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大久保博元の情報 (おおくぼひろもと)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

大久保博元の情報(おおくぼひろもと) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大久保 博元さんについて調べます

■名前・氏名
大久保 博元
(読み:おおくぼ ひろもと)
■職業
野球選手
■大久保博元の誕生日・生年月日
1967年2月1日 (年齢57歳)
未年(ひつじ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
茨城出身

(昭和42年)1967年生まれの人の年齢早見表

大久保博元と同じ1967年生まれの有名人・芸能人

大久保博元と同じ2月1日生まれの有名人・芸能人

大久保博元と同じ出身地茨城県生まれの有名人・芸能人


大久保博元と関係のある人

中村紀洋: 2016年1月下旬には、全日本野球協会主催の2015年度野球指導者講習会で、大久保博元と共に打撃実技指導の講師を担当。


古木克明: また、平行して大久保博元の下で練習を行なっていた。


渡辺久信: 球団本部ゼネラルマネージャーとしては、大久保博元が「選手の幕引きまで考える人」と評している。


山本昌広: 大久保博元は「思ったより曲がる変化球は軟投派の打ち崩し方である流し打ちで対処できたが、その変化球が頭から離れなくなると135km/hのストレートが150km/hに感じるようになった。


宮下昌己: また大久保博元が主催する野球塾でも講師を務めている。


黒田正宏: 西武時代は大久保博元の仲人を務めたことがあるが、黒田のダイエーヘッドコーチ就任後、西武の首脳陣は、黒田と親しい関係であった大久保が「チームの内情をバラすかもしれない」と疑った。


四條稔: またコンビニ経営と並行して大久保博元が主催する『デーブ ベースボール アカデミー』のコーチも行っていた。


与田剛: オフに大久保博元の監督辞任に伴い、後継監督候補に立浪和義や山﨑武司、橋上秀樹、佐々木主浩、斎藤隆らとともに名前が挙がったが、これは実現せず、梨田昌孝が監督に就任。


渡辺久信: 酒の強さも人並み外れており、1年後輩の大久保博元からは「西武時代の同僚で一番酒に強かった」「どんなに飲んでも、二日酔いが人生で一度もない人」と評されている。


松井稼頭央: その後5月、6月にはいずれも月間打率2割台前半と不振に陥ったが、監督代行を務めた大久保博元により一番打者に抜擢されると打率を上げ、7月には月間打率リーグ3位となる.364を記録し、8月には月間打率リーグ1位となる.380を記録し月間MVPを受賞した。


吉原孝介: しかし、自己最多の49試合に出場した(特に桑田との相性を買われ先発投手では最多10試合コンビを組んだ)がトレードで大久保博元が加入し、一軍には常時ベンチ入りするものの出場機会が恵まれずにいた。


伊原春樹: 過去には鉄拳制裁も辞さなかった時期があり、清原和博はデビュー1年目に、西武第三球場での練習中に多数のファンが見守る前で伊原に殴られ「八重歯が(唇を)貫通した」と語ったほか、大久保博元は伊原に「硬球を持ったまま殴られ、顔面が(硬球の)縫い目だらけになった」と語っている(なお当時の西武では、伊原以外のコーチも鉄拳制裁を行うことが常態化していた)。


定詰雅彦: 登録名を「ジョー」とし(他の捕手として大久保博元(登録名は「デーブ」)が出場)、「JOE」のネームが入った特注のユニフォームを着用した。


藤田元司: 現役時代の大久保博元は肥満体であったが、周囲から痩せるように言われ続けていたことに閉口し、西武から巨人へ移籍後も隠れるように食事していたのを藤田に見つかるが、「お前は身体が資本なんだから、もっと食べなきゃダメだろう!」と言ってステーキを奢ったと言う。


星野仙一: 2014年、病気療養期間59日間の40試合(17勝23敗)は通算成績に含まない(監督代行は佐藤義則→大久保博元


クレイグ=ブラゼル: 真面目な性格で、当時打撃コーチだった大久保博元からたびたびアドバイスを聞くなど、日本球界へ積極的に溶け込もうとする姿勢が見られた。


大島公一: 外野手などを務めていたが5年生からは遊撃手となり、6年生の時は選抜チームで関東大会に参加して大久保博元のいる水戸選抜を破って優勝し、全国大会に進んだ。


菅原文太: このほかには吉永小百合・泉谷しげる・志村けん・小林幸子・はるな愛ら映画やバラエティ番組、CMなどで共演した芸能人や、スポーツ界から王貞治・アントニオ猪木・大久保博元らの追悼が寄せられた。


村田真一: 1992年シーズンは、シーズン途中に中尾との交換トレードで西武ライオンズから移籍してきた大久保博元に正捕手の座を奪われる。


石田文樹: 吉田、大久保博元、KKコンビなどの石田の個人的な関係者をはじめ、横浜からは当時の監督であった大矢明彦ら多くの球団関係者が通夜と告別式に参列した。


星野仙一: 6月30日にはこの年監督として指揮を執るはずであった、オールスターゲームの出場を辞退、星野は総監督に就き、佐藤がオールスターゲームの監督代行を務めることになったが、7月2日付で楽天の監督代行に大久保博元が就いたことから(佐藤は一軍投手コーチに専念)、オールスターゲームの監督はいったん白紙に戻された。


槙原寛己: 前々日の門限破りで外出禁止1か月を言い渡されたため、好投してこれを解こうと奮起した結果であると大久保博元と「おしゃれカンケイ」に出演した際に話している。


枡田慎太郎: 楽天の打撃コーチを大久保博元が務めていた時期には、内角球をさばく技術を大久保から賞賛されている。


山村崇嘉: 小学校2年生から元プロ野球選手の大久保博元が主催する野球教室「デーブベースボールアカデミー」に通っていた。


河村亮: 初実況でいきなり元木大介、岡崎郁、大久保博元の三者連続本塁打が起きた。


酒井勉: 二軍監督代行を務めたのは、2014年5月に一軍監督の星野仙一が自身と同じ黄色靭帯骨化症と腰痛の併発によって休養している間に、一軍の監督代行が佐藤義則(本来は一軍投手コーチ)→大久保博元(本来は二軍監督)と変遷したことによる。


和田博実: 広岡達朗監督時代からはアメリカのマイナーリーグ「サンノゼ・ビーズ」などへの若手選手の野球留学を引率し、秋山幸二、工藤公康、大久保博元、田辺徳雄、鈴木健などの選手を育て上げた。


四条稔: またコンビニ経営と並行して大久保博元が主催する『デーブ ベースボール アカデミー』のコーチも行っていた。


関根潤三: 2004年の球界再編騒動の際、CSの『プロ野球ニュース』で「近鉄は(プロに)ぎりぎりのチームだったから、お客さんを呼ぶことができませんでした」と発言した大久保博元に対して「近鉄がプロにぎりぎりのチームなんて、ふざけんじゃないよ!!」と激しく非難した。


長嶋一茂: なお、大久保博元は中畑清との対談で、一茂から「1回、2回じゃないよ。


大久保博元の情報まとめ

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大久保 博元(おおくぼ ひろもと)さんの誕生日は1967年2月1日です。茨城出身の野球選手のようです。

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人物、詳細情報などについてまとめました。引退、テレビ、卒業、父親、事件に関する情報もありますね。去年の情報もありました。大久保博元の現在の年齢は57歳のようです。

大久保博元のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

デーブ大久保チャンネル

大久保 博元(おおくぼ ひろもと、1967年〈昭和42年〉2月1日 - )は、茨城県東茨城郡大洗町出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、野球解説者・野球評論家、YouTuber、プロゴルファー、実業家。

愛称はデーブ、ブーちゃん。現役引退後はデーブ大久保名義で活動しており、埼玉西武ライオンズコーチ時代は登録名としても使用した。第59代巨人4番打者、第5代東北楽天ゴールデンイーグルス監督。東京都港区新橋・居酒屋「肉蔵でーぶ」オーナー、東京/横浜「デーブ ベースボールアカデミー」主宰者。

水戸商業では2年次の1983年夏、捕手として出場した茨城大会で決勝に進出するが、エースの加茂川重治を擁する茨城東高に前年秋の県大会準決勝に続いて敗退。

3年次の1984年夏も茨城大会で敗れ、甲子園には出場できなかったものの高校通算52本塁打を記録。

高校時代に、先輩の彼女に性行為を強要した話を、トークバラエティ番組『ろみひー』(日本テレビ)で暴露。

1984年度ドラフト会議にて広沢克己のクジを外した西武ライオンズからの1位指名で入団。契約金は4,500万円で、1985年の卒業式では母校に100万円を小切手で寄付した。

入団当時から長打力が注目され、1986年の1年間は1A・サンノゼ・ビーズに野球留学のため渡米した。引率を担当した和田博実二軍打撃コーチから、太っている体型から「デーブ」というあだ名を付けられた。また当時の西武球団の慣習(2年目の選手が新人の教育係となる)から、渡米前には1年後輩の清原和博の教育係を務めていた。一塁手として起用の構想もあったが清原の活躍で立ち消えとなり、一時は三塁手にも挑戦した。

帰国した1987年にはジュニアオールスターゲームでMVPを獲得。1989年には当時イースタン記録となる24本塁打・70打点でイースタン二冠王に輝く。だが当時の正捕手には伊東勤が定着しており森祇晶監督からはリードを評価されず、ほとんどが代打や指名打者ばかりで捕手としての先発出場はなかった。

1988年以降はタイラー・リー・バンバークレオやオレステス・デストラーデの加入で、指名打者での出場もなくなり二軍生活が続いた。

1992年5月11日、中尾孝義との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍。西武では活躍の場がない大久保のために、同じ茨城県出身である球団管理部長の根本陸夫が主導したトレードだった。

巨人ではいきなり正捕手として起用され、6月には月間MVPを獲得し、オールスター前までに打率.300・12本塁打を放つ活躍を見せた。大久保が本塁打を打った試合は必ず勝利していたため、「大久保が打てば負けない」というジンクスまで生まれ、藤田元司監督の進言もあって球団から前半戦終了時に2000万円のボーナスを得た。しかし、2000万円という金額については藤田も想定外であり、「大久保だけボーンと2000万円…。これはみんな、雰囲気悪くなりますよ。チームじゅうで、雰囲気が悪いんです。いや、これには、まいりました」とのちに述べている。大久保も、オールスター後は大きく失速し、チームが優勝を争った終盤戦には村田真一に正捕手の座を奪われた。

長嶋茂雄が監督に就任した1993年は開幕から村田との併用で起用されていた。ハイペースで本塁打を量産し、5月27日のヤクルト戦(神宮)ではプロ入り初盗塁を決める。しかし、その試合で高津臣吾から死球を受け、左手首を骨折し9月まで長期にわたり戦線離脱を余儀なくされた。復帰後となる10月2日と翌3日の広島戦(東京D)では初めて4番・一塁手で先発出場し、結果は7打数1安打1打点で、2日に秋村謙宏から放ったソロ本塁打で記録したものであった。同年は巨人の日本人選手では原辰徳・松井秀喜に次ぐ10本塁打を放つも、本塁打以外の打点が2しかなかったため、16打点であった。オフに年俸3,100万円で契約更改した。

1994年は、劇的なサヨナラ本塁打を複数放つなど打撃は好調だったが、リードやキャッチングの面から再び村田が正捕手となり、二番手捕手や代打要員にとしての起用が主だった。9月10日の広島戦(東京D)で3-11と大きくリードされた6回1死で打席に立った大久保は、2球目の直後に後ろを振り向くと、西山秀二と球審へ怒りの形相でクレームをつけ始めた。ネクストサークルの福王昭仁と一塁ベースコーチの中畑清一軍打撃コーチが慌てて駆けつけて仲裁に入ったが、これは西山の故意死球をほのめかすささやきに大久保が過剰反応したものであった。プレー再開後も怒りが冷めやらぬ大久保は、1-1から望月秀通の直球を思い切り空振りし、フルカウントから外角低めに落ちる球をまたも空振りし三振に倒れた。まんまと広島バッテリーの術中にはまった悔しさがさらなる怒りを呼んだのか、直後の大久保はバットを2度にわたり、地面に叩きつけ、荒々しく放り投げた。ヘルメットもグラウンドに投げ捨て、大暴れするなど大人げない行動にスタンドは唖然。しかし「みんなスカート履いて野球やってるよ」と、闘志を前面に出さない選手らに不満を抱いていた長嶋監督は、逆に大久保の振る舞いを評価した。9月17日の阪神戦(東京D)では、中西清起からサヨナラ2ラン本塁打を放った際に大口を開けて泣いている。8月下旬から2勝12敗と低迷していたチームは再び盛り返し、中日との10.8決戦を制したことで4年ぶりのリーグ優勝を果たした。古巣・西武との日本シリーズでは、10月26日の第4戦(西武球場)9回2死で杉山賢人から同点本塁打を放ち、日本一に貢献。

1995年は1994年オフからの契約更改交渉が長引き、自費キャンプとなったうえ、サインをしたのは2月のキャンプ初日だった。2年ぶりに開幕戦捕手として出場し、斎藤雅樹の2年連続開幕戦完封勝利に貢献。しかし、4月26日の広島戦(広島市民)で空振りした際にバランスを崩し尻もちをついて足首を骨折。NPB球団の所属選手からなる外国人選抜チームと日本人選抜チームが対戦した「阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム」(7月24日、福岡ドーム)では、外国人側に捕手がいなかったため、あだ名が外国人的であること、また海外留学経験から英語が話せるという理由で、「デーブ」の登録名で外国人チームとして参加。もう1人の捕手として、当時ロッテの正捕手だった定詰雅彦が「ジョー」の登録名で出場している。

同年28歳で現役を引退。当時は故障(骨折)による引退と思われていたが、コーチとの確執が原因であったことを後年明かしている。

引退後の1996年、個人事務所「デーブカンパニー」を設立。フジテレビ(2000年 - 2007年)・ニッポン放送(1996年 - 2007年)野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家(2000年 - 2007年)となる傍らで、「デーブ大久保」名義でタレント活動を始めた。

1999年から『週刊パーゴルフ』で始めた連載をきっかけに、プロゴルファーとしても活動する。2001年のクォリファイングトーナメントに挑戦し、最初の関門であるファーストクォリファイを突破してセカンドに進んだ。サードへの進出は果たせなかったが、主催者推薦での出場が可能となり、2002年のダイヤモンドカップトーナメントでツアーデビュー。その後も12試合のレギュラーツアーに参戦したが、予選通過試合はなかった。

2008年、渡辺久信監督の強い要望により、古巣・西武に一軍打撃コーチとして16年ぶりに復帰。登録名はニックネームでもある「デーブ大久保」とした。

メジャー流の早朝練習「アーリー・ワーク」を取り入れ、10数通りのケースバッティングを叩き込み直し、打線を機能させる意識改革を行った。アーリー・ワークについては、野村克也が自著『あぁ、監督』で一定の評価をしていた。自身の一軍半が長かった経験から、一軍・二軍コーチの綿密な連絡の有無が若手の成長に影響を与えるという考えで、コーチ陣会議を開催して円滑な選手育成を行った。

ベンチでは「野次将軍」を担当。5月7日の日本ハム戦(西武ドーム)では、9回裏に片岡治大がダルビッシュ有からサヨナラ安打を放ち勝利したが、ベンチを飛び出て喜びの余りバッターランナーの片岡を追いかけたところ、両足大腿部の肉離れを起こし、細川亨とクレイグ・ブラゼルに抱えられ、ベンチ裏のトレーナーズルームに運ばれた。前日の5月6日には、ヒラム・ボカチカがサヨナラ本塁打を放ったが、すでに大久保の右足には異変が起きていた。医師からは肥満体であることを指摘された。

2009年はコーチ職を離れ、編成部プロ担当を1年間務める。2010年には二軍打撃コーチとして現場復帰。しかし、7月22日に西武球団から、コーチとして不適切な行為があったとして、同日付で大久保をコーチから外し、球団本部長付にすると発表された。球団は選手ら関係者へのヒアリングの結果、大久保による暴力行為が認められたため、同29日に大久保の解雇を発表した。

退団後は、プロ野球コーチとしてのノウハウを活かし、一般向けの野球指導を行う「デーブベースボールアカデミー」を開講。少年野球の選手・指導者を中心に指導を行っている。

2012年、星野仙一監督率いる東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃コーチに就任。大久保によれば、西武から解雇された時点で「事実上の球界からの永久追放」と認識していたが、楽天球団の取締役だった米田純から「星野と選手の間で大きな溝ができているので、選手側の立場で星野との仲立をして欲しい」と依頼され、球界復帰を決意したという。同年シーズン終了後には二軍監督へ異動。

2014年5月、星野監督が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靱帯骨化症で休養となり、監督代行を佐藤義則が務めていたが、7月2日より大久保が監督代行に就任する旨が発表された。佐藤は投手コーチに専念、酒井勉が二軍監督代行を務めることとなった。前年リーグ優勝したことで、星野が指揮を執るはずだった同年のオールスターの指揮については辞退している。7月24日、星野が監督復帰したことで再び二軍監督となる。しかし、シーズン終了後には星野の退任・球団副会長への異動があり、大久保は二軍監督から監督へ昇格、10月14日に就任が発表された。

監督を務めた2015年は、序盤こそ勝率.500前後を維持するも、6月のセ・パ交流戦終了後以降は次第に失速。チームの借金は2桁に達し、順位も最下位に後退。クライマックスシリーズ進出の可能性が完全消滅した9月22日、シーズン終了をもって辞任することを発表した。退任発表時は1つでも上の順位を目指すとしていたが、10月3日にチームの最下位が確定し、同6日のシーズン最終戦であるロッテ戦(コボスタ宮城)をもって退任となった。監督退任後に、星野から「翌年は編成本部長として球団に残って欲しい」旨の打診を受けたものの、「球団に不利なことを喋らせないための口止め料だと感じ『そんな金を貰わなくても余計なことは喋らない』として辞退した」ことをのちに明らかにしている。

楽天監督退任を受け、横浜DeNAベイスターズの中畑清監督が、大久保のコーチ入閣をDeNAフロントに要請したが、高田繁GMを始めとしたフロント陣の反対で、横浜入りは立ち消えになった。ちなみに要請を却下された中畑も、不服として監督を辞任している。

2016年3月4日、食品衛生管理者の資格を取得し、東京・新橋に居酒屋「肉蔵でーぶ」を開業。その傍ら、フジテレビの野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家としての活動を再開している。

また、2018年にはプロゴルファーとしての活動も再開し、12年ぶりに下部ツアーであるAbemaTVツアーの「HEIWA・PGM Challenge II 〜 Road to CHAMPIONSHIP」へ出場した。

2021年8月に心筋梗塞を発症したが、のちに復帰。

2022年10月13日、2023年より監督・原辰徳の招聘で、読売ジャイアンツの一軍打撃チーフコーチに就任することが発表された。しかしチームの成績は低迷。原の監督退任を受け、大久保も1年で退団した。

人物

この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2020年11月)
2012年8月1日、こまちスタジアムにて。
    出身地の水戸には巨人ファンが多く、大久保も幼少のころから巨人を応援していた。

    巨人に移籍した当初、藤田元司の下へ挨拶に訪れた際「太っていることなんか気にする必要ないぞ。うちにだって太っている選手はたくさんいるんだ。体は資本だ。気にするな」という言葉をもらった。宿舎の食堂で1人で食事を摂っていたところ、藤田が通りがかり「なんだデーブ、そんな量で足りるのか? 今日はよく練習していたんだ、もっと食べろよ」と大久保のためにステーキ2枚を注文したという。大久保は用意されたステーキを感激のあまり泣きながら食べた。当時を振り返った大久保は「この監督のためなら死んでもいい」と発言したが、リード面でミスをした際などの藤田の怒りは凄まじく、叱られてしばらくトイレに行けないほど体が硬直したと語っている。ところが、叱られた翌日には「よう、デーブ、おはよう」と、昨日の怒りなどすっかり忘れたような笑顔で挨拶するさっぱりした人物でもあった。引退時には藤田の家を訪ね、「僕に痩せろと言わなかったのは藤田さんだけ」と語った。藤田は毎日のように「おまえ、その体を保つのにはうんと走らなきゃいかんなぁ」と言っていたが「痩せろ」「体重を減らせ」という指摘はなかった。大久保にはそれが嬉しかったという。走れば痩せるだろうというのが藤田の真意であったが、このことを感謝された藤田は「人の心を傷つける言葉を使っちゃいけないな」と改めて気付いたという。藤田が亡くなると真っ先に弔問に駆けつけ、「本当にありがとうございました」と号泣しながら何度も頭を下げていた。

    藤田のほか、根本陸夫を「おやじ」と呼び、父親のように慕っている。二軍暮らしの続く大久保が、自身の扱いに対し首脳陣へ不満をぶつけた際、根本は「いちいち一人一人の社員(選手)のことなんか心配できるか、馬鹿野郎!」と怒鳴った。しかし、このときの根本は出番のない大久保を実は気にかけており、巨人へのトレード(1992年)は大久保を慮った根本の主導で行われている。チームを離れる際にも「お前は西武の人間なんだから、困ったら西武に戻ってこい」と言葉をかけてくれたという。根本の気遣いに感動する一方、西武時代に選手が街中でトラブルなどに巻き込まれた際は根本が仲介に赴き、瞬く間に事件をなかったことにしてしまう人脈の広さに驚くこともあったという。また、根本の自宅へ頻繁に招かれ、夫人特製のすき焼きが振る舞われたこともあった。割下に牛乳が入る独特の風味で、工藤公康は「美味しくない」と敬遠し、次回招かれた際にはステーキに変わっていたが、大久保は20回以上食べたという。

    大型自動二輪免許や大型自動車などを初め、多数の免許・資格を所持している。

    長男の大久保泰成も元野球選手。東亜学園高校、専修大学、セガサミーに在籍し、セガサミー時代は都市対抗に1回、日本選手権に3回出場経験がある。引退後はセガトイズの営業・広報を経て、大久保の個人事務所であるデーブカンパニーで従事している。

    同じ母子家庭出身の愛甲猛は後年「お世辞とかじゃなくて応援していた」と語っている。

    2020年に配信を開始した自身のYouTubeチャンネル「デーブ大久保チャンネル」ではMCを務めている。ライオンズ・ジャイアンツの有名OBだけでなく幅広い球界関係者がゲストとして登場し「肉蔵でーぶ」店内で大久保とともに裏話などを語っている。

    コーチ時代の不祥事

    11月12日に知人女性が大久保から暴行を受けたとして警視庁品川署に被害届を提出していることが発覚。

    大久保は「刑事罰を受けるようなことは自分の中ではしていない。」と否定したが、2日後の14日に傷害罪の疑いで書類送検されるに至った。この件について大久保は球団から厳重注意処分を受け、優勝パレードなど球団行事への参加を自粛した。

    2009年度も前年同様に西武一軍打撃コーチを務める予定で発表されていたが、この影響から12月9日にはコーチ職を解かれ、編成部プロ担当への異動が発表された。会見では知人女性への暴行を否定していたが、検察側に対して本人が容疑を全面的に認めたため、東京区検に2009年3月13日までに傷害罪で略式起訴され、東京簡裁は3月27日、検察側の請求通り、大久保に罰金20万円の有罪判決を出した。

    2010年度に二軍打撃コーチとして復帰するも、選手に対する暴力問題で解任された。

    解任後、大久保は西武球団を相手に地位保全と報酬の仮払いを求めた仮処分申請を東京地裁に行ったが、11月19日に東京地裁は申請を却下。これに対し、東京高裁に即時抗告を行ったが、12月28日に東京高裁は即時抗告を却下した。2011年1月27日、大久保は西武球団を相手に契約解除の無効、未払い報酬の支払い、名誉毀損に対する損害賠償2,000万円を求め、東京地裁に提訴した。

    西武球団は当初、どの選手に対し暴力行為があったかなどを明らかにしなかったが、大久保が菊池雄星を名指し出廷を求めるなどしたため、暴行を受けたのが菊池であることを球団として2月16日に公表した。自主練習である「アーリー・ワーク」への遅刻に対するペナルティとして、球団非公認の私設による罰金を徴収していた(つまり恐喝罪に該当する)が、それに反発した菊池が告げ口したと見なし、大久保が菊池に暴力を働いたことを、球団が問題視したことが明らかになった。

    『週刊ポスト』の取材で、謹慎期間中に自殺未遂をしたことを告白しているが真相は定かではない。2012年から楽天のコーチ就任が決定したことに伴い、西武に対する訴訟について請求を放棄し、裁判が終結した。楽天とのコーチ契約交渉の中で、西武との訴訟を取り下げることが楽天球団から条件として要請されたことをのちに明かしている。

    2016年2月、シニアディレクターの渡辺久信を通じ、西武球団および菊池と和解している。また、2021年8月18日、自身のYouTubeチャンネルにおいて暴言はあったものの暴行の事実はなかったこと、上記の和解の際に菊池から謝罪を受けたことを話している。

    詳細情報

    年度別打撃成績

    年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
    1985 西武 5 4 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .250 .250 .250 .500
    1987 56 78 71 4 17 1 0 3 27 17 0 0 0 2 2 0 3 18 1 .239 .282 .380 .662
    1988 13 13 10 1 1 0 0 0 1 1 0 0 1 0 2 0 0 5 0 .100 .250 .100 .350
    1989 11 14 13 1 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 1 0 0 5 0 .077 .143 .308 .451
    1990 13 18 16 2 3 0 0 2 9 2 0 0 0 0 2 0 0 5 1 .188 .278 .563 .840
    1991 5 8 8 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 .000 .000 .000 .000
    1992 巨人 84 285 260 37 72 14 0 15 131 43 0 0 0 1 20 9 4 48 7 .277 .337 .504 .841
    1993 40 121 110 14 24 2 0 10 56 16 1 0 0 0 9 3 2 29 3 .218 .289 .509 .798
    1994 62 130 119 14 35 2 0 9 64 18 0 0 0 1 9 4 1 27 2 .294 .346 .538 .884
    1995 14 25 24 2 4 1 0 1 8 2 0 0 0 0 0 0 1 8 0 .167 .200 .333 .533
    通算:10年 303 696 635 75 158 20 0 41 301 100 1 0 1 4 45 16 11 147 15 .249 .308 .474 .782

    年度別守備成績

    年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 失策
    1987 6 3 3 0 .000 0
    1988 3 3 3 0 .000 0
    1989 3 3 3 0 .000 1
    1990 3 2 1 1 .500 0
    1991 3 6 4 2 .333 0
    1992 75 52 38 14 .269 2
    1993 28 29 22 7 .241 3
    1994 46 25 15 10 .400 2
    1995 8 14 9 5 .357 1
    通算 175 137 98 39 .285 9

    年度別監督成績

    年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム本塁打 チーム打率 チーム防御率 年齢
    2015年 楽天 6位 143 57 83 3 .407 33.0 84 .241 3.84 48歳
    通算:2年 160 65 92 3 .414 Bクラス1回

    ※通算成績には2014年楽天での監督代行17試合(7月3日から7月23日、8勝9敗)を含む

    表彰

    ジュニアオールスターゲームMVP(1987年)

    月間MVP:1回(1992年6月)

    記録

    初出場:1985年7月30日、対阪急ブレーブス15回戦(阪急西宮球場)、9回表に安部理の代打として出場

    初打席:同上、9回表に古溝克之の前に三振

    初安打:1985年8月14日、対ロッテオリオンズ14回戦(西武ライオンズ球場)、9回裏に金森永時の代打として出場、佐藤政夫から単打

    初先発出場:1987年4月17日、対近鉄バファローズ1回戦(西武ライオンズ球場)、8番・指名打者として先発出場

    初打点:同上、2回裏に村田辰美から適時打

    初本塁打:1987年5月10日、対近鉄バファローズ6回戦(藤井寺球場)、9回表に金森永時の代打として出場、石本貴昭からソロ

    オールスターゲーム出場:1回(1992年)

    背番号

    45 (1985年、1987年 - 1992年途中)

    22 (1992年途中 - 1995年)

    96 (2008年、2010年)

    95 (2012年 - 2015年)

    88 (2023年

    登録名

    大久保 博元(おおくぼ ひろもと、1985年、1987年 - 1985年、2012年 - 2015年、2023年

    デーブ大久保(デーブおおくぼ、2008年)

2024/06/17 16:38更新

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