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長嶋茂雄の情報 (ながしましげお)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

長嶋茂雄の情報(ながしましげお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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長嶋 茂雄さんについて調べます

■名前・氏名
長嶋 茂雄
(読み:ながしま しげお)
■職業
野球選手
■長嶋茂雄の誕生日・生年月日
1936年2月20日
子年(ねずみ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
千葉出身

(昭和11年)1936年生まれの人の年齢早見表

長嶋茂雄と同じ1936年生まれの有名人・芸能人

長嶋茂雄と同じ2月20日生まれの有名人・芸能人

長嶋茂雄と同じ出身地千葉県生まれの有名人・芸能人


長嶋茂雄と関係のある人

河埜和正: ヤクルトの個性派左腕・安田猛に滅法強くカモにしていたほか、右中間方向に抜群の飛距離があったため、長嶋茂雄監督に打撃フォームをいじられた。


横田真之: 日本プロ野球に新人扱いで入った選手が、入団1年目から2年続けてレギュラーシーズンの規定打席を満たしたうえで打率3割を記録した事例は、1958年・1959年の長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)以来史上2人目であった。


岡田彰布: 65歳での優勝監督は、パ・リーグも含めると2013年の星野仙一と並びタイ記録の最年長、セ・リーグでは最年長記録を更新した(それまでは2000年の長嶋茂雄の64歳)。


落合博満: 退団会見は落合と信子夫人のほか、渡辺恒雄オーナー、長嶋茂雄監督同席のもとで行われる、退団選手の会見としては異例なものであり、落合は「(子供の頃からファンで敬愛する)長嶋監督が、(自分か清原かどちらを起用するか)悩む姿を見たくなかった」とコメントしている。


和田豊: この日が最後の指揮となった巨人の長嶋茂雄監督(同じ千葉県出身でもある)への花束贈呈式の後、和田の引退セレモニーが行われ、スピーチでは球団関係者・同僚への感謝の言葉に続き「…日本一の球場で常によいコンディションで試合をさせていただいた阪神園芸の皆さん。


川上哲治: 同年秋には野球界から初の文化功労者に選ばれた(野球界ではのちに長嶋茂雄、王貞治も文化功労者となった、特に長嶋は令和3年(2021年)にプロ野球界初となる文化勲章も受章した)。


広野功: 通算8本塁打は長嶋茂雄と並ぶ当時のリーグタイ記録であり、一塁手としてベストナインに2回選出されたほか、大学同期に外野手の鈴木義信がいる。


渡辺省三: なお、このボールは巨人のON砲にも使ったが、長嶋茂雄だけには通用せず打たれてしまったという。


杉浦忠: 長嶋茂雄引退時に発行された「報知グラフ」への寄稿文では、合宿所を抜け出したのは「二度ほど」としている。


條辺剛: 暖簾に描かれた「條辺」「じょうべ」の文字は巨人時代の監督だった長嶋茂雄が左手で書いた色紙の文字を染め抜いたもの。


藤田寛之: 2009年 - 長嶋茂雄Invitational セガサミーカップ


吉永小百合: 前者については、元々読売ジャイアンツ(特に長嶋茂雄)のファンだったのが、江川事件をきっかけに、また堤義明にスキーを教わったのをきっかけとして転向したものだった。


大神いずみ: その模様はテレビで生中継され、仲人は当時巨人監督だった長嶋茂雄夫妻であった。


藤城和明: ^ 『地獄の伊東キャンプ 完全版: 長嶋茂雄が闘魂こめた二十五日間』、p242。


東実: 大学同期に矢頭高雄・堀本律雄、1年下に長嶋茂雄・本屋敷錦吾・杉浦忠らがいる。


新宮正春: 記者時代の縁から、長嶋茂雄との親交も深く、長嶋と亜希子夫人との間を取り持ったことでも知られる。


土井正三: 球団は最初、長嶋茂雄さんにオファーしたんですよ。


ヨネスケ: 自作の得意ネタは、『寝床』を川崎時代のロッテに置き換えた『野球寝床』、『天狗裁き』の天狗を長嶋茂雄に置き換えた『長嶋裁き』といった「野球落語」や、自作による『落語禁止法』など。


小島圭市: 試合後に長嶋茂雄監督は「小島には(ヤクルト相手では)荷が重かったか」とコメントした。


山下律夫: 同11日の巨人戦(川崎)では王貞治・長嶋茂雄にアベック本塁打を浴びるも2勝目を挙げ、同18日の広島戦(広島市民)では高橋重行の2番手で3勝目を挙げる。


宮田統樹: ^ 阪神の「6番・右翼手」としてスタメンに起用された佐藤輝明が、セントラル・リーグの新人選手としては1958年の長嶋茂雄(巨人)以来63年振りに一軍の公式戦で1試合3本塁打を記録した試合で、ニッポン放送が朝日放送ラジオへの裏送り向けに中継を制作(解説:前田幸長、ベンチリポート:洗川)。


星野仙一: 66歳でのリーグ優勝と日本一は、2000年の長嶋茂雄を超えるプロ野球最年長優勝記録である。


米倉忠信: 以降、米倉と同時期にブルペン捕手に転向した山本幸二と2人体制で、第2次藤田元司監督末期から第2次長嶋茂雄監督全期を通してジャイアンツの投手陣を陰ながら支え続けた。


古内義明: 歴代の表紙には、東京六大学野球の各校主力選手や主将の他に、長嶋茂雄、青木宣親、高橋由伸、高田繁、大越健介、稲葉篤紀など、六大学の歴史を彩ってきたOBが登場している。


山内一弘: 広島に移籍した1968年は全試合に出場し、王貞治・長嶋茂雄(ともに巨人)に次ぐセ・リーグ3位の打率.313を記録。


土井正博: この「三振率1割未満」は400本塁打以上を打った15人の中では張本勲、長嶋茂雄と土井の3人のみである。


桑田武: ^ 本塁打王を分け合った森は同年がプロ2年目で、1年目の昨季は112試合に出場して23本塁打・73打点を記録したが、新人王は29本塁打・92打点の長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)が獲得した。


高田延彦: 少年時代は長嶋茂雄に憧れる野球少年で、少年野球ではオール橫浜に選出されるが、長嶋の引退と同時に野球熱が冷める。


越智正典: 1974年10月14日の長嶋茂雄の現役引退試合(対中日戦、後楽園球場)では、試合後の共同記者会見を担当。


山崎裕之: 高校時代は、埼玉県営大宮公園野球場で長嶋茂雄以来のバックスクリーン弾を打つなど強打で鳴らし、『長嶋二世』と評され、高校野球部監督の野本喜一郎(元西鉄など)が元プロでプロ球界で顔が広かったこともあって当時は広島カープを除く11球団が興味を示したプロ注目の内野手であったが、山崎本人は、遠くの球団へやりたくなく在京球団を希望した親の意向と、当時のオリオンズスカウトの山田潔が高校1年の頃から自分に注目してくれていたことでまず1番に声をかけてくれた東京オリオンズに入団することを決意したという。


長嶋茂雄の情報まとめ

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長嶋 茂雄(ながしま しげお)さんの誕生日は1936年2月20日です。千葉出身の野球選手のようです。

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引退、兄弟、母親、卒業、父親、家族、事件、テレビ、ドラマ、病気、結婚、趣味、映画、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。亡くなられているようです。

長嶋茂雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

長嶋 茂雄または長島 茂雄(ながしま しげお、1936年〈昭和11年〉2月20日 - ) は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督。読売ジャイアンツ終身名誉監督、株式会社読売巨人軍専務取締役、日本プロ野球名球会顧問、ジャイアンツアカデミー名誉校長。

愛称は「ミスタープロ野球」「ミスタージャイアンツ」「ミスター」「チョーさん」「燃える男」他。血液型はB型。

同時代に活躍した王貞治とはともに「ON砲」として称され、2人のバッティングは巨人のV9に貢献した。日本のプロ野球において400本塁打・2000安打の同時達成は大卒では史上初である。NPB最多記録となる最多安打を10回獲得しセ・リーグ最多記録となる首位打者を6回獲得した。

巨人軍4番出場試合数2位(川上哲治に次ぐ)。

2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役終身名誉監督。

2013年に国民栄誉賞を受賞、2021年にプロ野球界初となる文化勲章を受章した。

苗字の表記には「長嶋」と「長島」の2種類があり(嶋は島の異体字)、どちらも時期によって本名として正式に使用されていた。

出生時の戸籍上の表記は「長嶋」で、プロ入り前はそれに従って「長嶋」と表記するメディアと当用漢字に置き換えて「長島」と表記するメディアが混在していた。しかし、1958年のプロ入りの際に記者クラブと本人の合意により、報道の際は表記の簡単な「長島」で統一することに決まった。本人も、入団当初は「長嶋」を使用していたが、その後は現役中一貫して「長島」をサインに使用するようになった。また、『巨人の星』や『ドカベン』などの創作物でも長島表記が使用されていた。

一方、球団側の担当者によれば、現役時代の球団の公式名簿では1964年から1965年のみ新聞社の要望により「長島」表記を使用していたが、その他の年度は「長嶋」表記にしていたという。実際に、球場のスコアボードでは「長島」だけでなく「長嶋」を使用したこともあり、引退試合の後楽園球場でも「長嶋」表記だった。

引退後、1992年に二度目の監督就任が決まった際に、本人の要望により、報道でも「長嶋」表記が採用されることになった。しかし、1999年にゲン担ぎのために現役時代に広く知られていた「長島」に改名しており、読売新聞社によれば、その時点で戸籍上の本名が「長島」になっているという。このため、2021年に文化勲章を受章した際には、文部科学省大臣官房人事課の発表で本名「長島」と表記され、芸名等として「長嶋」が併記されていた。

以下、本記事では便宜上「長嶋」表記に統一して解説する。

1936年2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に生まれた。父は「利(とし)」、母は「チヨ」。兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子である。生家は農家だったが、土地は貸し出し、父は臼井町役場の収入役や助役をしていた。父は在所の世話役だけに短気ではなく、母は意志が強いしっかり者だった。

幼少時代、東急フライヤーズの青バットこと大下弘や大阪タイガースの藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。藤村への憧れから、当時の関東在住者としては珍しく、幼少期は阪神ファンだった。小学4年生から兄の影響で野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。また、グラブも母親の手縫いのもので、初めて握ったバットは青竹を割った手製のものであった。

小学校6年生の時に兄が所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団した。兄の下で遊撃手として育てられた。

中学は臼井二町組合立中学校(現:佐倉市立佐倉中学校)に入学し、長嶋は野球部に入部した。

中学3年間は同じ担任の先生であり、卒業時にはタンスをプレゼントされたほど生徒から慕われていたが、一人の生徒が選手のブロマイドを持ってきたことが発端となって激怒したことがある。以前生徒へのアンケートで将来の希望を書かせたらほとんどが「プロ野球選手」と書かれているのを見て、あまりに野球に熱中する姿に「もっと将来を現実的に考えろ」と生徒全員を机の上に正座させた。後年になってその先生は、「長嶋がプロ野球の大スターになるとは思わなかった。子供の夢を頭ごなしに否定してはならない」と反省したという。

1951年4月、県内トップの進学校で甲子園出場経験もある千葉県立千葉高等学校の入学も考えたが、地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校(現・千葉県立佐倉高等学校)に進学する。自宅から学校へは京成電鉄京成本線京成臼井駅(当時の自宅の最寄駅) - 京成佐倉駅(高校の最寄駅)間を利用して通学していた。

2年生から4番打者を担う。高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進み、南関東大会に千葉代表校として出場を果たす。第1回戦、熊谷高校との試合(1953年8月1日大宮球場)で、遊撃手の長嶋は試合前に負傷していた三塁手・鈴木英美に代わって三塁手を務めた。遊撃手で度重なるエラーをしていたことからのコンバートであり、以降、三塁手として定着。同試合には敗れたものの、6回表に福島郁夫投手から高校公式試合で自身唯一の本塁打を放った。このバックスクリーン下の芝生への鋭いライナー性の本塁打を、当時の新聞は飛距離を350フィート(約107メートル)と推定した。

この特大の本塁打により長嶋は野球関係者から大いに注目を集めることとなった。この本塁打を見ていた1人に朝日新聞記者・久保田高行がいた。久保田からその話をきいた報知新聞記者・田中茂光が、内野手のスカウトにあたっていた富士製鉄室蘭野球部マネージャー・小野秀夫に話をした。小野は長嶋に富士製鉄室蘭への入社を勧めるも、長嶋の父親は進学を希望し、さらに上司から北海道からの新人が内定したとの連絡を受けたため、断念。小野はかわりに、自らの出身校・水戸商高の先輩にあたる砂押邦信が監督を務める立教大学への進学を勧めた。砂押の教育方針に感銘を受けた長嶋の父親は、読売ジャイアンツからのプロ入りのオファーも長嶋に知らせない上で、進学を理由に勝手に断っている。プロ入り志望の長嶋は激怒したという。

同年11月下旬、静岡の伊東スタジアムで行われた立教大学野球部推薦入学のセレクションが行われた。フェンス直撃を含む3本の安打を打ち(杉浦忠からも安打)、参加者80人中20人が甲子園出場組という中で推薦順位2位で合格し(1位は本屋敷錦吾、3位は杉浦)、砂押にも認められた。

1954年、立教大学経済学部経営学科に進学。しかし同年6月に父親が急逝する。長嶋家は一家の大黒柱を失い困窮したが、当時の印旛地区では印旛地区内や印旛地区外から千葉・東京方面に野菜を販売する行商の数が盛んだったこともあり、母親が京成本線や京成千葉線を利用して千葉や東京に出向いて野菜売りの行商をするなどして生計を支えた。

野球部では砂押監督に目をかけられ、ジョー・ディマジオやヨギ・ベラなどのプレイを参考にしたメジャー流の練習や、砂押の自宅に呼んでの練習など「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。翌1955年に先輩の大沢昌芳(大沢啓二)らが砂押排斥運動を起こす。このような野球部の環境に嫌気が差し、1955年(当時・大学2年生)ごろには同期の杉浦忠(南海ホークス)と共に野球部の合宿所を抜け出し、杉浦の地元・愛知県に本拠地を置く中日ドラゴンズの球団事務所を訪問。その上で「軍隊のような立教野球部が嫌になったので、大学を中退して中日で野球をやり、金を稼ぎたい。契約金はいらない」と申し出たが、応対した中日の球団代表から申し出を拒否された。

砂押の退任後、長嶋は辻猛の下で同期の杉浦忠投手、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ、東京六大学野球において、1956年の春季リーグ戦と1957年の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せた。また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。1957年には六大学リーグの通算新記録となる8本塁打を放った。1955年には第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学野球リーグ選抜チーム)に選出された。リーグ通算96試合に出場し、打率.286(304打数87安打)、8本塁打、39打点、22盗塁。打撃に加えて守備や俊足も野球関係者から高い評価を受け、石井連藏は大学時代の長嶋の守備について「早稲田も頑張って、ずいぶん三遊間にヒット性の打球を打ちましたが、ほとんど長嶋に捕られましたね。彼の守備範囲は普通の人の二倍くらいあったんじゃないでしょうか。しかも守備範囲が荒れていない」と評している。

高校時代から社会人野球に進むと思われていた。だがさまざまな球団が長嶋との接触を図っていた が、本命は南海ホークスとされていた。

そんな中、読売ジャイアンツ(巨人)が長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手 になり、長嶋は南海から一転、巨人への入団を決め、11月20日に契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」に決まった。当初、川上哲治から「15」を勧められたが辞退している。川上が勧めた理由は、「14」は沢村栄治、「16」は川上であるから、長嶋が「15」を付ければ「14」「15」「16」と3つ連続で永久欠番になるだろうと言う思いからだった。長嶋が辞退した理由は「恐れ多い」とも「一桁がよかった」からだとも言われている。

入団が決まった直後に川上の自宅近くに下宿したといい、川上の長男が言うには実際に川上と一緒にいることが多かったという。

契約金は当時最高額の1800万円(南海は2000万円を提示していた)、年俸は200万円。

後に大沢が語ったところによると、先に南海に入団していた大学の先輩でもある大沢と二人きりで話をし「どうしても巨人に行きたいんです」と大沢に頭を下げたという。大沢は「このことがなかったら、今の長嶋茂雄は無かっただろう」と語っている。しかし、この件もあってその後も大沢には頭が上がらなかったという。

長嶋の獲得に尽力していた当時南海の監督であった鶴岡一人には、オープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪した。この時、鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。

ルーキーの1958年は、オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まるなかで開幕戦を迎えた。4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。オープン戦の最中、ある解説者が長嶋を褒め称え「金田など打ち崩して当然」といった趣旨の発言をしていたのを偶然耳にした金田は激昂、この日の登板のために特訓を重ね、肩のピークがちょうど来るようにしたという。しかし、その後は長嶋も金田を打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っている。長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、18本塁打。

デビュー2日後の4月7日、国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放ち、8月6日の対広島戦から、巨人の中心打者であった川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。

9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園)では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消された(記録はピッチャーゴロ)。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人としても巨人の選手としても、唯一のトリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)の記録を達成していた。長嶋は翌9月20日の対大阪戦で28号を打ち直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成するも、翌年に桑田武が31本塁打を記録し、あっけなく破られる。

最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。また、二塁打(34)もリーグ最多であったが、三塁打は田宮謙次郎に1本及ばず8本に終わり、「二塁打・三塁打・本塁打のすべてでリーグ最多」という大記録を逃した(その後も達成者はなし)。

新人記録では、1956年の佐々木信也(高橋ユニオンズ)以来2人目の全イニング出場(セ・リーグでは史上初。その後も1961年の徳武定之(国鉄スワローズ)、2017年の源田壮亮(埼玉西武ライオンズ)のみ)。また、新人の89得点は戸倉勝城の90得点に次ぐ歴代2位で、新人のセ・リーグ記録。そのほかにも新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録(※2019年に阪神タイガースの近本光司に破られるまで)、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。シーズン猛打賞14回も新人記録である。

6月25日、後楽園球場で行われた天覧試合(対阪神戦)では、4対4で迎えた9回裏、先頭打者の長嶋が阪神の二番手、村山実からサヨナラ本塁打を放つ。この試合を機にプロ野球人気が大学野球のそれを上回るようになったとされ、また、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった。なお、同試合では当時ルーキーであった王貞治も本塁打を打っており、106回あったONアベック本塁打の第1号になった。

2年目となった同年シーズンは、シーズン途中まで、パ・リーグの葛城とともに3冠ペースだったが、終盤に本塁打と打点が伸びなかった。2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。

引退した1974年を除くと自己最少の16本塁打、64打点ながら打率.334で2年連続の首位打者を獲り、4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録。

打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者、初のセ・リーグMVPを獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。同年の35敬遠は当時の日本記録。

打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。同年から、長嶋と王貞治(本塁打王と打点王のタイトルを獲得)が巨人の中軸打者(多くは3番王・4番長嶋、両者のコンディションの違いにより打順入れ替えがあった)として永らく活躍するようになり、MM砲(ニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルとロジャー・マリス)になぞらえてON砲との呼称が定着した。

打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。2年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献し、2度目のセ・リーグMVPを受賞。

リーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。

王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。同年から巨人のV9が始まる。

打率.344で5度目の首位打者を獲得。26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。3度目のセ・リーグMVPを受賞。秋には、日米野球で来日したドジャースのオマリー会長が「長嶋を譲って欲しい。2年間でいい」と正力松太郎社主に打診したが、「長嶋がいなくなると、日本の野球は10年おくれる」と断ったため、メジャー移籍は実現しなかった。

入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。特に5月27日の中日戦では9回の巨人が3点を追う場面でONアベック砲を期待されていたところを監督の川上に代打を告げられて交代させられるなどの不遇もあった。

9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。王はマウンドに数歩歩み寄って抗議の姿勢を示したが、バッキーの指の滑りなどの身振りで納得しバッターボックスに帰ろうとした。そしてバッキーもマウンドに戻りロージンを拾おうと屈んだところに、三塁コーチャーボックスにいた荒川博が背後からバッキーに飛びケリを喰らわせ、同時に乱入してきていた巨人の選手がバッキー投手に襲い掛かった。バッキーを孤軍で守っていたのは捕手の辻佳則で、遅れて阪神ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し両軍は乱闘となる。この乱闘でバッキーと巨人の荒川博打撃コーチが退場となった。また、明らかに意図をもってバッキー投手に襲い掛かった荒川は後日傷害罪で起訴されている。バッキー投手はこの乱闘で右手指を骨折し、このシーズンを欠場するだけでなく、最終的に引退に追い込まれた。そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。

その直後、次打席の長嶋は、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。さらに8回にも2ランを放ち、試合に決着をつけた。

同年のシーズンは王と激しい打撃競争を繰り広げた長嶋であったが、結果として王に次ぐリーグ2位の打率.318、王とデーヴ・ロバーツに次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。39本塁打は2019年に坂本勇人に抜かれるまで、巨人の生え抜き日本人右打者の1シーズン最多記録であった。4度目のセ・リーグMVPを受賞。

1969年は王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。球界最高の年俸4560万円で契約更改した。

1970年は打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。

1月20日、巨人軍13代目のキャプテンに就任。5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。35歳での首位打者獲得は、当時川上哲治と並ぶNPB最年長記録だった(誕生日の関係で厳密には長嶋の方が上回る。1979年に大洋のフェリックス・ミヤーンが更新)。34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。シーズンオフの12月27日に翌シーズンよりコーチを兼任することが発表された。5度目のセ・リーグMVPを受賞。

内野手兼打撃コーチとして迎えたシーズン、リーグ3位の92打点、リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。

打率.269、20本塁打、76打点と成績が下降した。力の衰えた長嶋は既に4番の座を王に譲っていたが、9月のヤクルト戦では決定的な屈辱を受ける。ヤクルトは四番の王を5打席連続で敬遠し、全ての打席で五番の長嶋と勝負。しかし、結果は1安打こそ放ったものの、得点機の打席でことごとく凡退。敵将の非情采配になすすべのない自らを知るにつけ、球界の中心が長嶋から王へとかわったことに気づかされた。10月11日の後楽園球場での阪神戦にて三塁の守備で後藤和昭の打球を右手薬指に当て骨折して負傷したため、残り試合の欠場を余儀なくされた。南海ホークスとの日本シリーズでは一塁コーチとして出場した。

長嶋は阪神との直接対決を翌日に控えた10月9日、監督の川上と平河町の料亭にて会食し、その席で川上からこの年限りでの現役引退し監督に就任するよう勧告される。しかし長嶋は現役続行を強く訴え、川上もこれを認めたため翌1974年も川上が監督を務め、長嶋は現役を続行することになった。

1974年オールスター戦出場後、改めて監督の川上と球団に引退の意思を伝え、当初球団は正式発表を11月24日のファン感謝デーを予定していたが、自身が「ファンに直接感謝の言葉を捧げたい、優勝できない場合最終戦終了直後に」と希望し、晩節を汚さぬよう新聞各紙の運動記者部長に箝口令を敷いた。

10月12日、中日ドラゴンズのリーグ優勝が決定し、神宮球場にてヤクルトと試合中であった巨人のV10が完全に消滅した。試合後、長嶋は監督の川上と共に神宮球場にて記者会見し、「今年はプレーしていて肉体的な衰えを強く感じることがありました」「できることならば、明日(13日)のペナントレース最終ゲームにおいて、ファンの皆様の前でひとつ“引退”ということを皆さんにお話しして、そしてお別れの言葉を述べさせてもらいたい。そういう心境でございます」と語り、引退を表明した。長嶋はこの日の午前、川上と共に読売新聞本社の務台光雄、オーナーの正力亨に対しこの年限りでの引退を正式に伝えていた。

引退のセレモニーを実施する予定だった翌13日の中日とのダブルヘッダーは降雨のため翌14日に順延となった。14日、長嶋は後楽園球場での中日とのダブルヘッダーにて、第1試合は3番・三塁手で出場した。一方、対戦相手の中日はこの日、名古屋市内での優勝祝賀パレードに参加するため監督の与那嶺要、星野仙一、高木守道ら主力選手は名古屋に留まり試合への欠場を余儀なくされたため、控えと若手主体のオーダーで臨んだ。長嶋は4回裏の第2打席にて、村上義則から現役最後の本塁打となる15号2ランを打った。またこの試合で、4番に座った王も7回裏に49号3ランを打ち、通算106回目のONアベック本塁打を記録した。

第1試合終了後、長嶋は自身の強い希望で球場のファンに直接挨拶をするため、一塁側ベンチを出てライトの外野方向へ歩き出した。長嶋は歩きはじめると次第に嗚咽し、涙ながらにスタンドのファンに向かって手を振りながら、外野席のフェンスに沿って外野席を一周した。この長嶋による場内一周は、球団が計画した引退セレモニーのプログラムには入っていなかった。しかし「外野席にもお別れと感謝のあいさつをしたい」という長嶋が、球場内の混乱を懸念する球団の制止を振り切って、突然の場内一周という行動に出たのだった。

続く第2試合は、4番・三塁で出場。「4番サード長嶋」がアナウンスされると後楽園球場は大歓声に包まれた。監督の川上はこの試合に捕手・森昌彦、遊撃・黒江透修を起用する「V9」オーダーで臨んだ。長嶋は5回裏の第2打席に中前安打を打ち、これが現役最後の安打となった。そして8回裏一死一・三塁の場面で現役最後の打席を迎え、ショートへの併殺打となった。10対0で巨人が勝利した。

試合後、引退セレモニーが実施され、長嶋はスピーチにて「我が巨人軍は永久に不滅です」と挨拶した。試合後、球場内のサロン・ゴールデングローブにて記者会見し、現役引退の経緯について訊かれ、打球が野手の正面を突くようなって力の衰えを感じ、前年のオフに秘かに引退を決意していた、などと語った。

1974年11月20日、日米野球の全日程を終了後に川上は監督の退任を表明。翌21日、巨人は後楽園球場にて記者会見し、川上が監督を退任し、長嶋が新監督に就任すると正式に発表した。長嶋はこの席で「クリーン・ベースボール」を標榜した。前監督の川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投・打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編。ミスをした選手に罰金を課す減点主義を廃し、いいプレーを年俸に反映させる加点主義に転換した。そのためヘッドコーチに関根潤三、投手コーチに宮田征典、守備・走塁コーチ補佐に黒江透修、バッテリーコーチに淡河弘などをそれぞれ招聘した(黒江・淡河は現役引退後からの残留)。川上は作戦コーチの牧野茂、投手コーチの藤田元司の残留を要請し、森昌彦のコーチでの残留、堀内恒夫のトレードでの放出をアドバイスしたが、長嶋は川上時代のコーチ陣を一掃し、川上のアドバイスをすべて蹴っている。長嶋と森は犬猿の仲であった。黒江によると長嶋は「川上さんみたいな暑苦しい野球はしたくない」と言ったという。新背番号は「90」。新背番号を考えていた長嶋は当時小学生の息子の一茂に相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順が3番・背番号3・三塁手)から、3を3つ足して9」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司が付けていたため)。

長嶋は現役最終年時点では、引退および監督就任は考えておらず、現役を2・3年は続行したい思いがあったという。また、引退後の数年はバックネット裏から野球を研究したり、コーチを経験したりしてからの監督就任を考えていたが、チーム事情から引退後に即監督就任の運びとなった。

球団としては戦後初の非日系の外国人選手 であるデーブ・ジョンソンを獲得し、自らの後継三塁手とした。なお、ジョンソンはメジャーリーグ情報を長嶋に伝えるパイプとしての役割もあり、度々長嶋家にメジャーの試合を録画したものを持ち寄り、長嶋一家とともに鑑賞していた。この場に立ち会っていた息子の一茂はメジャーに憧れ、野球(リトルリーグ)や、独学でウエイトトレーニングを始めた。

1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に終わった。当時巨人の選手だった柴田勲は、「長嶋さんが引退して森昌彦さん、黒江透修さんも引退し戦力が落ちたのもあるが、コーチ陣を一新したり、一体どういう野球をしたいのかがわからなかった」、「コーチ陣と上手くいっているように見えなかった」と述べている。この時、長嶋は自身の野球人生は「波乱万丈」だと思ったという。

そのため1975年のオフには「クリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジを行った。日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲を高橋一三・富田勝との交換で獲得。さらにトレードで太平洋クラブ・ライオンズから先発も抑えもできる加藤初も獲得した(このとき東尾修もトレード候補だった)外野の名手である高田繁を内野の三塁手に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁手に移動するなど、チーム強化に着手した。阪神の江夏豊は水面下で移籍を打診させ巨人関係者と打ち合わせしたが新聞社にスッパ抜かれ破談になった。コーチ陣も前年から一軍コーチで留任したのは黒江のみで打撃コーチには二軍監督だった国松彰が就任した。投手コーチに就任した杉下茂は鈴木龍二セ・リーグ会長からの要請で就任した。フロントはさらに極秘で、ヘッドコーチとして長嶋と同学年である南海の選手兼任監督野村克也に接触。巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診した。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた野村はこれを快諾したが、肝心の長嶋が首を縦に振らなかった為、“巨人・野村克也”は幻に終わり、野村は選手兼任監督で南海に残留した。

翌1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たした。日本シリーズは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた。

1977年シーズン中にヤクルトから倉田誠との交換で当時巨人キラーと言われていた浅野啓司を獲得するなどし、2位に15ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす(V2)。日本シリーズは1勝4敗で2年連続で阪急に敗れた。オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とした。

1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、一旦は首位に立つものの力尽き、結局、2ゲーム差でOBの広岡達朗が率いるヤクルトが優勝した。同年オフに江川事件が起きており、江川卓との交換トレードで、エースの小林繁が阪神に移籍。

1979年は5位に終わった。この年のオフ退団した張本は、低迷の要因を新聞記者に問われ、「言いたいことはたくさんある。これだけは断言できる。チームは間違えた方向に向かっている」と答えている。これについて著書で、「立つ鳥跡を濁さず、別れた女の悪口など言わないつもりでいたが、コーチ陣の保身が目立った。長嶋監督を助けようとはせず、多くのコーチがフロントにゴマをすって、地位を守ろうとしていた。巨人のコーチなら給料も高いし、マスコミにも多く取り上げられておいしい思いもできる。長嶋監督はナンバー2を置かなかったから、コーチ陣を一つにまとめ上げる人もいなかった。私が巨人のユニフォームを着た最後の年は5位に沈み、長嶋監督の次は王だろう。王にすり寄る連中も出てきた。私が間違った方向と言ったのは、そういったチーム内の雰囲気のことだった」と記している。

長嶋はV9時代を知らない若手選手を「シンデレラ・ボーイ」と呼び、伊東スタジアムの秋季キャンプに集結させた。これは後に地獄の伊東キャンプと呼ばれるようになった。江川・西本聖・角三男・藤城和明・鹿取義隆・赤嶺賢勇・山倉和博・笠間雄二・中畑清・淡口憲治・篠塚利夫・松本匡史・平田薫・山本功児・中司得三・河埜和正・中井康之・二宮至の18人が参加。キャンプ中に行われた練習試合で若手が全く活躍せず、ベテランだけが活躍したこともあり、当初は1976年オフの再来とも言われたが、このキャンプで若手の結束力が高まり、後に藤田元司時代の主力選手となる。

張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイトを獲得した。ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋の理解者であり、伊東キャンプでも臨時コーチを務めた青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。

野球マスコミやファンの間では、栄光のV9時代を懐かしみ、前監督の川上哲治の待望論が徐々に出るようになっていった。実際に川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋のチーム作りに干渉(前述の1976年オフの柴田のトレード失敗など)するようになり、また、1976年オフに山ごもりのパートナーでもあり、自らが監督になる際にコーチに抜擢した淡河弘を原辰徳のドラフト騒動の時に失い(原の家に長嶋の密書を持っていったという理由で解任された)、1979年オフには前述の騒動で青田昇を失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、フロントが11人のコーチ(福田昌久・須藤豊・関根・宮田・淡河・中村稔・瀧安治・黒江・国松・町田行彦・鈴木章介)を解任にした。黒江は1978年に退任しているが長嶋から「片腕としてよくやってくれたけど、球団の考えなんだ。申し訳ないが辞めてくれ」と言われ、黒江は涙ながらに長嶋に「片腕の黒江を切るなら私も辞めますと、なぜ言ってくれなかったのですか」と言ったという。

長嶋批判が渦巻く中、1980年8月に当の川上が、青田昇・牧野茂・藤田元司・国松彰らを集めて週刊文春の座談会を開き、取材担当の瀧安治にオフレコにする条件として長嶋の後継監督について色々と話し合った。ところが数日後にその記事が掲載され、長嶋降ろしの波は避けられないものとなった。最終的に、球団のオーナーである正力亨ではなく、読売新聞社社長の務臺光雄が、1980年のシーズン終了前に長嶋の監督解任を決断した。球団がAクラスを確保すれば続投と公言していたものが一転した形で、「陰謀」と騒がれることになった。川上派の批判に晒され続けた長嶋は、川上(とその一派)による数年かけた裏工作の結果とみなし、長嶋の川上への悪感情は決定的なものになった。川上がOB会会長になった後はOB会への欠席を続け、1990年に、OB会から今年出席しないと除籍という勧告を受けて、しぶしぶ出席したのをきっかけに川上と「和解」した。

長嶋は辞任という名の「事実上の解任」後、正力からフロントへの入閣を進められたが、フロントは性に合わないと拒否して退団届を提出し、個人事務所「オフィスエヌ」を設立し、浪人時代を始める。

後継監督には藤田元司が就いたが、藤田は前述の座談会に参加しており、また同座談会で川上が後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシングの対象とされ、1981年に日本一になった際にもそれは続いた。

1980年オフ、西武監督根本陸夫から「西武の監督やってくれないか」と声をかけられた。

浪人時代は野球のみならずスポーツ全般の伝道者的役割、「スポーツ外交官」的役割を演じた。特に浪人1年目、1981年は、2月キューバ文化視察、同月(設立前の)韓国野球委員会での講演、同年6月中国棒塁協会での野球指導、同年10月ワールドシリーズ観戦などと世界中を駆け巡った。

この時期からスポーツ番組のみならずバラエティ番組にも出演。独特のキャラクターが受け、「面白いオジサン」のイメージが定着。翌1982年1月に報知新聞社の客員評論家に就任するとともに、日本テレビ放送網系でもプロ野球中継の解説者として年数試合担当していた。1988年には一茂がヤクルトに入団した。

この間、他球団から相次いで監督就任の打診があったが、巨人への思いからそれらを全て断った。長嶋によると大洋・日本ハム・ヤクルトから監督就任の要請があったという。中でも大洋が長嶋の監督就任に最も積極的に動いていた(当時捕手の層が薄かった大洋に、アメリカのマイナーリーグのチームに所属していた若菜嘉晴の獲得を進言した。)が、最終的には「もう少し勉強していたい」という理由で断った。西武からも監督要請を受けるが即断り、3番目の候補だった広岡達朗が監督に就任した。一茂が在籍していたヤクルトから1989年オフに関根潤三の後任として監督要請を受けるが、家族の反対もあり辞退、野村克也が就任した。1990年オフにはオリックス・ブレーブスから監督の要請を受けるが断り、神戸出身で長嶋の大学・巨人の後輩土井正三を推薦し土井が監督に就任した。

1990年の川上哲治との和解、1991年の務臺光雄の死去、渡邉恒雄の読売新聞社社長就任など、長嶋の監督再就任への道筋が徐々に出来上がり、1992年オフに報知新聞社客員を辞任し、1992年10月12日に第13代監督として復帰会見を行う。新背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)。コーチ陣はヘッドコーチの須藤豊をはじめ、中畑清・山倉和博など気心の知れた人を起用した。同年11月21日のドラフト会議において、星稜高等学校の松井秀喜を引き当てた。長嶋の監督復帰は翌年に発足を控えたJリーグへの対策という意味もあった。

監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」(後に「チャージ&チャージ」)を標榜。浪人時代に感銘を受けたキューバ野球の実践を目指した。現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させ、また右打者が不足していたチーム事情から一茂をヤクルトから金銭トレードで獲得し、親子で巨人の一員となる。

選手の指導、日常生活はコーチ陣に任せ、試合の采配に専念する大リーグ方式を導入し、長嶋は「前回の監督の時は西本聖・角三男など能力を秘めた若手がふがいない投球すると手を出していたが、2回目の監督の時はそういうことはしなかったので拍子抜けしたんじゃないかなと。」と述べている。

復帰初年度の1993年は2年連続優勝のヤクルトに全く付いていけず3位に終わった。投手陣は斎藤雅樹らの奮闘で好調を維持するも、全くの期待外れであったバーフィールドを始め、原辰徳、駒田徳広らベテラン勢が挙って不振、新任の中畑清打撃コーチが立て直せず、打線は低迷しチーム打率は12球団最下位だった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。駒田徳広がFAで横浜へ移籍した。

翌1994年には中日と同率最終戦に勝利し、リーグ優勝達成。長嶋は最終試合を試合前から「国民的行事」とコメントしており、後に「10.8決戦」と語り継がれる名試合となった。日本シリーズではパ・リーグ5連覇の西武ライオンズと対戦し、前評判は圧倒的西武有利だったが、4勝2敗で勝利した。監督として初めて日本一となり、正力松太郎賞を受賞。

1995年、都民文化栄誉章を受章。ヤクルトからFAで広沢克己と自由契約になったジャック・ハウエル、広島からもFAで川口和久、メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズからシェーン・マックを4億円で獲得するなど30億補強とも言われた大型補強を敢行したが広沢・松井ら大型打線が落合を除き全体的に調子が上がらず、桑田真澄の故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルトの後塵を終始拝し続け3位に終わる。9月30日のヤクルト戦では目の前で優勝を決められ、20年ぶり相手球団の胴上げを許した。

1996年には広島に最大11.5ゲーム差をつけられたが、リーグ優勝を果たし、前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる(1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用したが、いずれもV逸に終わっている)。しかし日本シリーズではオリックスに1勝4敗で敗退し、同年オフ、一茂に自ら戦力外通告を行い、現役引退させる。

1997年は西武からFAで清原和博、ロッテからエリック・ヒルマン、近鉄から交換トレードで石井浩郎を獲得するなど大型補強を行ったが補強戦力が不振や故障に泣き、またエース斎藤雅樹の不振もあり4位に終わり、若手も伸び悩むなどで長嶋への批判も多くなる。

1998年は大物ルーキー高橋由伸の加入で野手の若返りが進み、開幕5連勝を飾るなど順調なスタートを切ったが、6月以降斎藤や桑田などベテラン投手陣に疲れが見え徐々に失速。7月に横浜に7点差を逆転された試合が契機になり以後は3位でシーズンを終えた。開幕初の4番に座った松井がプロ初タイトルで本塁打・打点の二冠を獲得した。

その間も長嶋は監督に留まり続けるが、シーズンオフになる度に後継監督候補として、堀内恒夫一軍ヘッドコーチ(当時)や森祇晶、江川卓などのOBの名が取り沙汰された。その中、後任とさせるために1999年より原辰徳を一軍野手総合コーチとして入閣させる。(2000年・2001年は一軍ヘッドコーチ)

一方、原はコーチ時代について、「長嶋さんにはいろいろ助言もしたが、最終的に全て長嶋さんが決断をしていた。無責任のようだけど、3年間自分は座っているだけだった」と述べたことがある。

1998年、7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において判定を巡りバルビーノ・ガルベスが主審の橘高淳を目掛けてボールを投げ付ける事件が発生した。長嶋は監督としての責任から、球団社長の渡邉恒雄に辞表を提出したが慰留され、カード終了の次の日に頭を丸めた。1999年は大物ルーキー上原浩治が20勝を挙げ、同じく新人の二岡智宏も遊撃に定着、2年目の高橋は3割30本を記録するなど若手が活躍したが、桑田や斎藤、ガルベスのベテラン投手陣に衰えが目立ち、シーズン終盤にこの年好調だった高橋が故障で離脱。高橋や松井ではなく大不振の清原を4番に置き続けた長嶋の采配も疑問視され2位に終わり優勝を逃した。

2000年には、FAで獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号「3」に変更。当初、この背番号3を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号3の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。またダイエーからFAしていた工藤公康、阪神を自由契約になっていたダリル・メイ、ドラフトで高橋尚成を獲得した。この年は4年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズの相手は王貞治監督が率いる前年日本一のダイエーで、ON対決として注目を集めた。シリーズは第1・2戦を落とすという苦しい展開だったがその後4連勝して日本一を達成した。

翌2001年、この年をもって監督業から勇退した。9月28日に監督退任と、専務取締役終身名誉監督への就任が発表され、9年間の監督生活にピリオドを打った(後任は一軍ヘッドコーチの原)。発表記者会見で吉田填一郎(日本テレビアナウンサー)からの「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた。

2002年2月20日に宮崎市名誉市民、同年3月に佐倉市名誉市民顕彰。4月22日アテネ五輪を目指す日本代表の強化委員長に選出される。7月には立教学院栄誉賞(第1号)を受賞する。12月2日アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。

2003年11月に行われたアジア選手権で中国・台湾・韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月4日、脳梗塞で倒れ、入院。一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。長嶋や周囲はアテネオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行った ため、肩書きはそのままだったが長嶋が現地アテネで指揮を執ることはできなかった。長嶋の代理としてヘッド兼打撃コーチの中畑清がチームの指揮を執ったが、結果は3位に終わった。

2005年7月3日、長嶋は東京ドームの巨人対広島戦を観戦し、病気で倒れてから約1年4か月ぶりに公の場に姿を現した。同観戦には同年1月1日から「球団代表特別補佐」となった一茂が同行した。この時は事実上読売グループの独占取材となり、長嶋の肉声は伝えられなかったが、同年11月4日に皇居で行われた天皇・皇后との懇談会に出席した際には、軽く受け答えできる長嶋の姿が伝えられた。

2005年11月3日、平成17年度文化功労者(スポーツ振興)に決定される。

2006年には少年の野球教室に飛び入りで参加し、リハビリの成果もあって少しずつ公の活動を拡大した。また、アテネオリンピックの代表選手達を中心に2005年から始められた「長嶋茂雄ドリームプロジェクト」 にも特別ゲストとしての参加が可能となり、子ども達への野球指導を行った。

2007年7月、日本経済新聞の「私の履歴書」に登場した。2010年には『週刊文春』誌上で阿川佐和子と対談を行い、発病時の様子を振り返っている。

2012年11月、キューバより、友好勲章を授与される。

2013年4月16日、国民栄誉賞を松井秀喜と同時受賞した。5月5日の東京ドームの巨人対広島戦の試合前に、松井の引退セレモニーと合わせて、授与式が行われ、8年ぶりに公でスピーチを行い、試合前の始球式では長嶋が片手打ちで打席に入り、投手に松井、捕手は巨人の監督の原辰徳、球審は首相の安倍晋三が務めた。

これに続いて、5月31日に千葉県県民栄誉賞、7月12日に佐倉市民栄誉賞をそれぞれ受賞した。後者の受賞に合わせて、会場の佐倉市岩名運動公園第一野球場が同日より長嶋茂雄記念岩名球場に改称された。

2014年8月、東京都名誉都民の授与が決定し、10月1日、顕彰式が行われた。

2014年12月、日本プロ野球名球会の理事を退任し、顧問に就任。

2018年7月初旬に体調が優れずに入院。検査で胆石が見付かり、そのまま治療を継続した。同年末に退院し、自宅での療養、リハビリを継続した。

2020年開催予定だった東京オリンピックの聖火ランナーの有力候補に挙げられていたが、胆石での長期入院によって以前のリハビリで鍛えた筋力が入院生活で落ちてしまい、夏の時点では参加が不可能な状況だった。しかし、東京オリンピックの開催が2021年に延期され、長嶋は秋からリハビリを再開。胆石での入院以降、表舞台にあまり登場しなくなっていた長嶋だが、2021年には東京ドームで開幕戦を観戦するまでに回復。そして、2021年、6月下旬頃に大会組織委員会から正式にオファーを受け、迎えた2021年7月23日のオリンピック開会式、国立競技場での聖火リレーに王貞治、松井秀喜とともに参加。吉田沙保里と野村忠宏から、長嶋が左手に持ったトーチにトーチキスを受ける役割を担った。そのトーチを王に渡し、松井に背中を支えられながらゆっくりと場内を歩んだ。

2021年10月26日、日本国政府は長嶋に文化勲章を授けることを発表した。

2024年5月3日、東京ドームにおける巨人対阪神戦は巨人軍創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」として行われ、5回裏終了時には長嶋本人がグラウンドに登場し、阿部慎之助監督、松井秀喜と3人で記念撮影に応じた。

金田正一・村山実・権藤博・足立光宏・江夏豊・板東英二・稲尾和久など複数の投手、また捕手としてオールスターゲームや日本シリーズで対戦した野村克也が長嶋を「計算できないバッター」と評している。権藤や足立は「長嶋さんは打てそうもないコースでもバットを投げ出したり瞬間的に腕を畳んだりしてヒットにするバッターだった」と評しており、「王は打てるボールを確実に打つ。ポテンシャルが高いのでほとんどのストライクゾーンに来るボールは王にとって『打てるボール』になってしまうのだが、打てないボールまで何とか打つというタイプではなかった」と王と対比しながら語っている。江夏は「打席ごとになぜ打たれたのか、なぜ打ち取れたのかが全く分からない」と長嶋について語っており、野村は長嶋を「来た球を打てる天才」と称している。

極端とも言えるアウトステップが特徴だった。長嶋の踏み出しでのアウトステップは、スイングの悪癖の例として解説者に批判されたこともあり、相手チームの守備陣から「顔の方向とまったく関係なく打球が飛ぶから守りにくい」と評されたこともあったという。一方で腰と肩は開かずヘッドを高い位置に保ち、球を引き付けて左膝もギリギリまで踏ん張っていたため、アウトステップしながらも球を強くたたくことができた。これについて川上哲治は「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム。長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評しており、少年野球教室などでは「あの打ち方は長嶋だからできるもの。真似してはいけない」と諭していた。この点は金田正一も触れており、「シゲシゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最後の瞬間まで油断できなかった。凄い迫力だった」と語っている。

広島東洋カープの「王シフト」を生みだすきっかけとなった東洋工業のコンピューターは、当然長嶋についても同様のデータを分析したが、長嶋については特徴的な傾向が全く見られなかったため、「長嶋シフト」を作ることはできなかったという。岡崎満義は、「王シフトを作らせ、それをものともせずホームランを打ち続けた王は本当に偉大。しかし同時に長嶋シフトを作らせなかった長嶋も凄い」と評している。

長嶋の空振りは脱げたヘルメットが三塁ベンチの方へ飛んで行ったと言われる程で、豪快な空振りでファンを沸かせた。三振した際の画を考え、わざと小さめで楕円形のヘルメットをアメリカから取り寄せ、ヘルメットの飛んでいく角度など空振りの練習をしていたこともあったという。そのような豪快な空振りやデビュー時の4打席4三振などから三振のイメージが強いが、実際には三振は少ない方だった。三振数の打数に対する割合.090は、通算400本塁打以上を放った15人の中では張本勲・土井正博に次いで低い。また、400本塁打以上を記録した打者の中で三振率が1割を切っているのはこの3人だけである。

首位打者を獲得したシーズンはいずれも安打数でもリーグトップだった。シーズン最多安打10回はプロ野球記録(6年連続を含むが、これもプロ野球記録)。また、6回の首位打者のうち最も2位との差が小さかったのは1963年・古葉毅との2厘差で、それ以外の5回は全て1分5厘以上の差をつけての文句なしの首位打者だった。6回の首位打者のうち2回(1959年・1971年)は長嶋がセ・リーグ唯一の3割打者である。

長嶋が全盛期だった時代はリーグ平均打率が.230など極端な打低投高の環境下であり、さらに1974年の現役引退後には打者に有利なボールが普及し、翌1975年以降はセ・リーグの打高化が一気に進んだ。そのため、傑出値をはかるセイバーメトリクス(RC関連、XR関連、長打率傑出度やOPS傑出度など)においては、ほとんどの通算記録指標で長嶋はプロ野球歴代3位以内に位置する。打率傑出度(RBA)でも右打者歴代1位であり、その時代で傑出した打者だったことが分かる。また、当時行われていた日米野球戦では、他の多くの選手が通算打率1割台から2割前後の中、長嶋は69試合で打率.295(200打数59安打)と高いアベレージを記録しており、通算で場外本塁打を含む6本塁打や27打点・26四死球・5盗塁などを残した。

打率・本塁打・打点の部門において、「二冠王、残りの1部門がリーグ2位」のシーズンを1958年・1961年・1963年の通算3回残したが、これは王の5回と中西太の4回に次いで歴代3位の記録である。

通算205敬遠、打率ベストテン入り通算13回などは右打者歴代1位であり、通算2471安打は金本知憲に抜かれるまで長らく大卒選手の歴代最多記録であった。セ・リーグ一筋で活躍し、通算において、三塁打・長打・打点・犠飛数全ての右打者のセ・リーグ記録を保持している。また、通算安打を実働年数で割った平均安打数は145本に達し、同時代に活躍した張本勲134本・榎本喜八128本・福本豊127本・王貞治126本・大杉勝男117本・野村克也111本・衣笠祥雄110本・門田博光106本など他の一流打者の平均本数と比べても突出しており、現役時代は右打者ながらハイペースで安打を積み重ねた。通算打率.305は7,000打数以上の選手中では歴代4位、8,000打数以上の選手中では歴代2位(右打者では歴代1位)である。

大一番での勝負強さが印象付けられている。日本シリーズでは通算68試合に出場して出塁率.402・長打率.694・OPS1.096の成績を残し、シリーズの初戦では通算12試合で打率.429(49打数21安打4本塁打)を記録した。日本シリーズMVP通算4回獲得は史上最多である。2本塁打を放った天覧試合については、チームメイトの広岡達朗は「天覧試合は長嶋のためにあったようなもの」と語っており、「彼がああいう舞台で力をきっちり出せるのは、実力もさることながら物の考え方(大舞台に物怖じせず、むしろ楽しむ)が素晴らしいものを持っていたのが大きい」と評している。1966年11月6日の日米野球戦・天覧試合でも場外本塁打を放っており、皇室観戦試合では通算10試合で打率.514(35打数18安打7本塁打)を記録した。

捕手による「ささやき戦術」が全く効かなかったことも伝えられている。野村克也は動揺を誘おうとしてバッティングフォームがおかしいと指摘したところ、長嶋は素振りをした後で次球を本塁打してしまい、ホームインした長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ唖然としたエピソードを紹介している。また、辻恭彦には「おいダンプ(辻の愛称)、やかましい! 野球をやれ野球を!」と怒鳴り、放屁で攻撃したことがある。バッターボックスでの集中力の強さのあまり、打席に入った後の空振りでその辻の頭にバットが当たってしまい失神、それに気づくも「何やってんだ!」と思わず一喝したというエピソードも残されている。

大学時代、監督の砂押と共にジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラ、ミッキー・マントル、ロジャー・マリス、フランク・ロビンソンらの連続写真を研究し打撃フォーム、バットの構え方、スタンス、腰の回転などを徹底的に身に付けた。また、バットは現役生活17年間のほとんどで、ルイビルスラッガーなどのアメリカ製を使用していた(三井物産経由の入手)。

苦手のコースや球種の少ない長嶋は、敬遠を受けることが多かった。初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。1961年には年間敬遠数が35にも達し、8月29日の阪神戦では小山正明に走者無しの場面で敬遠された。1960年の国鉄との開幕戦では、5回二死一塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手の平岩嗣朗が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。村田元一は捕手の構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振りに行き、左翼席中段への本塁打となった。同年7月16日には、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行き、二塁打を記録した。また、1962年7月12日の中日戦でも、9回表の二死二・三塁の打席で河村保彦の敬遠球を打ちにいき、レフト前に逆転適時打を放っている。

長嶋が苦手にしていたボールとして内角のシュートがあげられる。昭和40年代、プロ野球界ではサイン覗き(いわゆる「スパイ行為」)が広まっていた(元々は西鉄ライオンズの三原脩監督がサイン覗きをやらせたのが始まりと言われる)。野村克也が巨人から南海にトレードで来た相羽欣厚から伝え聞いたところによると当時、巨人ではキャッチャーのサインを見てベンチからの声でサインを伝えていたという。それに対し、長嶋は「内角のシュートが来るときだけ教えてくれ」と言っており、野村は「内角のシュート」以外は教えてもらわなくても打てるということだったのだろうと語っている。

また、内角へのシュートを得意としていた平松政次に対しては長嶋自らが「平松のシュートは打てなかった」と悔しそうに振り返っており、平松も「(シュートを使い始めた)この年以降、長嶋さんに打たれた記憶はないですね」と語っている。シュートを使う前からの通算でも対平松の.打率は193であった。

敬遠策への抗議として、長嶋は打席上で素手で構えたことがある。1968年5月11日の中日戦、二死二塁の場面で山中巽投手は敬遠策を取った。長嶋はこれに対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出た。球場内はどよめいたが、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせた。1971年6月17日の広島戦では、7回二死三塁という場面で、広島の井上善夫、水沼四郎のバッテリーは、敬遠策で長嶋との勝負を回避しようとした。3球続けてボールが投げられたところで長嶋はバットを捨て、素手で構えた。スタンドが騒然とする中、絶対に打撃はありえないにも関わらず4球目も敬遠のボールが投げられて四球となり、一塁に歩くこととなった。

普通の三塁手よりも1.5メートルほど後ろに守り、特に横(一塁側に向かうライン)の守備範囲が広く、遊撃手や投手の守備範囲の打球も横取りするようにキャッチすることが多かった。長嶋は「あの範囲の打球は三塁手の最大の見せ場」と語っており、守備については打撃よりも「ファンと一体になれる守備のほうが好きだった」と述べている。また、ゴロには15種類あると語り、捕るのが難しいゴロを簡単に捕球するのがプロだと述べている一方、「逆に盛り上げようと思って、何でもないゴロを難しそうに捕ったりしたこともありましたけどね(笑)」と振り返っている。一方でフライについては1種類しかないと感じ、遊撃手の黒江透修に任せていた。長嶋は「だってフライは遊びや芸を入れることができないから、捕っても面白くないんだもの(笑)」と語っている。このように華のある守備で知られ、スローイングの後に右手をヒラヒラさせる独特の動作を行っていたが、これは歌舞伎の動きから取ったものであるという。

何でもないゴロをトンネルする珍プレーがテレビで取り上げられるなど、失策の場面がよく放送され、守備の名手として語られるより華やかさや面白さが多く話題に上る。しかし実際は数値上では守備能力が非常に高い選手であり、通算守備率.965は角富士夫の.975に次いで三塁手セ・リーグ歴代2位(1000試合以上対象。角は通算1350試合・3296守備機会)に位置し、1500試合以上対象や4500守備機会以上を対象にする場合は三塁手プロ野球歴代1位となる。デビューから晩年まで試合に出場し続け、7353守備機会をはじめ、試合数・刺殺数・補殺数・併殺数など、失策数を除くあらゆる通算守備記録で他の三塁手を圧倒している(全て三塁手のプロ野球歴代1位)。

シーズンにおいても、守備指標のRRF(レンジファクター)でデビュー以来7年連続を含めて三塁手リーグトップを通算8回(1958年 - 1964年、1967年)記録しており、当時の他の三塁手と比べると極めて突出した数値を残した。1968年からプラスの数値が少なくなり、1970年以降は1973年以外の4シーズンでマイナスを記録しており、34歳以降から守備に衰えが見られる。リーグトップを7年連続・通算8回は共に三塁手歴代1位の成績であり、プラスシーズンの合計値も三塁手歴代1位である。数値からは、全盛期は打球をアウトにする能力が非常に高く、守備範囲の広い三塁手であったことが窺える。シーズン214守備機会連続無失策という三塁手のプロ野球記録も保持している(連続シーズンでは2012年に宮本慎也が更新)。

立教大学時代、砂押が導入・研究したMLBのステップやグラブ捌きなど当時の最先端技術を取り入れ、練習していた。

若手の頃は僅かながら遊撃手や外野手としても出場している。

広岡達朗は長嶋の守備について「3年目までは上手かった。守備範囲も広かったし、凄い奴が入ってきたなと思ったが、4年目ぐらいから動けなくなった。」と評価している。

若い頃は大変な俊足と思い切りの良い走塁が持ち味のひとつだった。ランニング本塁打を3回記録しており、1958年の日本シリーズでも記録している。特に1960年7月17日の大洋戦では敬遠球を打ちにいってランニング本塁打を記録した。また、1960年8月21日の国鉄戦では、一死一・二塁で王が打ち上げたレフトフライで、一塁走者だった長嶋は勢いよくスタートを切り、二塁に戻ろうとした二塁走者だった藤尾茂を追い抜いてアウトとなっている。

新人時代に4番打者も務めながら37盗塁を記録するなど、若い頃は盗塁が多かった。しかし長嶋本人は「走ることは大好き」と言いつつも、「一塁から二塁への走塁はあまり興味なかった。一塁から三塁への距離感が大好きだった」と語っている。長嶋の三塁打は通算74本(歴代8位、右打者では広瀬叔功に次いで歴代2位)と多く、1960年5月には4試合連続三塁打の日本記録も作った。長嶋は「観客に一番アピールして喜んでもらえるのは三塁打であるという理由から、自分のプロとしての売り物は三塁打だと考えていた」と述べている。現役時代の項で述べた「ホームラン取消事件」は、ショート頭上すれすれをラインドライブするような当たりだったので「よし、三塁打だ!」と思って全力疾走したために起きたという。

30歳前後になるまでは、単打性の当たりでも隙があれば積極的な走塁で果敢に次の塁を狙い、三塁打が多い一方で二塁打も多かった(通算418本は歴代9位、右打者では山内一弘、坂本勇人に次いで歴代3位)。リーグ最多二塁打通算3回というセ・リーグタイ記録も持っている。

ホームスチールを6回試みて2回成功させている。その他、一塁走者として、後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を空過して一塁に帰るという三角ベース事件を、1960年・1964年・1968年の3回起こしている。その一方で敵チームの三角ベースも3回発見している。

長嶋は、ミスタータイガース(長嶋の憧れの野球選手である藤村富美男、及び長嶋のライバルである村山実の称号)に倣って、「ミスタージャイアンツ」という愛称が現役時代から広く使われている。現役引退後には、すでに巨人だけでなくプロ野球を象徴する存在であるとの意図から、巨人ファン以外の野球ファンからもその功績を讃えられて、「ミスタープロ野球」、あるいは単に「ミスター」とも呼ばれるのが一般的になっている。

また、チームメイト等からは、長嶋の長を音読みした「チョーさん」の愛称で親しまれている。この他、「ハリケーン」「燃える男」「皇室男」、高校時代は自身の出身地の郡名と、出身地近くの佐倉地区の名所の一つである印旛沼にちなんで「インバ」などの愛称もある。

自身の性格について長嶋は「セッカチですが、物事を放り出すことはありません。投げ出さずに一歩ずつコツコツ物事を続けるのは、習い性になっています。毎日少しでも物事を積み上げ、最後まであきらめない」と述べている。

座右の銘は「快打洗心」。飛田穂洲の「一球入魂、快打洗心」から拝借したもので、現役時代のサインにはこの言葉を添えることが多かったが、監督時代のサインには快打を取り「洗心」あるいは洗まで取り「心」という言葉を添えていた。

立教大学監督の砂押邦信から教えられたMLB流の「個性の重視」「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」という考え方に影響を受け、野球人生を通じて周りの人を喜ばせ、自分をどう表現するかを常に考え続けた。MLBのスーパースターであったジョー・ディマジオのファンであり、ディマジオのプレイスタイル、プロ意識から大いに影響を受けた。

好きな歴史上の人物は二宮尊徳(金次郎)で、長嶋家の庭には二宮金次郎の石像がある。長嶋は「豪雨被害のニュースを新聞で読み、テレビで見て、溜息交じりで庭に目をやると金次郎が目に入る。その姿に奮い立つのです」と語っている。

1961年10月3日付朝日新聞の「わたしが記者なら」というインタビュー記事に以下のような一節があり、物議を醸した。

常人には計り知れない独特の感覚を持ち、それにまつわる逸話が数多く持っている。それらの話には信憑性が定かではないものも含まれる。

他人の名前の記憶が不安定(仲の良い人でも忘れることがある一方、一度会っただけの人は覚えていたりする)だったり、諺の誤用や二重表現などをよくしたりと初聞では何を言ってるのかわからないことが多々ある。ただし、会話自体よりボディ・ランゲージでコミュニケーションを取るタイプの人間でもある。そのため、誰が見てもわかってしまう、意味のないブロックサイン(有名なものにバントのブロックサインを出した際、最後にバントの構えをしていた)を出してしまうことが時折あった。1979年には対中日戦でナゴヤ球場に遠征した際、自身が出したサインがその日中部日本放送で解説を務めていた板東英二にことごとく見破られ放送中に指摘されたこともあった。

また、その独特の感覚は選手時代や日常生活のみならず、引退後においても遺憾なく発揮し、第1次監督退任後の評論家時代にスランプに陥り電話越しにアドバイスを求めた掛布雅之に対し、また第2次監督退任後にはニューヨーク・ヤンキースに移籍していた松井秀喜に対しては、国際電話越しにその場でバットで素振りさせ、素振りの音を電話越しに聞いて打撃指導をしたことが有り、両者とも引退後に印象に残ったエピソードにこの電話越しの指導を挙げている。

選手としての実力はもちろん、練習に対する姿勢も真摯であり、野村克也からも「長嶋と王の練習する姿勢は手本になる」と称された。

生家は農家だった。父・利は臼井町役場の収入役や助役を務めていたが、1954年に急死。死因を心臓病とする文献と脳溢血とする文献がある。母・チヨは1994年7月9日に老衰で死去。

1964年10月、王貞治とともに報知新聞の特別記者として東京オリンピックを取材し、コンパニオンの女性達と対談をした際に、その中の一人西村亜希子と知り合い、同年11月26日に婚約を発表。翌1965年1月26日に結婚。後に2男2女をもうける。

長男・長嶋一茂はプロ野球選手からタレント、長女・有希はオフィスエヌの元役員、次女・長島三奈はスポーツキャスター、次男・長島正興は自動車レーサーから環境活動家。一茂によると、家族6人そろって旅行も食事もしたことはなく、それが長嶋家にとっては普通だったという。長嶋一家は「球界のロイヤルファミリー」と呼ばれる圧倒的な知名度を持つ。

なお、公の場では、茂雄本人と亜希子・一茂は「長嶋」を、三奈・正興は「長島」表記を常用している。

長嶋は自宅の他に数か所の不動産を所有(その管理が長嶋の個人事務所オフィスエヌの主要業務)している。政治家の間で「世田谷に住むと出世する」というゲン担ぎがあったことから、中曽根康弘が長嶋所有の世田谷区上北沢の家(現役時代、田園調布に引っ越す前に住んでいた家)を借りて、1980年初頭から2001年まで居住していた。中曽根の総理大臣指名の日の朝には、この家の玄関に中曽根と長嶋が並んで立つ姿がニュースに映された。

大学4年生の時に岐阜県立岐阜商業高等学校野球部へとコーチに行き、当時1年生だった高木守道を指導した。長嶋は高木に「センスはあるが、肩が弱い。二塁ならプロで通用する」と述べ、監督に高木をレギュラーとして使うように薦め、その結果、高木はすぐにレギュラーを取りチームの中核となった。後に長嶋と高木は10.8決戦で監督同士として対決した。

1学年上の石原裕次郎と、裕次郎の実兄石原慎太郎は共に親友であり、1962年1月には裕次郎と長嶋の2人で米国旅行している。その際、長嶋が機内で煙草を吸い始めて、スチュワーデスに「No Smoking!」と注意されるやいなや、自らの腕に吸殻を押し付けて消したという「事件」があり、裕次郎は度々ネタにしていた。また、裕次郎らと副業で四谷にレストランを開業したことがある。なお、裕次郎は1959年には長嶋の応援歌「男の友情背番号・3」を発表している(2000年に「ミレニアム・バージョン」として再発)。

高倉健との親交は知られており、長男の一茂が箱根神社で結婚式を執り行った際、冠婚葬祭の場に滅多に現れないことで知られる高倉が出席したため、取材陣が驚いた一幕があった。また若かりし頃の高倉と長嶋は成田山新勝寺にて共に初詣を行っていたこともある。1994年の俗に言う巨人中日の10.8決戦前夜、桑田真澄は長嶋の部屋に呼ばれ翌日の途中登板を告げられた。電話が鳴り、長嶋が「ケンちゃん」と呼ぶ人物との通話を終えると「ケンちゃんも応援してくれている。桑田も知ってるだろう?ケンちゃん」と言われた。桑田が「志村けんさんですか?」と問うと、長嶋は「高倉の健ちゃんだよ」と答えた。

立教大学時代の同期生に野際陽子と高橋悦史がいる。

大学時代には北原怜子とも交流があった。

ビリー・マーチンとも仲がよく、自著にはよく登場した。

長嶋の巨人入団後、最初のキャッチボール相手が野球選手時代のジャイアント馬場であり、馬場とはそれ以来の親友であった。

著名な番記者に佐藤安弘(日刊スポーツ)、瀬古正春(報知新聞、後の作家:新宮正春)がいる。

長嶋の第2次監督時代、長嶋の後援会「燦燦会」が設立されている。呼びかけ人は渡邉恒雄。会員は東京電力の平岩外四、アサヒビールの樋口廣太郎、ソニーの盛田昭夫ら。

1982年9月、バチカン市国にてローマ法王に謁見。1988年3月にバチカン有功十字勲章を授与されている。現役時代からマスコミには出ない形で社会福祉活動に携わっていたことが評価されたもの。

新浦壽夫の三星ライオンズ入りの際に尽力し、三星のオーナーから珍島犬をプレゼントされた。輸入禁止品目だったが、超法規的措置がとられたと言われている。

安倍晋太郎と親交があった。

2015年には自身が通うリハビリ施設で脳出血の後遺症治療のため同じく通院していた俳優の塩見三省と出会い、一緒にリハビリに取り組んだ。

堀内恒夫夫妻の媒酌人でもある。

趣味であり、立教大学4年の時には淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けたことがある。そのインタビューでは「最近見た映画」として、エリア・カザン監督の『群集の中の一つの顔』、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』などを挙げた。特に『抵抗』は心理描写に徹した異色作で「スポーツ選手がこんな映画を選ぶとは」と淀川を驚かせた。なお、映画の好みについては「甘ったるい映画は、ちょうどアウトコース低めにくるボールと同じで、僕は苦手なんですよ。性分にあわない」と語っていた。

その他の趣味には読書(現役時代は歴史小説や戦記小説、監督時代は管理学の本や確率論の本など)、絵画鑑賞(モディリアーニを好む)、将棋など。将棋に関しては中原誠から名誉三段の免状を授与されているほか、1995年にはフジテレビの特別番組の企画で羽生善治と対談した際に、羽生から名誉五段の免状を授与された。

渋谷に2003年まであった東急文化会館3階(現在は渋谷ヒカリエがある)には、長嶋茂雄が贔屓にする理容店・文化理髪室があった。当施設閉館後、文化理髪室は大田区北千束に移転。店名は変わらず、長嶋も変わらず来店している。

演歌や歌謡曲が好きだった。浪人時代に「長嶋茂雄を励ます会」が開催され長嶋のイメージから合唱団が童謡を中心に歌った。ところが、長嶋はマイクを掴むと「ねぇ、『王将』歌えないの?」と言い出し、合唱団が困惑して「出来ない」とこたえると更に「じゃあ『悲しい酒』は?」とリクエストした。

1959年6月25日(木曜日)の天覧試合でサヨナラ本塁打を放った長嶋であるが、このときのサヨナラ本塁打を打たれたのが当時阪神の大卒新人であり、後に2代目ミスタータイガースと呼ばれることになる村山実であった。この天覧試合以降ふたりのライバル関係が始まったとされ、たびたびテレビなどのマスメディアでは「昭和の名勝負」などといわれることがある。

1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言。一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った。村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振。2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。

2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している。

いつ頃扱いが変わったのかは明らかにされていないが、1964年8月6日に起きた広岡達朗の試合途中帰宅事件(広岡の打席で長嶋がホームスチールを行い、それをサインプレーと勘違いした広岡が監督批判をした上に試合中にもかかわらずそのまま帰宅した事件)時以前には既に扱いが変わっていた。

広岡は後に自著『監督論』で、当時あのプレーはサインプレーだったと思い込んでいたこと、以前にも長嶋がホームスチールをしていて頭にきていたことなどを語り、長嶋の特別扱いの件にも触れている。

1985年10月から日本トライアスロン連盟の会長を務め、毎年熊本県天草で開かれていたトライアスロンの国際大会のスターターを担当していた。その縁から大会のスタート地点である本渡市(現:天草市)にある市営広瀬公園野球場(1989年完成)を、1991年に「長嶋茂雄球場」に改称して長嶋の業績を称えることになった。

更に、国民栄誉賞の受賞を記念して、佐倉市が市営岩名野球場を「長嶋茂雄記念岩名球場」とすることを発表し、2013年7月、新球場名の銘板お披露目式と、市民栄誉賞の表彰式が同地にて盛大に行われた。2017年6月4日、リニューアルオープンした「長嶋茂雄記念岩名球場」で行われた二軍の巨人・ロッテ戦始球式に背番号3で登場。

1980年に巨人軍監督を辞任したが選手時代の活躍を讃え、後楽園球場が閉場となる1987年まで3番ゲートは「長嶋ゲート」と称された。また閉場の際、選手時代に巨人軍の三塁手として活躍したことから同球場の三塁ベースも寄贈されている。東京ドームとなってこのゲートの名前は一旦無くなるも、1998年に開場10周年を記念して同球場で3番ゲートは「長嶋ゲート」として復活した。

会話中に「いわゆる」「ひとつの」「ややもすると」などというフレーズが入ることが多い。

日本語と英語が不自然に混じった、あるいは英語にしなくてもいい部分まで英語にしてしまう「ミスターイングリッシュ」も有名(例:「失敗は成功のマザー」、鯖のことを「さかなへんにブルー」)。一説によれば、結婚後に家庭内で英語で会話していたからこのような話し方になったという。肉離れを表現した「ミートグッバイ」などの言葉もある。

感覚を重視するが故に「パアーッと」「ダアーッと」「パーン」「パッ」「サッ」「タッ」「ブワァー」「ヒュッ」「キュッ」「スパーン」「ブン」「シュン」「ガッといく」などの擬音を多用するため、理解できない選手も少なくないが、引退してから長嶋の指導の意味が理解出来たと話す選手もいる。

これらの長嶋の独特なキャラクターはものまねの対象になりやすく、多くのお笑い芸人が長嶋のものまねをレパートリーに加えている。特にプリティ長嶋は、長嶋に似ていたことがきっかけで芸能界入りした。

王の一本足打法を「フラミンゴ」と言う。

「松井君にはもっとオーロラを出してほしい」

「監督の言うことを聞いちゃだめじゃないか」

「目に入る範囲がストライクゾーン」

名球会でオーストラリアに行き、日系企業の赤井電機が協賛していた野球チームを指導した。ユニフォームにチーム名が「AKAI」と書かれているが、長嶋は1選手に「きみAKAI君かぁ。君も赤井君かぁ?赤井君多いな」と言い、周囲から「あのAKAIというチームなんですけど」と教えられ、恥ずかしかった長嶋は「ん?高木(守道)代われ」と逃げ出した。

大久保博元は長嶋から「鯖という字は魚へんにブルー」と教えられた。

また重言を多用したことでも知られる。代表的なものに

「疲労の疲れ」

「体力の力」

「秋の秋季キャンプ」

「状態の良い状態」

「お昼のランチタイム」

「大変身はイメージチェンジ」

一茂が小学生の頃、神宮球場でのヤクルトスワローズ戦に連れて行ったが、試合後、連れてきた一茂を球場に置き去りにして帰ってしまい、帰宅後、妻に「一茂は?」聞かれ、「あ、忘れた」と気が付き、慌てて神宮球場に電話をしたところ、一茂は審判室に保護されていたというエピソードが有名だが、大久保博元が中畑清との対談で、一茂から「1回、2回じゃないよ。何回もあるよ」と、長嶋は球場に連れて行った一茂を何回も球場に置き去りにしていた。

2002年8月7日に「長女の三奈と写真を撮らせろ!いないのか!」などと言って家政婦を脅した刃物を持った男が自宅に乱入し、長嶋は着替えて来るから待っていてと、対応した。男は逃走してしまった。

長嶋は、プロ野球を始め日本のスポーツ界の活性化に尽力してきたが、「長嶋ジャパンドリームプロジェクト」に賛同しているセガサミーグループから、同社が主催するセガサミーカップゴルフトーナメントの大会名誉会長就任の要請を受け、2007年から同大会を「長嶋茂雄Invitational セガサミーカップゴルフ大会」として行うことになった。長嶋は表彰式を始めとした期間中のイベントに毎年顔を出している。これまで日本の男子ゴルフ大会では中村寅吉をたたえた「日経カップ 中村寅吉メモリアル」があったが、ゴルファー以外の著名人の冠が大会名に入るのは、ツアー公認の公式戦では初めてとなった(ほかに後援競技⁼賞金加算対象外として「大橋巨泉ゴルフトーナメント」があった)。

成田空港問題を抱えていた地域に近い佐倉の出身である長嶋は、成田空港周辺で花と緑に囲まれた社会づくりを推進する「花と緑の農芸財団」の設立に協力した。江本孟紀によれば、長嶋は単に名義を財団に貸しただけでなく、実際に新東京国際空港公団総裁の要請を受けて三里塚芝山連合空港反対同盟と空港公団の話し合いに何度も参加して反対派の重要人物との和解へ導いたという。

第2次監督時代のとある試合で、ネクストバッターサークルに大久保選手が代打の準備をしている際に、長嶋が「代打大久保」を間違えて「代打元木」と審判に伝えてしまう。大急ぎで出て行った元木選手はその試合の決勝適時打を放つ活躍をした。しかし、長嶋は試合後のインタビューで「広沢よく打ったねー」と関係のない広沢選手に感心した。

1996年の春季キャンプ中の2月20日、にTVカメラが回っている中でブルペンの一角に報道陣が集まり、赤いちゃんちゃんこを着て還暦祝いを行ったが、この時「初めて還暦を迎えたわけで…」と迷言を残した。

2015年、伊豆の国市に、「読売巨人軍長嶋茂雄ロード」と「読売巨人軍長嶋茂雄ランニングロード」が誕生する。

山口県周南市に存在する人間魚雷回天の資料などを展示する『回天記念館』の敷地内には、長嶋茂雄が揮毫した英霊鎮魂の碑が建立されている。

2016年12月、出身地である佐倉市臼井に、長嶋と雷電爲右エ門(夫人が佐倉市出身)を題材にしたねぶたがお披露目された。このねぶたは、毎年8月に佐倉市臼井で行われる「臼井ふるさとにぎわい祭り」に、柏ねぶたと共に運行される。

巨人の選手では、堀内恒夫・篠塚和典・元木大介の仲人を務めている。

長嶋をモチーフにした楽曲「栄光の男」を発表した桑田佳祐(サザンオールスターズ)を始めとして、大友康平・大和田伸也・大瀧詠一・ビートたけし・田母神俊雄・テリー伊藤・水谷豊・関根勤・松本潤など長嶋を敬愛する著名人も多い。

現役を引退した当日、長嶋家はいつもと変わらぬ1日であったという。妻・亜希子へは球場に来るよう誘ったが、亜希子は「取り乱すから」との理由で断った。また、長男・一茂(当時8歳)は引退試合のこと自体を知らず、試合を一切見ていない。当初長嶋は一茂に引退のことは告げずに始球式担当を持ちかけたが、事情を何も知らない一茂は「始球式でストライクが入らなかったら恥ずかしい」との理由で拒否した。当日の引退セレモニーの時間に一茂は歯科医にかかっていて、そこの女性歯科衛生士から初めて長嶋の引退を知らされたという。

野村克也からは長年にわたって監督としての力量を批判されることが多く、野村は、長嶋は監督の器ではないと晩年にも発言している。

現役時代のプレースタイルについてデータ軽視の「カンピュータ野球」と評されることもあるが、元広島東洋カープの山本一義によれば、対戦相手の配球データをノートにまとめたものを確認してから試合に臨むのが長嶋のルーティーンだった。第2次政権時にスコアラーとして仕えた三井康浩も、長嶋が球場入りすると「まず監督室にスコアラーを呼び、30 - 40分ほど先発の予想と対策について話をした」「(長嶋も)独自にデータを集めていて、質問に答えられないと『お前そんなことも調べてないの?』となじられた」と証言している。

スイカを三角にカットして上の部分だけ食べる。バナナを一口食べてゴミ箱に捨てるなどのかなりの偏食家であった。

各年度の太字はリーグ最高

-は20位未満

太字年度は規定打席到達年度、年度背景色金色は最優秀選手賞(MVP)受賞年度

各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBの三塁手における歴代最高

太字年はダイヤモンドグラブ賞の受賞

首位打者:6回(1959年 - 1961年、1963年、1966年、1971年)※6回は右打者記録、セ・リーグ記録。3年連続は右打者タイ記録、セ・リーグタイ記録。

本塁打王:2回(1958年、1961年)

打点王:5回(1958年、1963年、1968年 - 1970年)※セ・リーグ右打者記録

最多出塁数:3回(1959年 - 1961年)

最多安打:10回(1958年 - 1963年、1966年、1968年 - 1969年、1971年)※6年連続・通算10回は共に日本記録。当時連盟表彰なし。

最優秀選手:5回(1961年、1963年、1966年、1968年、1971年)※歴代2位タイ、右打者最多タイ

新人王(1958年) ※本塁打王との同時受賞は史上初、ただし翌年に桑田武も達成(史上二人のみ)。打点王との同時受賞は史上唯一

ベストナイン:17回(1958年 - 1974年)※入団から引退まで現役全シーズンのベストナイン受賞は史上唯一。

ダイヤモンドグラブ賞:2回(1972年、1973年)※セ・リーグ三塁手の初代受賞者。

野球殿堂競技者表彰(1988年)

日本シリーズMVP:4回(1963年、1965年、1969年、1970年)※歴代1位。

日本シリーズ優秀選手賞:2回(1966年、1972年)

日本シリーズ打撃賞:2回(1969年、1970年)

日本プロスポーツ大賞(1971年)

正力松太郎賞(1994年)※監督として表彰

ベストドレッサー賞特別賞(1976年)

ベスト・ファーザー イエローリボン賞(1983年)

東京スポーツ映画大賞監督賞(1992年)

ナンバーMVP賞(1994年)

毎日スポーツ人賞

    ファン賞(1994年)

    グランプリ(2001年)

    都民文化栄誉賞(1994年)

    新語・流行語大賞 年間大賞(1996年、「メークドラマ」)

    世界の名士録(1996年)

    報知プロスポーツ大賞特別功労賞:2回(2000年、2001年)

    朝日スポーツ賞(2001年)

    宮崎市名誉市民(2002年)

    佐倉市名誉市民顕彰(2002年)

    文化功労者(2005年)

    ビートたけしのエンターテインメント賞50周年特別賞(2009年)

    キューバ友好勲章(2012年

    ビッグスポーツ賞特別功労賞(2013年)

    千葉県県民栄誉賞(2013年)

    佐倉市市民栄誉賞(2013年)

    国民栄誉賞(2013年)

    名誉都民(2014年)

    文化勲章(2021年)

    初出場・初先発出場:1958年4月5日、対国鉄スワローズ1回戦(後楽園球場)、3番・三塁手で先発出場

    初安打:1958年4月6日、対国鉄スワローズ3回戦(後楽園球場)、4回裏に三林清二から中越二塁打

    初打点:1958年4月9日、対大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、8回裏に秋山登から右中間へ2点適時二塁打

    初本塁打:1958年4月10日、対大洋ホエールズ3回戦(後楽園球場)、3回裏に権藤正利から左越2ラン

    100本塁打:1961年10月6日、対国鉄スワローズ26回戦(明治神宮野球場)、9回表に巽一から左越ソロ ※史上23人目

    150本塁打:1963年8月4日、対大洋ホエールズ18回戦(川崎球場)、3回表に鈴木隆から左越先制ソロ ※史上15人目

    1000安打:1964年6月20日、対国鉄スワローズ18回戦(後楽園球場)、4回裏に佐藤進から右前安打 ※史上50人目

    200本塁打:1965年5月31日、対中日ドラゴンズ8回戦(中日スタヂアム)、1回表に中山俊丈から左中間へ先制2ラン ※史上11人目

    1000試合出場:1965年8月18日、対中日ドラゴンズ20回戦(中日スタヂアム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上102人目

    250本塁打:1967年8月14日、対サンケイアトムズ19回戦(後楽園球場)、1回裏に渋谷誠司から左越先制決勝3ラン ※史上6人目

    1500安打:1967年9月17日、対サンケイアトムズ25回戦(後楽園球場)、6回裏に石戸四六から右中間へ2点適時三塁打 ※史上20人目

    300二塁打:1968年8月14日、対阪神タイガース18回戦(後楽園球場)、6回裏にジーン・バッキーから右中間二塁打 ※史上7人目

    3000塁打:1969年4月27日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、7回表に大羽進から右中間二塁打 ※史上6人目

    1000打点:1969年5月4日、対大洋ホエールズ5回戦(後楽園球場)、9回裏に平松政次から右越同点犠飛 ※史上6人目

    300本塁打:1969年5月22日、対サンケイアトムズ9回戦(明治神宮野球場)、1回表に藤原真から右中間ソロ ※史上4人目

    1500試合出場:1969年8月17日、対大洋ホエールズ16回戦(後楽園球場)、4番・三塁手で先発出場 ※史上29人目

    1000得点:1970年10月6日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、7回表に土井正三の中前決勝適時打で生還 ※史上8人目

    350二塁打:1970年10月18日、対広島東洋カープ25回戦(後楽園球場)、7回裏に外木場義郎から左中間二塁打 ※史上5人目

    3500塁打:1971年4月11日、対広島東洋カープ2回戦(後楽園球場)、3回裏に外木場義郎から左前安打 ※史上4人目

    350本塁打:1971年4月14日、対中日ドラゴンズ3回戦(中日スタヂアム)、9回表に土屋紘から左越ソロ ※史上3人目

    2000安打:1971年5月25日、対ヤクルトアトムズ9回戦(明治神宮野球場)、8回表に浅野啓司から左前安打 ※史上5人目

    400本塁打:1972年6月22日、対中日ドラゴンズ15回戦(中日スタヂアム)、8回表に若生和也から左越2ラン ※史上3人目

    4000塁打:1973年4月17日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、2回表に白石静生から左中間フェンス直撃二塁打 ※史上3人目

    400二塁打:1973年9月8日、対大洋ホエールズ22回戦(川崎球場)、4回表に山下律夫から左中間二塁打 ※史上4人目

    2000試合出場:1973年9月16日、対中日ドラゴンズ17回戦(後楽園球場)、4番・三塁手で先発出場 ※史上6人目

    1500打点:1974年8月6日、対中日ドラゴンズ14回戦(中日スタヂアム)、5回表に渋谷幸春から右前2点適時打 ※史上3人目

    シーズン打率3割以上:11回(1958年 - 1961年、1963年 - 1966年、1968年、1969年、1971年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ

    シーズン150安打以上:11回(1958年 - 1963年、1965年、1966年、1968年、1969年、1971年)※日本記録

    打率ベストテン入り:13回(1958年 - 1966年、1968年 - 1971年)※歴代4位、右打者歴代1位

    シーズン二塁打数リーグ1位:3回(1958年、1961年、1962年)※セ・リーグタイ記録

    シーズン塁打数リーグ1位:4年連続6回(1958年 - 1961年、1963年、1971年)※ともに歴代2位、デビューから4年連続は史上最長

    シーズン20本塁打到達スピード:42試合(1968年)※歴代4位、2001年にアレックス・カブレラ(38試合)に更新されるまでは歴代1位

    6年連続シーズン150安打以上(1958年 - 1963年)※歴代4位タイ、2003年に松井稼頭央に更新されるまでは歴代1位

    17年連続シーズン100安打以上(1958年 - 1974年)※歴代4位タイ、右打者歴代1位タイ。入団1年目からの記録としてはセ・リーグ記録(歴代では張本勲に次いで2位)

    2年連続シーズン30敬遠以上(1960年 - 1961年)※日本タイ記録

    6試合連続敬遠:2回(1958年9月7日 - 9月15日、1961年8月16日 - 8月22日)※日本記録

    4試合連続三塁打(1960年5月8日 - 5月14日)※日本記録

    シーズン守備機会連続無失策:214(1969年7月17日 - 10月9日)※三塁手当時の日本記録

    5年連続開幕戦本塁打(1970年 - 1974年)※日本記録

    通算開幕戦本塁打:10本(1959年、1960年、1963年2本、1968年、1970年 - 1974年) ※日本記録

    通算サヨナラ安打:14本 ※歴代4位タイ、セ・リーグ右打者記録

    通算サヨナラ本塁打:7本(1959年、1961年、1962年、1963年、1966年2本、1973年)※歴代6位タイ、セ・リーグ右打者記録

    通算猛打賞:186回 ※セ・リーグ記録

    通算2000本安打到達スピード:1708試合(1971年5月25日)※歴代3位、右打者歴代2位

    最高長打率:4年連続5回 ※ともに王貞治に次ぐセ・リーグ2位、新人から3年以上連続は史上最長

    首位打者、最高出塁率、最高長打率を同時獲得:3年連続(1959 - 1961年) ※王と並ぶ最長タイ記録

    同一球場で1000安打(後楽園球場)

    同一球場で200二塁打(後楽園球場)※史上初

    通算試合出場:68(1958年、1959年、1961年、1963年、1965年 - 1972年)※歴代5位

    通算打率:.343(265打数91安打)※100打数以上では歴代2位、160打数以上では歴代1位

    通算打数:265 ※歴代1位

    通算得点:49 ※歴代2位

    通算安打:91 ※歴代1位

    通算二塁打:14 ※歴代1位

    通算三塁打:2 ※歴代5位タイ

    通算本塁打:25 ※歴代2位

    通算塁打:184 ※歴代1位

    通算長打:41 ※歴代1位

    通算打点:66 ※歴代1位

    通算四球:27 ※歴代5位

    シリーズ打率4割以上:4回(1966年、1968年 - 1970年)※シリーズ記録

    シリーズ4本塁打(1969年、1970年)※シリーズタイ記録。1970年は5試合シリーズ記録。2回記録したのは長嶋と城島健司(2000年、2003年)のみ

    連続打席本塁打:3(1970年)※シリーズ記録

    出場:16回(1958年 - 1963年、1965年 - 1974年) ※1964年にもファン投票で選出されるも負傷により出場を辞退

    プロ入りから引退まで現役17年連続ファン投票1位

    通算打率:.313(150打数47安打) ※100打数以上では歴代5位、130打数以上では歴代1位

    通算安打:47 ※歴代2位タイ

    通算二塁打:10 ※歴代2位

    通算四球:17 ※歴代2位

    通算盗塁:8 ※歴代3位

    通算打率:.514(35打数18安打) ※歴代1位

    通算本塁打:7 ※歴代1位

    公式戦、日本シリーズ、オールスターの全てで通算打率3割以上 ※史上唯一

    3(1958年 - 1974年、2000年 - 2001年)(永久欠番)

    90(1975年 - 1980年)

    33(1993年 - 1999年)

    『燃えた、打った、走った!』(新版・中公文庫 BIBLIO20世紀、2001年12月) ISBN 4-122-03953-3

      『燃えた、打った、走った!』(改訂版・中央公論新社、2020年9月) ISBN 4-12-005338-5

      『燃えた、打った、走った!』(日本図書センター「人間の記録」、1997年)ISBN 4-8205-4281-8。初版(講談社、1974年)の復刻

      『ネバーギブアップ : キューバの太陽カリブの海に誓う』集英社、1981年4月7日。

      『長島茂雄のトランジットタイム : はじめてのエッセイ 旅と野球と充電の3年間』電通、1984年4月。ISBN 4-885-53402-X。

      『ありがとうシノ―名人・篠塚利夫』(恒文社 熱球文庫シリーズ、1985年1月)、ISBN 978-4770406033

      『長嶋茂雄 笑顔の言葉』(文藝春秋編・刊、2001年12月)ISBN 4-16-358200-2

      『人生の知恵袋 ミスターと7人の水先案内人』(幻冬舎、2004年1月)ISBN 4-344-00457-4。対談集

      『長嶋茂雄からのメッセージ 元気と笑顔を、あなたへ』(小林信也編、東邦出版、2005年11月)ISBN 4-8094-0494-3

        『長島茂雄語録』(小林信也編、河出書房新社〈河出文庫〉、新版2013年4月)ISBN 4-309-41221-1

        『野球は人生そのものだ』(日本経済新聞出版社、2009年11月 ISBN 4-532-16723-X/中公文庫、2020年12月)ISBN 4-12-207007-4。「私の履歴書」連載に増補

        『野球へのラブレター』(文藝春秋〈文春新書〉、2010年8月)ISBN 4-16-660764-2

        『野球人は1年ごとに若返る』(KADOKAWA、2016年2月)ISBN 978-4046015051

        『ミスタープロ野球・魂の伝言』(PHP研究所、2016年11月)ISBN 978-4-569-83451-1。ロングインタビュー

        日本テレビプロ野球中継(客員解説者として年数試合出演)

        さよならミスタージャイアンツ(引退特番、日本テレビ

        日曜特集・長嶋茂雄と時事放談(1981年4月19日、TBS)

        長嶋茂雄、世界を翔ける(日本テレビ

        『ビッグマンクラブ』長嶋・尾崎・五木(テレビ朝日)

        『激突ヒーロー列伝〜長嶋茂雄を超えるのは誰だ〜』(テレビ朝日)

        名球会VSビートたけし&芸能界ドリームチーム(テレビ朝日)

        第51回NHK紅白歌合戦(2000年12月31日、NHK総合・ラジオ第1) - 審査員

        徳光&所のスポーツえらい人グランプリ(日本テレビ

        ドキュメンタリー人間劇場「誰も知らない長嶋茂雄」(テレビ東京)

        情熱大陸「もうひとりの長嶋茂雄」(毎日放送)

        THE・サンデー(激論バトル など、日本テレビ

        NHKスペシャル ONの時代(全2回、NHK総合)

        24時間テレビ(1985年・2011年、日本テレビ

        徹子の部屋(テレビ朝日)

        長嶋茂雄がここにいる −いま日本人に伝えたいこと−(2013年3月10日、BSフジ)

        独占!長嶋茂雄の真実~父と娘の40年物語~(2015年1月3日、TBS) - 長島三奈とインタビューに答える

        100年インタビュー「長嶋茂雄」(2015年11月19日、NHK BSP)

        深層NEWS「長嶋茂雄-野球の魅力と五輪」(2017年1月9日、BS日テレ)

        長嶋さんと中居くん(2017年12月28日、テレビ朝日)

        82歳、長嶋茂雄の今(2018年3月10日、日本テレビ

        ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗(1964年、東宝) - 主演・長嶋茂雄 役

        燃える男 長島茂雄 栄光の背番号3(1974年、東宝) ※主演のドキュメント映画

        巨人軍物語 進め!!栄光へ(1977年、東宝) - 長嶋茂雄 役

        ジャイアンツのこども野球教室(1977年、東映) - 長嶋茂雄 役

        君は海を見たか 第5回(1970年、日本テレビ) - 長嶋茂雄 役 ※王貞治、高橋一三と本人役でゲスト出演

        ザ・ネットワーク / 長島監督ごめんなさい(1978年、フジテレビ) - 長嶋茂雄 役

        前橋市制100周年記念ドラマ 遥かなる八月の詩(1992年8月29日、群馬テレビ

        ミスター・ジャイアンツ 栄光の背番号3(1981年4月、日本テレビ

        二死満塁(1982年、フジテレビ) - 長嶋茂雄 役 ※本人役で特別出演、冒頭でコメントも担当

        ちびまる子ちゃん(2000年、フジテレビ) - 長嶋茂雄 役 ※本人役で特別出演、実写パートでお祝いメッセージも寄せた

        「TOYOTAメイクハッピー・ようこそ!長嶋茂雄です」(ニッポン放送)

        カルピス - 三島海雲(当時の社長)からのオファーによる。プロ野球選手では最初にCM出演したほか、藤田元司、広岡達朗、金田正一とも共演した。

        新日本石油(現・ENEOS)

        住友VISAカード(1990年)

        セコム(1990年 - )

        全日空

        住友不動産(1991年 - 1993年)

        日立製作所「長嶋さん、フローラでパソコンデビュー」(1995年 - 1996年)

        住友生命

        SEIKO「クレドール」(1980年)

        トヨタ自動車

          「コロナ・エクストラサルーン」

          「マークII グランデ ツインカム24」

          三陽商会「バーバリースーツ」

          サッポロ飲料(現・ポッカサッポロフード&ビバレッジ) - リボンシトロン(林寛子と共演)。

          片岡物産「バンホーテン・ココア」

          いすゞ自動車「ベレル」

          JR東海(1993年)

          ロッテ - 当時ロッテオリオンズ監督だった金田正一とユニフォーム姿で共演。「ガムはロッテ、野球は巨人」のコピーが台詞だった。

          三共(現・第一三共ヘルスケア)「ビオタミン・ゴールド」(1966年)

          資生堂「ヴィンテージ」

          三菱UFJ信託銀行(2006年)一茂と親子で出演(撮影は発病以前のもの)。

          田辺製薬(現・田辺三菱製薬)「アスパラC」「アスパラエース」「アスパラゴールドA」

          千葉銀行「冬のボーナス」 - 肖像権の都合上、切り紙細工によるポスターへの登場だった。(1981年)

          日本ケロッグ「ケロッグスペシャルK」

          日本強化精麦協会 麦ごはん

          「ミスタージャイアンツ背番号3」VHS、ポニーキャニオン(1983年8月21日)

          「長嶋茂雄現役引退試合 栄光の背番号3」DVD、バップ(2001年2月21日)

          「さらばミスタージャイアンツ 長嶋茂雄全記録1958~2001」DVD、バップ(2002年1月23日)

          「21世紀への伝説史『長嶋茂雄』」DVD3巻セット+愛蔵本3冊、株式会社トップアスリート(DVD発売日: 2007年4月20日)※元はVHS版であったものを追加収録をしたDVD版。サントラ(音楽:冨田勲)がCDとして出ている。

          「長嶋茂雄ドリーム・トレジャーズ・ブック」産経新聞出版(2012年12月13日)

          「長嶋茂雄にあこがれて」飯塚まもる(2013年)

          「男の友情背番号・3」石原裕次郎(1959年)

          「燃える男のバラード/長嶋茂雄その栄光のドキュメント」LP、日本コロムビア、品番:XMS-10501-J(1971年)当時、10万枚の売上

          「背番号3 長嶋さんありがとう!!」CDアルバム、テイチク、品番:TECE-35293(2002年3月21日)

          果てしない夢を(1993年6月9日発売)「ZYYG、REV、ZARD&WANDS featuring長嶋茂雄」名義

          「21世紀への伝説史 長嶋茂雄」CDアルバム((記録映像ビデオのサントラ、作曲:冨田勲)メディアファクトリー、品番:ZMCZ-657(2000年11月29日)

          それ行けナガシマさん!!(1993年1月25日発売、歌:秋吉恵美 & ヨネスケ、作詞・作曲:石坂まさを)

          栄光の男(2013年8月7日発売「ピースとハイライト」のカップリング。歌:サザンオールスターズ、作詞・作曲:桑田佳祐)タイトルの「栄光の男」や「あの人」と表現されているように、当時国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄をイメージして作った曲であり、作者の桑田佳祐は大学生時代に長嶋の引退試合を青山の喫茶店で見ていたといい、一つの時代の終わりを感じたのと同時に長嶋の人生と桑田自身を比較し、人目をはばからず号泣したと語っている。桑田自身はこの曲の歌詞について「大人になったつもりの今、『栄光の男』とは程遠い自分自身を鼓舞しているかのよう」と述べている。なお、この曲の歌詞では長嶋が実際に発言した「永久に不滅」というフレーズが「永遠に不滅」と誤用されているが、ディレクターが再三訂正を促しても桑田はスムーズに歌えるという理由で拒んでいた。2015年にローソンで配布された「スペシャルマガジン 総力特集 サザンオールスターズ『葡萄』」では、「もしもサザンが引退したら」という仮定で長嶋を皮切りに、黒柳徹子、太田光(爆笑問題)、代々木忠、森永卓郎、角田信朗による計6名の著名人の寄稿が掲載された。長嶋はこの曲に対して「桑田さんの素晴らしい音楽に私の野球がいくらかでも貢献できたと思うと大変うれしい気持ちです」と述べている。また、長嶋は『独占!長嶋茂雄の真実』(TBSテレビ、2015年1月3日放送)の中で桑田の人柄と功績を「素晴らしい。歌をはじめ、他の面においてもすごい方」と称える発言をしている。

          ^ 氏名の表記には2種類があり、どちらも正式なものである。詳細は後述。

          ^ 『姓氏』(著者:丹羽基二、監修:樋口清之)p237.によると、長嶋氏は桓武平氏良文流千葉氏の末裔と述べている。

          ^ 京成電鉄は1947年頃までは後に入団する読売ジャイアンツの筆頭株主でもあった。その京成電鉄では1977年末に自社で発売した「昭和五十三年成田山参拝記念乗車券」に第1次巨人監督時代の長嶋を起用している。

          ^ 長嶋が大学を辞めてプロ入りするかもしれないということを察知した阪急ブレーブスの丸尾千年次スカウトが長嶋宅を訪ねている

          ^ 砂押から特別扱いされていた長嶋は先輩から嫌われ、事あるごとに表向きは指導の名での暴力という形でいじめを受けていた。連帯責任で野球部の同級生全員が被害に遭うことも少なくなかった。

          ^ 近藤唯之は自著『プロ野球 運命の出会い』 (2006) で、「長嶋は2年生になった直後、東長崎グラウンド(当時の立教大学野球部グラウンド)で練習中、4年生の先輩から因縁をつけられて胸を殴られ、これに激昂してバットを持ち出し、4年生たちに喧嘩を挑んだ。2年生の同級生たちも長嶋に加勢した一方、4年生たちも全員がバットを持ち出して乱闘になりかけたが、最終的には4年生が先にバットを収めた。先に手を出した4年生は学校側から厳重説諭を受けた一方、長嶋は『退部、3か月間の出場停止、合宿所“智徳寮”を出る』など、厳しい処分案も出たが、当時の長嶋は父が死去するなど、家が貧しかったことや、きわどいバット事件だったことから『合宿所智徳寮で謹慎1週間、毎晩1時間にわたる4年生からの説教』という処分に落ち着いた」と述べている。一方、坪内道典は自著『風雪の中の野球半世記』 (1987) で「砂押監督のスパルタに嫌気がさしたからのようだ」と述べている。

          ^ 2人はともに「プロでやるなら一緒に」と誓い合っていた。

          ^ 杉浦が中日に入団しようとした理由について、長嶋や杉浦にとって立教大学の先輩に当たる坪内道典(中日OB)は自著『風雪の中の野球半世記』 (1987) で「(杉浦の)地元球団だったからだろう」と推測しているほか、元中日球団代表・高田一夫(任期:1961年 - 1964年)は「杉浦は『愛知県出身だから、中日ファンだ』と言っていた」と証言している。後に杉浦は坪内から真偽について問われ「そんなことがありましたねえ」と話したほか、長嶋も高田と親交のあった近藤唯之からこの件について問われて動揺を見せている。

          ^ 坪内は自著で、杉浦と長嶋が中日の球団事務所を訪れて入団を願い出た出来事について「1955年9月、杉浦・長嶋は2人で東京・西銀座の中日球団事務所を訪れ、応対した中村三五郎球団代表に対し『中日に入団させてほしい』と申し出たが、中村から諭されて帰された」と述べている。一方、近藤は親交のあった高田一夫(当時:球団代表代行)の「2人は2年生の暮れごろ、名古屋の中日本社に突然がやってきて『中日に入団させてほしい』と申し出た。しかし、球団代表代行を務めていた自分が『とにかく卒業してからこい。大学生は勉強が本分なんだから』と説教した」という証言を取り上げている。

          ^ この逸話を取り上げた杉井輝応は、長嶋と親交のあった鶴田浩二について取り上げた自著『鶴田浩二』 (1997) で「(もし2人の中日入団が実現していたら、杉浦が入団した)南海の御堂筋パレード(優勝パレード)は名古屋の広小路(優勝)パレードになっていたかも知れない。(長嶋が入団した)巨人のV9は中日のV9になっていたかも知れない。中日は惜しい逸材を逃したものだ」と述べている。また、近藤 (2006) は「中日は長嶋と杉浦を自分から無料でいいというのに、とり逃がしてしまった」と、坪内 (1987) も「(もし中日に入団していれば)長嶋は『ミスター・ドラゴンズ』になるところだったが、中日は大魚(後に球史に残るスーパースターになった2人)を2匹逃した。中村代表は1956年ごろ、このことを悔しがってみんなに話していた」と述べている。中日球団の親会社である中日新聞社が発行する『中日スポーツ』の記者・増田護 (2020) は「巨人と南海でともに新人王になる2人(長嶋と杉浦)をそのまま入団させていれば間違いなく中日、いやプロ野球の歴史が変わっただろう。そこまでのスターになるとは思っていなかったのかもしれないが、筆者は迷える大学生を説教して追い返した中村代表に敬服する。」と述べている。

          ^ この記録を前に持っていたのは、1930年の宮武三郎(慶大。阪急軍初代主将としても活躍。)、1936年の呉明捷(早大。2014年の台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』では準主役的な存在として描かれた。)で共に7本塁打を打っていた。

          ^ 大映スターズオーナーの永田雅一が卒業後の獲得を目指して大学1年生の時に長嶋と実家で面会し「優勝するチームで野球がしたい」と言われたことがNHKテレビの『その時歴史が動いた』(2005年2月9日放送分)で紹介されている。

          ^ 阪神タイガースのスカウト青木一三は大学を中退させての獲得に向けて本人や家族と交渉したが、藤村排斥事件を受けて頓挫している。

          ^ 広島カープも長嶋を広島観光に誘うなどしていた。

          ^ 長嶋は、父が亡くなってから行商をするなどして家計を支えた母親を非常に尊敬しており、母親の懇願を断ることが出来なかったという。

          ^ 当時は川上の背番号16は永久欠番に指定されておらず、その8年後の1965年に指定された。

          ^ このケースでは、長嶋は二塁を踏んだ瞬間に一塁を踏み直すことが許されなくなり(公認野球規則7.10(b)(2))、投手がボールを保持してプレーがかかったのち、投手が最初の投球をする前に一塁手の藤井弘が送球を要求し、鵜狩から送球を受けて触塁しアピールし、一塁塁審の竹元勝雄がアウトを宣告した。この場合、投手に補殺、一塁手に刺殺が記録され、記録上投手ゴロと同じためこのように伝えられている。

          ^ 1946年から1960年までの正式な球団名称は「大阪タイガース」であったが、この間も略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた。

          ^ 川上哲治の記録を6年ぶりに塗り替え、王貞治に抜かされるまで5年間保持。

          ^ 外様を含めると2004年に小久保裕紀が41本塁打を打ち、巨人軍史上初の右打者の40本塁打を達成。2010年にはアレックス・ラミレスが49本塁打を打ち小久保の記録を更新及び巨人の外国人右打者のシーズン最多本塁打となった。

          ^ なお、この年以降巨人の右打者の首位打者獲得は2009年にアレックス・ラミレスが、日本人右打者に限定すれば2011年に長野久義が獲得するまで非常に長い年数が経っていた。

          ^ 当時のスピーチの草稿(長嶋が述べた言葉を知人男性が書き記したもの)には「永遠に不滅」と書かれており、実際の引退試合で発した「永久に不滅」はそれを長嶋が読み間違えたものだった。

          ^ 戦前にはフィリピン人のアデラーノ・リベラが1年間ではあるが在籍した。同じく戦前に在籍したヴィクトル・スタルヒンはロシア系であるが日本の学校への在学歴がある。「学歴まで含めて外国で育った非日系の外国人選手」としてはリベラに次いで2人目となるが、戦後に限定すれば初めてとなる。

          ^ 現役引退前後の頃にも同様の発言をしたことがあり、「野球というスポーツは、人生そのものだと僕は思います。失意と得意、成功と失敗が常に背中合わせになっています。勝者が笑う陰には、常に敗者がいます。栄光の陰に、数知れぬ挫折があります」と語っている(沢木耕太郎著「三人の三塁手」)。

          ^ 後に長嶋は阿川との対談で、「(意識は)なかった。もう(状態は)上中下の下で、一番悪かったですからね。その下は死ですから」と語っている。阿川、2011

          ^ 長嶋は一茂の判断について「一番悪い状態の時でしたからね」と理解を示しながら、誰が何と言ってもアテネへ行くつもりがダメになったことへのショックと孤独を語っている。阿川、2011

          ^ 同プロジェクトは2010年まで毎年1月に開催されていた。

          ^ この内容が2011年に単行本となっている。阿川、2011

          ^ 庵原英夫『正しい技術 勝つ作戦のコツ 野球ルール』(有紀書房、1987年) p64-65。公認野球規則の6・02a(打者の義務)では打者は自分の打順がきたら速やかにバッタースボックスに入って打撃姿勢をとらなければならないとされているが、「バットを持って」とは明記されていない。このときの球審は長嶋がバットを持っていなくても素手で構えたため打撃姿勢をとったものとみなし、四球の判定を下しているが、バットを持っていなければ投手の投球を打ち返すことは不可能であり、庵原は長嶋のこの行為に対して、球審によっては打撃姿勢をとっていないとみなす可能性があることを同書内で指摘している。なお打者が打撃姿勢をとろうとしない場合、球審は投手に投球を命じ、どのような投球であってもストライクを宣告することができる。このため、もし球審が打撃姿勢をとっていないとみなした場合、素手で構えて以降の投球は全てストライクとなり、ストライクを3回宣告されるまでに打者が打撃姿勢を取らなかった時には、アウトを宣告される。

          ^ このことは広岡達朗や堀内恒夫が証言している。

          ^ ビートたけしは長嶋の守備について、「長嶋が登場するまでは、巨人の守備になるとみんな便所にいってたんだよ。つまり守備は見る必要がないって思ってたんだ。でも長嶋が登場してからは、あの守備が見たくてさ。便所すら行けなくなっちゃったよ(笑)」と述べている。

          ^ 引用中、( )内は記者による描写。当時は前年の安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「昨年の安保のときから(引用者注:政治面に)興味もつようになったんです」と発言している)政権交代をうかがわせる雰囲気があった。

          ^ 玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年、新潮文庫)では、東急フライヤーズの一言多十が映画『七人の侍』を「七人のマチ」と言ったエピソードから、多くのコラムニストが他のプロ野球選手にこれを付会させたエピソードを「創作」し、その「被害」が最も多いのは長嶋であろうと記されている(P470)。同書には1979年のあるエッセイで、長嶋が同じ黒澤明監督の映画『野良犬』を「ノヨシケン」と呼んだと書かれている例が紹介されている(P441)。

          ^ 長嶋の編著「野球は格闘技だ」にも同内容のコメントを寄せている。なお、この話は石原を通じて役者内でも広がったとされ、勝新太郎も同著内でその話に触れたコメントを寄せている。

          ^ 長嶋は不振に陥った入団2年目の山本一義を自宅に呼び寄せ、自らの試合前ルーティーンを山本に見せることで激励をしたとされる。その時の様子を山本は「朝十時に家に着くと、長嶋さんは散歩から帰って柔軟体操をしているところだった。長嶋さんは私を一瞥すると、『そこに座ってろ』という。<中略>ノートを出してきて『今日の先発は大石かな、大羽かな』と一人ごちて、この二人と前回対戦した時の配球を調べている。『1球目がカーブで、2球目がシュートか』とノートを読んで予備知識を入れたかと思えば、スクッと立ち上がって球場に行く準備を始めたのであった。<中略>正直なところ、"動物的勘"や"天性の資質"でプレーすると言われていた長嶋さんは、毎日遊び惚けて野球をやっているのかと思っていた。とんでもない間違いだった。あの頂点に立っている長嶋さんは、毎日試合前に必要な準備をして臨んでいるからこそ、あの光り輝くプレーができているんだということに気づいた時、ハッとさせられ、深く反省させられた」と回想している(「わが人生、わが野球道(Vol.15)」著・山本一義 月刊The Carp 1992年5月号(No.54))。

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          阿川佐和子著 『阿川佐和子のこの人に会いたい 8』 ISBN 9784167435219(文春文庫)

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          千葉県出身の人物一覧

          立教大学の人物一覧

          読売ジャイアンツの選手一覧

          読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧

          久保正雄 – 親代わり

          個人年度別成績 長嶋茂雄 - NPB.jp 日本野球機構

          選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

          野球殿堂 長嶋茂雄

          長嶋茂雄選手引退 - NHK放送史

          ウィキメディア・コモンズには、長嶋茂雄に関するカテゴリがあります。

          ウィキクォートには、長嶋茂雄に関する引用句があります。

          選手情報 - 週刊ベースボールONLINE

          三宅大輔 1934 - 1935

          浅沼誉夫 1935 - 1936

          藤本定義 1936 - 1942

          中島治康 1943

          藤本英雄 1944, 1946

          中島治康 1946 - 1947

          三原修 1947 - 1949

          水原茂(水原円裕) 1950 - 1960

          川上哲治 1961 - 1974

          長嶋茂雄 1975 - 1980

          藤田元司 1981 - 1983

          王貞治 1984 - 1988

          藤田元司 1989 - 1992

          長嶋茂雄 1993 - 2001

          原辰徳 2002 - 2003

          堀内恒夫 2004 - 2005

          原辰徳 2006 - 2015

          高橋由伸 2016 - 2018

          原辰徳 2019 - 2023

          阿部慎之助 2024 - 現在

          春日由三

          吉本明光

          中山晋平

          春日由三

          吉川義雄

          春日由三

          吉川義雄

          川村専一

          狩野近雄

          河上英一

          笹本恭彦

          明瀬裕

          池田太郎

          牧定忠

          春日由三

          吉川義雄

          渋沢秀雄

          横山隆一

          西崎緑

          貝谷八百子

          田付辰子

          メイ牛山

          春日由三

          吉川義雄

          岩田専太郎

          勅使河原蒼風

          千代の山雅信

          小山いと子

          吉村公三郎

          市川翠穂

          マヤ片岡

          春日由三

          吉川義雄

          三國連太郎

          小西得郎

          栃錦清隆

          青木茂高

          河上牧子

          水木洋子

          坂西志保

          田村佐紀子

          吾妻徳穂

          吉川義雄

          田中角栄

          菊田一夫

          若乃花勝治

          金田正一

          奥むめお

          森田たま

          細川ちか子

          近藤百合子

          吉川義雄

          横山泰三

          水原茂

          稲垣浩

          朝汐太郎

          沢田美喜

          杉村春子

          戸川エマ

          赤堀全子

          吉川義雄

          木下惠介

          大宅壮一

          杉浦幸雄

          若羽黒朋明

          長谷川春子

          大濱英子

          榊淑子

          谷桃子

          吉川義雄

          秋山登

          唐島基智三

          柏戸剛

          松本幸四郎

          中村汀女

          田中絹代

          秋山ちえ子

          江上トミ

          長沢泰治

          土門拳

          高田元三郎

          仲代達矢

          大鵬幸喜

          和田夏十

          勅使河原霞

          村山リウ

          森光子

          長沢泰治

          工藤昭四郎

          東郷青児

          森英恵

          大山康晴

          山内一弘

          佐田の山晋松

          藤間紫

          岡田茉莉子

          十返千鶴子

          浪花千栄子

          長沢泰治

          細川隆元

          丹羽文雄

          實川延若

          中西太

          栃ノ海晃嘉

          飯田蝶子

          貞閑晴

          新珠三千代

          花柳壽輔

          佐久間良子

          長沢泰治

          大林清

          北葉山英俊

          林与一

          古賀忠道

          春風亭柳橋

          岩下志麻

          司葉子

          長谷川町子

          林美智子

          吉屋信子

          坂本朝一

          円地文子

          安達曈子

          入江美樹

          藤村志保

          小絲源太郎

          松下幸之助

          ファイティング原田

          緒形拳

          坂本朝一

          樫山文枝

          五代利矢子

          浜美枝

          山崎豊子

          大佛次郎

          尾上菊之助

          加藤芳郎

          鶴ヶ嶺昭男

          中山卯郎

          福島慎太郎

          木村秀政

          西本幸雄

          石坂浩二

          福原美和

          栗原小巻

          塩月弥栄子

          平岩弓枝

          中山卯郎

          江夏豊

          王馬熙純

          榊原仟

          鈴木俊一

          曽野綾子

          高田敏子

          藤田弓子

          三船敏郎

          中山卯郎

          浅丘ルリ子

          市川海老蔵

          今井通子

          大谷直子

          菅野義丸

          佐藤愛子

          鶴岡一人

          平幹二朗

          中道定雄

          坂東玉三郎

          樋口久子

          小林弘

          三田佳子

          志村喬

          武原はん

          玉の海正洋

          中山律子

          仲代達矢

          小野田勇

          浪花家辰造

          大場政夫

          宇田川竜男

          堀内寿子

          大山英子

          村山加代子

          中山きよ子

          樫山文枝

          山口果林

          高橋信雄

          山下迪子

          館弘子

          石田芳夫

          中山紀子

          井沢つま

          森戸辰男

          溝尾正志

          花本方美

          為久優子

          成田知子

          桑田たつ子

          村上巳里

          山下誠

          小川善三郎

          河野久枝

          桑原永子

          田川由紀子

          佐藤太圭子

          山田三智穂

          大谷豊二

          高橋優子

          貴ノ花利彰

          赤塚洋文

          平内義幸

          富岡雅寛

          平賀輝子

          中川時子

          加藤稔

          池内淳子

          中原誠

          森英恵

          小林桂樹

          中村汀女

          井上ひさし

          中野貴代

          神田好武

          真木洋子

          輪島大士

          高橋洋子

          生沼スミエ

          棟方志功

          村上元三

          京マチ子

          サトウサンペイ

          高田ユリ

          尾上菊五郎

          寺島純子

          北の湖敏満

          根本良夫

          橋本明治

          杉村春子

          尾上松緑

          栗原小巻

          堀江謙一

          檀ふみ

          魁傑將晃

          新垣留美子

          根本良夫

          尾上梅幸

          高橋展子

          吉永小百合

          加藤剛

          三林京子

          大竹しのぶ

          古葉竹識

          三重ノ海五郎

          池田彌三郎

          浅丘ルリ子

          中村梅之助

          小野清子

          村上隆

          堤加蓉子

          カロリーナ・ピレス・ド・リオ

          若三杉壽人

          川上哲治

          川口幹夫

          市川染五郎

          上田利治

          旭國斗雄

          水島新司

          川橋幸子

          橋田壽賀子

          新井春美

          竹下景子

          川口幹夫

          北の湖敏満

          岩下志麻

          植村直己

          八千草薫

          安奈淳

          森和人

          森下洋子

          山本浩二

          加藤好雄

          若山富三郎

          ミヤコ蝶々

          菅原文太

          大原麗子

          松本零士

          重兼芳子

          古葉竹識

          多岐川裕美

          加藤好雄

          松本幸四郎

          陳舜臣

          佐久間良子

          木田勇

          向田邦子

          島田陽子

          鈴木喜久子

          角田好雄

          渡辺一雄

          石毛宏典

          古手川祐子

          緒形拳

          花井幸子

          倉本昌弘

          森光子

          坂田栄男

          高橋洋子

          秋竜山

          澤地久枝

          香川宏

          生沼スミエ

          玉の海梅吉

          森英恵

          山藤章二

          池上季実子

          広岡達朗

          村松友視

          真野響子

          滝田栄

          橋田壽賀子

          前橋汀子

          市川猿之助

          香川宏

          三船敏郎

          松本幸四郎

          大原麗子

          田淵幸一

          樋口久子

          松坂慶子

          田中裕子

          隆の里俊英

          谷川浩司

          林真理子

          胡桃沢耕史

          宮尾登美子

          山口小夜子

          役所広司

          菊池綜一

          江上由美

          釜本邦茂

          名取裕子

          風間杜夫

          石井幹子

          連城三紀彦

          里中満智子

          衣笠祥雄

          松坂慶子

          市川海老蔵

          遠藤利男

          三田佳子

          中村吉右衛門

          高野悦子

          小池一夫

          武原はん

          ジェームス三木

          山口洋子

          吉田義男

          大地真央

          北尾光司

          中野正之

          森光子

          清原和博

          森下洋子

          雁屋哲

          黒柳朝

          加藤芳郎

          山崎洋子

          渡辺謙

          加納みゆき

          千代の富士貢

          吉岡利夫

          若尾文子

          中井貴一

          森瑤子

          江藤俊哉

          俵万智

          逢坂剛

          森口祐子

          近藤真一

          若村麻由美

          北勝海信芳

          今西陽一郎

          三田佳子

          片岡孝夫

          伊藤京子

          森祇晶

          浅野温子

          安野光雅

          伊勢桃代

          新井満

          山口智子

          千代の富士貢

          沖清司

          千代の富士貢

          いしだあゆみ

          ねじめ正一

          小林浩美

          中村勘九郎

          村崎芙蓉子

          西田敏行

          石岡瑛子

          斎藤雅樹

          渡辺梓

          沖清司

          山本陽子

          中村鴈治郎

          諏訪内晶子

          野田秀樹

          コシノジュンコ

          渡辺久信

          森口祐子

          松岡修造

          沢口靖子

          真田広之

          小林由紀子

          増井光子

          山崎豊子

          秋山幸二

          芦原すなお

          荻野アンナ

          若花田勝

          貴花田光司

          緒形直人

          鷲尾いさ子

          田中好子

          内林達夫

          有森裕子

          曙太郎

          古賀稔彦

          富司純子

          中田久美

          野茂英雄

          村上弘明

          伊藤みどり

          森光子

          高橋克彦

          松尾武

          三田佳子

          米長邦雄

          市川團十郎

          細川直美

          筒井道隆

          つみきみほ

          松原敏春

          平瀬真由美

          宮尾登美子

          川淵三郎

          内館牧子

          田村亮子

          植木等

          野村克也

          中丸三千繪

          古田敦也

          ミヤコ蝶々

          曙太郎

          古橋廣之進

          大林素子

          松尾武

          イチロー

          赤井英和

          奥野史子

          岩下志麻

          羽生善治

          南井克巳

          賀来千香子

          川本ゆかり

          市川崑

          森光子

          上田洋一

          古田敦也

          田村亮子

          天海祐希

          竹中直人

          原辰徳

          水谷八重子

          中村紘子

          ジョージ川口

          柳家小さん

          大石芳野

          上田洋一

          有森裕子

          川口能活

          江角マキコ

          仰木彬

          清水市代

          中村橋之助

          森英恵

          桂米朝

          大石静

          周防正行

          大橋晴夫

          井原正巳

          吉永小百合

          片岡仁左衛門

          伊藤みどり

          佐々木主浩

          佐藤夕美子

          本木雅弘

          篠田節子

          谷川浩司

          吉行あぐり

          大橋晴夫

          清水宏保

          藤原紀香

          琴錦功宗

          中村玉緒

          松平健

          俵万智

          ジェームス三木

          服部道子

          熊川哲也

          浅利純子

          伊東律子

          出島武春

          松嶋菜々子

          内館牧子

          野村萬斎

          田村亮子

          津川雅彦

          草笛光子

          阿久悠

          福嶋晃子

          乙武洋匡

          伊東律子

          田村亮子

          長嶋茂雄

          高橋尚子

          渡辺謙

          池内淳子

          佐々木主浩

          岡本綾

          井上康生

          木村佳乃

          内藤國雄

          出田幸彦

          栃東大裕

          川原亜矢子

          室伏広治

          竹田恆和

          松岡佑子

          唐沢寿明

          平良とみ

          天海祐希

          藤田宜永

          森下洋子

          出田幸彦

          朝青龍明徳

          米倉涼子

          市川新之助

          阿川佐和子

          宮本恒靖

          仲間由紀恵

          高橋由伸

          恩田美栄

          岩合光昭

          岸惠子

          中村季恵

          浅野ゆう子

          五木寛之

          優香

          三谷幸喜

          村山由佳

          末續慎吾

          村主章枝

          武田真治

          有馬稲子

          星野仙一

          中村季恵

          野口みずき

          野村忠宏

          橋田壽賀子

          中村勘九郎

          荒川静香

          滝沢秀明

          高島礼子

          和田一浩

          森光子

          日野原重明

          琴欧州勝紀

          薬師丸ひろ子

          野口聡一

          長澤まさみ

          山田洋次

          森光子

          上川隆也

          眞鍋かをり

          林家正蔵

          栗原はるみ

          渡辺謙

          阿木燿子

          リリー・フランキー

          藤山直美

          内野聖陽

          横峯さくら

          田口壮

          吉田都

          鎌田實

          瀬戸内寂聴

          宮﨑あおい

          上田桃子

          岡島秀樹

          青木功

          中村勘三郎

          新垣結衣

          茂木健一郎

          坂東眞理子

          陣内智則

          藤原紀香

          本木雅弘

          吉田沙保里

          太田雄貴

          高橋尚子

          松本幸四郎

          松坂慶子

          姜尚中

          堀北真希

          妻夫木聡

          上野由岐子

          白鵬翔

          草刈民代

          阿部寛

          深田恭子

          原辰徳

          勝間和代

          城田優

          杉山愛

          西田敏行

          森光子

          野口聡一

          湊かなえ

          岩崎夏海

          寺島しのぶ

          髙橋大輔

          上野樹里

          伊勢谷友介

          仲間由紀恵

          北大路欣也

          武良布枝

          大竹しのぶ

          田中将大

          コシノジュンコ

          三谷幸喜

          鈴木京香

          佐々木則夫

          鈴木明子

          松山ケンイチ

          松井冬子

          琴奨菊和弘

          綾瀬はるか

          尾木直樹

          澤穂希

          中村勘九郎

          樹木希林

          桂文枝

          吉田沙保里

          入江陵介

          菅野よう子

          日馬富士公平

          田中将大

          滝川クリステル

          宮藤官九郎

          宮本信子

          杉良太郎

          風吹ジュン

          岡田准一

          片岡愛之助

          阿川佐和子

          中園ミホ

          尾上松也

          蜷川実花

          山中伸弥

          井上真央

          阿部寛

          仲間由紀恵

          タモリ

          黒柳徹子

          羽生結弦

          堺雅人

          長澤まさみ

          大泉洋

          土屋太鳳

          三宅宏実

          上橋菜穂子

          所ジョージ

          有村架純

          又吉直樹

          高畑充希

          辻沙絵

          草刈正雄

          新垣結衣

          大谷翔平

          萩野公介

          伊調馨

          秋本治

          春風亭昇太

          村田沙耶香

          村田諒太

          村上茉愛

          加藤一二三

          吉岡里帆

          高橋一生

          宮本信子

          鈴木亮平

          林真理子

          阿部サダヲ

          安藤サクラ

          池江璃花子

          小平奈緒

          佐藤健

          出川哲朗

          永野芽郁

          中村勘九郎

          夏井いつき

          野村萬斎

          長谷部誠

          井上尚弥

          上沼恵美子

          サンドウィッチマン

          渋野日向子

          瀬戸大也

          田中圭

          戸田恵梨香

          中西麻耶

          長谷川博己

          広瀬すず

          吉野彰

          黒柳徹子

          サンドウィッチマン

          杉咲花

          染谷将太

          チコちゃん

          宮崎美子

          宮本亞門

          室伏広治

          吉沢亮

          石川佳純

          清原果耶

          小池栄子

          坂口健太郎

          谷真海

          三谷幸喜

          芦田愛菜

          黒柳徹子

          西村宏堂

          羽生結弦

          坂東彌十郎

          福原遥

          松本潤

          村上宗隆

          森保一

          吉田都

          北口榛花

          国枝慎吾

          堺雅人

          俵万智

          寺島しのぶ

          寺田宜弘

          バカリズム

          吉高由里子

          1977年(昭和52年):王貞治

          1978年(昭和53年):古賀政男

          1984年(昭和59年):長谷川一夫

          1984年(昭和59年):植村直己

          1984年(昭和59年):山下泰裕

          1987年(昭和62年):衣笠祥雄

          1989年(平成元年):美空ひばり

          1989年(平成元年):千代の富士貢

          1992年(平成4年):藤山一郎

          1992年(平成4年):長谷川町子

          1993年(平成5年):服部良一

          1996年(平成8年):渥美清

          1998年(平成10年):吉田正

          1998年(平成10年):黒澤明

          2000年(平成12年):高橋尚子

          2009年(平成21年):遠藤実

          2009年(平成21年):森光子

          2009年(平成21年):森繁久彌

          2012年(平成24年):吉田沙保里

          2013年(平成25年):大鵬幸喜

          2013年(平成25年):長嶋茂雄

          2013年(平成25年):松井秀喜

          2016年(平成28年):伊調馨

          2018年(平成30年):羽生善治

          2018年(平成30年):井山裕太

          2018年(平成30年):羽生結弦

          2023年(令和5年):国枝慎吾

          2011年(平成23年):ワールドカップ日本女子代表

          …じゃあ〜りませんか チャーリー浜

          「うれしいような、かなしいような」「はだかのおつきあい」 きんさんぎんさん

          Jリーグ 川淵三郎(Jリーグチェアマン)

          すったもんだがありました 宮沢りえ / イチロー(効果) イチロー(オリックス・ブルーウェーブ) / 同情するならカネをくれ 安達祐実

          無党派 青島幸男(東京都知事) / NOMO 野茂英雄(ロサンゼルス・ドジャース) / がんばろうKOBE 仰木彬(オリックス・ブルーウェーブ監督)

          自分で自分をほめたい 有森裕子(マラソン選手) / 友愛 / 排除の論理 鳩山由紀夫(民主党代表) / メークドラマ 長嶋茂雄(読売ジャイアンツ監督)

          失楽園(する) 渡辺淳一、黒木瞳

          ハマの大魔神 佐々木主浩(横浜ベイスターズ) / だっちゅーの パイレーツ(お笑い芸人)

          ブッチホン 小渕恵三(内閣総理大臣) / リベンジ 松坂大輔(西武ライオンズ) / 雑草魂 上原浩治(読売ジャイアンツ)

          おっはー 慎吾ママ / IT革命 木下斉(商店街ネットワーク社長・早稲田大学高等学院三年)

          「小泉語録」(米百俵・聖域なき構造改革・恐れず怯まず捉われず・骨太の方針・ワイドショー内閣・改革の「痛み」) 小泉純一郎(内閣総理大臣)

          タマちゃん 佐々木裕司(川崎市民)、黒住祐子(フジテレビ・レポーター) / W杯(中津江村) 坂本休(中津江村・村長)

          毒まんじゅう 野中広務(元衆議院議員) / なんでだろ〜 テツandトモ(お笑いグループ) / マニフェスト 北川正恭(早稲田大学教授)

          チョー気持ちいい 北島康介(競泳選手)

          小泉劇場 武部勤(自由民主党幹事長)ほか / 想定内(外) 堀江貴文(ライブドア社長)

          イナバウアー 荒川静香(プロスケーター) / 品格 藤原正彦(数学者)

          (宮崎を)どげんかせんといかん 東国原英夫(宮崎県知事) / ハニカミ王子 石川遼(アマチュアゴルフ選手)

          グ〜! エド・はるみ / アラフォー 天海祐希

          政権交代 鳩山由紀夫(内閣総理大臣)

          ゲゲゲの -  武良布枝(『ゲゲゲの女房』作者)

          60 ヴィクトル・スタルヒン

          62 池田豊

          63 中島治康

          64 若林忠志

          65 川上哲治、鶴岡一人

          69 苅田久徳

          70 天知俊一、二出川延明

          72 石本秀一

          74 藤本定義、藤村富美男

          76 中上英雄

          77 水原茂、西沢道夫

          78 松木謙治郎、浜崎真二

          79 別所毅彦

          80 大下弘、小鶴誠

          81 飯田徳治、岩本義行

          83 三原脩

          85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

          88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

          89 島秀之助、野村克也、野口二郎

          90 真田重蔵、張本勲

          91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

          92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

          93 稲尾和久、村山実

          94 王貞治、与那嶺要

          95 杉浦忠、石井藤吉郎

          96 藤田元司、衣笠祥雄

          97 大杉勝男

          99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

          00 米田哲也

          01 根本陸夫、小山正明

          02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

          03 上田利治、関根潤三

          04 仰木彬

          05 村田兆治、森祇晶

          06 門田博光、高木守道、山田久志

          07 梶本隆夫

          08 山本浩二、堀内恒夫

          09 若松勉

          10 東尾修

          11 落合博満

          12 北別府学、津田恒実

          13 大野豊

          14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

          15 古田敦也

          16 斎藤雅樹、工藤公康

          17 伊東勤

          18 松井秀喜、金本知憲

          19 立浪和義

          22 髙津臣吾、山本昌

          23 アレックス・ラミレス

          24 谷繁元信、黒田博樹

          09 青田昇

          10 江藤慎一

          11 皆川睦雄

          13 外木場義郎

          16 榎本喜八

          17 星野仙一、平松政次

          18 原辰徳

          19 権藤博

          20 田淵幸一

          23 ランディ・バース

          59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

          60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

          62 市岡忠男

          64 宮原清

          65 井上登、宮武三郎、景浦將

          66 守山恒太郎

          67 腰本寿

          68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

          69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

          70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

          71 小西得郎、水野利八

          72 中野武二、太田茂

          73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

          74 野田誠三

          76 小泉信三

          77 森茂雄、西村幸生

          78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

          79 平沼亮三、谷口五郎

          80 千葉茂

          81 佐伯達夫、小川正太郎

          82 鈴木龍二、外岡茂十郎

          83 内村祐之

          84 桐原眞二

          85 田中勝雄、山内以九士

          86 中河美芳、松方正雄

          87 藤田信男、山下実

          88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

          89 池田恒雄、伊達正男

          90 佐伯勇

          91 中澤良夫

          92 吉田正男

          94 廣岡知男

          95 呉昌征、村上實

          96 牧野直隆、保坂誠

          97 山本英一郎

          98 中尾碩志、井口新次郎

          99 吉國一郎

          00 福島慎太郎

          01 武田孟、長谷川良平

          02 中澤不二雄、生原昭宏

          03 松田耕平

          04 秋山登

          05 志村正順

          06 川島廣守、豊田泰光

          07 松永怜一

          08 嶋清一

          09 大社義規、君島一郎

          10 古田昌幸

          12 長船騏郎、大本修

          13 福嶋一雄

          14 相田暢一

          15 林和男、村山龍平

          16 松本瀧藏、山中正竹

          17 郷司裕、鈴木美嶺

          18 瀧正男

          19 脇村春夫

          20 前田祐吉、石井連藏

          21 川島勝司、佐山和夫

          22 松前重義

          23 古関裕而

          24 谷村友一

          02 フランク・オドール、正岡子規

          03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

          金田正一

          稲尾和久

          小山正明

          米田哲也

          梶本隆夫

          皆川睦雄

          村山実

          鈴木啓示

          堀内恒夫

          山田久志

          江夏豊

          平松政次

          東尾修

          村田兆治

          北別府学

          佐々木主浩

          高津臣吾

          工藤公康

          野茂英雄

          山本昌広

          岩瀬仁紀

          黒田博樹

          上原浩治

          藤川球児

          平野佳寿

          山内一弘

          榎本喜八

          野村克也

          長嶋茂雄

          広瀬叔功

          張本勲

          王貞治

          江藤慎一

          土井正博

          高木守道

          松原誠

          柴田勲

          大杉勝男

          藤田平

          衣笠祥雄

          福本豊

          山崎裕之

          山本浩二

          有藤通世

          若松勉

          谷沢健一

          加藤秀司

          門田博光

          大島康徳

          新井宏昌

          秋山幸二

          駒田徳広

          立浪和義

          鈴木一朗(イチロー)

          清原和博

          古田敦也

          野村謙二郎

          石井琢朗

          松井秀喜

          田中幸雄

          前田智徳

          金本知憲

          松井稼頭央

          小笠原道大

          稲葉篤紀

          宮本慎也

          小久保裕紀

          アレックス・ラミレス

          中村紀洋

          谷繁元信

          井口資仁

          和田一浩

          新井貴浩

          福留孝介

          荒木雅博

          青木宣親

          阿部慎之助

          鳥谷敬

          内川聖一

          福浦和也

          坂本勇人

          栗山巧

          大島洋平

          1968 西城正三

          1969 読売ジャイアンツ

          1970 大鵬幸喜

          1971 長嶋茂雄

          1972 松本勝明

          1973 沢村忠

          1974 王貞治

          1975 広島東洋カープ

          1976 王貞治

          1977 王貞治

          1978 ヤクルトスワローズ

          1979 具志堅用高

          1980 具志堅用高

          1981 中野浩一

          1982 落合博満

          1983 広岡達朗

          1984 衣笠祥雄

          1985 ランディ・バース

          1986 落合博満

          1987 岡本綾子

          1988 千代の富士貢

          1989 千代の富士貢

          1990 野茂英雄

          1991 辰吉丈一郎

          1992 貴花田光司

          1993 三浦知良

          1994 イチロー

          1995 イチロー

          1996 尾崎将司

          1997 中田英寿

          1998 佐々木主浩

          1999 松坂大輔

          2000 松井秀喜

          2001 イチロー

          2002 FIFAワールドカップ日本代表

          2003 松井秀喜

          2004 朝青龍明徳

          2005 朝青龍明徳

          2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表

          2007 浦和レッドダイヤモンズ

          2008 石川遼

          2009 石川遼

          2010 白鵬翔

          2011 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表

          2012 阿部慎之助

          2013 田中将大

          2014 錦織圭

          2015 ラグビー日本代表

          2016 大谷翔平

          2017 福岡ソフトバンクホークス

          2018 大谷翔平

          2022 井上尚弥

          2023 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表

          90 鈴木亜久里

          91 増沢末夫

          92 三浦知良

          93 武豊, 伊達公子

          94 南井克巳

          95 東聡, 丸山茂樹

          96 なし

          97 平木理化, サッカー日本代表

          98 高橋由伸

          99 石井和義

          00 長嶋茂雄, 王貞治

          01 長嶋茂雄

          02 青木功

          03 星野仙一, 西村了

          04 イチロー

          05 武豊

          06 WBC日本代表

          07 なし

          08 三浦皇成

          09 原辰徳

          10 サッカー日本代表

          11 なでしこジャパン

          12 なし

          13 佐藤真海

          14 錦織圭, 石川佳純

          15 秋山翔吾, ラグビー日本代表チーム

          16 伊調馨, 上地結衣

          17 内山高志, 桐生祥秀

          18 サッカー日本代表, 福原愛

          19 ラグビー日本代表, 阿部慎之助

          20-21 中止、22以降 無し

          1977 王貞治

          1978 広岡達朗

          1979 西本幸雄

          1980 古葉竹識

          1981 藤田元司

          1982 広岡達朗

          1983 田淵幸一

          1984 衣笠祥雄

          1985 吉田義男

          1986 森祇晶

          1987 工藤公康

          1988 門田博光

          1989 藤田元司

          1990 森祇晶

          1991 秋山幸二

          1992 石井丈裕

          1993 野村克也

          1994 長嶋茂雄, イチロー

          1995 イチロー

          1996 仰木彬

          1997 古田敦也

          1998 佐々木主浩

          1999 王貞治

          2000 松井秀喜

          2001 若松勉

          2002 原辰徳

          2003 王貞治, 星野仙一

          2004 伊東勤

          2005 ボビー・バレンタイン

          2006 王貞治

          2007 落合博満

          2008 渡辺久信

          2009 原辰徳

          2010 西村徳文

          2011 秋山幸二

          2012 原辰徳, 阿部慎之助

          2013 星野仙一

          2014 秋山幸二

          2015 工藤公康

          2016 栗山英樹

          2017 デニス・サファテ

          2018 工藤公康

          2019 工藤公康

          2020 工藤公康

          2021 高津臣吾

          2022 中嶋聡

          2023 岡田彰布

          2024 三浦大輔

          2004 イチロー

          2013 田中将大

          2021 稲葉篤紀, 大谷翔平

          2022 村上宗隆

          2023 栗山英樹, 大谷翔平

          2024 大谷翔平

          1982 広岡達朗

          1983 青木功

          1984 山下泰裕

          1985 吉田義男

          1986 清原和博

          1987 岡本綾子

          1988 千代の富士貢

          1989 ラグビー日本代表

          1990 野茂英雄

          1991 中嶋悟

          1992 亀山努

          1993 三浦知良

          1994 長嶋茂雄

          1995 イチロー

          1996 伊達公子

          1997 中田英寿

          1998 清水宏保

          1999 松坂大輔

          2000 高橋尚子

          2001 イチロー

          2002 稲本潤一

          2003 松井秀喜

          2004 北島康介

          2005 武豊

          2006 WBC野球日本代表

          2007 中村俊輔

          2008 上野由岐子

          2009 原辰徳

          2010 本田圭佑

          2011 澤穂希

          2012 内村航平

          2013 上原浩治

          2014 羽生結弦

          2015 ラグビー日本代表

          2016 大谷翔平

          2017 桐生祥秀

          2018 大坂なおみ

          2019 ラグビー日本代表

          2020 藤井聡太

          2021 大谷翔平

          2022 井上尚弥

          2023 栗山英樹・WBC日本代表

          1950 小西得郎

          1951 水原茂

          1952 水原茂

          1953 水原茂

          1954 天知俊一

          1955 水原円裕

          1956 水原円裕

          1957 水原円裕

          1958 水原円裕

          1959 水原円裕

          1960 三原脩

          1961 川上哲治

          1962 藤本定義

          1963 川上哲治

          1964 藤本定義

          1965 川上哲治

          1966 川上哲治

          1967 川上哲治

          1968 川上哲治

          1969 川上哲治

          1970 川上哲治

          1971 川上哲治

          1972 川上哲治

          1973 川上哲治

          1974 与那嶺要

          1975 古葉竹識

          1976 長嶋茂雄

          1977 長嶋茂雄

          1978 広岡達朗

          1979 古葉竹識

          1980 古葉竹識

          1981 藤田元司

          1982 近藤貞雄

          1983 藤田元司

          1984 古葉竹識

          1985 吉田義男

          1986 阿南準郎

          1987 王貞治

          1988 星野仙一

          1989 藤田元司

          1990 藤田元司

          1991 山本浩二

          1992 野村克也

          1993 野村克也

          1994 長嶋茂雄

          1995 野村克也

          1996 長嶋茂雄

          1997 野村克也

          1998 権藤博

          1999 星野仙一

          2000 長嶋茂雄

          2001 若松勉

          2002 原辰徳

          2003 星野仙一

          2004 落合博満

          2005 岡田彰布

          2006 落合博満

          2007 原辰徳

          2008 原辰徳

          2009 原辰徳

          2010 落合博満

          2011 落合博満

          2012 原辰徳

          2013 原辰徳

          2014 原辰徳

          2015 真中満

          2016 緒方孝市

          2017 緒方孝市

          2018 緒方孝市

          2019 原辰徳

          2020 原辰徳

          2021 高津臣吾

          2022 髙津臣吾

          2023 岡田彰布

          2024 阿部慎之助

          1950 湯浅禎夫

          1951 水原茂

          1952 水原茂

          1953 水原茂

          1954 天知俊一

          1955 水原円裕

          1956 三原脩

          1957 三原脩

          1958 三原脩

          1959 鶴岡一人

          1960 三原脩

          1961 川上哲治

          1962 水原茂

          1963 川上哲治

          1964 鶴岡一人

          1965 川上哲治

          1966 川上哲治

          1967 川上哲治

          1968 川上哲治

          1969 川上哲治

          1970 川上哲治

          1971 川上哲治

          1972 川上哲治

          1973 川上哲治

          1974 金田正一

          1975 上田利治

          1976 上田利治

          1977 上田利治

          1978 広岡達朗

          1979 古葉竹識

          1980 古葉竹識

          1981 藤田元司

          1982 広岡達朗

          1983 広岡達朗

          1984 古葉竹識

          1985 吉田義男

          1986 森祇晶

          1987 森祇晶

          1988 森祇晶

          1989 藤田元司

          1990 森祇晶

          1991 森祇晶

          1992 森祇晶

          1993 野村克也

          1994 長嶋茂雄

          1995 野村克也

          1996 仰木彬

          1997 野村克也

          1998 権藤博

          1999 王貞治

          2000 長嶋茂雄

          2001 若松勉

          2002 原辰徳

          2003 王貞治

          2004 伊東勤

          2005 ボビー・バレンタイン

          2006 トレイ・ヒルマン

          2007 落合博満

          2008 渡辺久信

          2009 原辰徳

          2010 西村徳文

          2011 秋山幸二

          2012 原辰徳

          2013 星野仙一

          2014 秋山幸二

          2015 工藤公康

          2016 栗山英樹

          2017 工藤公康

          2018 工藤公康

          2019 工藤公康

          2020 工藤公康

          2021 高津臣吾

          2022 中嶋聡

          2023 岡田彰布

          2024 三浦大輔

          1950 別当薫

          1951 南村不可止

          1952 別所毅彦

          1953 川上哲治

          1954 杉下茂

          1955 別所毅彦

          1956 豊田泰光

          1957 大下弘

          1958 稲尾和久

          1959 杉浦忠

          1960 近藤昭仁

          1961 宮本敏雄

          1962 土橋正幸, 種茂雅之

          1963 長嶋茂雄

          1964 J.スタンカ

          1965 長嶋茂雄

          1966 柴田勲

          1967 森昌彦

          1968 高田繁

          1969 長嶋茂雄

          1970 長嶋茂雄

          1971 末次民夫

          1972 堀内恒夫

          1973 堀内恒夫

          1974 弘田澄男

          1975 山口高志

          1976 福本豊

          1977 山田久志

          1978 大杉勝男

          1979 高橋慶彦

          1980 J.ライトル

          1981 西本聖

          1982 東尾修

          1983 大田卓司

          1984 長嶋清幸

          1985 R.バース

          1986 工藤公康

          1987 工藤公康

          1988 石毛宏典

          1989 駒田徳広

          1990 O.デストラーデ

          1991 秋山幸二

          1992 石井丈裕

          1993 川崎憲次郎

          1994 槙原寛己

          1995 T.オマリー

          1996 T.ニール

          1997 古田敦也

          1998 鈴木尚典

          1999 秋山幸二

          2000 松井秀喜

          2001 古田敦也

          2002 二岡智宏

          2003 杉内俊哉

          2004 石井貴

          2005 今江敏晃

          2006 稲葉篤紀

          2007 中村紀洋

          2008 岸孝之

          2009 阿部慎之助

          2010 今江敏晃

          2011 小久保裕紀

          2012 内海哲也

          2013 美馬学

          2014 内川聖一

          2015 李大浩

          2016 B.レアード

          2017 D.サファテ

          2018 甲斐拓也

          2019 Y.グラシアル

          2020 栗原陵矢

          2021 中村悠平

          2022 杉本裕太郎

          2023 近本光司

          2024 桑原将志

          1957 豊田泰光

          1958 中西太

          1959 杉山光平

          1960 近藤和彦

          1961 塩原明

          1962 岩下光一

          1963 王貞治

          1964 K.ハドリ

          1965 林俊彦

          1966 長嶋茂雄

          1967 D.スペンサー

          1968 柴田勲

          1969 足立光宏

          1970 黒江透修

          1971 黒江透修

          1972 長嶋茂雄

          1973 高田繁

          1974 山崎裕之

          1975 中沢伸二, 外木場義郎

          1976 B.ウイリアムス

          1977 福本豊

          1978 若松勉

          1979 水谷実雄

          1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

          1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

          1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

          1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

          1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

          1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

          1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

          1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

          1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

          1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

          1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

          1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

          1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

          1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

          1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

          1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

          1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

          1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

          1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

          1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

          2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

          2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

          2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

          2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

          2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

          2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

          2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

          2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

          2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

          2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

          2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

          2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

          2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

          2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

          2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

          2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

          2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

          2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

          2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

          2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

          2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

          2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

          2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

          2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

          2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

          1952 与那嶺要

          1953 川上哲治

          1954 日比野武

          1955 飯田徳治

          1956 豊田泰光

          1957 大下弘

          1958 豊田泰光

          1959 寺田陽介

          1960 金光秀憲

          1961 宮本敏雄

          1962 吉田義男

          1963 城戸則文

          1964 山内一弘

          1965 森昌彦

          1966 柴田勲

          1967 森本潔

          1968 D.スペンサー

          1969 長嶋茂雄

          1970 長嶋茂雄

          1971 末次民夫

          1972 王貞治

          1973 末次民夫

          1974 有藤通世

          1975 大橋穣

          1976 福本豊, 柴田勲

          1977 張本勲

          1978 島谷金二

          1979 高橋慶彦

          1950 小鶴誠

          1951 川上哲治

          1952 別所毅彦

          1953 大友工

          1954 杉下茂

          1955 川上哲治

          1956 別所毅彦

          1957 与那嶺要

          1958 藤田元司

          1959 藤田元司

          1960 秋山登

          1961 長嶋茂雄

          1962 村山実

          1963 長嶋茂雄

          1964 王貞治

          1965 王貞治

          1966 長嶋茂雄

          1967 王貞治

          1968 長嶋茂雄

          1969 王貞治

          1970 王貞治

          1971 長嶋茂雄

          1972 堀内恒夫

          1973 王貞治

          1974 王貞治

          1975 山本浩二

          1976 王貞治

          1977 王貞治

          1978 若松勉

          1979 江夏豊

          1980 山本浩二

          1981 江川卓

          1982 中尾孝義

          1983 原辰徳

          1984 衣笠祥雄

          1985 R.バース

          1986 北別府学

          1987 山倉和博

          1988 郭源治

          1989 W.クロマティ

          1990 斎藤雅樹

          1991 佐々岡真司

          1992 J.ハウエル

          1993 古田敦也

          1994 桑田真澄

          1995 T.オマリー

          1996 松井秀喜

          1997 古田敦也

          1998 佐々木主浩

          1999 野口茂樹

          2000 松井秀喜

          2001 R.ペタジーニ

          2002 松井秀喜

          2003 井川慶

          2004 川上憲伸

          2005 金本知憲

          2006 福留孝介

          2007 小笠原道大

          2008 A.ラミレス

          2009 A.ラミレス

          2010 和田一浩

          2011 浅尾拓也

          2012 阿部慎之助

          2013 W.バレンティン

          2014 菅野智之

          2015 山田哲人

          2016 新井貴浩

          2017 丸佳浩

          2018 丸佳浩

          2019 坂本勇人

          2020 菅野智之

          2021 村上宗隆

          2022 村上宗隆

          2023 村上頌樹

          1950 大島信雄

          1951 松田清

          1952 佐藤孝夫

          1953 権藤正利

          1954 広岡達朗

          1955 西村一孔

          1956 秋山登

          1957 藤田元司

          1958 長嶋茂雄

          1959 桑田武

          1960 堀本律雄

          1961 権藤博

          1962 城之内邦雄

          1964 高橋重行

          1966 堀内恒夫

          1967 武上四郎

          1968 高田繁

          1969 田淵幸一

          1970 谷沢健一

          1971 関本四十四

          1972 安田猛

          1974 藤波行雄

          1976 田尾安志

          1977 斉藤明雄

          1978 角三男

          1979 藤沢公也

          1980 岡田彰布

          1981 原辰徳

          1982 津田恒美

          1983 槙原寛己

          1984 小早川毅彦

          1985 川端順

          1986 長冨浩志

          1987 荒井幸雄

          1988 立浪和義

          1989 笘篠賢治

          1990 与田剛

          1991 森田幸一

          1992 久慈照嘉

          1993 伊藤智仁

          1994 藪恵市

          1995 山内泰幸

          1996 仁志敏久

          1997 澤﨑俊和

          1998 川上憲伸

          1999 上原浩治

          2000 金城龍彦

          2001 赤星憲広

          2002 石川雅規

          2003 木佐貫洋

          2004 川島亮

          2005 青木宣親

          2006 梵英心

          2007 上園啓史

          2008 山口鉄也

          2009 松本哲也

          2010 長野久義

          2011 澤村拓一

          2012 野村祐輔

          2013 小川泰弘

          2014 大瀬良大地

          2015 山﨑康晃

          2016 髙山俊

          2017 京田陽太

          2018 東克樹

          2019 村上宗隆

          2020 森下暢仁

          2021 栗林良吏

          2022 大勢

          2023 村上頌樹

          1950 藤村富美男

          1951 川上哲治

          1952 西沢道夫

          1953 川上哲治

          1954 与那嶺要

          1955 川上哲治

          1956 与那嶺要

          1957 与那嶺要

          1958 田宮謙次郎

          1959 長嶋茂雄

          1960 長嶋茂雄

          1961 長嶋茂雄

          1962 森永勝治

          1963 長嶋茂雄

          1964 江藤慎一

          1965 江藤慎一

          1966 長嶋茂雄

          1967 中暁生

          1968 王貞治

          1969 王貞治

          1970 王貞治

          1971 長嶋茂雄

          1972 若松勉

          1973 王貞治

          1974 王貞治

          1975 山本浩二

          1976 谷沢健一

          1977 若松勉

          1978 水谷実雄

          1979 F.ミヤーン

          1980 谷沢健一

          1981 藤田平

          1982 長崎啓二

          1983 真弓明信

          1984 篠塚利夫

          1985 R.バース

          1986 R.バース

          1987 篠塚利夫, 正田耕三

          1988 正田耕三

          1989 W.クロマティ

          1990 J.パチョレック

          1991 古田敦也

          1992 J.ハウエル

          1993 T.オマリー

          1994 A.パウエル

          1995 A.パウエル

          1996 A.パウエル

          1997 鈴木尚典

          1998 鈴木尚典

          1999 R.ローズ

          2000 金城龍彦

          2001 松井秀喜

          2002 福留孝介

          2003 今岡誠

          2004 嶋重宣

          2005 青木宣親

          2006 福留孝介

          2007 青木宣親

          2008 内川聖一

          2009 A.ラミレス

          2010 青木宣親

          2011 長野久義

          2012 阿部慎之助

          2013 T.ブランコ

          2014 M.マートン

          2015 川端慎吾

          2016 坂本勇人

          2017 宮﨑敏郎

          2018 D.ビシエド

          2019 鈴木誠也

          2020 佐野恵太

          2021 鈴木誠也

          2022 村上宗隆

          2023 宮﨑敏郎

          2024 T.オースティン

          1950 小鶴誠

          1951 青田昇

          1952 杉山悟

          1953 藤村富美男

          1954 青田昇

          1955 町田行彦

          1956 青田昇

          1957 青田昇, 佐藤孝夫

          1958 長嶋茂雄

          1959 桑田武, 森徹

          1960 藤本勝巳

          1961 長嶋茂雄

          1962 王貞治

          1963 王貞治

          1964 王貞治

          1965 王貞治

          1966 王貞治

          1967 王貞治

          1968 王貞治

          1969 王貞治

          1970 王貞治

          1971 王貞治

          1972 王貞治

          1973 王貞治

          1974 王貞治

          1975 田淵幸一

          1976 王貞治

          1977 王貞治

          1978 山本浩二

          1979 掛布雅之

          1980 山本浩二

          1981 山本浩二

          1982 掛布雅之

          1983 山本浩二, 大島康徳

          1984 宇野勝, 掛布雅之

          1985 R.バース

          1986 R.バース

          1987 ランス

          1988 C.ポンセ

          1989 L.パリッシュ

          1990 落合博満

          1991 落合博満

          1992 J.ハウエル

          1993 江藤智

          1994 大豊泰昭

          1995 江藤智

          1996 山崎武司

          1997 D.ホージー

          1998 松井秀喜

          1999 R.ペタジーニ

          2000 松井秀喜

          2001 R.ペタジーニ

          2002 松井秀喜

          2003 A.ラミレス, T.ウッズ

          2004 T.ローズ, T.ウッズ

          2005 新井貴浩

          2006 T.ウッズ

          2007 村田修一

          2008 村田修一

          2009 T.ブランコ

          2010 A.ラミレス

          2011 W.バレンティン

          2012 W.バレンティン

          2013 W.バレンティン

          2014 B.エルドレッド

          2015 山田哲人

          2016 筒香嘉智

          2017 A.ゲレーロ

          2018 N.ソト

          2019 N.ソト

          2020 岡本和真

          2021 村上宗隆, 岡本和真

          2022 村上宗隆

          2023 岡本和真

          2024 村上宗隆

          1950 小鶴誠

          1951 青田昇

          1952 西沢道夫

          1953 藤村富美男

          1954 杉山悟, 渡辺博之

          1955 川上哲治

          1956 宮本敏雄

          1957 宮本敏雄

          1958 長嶋茂雄

          1959 森徹

          1960 藤本勝巳

          1961 桑田武

          1962 王貞治

          1963 長嶋茂雄

          1964 王貞治

          1965 王貞治

          1966 王貞治

          1967 王貞治

          1968 長嶋茂雄

          1969 長嶋茂雄

          1970 長嶋茂雄

          1971 王貞治

          1972 王貞治

          1973 王貞治

          1974 王貞治

          1975 王貞治

          1976 王貞治

          1977 王貞治

          1978 王貞治

          1979 山本浩二

          1980 山本浩二

          1981 山本浩二

          1982 掛布雅之

          1983 原辰徳

          1984 衣笠祥雄

          1985 R.バース

          1986 R.バース

          1987 C.ポンセ

          1988 C.ポンセ

          1989 落合博満

          1990 落合博満

          1991 広沢克己

          1992 L.シーツ

          1993 広沢克己, R.ローズ

          1994 大豊泰昭

          1995 江藤智

          1996 L.ロペス

          1997 L.ロペス

          1998 松井秀喜

          1999 R.ローズ

          2000 松井秀喜

          2001 R.ペタジーニ

          2002 松井秀喜

          2003 A.ラミレス

          2004 金本知憲

          2005 今岡誠

          2006 T.ウッズ

          2007 A.ラミレス

          2008 A.ラミレス

          2009 T.ブランコ

          2010 A.ラミレス

          2011 新井貴浩

          2012 阿部慎之助

          2013 T.ブランコ

          2014 M.ゴメス

          2015 畠山和洋

          2016 筒香嘉智

          2017 J.ロペス

          2018 W.バレンティン

          2019 N.ソト

          2020 岡本和真

          2021 岡本和真

          2022 村上宗隆

          2023 牧秀悟

          2024 村上宗隆

           投  金田正一

           捕  藤尾茂

           一  川上哲治

           二  井上登

           三  長嶋茂雄

           遊  吉田義男

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           投  藤田元司

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           三  長嶋茂雄

           遊  吉田義男

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           投  秋山登

           捕  土井淳

           一  近藤和彦

           二  井上登

           三  長嶋茂雄

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           外  近藤和彦 / 並木輝男 / 森永勝治

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           一  王貞治

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           三  長嶋茂雄

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           外  江藤慎一 / 近藤和彦 / 重松省三

           投  村山実

           捕  森昌彦

           一  王貞治

           二  高木守道

           三  長嶋茂雄

           遊  吉田義男

           外  江藤慎一 / 近藤和彦 / 中暁生

           投  村山実

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           二  土井正三

           三  長嶋茂雄

           遊  黒江透修

           外  江藤慎一 / D.ロバーツ / 山内一弘

           投  高橋一三

           捕  木俣達彦

           一  王貞治

           二  土井正三

           三  長嶋茂雄

           遊  藤田平

           外  高田繁 / D.ロバーツ / 山本一義

           投  平松政次

           捕  木俣達彦

           一  王貞治

           二  安藤統夫

           三  長嶋茂雄

           遊  藤田平

           外  高田繁 / 江尻亮 / 中暁生

           投  平松政次

           捕  木俣達彦

           一  王貞治

           二  国貞泰汎

           三  長嶋茂雄

           遊  藤田平

           外  柴田勲 / 高田繁 / 水谷実雄

           投  堀内恒夫

           捕  田淵幸一

           一  王貞治

           二  J.シピン

           三  長嶋茂雄

           遊  三村敏之

           外  柴田勲 / 高田繁 / 若松勉

           投  高橋一三

           捕  田淵幸一

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           二  J.シピン

           三  長嶋茂雄

           遊  藤田平

           外  若松勉 / 柴田勲 / 江尻亮

           投  堀内恒夫

           捕  田淵幸一

           一  王貞治

           二  高木守道

           三  長嶋茂雄

           遊  藤田平

           外  G.マーチン / 末次利光 / 若松勉

          1972 長嶋茂雄

          1973 長嶋茂雄, C.ボイヤー

          1974 C.ボイヤー

          1975 島谷金二

          1976 高田繁

          1977 高田繁

          1978 掛布雅之

          1979 掛布雅之

          1980 衣笠祥雄

          1981 掛布雅之

          1982 掛布雅之

          1983 掛布雅之

          1984 衣笠祥雄

          1985 掛布雅之

          1986 衣笠祥雄

          1987 原辰徳

          1988 原辰徳

          1989 W.ロードン

          1990 岡崎郁

          1991 角富士夫

          1992 T.オマリー

          1993 石井琢朗

          1994 石井琢朗

          1995 石井琢朗

          1996 江藤智

          1997 進藤達哉

          1998 進藤達哉

          1999 進藤達哉

          2000 岩村明憲

          2001 岩村明憲

          2002 岩村明憲

          2003 立浪和義

          2004 岩村明憲

          2005 岩村明憲

          2006 岩村明憲

          2007 中村紀洋

          2008 中村紀洋

          2009 宮本慎也

          2010 宮本慎也

          2011 宮本慎也

          2012 宮本慎也

          2013 村田修一

          2014 村田修一

          2015 川端慎吾

          2016 村田修一

          2017 鳥谷敬

          2018 宮﨑敏郎

          2019 高橋周平

          2020 高橋周平

          2021 岡本和真

          2022 岡本和真

          2023 宮﨑敏郎

          2024 坂本勇人

          3 長嶋茂雄

          33 中畑清

          32 大野豊

          31 高木豊

          11 木佐貫洋

          13 岩瀬仁紀

          15 黒田博樹

          16 安藤優也

          18 松坂大輔

          19 上原浩治

          21 和田毅

          30 小林雅英

          61 石井弘寿

          8 谷繁元信

          9 城島健司

          2 小笠原道大

          6 宮本慎也

          7 松井稼頭央

          17 二岡智宏

          48 井端弘和

          1 福留孝介

          5 和田一浩

          10 谷佳知

          23 木村拓也

          24 高橋由伸

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          長嶋茂雄

          日本の野球選手

          立教大学野球部の選手

          読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手

          首位打者 (NPB)

          本塁打王 (NPB)

          打点王 (NPB)

          セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB)

          最優秀選手 (NPB)

          NPBオールスターゲーム選出選手

          日本の野球監督

          読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の監督

          日本の野球殿堂表彰者

          日本プロ野球永久欠番保持者

          プロ野球チームの経営者

          野球解説者

          文化功労者

          文化勲章受章者

          名球会

          国民栄誉賞受賞者

          名誉都民

          聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者

          報知新聞社の人物

          NHK紅白歌合戦審査員

          成田空港問題に関連する人物

          日本のアメリカンフットボールに関する人物

          日本のゴルフに関する人物

          日本のトライアスロンに関する人物

          日本のタレント

          登録商標

          千葉氏

          私の履歴書の登場人物

          千葉県立佐倉高等学校出身の人物

          千葉県出身のスポーツ選手

          1936年生

          存命人物

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2024/11/21 17:18更新

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