郭泰源の情報(かくたいげん) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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荘勝雄: 郭泰源の代役ながらオールスターにも出場し、7・8回を共に三者凡退で抑えた。 ジム=トレーバー: 初打点:1990年4月10日、対西武ライオンズ1回戦(藤井寺球場)、5回裏に郭泰源から右前適時打 呂明賜: 2016年11月20日に台中インターコンチネンタル野球場で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、郭泰源とのバッテリーで代打・王貞治と対戦。 新谷博: 同年の日本シリーズでは中継ぎに回り、第2戦では郭泰源の後を受けて3回表から7イニングを投げ5安打1失点に抑えている。 小早川毅彦: 2008年6月14日に西武ドームでの西武対広島戦の始球式にて投手を郭泰源、打者を小早川がつとめ、1991年の日本シリーズ以来17年ぶりの対決が再現された。 マイク=ディアズ: この年限りで引退した村田の引退試合(10月13日の対西武戦)では郭泰源から3ランホームランを放っている。 村田兆治: 当時、中6日で登板する先発投手は、他には同年に台頭した郭泰源くらいしか見当たらず、郭とともに中6日ローテの先駆的存在にもなった。 デニス=サファテ: さらに、レギュラーシーズンの最優秀選手賞も獲得、外国籍選手としてはウラディミール・バレンティン以来4年ぶり17人目(18度目)、パシフィック・リーグの外国籍選手としては、アレックス・カブレラ以来15年ぶり8人目、外国籍投手としては郭泰源以来26年ぶり4人目、救援投手としては浅尾拓也以来6年ぶり5人目(6度目)、ホークスの外国籍選手としてはスタンカ以来53年ぶり2人目の受賞となった。 石井丈裕: 同年の広島東洋カープとの日本シリーズでは、第6戦で郭泰源の後を受け、4回を無失点で切り抜け、シリーズ初勝利を挙げた。 石井丈裕: 現役続行を強く希望し、西武時代の同僚・渡辺久信や郭泰源に相談し、台湾大聯盟の台北太陽に選手兼任コーチとして入団が決まった。 鹿取義隆: 同年の西武球場最終戦となる10月5日の対ダイエー戦の登板が引退登板となり、同じく引退する郭泰源に続く二番手としてマウンドに上がった。 大島公一: 初犠打:1993年8月18日、対西武ライオンズ17回戦(西武ライオンズ球場)、3回表に郭泰源から三塁前犠打 槙原寛己: 翌年に西武ライオンズに入団した郭泰源が156km/hを出し更新されるが、1984年に記録した155km/hは終速表示であったため「日本人で最初に160km/hを記録するのは槙原では」とさえ言われていた。 ブライアン=シコースキー: 8月1日、日本での一軍登録期間が8年に達したため、外国人投手としては郭泰源以来2人目となるFA権を取得した(これにより、2011年以降は「日本人枠」でのプレーとなる)。 西三雄: ^ 郭泰源 衝撃の快速球を投じた“オリエンタル・エクスプレス” 宮田征典: 西武時代には当時若手であった工藤公康・郭泰源を指導したほか、年齢の壁にぶつかっていた高橋直樹を立ち直らせた。 柴原浩: 初安打:1990年10月7日、対西武ライオンズ24回戦(西武球場)、郭泰源から 荘勝雄: 1980年代後半のロッテを代表する助っ人にして、「二郭一荘」と呼ばれ、地元・台湾では郭源治(中日)・郭泰源(西武)と並ぶ国民的英雄である(ちなみに源治の方が先に日本に帰化した)。 鈴木明: 『ああ台湾 郭泰源たちのふるさと』 (講談社、1985年9月)ISBN 4062023431 広岡達朗: 筆頭としてドン・ベイラー(カリフォルニア・エンゼルス)の獲得を進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエース・郭泰源を獲得した。 タフィ=ローズ: 同年途中にFA権利を取得し、翌年から外国人枠の適用外(郭泰源に続き2人目、野手では初)となる。 石井丈裕: 1994年シーズンは、先発で調子が出なかったり勝ち星に恵まれない試合も多く、先発では4勝6敗防御率3.75だったがシーズン終盤には郭泰源とともにリリーフに回りチームの11連勝を支えた。 石井丈裕: しかし7月15日の対日本ハム戦の試合前の練習で左脹脛肉離れを起こし、同年のオールスターゲームへの出場を辞退し、代わりに郭泰源が出場している。 荘勝雄: 2020年、台湾の野球殿堂である台湾棒球名人堂(中国語版)(第7回)で49票の得票を得て、郭泰源らと共に殿堂入りした。 長冨浩志: 第3戦では郭泰源と投げ合い勝利投手となる。 タイラー=バークレオ: 桁違いの飛距離を誇るにもかかわらず、当時は外国人は一軍登録2人制のため(エース級の郭泰源もいた)再び二軍生活を余儀なくされた。 渡辺久信: 1988年、1990年も最多勝を獲得するなど、東尾修・工藤公康・郭泰源・松沼博久らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。 森繁和: 杉下茂とは指導者としての師弟関係であり、西武ライオンズで共に一軍投手コーチを務めていた時のことを杉下は「選手をというより森繁和投手コーチを一人前にするのが仕事で、郭泰源、渡辺久信、工藤公康、潮崎哲也、鹿取義隆らが主力だから、コーチなんかいらないよ。 伊東勤: 内野手だった僕からすると、伊東のキャッチャーとしての資質がどれくらいか、ということはあまりわかりませんが、伊東が主力キャッチャーになっていった時期は、東尾修さんや工藤、渡辺久信、郭泰源、渡辺智男、石井丈裕らすばらしいピッチャーが次から次へと出てきたわけです。 小松辰雄: 第2戦では先発し、郭泰源と投げ合い6回を3点に抑えるが勝ち負けはつかなかった。 |
郭泰源の情報まとめ
郭 泰源(かく たいげん)さんの誕生日は1962年3月20日です。
兄弟、卒業、引退、結婚に関する情報もありますね。郭泰源の現在の年齢は62歳のようです。
郭泰源のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 郭 泰源(クォ・タイユェン、かく たいげん、1962年3月20日 - )は、台湾(中華民国)の台南市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ。現役時代の愛称は「オリエンタル・エクスプレス」、「オリエント・エクスプレス」。 台南市の農家で、兄・姉それぞれ3人ずつの7人兄弟の末っ子として生まれる。小学校5年生の時に野球を始め、クラブが全寮制だったため親元を離れた。野球を始めた当初は、ショートを守っていたが、長栄高等中学2年時に監督から強肩を見込まれて投手に転向。この頃、初めて郭を見に来たプロのスカウトが、西武ライオンズの関係者だったという。ただし、郭は兄の義煌がショートからピッチャーに転向して、肩を壊して苦しんでいたことから、当初投手に転向することを断固として拒絶していた。高校卒業後は、合作金庫に就職。1982年には、中華民国陸軍野球部に入隊。第27回IBAFワールドカップで台湾代表として活躍し、各国のスカウトの注目を集める。 ロサンゼルスオリンピックのアジア予選も兼ねて実施された、1983年のアジア野球選手権大会では、台湾・日本・韓国の3カ国同時優勝に貢献。更に、日本とのロサンゼルスオリンピック代表決定戦(韓国は既に出場決定)では、池田親興との投げ合いを、9回2安打1四球の完封勝ちで制し、出場権獲得の立役者となった。一時はMLB球団に加え、NPBの巨人・西武・中日・ヤクルト・大洋などが獲得を検討するほどだった。 1984年のロサンゼルスオリンピックにも台湾代表のエースとして出場。この頃には、入団先は巨人と西武に絞られていた。予選リーグの対アメリカ戦では最速158km/hを記録し、108球を投げて12奪三振で完投するも、7回にジョン・マーザノに本塁打を打たれ2失点で敗れている。準決勝の対日本戦では、1回に広沢克己の打球が右すねを直撃する不運があり、4回2/3を投げて6安打、1失点で降板し、チームも延長の末1対2で敗れ銅メダルに終わった。大会終了後、郭は契約金8000万円(推定)で西武への入団が決まった。 1985年シーズンは、自主トレの投球練習から広岡達朗監督や宮田征典投手コーチの高い評価を受けた。その後も広岡のキャンプに耐え、初登板となった4月10日の対近鉄戦でいきなり完投勝利を挙げる。これでプロで投げていく自信がついたといい、4月は3完投で2勝0敗、防御率は0.32という好成績で月間MVPを受賞。5月は5試合に登板して3勝を挙げたものの、18日の阪急戦では6回途中7失点、28日の南海戦では7回5失点で連続KOされ、敗戦投手となっている。しかし、6月4日の対日本ハム戦(平和台球場)では1978年の今井雄太郎以来となるノーヒットノーランを達成。これで新人王争いにも加わったが、シーズン途中で肩を痛めたため離脱。登板は15試合にとどまったが、最終的には9勝を挙げた。なお、新人王は規定打席にも達した阪急ブレーブスの熊野輝光が獲得した。 1986年シーズンは、キャンプ終盤まで肩痛が残っており、肩を心配した新監督の森祇晶の方針で開幕から抑えに回り、16セーブを記録。9月頃からは先発に戻り、日本シリーズでは第3戦の先発でシリーズ初登板を経験し、4回2/3を投げ4失点で敗戦投手となった。第7戦では、先発松沼博久が本塁打を打たれた6回途中の場面から救援で3回1/3を投げ、シリーズ初セーブを挙げている。 1987年シーズンは、先発ローテーションに定着し、自身初の2桁勝利となる13勝を挙げる。肩痛で一時チームを離れたが、読売ジャイアンツとの日本シリーズ第3戦では江川卓との投手戦を1失点の完投で制し、シリーズ初勝利を挙げた。子供の頃から台湾のヒーローだった王貞治監督率いる巨人が相手だったため、喜びが倍増したという。オフには森繁和と共に台湾で漢方薬や温泉、運動療法などによる肩のケアを行なった。 1988年シーズンは、シーズン初先発の4月10日の対南海ホークス戦で8回を投げ、12安打、6失点の内容ながら9点の援護をもらい、勝利を挙げると、そのまま6月25日の対ロッテ戦まで12試合に先発して10勝0敗という好スタートを切った。この間、5月21日には対日本ハム戦で西崎幸広と投げ合い、187球を投げて延長12回を完投し引き分けに持ち込んでいる。また6月には全て完投で4勝を挙げ、防御率1.25で2度目の月間MVPに選ばれている。シーズン前半は最多勝争いを独走し、オールスターゲームでは、セ・リーグでブレイクした呂明賜との台湾人対決が期待されたが、7月8日の対南海戦で延長11回を完投して負けた直後にヒジ痛を訴えてオールスターには推薦されなかった。オールスター後の8月4日の対近鉄戦では1失点で完投勝利を挙げたが8月11日にヒジ痛のため登録を抹消され、最終的に前年と同じ13勝となり初タイトルとなる最高勝率を獲得している。日本シリーズでは第2戦に先発し、7回まで3失点に抑えるも8回に4点を失い敗戦投手となった。この試合では7回から郭源治が登板し、台湾人同士の投げ合いが実現している。 1989年シーズンは、前年のシーズン限りで現役を引退した東尾修に代わるエースとしての活躍が期待され、自己最多となる26試合に先発し198回1/3を投げてリーグ3位の防御率3.27となった。なお、6月7日の対ロッテ戦では初めて荘勝雄との先発対決が実現し、0対1で敗れている。自身最低の10敗(10勝)となったが、チームトップの防御率が評価されて10%増の年俸6600万円(推定)で契約を更改している。 1990年シーズンは、初めてオールスターゲームに出場し、第1戦で1イニングを投げ、パ・リーグの完封リレーの一翼を担っている。シーズンは肘や肩の故障で4年ぶりに規定投球回を割り込んだが、18試合で9勝を挙げた。日本シリーズでは第4戦に先発し、6回を3失点に抑え、3年ぶりに日本シリーズでの勝利を挙げている。 1991年シーズンのキャンプでは、同じ投手のレイモンド・ヤングが競争相手となったが、5月5日の対近鉄戦ではシーズンベストの投球内容で1失点完投。オールスター前には5連敗するも、同期間の調整が功を奏して7月30日の対ロッテ戦から9月28日の対オリックス戦まで、パ・リーグ歴代2位となる9連続完投勝利を記録した。この間の8月、9月はいずれも無敗の4完投勝利、防御率もそれぞれ2.00、1.00という好成績をおさめて2か月連続で月間MVPを受賞し、渡辺智男や工藤公康の一時離脱を十分カバーしている。また優勝を争った近鉄に対して防御率0.78で7勝1敗と好投して優勝の原動力となり、MVPやベストナインに輝いた。一方、日本シリーズでは肘の疲労もあり、第2戦では4回1/3を投げ、4失点で敗れている。第6戦では5回を1失点に抑え、継投した石井丈裕が勝利投手となった。 1992年シーズンは、7月12日の対近鉄戦で腰痛を訴え、途中降板。これを理由にオールスターゲームを直前で辞退。これについて他球団から仮病の疑いを指摘されて物議を醸し、球団側が自主的に後半戦開始直後の10試合をベンチから外している。シーズン終盤の8月21日の対オリックス戦から9月8日の対日本ハム戦まで、パ・リーグタイ記録となる3試合連続完封勝利を挙げるなど、14勝を挙げた。この年は2年連続となるゴールデングラブ賞を受賞している。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第2戦に先発し、ジャック・ハウエルの打球を手に受けながらも降板するまでの6回1/3を無失点に抑え、勝利投手となっている。シーズンオフには3000万円増の年俸1億3000万円(推定)で契約を更改した。 1993年シーズンは、前年オフに受けた手首の手術の影響もあり3年ぶりに2桁勝利に届かず、8勝8敗に終わる。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第2戦に先発し2回0/3で8安打4失点と打ち込まれたが、第6戦の先発では6回を3安打無失点に抑える好投で勝利投手となっている。オフには女優の張瓊姿との結婚を発表。 1994年シーズンは、自身初の開幕投手を務め開幕9連勝を飾るが、投球内容は悪く打線の援護に恵まれた形であった(7月終了時点の成績は、9勝0敗防御率4.70)。7月9日の試合では、5回表を終わった時点で11-4とリードしていながら、4回裏に打たれた3本塁打に森監督が激怒し、「勝利投手にせぬ」「あれではうちの打者も『何点とればいいんだ』の気持ちになり、相互不信に陥る」と言われ、懲罰として5回裏から交代させられた(ただし森は、優勝確定後の10月7日、リードした状態で5回表から郭を起用して勝利投手とさせ、最高勝率のタイトルを取らせた)。8月以降も復調せず4連敗を記録し、9月には石井丈裕と共に先発ローテーションから外れ中継ぎに降格となった。リリーフ転向後は6試合に登板し、4勝0敗防御率0.71の好成績でリーグ優勝に貢献(先発での成績は16試合9勝4敗防御率5.44)。規定投球回に達した投手の中でリーグワーストの防御率4.98ながら、13勝5敗で自身2度目となる最高勝率のタイトルを獲得。巨人との日本シリーズでは第4戦に先発し、2回2/3を5安打2失点で降板。この年は、5月17日の対日本ハム戦での完封で通算101勝目を挙げ、外国人選手のNPB通算最多勝利記録を更新した。 1995年シーズンは、2年連続で開幕投手を務めたが、初回に7失点の大乱調で敗戦投手となった。前シーズンとは逆に、好投しても打線の援護に恵まれない試合が続き、前年よりも防御率はほぼ半減し投球回数も前年を上回ったが、勝利数は8にとどまった。それでも伊良部秀輝と最優秀防御率のタイトルを最後まで争ったがシーズン終盤に手首を痛め、伊良部と0.01差の防御率2.54で惜しくもタイトルを逃している。 1996年シーズンは、前年痛めた手首の影響で開幕から振るわず、新たに肘も故障したことで長期離脱となり、自身初の一軍未勝利に終わった。翌年の構想外も噂されていたが、外国人選手として初めてFA権を取得し、翌年からは外国人枠を外れることもあって残留となった。 1997年シーズンは、開幕から二軍暮らしが続き、前年から顕著になっていた衰えから復活することはなく9月に現役引退を表明。本拠地・西武ライオンズ球場での最終戦となる10月5日の対ダイエー戦が引退登板となり、長年チームメイトでもあった秋山幸二がダイエーの1番打者として出場し、全て直球を投げ、中飛に打ち取った。秋山の打席を終えると、同じくシーズン限りで現役を引退する鹿取義隆に交代した。 引退後は台湾大聯盟からの要請で台湾に帰国し、技術顧問としての活動を経て、2004年から2005年まで中華職棒・誠泰コブラズの監督を務めた。 2007年2月16日に台湾代表監督に就任。2008年の北京五輪出場を目指したが、予選となるアジア野球選手権で日本、韓国に敗れ、3位に終わり、出場権を逃した。その責任を取り、12月14日に台湾代表監督を辞任。後任には洪一中が就任した。 2009年には、第2回WBC台湾代表の投手コーチを務め、2010年の第5回世界大学野球選手権でも台湾代表の投手コーチを務めた。 2013年シーズンから福岡ソフトバンクホークスの一軍投手コーチ(ブルペン)に就任し、16年ぶりに日本球界に復帰した。しかし、先発のチーム防御率がリーグワースト2位の4.14と低迷した。 2014年シーズンには一軍投手コーチ(ベンチ)を担当したものの11月5日限りで退団することが発表された。 11月11日に統一セブンイレブン・ライオンズの一軍ヘッド兼投手コーチに就任することが発表された。 2015年には2015 WBSCプレミア12の台湾代表監督を務めた。オフには統一セブンイレブン・ライオンズの監督に就任。 2016年開幕前の1月29日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の投手コーチを務め、9月30日に「2017 ワールド・ベースボール・クラシック」の台湾代表監督に選出されたことが発表された。シーズンオフ、チームの成績不振により統一セブンイレブン・ライオンズの監督を辞任。12月30日に富邦ガーディアンズが顧問として迎えることがわかった。 2020年、台湾の野球殿堂である台湾棒球名人堂(中国語版)に選出された。 投球フォームはスリークォーター。オリエンタル・エクスプレスという通称の由来となった最速158km/h(プロ入り後の最速は156km/h)の速球に加え、キレの良い高速スライダー、シュートを駆使した。ロサンゼルスオリンピックにおいて郭との対戦経験を持つ広澤克実は「(郭の)当時の速球は、(セーブ数の日本タイ記録を残した)2007年頃の藤川球児にも劣らない」、正田耕三は「(郭の速球は)今までに見たことのないものでした。きれいな回転で低めにズドンとくる」とそれぞれ評している。一方で、レロン・リーと福本豊は、郭のストレートはシュート回転していると述べている。 郭自身は若い時からシュートを一番の武器と考え、シュートの調子が悪い時にはスライダーを多投した。スライダーはカットボールのような軌道で、球速を落とさずに真横に変化して常に低めに決まり、三振を取るのに非常に有効だったという。白井一幸は郭のスライダーの軌道について「ベース一個分曲がる」と述べている。郭自身、「困ったときはシュートだった。それがあったからスライダーが生きたと思うんです」と述べている。スライダーは伊東勤にとって西武の全投手の中で最も印象に残ったほどの変化球で、郭はこの球のサインに首を振ったことが全くなかったといい、「調子がいいときなら、ほとんどミットを動かさなくていい。高めに浮くこともないし、受けていて、これほど楽で、楽しい投手はいなかったですね」と振り返っている。 制球力は西武黄金期の投手陣の中でも一二を争うほどの良さと言われた。伊東は郭の制球力について、「ボールが絶対に高めにこない。低めの球は地を這ってくるような感じで垂れずに、逆にホップしてくる」といい、コンディション問わずストライクが取れたが、良くない時は甘いところに入って打たれることがあったため「ストライクを投げすぎるな!」と言ってあえてボール球を多投させてかわすピッチングを心がけてリードしていたが、郭の場合ボール球を意識的に投げさせても決してそこから自滅することはなかったと振り返っている。 1988年には、球が見やすく速球主体の投手が不利とされたデーゲームで連勝を重ねるなど、来日3年目の1987年頃から変化球をうまく使う投球スタイルを確立した。逆に変化するシュートを持つために打者はスライダーに対して踏み込みにくくなり、これに加えてカーブやフォークボールなどの緩い球も有効に使っていた。 郭の後にマウンドに上がった鹿取義隆は、足場が全く掘れていないことに驚いたと振り返っている。また伊東によると「大舞台で本気になるけど、たいていは80パーセントくらいの力で投げていた」といい、笘篠誠治によると、「一度、150キロを投げてみてよ」と頼んだことがあったが、郭は「150キロを投げなくても抑えられるから、無駄な力は使いたくないんだ」と言っていたという。一方で高田繁は「走者がいるときといないときとではピッチングがガラッと変わりますね。ランナーがいるときは気合が違います」とし、1球たりとも気を抜かないと述べている。 福本豊と大石大二郎は郭のフィールディングについても高く評価している。大石は「センター前へ抜けそうな当たりでも飛びついて取ってしまうし、バント守備も天下一品、12球団一じゃないですか」と評し、福本は「ショートでもやっていたらものすごいショートストップになっていただろうね」「ピッチャーにしておくのが勿体ない」と述べている。 1980年代、日本球界で中4日もしくは5日の先発ローテーションが一般化していた中、郭は肘の手術から復活した村田兆治とともに中6日ローテーションの先駆的な存在である。石毛宏典は「昔は中4日や中5日での先発が一般的だったけど、泰源の場合は中6日で投げていたんじゃなかったかな。大事に起用されていた印象が残っています。」と語っている。 当時の主力投手としては珍しく200イニング以上投げた年がなく、故障の多さから「イタイイタイ病」と揶揄されるほどであった。肩や肘の負担を抑えるため中6日もしくは5日での先発を基本とし、登板翌日は軽く汗を流し2日目もランニング程度、3日目はキャッチボールで4、5日目に80%程度の力で60-70球を投げ、6日目は汗を流す程度で翌日の登板に備える、という調整を行なっていた。監督の森祇晶からは「うちの先発投手陣で言ったら、郭泰源が一番回復力がない」と言われている。当時としては異例と言えるこのスタンスに批判の声が当時は少なからずあったが、現代野球では主流となっている。 伊東によると郭は西武球場に近い所沢に住んでいたが、郭は大の酒好きであり、深酒することはなかったものの夜遅くまで飲んでいたことが多かったためその影響でコンディションが良くないと感じることがあったという。 伊東勤は初めて郭の投球を受けたときに「とにかく速い。最初に(投球を)受けたとき、こんな投手がいるのか、と衝撃を受けた」といい、渡辺久信は「僕が一番速い球を投げる。そう思っていたのは、郭泰源の球を見るまで」と述べている。伊東は2020年に行われたインタビューにおいて「(渡辺)久信や(工藤)公康、石井(丈裕)とか、当時の西武にはいい投手はいっぱいいました。でも、やっぱり一番は郭泰源です。今の時代でも、恐らくナンバーワンになれるピッチャーだと思いますね」といい、「この世界でやらせてもらっていて、いつもいいピッチャーと言われる人を彼と比較して見てきました。同じくらい球の速い投手はいる。いいスライダーを投げる投手もいる。でもやっぱり質が違う。比較できる投手はなかなかいないですね」と評している。伊東曰く、唯一郭に近いと思えた投手がダルビッシュ有だったといい、「ダルビッシュが物凄くいい時に、やっぱり低めが地を這ってくるような球があった。そう考えると彼が一番、似ている感じがします」と述べている。 島田誠は「今まで対戦したピッチャーの中では最高ですね」とし、1985年にはこのまま大事に育った場合かなりの記録を残すと思うという見解を示している。山本功児は郭の頭の良さに言及し、「心理学でも専攻してたんじゃないかと思うぐらい、こちらの予想の裏をかいてきます。ヤマの張れないピッチャーです」と評している。梨田昌孝は「捕手としてああいうピッチャーをリードしてみたいですね。コントロール(特に低めの)はいいし、球種は沢山持っているし、それに快速球と来てるから、リードしても面白いでしょうね」とし、郭が打たれた場合はキャッチャーのリードミスが原因になると述べている。高田繁は「コントロール、球威、頭の良さ、野球に取り組む姿勢は江川卓よりも数段上」と評し、クリス・ナイマンは「大リーグでも10勝くらい挙げられるピッチャーです。あれだけのコントロールとバラエティに富んだ変化球を持っていれば充分大リーグでもやっていけます」と述べている。 落合博満は1985年に受けたインタビューで、ストレートは江川卓の方が速く、「カーブ、スライダー、チェンジアップが主体で、こうバッターにのしかかってくるような凄みというか迫力はないね。全然…。まあ、いいピッチャーであることに違いはないけど、僕から見た郭泰源はタダのピッチャーだね。その辺にいるピッチャーと同じようなごく普通のね」としつつも、「彼の頭はこれまで対戦したピッチャーの中ではナンバーワンだね」と述べている。ただし、後年、自身のYouTubeチャンネルでは「現役の時、一番苦労したのは郭泰源だもん。郭泰源だけはどうしようもなかった」とコメントしている。また、下位打線にいい加減に投げて打たれていたことが、勝ち星が伸びなかった理由としている。 一方で、1985年の時点で郭に対して「変化球投手」、或いは「変化球の投げすぎ」と評する関係者が多かった。稲尾和久は「いいピッチャーだけど、変化球の投げすぎだよ。若さがないよ。(中略)もっと自分をむき出しにしたピッチングをすべきです」と述べ、落合は前述のコメントにも「彼は豪球投手なんかじゃないよ。変化球ピッチャーだよ」と付け加えている。他にもレロン・リーからは「変化球の投げすぎ。あれじゃ何年も投げられない」、山本功児からは「あんな変化球ばかり投げないでもっとビシビシ速いボールを投げればいいのに勿体無いですよ」、島田誠からは「完全な変化球ピッチャーですよ。速い球を投げるぞ、投げるぞと思わせといて、変化球で打ち取る」と評されていた。1985年の5月に一時的にスランプに陥った際には荘勝雄から「速球だけでは通用しない」とアドバイスされたことを受け、速球を見せ球にして変化球でかわすピッチングを心がけていたが、速球で打者をねじ伏せる姿を期待していたファンから「超特急とは名ばかり」と不満をあらわにされたこともあった。 台湾にプロ野球がない時代から日本プロ野球で活躍した台湾人選手の嚆矢として、郭源治や荘勝雄とともに二郭一荘と並び称された。通算117勝は外国人投手としては歴代最多(無国籍者であるヴィクトル・スタルヒンを除く)である。体格的に日本人と差がなくプロ野球の経験もない状態で来日しており、またシーズン中の扱いは日本人同様であることなどから、台湾人選手にも外国人枠の規定を一律に適用することに対して配慮を願っていた。 台湾大聯盟の顧問時代には投手コーチを求めて東尾修に相談して渡辺久信を選手兼任コーチとして招聘し、石井丈裕の台湾球界入りも斡旋するなど、台湾球界の発展に大きく貢献した。また、許銘傑、曹竣揚ら台湾人選手の日本球界入りをアシストしている。 各年度の太字はリーグ最高 最高勝率:2回(1988年、1994年) 最優秀選手:1回(1991年) ベストナイン:1回(投手部門:1991年) ゴールデングラブ賞:2回(投手部門:1991年、1992年) 月間MVP:4回(1985年4月、1988年6月 投手部門:1991年8月、1991年9月) 初登板・初先発登板・初完投・初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1985年4月8日、対近鉄バファローズ2回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点 初奪三振:同上、1回表に栗橋茂から 初完封勝利:1985年4月25日、対ロッテオリオンズ5回戦(西武ライオンズ球場)、10回無失点 初セーブ:1986年4月4日、対南海ホークス1回戦(西武ライオンズ球場)、8回表二死に3番手で救援登板・完了、1回1/3無失点 1000投球回数:1991年9月6日、対近鉄バファローズ21回戦(藤井寺球場)、3回裏二死目に達成 100勝:1994年5月10日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦(米子市民球場)、6回3失点(自責点0) ※史上110人目 1500投球回数:1995年4月30日、対千葉ロッテマリーンズ6回戦(千葉マリンスタジアム)、6回裏一死目に達成 1000奪三振:1995年6月23日、対近鉄バファローズ10回戦(西武ライオンズ球場)、6回表に中村紀洋から ※史上93人目 ノーヒットノーラン:1985年6月4日、対日本ハムファイターズ9回戦(平和台球場) ※史上54人目 オールスターゲーム出場:2回(1990年、1995年) ※1985年・1992年も選出されるも出場辞退 12(1985年 - 1986年) 18(1987年 - 1997年) 88(2004年 - 2005年、2015年 - 2016年) 83(2013年 - 2014年) ^ 2016年には菊池雄星、2019年にはザック・ニールが10連勝を達成している。 ^ 歴代1位は1978年に鈴木啓示が記録した10試合連続。 ^ 1972年の清俊彦以来、20年ぶりの記録。 ^ 従来の記録はジョー・スタンカとジーン・バッキーの100勝。 ^ 1994年は勝率1位でありながら、規定投球回数に達した投手の中で防御率は最下位という珍しい記録となっている。 ^ 1988年の春のトーナメント大会(オープン戦の一部)でもノーヒットノーランを達成。 ^ 難忘挨轟 郭泰源:鈴木一朗值得尊敬 中央社 (中国語) (2018年5月4日) 2018年7月31日閲覧 ^ 「最強日本代表をつくろう! 台湾というアウェーへようこそ オリエンタル・エクスプレスからの招待状 郭泰源・台湾代表監督」『週刊ベースボール』、ベースボール・マガジン社、2007年3月19日号、P.33 ^ 「[頭脳派捕手の回顧]伊東勤「私が受けた最高の豪腕」」『Sports Graphic Number』、2020年7月20日号、P.28-29 ^ 「『必殺仕事人』大田卓司のこの男を斬る! そろそろ台湾選手を外人枠の対象からはずしてもいいのでは?」『週刊ベースボール』、1988年7月4日号、P.23 ^ 『報知新聞』1984年8月2日付、1面 ^ 「キミは「オリエント特急」を見たか 郭泰源はこんな男だ」『Sports Graphic Number』、1985年6月20日号、P.30 ^ 『朝日新聞』、1985年6月6日付 朝刊、P.3 ^ 「郭泰源(西武ライオンズ)素晴しい環境を与えてくれた日本の球界には、深く感謝しています ('97引退選手リレー・インタビュー『燃え尽きて』〔5〕)」『週刊ベースボール』、1997年12月15日号、P.143 ^ 『朝日新聞』、1985年1月26日付 夕刊、P.3 ^ 『週刊ベースボール』、1984年8月20日号、グラビア ^ 『別冊宝島』、宝島社、1545号、P.65 ^ 『週刊ベースボール』、1997年12月15日号、P.142 ^ 『別冊宝島』、宝島社、1933号、P.62-63 ^ 85年6月4日の日本ハム戦でノーヒットノーランを達成した郭泰源(右)を出迎える ^ 「レオ戦士は語る」『Sports Graphic Number』、文藝春秋、1988年3月20日号、P.63 ^ 『週刊ベースボール』、1988年7月4日号、P.25 ^ 『週刊ベースボール』、1988年7月4日号、P.22 ^ 「“狂った夏”にふさわしい?4つのベースボール・ミステリー また出た郭の“イタイイタイ病”。森監督どうする?」『週刊ベースボール』、1988年9月5日号、P.23 ^ “郭泰源に並んだ!西武・ニール、レオ助っ人最多10連勝”. SANSPO.COM (2019年9月19日). 2020年9月18日閲覧。 ^ 「郭泰源&呂明賜の一大決意報告 『郭源治に続くのはオレたちだ!』」『週刊ベースボール』、1989年1月23日号、P.25 ^ 「'90ライバルのいる風景 5回 郭源治vs荘勝雄vs郭泰源 異国での仲間意識と“台湾No.1”を巡る競争意識と…」『週刊ベースボール』、1990年2月5日号、P.37 ^ 「SPECIAL INTERVIEW ヒジの調子が悪くて、いつものスライダーが放れなかった。でも、それを切り抜けるのがエースだと思う」『Sports Graphic Number』、1991年11月20日号、P.59 ^ 『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.58 ^ 『毎日新聞』、1992年7月22日付朝刊、P.21 ^ 『毎日新聞』、1992年12月26日付朝刊、P.17 ^ 『週刊ベースボール』、1997年12月15日号、P.140 ^ 朝日新聞1994年7月10日24面 ^ 『毎日新聞』、2010年8月5日付朝刊、P.17 ^ “2013年 コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス (2012年10月29日). 2012年10月29日閲覧。 ^ ソフトB大石ヘッド、高山コーチが退団 ^ コーチの退団について福岡ソフトバンクホークス公式サイト2014年11月5日配信 ^ World No. 4 Chinese Taipei appoints team manager for WBSC Premier12 of Baseball INTERNATIONAL BASEBALL FEDERATION (英語) (2015年6月29日) 2015年8月2日閲覧 ^ 中華職棒/郭泰源接任統一獅總教練 2015年12月27日 2016年8月9日閲覧 ^ 中職日職對抗賽 代表隊參賽名單出爐 中華職棒大聯盟全球資訊網The Official Site of CPBL (中国語) (2016年1月29日) 2016年2月17日閲覧 ^ 郭泰源任經典賽總教練 4度領軍國家隊 CNA 中央通訊社 (中国語) (2016年9月30日) 2016年11月11日閲覧 ^ 中職/為戰績不佳負責 郭泰源請辭統一獅總教練 三立新聞網SETN.COM (中国語) (2016年10月26日) 2016年11月8日閲覧 ^ “台湾野球名人堂、今年4名殿堂入り果たす”. 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Sportiva Web (2019年4月9日). 2020年9月17日閲覧。 ^ “「もっと目一杯投げろよ」郭泰源に石毛宏典が思っていたこと。どの球種も一級品で「どんな打者でも抑えられた」|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2022年10月8日閲覧。 ^ “「史上最高の日本シリーズ」は森祇晶と野村克也の「不動」の戦いだった”. 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野村克也 1964 J.スタンカ 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 足立光宏 1968 米田哲也 1969 長池徳二 1970 木樽正明 1971 長池徳二 1972 福本豊 1973 野村克也 1974 金田留広 1975 加藤秀司 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 C.マニエル 1980 木田勇 1981 江夏豊 1982 落合博満 1983 東尾修 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 石毛宏典 1987 東尾修 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 西口文也 1998 松井稼頭央 1999 工藤公康 2000 松中信彦 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 城島健司 2004 松中信彦 2005 杉内俊哉 2006 小笠原道大 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 内川聖一 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 柳田悠岐 2016 大谷翔平 2017 D.サファテ 2018 山川穂高 2019 森友哉 2020 柳田悠岐 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 野村武史 1951 中谷信夫 1952 柚木進 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 中村大成 1956 植村義信 1957 稲尾和久 1958 秋本祐作 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 皆川睦男 1963 田中勉, 森中千香良 1964 J.スタンカ 1965 林俊彦 1966 皆川睦男 1967 石井茂雄 1968 村上雅則 1969 清俊彦 1970 佐々木宏一郎 1971 山田久志 1972 佐藤道郎 1973 八木沢荘六 1974 竹村一義 1975 鈴木啓示, 野村収 1976 山田久志 1977 稲葉光雄 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 間柴茂有 1982 工藤幹夫 1983 高橋直樹 1984 石川賢 1985 石本貴昭 1986 渡辺久信 1987 工藤公康 1988 郭泰源 1989 星野伸之 1990 野茂英雄 1991 工藤公康 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 郭泰源 1995 平井正史 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 黒木知宏 1999 篠原貴行 2000 小野晋吾 2001 田之上慶三郎 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 斉藤和巳 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉 2010 杉内俊哉 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 岸孝之 2015 大谷翔平 2016 和田毅 2017 千賀滉大 2018 M.ボルシンガー 2019 山岡泰輔 2020 石川柊太 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 伊藤大海 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 江藤正 1952 柚木進 1953 川崎徳次 1954 西村貞朗 1955 中村大成 1956 梶本隆夫 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 稲尾和久 1963 稲尾和久 1964 J.スタンカ 1965 尾崎行雄 1966 田中勉 1967 足立光宏 1968 皆川睦男 1969 鈴木啓示 1970 木樽正明 1971 山田久志 1972 山田久志 1973 成田文男 1974 金田留広 1975 鈴木啓示 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 鈴木啓示 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 村田兆治 1982 工藤幹夫 1983 東尾修 1984 今井雄太郎 1985 東尾修 1986 渡辺久信 1987 工藤公康 1988 西崎幸広 1989 阿波野秀幸 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 伊良部秀輝 1995 伊良部秀輝 1996 E.ヒルマン 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 田中将大 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平 2016 大谷翔平 2017 菊池雄星 2018 菊池雄星 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1972 足立光宏 1973 成田文男 1974 足立光宏 1975 足立光宏 1976 足立光宏 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 東尾修 1984 東尾修 1985 東尾修 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 西崎幸広 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 郭泰源 1992 郭泰源 1993 野田浩司 1994 工藤公康 1995 工藤公康 1996 西崎幸広 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 西口文也 2003 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 松坂大輔 2006 松坂大輔 2007 ダルビッシュ有 2008 ダルビッシュ有 2009 涌井秀章 2010 涌井秀章 2011 田中将大 2012 田中将大 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 涌井秀章 2016 涌井秀章 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 木下勇 1951 武末悉昌 1952 川崎徳次 1953 川崎徳次 1954 太田正男 1955 長坂衛 1956 河村久文 1957 島原幸雄 1958 河村久文 1959 島原幸雄 1960 稲尾和久 1961 稲尾和久 1962 稲尾和久 1963 稲尾和久 1964 田中勉 1965 田中勉 1966 田中勉 1967 田中勉 1968 池永正明 1969 与田順欣 1970 池永正明 1971 高橋明 1972 高橋明 1973 加藤初 1974 三浦清弘 1975 東尾修 1976 東尾修 1977 東尾修 1978 山下律夫 1979 東尾修 1980 東尾修 1981 東尾修 1982 森繁和 1983 高橋直樹 1984 東尾修 1985 東尾修 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 工藤公康 1989 工藤公康 1990 渡辺久信 1991 渡辺久信 1992 工藤公康 1993 渡辺久信 1994 郭泰源 1995 郭泰源 1996 新谷博 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 西口文也 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 松坂大輔 2003 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 松坂大輔 2006 西口文也 2007 西口文也 2008 涌井秀章 2009 涌井秀章 2010 涌井秀章 2011 涌井秀章 2012 涌井秀章 2013 岸孝之 2014 岸孝之 2015 牧田和久 2016 菊池雄星 2017 菊池雄星 2018 菊池雄星 2019 多和田真三郎 2020 Z.ニール 2021 髙橋光成 2022 髙橋光成 2023 髙橋光成 2024 今井達也 表 話 編 歴 葉志仙 88 郭泰源(投手) 70 呂文生(守備) 26 王光輝(打撃) 6 陳威成(走塁) 65 林琨瀚(コンディショニング) 11 林岳平 12 李振昌 20 鄭凱文 21 倪福徳 42 增菘瑋 47 廖于誠 48 羅嘉仁 51 鄭錡鴻 62 唐嘉駿 81 林柏佑 90 耿伯軒 98 林克謙 99 陳鴻文 15 林琨笙 34 高志綱 36 郭一峰 4 高國慶 7 郭嚴文 10 林瀚 14 王勝偉 22 林益全 23 彭政閔 25 蔣智賢 8 詹智堯 24 郭岱琦 31 林威助 35 林哲瑄 55 潘武雄 表 話 編 歴 88 郭泰源 5 吳復連(ベンチ) 12 黃欽智(投手) 27 葉君璋(バッテリー) 52 陳金鋒(打撃走塁) 79 李安熙(守備) 87 陳連宏(打撃) 91 江奕昌(トレーニング) 16 林晨樺 17 陳鴻文 18 潘威倫 19 蔡明晉 34 陳韻文 36 倪福徳 37 羅國華 41 王鏡銘 43 宋家豪 47 陳冠宇 56 黄勝雄 71 江少慶 75 郭俊麟 20 林琨笙 77 鄭達鴻 1 林智勝 9 林益全 11 蔣智賢 13 陳鏞基 14 王勝偉 69 林志祥 74 許基宏 7 張志豪 8 羅國龍 15 胡金龍 24 林哲瑄 28 高國輝 59 張正偉 表 話 編 歴 88 郭泰源 4 陳威成 陳連宏 12 黃欽智 呉復連 葉君璋 14 林子崴 15 呂彥青 17 陳鴻文 18 潘威倫 19 陳冠宇 32 陳禹勳 36 倪福徳 41 王鏡銘 43 宋家豪 44 羅國華 49 羅嘉仁 75 郭俊麟 81 林柏佑 11 林泓育 34 高志綱 47 張進德 9 林益全 13 陳鏞基 21 郭嚴文 29 陳俊秀 31 林智勝 69 林志祥 99 蔣智賢 1 陽岱鋼 7 張志豪 91 王柏融 28 高國輝 66 張建銘 台湾の野球選手 NPBの台湾人選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 最優秀選手 (NPB) 最高勝率 (野球) NPBオールスターゲーム選出選手 野球チャイニーズタイペイ代表選手 オリンピック野球台湾代表選手 台湾のオリンピック銅メダリスト 野球のオリンピックメダリスト 台湾の野球監督 福岡ソフトバンクホークス関連人物 在日台湾人 台南市出身の人物 1962年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 良質な記事
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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「郭泰源」を素材として二次利用しています。