同期には井辺の他、伊藤寿文がいる。 簑田浩二: 1990年に津末英明とともにシーズン途中での現役引退を表明し、閉幕まで一軍打撃コーチ補佐や一塁ベースコーチを務めた。 木下智裕: 大学の一期下に原辰徳、津末英明、市川和正がいる。 軍司貞則: 十万人のふたり 原辰徳と津末英明 講談社 1984.8 吉田修司: その裏に津末英明の3ランホームランなどでチームが逆転して、プロ初勝利を記録する。 井辺康二: 大学の一期上に原辰徳、津末英明ら、同期には伊藤寿文、同郷の青山道雄がいた。 市川和正: 3年上のエース・遠藤一彦、同期の原辰徳、津末英明らとチームメートとなった。 原辰徳: 当時のチームは、原の他にも、津末英明(津末は東海大学の同期でもあり、後に巨人でもチームメイトとなった)、綱島里志、佐藤功、村中秀人、岡部憲章らの好選手を擁していた。 蓑田浩二: 1990年に津末英明とともにシーズン途中での現役引退を表明し、閉幕まで一軍打撃コーチ補佐や一塁ベースコーチを務めた。 古屋英夫: 1985年は高田繁が監督に就任し、5月に柏原純一が死球を受けて欠場したのを契機に津末英明が代わって一塁手を務める機会が増えた。 白武佳久: 当時の首都大学野球リーグは原辰徳、津末英明らの強打線とエース井辺康二を擁する東海大学が席巻していたが、これを圧倒し2年の秋季リーグから3季連続優勝。 中村昭: この大会では四番打者を務め、原辰徳、津末英明らを擁する東海大相模高を準々決勝で破る。 岡部憲章: 巨人入団当時、高校の同期であった原はまだ現役で、同じく津末英明も前年に日本ハムから巨人に移籍していたため、それぞれの役割は違えど、プロで初めて同じチームに揃った。 |
津末英明の情報まとめ
津末 英明(つすえ ひであき)さんの誕生日は1958年10月16日です。熊本出身の野球選手のようです。
卒業、引退、現在に関する情報もありますね。津末英明の現在の年齢は66歳のようです。
津末英明のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 津末 英明(つすえ ひであき、1958年10月16日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(内野手)。 父は山下泰裕(柔道家)の祖父と交友関係があり、山下が九州学院高から東海大相模高に転校する際に、東海大学総長の松前重義と山下家との会談の席を仲介した人物であった。 自身も東海大相模高に進学し、高校・大学を通して原辰徳と同期であった。原が3番、津末が4番を打っていた。高校時代はエースの村中秀人を擁し甲子園に4回出場。 1974年夏の選手権は右翼手として出場。準々決勝で鹿児島実の定岡正二に抑えられ、延長15回敗退。 1975年の春の選抜では決勝に進出する。決勝では杉村繁のいた高知高に延長13回の接戦の末に敗れ、準優勝にとどまった。同年夏の選手権は準々決勝で上尾高に敗退した。直後の全日本高校選抜チームによるアメリカ西海岸・ハワイ遠征にも選出された。 1976年夏の選手権は一塁手に回るが2回戦で小山高に敗れる。原らとともに強打のチームとして鮮烈な印象を残した。津末の打球の速さは原をしのぐものがあり、津末を評価する声も高かった。他の高校同期に控え投手の岡部憲章がいた。 高校卒業後は東海大学に進学。首都大学野球リーグでは在学中7回優勝。1977年の全日本大学野球選手権大会では、エースの遠藤一彦の好投もあって決勝に進むが、石毛宏典のいた駒大に延長10回の末に敗れ、準優勝となった。同年の明治神宮野球大会でも江川卓を擁する法大に敗れ、準優勝に終わる。他の大学同期に市川和正がいた。リーグ通算89試合出場、290打数90安打、打率.310、8本塁打、57打点。ベストナイン2回。 1980年オフにドラフト外で日本ハムファイターズに入団。当時の日本ハムの一塁手には柏原純一がおり、あまり出番に恵まれなかった。 1985年には柏原の不調もあって94試合に先発出場。 1986年は新入団のパット・パットナムが一塁に入るが、主に指名打者として活躍。初めて規定打席(19位、打率.285)に到達、19本塁打を記録し、出塁率.401はリーグ4位であった。 1987年は不振に喘ぎ、7月には定位置を岡持和彦らに奪われる。 1988年は、オフに構想外となったところ、読売ジャイアンツ(巨人)の監督に就任した藤田元司が原を介して津末に声をかけ、金銭トレードで巨人に移籍。巨人の1989年の優勝に貢献した。同年の近鉄との日本シリーズでは2試合に出場。第2戦では九番、指名打者として先発するが無安打1四球に終わった。 1990年シーズン途中に同僚の簑田浩二とともに現役を引退し、三軍コーチに就任した。 1994年にスカウトに転身。 また高校時代から現在に至るまで原とは親交が深く、原が巨人の監督に就任した2002年からは監督付広報担当(兼運転手)となり、2011年には巨人の編成調査課長を務めた。 2020年より東京新大学野球連盟に所属する東京国際大学硬式野球部のコーチに就任した。 初出場:1983年4月20日、対南海ホークス1回戦(大阪スタヂアム)、6回表に榊原良行の代打として出場 初安打:1983年9月13日、対南海ホークス21回戦(大阪スタヂアム)、8回表に嶋田信敏の代打として出場、金城基泰から 初先発出場:1983年9月16日、対阪急ブレーブス24回戦(後楽園球場)、9番・左翼手として先発出場 初本塁打・初打点:1983年9月17日、対阪急ブレーブス25回戦(後楽園球場)、9回裏に和田博盛の代打として出場、佐藤義則からソロ 23 (1981年 - 1988年) 37 (1989年 - 1990年) 137 (1991年) 87 (1992年 - 1993年) ^ “「柔の道 ひと筋に」東海大学副学長 山下泰裕さん”. くまにちコム. 熊本日日新聞. (2012年10月19日). http://kumanichi.com/feature/kataru/yamashita/20121019001.shtml 2017年9月18日閲覧。 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 読売新聞1988年11月11日19面 ^ “東京国際大が元巨人の津末英明新コーチを迎えて始動「わかりやすく伝えたい」 東海大相模・東海大で巨人・原監督と主軸”. 中日スポーツ (2020年1月10日). 2020年5月10日閲覧。 熊本市出身の人物一覧 東海大学の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 津末英明 - NPB.jp 日本野球機構 ISNI VIAF 日本 日本の野球選手 東海大学付属相模高等学校出身の野球選手 東海大学硬式野球部の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 日本の野球指導者 大学野球指導者 熊本県出身のスポーツ選手 熊本市出身の人物 1958年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 17:03更新
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tsusue hideaki
津末英明と同じ誕生日10月16日生まれ、同じ熊本出身の人
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