篠塚和典の情報(しのづかかずのり) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
篠塚 和典さんについて調べます
■名前・氏名 |
篠塚和典と関係のある人
落合博満: 巨人移籍時には6を既に篠塚和典が使用していたため、6に0をくっつけた60を使用した(篠塚が引退した翌1995年からは6に変更)。 小桧山雅仁: 初奪三振:同上、5回裏に篠塚和典から 門奈哲寛: 同じ新人の伊藤智仁が16奪三振のセリーグタイ記録ながら篠塚和典にサヨナラホームランを浴びた試合では、巨人側の先発は門奈であり8回2/3を無失点に抑えている。 義田貴士: プロデューサーやディレクターとしても、取材対象だった巨人の選手篠塚和典・原辰徳・宮本和知の引退ドキュメント番組等に関わる。 三浦大輔: 「横浜大洋ホエールズ」としては最後の公式戦で、篠塚和典から三振を奪うなど打者6人を完璧に抑えた。 福浦和也: この頃はテレビで巨人の試合をよく観ていて、篠塚和典や吉村禎章らに注目していた。 斉藤一之: 1974年の第56回全国高等学校野球選手権大会には土屋正勝投手、三塁手で4番打者の篠塚利夫(現 篠塚和典)を擁して念願の全国優勝を果たす。 イチロー: バットはミズノの篠塚和典モデルがベースであるという。 福良淳一: 1994年4月13日の対日本ハム戦で篠塚和典と白井一幸の持つ当時の日本記録550に並ぶときは意識したが、その後はプレッシャーを感じなかったという。 原辰徳: 斉藤雅樹も投手コーチで招聘し、留任した篠塚和典を総合コーチに、吉村禎章を打撃コーチ、鈴木康友を内野守備走塁コーチ、西岡良洋を外野守備走塁コーチ、村田真一をバッテリーコーチに迎えるなどした。 秦真司: ちなみにこの試合で篠塚和典に「疑惑の本塁打」を打たれており、内藤尚行-秦のバッテリーに対し、野村はこの一球の配球に対しても問題視していた。 藤本修二: ^ 【篠塚和典】中西清起を苦しめた巨人屈指の巧打者‼︎【池田親興】 - YouTube 伊藤智仁: 6月9日の石川県立野球場での対巨人戦では8回まで無失点、更にセ・リーグタイ記録である16奪三振を挙げるが、0-0で迎えた9回裏の二死から篠塚和典にソロ本塁打を打たれサヨナラ負けを喫する。 久保竜彦: 読売ジャイアンツのファンで、篠塚和典の守備センスに憧れていた。 斉藤一之: 篠塚和典 山下末則: 東京ドーム)や、1993年6月9日伊藤智仁が当時セ・リーグタイ記録の16奪三振記録達成後の初球を篠塚和典選手がサヨナラホームランにした試合。 潮崎哲也: 5月24日の対巨人戦の始球式では巨人一軍打撃コーチの篠塚和典と対決し、左中間へのヒットを打たれた。 折原啓子: 映画プロデューサーの三上訓利は夫、元・プロ野球選手の篠塚和典は義息(篠塚の妻・嘉津子が実娘)、俳優の三上博史は甥、篠塚宜政(Honda硬式野球部公式ホームページより)は孫(折原の急逝後に生まれた)である。 石井琢朗: 首脳陣からは「桑田二世」などと評価され、投手として将来を嘱望されたが、二軍(イースタン・リーグ)では好投するものの一軍で結果を残せず、また本人も篠塚和典に憧れるなどプロ入り当初から野手志望であり、3年目(1991年)のオフに須藤豊監督に野手転向を申し出る。 武宮敏明: 1967年に合宿所が新丸子から川崎市のよみうりランド近傍に移転した後も、当時の新人選手であった河埜和正、定岡正二、西本聖、篠塚利夫(現:篠塚和典)、原辰徳、駒田徳広、吉村禎章を厳しく指導して行った。 大島公一: 闘志あふれるプレーが魅力で、同じような体格の正田耕三や、細身だった篠塚和典のプレーに注目し、参考になる面も多かったという。 齊藤明雄: 苦手にしていた打者は読売ジャイアンツの篠塚和典と広島東洋カープの高橋慶彦であった。 湯舟敏郎: 初奪三振:同上、1回表に篠塚和典から 郭源治: 9月15日の対巨人戦では、初回ランナー1,2塁の場面で篠塚和典の犠打を悪送球。 ダルビッシュ有: この試合で篠塚和典が伊藤智仁からサヨナラ本塁打を打ち、選手の喜ぶ場面を見たことが後に野球を始めるきっかけとなった。 武宮敏明: 篠塚和典が未成年の頃、喫煙を見つけた武宮は「20歳になるまでタバコは吸いません」と毎日100回1ヶ月連続で書かせた(篠塚のブログによる)。 ウォーレン=クロマティ: だが篠塚和典の証言によると、この都市の日本シリーズで恥をかいて以来クロマティは大いに反省して守備の意識改革が起こり、守備練習も真面目に行うようになったという。 岡田忠雄: ^ 同期・篠塚和典が語る逮捕された「元巨人ドラ2岡田忠雄」の素顔 | FRIDAYデジタル 静恵一: 尊敬する人はジャイアンツの二遊間レジェンド、篠塚和典、川相昌弘。 高橋尚成: 巨人ファンの両親の影響で子どもの頃から巨人を応援し、左利きであったため自分が守れないポジションを守る篠塚和典に憧れていた。 |
篠塚和典の情報まとめ
篠塚 和典(しのづか かずのり)さんの誕生日は1957年7月16日です。千葉出身の野球選手のようです。
引退、テレビ、映画、卒業、病気、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。篠塚和典の現在の年齢は67歳のようです。
篠塚和典のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 篠塚 和典(しのづか かずのり、本名・旧登録名:篠塚 利夫〈しのづか としお〉1957年〈昭和32年〉7月16日 - )は、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)・コーチ、解説者・評論家。 愛称は「シノ」「シノさん」。 銚子商業校2年次に3年生エースの土屋正勝を擁し、春夏の甲子園大会では「4番・三塁手」として連続出場。春は準々決勝で報徳学園に2-1で惜敗。夏は全試合勝ち進み、8月19日の決勝で防府商を7-0で降し同校初の夏の大会優勝を飾った。この大会から金属バットが導入されたが篠塚はプロ野球の道に進んだ時に適応できるように木製バットで打席に入り、2本塁打を放った。1学年後輩に宇野勝がいた。 翌年夏の千葉大会は準決勝で小川淳司のいた習志野に1-2で敗退。習志野は夏の甲子園で優勝し、2年連続で千葉県勢が連覇を果たした。 夏の大会優勝の後に湿性肋膜炎に患い、3か月間入院した。一時は野球生命まで危ぶまれたも、半年後に復帰。病室での静養中はベッドから天井をめがけて延々とスローイングの練習を行って、指先の感覚を養い肘の出し方を覚えた。読売ジャイアンツの監督だった長嶋茂雄に見込まれ、1975年に開催されたドラフト会議にて巨人から1位指名を受けて入団。 プロ2年目の1977年に初の一軍昇格。1979年には一軍に定着。主に二塁手、遊撃手として18試合に先発出場。同年オフ、地獄の伊東キャンプに参加した。翌1980年にはジョン・シピンと二塁手の定位置を争い、6月にはレギュラーを奪取して2番打者に座る。 監督が藤田元司に代わった1981年、開幕当初はルーキーであった原辰徳が二塁を守ったため出場機会が減少。しかし5月には三塁手の中畑清が怪我、原が三塁に回り、篠塚が二塁手のレギュラーに復帰した。以降は主に3番打者としてクリーンナップの一角を担い、内野陣が固定された。阪神タイガースの藤田平との首位打者争いで超接戦と言われるほどの打率差の勝負をし続け、最終的にわずか1厘差でタイトルを逃すも自身キャリアハイとなる.357を記録。日本ハムファイターズとの日本シリーズでは4試合に先発出場。第5戦では8回裏に木田勇から駄目押しの3点本塁打を放ち、最終第6戦では2回表に間柴茂有から先制適時打、勝利打点を記録した。最後のV9となる1973年以来、8年ぶり16回目の日本一に貢献した。 監督が王貞治に代わった1984年、3番篠塚、4番原、5番レジー・スミス、6番ウォーレン・クロマティ、7番中畑の打順が多く起用された。打率.334、12本塁打で自身初の首位打者に輝き、さらに35二塁打もリーグ最多だった。 1987年に広島東洋カープの正田耕三と同率で2度目の首位打者を獲得した。同率での首位打者は1969年の近鉄バファローズ:永淵洋三と東映フライヤーズ:張本勲に次ぐNPB史上2度目・セ・リーグ初であった(いずれも打率は.333)。正田とは同じ二塁手であり、ベストナインも注目されたがチーム順位、安打数、本塁打数が正田を上回る篠塚が受賞した。 西武ライオンズとの日本シリーズでは最後の打者だったが、この年を最後に後楽園球場での主催試合が終了したため、後楽園球場にて最後の打者となった。この年の日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退したが篠塚は打率.409(22打数9安打)3打点1本塁打の活躍で、日本シリーズ敢闘賞を受賞している。 選手晩年の1990年から1994年まで持病である腰痛の悪化などもあり、若手の緒方耕一が二塁を守る機会が多くなったことなどから規定打席未到達となる300打席前後の出場となった。1991年8月には出場機会の減少に対しての不満から「必要じゃなければトレードに出してほしい」とある夕刊紙にて発言。同月19日に球団から首脳陣批判の言動を理由に厳重注意と罰金100万円の処分を受けた。 1992年7月1日から登録名を「篠塚 利夫」から「篠塚 和典」(しのづか かずのり)に変更した。「『利夫という名前には分裂、分離の意味がある』ということで知り合いの内気功の先生から勧められた」という。 1993年、66試合で打率.337、4本塁打、23打点を記録。5月15日の対広島戦で1991年7月以来2年ぶりの本塁打となる自身通算3本目の満塁本塁打を放つ。6月9日の対ヤクルトスワローズ戦(石川県立野球場)では、8回2/3まで無失点、16奪三振(当時のセ・リーグタイ記録)の投球を続けていたルーキー伊藤智仁から9回二死にサヨナラ本塁打を放った。この試合はスタメンを外れており、ベンチから伊藤の投球を見て「みんな、スライダーかフォークでやられている」と観察していた。抑え投手の石毛博史がブルペンで投球練習を開始すると、打席に立って目を慣らした。9回表に二塁手として途中出場し、その裏に初打席を迎えた。間合いを取るために2度打席を外したが、その間に「何かグッとくるものがあった」と言い、伊藤の初球を右中間スタンドへ運んだ。 1994年は持病である腰痛が悪化の影響もあり57試合に出場して打率.238、2本塁打、13打点の成績にとどまる。シーズン終了後に現役続行か引退するかで悩むが、チーム事情と今後の野球人生を考え「過去にしがみつくより惜しまれながらやめたい」として、この年限りでの現役引退を決断した。 引退した翌1995年から2003年までは巨人一軍打撃コーチ、一軍内野守備コーチ、一軍内野守備兼走塁コーチ、一軍総合コーチを歴任した。2004年から2005年までは日本テレビ・ラジオ日本野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めた。 2006年に巨人一軍内野守備兼走塁コーチに就任。2007年から2010年まで一軍打撃コーチを務め、2009年には第5回WBC日本代表の打撃コーチも兼任した。 2011年からは再び日本テレビ・ラジオ日本野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めている。2012年1月にはKBOのLGツインズ臨時コーチを務めた。 巧みなバットコントロールと華麗な守備で鳴らし、“芸術的”と言われるプレーで、シーズン打率も3割以上を5年連続も含め7回記録。通算打率も.3043とNPBにおける通算打率が4000打数以上の上位40選手のうち15位にランクインしている(2024年シーズン終了時点)。また、1981年の自身キャリアハイである.357は巨人の日本人野手としては1951年に川上哲治が記録した.377に次ぐ高打率となる。シーズン失策数も僅か2回のみの年があるなど、守備機会の多い二遊間の選手としては驚異的であった。 主に3番打者や2番打者、6番打者、選手晩年は1番打者などの打順を担った。本塁打は、最多の年でも13本、通算でも100本に満たない。クリーンナップの一角を担う3番打者としては、長打力が物足りなかった。シーズン2桁本塁打が2回のみ、通算本塁打率はNPBにおける通算打率が4000打数以上の上位40選手(15位、2024年シーズン終了時点)にランクインしている選手の中では最小の数字となっている。一方で、1980年代の二塁打数については中畑清、原辰徳を凌ぎチーム最多であり、典型的な中距離砲として一貫した選手であった。 高校時代は長距離砲だったが、湿性肋膜炎を患ったことで巨人以外の球団に指名を回避され、さらに細身の体をカバーするため阪神タイガースの藤田平の打撃を参考にし、のちに藤田とは首位打者争いを繰り広げた。 長打を狙う打撃に瞬時に切り替えたり、広角に打球を操る器用な選手で進塁打は操れるが、バントなどを売り物にしてはいなかったため、制約のある2番打者を任された1985年から1986年までは打率.307、.291と成績を落としている。1985年に26犠打を記録した。逆に、自由度の高かった1984年には.334で首位打者を獲得。1987年に首位打者を獲得した時もチームは優勝している。規定打席には9回到達しているが、腰痛持ちであり、夏場などにスタメンを外れていた。最後に規定打席に到達した1989年には、梅雨時に10数試合スタメンを外れている。1982年、1984年、1985年、1986年は520打席以上をクリアしており(当時は130試合制)、チームの選手の中で最も多く打席に立っていた年もある。 公式戦の通算打率は.304を記録しており、非公式戦であるオールスターゲームでの通算打率も.327(55打数18安打)を記録しており、日本シリーズでも1987年に打率.409を記録するも、日本シリーズ通算打率は.292(106打数31安打)で、あと1本安打を放っていれば、公式戦、オールスターゲーム、日本シリーズ全てで通算打率3割を達成できた(NPBでこの記録を達成している選手は鈴木尚典と長嶋茂雄のみであった)。 打撃理論・指導理論ともに理想のフォームを綿密に固めたうえで準備を整え、シンプルに「来た球を打つ」というスタイルである。 試合前の練習風景では、監督の原や打撃コーチの村田真一が若手・中堅選手を担当しているのに対して、不調時の小笠原道大やアレックス・ラミレスなどの主軸選手と笑顔でトス打撃の相手を務める様子が映っていた。また、2010年シーズン前半に打撃不振に陥っていたエドガー・ゴンザレスは、7月末頃から好調になったことについて8月13日の対横浜ベイスターズ14回戦(東京ドーム)後のヒーローインタビューで問われた際に「篠塚コーチとの打撃練習がいい形で実を結んでいる」と語った。 阿部慎之助、亀井義行、坂本勇人、高橋由伸、長野久義、二岡智宏らの選手を育てており、打撃不振の時における指導などをしていた。結果的に篠塚がコーチ時代にはチーム打率は常にリーグ上位だった。 第2次長嶋監督時代には長らく一軍内野守備コーチを担当していた。第1次原監督時代は一軍総合コーチを担当、原と共に攻撃面・作戦面を統括していた。 2024年に至るまでも篠塚が使用していたバット、グラブなどを基本にして自分モデルとして使用しているプロ選手も少なくなく、石井琢朗や立浪和義ら左のアベレージヒッターの多くは影響を受けたと語っている。特にイチローは篠塚モデルのバットをほとんど修正することなく使用していた。中日の立浪は少年時代に憧れた選手が篠塚であり、ルーキーイヤーの1988年に巨人戦で出塁した際二塁ベース上で「篠塚さんのバットをください」と声をかけたところ篠塚はそれに応え、試合後に中日ベンチまで届けたという。グラブは素手で掴むのに近いように小さめのものを愛用し、その感覚を大事にして手袋はせずに使用していた。そのため汗で痛んでしまい、数年ごとに替えていたという。 主に1950年代に活躍した映画プロデューサーで上原謙、金子信雄、高島忠夫、丹波哲郎らと親交があった三上訓利と女優の折原啓子は妻の父母で、俳優の三上博史は妻のいとこにあたる。 長男:宜政は和典と同じく右投左打の二塁手である。青山学院大学に在籍したのち、2012年春から社会人野球のHondaに所属。同年4月9日の対立教大学戦(明治神宮野球場)では2点リードの7回に代打で登場し、3球目のストレートを右翼スタンドへ社会人初本塁打を放った。2020年に開催された都市対抗の決勝戦にて一塁の守備固めで出場し、見事日本一に輝いた。 プロ入り前、元々本人は退院を経てすぐにプロ入りは体力的に厳しそうだと考えて高校卒業後は社会人野球の日本石油に進む方針を固めていたが、長嶋茂雄監督が球団幹部やスカウトに「体力的に無理」と反対するのを押し切らせて指名を決めたことから入団に至った。長嶋は篠塚が2年次の打撃をテレビ中継で観て惚れ込み、指名を決意したという。篠塚が聞いた話によると、長嶋は篠塚が入院した病院に電話を掛け、篠塚の病気が完治していることを確認した上で「他球団が問い合わせてきたら、まだ治っていないと言ってくれませんか」と頼んだという。上記のエピソードから、篠塚は引退までの間「長嶋さんに恥をかかせられない」という思いをプロ人生における原動力とした。 1982年9月15日の対中日ドラゴンズ23回戦(後楽園球場)にて、無死一・二塁の場面で篠塚が犠牲バントで走者を送った際、相手投手の郭源治が三塁へ悪送球し、外野へ転がったがその球を左翼手の大島康徳がトンネルし、さらに大島が追いかけて捕った球が三塁手に中継され本塁へ送球したが、捕手の中尾孝義が取り損ね、その間に打者走者の篠塚もホームインした(記録上は失策であったがランニング本塁打のような出来事だった)。このプレーはフジテレビ系列の雑学バラエティ番組『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で紹介され、VTRに篠塚本人は出演していなかったが、補足トリビアで「あの守備はプロとして恥ずかしいプレー。あってはならないことだと思う」とコメントしている。 1986年某日、槙原寛己が試合前に投球練習をしていたところ、篠塚もそこで遊びとして投球を始め、スライダーを投げた。そのスライダーを見て凄いと思った槙原は篠塚に握り方を教わり、その握りで試しに投げてみると「驚くほど横に滑るような感じで曲がった」という。それまでストレート主体の一本調子で、バックスクリーン3連発や9連勝ストップなど勝負どころでよい結果が残せなかった槙原が、その後、完全試合(槙原寛己の完全試合)を達成したり、1994年の日本シリーズで西武ライオンズを倒し日本シリーズMVPに輝くなど投球の幅を拡げるきっかけのひとつになったと言われている。 1987年10月18日の対広島東洋カープ最終戦(後楽園球場)、4回裏の打席で吉村禎章が放った30号本塁打が本来あり得ない「2ストライク4ボール」という珍プレーがあったが中畑清の談話にて、日本シリーズを前にした消化試合で吉村の打席には誰も興味がなく、ベンチで異変に気づいた選手は篠塚ひとりだったという。 線審が廃止となり審判員6人体制から4人体制になった1990年の開幕戦にて、ヤクルトスワローズに1-3と負けている8回裏、好投を続けていた内藤尚行から右翼ポール際への飛球を放ち、一塁審判員が本塁打と判定した。その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれはファウルでしたね」と発言している。原因はポールがボールと類似色の白い塗料で塗られていたため判定が非常にわかりづらかったことであり、この件はのちに東京ドームのポールは白から黄色(のちに橙色に再度変更)に塗り替えられた。 各年度の太字はリーグ最高 首位打者:2回(1984年、1987年) ベストナイン:5回(1981年、1982年、1984年、1986年、1987年) ゴールデングラブ賞:4回(1981年、1982年、1984年、1986年) 日本シリーズ敢闘賞:1回(1987年) 後楽園MVP賞:1回(1984年) 初出場・初先発出場:1977年8月5日、対大洋ホエールズ17回戦(川崎球場)、7番・遊撃手で先発出場 初安打:同上、5回表に斉藤明雄から 初打点:1978年10月4日、対阪神タイガース25回戦(後楽園球場)、6回裏に池内豊から 初本塁打:1980年5月5日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(後楽園球場)、9回裏に堀内恒夫の代打で出場、遠藤一彦から右越ソロ 1000本安打:1987年4月29日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤ球場)、3回表に川本智徳から適時打 ※史上147人目 1000試合出場:1987年7月4日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、6番・二塁手で先発出場 ※史上272人目 1500本安打:1991年7月10日、対広島東洋カープ16回戦(札幌市円山球場)、9回裏に長冨浩志から右前安打 ※史上61人目 1500試合出場:1992年8月20日、対横浜大洋ホエールズ21回戦(横浜スタジアム)、1番・二塁手で先発出場 ※史上103人目 オールスターゲーム出場:9回(1982年、1983年、1984年、1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1991年) 37(1976年 - 1978年) 6(1979年 - 1994年) 81(1995年 - 2003年、2006年 - 2010年) 篠塚 利夫(しのづか としお、1976年 - 1992年6月30日) 篠塚 和典(しのづか かずのり、1992年7月1日 - ) 熱球悲願 嵐をこえて(1981年、恒文社) ミスターがくれた19年(1995年、ベースボール・マガジン社) プロが教えるバッティング入門(2002年、大泉書店) 6歳からの広角打法(2007年、MCプレス) 篠塚和典 流し打ちの極意(2013年、ベースボール・マガジン社) 篠塚和典が教える広角打法(2019年、日東書院本社) RAINY HEART/黄昏にもう一度(1988年1月、バップ) ^ 2007年に小学生への指導経験から出版した「6歳からの広角打法」という指導書では、当初は「阪神ファンだったので藤田平さんに憧れていた」としている。 ^ この時のバットは、立浪の引退後も自宅に飾ってあると後年語っている。 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話(1/3ページ) Full-Count 2020年10月20日(2021年8月22日閲覧) ^ 「(2ページ目)宇野勝氏、本人が語った! 「ヘディング事件」や「掛布とのHR王争い」の真相」『AERA dot.』2020年6月12日。2024年6月10日閲覧。 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」 朝日新聞社編 1989年 ^ 長嶋監督が直電して病院に“懇願”…元巨人・篠塚氏の入団左右した高校時代の入院秘話(2/3ページ) Full-Count 2020.10.20 (2021年8月22日閲覧) ^ 今でも破られていない「6糸差」の首位打者争い 其の一34 ^ 【あの名場面の裏側】G戦士編 初のクリーンアップで猛打賞、名選手・篠塚の誕生 「二塁は原で決まり」の絶望感を打ち破る (1/3ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト ^ 読売新聞1991年8月20日21面「巨人・篠塚に罰金百万円」読売新聞1991年8月p.853 ^ 日刊スポーツ1992年7月1日2面 ^ 別冊ベースボール『よみがえる1990年代のプロ野球 PART9 1992年編』(2021年10月刊)76頁 ^ 読売新聞1993年5月16日21面「内角球にマト読みがズバリ」読売新聞縮刷版1993年5月p.579 ^ 読売新聞1993年6月10日17面「SBO たった1球失投 9回二死、篠塚逃さず」読売新聞縮刷版1993年6月p.457 ^ 読売新聞1994年11月16日18面「『惜しまれてやめます』篠塚」読売新聞縮刷版1994年11月p.776 ^ 【イチローの憧れ&驚き秘話】本物のプロはここまでこだわる!バット・グローブ論【篠塚モデル】【篠塚和典さん4/5】 ^ 【vol.6】イチローのバットの起源 バットの握りに隠された秘密とは ^ 数ある木の角材の中から、良質な一本を選び抜く。イチローがメジャーで3000回も響かせてきた快音は、バット職人の妥協なき姿勢が生んだものだった。 ^ テレビトリビア普及委員会2005" class="citation book cs-ja1">フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 11』講談社、2005年。 ^ 槙原寛己『パーフェクトとKOのあいだ ここ一番の投球心理』カッパ・ブックス、2002年、p.114 千葉県出身の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 篠塚和典 - NPB.jp 日本野球機構 篠塚和典監修野球教室・講演・取材:DreamJapanProject 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE 篠塚和典オフィシャルブログ 篠塚流 真剣(心健) 野球塾 - Ameba Blog 「歴代の安打製造機」は? 表 話 編 歴 83 原辰徳 72 伊東勤(総合) 71 山田久志(投手) 92 与田剛(投手) 81 篠塚和典(打撃) 63 高代延博(内野守備走塁) 73 緒方耕一(外野守備走塁) 11 ダルビッシュ有 14 馬原孝浩 15 田中将大 16 涌井秀章 18 松坂大輔 19 岩田稔 20 岩隈久志 22 藤川球児 26 内海哲也 28 小松聖 31 渡辺俊介 39 山口鉄也 47 杉内俊哉 2 城島健司 10 阿部慎之助 29 石原慶幸 5 栗原健太(追加招集) 6 中島裕之 7 片岡易之 8 岩村明憲 9 小笠原道大 25 村田修一(途中離脱) 52 川﨑宗則 1 福留孝介 23 青木宣親 24 内川聖一 35 亀井義行 41 稲葉篤紀 51 イチロー 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1950 藤村富美男 1951 川上哲治 1952 西沢道夫 1953 川上哲治 1954 与那嶺要 1955 川上哲治 1956 与那嶺要 1957 与那嶺要 1958 田宮謙次郎 1959 長嶋茂雄 1960 長嶋茂雄 1961 長嶋茂雄 1962 森永勝治 1963 長嶋茂雄 1964 江藤慎一 1965 江藤慎一 1966 長嶋茂雄 1967 中暁生 1968 王貞治 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 長嶋茂雄 1972 若松勉 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 山本浩二 1976 谷沢健一 1977 若松勉 1978 水谷実雄 1979 F.ミヤーン 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1982 長崎啓二 1983 真弓明信 1984 篠塚利夫 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 篠塚利夫, 正田耕三 1988 正田耕三 1989 W.クロマティ 1990 J.パチョレック 1991 古田敦也 1992 J.ハウエル 1993 T.オマリー 1994 A.パウエル 1995 A.パウエル 1996 A.パウエル 1997 鈴木尚典 1998 鈴木尚典 1999 R.ローズ 2000 金城龍彦 2001 松井秀喜 2002 福留孝介 2003 今岡誠 2004 嶋重宣 2005 青木宣親 2006 福留孝介 2007 青木宣親 2008 内川聖一 2009 A.ラミレス 2010 青木宣親 2011 長野久義 2012 阿部慎之助 2013 T.ブランコ 2014 M.マートン 2015 川端慎吾 2016 坂本勇人 2017 宮﨑敏郎 2018 D.ビシエド 2019 鈴木誠也 2020 佐野恵太 2021 鈴木誠也 2022 村上宗隆 2023 宮﨑敏郎 2024 T.オースティン 表 話 編 歴 投 江川卓 捕 山倉和博 一 藤田平 二 篠塚利夫 三 掛布雅之 遊 山下大輔 外 山本浩二 / J.ライトル / 田尾安志 表 話 編 歴 投 北別府学 捕 中尾孝義 一 谷沢健一 二 篠塚利夫 三 掛布雅之 遊 宇野勝 外 山本浩二 / 田尾安志 / 長崎啓二 表 話 編 歴 投 山根和夫 捕 達川光男 一 谷沢健一 二 篠塚利夫 三 衣笠祥雄 遊 宇野勝 外 山本浩二 / 山崎隆造 / 若松勉 表 話 編 歴 投 北別府学 捕 達川光男 一 R.バース 二 篠塚利夫 三 レオン.L 遊 高橋慶彦 外 山本浩二 / W.クロマティ / 吉村禎章 表 話 編 歴 投 桑田真澄 捕 山倉和博 一 R.バース 二 篠塚利夫 三 原辰徳 遊 宇野勝 外 W.クロマティ / 吉村禎章 / C.ポンセ 表 話 編 歴 1972 J.シピン 1973 J.シピン 1974 高木守道 1975 大下剛史 1976 D.ジョンソン 1977 高木守道 1978 土井正三 1979 高木守道 1980 基満男 1981 篠塚利夫 1982 篠塚利夫 1983 高木豊 1984 篠塚利夫 1985 岡田彰布 1986 篠塚利夫 1987 正田耕三 1988 正田耕三 1989 正田耕三 1990 正田耕三 1991 正田耕三 1992 和田豊 1993 和田豊 1994 和田豊 1995 立浪和義 1996 立浪和義 1997 立浪和義 1998 R.ローズ 1999 仁志敏久 2000 仁志敏久 2001 仁志敏久 2002 仁志敏久 2003 今岡誠 2004 荒木雅博 2005 荒木雅博 2006 荒木雅博 2007 荒木雅博 2008 荒木雅博 2009 荒木雅博 2010 平野恵一 2011 平野恵一 2012 田中浩康 2013 菊池涼介 2014 菊池涼介 2015 菊池涼介 2016 菊池涼介 2017 菊池涼介 2018 菊池涼介 2019 菊池涼介 2020 菊池涼介 2021 菊池涼介 2022 菊池涼介 2023 中野拓夢 2024 吉川尚輝 表 話 編 歴 1位:篠塚利夫 2位:岡田忠雄 3位:中畑清 4位:猪口明宏 5位:山本功児 6位:柿木孝哉(入団拒否) ISNI VIAF
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2024/11/22 12:30更新
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shinoduka kazunori
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