郭源治の情報(かくげんじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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山本幸二: 初安打:1985年4月26日、対中日ドラゴンズ3回戦(後楽園球場)、2回裏に郭源治から 山田和利: 入団時の背番号は33であったが、30番を着けていた郭源治がリーグを代表する投手であった江川卓と同じ番号であることを拒んで交換することとなった。 ゲーリー=レーシッチ: 同年に中日に入団したラルフ・ブライアントは、中日の外国人枠が、当時の制度でゲーリーと郭源治で埋まっていることとなって、同年シーズン中に近鉄バファローズからの申し入れによってトレードされるまで、一軍で出場できなかった。 佳久創: 9月6日放送の『爆報! THE フライデー』(TBS)では父・郭源治とテレビ初共演を果たした。 原伸次: 初本塁打:1985年6月19日、対中日ドラゴンズ9回戦(広島市民球場)、9回裏に郭源治からソロ 富坂聡: 郭源治『熱球 日本で愛され続けた台湾野球の風雲児が綴った「惜別の書」』(1997年、ザ・マサダ) 富永章敬: 1992年のオーストラリアキャンプで富永の投球を見た郭源治は、伸びのある速球を高く評価しており、投球フォームに関するアドバイスを精力的に送っていた。 森田幸一: 1993年は二軍キャンプからのスタートとなり、再びストッパーに抜擢されるが結果を残せず、郭源治にその座を追われる。 嶋田宗彦: 初安打:1985年7月31日、対中日ドラゴンズ14回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に郭源治から 岡崎郁: 初打点:1985年4月26日、対中日ドラゴンズ3回戦(後楽園球場)、3回裏に郭源治から適時打 中山裕章: 同年は新たにスライダーを会得したため、投球に余裕を持つことができるようになり、リーグ最多の70試合に登板し、10勝6敗24セーブ34セーブポイント・防御率2.28の成績を挙げ、中日ドラゴンズ・郭源治やロッテオリオンズ・牛島和彦に並び、「プロ野球を代表するストッパー」とうたわれた。 田代富雄: 150本塁打:1981年9月5日、対中日ドラゴンズ24回戦(ナゴヤ球場)、4回表に郭源治からソロ ※史上62人目 伊東勤: 同シリーズでは郭源治から日本一を決めるサヨナラ打を放っている。 富永章敬: 2年目の1992年1月には快速球を買われ、主力投手である郭源治・小松辰雄・与田剛らとともに、オーストラリアのゴールドコーストで開催された合同自主トレーニングのメンバーとして選抜された。 佳久創: 父は中日ドラゴンズや台湾プロ野球で活躍した元プロ野球選手の郭源治(佳久 源治)。 篠塚和典: 1982年、9月15日に後楽園球場で開催された中日ドラゴンズとの23回戦で無死一・二塁の場面で送りバントをした際、相手投手の郭源治が三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールを左翼手の大島康徳がトンネルし、さらに大島が追いかけて捕ったボールが三塁手に中継され本塁へ投げたが、捕手の中尾孝義が取り損ない、その間に打者走者の篠塚もホームインした(記録上は失策であったがランニング本塁打のような出来事だった)。 郭泰源: 台湾にプロ野球がない時代から日本プロ野球で活躍した台湾人選手の嚆矢として、郭源治や荘勝雄とともに二郭一荘と並び称された。 佐々木正行: 初安打:同上、郭源治から単打 中尾孝義: 前年6勝の都裕次郎が自己最多の16勝で最高勝率を獲得し、2勝0Sであった牛島和彦が7勝17S、2年目の郭源治が9勝を挙げるなど好成績を残した。 広澤克実: 200本塁打:1993年9月25日、対中日ドラゴンズ24回戦(明治神宮野球場)、10回裏に郭源治からサヨナラソロ ※史上64人目 山崎賢一: 初本塁打:1985年10月16日、対中日ドラゴンズ24回戦(ナゴヤ球場)、5回表に郭源治から2ラン ランディ=バース: 6月18日高野光から左翼へ16号ソロ(甲子園球場)、19日荒木大輔から右翼へ17号2ラン(甲子園)、20日郭源治から左翼ポールへ18号2ラン(甲子園)、21日鈴木孝政から左翼へ19号ソロ(甲子園)、22日平沼定晴の内角フォークを左翼へ20号2ラン(甲子園)、24日はルーキー桑田真澄が投じた114 km/hのド真ん中のカーブをバックスクリーン右へ21号2ラン(後楽園球場)、タイ記録達成の26日は5対5で迎えた8回表に球数120超の江川卓が投じたこの打席2球目136 km/hの真ん中の高さの内角直球を後楽園球場の右翼場外の釣具店の屋根まで運んだ飛距離約150mの決勝22号ソロ(通算138号)だった。 佳久創: ラグビー選手から俳優に転向した異色の経歴だが、父親の郭源治によると、元々俳優業にも興味があったといい、小さいころには兄・耀と芝居ごっこをして遊んでいたという。 小山伸一郎: それまで郭源治が着用していた背番号「33」をもらうなど期待された。 金森隆浩: 12月15日、過去に郭源治・松永幸男と中日選手を受け入れた実績のある統一ライオンズ(台湾プロ野球)へ1年契約で移籍することが決まり、同日付で中日を自由契約となった。 西田真二: 初本塁打・初打点:1983年6月18日、対中日ドラゴンズ10回戦(広島市民球場)、6回裏に北別府学の代打、郭源治から右越ソロ 片平哲也: 初出場:1987年9月27日、ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤ球場)、7回に郭源治の代打で出場、宮本賢治から四球 上原晃: 一軍に抜擢された後は、抑えの郭源治に繋ぐ前のセットアッパーを任せられ、8月7日にはプロ初勝利を挙げる。 佳久創: 台湾原住民族のアミ族である元プロ野球選手の父・郭源治と、日本人の母のハーフ。 岩瀬仁紀: 2007年は4月6日の横浜戦(ナゴヤドーム)で、郭源治の持つ球団記録を更新する117セーブ目を挙げた。 |
郭源治の情報まとめ
郭 源治(かく げんじ)さんの誕生日は1956年10月5日です。
現在、兄弟、卒業、結婚、事故、引退、事件、解散、家族、映画、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。郭源治の現在の年齢は68歳のようです。
郭源治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 郭 源治(クォ・ユェンツ、かく げんじ、1956年10月5日 - )は、台湾(中華民国)の台東県台東市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。台湾原住民族のアミ族で、1989年9月に日本へ帰化。2024年現在の本名は佳久 源治(読み同じ)。 アミ族の父・クムン(郭文志)と母・ブタル(林愛妹)の7人兄弟の3男として生まれる。勇敢になってほしいという願いからアミ語で猪を意味するブァフィーと名付けられた。農業を営む生家は貧しく、竹で編まれた約6坪の小屋に親子9人で暮らしていた。弟妹の子守や畑仕事の手伝いのかたわら、草を巻いて作ったボールで野球を始めた。1969年、豊年小学校6年生の時に台東県大会で優勝し、リトルリーグの台湾代表チーム・金龍隊のメンバーに選ばれた。郭は3番打者を任され、中堅手兼2番手投手として活躍し、東京の極東大会を制して臨んだアメリカ合衆国ペンシルベニア州ウィリアムズポートで行われたリトルリーグ・ワールドシリーズでも優勝した。 帰路も日本に寄って後楽園球場でNPBの試合を観戦し、試合前の約束通りに王貞治が本塁打を打って感銘を受けたという。金龍隊のチームメートは宋美齢の申し出により全員が私立の華興中学校に学費免除で入学し、台北市内の寮に入った。試験に落第したら退学という事もあって勉強を熱心に行ない、系列の華興高校に進んでいる。同校ではエースとして後輩の李宗源、劉秋農とともに投手陣を形成し、チームは無敵とまで評されている。学費の問題などから大学進学は諦めていたが、報道を通じてそれを知った宋美齢の助けを受け、宋が理事長を務める輔仁大学へ入学した。 大学では幼児の体力づくりなどを研究し、卒業後は兵役により台湾の陸軍(中華民国陸軍)に入隊した。兵役中は特殊部隊にも配属され、軍用機からの夜間降下訓練も行なっている。兵役中の1981年1月に社会人野球の選手を主体にした日本代表との対戦で完封勝利を収め、日本からオファーが届くようになる。最初にオファーをしたのはロッテオリオンズで、李宗源とともに入団することが決まりかけたが、郭曰く「一番、熱心に誘ってくれたから、そこがいいかな」と思ったという中日ドラゴンズと3月に仮契約を結び入団が決まった。契約金と年俸はそれぞれ1,250万円と最低保証額の240万円(いずれも推定)で、3,000万円以上の契約金を提示してきたNPBの球団もあったが、最初に高く評価してきた中日を信頼して入団を決めた。 兵役終了後の7月に来日し、初登板となった8月30日の対大洋戦では151km/hの速球を投げるなど、途中でふくらはぎが痙攣しながらも先発で勝利を挙げている。同年はこの1勝のみに終わったものの、投球には自信を持てたという。一方で言葉が通じないためストレスがたまり、特に台湾よりはるかに複雑なサインプレーの説明を聞き取れずそのたびに罰金を取られ、マウンドでも打者に集中できずノイローゼになりかけた。日本の食事も口に合わず(中華料理は日本人好みの味付けになっていて食欲を刺激しなかった)、当初は生野菜と揚げ物、焼肉ぐらいしか食べられなかった。郭によると、時には合宿所の厨房を借り受けて自ら炒飯を作ったりもしたという。その後数年間かけて、日本食を全て克服した。 1982年は開幕から先発ローテーションに入り6月までに5勝を挙げるなど津田恒美と新人王を争う活躍を見せ、初のオールスターゲームにも出場した。同年は都裕次郎に次ぐ先発の柱として9勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献した。9月15日の対巨人戦では、初回ランナー1,2塁の場面で篠塚和典の犠打を悪送球。左翼手大島康徳の拙守もあり、打者篠塚が生還するという珍プレーに繋がった(記録は犠打と3失策)。 日本シリーズではリリーフとして第1戦で初登板を果たしたが、大田卓司にソロ本塁打を打たれている。同年初夏に後の夫人と知り合い、精神的に支えられたという。 1984年からは左打者対策にシンカーを投げるようになり、同年はシーズン終盤まで遠藤一彦や鈴木孝政と最多勝利のタイトルを争い、13勝を挙げている。 1985年は先発、抑えとしてリーグ最多の230回1/3を投げた点が評価され、1,000万円増の年俸4,000万円(推定)で契約を更改している。1986年は開幕投手を任され、4年連続の2ケタ勝利となる11勝を挙げた。契約更改では300万円増の年俸4,300万円(推定)となった。 1987年、抑え投手の牛島和彦が落合博満との世紀のトレードで前年オフにロッテへ移籍したというチーム事情があり、新監督の星野仙一は郭をストッパーに指名した。評論家からは精神面での不安を指摘されたが、先発投手が完投したり大差でリードしているケースを除いて勝ちゲームの締めくくりを必ず任せる星野の信頼に応え、最優秀救援投手を獲得する活躍を見せた。また、防御率1.56、被打率.190と投球内容も安定していた。オフには1,800万円増の年俸6,000万円(推定)で契約を更改している。なお、同年獲得したファイアマン賞の賞金100万円は中継ぎの宮下昌己にプレゼントした。 1988年1月16日に結婚式を挙げた。しかし、同年のシーズン開幕後は4月11日の対ヤクルト戦でテリー・ハーパーに決勝本塁打を打たれるなど、微妙なコントロールのズレに苦しんで5月までに4敗を喫する。しかし投げ込みなどを重ねて不振を脱し、6月には1勝8セーブ、防御率0.00の活躍で初の月間MVPを獲得している。一方、7月21日に弟が交通事故にあい、オールスターゲーム第2、3戦の出場を辞退して見舞ったが同28日に亡くなっている。後半戦の開幕戦となった翌日、完投ペースの小松辰雄を替えてあえて登板させた星野から「源治、空を見てみろ、弟が見ているぞ」と声をかけられて奮起し、涙を流しながら後続をパーフェクトに抑え、翌日以降もリリーフエースとしてチームを支えた。リーグ優勝のかかった10月7日の対ヤクルト戦では最後に秦真司から三振を奪い、胴上げ投手となった。同年は7勝37セーブの44セーブポイントを挙げ、石本貴昭と山本和行の従来のシーズン記録・40SPを更新した。 西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦で同点の7回表から登板し、走者を出さずに3イニングを抑えて勝利投手となった。第5戦では直前に登板した小松が不調で予定を早めて7回から登板したが、9回に石毛宏典に同点ソロ本塁打を打たれ、延長11回に決勝点を奪われて敗戦投手となっている。このシリーズでは優秀選手に選ばれた。オフには240票中227票の1位票を集めてセ・リーグMVPに選出された。契約更改では年俸9,300万円+タイトル料1,000万円(推定)となっている。 1989年はキャンプ中に上半身と下半身のバランスが崩れ、シーズンに入ると左太ももを痛めて、4月28日の対巨人戦ではマウンドで投球練習をした直後に打者に投げず降板するという珍しい事態になっている。6月に復帰後、7月7日から8月11日にかけ、当時のセ・リーグ記録となる12試合連続セーブポイントを達成した。前年12月に法務局に申請していた日本への帰化が9月5日に認められ、「郭」と発音の同じ「佳久」に改姓した(登録名は郭源治のまま)。契約更改では初のダウンとなる300万円減の年俸9,000万円(推定)となっている。 1990年は左腹斜筋挫傷のため4月11日に一軍登録を抹消された。さらに二軍で調整中に左太ももを痛め、一軍復帰は6月8日になっている。与田剛がストッパーとして活躍した事もあり、復帰後は先発に再転向する。 1991年は開幕から本格的に先発に転向予定だったが前年ストッパーだった与田が離脱した関係で5月までリリーフを務めていたが、新人の森田幸一がストッパーになり先発に復帰。6月に2完封を含む5勝0敗、防御率1.58の成績で2度目の月間MVPを受賞した。その後も先発を続け、13勝を挙げ、2,400万円増の年俸1億円(推定)で契約を更改している。 1992年は6年ぶりに開幕投手を務めたが、開幕戦で脹脛に痙攣を起こして4回で途中降板した。その後も右前腕部を2度痛め、7月初めには左太もも痛など3度の登録抹消があり、初勝利を挙げたのは7月29日となった。同年は4勝に終わり、1,500万円減の年俸8,500万円(推定)で契約を更改している。 1993年、前年不振に終わり進退をかけ挑んだこのシーズン、初登板となる開幕4戦目の対読売ジャイアンツ1回戦では見事完封勝利を挙げ、4月27日の対阪神戦では8回まで無安打で、9回無死で久慈照嘉に安打を打たれてノーヒットノーランを逃すも、7連続を含む13奪三振で1安打完封勝利を挙げた。このまま勢いに乗るかと思われたが、5月以降好不調の波が激しいのと勝運に見放され1勝6敗と負けが大幅に先行。シーズン後半から抑え不在のチーム事情もあり再び抑えに転向し17セーブを挙げ優勝争いに貢献した。オフの更改では3,000万円増の年俸1億2,000万円(推定)となっている。 1994年は5月から先発ローテーションに加わり、5月21日の対阪神戦でスッポ抜けた投球がロブ・ディアーの側頭部に当たり、同年制定された危険球のルール適用第1号となり退場している。9月21日の対阪神戦でNPB史上5人目となる100勝100セーブを達成した。10.8決戦では救援での起用が予想されていたが、登板はなかった。最優秀防御率のタイトルも獲得し契約交渉は越年となったが、阪神・淡路大震災に衝撃を受けて1995年1月17日に球団の提示していた年俸1億3,000万円(推定)でサインし、被災者に500万円を寄付している。 1995年は先発でもリリーフでも不振の成績に終わり、5,200万円減の年俸7,800万円(推定、出来高付き)で契約を更改した。 1996年、監督に再び星野仙一が復帰したが、チーム最年長の郭には一軍の居場所は無く初の一軍未勝利に終わる。良い状態のピッチングをできるうちに台湾でプレーして台湾球界に貢献したいと考え、同年をもって中日を退団した。現役16年間の活躍をたたえ、セ・リーグから会長特別賞が送られている。11月22日に中華職業棒球聯盟の統一ライオンズと入団契約を結び、年俸は日本時代の3分の1以下となっている。1997年3月18日のナゴヤドームのこけら落しでもあるオープン戦(オリックス・ブルーウェーブ戦)が引退試合に選ばれ、先発してイチローを右飛に打ち取った。 1997年は八百長事件で時報イーグルスが解散し、リーグの現状に心を痛めたという。同年は5勝に終わっている。 1998年に和信ホエールズに移籍すると、先発11試合連続勝利の中華職業棒球聯盟記録を達成するなどシーズン14勝を挙げた。また控え捕手だった王光浩(中国語版)の才能を評価し、王は5番を任されシーズンで打率.300の成績を残している。また、かつて中日で監督だった山内一弘が和信で打撃コーチを務めていた。同年オフに一度は引退会見を開いたが、チームの要請を受け、王や高建三(中国語版)の成長を見守るために翌年も現役を続行することになった。 1999年は42歳でチーム最年長だったが、地元紙からは「制球力ナンバーワンの老将」と高い評価を受けていた。5月には一時戦列を離れたが最優秀防御率のタイトルを争う等活躍し、9勝を挙げた。また、9月に行われたシドニーオリンピックのアジア最終予選に台湾代表として参加し、決勝リーグの対韓国戦では先発して5回を2失点に抑えたが、延長戦の末に敗れた。シーズン終了後、監督としてチームに残ることを要請されたが、家族と一緒に暮らすために断り、日本に戻った。なお、921大地震が起きた際には4日後の9月25日にナゴヤドームの公式戦で大豊泰昭とともに被害者への支援を呼びかけている。 少年野球の指導や野球解説者を務めながら将来の事を考え、2001年11月18日に名古屋市中区でレストラン「郭源治 台南担仔麺」を開店した。 2001年からはマスターズリーグの名古屋エイティデイザーズに参加している。また、中日に在籍していたチェンの相談相手なども務めた。 2011年からは台湾の優秀な中学・高校生への指導をボランティアで行っている。 2013年3月15日をもって台南担仔麺を閉店し、同年4月より中華職業棒球大聯盟の初代首席顧問に就任したが、翌2014年8月29日に辞任している。 2018年の東北楽天ゴールデンイーグルス春季キャンプにおいて研修コーチを務める。 2019年、台湾の野球殿堂である台湾棒球名人堂(中国語版)に選出された。 最速151km/hの速球、スライダー・シンカー・フォークボールなど多彩な変化球を投げた。闘志を前面に出す気迫溢れる投球スタイルが持ち味で、マウンドで見せたガッツポーズは「郭ダンス」と称された。 抑えを務めていた時は、自責点だけでなく失点も少ないという特長があった。郭の筋肉は柔らかく回復力に優れ、ストッパーとして理想的な肉体だったといわれている。ストッパー時代は7回からの複数イニングを投げる事もしばしばで、44SPを挙げた1988年の投球回数は救援だけで111回にも達し、これは1998年にこの記録を更新した時の佐々木主浩の56回のほぼ2倍にあたる。 アスリートの中でも傑出したスタミナがあり、アマチュア時代は完投した翌日でも野手として試合に出場していた。打撃や守備の能力も高く、中日の監督だった山内一弘や近藤貞雄は内野手としての起用を真剣に考えたという。また、1988年5月13日の対巨人戦で槙原寛己からサヨナラ2ラン本塁打を放っている。 大学時代に自分の知識不足を感じ、遠征の新幹線では文学書や歴史、国際情勢などに関する本をいつも読んでいた。通訳のない状態で、片時も参考書を離さず懸命に勉強して2年で日本語をマスターし、日本の小説や新聞も読んでいたという。1988年の台湾遠征の際にはオフのイベント参加を嫌う落合博満も「郭のためなら」と遠征参加を快諾するなど、チームメートから深く信頼されていた。 貧しい環境の中で育ち、中日と契約後に来日し名古屋空港を訪れた際も、所持金は数千円で荷物も風呂敷包みひとつであった。契約金の1250万円は半額を両親に譲り、台北に家族の為のマンションを購入すると瞬く間に無くなったという。後に西武ライオンズに入団した郭泰源の契約金が推定1億円(8000万円であったとも伝えられている)である事を聞きつけ、自分の評価の低さに愕然としたものの、「自分が台湾アマ球界からの先駆者である」「頑張れば給料を上げてもらえる」と割り切り、真摯な態度で練習を続け、遂には1億円プレイヤーへと上り詰めた。 日本への帰化については台湾への愛着などから非常に悩み、台湾では反対する意見も多かったという。しかし、日本で暮らしていく子供の幸せを第一に考え、さらに自分が外国人枠を外れることがチームの強化につながるため、星野仙一を日本一にしたいとの思いから帰化を決意した。相談した父や宋美齢、友人らは決断を温かく尊重してくれたという。 1988年シーズンオフの11月15日に中華民国棒球協会の招待で中日が台湾に遠征を行った際、郭の半生を描いた映画『郭源治物語』が同地で公開されている。2日間で2試合を台湾代表と行ない、郭は第1試合は中日側、第2試合では台湾側で出場した。記者会見には地元のマスコミ100人以上が集まり、外交部による歓迎パーティーも開かれるなど高い関心を持たれた。 中日退団後の1997年に母国リーグの統一ライオンズに入団した際、「意識する事はない。台湾は産んでくれたお母さんであり、日本は育ててくれたお父さん。どちらも必要だし、どちらかを選ぶ事は出来ない。もしあなたは何人?と聞かれたら『野球人』と答えます」と、当時のインタビューに答えている。 背番号33は台湾代表の永久欠番(ただし、後に許銘傑や羅嘉仁が代表でこの番号を使用している)。 夫人は元フライトアテンダントで、1984年にはミス日本に選ばれている。 2男2女がおり、長男と次男は双子。長男の佳久耀も元野球選手で2013年に統一セブンイレブン・ライオンズに練習生として入団したが正式契約には至らず、2015年に社会人野球・矢場とんに入部。現在は退団している。次男の佳久創は明治大学ラグビー部出身で、大学時代には日本選抜に選ばれた。その後トヨタ自動車ヴェルブリッツに所属したが、2015年に退団。その後はアクロスエンタテインメントに所属し、俳優として活動している。2019年9月6日放送の『爆報! THE フライデー』(TBS)においては、次男の創とテレビ初共演を果たした。 台湾移籍後、娘が誘拐未遂にあい、白暁燕の誘拐・殺人事件の直後だったことから家族を日本に帰して単身赴任を続けた。 1988年に交通事故で亡くなった弟とは将来台湾料理の店を開く約束をしており、弟は料理人として修行を始めていた。引退後、弟との約束通り名古屋市で台湾料理店を営んでいたが、上述の通り2013年に閉店した。 各年度の太字はリーグ最高 最優秀防御率:1回 (1994年) 最優秀救援投手:2回 (1987年、1988年) 最優秀選手:1回 (1988年) 月間MVP:2回 (1988年6月 投手部門:1991年6月) ファイアマン賞:2回 (1987年、1988年) 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1988年) 報知プロスポーツ大賞:1回 (1988年) 月間MVP:1回 (1998年7月) 初登板・初先発登板・初勝利・初先発勝利:1981年8月30日、対横浜大洋ホエールズ22回戦(横浜スタジアム)、6回2失点 初奪三振:同上、2回裏に斉藤巧から 初完投勝利・初完封勝利:1982年5月3日、対横浜大洋ホエールズ4回戦(ナゴヤ球場) 初セーブ:1985年7月31日、対阪神タイガース15回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に2番手で救援登板・完了、3回無失点 1000奪三振:1989年10月13日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(ナゴヤ球場)、7回表に遠藤一彦から ※史上81人目 100セーブ:1993年8月11日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤ球場)、8回表1死に6番手で救援登板・完了、1回2/3無失点 ※史上7人目 100勝:1994年9月21日、対阪神タイガース25回戦(ナゴヤ球場)、9回完封勝利 ※史上112人目 100勝100セーブ ※史上5人目(過去の達成者は江夏豊・山本和行・斉藤明雄・大野豊、後に佐々岡真司も達成) オールスターゲーム出場:4回 (1982年、1984年、1988年、1991年) 30 (1981年 - 1985年) 33 (1986年 - 1999年) 『熱球:日本で愛され続けた台湾野球の風雲児が綴った「惜別の書」』(1997年、訳・富坂聡、ザ・マサダ、ISBN 491597748X) ^ 10.8決戦で郭の起用を控えた理由として、郭の性格的なことなどから、高木は「勢いに乗せて出すと、非常にいいピッチングをするんですが、負けている場面で出すと、というところもありましたから。タイトルがかかっているのに、負け試合の気分の乗らないところでマウンドに上げるのは、ちょっと可哀想だなという気持ちが私の中にあったんです」と述べている。 ^ 最も前述通り3000万円以上の契約金(1980年当時、一部の目玉選手を除いたドラフト上位指名選手の契約金に匹敵)を提示した他球団を蹴って中日を選んだのは郭源治自身の判断であった。また郭泰源は第27回IBAFワールドカップやロサンゼルスオリンピックの出場で日本のみならずメジャーリーグの球団も獲得を検討した事が契約金高騰の要因となった。 ^ 「セカンドキャリアの球人力 郭源治」『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、P.88-89 ^ “郭源治 人生を懸けて来日した竜のクローザー/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE. 2020年8月25日閲覧。 ^ 木村元彦「現代の肖像 郭源治 元中日ドラゴンズ投手 海を超えた『山の子』の快速球。」『AERA』、1999年5月10日号、P.62-66 ^ 「守護神伝説 クレバーなストッパー、郭源治の知られざる真実」『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.19 ^ 森哲志『不屈のプレイボール―元プロ野球選手、球場去りし後の「負けない人生』、河出書房新社、2002年、ISBN 430926543X、P.56 ^ 森哲志、2002年、P.57 ^ 森哲志、2002年、P.58 ^ 森哲志、2002年、P.54 ^ 『朝日新聞』、1981年7月30日付朝刊、P.16 ^ 『朝日新聞』、1981年3月27日付朝刊、P.17 ^ 『朝日新聞』、1981年8月31日付朝刊、P.18 ^ 「台湾プレーヤーのパイオニア 郭源治 『人生を賭けた大きなチャレンジ。日本で成功することは僕の使命だった』」『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.32 ^ 『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.33 ^ 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P.100 ^ 『朝日新聞』、1982年6月28日付朝刊、P.19 ^ 『朝日新聞』、1982年8月30日付朝刊、P.19 ^ 日本野球機構 1982年度日本シリーズ 試合結果(第1戦) ^ 森哲志、2002年、P.59 ^ 『朝日新聞』、1984年3月14日付朝刊、P.16 ^ 『読売新聞』、1984年8月30日付朝刊、P.17 ^ 『読売新聞』、1985年12月6日付朝刊、P.17 ^ 1986年12月9日付朝刊、P.17 ^ 『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.16 ^ 「記録の手帳 1420回 ライバルたちと比べても抜群の安定度 史上最強の守護神・郭源治」『週刊ベースボール』、1988年8月22日号、P.40 ^ 『毎日新聞』、1987年12月23日付朝刊、P.17 ^ 「日台合作的超優良龍組棒球隊投手 郭源治、8年目の大躍進!」『週刊ベースボール』、1988年7月21日号、P.27 ^ 『週刊ベースボール』、1988年7月21日号、P.24 ^ 『毎日新聞』、1988年7月7日付朝刊、P.19 ^ 『読売新聞』、1988年10月8日付朝刊、P.18 ^ 『読売新聞』、1988年10月3日付朝刊、P.18 ^ 日本野球機構 1988年度日本シリーズ 試合結果(第2戦) ^ 『読売新聞』、1988年10月28日付朝刊、P.19 ^ 『読売新聞』、1988年10月30日付朝刊、P.18 ^ 「今やジョーシキの1億円プレーヤーたちの金銭感覚とリッチ度」『週刊ベースボール』、1989年1月9日号、P.37 ^ 『朝日新聞』、1989年3月15日付朝刊、P.23 ^ 『朝日新聞』、1989年8月12日付朝刊、P.17 ^ 『朝日新聞』、1989年9月7日付朝刊、P.22 ^ 『読売新聞』、1989年12月10日付朝刊、P.19 ^ 『読売新聞』、1990年4月13日付朝刊、P.19 ^ 『読売新聞』、1990年6月9日付朝刊、P.18 ^ 『読売新聞』、1991年7月6日付朝刊、P.19 ^ 『読売新聞』、1991年12月28日付朝刊、P15 ^ 『読売新聞』、1992年4月5日付朝刊、P.18 ^ 『読売新聞』、1992年7月30日付朝刊、P.19 ^ 『毎日新聞』、1993年12月9日付朝刊、P.20 ^ 『読売新聞』、1993年4月28日付朝刊、P.23 ^ 『朝日新聞』、1993年12月25日付朝刊、P.21 ^ 『朝日新聞』、1994年5月22日付朝刊、P.21 ^ 『読売新聞』、1994年10月7日付夕刊、P.3 ^ 鷲田康『10・8―巨人vs.中日史上最高の決戦』文藝春秋、2013年、ISBN 978-4163756400、P.139 ^ 『朝日新聞』、1995年1月18日付朝刊、P.25 ^ 『朝日新聞』、1996年1月21日付朝刊、P.26 ^ 『朝日新聞』、1996年10月18日付朝刊、P.27 ^ 『朝日新聞』、1996年11月23日付朝刊、P.19 ^ 『読売新聞』、1997年3月19日付朝刊、P.16 ^ 『毎日新聞』、1999年6月22日付夕刊、P.2 ^ 『朝日新聞』、1999年9月8日付朝刊、P.20 ^ 『読売新聞』、1999年9月17日付朝刊、P.22 ^ 「決断 郭源治」『AERA』、2000年11月6日号、P.74 ^ 『朝日新聞』、1999年9月26日付朝刊、P.27 ^ 『読売新聞』、2001年9月13日付朝刊、P.33 ^ 『朝日新聞』、2009年10月15日付夕刊、P.9 ^ “郭源治氏「実力がないとできない」中日柳の好投喜ぶ”. 日刊スポーツ. (2019年5月12日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201905110000922.html 2019年8月4日閲覧。 ^ 伝説のプレーヤー郭源治、中華プロ野球の首席顧問に - exciteニュース、2012年12月25日配信 ^ 『毎日新聞』、2013年3月16日付朝刊、中部本社版、P.29 ^ アジア・シリーズ中止危機 台湾側から連絡「開催できない可能性」 - スポーツニッポン、2014年9月2日 ^ 研修コーチの受け入れに関して. 東北楽天ゴールデンイーグルス. 2018年1月29日配信 ^ “元中日の郭源治氏、台湾野球殿堂入り 日本時代末期に活躍した洪太山氏も”. フォーカス台湾. 中央通訊社 (2019年1月22日). 2022年11月28日閲覧。 ^ 『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.18 ^ 『Sports Graphic Number』、1988年10月5日号、P.20 ^ “星野中日V1の立役者、あのイチローも少年時代に憧れた“踊る守護神”郭源治/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年9月15日閲覧。 ^ 『週刊ベースボール』、1988年8月22日号、P.43 ^ 『朝日新聞』、1988年5月14日付朝刊、P.23 ^ 「来季こそ監督を日本一にするために 涙にこめられた密かな決意」『Sports Graphic Number』、1988年11月20日号、P.43 ^ 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P.98-99 ^ 『朝日新聞』、1985年1月26日付 夕刊、P.3 ^ 森哲志、2002年、P.64 ^ 「海外取材特集 郭“先生”のがい旋 大フィーバー」『週刊ベースボール』、1988年12月5日号、P.4 ^ 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P.101-102 ^ 森哲志、2002年、P.60 ^ “「矢場とん」野球部 抑えは中日OB郭源治の長男”. 日刊スポーツ. (2015年4月21日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1464794.html 2019年3月24日閲覧。 ^ “元中日投手・郭源治氏、次男の俳優・佳久創と涙のテレビ初共演”. スポーツ報知. (2019年9月6日). https://hochi.news/articles/20190906-OHT1T50202.html 2019年10月14日閲覧。 ^ “【ヴェルブリッツ】2014年度 引退選手インタビュー WTB 佳久 創”. トヨタヴェルブリッツ TOYOTA VERBLITZ (2015年3月24日). 2019年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月2日閲覧。 ^ “So Kaku 佳久 創”. ACROSS ENTERTAINMENT. 2019年3月24日閲覧。 台湾の人物一覧 アジア・オセアニア・アフリカ出身の日本プロ野球外国人選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 二郭一荘 個人年度別成績 郭源治 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、CPBL 中華職業棒球大聯盟(郭源治) 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 川上哲治 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 川上哲治 1956 別所毅彦 1957 与那嶺要 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 長嶋茂雄 1962 村山実 1963 長嶋茂雄 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 長嶋茂雄 1967 王貞治 1968 長嶋茂雄 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 長嶋茂雄 1972 堀内恒夫 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 山本浩二 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 若松勉 1979 江夏豊 1980 山本浩二 1981 江川卓 1982 中尾孝義 1983 原辰徳 1984 衣笠祥雄 1985 R.バース 1986 北別府学 1987 山倉和博 1988 郭源治 1989 W.クロマティ 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 J.ハウエル 1993 古田敦也 1994 桑田真澄 1995 T.オマリー 1996 松井秀喜 1997 古田敦也 1998 佐々木主浩 1999 野口茂樹 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 金本知憲 2006 福留孝介 2007 小笠原道大 2008 A.ラミレス 2009 A.ラミレス 2010 和田一浩 2011 浅尾拓也 2012 阿部慎之助 2013 W.バレンティン 2014 菅野智之 2015 山田哲人 2016 新井貴浩 2017 丸佳浩 2018 丸佳浩 2019 坂本勇人 2020 菅野智之 2021 村上宗隆 2022 村上宗隆 2023 村上頌樹 表 話 編 歴 1974 星野仙一 1975 鈴木孝政 1976 鈴木孝政 1977 鈴木孝政 1978 新浦寿夫 1979 江夏豊 1980 江夏豊 1981 角三男 1982 山本和行 1983 斉藤明夫 1984 山本和行 1985 中西清起 1986 斉藤明夫 1987 郭源治 1988 郭源治 1989 津田恒実 1990 与田剛 1991 大野豊 1992 佐々木主浩 1993 石毛博史 1994 高津臣吾 1995 佐々木主浩 1996 佐々木主浩 1997 佐々木主浩 1998 佐々木主浩 1999 高津臣吾 2000 E.ギャラード 2001 高津臣吾 2002 E.ギャラード 2003 高津臣吾 2004 五十嵐亮太 2005 岩瀬仁紀 2006 岩瀬仁紀 2007 藤川球児 2008 M.クルーン 2009 岩瀬仁紀 2010 岩瀬仁紀 2011 藤川球児 2012 岩瀬仁紀, T.バーネット 2013 西村健太朗 2014 呉昇桓 2015 T.バーネット, 呉昇桓 2016 澤村拓一 2017 R.ドリス 2018 山﨑康晃 2019 山﨑康晃 2020 R.スアレス 2021 R.スアレス 2022 R.マルティネス 2023 岩崎優 2024 R.マルティネス 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 梶岡忠義 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 渡辺省三 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 秋山登 1961 権藤博 1962 村山実 1963 柿本実 1964 G.バッキー 1965 金田正一 1966 堀内恒夫 1967 権藤正利 1968 外木場義郎 1969 江夏豊 1970 村山実 1971 藤本和宏 1972 安田猛 1973 安田猛 1974 関本四十四 1975 安仁屋宗八 1976 鈴木孝政 1977 新浦寿夫 1978 新浦寿夫 1979 平松政次 1980 松岡弘 1981 江川卓 1982 斉藤明夫 1983 福間納 1984 小林誠二 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 盛田幸妃 1993 山本昌広 1994 郭源治 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 大野豊 1998 野口茂樹 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 桑田真澄 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 三浦大輔 2006 黒田博樹 2007 高橋尚成 2008 石川雅規 2009 チェン 2010 前田健太 2011 吉見一起 2012 前田健太 2013 前田健太 2014 菅野智之 2015 K.ジョンソン 2016 菅野智之 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2019 大野雄大 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 青柳晃洋 2023 村上頌樹 2024 髙橋宏斗 表 話 編 歴 1936春夏 牧野潔 1936秋 加藤智男 1937春 森井茂 1937秋 森井茂 1938春 松尾幸造 1938秋 森井茂 1939 松尾幸造 1940 村松幸雄 1941 森井茂 1942 河村章 1943 松尾幸造 1944 森井茂 1946 森井茂 1947 松尾幸造 1948 服部受弘 1949 服部受弘 1950 清水秀雄 1951 近藤貞雄 1952 大島信雄 1953 杉下茂 1954 石川克彦 1955 石川克彦 1956 杉下茂 1957 伊奈努 1958 中山俊丈 1959 伊奈努 1960 伊奈努 1961 板東英二 1962 柿本実 1963 河村保彦 1964 河村保彦 1965 柿本実 1966 山中巽 1967 小川健太郎 1968 小川健太郎 1969 小川健太郎 1970 小川健太郎 1971 伊藤久敏 1972 水谷寿伸 1973 稲葉光雄 1974 星野仙一 1975 松本幸行 1976 星野仙一 1977 松本幸行 1978 星野仙一 1979 星野仙一 1980 藤沢公也 1981 三沢淳 1982 小松辰雄 1983 小松辰雄 1984 鈴木孝政 1985 小松辰雄 1986 郭源治 1987 杉本正 1988 小松辰雄 1989 小野和幸 1990 西本聖 1991 小松辰雄 1992 郭源治 1993 今中慎二 1994 今中慎二 1995 今中慎二 1996 今中慎二 1997 山本昌 1998 山本昌 1999 川上憲伸 2000 野口茂樹 2001 山本昌 2002 山本昌 2003 川上憲伸 2004 川崎憲次郎 2005 川上憲伸 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 川上憲伸 2009 浅尾拓也 2010 吉見一起 2011 M.ネルソン 2012 吉見一起 2013 吉見一起 2014 川上憲伸 2015 山井大介 2016 大野雄大 2017 大野雄大 2018 小笠原慎之介 2019 笠原祥太郎 2020 大野雄大 2021 福谷浩司 2022 大野雄大 2023 小笠原慎之介 2024 柳裕也 表 話 編 歴 76 王貞治 77 王貞治 78 若松勉 79 掛布雅之 80 山本浩二 81 江川卓 82 中尾孝義 83 原辰徳 84 衣笠祥雄 85 R.バース 86 北別府学 87 桑田真澄 88 郭源治 89 斎藤雅樹 90 斎藤雅樹 91 佐々岡真司 92 古田敦也 93 広沢克己 94 桑田真澄 95 斎藤雅樹 96 松井秀喜 97 古田敦也 98 佐々木主浩 99 上原浩治 00 松井秀喜 01 古田敦也 02 松井秀喜 03 今岡誠 04 嶋重宣 05 金本知憲 06 福留孝介 07 阿部慎之助 08 小笠原道大 09 坂本勇人 10 前田健太 11 浅尾拓也 12 阿部慎之助 13 阿部慎之助 14 菅野智之 15 山田哲人 16 新井貴浩 17 菅野智之 18 大瀬良大地 19 丸佳浩 20-21 中止 野球選手の画像提供依頼 台湾の野球選手 NPBの台湾人選手 帰化日本人の野球選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 統一セブンイレブン・ライオンズ及びその前身球団の選手 中信ホエールズ及び和信ホエールズの選手 最優秀防御率 (NPB) 最多セーブ投手及び最優秀救援投手 (NPB) 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 輔仁大学出身の人物 台湾系日本人のスポーツ選手 アミ族 台湾原住民の野球選手 台東市出身の人物 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2024/11/24 16:31更新
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