渡辺久信の情報(わたなべひさのぶ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
渡辺 久信さんについて調べます
■名前・氏名 |
渡辺久信と関係のある人
マット=ウインタース: 初安打・初本塁打・初打点:同上、4回表に渡辺久信から右越ソロ 鈴木葉留彦: ^ 3年連続Bクラスの西武テコ入れ、渡辺久信氏が編成部長兼務に 「目指しているのは根本陸夫さん」黄金時代再現に着手 吉村禎章: いずれの試合も2安打を放ち、特に第5戦は渡辺久信から本塁打を放つなど、チームの勝利に貢献した。 津野浩: 1984年から活躍し、同期の渡辺久信(西武ライオンズ)と加藤伸一(南海ホークス)らと共に「19歳トリオ」と呼ばれた。 伊東勤: すぐ電話があり「上がってこられないか」と言われ、翌12日に二軍で一番球が速い新人の渡辺久信の球を受けてゴーサインが出て、一軍に合流した。 木村文和: 2009年は監督の渡辺久信から先発ローテーション入りを期待され、3月2日に行われたワールド・ベースボール・クラシック (WBC) 強化試合(対韓国戦)において先発投手として起用されたが、4回7安打3失点と結果を残せなかった。 河田雄祐: 西武コーチ時代は、監督を務めた渡辺久信や伊原春樹から評価されていたが、2015年限りで退団した。 福澤洋一: 初盗塁:1989年5月27日、対西武ライオンズ4回戦(川崎球場)、2回裏に二盗(投手:渡辺久信、捕手:伊東勤) 涌井秀章: 2010年は前年に被打率.115を記録していたフォークが変化しなくなったことに苦しみ、渡辺久信は「2007年まで決め球だったフォークの復活が今後の課題」と述べた。 郭泰源: その後は台湾大聯盟からの要請もあり台湾に帰国し、技術顧問として渡辺久信を台湾に呼び寄せるなどの活動を経て、2004年から2005年にかけては中華職棒・誠泰コブラズの監督を務めた。 相馬勝也: 明るい性格と情熱的な指導に定評があり、二軍で共に指導し公私ともに付き合いが深かった渡辺久信が2008年に一軍監督に就任した際、渡辺に誘われる形で一軍バッテリーコーチに就任。 工藤公康: 2012年4月7日、西武ドームでの西武対ソフトバンク戦の試合前に工藤による始球式と引退セレモニーが行われ、工藤と共に西武黄金時代を支えた西武監督の渡辺久信がキャッチャー、ソフトバンクの監督の秋山幸二が打席に立った。 木村文和: 背番号は41を与えられ、同じ背番号を付けた渡辺久信2世として期待された。 定詰雅彦: 初打席・初安打:同上、6回表に渡辺久信から 広岡達朗: 1985年は秋山幸二・辻発彦・工藤公康・渡辺久信などの若手選手の台頭により、従来の寄せ集め選手中心から生え抜き選手中心のチームへ姿を変え、独走状態でリーグ優勝を果たした。 石井丈裕: 1993年シーズンは、シーズン当初より完全に先発投手として起用され、郭の故障や渡辺久信の不調がある中、工藤公康とともに安定した働きを見せる。 野村克也: 野村のヤクルト監督最終年である1998年に西武から移籍してきた渡辺久信は、自著でそのミーティングの長さに驚かされたと述べている。 多和田真三郎: 11月3日、翌年の契約を結ばない旨が球団より発表されたが、西武の渡辺久信ゼネラルマネージャーは多和田について「支配下として重圧がかかると厳しいと感じた。 水田圭介: トレード発表後の試合となった同日の対オリックス・バファローズ11回戦において、渡辺久信は水田を良い形で送りだそうと、9回裏・同点の場面で二塁打で出塁した上本達之の代走として起用(移籍が決まった選手の試合出場は異例)。 大久保博元: 2008年、渡辺久信監督の強い要望により、古巣・西武に一軍打撃コーチとして16年ぶりに復帰。 岡本篤志: 一軍監督・渡辺久信監督の信頼を得たことから、夏場以降は、長田秀一郎・藤田太陽・ブライアン・シコースキーに次ぐ4番手の中継ぎ投手として要所でも起用された。 森祇晶: 先発陣は、東尾修、松沼博久、渡辺久信がいたものの工藤公康は左肩痛、郭泰源は右肘痛を抱えていた。 藤井康雄: プロ入り直後は渡辺久信や郭泰源の投球に衝撃を受け、また若い頃は打席で目が合うと笑ってくる牛島和彦が苦手だったが、闘志をむき出しにしてくる小野和義のようなタイプとは相性が良かったという。 黒田哲史: 2023年現在、コーチの中では最古参であり唯一、渡辺久信、伊原春樹、田辺徳雄、辻発彦、松井稼頭央と途切れることなく5人の監督の元で携わっている。 清原和博: この年は流行語大賞を獲った「新人類」の代表として、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。 鳥谷部健一: 速球派であった渡辺久信の背番号41を受け継いだ。 ブーマー=ウェルズ: 1988年7月13日の西武ライオンズ戦(阪急西宮球場)で渡辺久信から飛距離162mの場外本塁打を放ち、落下地点が確認された本塁打としては日本最長記録となった。 上田佳範: 初安打・初打点:1995年4月23日、対西武ライオンズ6回戦(東京ドーム)、6回裏に渡辺久信から決勝適時打 髙橋朋己: 再契約の際、ゼネラルマネージャー(GM)の渡辺久信からは「(元の背番号の)43番はお前のためにとっておいてある」と再起を期待され、髙橋本人も「いわれてうれしかった。 森慎二: 西武シニアディレクターの渡辺久信は森の病状について、「まだ病状は不明であり、復帰の見通しはわからない」と発言した。 |
渡辺久信の情報まとめ
渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ)さんの誕生日は1965年8月2日です。群馬出身の野球選手のようです。
引退、テレビ、家族、現在、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。渡辺久信の現在の年齢は59歳のようです。
渡辺久信のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ、1965年8月2日 - )は、群馬県勢多郡新里村(現:桐生市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、元プロ野球監督。 2008年から2013年まで埼玉西武ライオンズの監督を務めた後、2019年から2024年まで同球団のゼネラルマネージャー(GM)を務めた。2024年5月27日からは、成績不振で休養した松井稼頭央監督に代わって監督代行をシーズン終了まで務めた。 新里村立新里中央小学校、新里村立新里中学校出身。ハイジャンプでは小学6年生の時に1.42 mを記録し、中学3年生の時には郡大会で1.75 mを、高校3年生の時には1.80 mをそれぞれクリアした。前橋工業高校時代から速球派の大型投手と期待された。中学時代から球速140 km/hに近いストレートを投げており、県の高校野球界でも注目の的だったが、自身は桐生高校を志望していた。当時の桐生高校は、阿久沢毅・木暮洋のコンビで甲子園を席巻した直後であり、桐生高校側としても次代のエースとしての期待を込めて、受け入れ態勢を準備しており、専属の家庭教師をつけて受験勉強を開始したが、生来の勉強嫌いもあって3日で受験を断念し、結局前橋工業高校に進学した。 高校3年次の群馬大会では、太田工業高校との決勝で最終回に押し出しフォアボールでサヨナラ負けを喫した。渡辺が甲子園に出場したのは、1年生だった1981年夏の第63回全国高校野球選手権のみで、準優勝した京都商業高校に初戦でサヨナラ負けを喫した。しかし、この試合では完投している。 1983年のドラフト会議で、西武ライオンズは高野光を1位指名するも抽選で外れ、外れ1位で指名され入団した。当時の最高球速は147 km/hで、本人は当時読売ジャイアンツ(巨人)で活躍していた槙原寛己のようにストレートで押せる投手、そして西武のエースを目指していた。なお、群馬県出身者としては初のドラフト1位指名選手である。 快速球とフォークを武器に1年目の1984年から一軍に定着し、2年目の1985年は先発とリリーフを兼任してシーズン43試合に登板して11セーブを上げ、1985年の日本シリーズにも登板した。3年目の1986年は先発ローテーションの柱となりリーグ最多の16勝を上げて最多勝を獲得、リーグ最多奪三振にもなったがパ・リーグでのタイトルとなったのは1989年からなのでこの年の最多記録のみとなってる(86年から90年までに69勝、15勝以上4回という成績をおさめ、ライオンズ黄金期の中盤を支えた。以降、成績は下降線を辿るが、90年以降は工藤が安定し結果長期にわたるライオンズ黄金期が生まれた)。 1988年、1990年も最多勝を獲得するなど、東尾修・工藤公康・郭泰源・松沼博久らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。 1988年、15勝7敗で最多勝を獲得し、3連覇に貢献。中日との日本シリーズ第1戦、第5戦に登板し、セ・リーグ最多勝の小野和幸と投げ合い、第1戦は8回途中を1失点に抑え勝ち投手になり、第5戦は3回途中4失点(自責点は3)で勝ち負けつかなかったが、日本一に貢献した。 1990年5月9日の日本ハム戦に先発した渡辺は、9回までノーヒットピッチングだったが、西武打線も柴田保光の前に無得点に抑えられ、延長戦となった。10回もノーヒットを続けたが、11回に小川浩一にヒットを許し、ノーヒットノーラン達成はならなかった。試合は12回表に西武が先制、渡辺は11回無失点で勝利投手になった。日本シリーズでも1988年の日本シリーズに続いて開幕投手を務め、チーム4連勝の勢いを付ける完封勝利を記録した。 1991年は、開幕戦を完投勝利で飾った後は打ち込まれる日が続き、5月4日の近鉄戦では1回もたずにKOされ、自ら二軍での再調整を申し出て一軍登録を抹消される。その後も振るわず、自身初の防御率4点台を記録し、勝敗も初めてシーズン負け越しを記録した。日本シリーズでは第3戦に登板し、2年連続初登板完封勝利を記録。チーム日本一に貢献した。 1992年10月10日の日本ハム戦では打席に入り、左前安打を記録した。当時は交流戦がなく、これは日本シリーズを見据えた采配であり、同試合では同僚の潮崎哲也、石井丈裕も打席に立ったが、三振を喫しなかったのは渡辺だけであった。その後パ・リーグでの投手の安打は2001年9月29日でジェレミー・パウエル(同じく日本シリーズを見据えて送りバントをしたがそれが内野安打となった)まで、約9年間記録されなかった(松坂大輔が2000年に安打を記録しているが代打での記録であり、投手として記録したものではない)。 1993年、シーズンでは自己ワーストの14敗を記録(この年のリーグワースト2位の敗戦数)。日本シリーズで第3戦で勝利投手になったが、第7戦で敗戦投手となり日本一を逃した。なお自身のシリーズ敗戦投手は1986年の日本シリーズ以来の11試合ぶりの敗戦投手(リリーフ登板)で先発登板での敗戦投手はこれが最初で最後だった。 1994年は、4シーズン振りに勝ち越し、自身最後の規定投球回をクリアしたシーズンとなった。9勝8敗の成績でチームの5年連続リーグ優勝に貢献した。巨人との日本シリーズでは2年ぶりに開幕投手を務め、自身最後のシリーズ勝利投手(通算7勝目であったが、全ての勝利は相手側球場での勝利で一度も本拠地での勝利は挙げれなかった)となったが、チームは日本一を逃した。11月5日の契約更改で1億2800万円から65%アップの年俸2億1000万円の提示に満足してサインした。実は、この金額は、“新年俸”1億6000万円に“引き留め料”の5000万円が加算されたものだったが、渡辺自身は記者会見で「FA宣言はしていませんよ」とコメントし、純粋な大幅年俸アップと思い込んでいたようだ。報道陣から「それはFAを行使したことになるんだよ」と指摘された渡辺は「知らなかった」とビックリ仰天したものの、「まあ、西武に残るつもりで、ここに来たし、球団の誠意も感じられたからいいです」と自らを納得させていた。 1995年、東尾修が監督に就任し、シーズン初登板こそ先発で延長10回途中まで無失点の好投はしたが、それ以降先発で4試合全て負けて4連敗となった。次の登板で先発勝利したが、内容の悪さから中継ぎに降格となり、リリーフ初登板で失点し、シーズンの大半を二軍で過ごすことになった。終盤に一軍に昇格し抑えを経験した。先発では7試合1勝4敗防御率6.43が、復帰後抑えに回ってからは11試合2勝0敗5S防御率1.65の好成績だったが、本人の先発志向が強かったため、翌年も先発投手としてシーズンを迎えた。 1996年6月11日のオリックス戦でノーヒットノーランを達成した。シーズンでは、開幕からローテーションに入り、チームが下位に低迷する中でノーヒットノーランを記録した6月まで、西口文也の9勝に次ぐ6勝(4敗)と奮闘していたが、6月末から8月末まで5連敗し、チームが若手主体に切り替えたことにより二軍降格し、そのままシーズンを終える形になった。 1997年は主に谷間の先発を務めたが、プロ入り初の一軍未勝利に終わり、日本シリーズでも第3戦の8回にリリーフ登板したが、伊東勤が出した変化球のサインを見間違えストレートを投げた結果、先頭バッターの古田敦也に勝ち越しホームランを打たれ、さらに投手の高津臣吾に適時打を打たれるなど不本意な結果となった。 同年オフ、西武はチームの若返りを目指す球団方針から渡辺のトレードを検討したが、高額年俸(推定1億1300万円)がネックになったことから、11月23日に戦力外通告を言い渡した。渡辺は現役続行を希望し、セ・パ合わせて2、3球団から入団の打診を受け、登板機会の多そうなチームへの入団を希望していた。同年12月5日、野村克也が監督を務めるヤクルトスワローズへ入団することが決まった。背番号は21で、契約条件は年俸3000万円+出来高最高3000万円であり、退団が決まっていたテリー・ブロスや吉井理人の穴を埋める先発投手としての活躍を期待されていたヤクルトを移籍先に選んだ理由は、「『野村ID野球』を学んでみたい」との思いからであった。その際に、ヤクルトの前に管理部長の根本陸夫からダイエーへの移籍を誘われたが、関東に残りたいという気持ちがあったので、移籍は実現しなかった。 1998年は、『野村再生工場』での復活を期待されたが、速球にこだわるが故に速球を痛打される機会が目立った。5月20日の横浜戦で3年ぶりの完投勝利を挙げた(自身の連敗は8でストップ)が、この1勝に終わり、19試合の登板で1勝5敗、防御率4.23の成績で終わった。ただ、本人は後に「野村さんの下で1年やってみて、指導することの面白さを感じていました」とも語っており、野村の下で自らの野球経験を理論化し整理する良い機会になったとしている。 同年オフには伊東昭光とともに現役引退を申し入れ、同年10月15日に了承された。 引退決断後、テレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者として専属契約を交わしたものの、東尾の勧めによって、指導者の勉強のため急遽台湾に渡ることとなり、台湾大聯盟・嘉南勇士の投手コーチに就任。 先輩の東尾や西武ファンの吉永小百合との会食の席で、話題が出ると、東尾は「ナベがいずれ日本で指導者をやるというのなら、一度台湾で勉強してきた方が絶対タメになるぞ。真剣に考えてみろ」と、すぐ家に帰って嫁と相談してこいといきなり言い出す。その夜、直帰後に家族会議を開いて台湾行きを決断。 しかし、言葉による意思疎通が困難であったことから、当時台湾大聯盟で技術顧問を務めていた郭泰源に通訳を手配してくれるよう要請したところ、「言葉が通じないのであれば(渡辺が)自ら投げて身をもって教えればよい」とアドバイスを受けて急遽選手兼任となり、現役に復帰することになった。中国語の家庭教師を雇って学んだ結果、1年ほどで日常会話程度はこなせるようになり、ヒーローインタビューに中国語で答えることもあった。ヒーローインタビューでは覚えた中国語で「みんなありがとう!今夜は飲みましょう!」と叫び、球場を盛り上げた。 指導という名目もあり、日本時代のような速球中心のプライドが邪魔をせず、ヤクルト時代に野村から習得を指示されていた、緩いカーブやシュート等緩急を駆使した投球の結果、入団1年目から18勝で最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得(三振も1位だったが当時の台湾大聯盟では最多奪三振のタイトルは存在しなかった)するなど、台湾球界を代表するエースとして活躍した。また、西武在籍当時の同僚であった郭や、台湾に来た石井丈裕らとともに台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。 先発すると7回か8回まで投げ、最終回は投手コーチとしてマウンドの若い選手へアドバイスを送り、チームの投手部門の殆ど全てを任されていたため、自分が交代する時は自らタイムをかけて監督を呼ぶ自己申告制であった。 伸び悩むサイドスロー投手の参考になればと、自身が1試合サイドスローで投げたら、完封勝利したこともあった。 鶏や豚だと思って食べていた肉料理が、実は田圃に棲む体長40-50cmの野ネズミだと聞かされて、噎せ返りそうになったこともあった。渡辺も台湾の選手やコーチと酒を飲み、料理を頬張りながら、台湾の文化や慣習に馴染もうと努めた。休日には一人でバスや電車に乗り、知らない町を散策し、時には原付バイクで行くこともあった。夕暮れ時には屋台や食堂にふらりと立ち寄り、居合わせたファンと野球談義に花を咲かせたこともあった。 オフの日は一人旅で台湾各地を歩き、声を掛けて来た地元の人と朝の4時まで飲み明かしたこともあり、台湾での人付き合いで酒が異様に強くなった。コーチ業では日本での選手生活晩年に二軍生活を経験したことが生き、若手との距離を縮め、自ら歩み寄り飛び込んでいった。後に3年間の台湾生活を「第二の青春時代だった」と振り返っている。 2001年シーズン途中に現役を引退し、コーチ業に専念した。台湾での経験について、渡辺は自著『寛容力』の冒頭で「指導者としての原点は台湾での3年間にある」と語っている。 引退後はテレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を経て、2004年に二軍投手コーチとして西武に復帰。2005年から二軍監督兼投手コーチ、2007年からは二軍監督専任となる。在任中は正津英志の復活に尽力した。 2008年より伊東勤の後任として一軍監督に昇格。球団主導で招聘された黒江透修をヘッドコーチに据え、自ら小野和義・大久保博元・清家政和・熊澤とおるをコーチとして招聘、チーム力を底上げし前年度Bクラスのチームを就任1年目で優勝に導いた。 リーグ優勝時には人目を憚ることなく涙を流し、「こんなに泣いたのはオグリキャップの引退レース(第35回有馬記念)以来だ」とのコメントを残した。ポストシーズンでは、クライマックスシリーズセカンドステージで日本ハムを4勝2敗(アドバンテージ含む)で破って日本シリーズに進出し、日本シリーズでは巨人を4勝3敗で破り、チームを4年ぶりの日本一に導いた。さらにアジアシリーズも制覇し、功績を評価され2008年の正力松太郎賞に選出された。 伊東の場合はレギュラーシーズン2位でプレーオフ・日本シリーズを制しての日本一であったため、西武でシーズン1位と日本シリーズ優勝を両方達成したのは森祇晶監督時代の1992年以来。また、前年Bクラスのチームを新人監督が日本一に導いたのは史上初となった。 2009年は黒江ヘッドコーチが辞任し、さらに大久保打撃コーチが不祥事によって更迭され、チーフコーチに大石友好、打撃コーチに森博幸、打撃コーチ補佐に黒田哲史が就任し首脳陣刷新して迎えるシーズンとなったが、シーズン序盤に抑え投手のアレックス・グラマンが故障で戦線離脱するなど、中継ぎ・抑え投手が軒並み調子を落とし、チームは4位と低迷した。計14回のサヨナラ負けを記録したが、これはパ・リーグにおけるワースト記録であり、両リーグを通じては1988年の広島、1993年の中日ドラゴンズと並ぶワーストタイ記録であった。球団から続投を要請され、新たに2年契約を結んだ。 2010年はリリーフ陣の崩壊で接戦を落とした前年度の反省から一転、ロッテから移籍してきたブライアン・シコースキーを抑え投手に据え、岡本篤志・藤田太陽・長田秀一郎らをセットアッパーとして起用する継投パターンを確立した。9月16日時点では2位のソフトバンクに3.5ゲーム差の首位に立ち、優勝マジック4が点灯していた。しかし、9月18日 - 20日のソフトバンク3連戦で3連敗を喫し0.5ゲーム差に迫られ、9月23日の楽天戦で敗れて2位に転落。9月26日の日本ハム戦で敗れたことでソフトバンクの優勝が決定し、監督3年目は2位で終えた。また、チーム防御率は前身クラウンライター時代以来、33年ぶりのリーグ最下位に転落した。クライマックスシリーズファーストステージでロッテと対戦するが、2試合連続で延長戦に突入した末に2連敗を喫し、シーズンを終えた。その後、進退伺を提出したと報道されたが、「負けっぱなしではいられない」との本人の意向から、2011年シーズンの続投が決定した。 2011年は投手陣の不振が主因となって、前半戦を球団史上15年ぶりの最下位で折り返すこととなった。また、球団史上32年ぶりとなる最大15の負け越しを記録し、7月12日から25日にかけては球団史上初の3カード連続の同一カード3連敗を喫するなどチーム成績は低迷した。後半戦以降、新人の牧田和久を抑え投手として抜擢し、セットアッパーとして起用したミンチェ・岡本篤志の2人と併せて勝ち試合における継投パターンを確立して投手陣をてこ入れし、さらに中島裕之をキャプテンに任命してチームの建て直しを図った。また、3年目の浅村栄斗や新人の秋山翔吾といった若手野手を辛抱強く起用した結果、9月14日から27日にかけて2つの引き分けを挟んで10連勝を記録するなど9月の月間成績を19勝5敗とし、クライマックスシリーズ出場へ望みを繋いだ。3位のオリックスと1ゲーム差の4位で迎えた10月18日のシーズン最終戦(日本ハム戦)に勝利、同日オリックスが敗れたことから、わずか勝率1毛差で3位に浮上しクライマックスシリーズ出場を決めるとともに、最大15あった借金を完済し勝率5割以上の成績で公式戦全日程を終了した。また同日試合終了後、球団からの来季続投要請を受諾し、1年契約で2012年シーズンも指揮を執ることを表明した。クライマックスシリーズファーストステージにおいては日本ハムを2連勝で破りファイナルステージ進出を決めたが、ファイナルステージにおいてソフトバンクに0勝4敗で敗退した。 2013年、終盤までソフトバンク、ロッテなどのクライマックスシリーズ争いが続き、10月5日にCS進出が決定、9月29日から7連勝で2位に浮上し、最終戦は3位のロッテと2位とCSファーストステージ本拠地開催権をかけての試合で勝利し、8連勝で2位でシーズンを終える。しかしCSファーストステージではロッテに1勝2敗で敗れ、敗退が決まった翌日の10月15日に球団に監督辞任を申し入れ、球団に了承された。渡辺は記者会見で「今年の優勝が楽天に決まったときには、監督を退こうかなと思っていました」と述べた。 2013年10月17日、西武球団シニアディレクターへの就任が発表された。本人は後に、この異動について「今度はフロントとしてチームを見ていきたい、という気持ちが出てきた」「『やるからには根本さんを目指す』と決めました」と語っている。 2017年1月1日、シニアディレクターと兼任で、編成部長への就任が発表された。 2018年10月21日、2019年1月1日付でのゼネラルマネージャーへの就任が発表された。 2024年5月26日、監督の松井稼頭央が同日のオリックス戦を最後に休養に入り、代わりに5月28日の対中日戦から渡辺が兼任で監督代行として指揮を執ることが発表された。渡辺にとって11年ぶりの現場復帰となった。背番号は72で、形式的に「コーチ」として登録されたのち、5月27日付けで監督代行として公示された。監督代行就任後2試合目となる5月29日の対中日戦で初勝利を挙げた。交流戦は4勝14敗の最下位に終わった。就任会見ではAクラス入りを目標に掲げたが、8月30日の日本ハム戦に敗れ、就任後の成績を21勝49敗2分けとし、Bクラス入りが決定した。9月10日の日本ハム戦に負け最下位が確定した。10月9日のシーズン最終戦で退団を発表し、「GMとしてほとんどの選手の獲得に関わってきた。けじめをつけないといけない。この球団に残るのはおかしいと思う」と責任を受け止め、ゼネラルマネージャーからも退くこととなった。 常時140km/h台の速球(プロ入り後の最高球速は150km/h)を軸に、スライダー・カーブ・フォークボールを交える典型的な力投型投手であり、コントロールの緻密さには欠けるものの球のキレと球威で勝負するタイプであった。また、1989年・1990年には2年連続で投球回数が200イニングを突破するなど、体力や回復力にも恵まれた投手であった。なお、その投球スタイル故に奪三振が多かった代償として被安打・被本塁打もまた多く、1989年・1990年には最多被安打を、1989年には最多被本塁打を記録している。 もっとも、力投型投手の多くがそうであったように、渡辺もまた力の衰えが見え始めた現役晩年に至っても全盛期のような力で押す投球スタイルから脱却できず、速球を痛打される機会が目立った。当時の西武監督であった東尾からは速球が通用するうちに投球の組み立てを変えるようアドバイスを受けたが、自身の体に残る全盛期のイメージが邪魔をしてモデルチェンジできなかったという。 小学校5年生から6年生のころ、白血病を罹患していた近所の児童(自身が中学校へ進学した頃に死去)を背負って登校していた。 愛称は「ナベ」「ナベQ」。現役時代は、私服でDCブランドを着こなし、さらにグラウンド内外でのファッション・アクションが球界や社会に影響を与え、西武時代のチームメイトであった工藤や清原和博と共に『新人類』と称された。さらに185cmの長身でスリムなことから西崎幸広・阿波野秀幸・星野伸之らと「トレンディエース」と並び称され、女性ファンから絶大な支持を受けていた。入団2年目ごろまではまだ年俸が低かったため、年収の2/3ほどを洋服代に費やし、税金が払えなくなり督促状が届いたこともある。しかし、1991年4月頃から頭髪が薄くなり、さらに台湾へ渡ってからは屋台飯にはまったことが原因で太り気味にもなってしまい、選手達にも「今じゃ信じられないだろうが、昔はこれでも西崎さん・阿波野さんと並んでイケメンと言われていたんだ」と自虐的にジョークを飛ばしている。 現役時代の愛車は最初に買った中古のBMWを除き、メルセデス・ベンツ一筋。当時の西武には土井正博(2軍打撃コーチ)と東尾の名球会コンビ以外は、ベンツに乗ってはならないとする暗黙のルールが存在したが、これを破りプロ入り3年目にベンツを購入し、これ以降多くの同僚選手が相次いでベンツを買ったため、後に「私が“ベンツ解禁”の先駆者になった」と語っている。 入団当時の監督であった広岡達朗の『管理野球』には辟易したと語る。選手寮に入って初めての食事の際、ご飯が茶色い玄米であったことと、冷蔵庫に牛乳が入っておらず豆乳のみであったことに驚かされたという。当時の玄米にしても豆乳にしても現在のような洗練された味ではなかったことから非常に不味かったが、おかずだけは美味しかったために何とかなったと回想している。渡辺自身、管理されるのが最も嫌いな性格であったことから、将来「監督になったら絶対に管理はしないぞ」と誓ったという。その一方で「今思えばその経験が良かったと思う。『新人類』と騒がれても、道は断じて踏み外していない。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎を作ってもらったのかも知れない」、「蹴飛ばされたこともあったが、若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と当時を振り返っている。 工藤や清原からは「今までやってきた27年間の中でプロ野球投手としては最高の存在」と高い評価を受けている。工藤によると、素質・筋肉の質・関節の柔軟性がどれを取っても一流で、肺活量は7,500cc(通常プロは6,000cc前後)もあったという。また、工藤は「もう時効だから言いますけど、アイツ中学生の頃から喫煙していたにもかかわらず肺活量が並外れていて、それでいて筋肉の質も超一流。シーズン200イニング以上投げておきながら、試合後はまったくマッサージを受けないで平気でした。僕がマッサージを受けてる横から『工藤さん、お先です』って行って飲みにいってしまったの。今では200イニング投げるピッチャーっていませんよ」と述べている。また、清原はオリックスで引退した2008年、対西武最終戦で渡辺から花束を贈呈された際、「若手の頃に一番可愛がってくれた先輩。本当に感激した。」と号泣した。菊池雄星との対談では、「渡辺監督と潮崎コーチなんて手本が揃ってるチームは滅多にない。特に渡辺監督。あの人についていけばまず大丈夫」とその手腕を絶賛した。 酒の強さも人並み外れており、1年後輩の大久保博元からは「西武時代の同僚で一番酒に強かった」「どんなに飲んでも、二日酔いが人生で一度もない人」と評されている。現役当時は「5人でヘネシー5本は飲む」という中で「一番飲んでるのが僕(大久保)とナベちゃん」だったという。監督となってからも「若い頃と飲みっぷりが変わらなかったし、酔っぱらわない」としている。 基本的には怒らないことを指導方針としているが、プロ意識を欠いた人間を非常に嫌う。台湾時代には新人ながら素質十分で練習しなくても活躍し、そのため首脳陣も何も口を出さなかった投手を呼びつけて「お前がどんなに優れた才能を持っていても、今の態度じゃ俺達のチームはお前なんていらない」と叱ったり、失策を犯した後に好プレーをした三塁手がコーチとハイタッチしているのを見て、試合後「こんな馴れ合いの環境じゃ、絶対に強くなれないぞ」と怒鳴りつけたりしたこともある。 西武二軍監督時代も「一人前の野球選手になる前に、まずは一人前の社会人にならなければならない」との方針から、若手選手の緊張感を欠いた態度には厳しく接した。 球団本部ゼネラルマネージャーとしては、大久保博元が「選手の幕引きまで考える人」と評している。これは、松坂大輔を古巣の西武に戻して西武の選手として引退させた事実を踏まえた上での評価である 現役時代にブライアントに本塁打を打たれた後で森祇晶監督に配球を責められた経験から、監督時代は結果だけで選手を責めないよう心掛けていたと語っている。 各年度の太字はリーグ最高 順位の太字は日本一 2024年は松井稼頭央監督の休養後、5月27日からシーズン終了まで監督代行。 勝敗の太字は勝利したシリーズ 最多勝利:3回 (1986年、1988年、1990年) 最高勝率:1回 (1986年) 最多勝利 (1999年) 最優秀防御率 (1999年) ベストナイン:1回 (投手部門:1986年) ゴールデングラブ賞:1回 (投手部門:1990年) 日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1990年、1991年) 正力松太郎賞:1回 (2008年)※監督として表彰 新語・流行語大賞 流行語部門金賞 (1986年、「新人類」、清原和博・工藤公康と共同で受賞) 日本プロスポーツ大賞 特別賞 (2008年) ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」 (2008年) 桐生市民栄誉賞 (2009年1月) 初登板:1984年6月29日、対日本ハムファイターズ14回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に2番手として救援登板・完了、1回無失点 初奪三振:同上、9回表に五十嵐信一から 初先発登板:1984年7月5日、対ロッテオリオンズ14回戦(西武ライオンズ球場)、8回2失点 初完投:1984年7月19日、対阪急ブレーブス19回戦(西武ライオンズ球場)、6回1失点(雨天コールド) 初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1984年8月18日、対ロッテオリオンズ18回戦(西武ライオンズ球場)、9回2失点 初セーブ:1985年5月17日、対阪急ブレーブス7回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に4番手として救援登板・完了、2回無失点 初完封勝利:1986年5月26日、対近鉄バファローズ8回戦(西武ライオンズ球場) 初安打:1992年10月10日、対日本ハムファイターズ25回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に金石昭人から左前安打 1000投球回:1990年5月22日、対日本ハムファイターズ5回戦(東京ドーム)、1回裏3死目に達成 1000奪三振:1991年10月2日、対ロッテオリオンズ24回戦(西武ライオンズ球場)、3回表に佐藤兼伊知から ※史上83人目 1500投球回:1993年4月10日、対福岡ダイエーホークス1回戦(西武ライオンズ球場)、4回表2死目に達成 100勝:1993年5月12日、対オリックス・ブルーウェーブ5回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点完投勝利 ※史上106人目 1500奪三振:1996年7月9日、対日本ハムファイターズ15回戦(東京ドーム)、6回裏にバーナード・ブリトーから ※史上40人目 2000投球回:1997年6月14日、対日本ハムファイターズ13回戦(西武ライオンズ球場)、4回表1死目に達成 最多奪三振:1回 (1986年)※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは、1989年より表彰 ノーヒットノーラン:1996年6月11日、対オリックス・ブルーウェーブ12回戦(西武ライオンズ球場) ※史上63人目 オールスターゲーム出場:6回 (1985年、1986年、1988年 - 1990年、1992年) 6連勝 (1986年第6戦 - 1993年第3戦) ※シリーズ記録 2試合連続完封勝利 (1990年第1戦、1991年第3戦) ※シリーズタイ記録 通算6暴投 ※シリーズ記録 1シリーズ2暴投 (1988年、1993年) ※シリーズタイ記録、2度記録したのは渡辺のみ 1試合2暴投 (1988年第1戦) ※シリーズタイ記録 41(1984年 - 1997年、1999年 - 2001年) 21(1998年) 74(2004年 - 2007年) 99(2008年 - 2013年) 72(2024年5月27日 - 同年終了) 『寛容力 〜怒らないから選手は伸びる〜』(講談社 2008年11月11日) ISBN 978-4062150002 『プロ野球の練習法から ―新しい「理論」と「実践」を指導―』 (ティアンドエイチ株式会社 2003年) ^ 当初、2位指名予定の辻発彦を繰り上げる方向だったが、出席していた広岡達朗監督が「まだ渡辺が残っている」と指摘し、急遽指名されたという。 ^ 台湾ではポピュラーな食材である。 ^ 西武が日本シリーズ制覇を決めた11月9日には、奇しくもオグリキャップが、18年振りに東京競馬場に登場していた。 ^ 公式戦全日程終了時における西武の勝率は.50370(68勝67敗9分)、一方オリックスの勝率は.50364(69勝68敗7分)であり、一般に「1毛差」と解説されるが、実際には「6糸差」という極々わずかな勝率の差による逆転劇であった。 ^ 「ナベQ」は、渡辺智男の西武入団以降、活字メディアで「渡辺久」と表記される機会が増えたことから、「久」の字の音読みをアルファベットにしたもの。ただし、同姓の選手がいた場合でも、ユニフォームの背中のネームは「エッチ渡辺(H.WATANABE)」に見えることを嫌い頭文字は入れなかった。 ^ なお、渡辺から見て先輩に当たる工藤は、渡辺が監督を務める西武に2010年の1シーズン現役選手として所属した。 ^ 「12球団週間報告新春特別企画 西武ライオンズ」『週刊ベースボール』第39巻第2号、ベースボール・マガジン社、1984年1月16日、64頁。「NDLJP:7909260/33」 - 通巻:第1444号(1984年1月16日号)。 ^ 聞き手:鈴木葉留彦「ヤングレオ“翔んでるトーク“ 西武・渡辺久信 楽しんで投げたら最多勝!それもこれも“暗黒”の高校時代があったから…だから両刀(先発・抑え)でも苦になりません」『週刊ベースボール』第41巻第57号、ベースボール・マガジン社、1986年12月29日、115頁。「NDLJP:7909436/58」 - 通巻:第1619号(1986年12月29日号)。 ^ 『AERA』2000年5月15日号。 ^ 【私の失敗(1)】渡辺久信、忘れられないブライアントへのあの1球(1/2ページ) - サンスポ ^ 読売新聞1991年5月6日18面 ^ “あわや「セルフ戦力外」危機も…FA行使を巡る驚くべき“3つの珍事件””. デイリー新潮. (2022年11月21日). https://www.dailyshincho.jp/article/2022/11211700/?all=1 ^ 23年前、渡辺久信が大記録を遂げられた理由は? | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE ^ 『東京新聞』1997年11月24日朝刊運動3面16頁「【西武】渡辺久に戦力外通告」(中日新聞東京本社) ^ 『中日新聞』1997年11月24日朝刊運動2面16頁「渡辺久に戦力外通告 西武」(中日新聞社) ^ 『中日新聞』1997年11月26日朝刊運動2面22頁「複数球団が渡辺久に打診」(中日新聞社) ^ 『読売新聞』1997年12月6日東京朝刊スポーツB面20頁「西武を自由契約の渡辺久、ヤクルトに入団 背番号は21」(読売新聞東京本社) ^ 『寛容力』 p.78 ^ 渡辺久信は根本陸夫の誘いを断り、野村克也のヤクルト入りを決断した - Sportiva・2021年5月5日 ^ 『読売新聞』1998年10月16日東京朝刊スポーツA面23頁「ヤクルトの渡辺、伊東の両投手が引退」(読売新聞東京本社) ^ 『寛容力』 p.72 - 74 ^ 中溝康隆『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」 (新潮新書)』新潮社、2021年5月17日、ISBN 4106109077、p194。 ^ 『寛容力』 p.90 ^ 【私の失敗(3)】渡辺久信、通訳不在にがく然…指導できない - サンケイスポーツ・2015年5月7日 ^ 中溝康隆『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」 (新潮新書)』、p195。 ^ 那魯湾股份有限公司『台灣職棒大聯盟六年紀錄年鑑』、2003年 ^ 『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」 (新潮新書)』、pp194-195。 ^ 赤坂英一「プロ野球 二軍監督ー男たちの誇り」2011年4月25日、講談社、ISBN 4062167875、p71。 ^ 渡辺SDがフロントトップに立ったとき、常勝軍団・西武ライオンズがよみがえる 産経新聞 ^ “【野球】子年のプロ野球 巨人&オリックスに縁起よし?”. デイリースポーツ online (2020年1月5日). 2022年6月23日閲覧。 ^ ナベQ男泣き!西武4年ぶり21度目V (2/3ページ)(SANSPO.COM 2008年9月27日 05:12) ^ 西武 球団初の屈辱9連敗 - 日刊スポーツ 2011年7月21日 ^ 1毛差CS!借金最大15から最終戦で大逆転!…西武 - スポーツ報知 2011年10月19日 ^ ナベQ続投1年契約「来年もやります」 - 日刊スポーツ 2011年10月19日 ^ 朝日新聞2013年10月6日スポーツ面 ^ 西武、8連勝締め!2位死守でCS本拠地開催決めたスポーツニッポン2013年10月8日配信 ^ 朝日新聞2013年10月15日夕刊スポーツ面 ^ 渡辺久信監督が辞意を表明西武球団公式サイト2013年10月15日配信 ^ 渡辺前監督シニアディレクターに就任西武球団公式サイト2013年10月17日配信 ^ 球団本部の人事異動について西武球団公式サイト2016年12月26日配信 ^ 球団本部の人事異動について西武球団公式サイト2018年10月21日配信 ^ “【西武】松井稼頭央監督が休養へ 渡辺久信GMが監督代行 26日のオリックス戦を最後に”. 日刊スポーツ (2024年5月26日). 2024年8月31日閲覧。 ^ “【西武】渡辺久信監督代行 11年ぶりにユニホームを着用してグラウンドへ”. 日刊スポーツ (2024年5月28日). 2024年7月14日閲覧。 ^ “西武・松井監督休養 監督代行の渡辺GM「責任感じている…プロ野球人生かけてやっていく」 - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2024年5月26日閲覧。 ^ 2024年度 監督・コーチ一覧(埼玉西武ライオンズ) 日本野球機構(2024年5月27日閲覧) ^ “【西武】渡辺久信GM監督代行として初勝利 11年ぶりユニホームでうれしい白星”. 日刊スポーツ (2024年5月29日). 2024年7月14日閲覧。 ^ “【西武】交流戦最下位4勝14敗、最後は4連敗で借金25「なかなか投打もかみ合わず」監督代行”. 日刊スポーツ (2024年6月16日). 2024年7月20日閲覧。 ^ “西武大刷新 渡辺監督代行辞任へ 内部昇格なら西口2軍監督が有力候補、外部招聘の可能性も「なかなか投打もかみ合わず」監督代行”. スポニチ Sponichi Annex (2024年8月30日). 2024年8月31日閲覧。 ^ 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東京ヤクルトスワローズの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 個人年度別成績 渡辺久信 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 宮崎要 1950 三原脩 1951 - 1959 川崎徳次 1960 - 1961 中西太 1962 - 1969 稲尾和久 1970 - 1974 江藤慎一 1975 (レオ・ドローチャー 1976当初) 鬼頭政一 1976 - 1977 根本陸夫 1978 - 1981 広岡達朗 1982 - 1985 森祇晶 1986 - 1994 東尾修 1995 - 2001 伊原春樹 2002 - 2003 伊東勤 2004 - 2007 渡辺久信 2008 - 2013 伊原春樹 2014 田邊徳雄 2015 - 2016 辻発彦 2017 - 2022 松井稼頭央 2023 - 2024 西口文也 2025 - 現在 表 話 編 歴 1977 王貞治 1978 広岡達朗 1979 西本幸雄 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 田淵幸一 1984 衣笠祥雄 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 工藤公康 1988 門田博光 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄, イチロー 1995 イチロー 1996 仰木彬 1997 古田敦也 1998 佐々木主浩 1999 王貞治 2000 松井秀喜 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治, 星野仙一 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 王貞治 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳, 阿部慎之助 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 デニス・サファテ 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 2004 イチロー 2013 田中将大 2021 稲葉篤紀, 大谷翔平 2022 村上宗隆 2023 栗山英樹, 大谷翔平 2024 大谷翔平 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 水原茂 1963 川上哲治 1964 鶴岡一人 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 藤田元司 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 仰木彬 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 王貞治 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 落合博満 2008 渡辺久信 2009 原辰徳 2010 西村徳文 2011 秋山幸二 2012 原辰徳 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 工藤公康 2019 工藤公康 2020 工藤公康 2021 高津臣吾 2022 中嶋聡 2023 岡田彰布 2024 三浦大輔 表 話 編 歴 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1950 湯浅禎夫 1951 山本一人 1952 山本一人 1953 山本一人 1954 三原脩 1955 山本一人 1956 三原脩 1957 三原脩 1958 三原脩 1959 鶴岡一人 1960 西本幸雄 1961 鶴岡一人 1962 水原茂 1963 中西太 1964 鶴岡一人 1965 鶴岡一人 1966 鶴岡一人 1967 西本幸雄 1968 西本幸雄 1969 西本幸雄 1970 濃人渉 1971 西本幸雄 1972 西本幸雄 1973 野村克也 1974 金田正一 1975 上田利治 1976 上田利治 1977 上田利治 1978 上田利治 1979 西本幸雄 1980 西本幸雄 1981 大沢啓二 1982 広岡達朗 1983 広岡達朗 1984 上田利治 1985 広岡達朗 1986 森祇晶 1987 森祇晶 1988 森祇晶 1989 仰木彬 1990 森祇晶 1991 森祇晶 1992 森祇晶 1993 森祇晶 1994 森祇晶 1995 仰木彬 1996 仰木彬 1997 東尾修 1998 東尾修 1999 王貞治 2000 王貞治 2001 梨田昌孝 2002 伊原春樹 2003 王貞治 2004 伊東勤 2005 ボビー・バレンタイン 2006 トレイ・ヒルマン 2007 トレイ・ヒルマン 2008 渡辺久信 2009 梨田昌孝 2010 秋山幸二 2011 秋山幸二 2012 栗山英樹 2013 星野仙一 2014 秋山幸二 2015 工藤公康 2016 栗山英樹 2017 工藤公康 2018 辻発彦 2019 辻発彦 2020 工藤公康 2021 中嶋聡 2022 中嶋聡 2023 中嶋聡 2024 小久保裕紀 表 話 編 歴 1950 野村武史 1951 中谷信夫 1952 柚木進 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 中村大成 1956 植村義信 1957 稲尾和久 1958 秋本祐作 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 皆川睦男 1963 田中勉, 森中千香良 1964 J.スタンカ 1965 林俊彦 1966 皆川睦男 1967 石井茂雄 1968 村上雅則 1969 清俊彦 1970 佐々木宏一郎 1971 山田久志 1972 佐藤道郎 1973 八木沢荘六 1974 竹村一義 1975 鈴木啓示, 野村収 1976 山田久志 1977 稲葉光雄 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 間柴茂有 1982 工藤幹夫 1983 高橋直樹 1984 石川賢 1985 石本貴昭 1986 渡辺久信 1987 工藤公康 1988 郭泰源 1989 星野伸之 1990 野茂英雄 1991 工藤公康 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 郭泰源 1995 平井正史 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 黒木知宏 1999 篠原貴行 2000 小野晋吾 2001 田之上慶三郎 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 斉藤和巳 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉 2010 杉内俊哉 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 岸孝之 2015 大谷翔平 2016 和田毅 2017 千賀滉大 2018 M.ボルシンガー 2019 山岡泰輔 2020 石川柊太 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 伊藤大海 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 江藤正 1952 野口正明 1953 川崎徳次 1954 宅和本司, 田中文雄 1955 宅和本司 1956 三浦方義 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保征弘 1963 稲尾和久 1964 小山正明 1965 尾崎行雄 1966 米田哲也 1967 池永正明 1968 皆川睦男 1969 鈴木啓示 1970 成田文男 1971 木樽正明 1972 山田久志, 金田留広 1973 成田文男 1974 金田留広 1975 東尾修 1976 山田久志 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 今井雄太郎, 村田兆治 1982 工藤幹夫 1983 東尾修, 山内和宏 1984 今井雄太郎 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 山沖之彦 1988 渡辺久信, 西崎幸広, 松浦宏明 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野田浩司, 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 K.グロス 1996 K.グロス 1997 西口文也, 小池秀郎 1998 西口文也, 武田一浩, 黒木知宏 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 涌井秀章 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 和田毅, 金子千尋 2011 D.ホールトン, 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平, 涌井秀章 2016 和田毅 2017 東浜巨, 菊池雄星 2018 多和田真三郎 2019 有原航平 2020 千賀滉大, 石川柊太, 涌井秀章 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平、伊藤大海 表 話 編 歴 1950 米川泰夫 1951 阿部八郎 1952 柚木進 1953 米川泰夫 1954 宅和本司 1955 河村久文 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 杉浦忠 1961 稲尾和久 1962 米田哲也 1963 稲尾和久 1964 尾崎行雄 1965 尾崎行雄 1966 田中勉 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 成田文男 1974 鈴木啓示 1975 東尾修 1976 村田兆治 1977 村田兆治 1978 鈴木啓示 1979 村田兆治 1980 木田勇 1981 村田兆治 1982 松沼博久 1983 山沖之彦 1984 佐藤義則 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 阿波野秀幸 1988 小川博 1989 阿波野秀幸 1990 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 伊良部秀輝 1996 工藤公康 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 松坂大輔 2004 新垣渚 2005 松坂大輔 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 杉内俊哉 2009 杉内俊哉 2010 ダルビッシュ有 2011 ダルビッシュ有 2012 田中将大 2013 金子千尋 2014 則本昂大 2015 則本昂大 2016 則本昂大 2017 則本昂大 2018 則本昂大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大, 山本由伸 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 今井達也 表 話 編 歴 投 渡辺久信 捕 伊東勤 一 ブーマー.W 二 辻発彦 三 落合博満 遊 石毛宏典 外 横田真之 / 秋山幸二 / 新井宏昌 指 石嶺和彦 表 話 編 歴 1972 足立光宏 1973 成田文男 1974 足立光宏 1975 足立光宏 1976 足立光宏 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 東尾修 1984 東尾修 1985 東尾修 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 西崎幸広 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 郭泰源 1992 郭泰源 1993 野田浩司 1994 工藤公康 1995 工藤公康 1996 西崎幸広 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 西口文也 2003 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 松坂大輔 2006 松坂大輔 2007 ダルビッシュ有 2008 ダルビッシュ有 2009 涌井秀章 2010 涌井秀章 2011 田中将大 2012 田中将大 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 涌井秀章 2016 涌井秀章 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 L.モイネロ 表 話 編 歴 1950 若林忠志 1951 江藤正 1952 大神武俊 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 柚木進 1956 川崎徳次 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 中西勝己 1961 J.スタンカ 1962 土橋正幸 1963 稲尾和久 1964 J.スタンカ 1965 杉浦忠 1966 渡辺泰輔 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 石井茂雄 1970 木樽正明 1971 足立光宏 1972 山田久志 1973 江本孟紀 1974 金田留広 1975 足立光宏 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 井本隆 1980 井本隆 1981 高橋一三 1982 松沼博久 1983 松沼博久 1984 山田久志 1985 松沼博久 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 渡辺久信 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 工藤公康 1992 渡辺久信 1993 工藤公康 1994 渡辺久信 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 若田部健一 2001 J.パウエル 2002 松坂大輔 2003 斉藤和巳 2004 石井貴 2005 清水直行 2006 ダルビッシュ有 2007 ダルビッシュ有 2008 涌井秀章 2009 武田勝 2010 成瀬善久 2011 和田毅 2012 吉川光夫 2013 則本昂大 2014 J.スタンリッジ 2015 武田翔太 2016 大谷翔平 2017 千賀滉大 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平 表 話 編 歴 1950 木下勇 1951 武末悉昌 1952 川崎徳次 1953 川崎徳次 1954 太田正男 1955 長坂衛 1956 河村久文 1957 島原幸雄 1958 河村久文 1959 島原幸雄 1960 稲尾和久 1961 稲尾和久 1962 稲尾和久 1963 稲尾和久 1964 田中勉 1965 田中勉 1966 田中勉 1967 田中勉 1968 池永正明 1969 与田順欣 1970 池永正明 1971 高橋明 1972 高橋明 1973 加藤初 1974 三浦清弘 1975 東尾修 1976 東尾修 1977 東尾修 1978 山下律夫 1979 東尾修 1980 東尾修 1981 東尾修 1982 森繁和 1983 高橋直樹 1984 東尾修 1985 東尾修 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 工藤公康 1989 工藤公康 1990 渡辺久信 1991 渡辺久信 1992 工藤公康 1993 渡辺久信 1994 郭泰源 1995 郭泰源 1996 新谷博 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 西口文也 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 松坂大輔 2003 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 松坂大輔 2006 西口文也 2007 西口文也 2008 涌井秀章 2009 涌井秀章 2010 涌井秀章 2011 涌井秀章 2012 涌井秀章 2013 岸孝之 2014 岸孝之 2015 牧田和久 2016 菊池雄星 2017 菊池雄星 2018 菊池雄星 2019 多和田真三郎 2020 Z.ニール 2021 髙橋光成 2022 髙橋光成 2023 髙橋光成 2024 今井達也 表 話 編 歴 1位:渡辺久信 2位:辻発彦 3位:青山道雄 4位:川村一明 5位:仲田秀司 表 話 編 歴 ジェーン・コンドン(『タイム』フリー記者) 渡辺和博(イラストレーター) 近藤道生(博報堂生活総合研究所社長) 慶應義塾大学体育会 雁屋哲 清原和博、工藤公康、渡辺久信 伊丹十三、宮本信子 安部譲二 ニコライ・ソロビエフ(駐日ソビエト連邦大使) 若尾文子 河本和子(弁護士) 堀田かつひこ、土井たか子 三上遵太郎(松下電器産業電化研究所所長) トーマス・リード(『ワシントン・ポスト』東京支局記者) 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 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watanabe hisanobu
渡辺久信と同じ誕生日8月2日生まれ、同じ群馬出身の人
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