山倉和博の情報(やまくらかずひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山倉 和博さんについて調べます
■名前・氏名 |
山倉和博と関係のある人
山崎章弘: 二軍のイースタン・リーグ公式戦では好成績を残していたが、当時の巨人は正捕手の山倉和博をはじめ捕手陣の層が厚く、一軍公式戦へのデビューは1986年にまで持ち越された。 炭谷銀仁朗: 打率は2割に達せず、規定打席には32打席足りなかったが、もし規定打席に到達していた場合、1982年の山倉和博(読売ジャイアンツ)以来の「規定打席に到達して打率2割未満」となる可能性があった。 島田芳明: 初盗塁:1983年4月27日、対読売ジャイアンツ2回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に二盗(投手:角三男、捕手:山倉和博) 村田真一: 初出場:1984年5月12日、対阪神タイガース8回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に山倉和博に代わり捕手として出場 川口和久: リリーフでは防御率1点台前半の好成績を残し、その頃に抑えのマリオ・ブリトーが攻略されだしたこともあり、バッテリーコーチの山倉和博から抑えで投げてみないかと提案される。 鹿取義隆: 2回戦(初戦)で山倉和博を擁する東邦高に逆転勝ち、3回戦は盛岡三高を延長14回サヨナラ勝ちで降しベスト8に進出。 亀岡偉民: 進学した早稲田大学野球部では同学年のエースだった難波秀哉とバッテリーを組み、山倉和博の控え捕手であった。 中尾孝義: 自身と同年齢でリーグMVPの経験者でもある山倉和博から開幕スタメンを勝ち取ると、前年にカムバック賞を受賞した有田修三から正捕手の座も奪う。 有田修三: 当時の巨人では正捕手の山倉和博が精彩を欠いていたため、当初は有田を定岡正二と交換することで近鉄と合意。 金森栄治: 高校卒業後は1975年に早稲田大学へ進学し、捕手に転向するが、3年次の1977年までは山倉和博の控えであった。 河村健一郎: 巨人とは石山建一ファームディレクターと日本石油時代の先輩後輩の仲に加えて、山倉和博一軍バッテリーコーチの夫人が河村の夫人の姉であるなど何かと繋がりがあったが、縁故だけで巨人が河村を採用したわけではなかった。 阿部慎之助: 2001年、一軍ヘッドコーチの原辰徳の推薦を受け、3月30日の阪神タイガースとの開幕戦で、球団では山倉和博以来23年ぶりとなる新人捕手開幕スタメンとして先発出場(8番・捕手)。 杉山茂: 翌1978年には福島知春の台頭、山倉和博の入団により出場機会が激減し、1982年限りで現役を引退。 阪口慶三: 山倉和博(早大〜巨人) 松本匡史: 大学同期に八木茂、吉沢俊幸が、1学年下にエースだった難波秀哉と山倉和博のバッテリーもいた。 長嶋茂雄: コーチ陣はヘッドコーチの須藤豊をはじめ、中畑清・山倉和博など気心の知れた人を起用した。 松沼雅之: 同年の明治神宮野球大会では準決勝で松本匡史、山倉和博、岡田彰布らを擁する早大に敗退。 村田真一: 捕手としての出場試合数「1087」は森祇晶、阿部慎之助、山倉和博に続く歴代4位の球団記録である。 吉沢俊幸: 1学年下に山倉和博が、3学年下には岡田彰布らがいた。 佐野元国: 当初は山倉和博に続く2番手捕手として期待されていたが、4月5日に行われた大洋とのオープン戦(水戸)の5回に本塁上で走者の若菜嘉晴に左脚大腿部をスパイクされ7針の皮下裂創を負い退場し、その12日後の阪神戦で槙原寛己とバッテリーを組んだ際、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布のクリーンナップからバックスクリーンへの3連続本塁打を浴びた。 デュウェイン=ホージー: 翌日は本塁打は出なかったものの5打席3四球4得点、第3戦では勝負してきたバルビーノ・ガルベスからトップに並ぶ36号を打つ(35号を打たれた夜、巨人のバッテリーコーチだった山倉和博が試合に負けホージーにも打たれるなど散々な試合だったため「勝負も大事だけど松井も大事」と発言した)。 米倉忠信: 当時のジャイアンツ捕手陣は、山倉和博の衰えが顕著となり、また故障がちであった中尾孝義のバックアップとして村田真一が台頭し、それらに次ぐ若手捕手陣が群雄割拠の様相を呈していた時期でもあったが、アマチュア時代の実績が皆無であった米倉は2軍でも出場機会はほとんど与えられず、1991年シーズン後に入団から僅か2年で戦力外通告を受けた。 奥田瑛二: また、元阪神の捕手で現楽天コーチの山田勝彦や元巨人捕手の山倉和博、元中日投手の朝倉健太は高校の後輩にあたる。 長嶋茂雄: 江川・西本聖・角三男・藤城和明・鹿取義隆・赤嶺賢勇・山倉和博・笠間雄二・中畑清・淡口憲治・篠塚利夫・松本匡史・平田薫・山本功児・中司得三・河埜和正・中井康之・二宮至の18人が参加。 八木茂: 大学同期に松本匡史、吉沢俊幸が、1学年下に山倉和博、3学年下には岡田彰布らがいた。 笠間雄二: 1978年からは山倉和博の加入で出場機会は徐々に減少し、山倉・吉田孝司の3番手となる。 鈴木清信: ミラクルジャイアンツ童夢くん(山倉和博) 小林誠司: 打撃は規定打席最下位の打率.204と課題を残したが、巨人の右打者の捕手が規定打席に到達するのは1987年の山倉和博以来29年ぶりだった。 小川淳司: 野村克也監督からは、1990年4月28日の対巨人戦でそれまで宮本和知の前に2三振を喫していたところ捕手の山倉和博のリードに対する読みを伝授された(その結果、3打席目に本塁打を放った)ことや、守備固めに入った試合の翌日、当たり前に処理しただけと自身が捉えていた前日のプレーについて「昨日はナイスプレーだったな。 武内享: 『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ)のコントなどでは、「顔が山倉和博に似ている」とよくネタにされていた。 |
山倉和博の情報まとめ
山倉 和博(やまくら かずひろ)さんの誕生日は1955年9月2日です。愛知出身の野球選手のようです。
テレビ、卒業、引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。山倉和博の現在の年齢は69歳のようです。
山倉和博のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山倉 和博(やまくら かずひろ、1955年9月2日 - )は、愛知県大府市出身(福岡県田川市生まれ)の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。現役時は意外なところで長打を打つことから「意外性の男」と称された。 東邦高校では2年次の1972年に内野手から捕手に転じ、俊足強打で鳴らす。3年次の1973年には田口実記(三菱重工名古屋)とバッテリーを組み。四番打者として春夏連続で甲子園に出場。春の選抜では準々決勝に進むが、横浜高の永川英植に抑えられ完封負けを喫する。夏の選手権は2回戦(初戦)で高知商に敗退。 同年のドラフトで南海ホークスから2位指名を受けるが、入団を拒否して1974年に一般入試で早稲田大学に入学。この入団拒否の際、自ら足を運び交渉に当たった野村克也選手兼任監督が「自分の後継者になってくれ」と要請したが、山倉は「僕は早稲田に進学します。南海には行きません」と言ったきり沈黙。何を聞いてもほとんど答えない態度に野村もお手上げで「全く使えないか、逆にプロですぐ使えるか、どちらかやな」という印象を抱いたが、山倉自身は後に「その言葉で捕手を続けたようなものだった」と振り返っている。同年には江川卓も阪急が1位指名、袴田英利もロッテから3位指名を受けたが、入団を拒否して法政大学に進学している。東京六大学野球リーグでは1年次の1974年春季リーグから起用され、優勝を経験した。しかしその後は法大の全盛期となり優勝には届かなかった。道方康友(後に日本鋼管入社)や難波秀哉(後に関西テレビ放送入社)らとバッテリーを組み、岡田彰布・佐藤清(日本生命〜早大監督)・松本匡史らと打の主軸を形成。盗塁王を獲得するなど俊足の捕手として鳴らし、3年次の1976年には第5回日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、4年次の1977年には主将を務めた。リーグ通算94試合出場、300打数82安打、2本塁打、32打点、打率.273、ベストナイン(捕手)2回。卒論は「野球における捕手の一考察。」という題材で体育会の学生にしては珍しく原稿用紙80枚を書き上げて、卒業が認定された。 1977年のドラフト1位で読売ジャイアンツへ入団。このドラフトでは阪神を除く11球団がマークしていたが、郷里の中日かセ・リーグ在京球団以外はお断りと強い意志を示し、「希望以外だったら社会人」と公言。巨人の本命は江川であったが、いの一番選手を指名できるくじを引いたのは、クラウンであった。江川の交渉権を目の前で奪われた巨人は、投手ではなく山倉を指名。担当スカウトは加藤克巳。入団後は声が小さい、態度がふてぶてしい、新人らしさがないなど、自主トレーニングやキャンプから印象について厳しく言われた。「ナマクラ」というあだ名も付けられてしまい、肝心の捕手としての資質は、流石に江川に次いで、全ドラフト指名の中で2番目に名前が挙がっただけのことはあったが、先輩諸氏の受けという点では決して良いものではなかった。しかし、長嶋茂雄監督は全く違った見方をしており、「打撃なら笠間、肩なら福島の方が上。でも、山倉にはどっしりとした風格がある。雰囲気がある。捕手として大事なものを持っている」と見ていた。笠間雄二も福島知春も前年に巨人がペナントレースを半ば独走態勢に入った夏頃から時々使われ始め、経験は1年目の山倉よりあったが、長嶋にしか分からないひらめきもあって、山倉の開幕スタメン起用をオープン戦終盤に決定。巨人軍史上、1947年4月18日の中日戦で武宮敏明がマスクを被って以来、31年ぶりの開幕戦新人捕手先発起用となった。 1978年4月1日の阪神戦(後楽園)で初出場を果たすと、4回裏には新井良夫から初安打・初本塁打・初打点を記録。打球は低い弾道ながら、打球は吸い込まれるように左翼スタンドに突き刺さった。早大時代は4年間で僅か2本塁打であったが、プロ2打席目で記念すべき初本塁打を放ち、新人捕手の開幕戦本塁打は1960年の大洋の黒木基康が中日戦(中日)で記録して以来、実に18年ぶりの快挙であった。それでも山倉は万歳をするわけでもなく、大はしゃぎするわけでもなく、「そりゃ嬉しいですよ」という試合後のコメントからは考えられない、淡々とした表情でダイヤモンドを1周。ベンチの巨人ナインが半ばあきれながら「本当に何を考えているのか分からんヤツや」と言った。バッテリーを組んだ先発の堀内恒夫が全てサインを出し、山倉は試合後に「投手をリード?そんなことできませんよ。堀内さんの指示で投げてもらった。僕は捕っているだけ」と種明かしまでしてしまったが、9回に1点差に迫られても交代はしなかった。長嶋は「山倉?落ち着いていたね。ベテランみたいに。ああいうのが投手は安心するんだ」と的中した新人の起用にご機嫌で、山倉は堀内から捕手の心構えを学んだ。プロ初安打が本塁打など当初から長打力のあるところを見せ、守備も平均以上であったが、打撃の確実性に欠けるのが課題であった。 2年目の1979年には正捕手の座を獲得し、オフには「地獄の伊東キャンプ」で鍛えられる。 3年目の1980年に17本塁打を放ち、同年から1987年まで8年連続で100試合以上に出場。この頃から「意外性の男」と呼ばれるようになるが、同年はパスボールが多く、バッシングを浴びることも多かった。長嶋は「パスボールが記録されても、すべて僕のミスでした、と責任を取っていた。だからこそ投手陣は彼(山倉)を信頼したのだろう」と語っているが、そのオフに牧野茂ヘッドコーチが就任すると、すぐに自宅へ来て、このパスボールの多さについて尋ねた。悩んだが、山倉は「すべて投手のサインミス。サインどおりならパスボールなんてしません」と言ったところ、牧野はニコリと笑って「その気持ちを忘れずにやってくれ」と言った。これで裏方に徹する肚が決まる。 1981年には4年ぶりのリーグ優勝と8年ぶりの日本一に貢献。同年から1987年まで7年連続でオールスターゲーム出場を果たし、同年の第3戦(神宮)では全パ先発の村田兆治(ロッテ)からソロ本塁打を放ってMVPを獲得。リードも光り、投手陣の持ち味を遺憾なく引き出したことで全パを完封したが、全パの完封負けは1975年の第1戦以来であった。同年、1983年、1987年と3度のベストナイン選出・ゴールデングラブ賞受賞も達成。インサイドワーク能力について当時評論家の野村から「配球が一本調子だ」と批評され、弱気なリードという批判もあったが、「打たれても最小限の被害で済むように」という考えが根底にあった。江川はカーブの曲がり具合で調子を判断し、叱ることで江川を怒らせて力を引き出した。強気で頑固な西本聖の生命線は内角攻めであったため、外角へのストレートで調子を見極めたが、定岡正二は神経質なのか図太いのかが分かりづらく、球が浮きやすいため低く構えることを徹底した。荒れ球も武器であったリリーバーの角三男には、高低だけを決めて、左右は球まかせにし、ほとんどド真ん中に構えた。すでにベテランで、以降も長く投げ続けた加藤初は江川に次ぐ球威で、初回にスライダーが決まれば問題がなかった。槙原寛己に対しては、スライダーが甘く入らないように注意しながら、おだてて気持ちよく投げさせた。叱られて頑張るタイプの水野雄仁は球威のある高めのストレートにフォークで勝負し、桑田真澄は熱くなって力で抑え込もうとする気持ちを巧みに操縦していった。絶対的な信頼関係に裏打ちされた多彩な投手それぞれに対する個別のリードで、江川は後に「捕手には二つのタイプがある。野村さんや古田敦也みたいに、捕手の側からメニューをつくってどんどんリードしていくタイプがある。でもそういう捕手だとたぶん僕は対立したと思う。山倉はメニューを五つくらい提示して、どれでいくか投手に委ねてくれるタイプの捕手だった」といい、山倉の配球はあくまで投手中心のものだったと言っている。 1982年には規定打席に到達したが、打率は最下位の.196と2割を切っている。この年の山倉を最後に日本プロ野球で「規定打席に到達して打率2割未満」の選手は現れていない。先述の低打率も1983年よりある程度解消されており、1985年7月12日の阪神戦(後楽園)では史上6人目となる3イニング連続本塁打を放った.なお、1985年4月17日の阪神戦(甲子園…バックスクリーン3連発の試合)は怪我により欠場しており、その試合のスタメンマスクは控え捕手の佐野元国だった。 1986年には近鉄から移籍してきた有田修三に加え、1989年には中日から中尾孝義も加入し、村田真一の台頭もあって、出場機会を減らしていった。中尾をトレードで獲得した藤田元司監督(6年ぶりに復帰)とも相容れなかった。8月26日後楽園球場の対広島戦で再び1試合3本塁打を相手エース北別府学らから記録. 1987年には打率.273・22本塁打の打撃成績に加え、守備でも桑田・江川・槙原・水野という4人の2桁勝利投手輩出と、抑え投手の鹿取義隆の活躍に貢献するなど高い評価を受け、巨人の捕手としては史上初のシーズンMVPを獲得。同年4月25日の阪神戦(甲子園)で1000試合出場を達成し、8月23日のヤクルト戦(神宮)では7回表に阿井英二郎から左越2点本塁打を放って100本塁打を記録。 1988年には右大腿二頭筋の肉離れに背筋痛と故障が続き、リードの勘も鈍ってくる。 1989年、この年実質正捕手の座を新加入の中尾に奪われたこともあって、本人は移籍を希望し、意中の球団は大洋であるとも報じられた。ロッテも獲得に乗り出していたことがあった(後に撤退)が、この年限りで引退した中畑清らの説得もあって、残留という形で落ち着いた。 1990年には控えながらもファン投票1位で3年ぶりにオールスターゲームに出場。山倉は「球宴に胴上げしながら運んでもらったよう。一生、忘れません」と語った。投手達の球を受け続けた左手は神経痛で麻痺し、右手の指はファウルチップで骨折、脱臼、打撲を繰り返したことで完全に変形していて、その疼き具合で翌日の天気を正確に当てられるようになった。チームがリーグ2連覇に沸いた同年引退。この年は同時に簑田浩二らも引退している。 引退後はTBS「○曜ナイター&エキサイトナイター」解説者・スポーツ報知評論家(1991年 - 1992年)を経て、巨人の一軍バッテリーコーチ(1993年 - 1998年)を務め、2度のリーグ優勝(1994年, 1996年)と1994年の日本一に貢献。巨人退団後はNHK「プロ野球」解説者(1999年 - 2003年)を経て、2004年からはフリーの評論家として多方面で活動。読売新聞西部本社スポーツアドバイザーとして野球の普及活動を行っていたが、2011年にはソフトバンク二軍バッテリーコーチに就任。高校卒業後の指名から38年を経て、コーチとしてホークスに入団したが、同年9月30日に「健康上の理由」で退団。 各年度の太字はリーグ最高 各年度の太字はリーグ最高 太字年はゴールデングラブ賞の受賞 最優秀選手:1回(1987年) ベストナイン:3回(1981年、1983年、1987年) ゴールデングラブ賞:3回(1981年、1983年、1987年) オールスターゲームMVP:1回 (1981年第3戦) 初出場・初先発出場:1978年4月1日、対阪神タイガース1回戦(後楽園球場)、8番・捕手として先発出場 初安打・初本塁打・初打点:同上、4回裏に新井良夫から左越ソロ 1000試合出場:1987年4月25日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上269人目 100本塁打:1987年8月23日、対ヤクルトスワローズ22回戦(明治神宮野球場)、7回表に阿井英二郎から左越2ラン ※史上151人目 3イニング連続本塁打:1985年7月12日、対阪神タイガース戦(後楽園球場)、6回から8回にかけて2ラン、ソロ、3ラン ※史上6人目 オールスターゲーム出場:8回(1981年、1982年、1983年、1984年、1985年、1986年、1987年、1990年) 新人の開幕戦本塁打 ※史上8人目 15(1978年 - 1990年) 76(1993年 - 1998年) 77(2011年) 『熱球悲願“意外性の男”の告白』(恒文社、1982年)ISBN 4770404816 『キャッチャーになんてなるんじゃなかった!-“意外性の男”の意外な告白』(ベースボール・マガジン社、1991年)ISBN 4583028873 『捕手型人間は出世する』(海鳥社、2006年)ISBN 4874155952 ^ 1987年は山倉の陰に隠れたものの、1988年は上述した山倉の故障により出場機会を増やし、カムバック賞を獲得。 ^ 山倉が中尾について弱気な発言をしたことが、中尾獲得の意図を理解していないとして藤田の逆鱗に触れた。 ^ なお、巨人の捕手としての日本シリーズでのMVP獲得は1967年の森昌彦がこれに先立つ。また、その後阿部慎之助が2009年に日本シリーズMVPを、2012年にシーズンMVPを、それぞれ獲得している。 ^ 1985年以前の名称はダイヤモンドグラブ賞。 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 「山倉和博 “意外性の男”リードの極意とは?/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム」『週刊ベースボールONLINE』2019年5月22日。2024年8月29日閲覧。 ^ 「巨人OB加藤克巳氏が死去 86歳 スカウトで山倉、原、槙原、後藤ら名選手を発掘」『デイリースポーツ』2021年12月1日。2024年8月29日閲覧。 ^ スポーツニッポン 1989年12月3日 3面 ^ スポーツニッポン 1989年12月6日 4面 ^ スポーツニッポン 1989年12月7日 5面 ^ スポーツニッポン 1989年12月14日 5面 ^ 「コーチ辞任のお知らせ」『福岡ソフトバンクホークス公式サイト』2011年9月30日。2011年10月1日閲覧。 ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」435ページ ^ 千葉功「中村晃、銀次らの「デビュー戦」を振り返る」『週刊ベースボールONLINE』2015年4月5日。2024年3月30日閲覧。 愛知県出身の人物一覧 早稲田大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 山倉和博 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 公式ホームページ 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 川上哲治 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 川上哲治 1956 別所毅彦 1957 与那嶺要 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 長嶋茂雄 1962 村山実 1963 長嶋茂雄 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 長嶋茂雄 1967 王貞治 1968 長嶋茂雄 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 長嶋茂雄 1972 堀内恒夫 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 山本浩二 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 若松勉 1979 江夏豊 1980 山本浩二 1981 江川卓 1982 中尾孝義 1983 原辰徳 1984 衣笠祥雄 1985 R.バース 1986 北別府学 1987 山倉和博 1988 郭源治 1989 W.クロマティ 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 J.ハウエル 1993 古田敦也 1994 桑田真澄 1995 T.オマリー 1996 松井秀喜 1997 古田敦也 1998 佐々木主浩 1999 野口茂樹 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 金本知憲 2006 福留孝介 2007 小笠原道大 2008 A.ラミレス 2009 A.ラミレス 2010 和田一浩 2011 浅尾拓也 2012 阿部慎之助 2013 W.バレンティン 2014 菅野智之 2015 山田哲人 2016 新井貴浩 2017 丸佳浩 2018 丸佳浩 2019 坂本勇人 2020 菅野智之 2021 村上宗隆 2022 村上宗隆 2023 村上頌樹 表 話 編 歴 投 江川卓 捕 山倉和博 一 藤田平 二 篠塚利夫 三 掛布雅之 遊 山下大輔 外 山本浩二 / J.ライトル / 田尾安志 表 話 編 歴 投 遠藤一彦 捕 山倉和博 一 谷沢健一 二 真弓明信 三 原辰徳 遊 高橋慶彦 外 山本浩二 / 田尾安志 / 松本匡史 表 話 編 歴 投 桑田真澄 捕 山倉和博 一 R.バース 二 篠塚利夫 三 原辰徳 遊 宇野勝 外 W.クロマティ / 吉村禎章 / C.ポンセ 表 話 編 歴 1972 大矢明彦 1973 田淵幸一 1974 田淵幸一 1975 大矢明彦 1976 大矢明彦 1977 大矢明彦 1978 大矢明彦 1979 若菜嘉晴 1980 大矢明彦 1981 山倉和博 1982 中尾孝義 1983 山倉和博 1984 達川光男 1985 木戸克彦 1986 達川光男 1987 山倉和博 1988 達川光男 1989 中尾孝義 1990 古田敦也 1991 古田敦也 1992 古田敦也 1993 古田敦也 1994 西山秀二 1995 古田敦也 1996 西山秀二 1997 古田敦也 1998 谷繁元信 1999 古田敦也 2000 古田敦也 2001 古田敦也 2002 阿部慎之助 2003 矢野輝弘 2004 古田敦也 2005 矢野輝弘 2006 谷繁元信 2007 谷繁元信 2008 阿部慎之助 2009 谷繁元信 2010 城島健司 2011 谷繁元信 2012 谷繁元信 2013 阿部慎之助 2014 阿部慎之助 2015 中村悠平 2016 石原慶幸 2017 小林誠司 2018 梅野隆太郎 2019 梅野隆太郎 2020 梅野隆太郎 2021 中村悠平 2022 中村悠平 2023 坂本誠志郎 表 話 編 歴 1位:山倉和博 2位:木下透 3位:曽田康二(入団拒否) 4位:鈴木伸良 5位:鈴木康友 6位:島本啓次郎 表 話 編 歴 1位:藤田学 2位:山倉和博(入団拒否) 3位:河埜敬幸 4位:平山正人(入団拒否) 表 話 編 歴 太田誠 五明公男 小川茂仁 森繁和 江川卓 佐藤義則 吉田恭之 林博之 高橋三千丈 齊藤明雄 堀場秀孝 袴田英利 大宮龍男 山倉和博 石毛宏典 石井昭男 秋田秀幸 武智勇治 金光興二 松本匡史 岡村隆則 渡辺良 植松精一 ISNI VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の野球選手 東邦高等学校出身の野球選手 早稲田大学野球部の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 野球日本代表選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 日本の野球指導者 福岡ソフトバンクホークス関連人物 野球解説者 福岡県出身のスポーツ選手 1955年生 存命人物 Pages using the JsonConfig extension 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/10/30 07:27更新
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yamakura kazuhiro
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