佐藤義則の情報(さとうよしのり) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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佐藤義則と関係のある人
達川光男: 20打数6安打、1打点と活躍し、第6戦では佐藤義則から本塁打を放ちチーム日本一に貢献。 ダレル=ラズナー: コントロールの良さは楽天投手コーチの佐藤義則から高く評価される反面、被本塁打率が高い。 トニー=ソレイタ: 初打点:1980年4月8日、対阪急ブレーブス前期1回戦(阪急西宮球場)、1回表に佐藤義則から左犠飛 パンチ佐藤: 後年のインタビューでは、土井が読売ジャイアンツの選手・コーチ時代(主にV9時代)の経験や厚遇を引き合いに出す一方で、オリックスの選手を自身とベテラン(阪急時代からの主力選手だった佐藤義則・松永浩美)しか知らずに監督を引き受けていたことを告白。 坂本拓己: 知内高校からプロ野球選手が誕生するのは初で、奥尻島出身のプロ野球選手は佐藤義則以来46年ぶり二人目となる。佐藤義則からは、「もう奥尻島からプロ野球選手は出ないと思っていたのでうれしい。 佐藤由規: 背番号「11」に合わせた2007年11月11日に、契約金1億円に出来高分5000万円、年俸1500万円(金額は推定)で仮契約、同音異字で投手出身の佐藤義則が当時北海道日本ハムファイターズでコーチを務めていたことから、名前の由規のみを登録名に使用することも決まった。 木村広: 大学同期に岩沢建一、1年下に佐藤義則がいた。 上田利治: 阪急の監督復帰後は今井雄太郎、福本豊、山田久志など西本に鍛えられたベテラン勢に加え、松永浩美、石嶺和彦、藤井康雄、福良淳一、佐藤義則、山沖之彦、星野伸之、古溝克之などの若手を見出し育成、さらに1983年にはブーマー・ウェルズが加入する。 一場靖弘: 2009年の春季キャンプから佐藤義則コーチと共に下半身主導となる投球フォームへの矯正に取り組んだ。 立川隆史: 初盗塁:1997年5月23日、対オリックス・ブルーウェーブ6回戦(千葉マリンスタジアム)、2回裏に二盗(投手:佐藤義則、捕手:中嶋聡) 藤瀬史朗: 初安打:1977年10月5日、対阪急ブレーブス後期12回戦(西京極球場)、9回表に陽田浅吉の代打として出場、佐藤義則から 大島康徳: 1990年8月21日の対オリックス・ブレーブス戦で佐藤義則から適時二塁打を打ち2000安打を達成。 エディソン=バリオス: 前年のセットアッパー・五十嵐亮太と新外国人リック・バンデンハークが出遅れ、同年からの新投手コーチ・佐藤義則から球速と制球、中継ぎ適性を評価され、オープン戦8試合では勝ちパターンのリリーフとして自責1、防御率1.04と好成績を挙げたため、3月24日に支配下登録(3度目)され、背番号は65に変更された。 戎信行: 同年先発陣に故障者、不振者が相次ぎ、「下に誰かいないか」と言われた二軍投手コーチの佐藤義則が戎を推薦する 。 星野仙一: 先発でここまで投げてきた井川慶を交代させるべきか投手コーチの佐藤義則に相談されたが、星野は振り向きもせず「勝っとるんや。 小川浩一: 初本塁打:1988年5月31日、対阪急ブレーブス7回戦(阪急西宮スタジアム)、8回表に佐藤義則から2ラン 白石静生: 1977年の巨人との日本シリーズでは10月25日の第3戦(後楽園)に先発、同27日の最終第5戦では佐藤義則をリリーフして勝利投手となり、1978年のヤクルトとの日本シリーズでも10月21日の第6戦(後楽園)で完投勝利を記録。 酒井勉: 二軍監督代行を務めたのは、2014年5月に一軍監督の星野仙一が自身と同じ黄色靭帯骨化症と腰痛の併発によって休養している間に、一軍の監督代行が佐藤義則(本来は一軍投手コーチ)→大久保博元(本来は二軍監督)と変遷したことによる。 中嶋聡: 最初に入団した阪急で、山田久志、佐藤義則、今井雄太郎といったベテラン投手陣の薫陶を受けた。 岡本圭右: 初出場:1979年5月18日、対阪急ブレーブス前期6回戦(阪急西宮球場)、8回表に高柳秀樹の代打として出場、佐藤義則の前に三振 戎信行: ^ 佐藤義則著、大人の野球―不惑のノーヒット・ノーラン、2001年、ベストセラーズ、P190-191 吉本祥二: 投手としての潜在能力は、若手投手の育成で定評のある佐藤義則をはじめ、ソフトバンクの一軍首脳陣にも高く評価。 林博康: 同年の9月15日からの対オリックス3連戦(グリーンスタジアム神戸)では、15日に野田浩司から決勝のソロ本塁打、さらに17日には佐藤義則から追撃のソロ本塁打を放ち、マジック1と優勝目前のオリックスの地元胴上げ阻止に大いに貢献した。 武者野勝巳: 規定によりフリークラスに在籍できる年数を全て消化し、2013年5月28日の第26期竜王戦・6組昇級者決定戦で佐藤義則八段に敗れ、引退した。 クリス=アーノルド: 1イニング2二塁打:1979年8月4日、対阪急ブレーブス後期4回戦(阪急西宮球場)、7回表に稲葉光雄・佐藤義則から ※プロ野球タイ記録 高井保弘: 同僚だった佐藤義則はクセを見抜くのは早かったと述べている。 山口高志: 今井雄太郎や佐藤義則ら、先発投手が増えたことが背景にあった。 星野仙一: 同戦は一軍投手コーチの佐藤義則が指揮を執った。 星野伸之: 北海道出身だったことから、当時の阪急の主力投手であった山田久志(秋田県出身)、今井雄太郎(新潟県出身)、佐藤義則(北海道出身)ら北国出身の先輩に可愛がられ、3人の「北の会」にも入れてもらった。 山沖之彦: もともと阪急の抑えは故障から復帰した佐藤義則が務めていたが、その佐藤が一時期調子を落としたときに上田監督に「ヨシ(佐藤)の調子が戻るまで抑えをやってくれんか」と頼まれリリーフに回ったが、調子を戻した佐藤はそのまま先発ローテーションに定着してしまい、結局山沖が最後までリリーフエースを務めることとなった。 |
佐藤義則の情報まとめ
佐藤 義則(さとう よしのり)さんの誕生日は1954年9月11日です。北海道出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。佐藤義則の現在の年齢は70歳のようです。
佐藤義則のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 佐藤義則チャンネル 佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道奥尻郡奥尻町出身の元プロ野球選手(投手)。コーチ・野球解説者・野球評論家。佐藤義則事務所所属。 北海道奥尻郡奥尻町出身。奥尻ブレークスで本格的に野球を始め、奥尻中学校では中学3年の時に函館地区で優勝して全道大会に出場した。卒業後、函館有斗高校に進学して上野美記夫の指導を受ける。エースとして1972年春季北海道大会決勝に進み、苫小牧工業高校の工藤敏博(法政大学)と投げ合い完封勝利で優勝。同年夏の甲子園南北海道予選も決勝に進出するが、今度は苫小牧工業高校に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する。卒業後は日本大学に進学。当時の日本大学は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかし1976年秋季リーグでは8勝4敗の好成績をあげ、シーズン78奪三振(東都大学野球リーグでは円子宏の83奪三振に次ぐ当時第2位)を記録した。また1974年、1976年の日米大学野球選手権大会日本代表、1975年の第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出されている。一部リーグ通算62試合登板、22勝21敗、防御率2.48、242奪三振。大学同期には和泉貴樹(日立製作所-日本大学監督)らがいる。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスの1位指名を受け入団した。契約金は3000万円、年俸は300万円(金額は推定)、背番号は「11」。 1977年、5月21日の対日本ハムファイターズ戦(阪急西宮球場)で9回1失点で完投でプロ初勝利、9月4日の対ロッテオリオンズ戦(明治神宮野球場、ダブルヘッダー第1試合)ではプロ初完封勝利を飾った。シーズンでは7勝を挙げて新人王に選出された。この年の日本シリーズにも登板する。オフの12月16日の契約更改では70パーセント増の推定年俸520万円でサインした。 1978年には初めてオールスターゲームに出場した。シーズンでも13勝を記録し、初めて規定投球回(リーグ13位、防御率3.62)に到達。しかしヤクルトスワローズとの日本シリーズではベンチ入りするも故障のため登板がなかった。山口高志の故障離脱もあって山田久志や今井雄太郎の負担を増すこととなった。 1979年も10勝と順調に勝ち星を重ねたが、1980年は4勝13敗と大きく負け越した。 1981年にはぎっくり腰を発症してのため一軍登板がなく、一時期任意引退扱いとなった。 1982年にリリーフ投手として4勝13セーブ、翌83年も1勝16セーブと守護神として復活した。 1984年から先発投手に復帰し、4月17日の対日本ハム戦(後楽園球場)で9回7失点でシーズン初勝利である4年ぶりの完投勝利を挙げた。5月8日の対日本ハム戦(後楽園球場)では1979年4月12日以来の完封勝利、6月28日の対南海ホークス戦(大阪スタヂアム)でシーズン2度目の完封で10勝目を挙げた。9月は4日の対日本ハム戦(後楽園球場)、19日の対西武ライオンズ戦(岡山県野球場)で計2度の完封勝利を挙げ、シーズンでは17勝6敗、防御率3.51(リーグ5位)、リーグ最多の136奪三振で、同年のリーグ優勝に貢献した。オフの12月4日の契約更改では約130パーセント増の推定年俸2500万円でサインした。 1985年、6月は5試合に登板し、4完投勝ちを含む5勝を挙げ、初の月間MVPに選出された。9月26日の対西武戦(阪急西宮球場)で9回4失点完投勝ちでシーズン20勝目を挙げ、シーズンでは21勝で最多勝利のタイトルを獲得。2年連続リーグ最多の奪三振を記録し、リーグ優勝した西武戦で最多の8勝を挙げる。この年の防御率はパ・リーグ10位の4.29であり、これは最多勝利を受賞した投手としては1リーグ時代及びセ・リーグ側の受賞者全員を含めた中でも歴代で最も悪い数字である(2018年時点)。また、彼の後にパ・リーグで20勝以上を挙げる投手は、2003年の斉藤和巳まで現れなかった。10月11日に出身地の奥尻町から1985年度の町功労賞が表彰されることが決定した。オフの12月19日の契約更改では45パーセント増の推定年俸3800万円でサインした。 1986年、4月10日の対南海戦(大阪スタヂアム)で9回1失点でシーズン初勝利を完投で飾った。 5月4日の対西武戦(西武球場)、同月10日の対南海戦(大阪スタヂアム)で2試合連続完封勝利を記録したが、6月16日に右肘を痛め、出場選手登録を抹消された。復帰後、7月28日の対西武戦(阪急西宮球場)で完封勝利。8月は17日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場、9回7失点)、24日の対南海戦(大阪スタヂアム、9回1失点)、28日の対日本ハム戦(阪急西宮球場、完封)で勝利し、3試合連続無四球完投を記録した。シーズンでは14勝6敗、防御率2.83の好成績を記録、最優秀防御率のタイトルを獲得した。オフの12月16日の契約更改では3パーセント減の推定年俸3700万円の掲示を保留、翌1987年1月13日の2度目の契約更改では現状維持の推定年俸3800万円でサインした。 1987年はそれまで12年連続で開幕投手を務めていた山田久志に代わってプロ入り11年目で初の開幕投手を務めた。4月10日の南海との開幕戦(阪急西宮球場)では5回6失点、4点ビハインドで降板されるが、9回裏にブーマー・ウェルズの満塁本塁打で同点に追い付き、最終結果は6-6で9回時間切れ引き分けとなった。同月26日の対日本ハム戦(後楽園球場)で9回5失点完投でシーズン初勝利、5月16日の対南海戦(阪急西宮球場)ではシーズン唯一の完封勝利を挙げるもシーズンはわずか7勝に終わっている。 1988年、4月8日の近鉄との開幕戦(阪急西宮球場)では9回途中まで淡口憲治、ベン・オグリビーに計3本塁打を打たれ、敗戦投手となった。同月23日の対日本ハム戦(阪急西宮球場)では9回1失点完投でシーズン初勝利、8月21日の対近鉄戦(藤井寺球場)で8回3失点でシーズン10勝目を挙げ、シーズンではリーグ1位の5完封を含む、同僚の星野伸之とともに13勝を挙げた。オフの12月26日の契約更改では1000万円増の推定年俸5400万円でサインした。 1989年、4月9日の近鉄との開幕戦(藤井寺球場)に開幕投手としてマウンドに上がり完封勝利を挙げると、好調を維持し、5月20日の対ロッテ戦(秋田市営八橋球場)で6連勝を記録。6月終了の時点で8勝2敗と首位のチームを引っ張る。しかし、7月以降全く勝てなくなってしまい、背信の投球から途中リリーフに回るなどもしたが改善せず、8月13日の対西武戦では9回1点差で一死一・二塁の場面でリリーフ登板するも2四球で押し出し同点。更に次のバッターオレステス・デストラーデに逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれて敗戦投手となった。10月13日の対ロッテ戦(川崎球場)、この試合に負けると優勝の可能性が完全に無くなる試合でも先発として登板し、4回までノーヒットピッチングだったが5回に突如崩れ敗戦し優勝を逃す。シーズンでは9勝13敗で7月以降では1勝11敗の成績であった。 1990年、この年も開幕は絶好調で、5月を終わった時点で6連勝を記録したが、6月に3連敗すると7月1日に一軍登録を抹消。オールスター明けに復帰、7月31日の対近鉄戦(大阪スタヂアム)で後半戦初登板を勝利で飾ったが、8月に4連敗し再び登録を抹消されそのままシーズンを終える形となった。オフの12月18日の契約更改では約4パーセント減の推定年俸5000万円でサインした。 1993年、4月11日の対千葉ロッテマリーンズ戦(グリーンスタジアム神戸)では7回途中まで投げ、2失点でシーズン初勝利、5月28日の対ダイエー戦(福岡ドーム)では完封勝利を挙げた。同年はオールスターゲームに選出され、7月21日の第2戦(グリーンスタジアム神戸)に登板し、2回4奪三振2失点を記録したが、7月12日には出身地の奥尻島が北海道南西沖地震およびそれに伴う火災と津波によって壊滅的被害を受けていた。また、この震災で叔母を亡くしており、すぐにでも故郷へ帰りたい気持ちをこらえての力投だった。8月11日の対日本ハム戦(グリーンスタジアム神戸)ではシーズン2度目の完封勝利を果たした。シーズンでも4年ぶりの規定投球回クリアした。オフの12月4日の契約更改では2000万円増の推定年俸9000万円でサインした。 1994年、4月12日の対日本ハム戦(東京ドーム)では9回1失点完投でシーズン初勝利を挙げた。続く同月19日の対ロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)では通算150勝を完封で飾った。同年もオールスターゲームに選出され、7月20日の第2戦(ナゴヤ球場)で先発し、3回1失点の好投を見せた。なお、オリックスの投手がオールスターゲームに先発登板したのは、この年の佐藤以降では2019年の第2戦に山岡泰輔が先発するまで、25年経っていた。この年以降オリックスの本拠地球場(大阪近鉄バファローズとの合併後京セラドーム大阪も含める)で開催されたオールスターゲームは2000年の第2戦(グリーンスタジアム神戸、現ほっともっとフィールド神戸)、2008年の第1戦(京セラドーム大阪)、2012年の第1戦(京セラドーム大阪)、2018年の第1戦(京セラドーム大阪)でそれぞれ開催されたが、パ・リーグはいずれもオリックス以外の投手が先発している。シーズンでは開幕から主軸投手が軒並み不振の中同じベテランの山沖と共に好調を維持し前半だけで8勝3敗と最多勝争いにも加わっていたが、後半戦1勝もできず5連敗でシーズンを終えてしまった。オフの12月28日の契約更改では2500万円増の推定年俸1億1500万円でサインした。 1995年には、自身の所属するオリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸が阪神・淡路大震災に襲われ、一時は試合開催も危ぶまれる大被害を受けた。この年は4月1日の対ロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)で40歳にて開幕投手に指名され、試合では7回2失点、1点ビハインドで降板されるが、7回裏二死無走者から味方が連続二塁打で同点にし、8回裏に勝呂壽統の決勝本塁打でチームは3-2で勝利した。同月16日の対西武戦で9回1失点完投でシーズン初勝利を挙げた。8月26日の対近鉄戦(藤井寺球場)で当時NPB史上最年長、NPB史上初となる40歳以上でのノーヒットノーランを達成。チームは「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となって結束し、最終的には1984年以来、11年ぶりのリーグ優勝を果たす。ヤクルトと対戦した日本シリーズでは経験を買われて第1戦(グリーンスタジアム神戸)に登板したが、5回途中まで投げ、3失点で敗戦投手となった。シーズンの終了後には北海道新聞スポーツ賞の特別賞に選出された。オフの12月19日の契約更改では現状維持の推定年俸1億1500万円でサインした。 1996年頃から衰えが顕著になり登板数も激減、同年チームはパ・リーグ連覇を果たしたものの、日本シリーズでも登板機会が与えられなかった。 1998年シーズンを最後に、同年9月21日に現役引退を発表。同月29日にパ・リーグから功労賞を授与されることが決定。10月1日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)で引退試合が行われた。自身は先発登板し、2回2失点でマウンドを降りた。試合後には引退セレモニーが行われた。佐藤は関係者やファンに感謝を伝えると、最後は同僚に胴上げされた。 落差の大きな独特の変化球は「ヨシボール」と呼ばれた。このボールは、指が短くてフォークボールが投げられない佐藤が「人差し指と中指で挟めないなら親指と人差し指で挟もう」という考えで編み出したものである。 また、時速140km/h台の速球を引退まで投げ続けることができた。現役時代、戎信行を指導した。 1999年から2000年まで、オリックスで二軍投手コーチを務めた。また、出身地の奥尻町は、現役時代の背番号にちなんで、1999年11月11日に「佐藤義則野球展示室」を開設した。 2001年には、関西地方を拠点に、J SPORTSの野球解説者とデイリースポーツの野球評論家を務めた。 2002年から2004年まで、阪神タイガースで一軍投手コーチを担当。井川慶をエースに育てたほか、オーバースローからサイドスローへ転向したばかりの吉野誠を「勝利の方程式に組み込むなど、投手陣の底上げに尽力した。2003年には、この年に入団したジェフ・ウィリアムスをシーズンの途中からクローザーに起用するなど、チーム18年振りのセントラル・リーグ優勝に貢献している。 2005年に他球団からも要請を受けたが、地元球団の北海道日本ハムファイターズへ移籍。同年は、二軍投手コーチとして、武田久やダルビッシュ有を育てた。翌2006年に一軍投手コーチへ異動すると、前年のチーム防御率3.98(4位)からチーム防御率3.05(1位)に改善し、チーム25年振りのリーグ優勝と、44年振りの日本シリーズ制覇に貢献。2007年には球団史上初の連覇に導いたが、日本シリーズ終了後の11月3日に、球団からコーチ契約を更新しないことを通告された。佐藤は、この通告に対して、一軍監督のトレイ・ヒルマンと球団フロントの姿勢を公然と批判。「いまさら言われても。ヒルマンだけ喜んでそれでいいのか、球団は謝っていたけど。1年契約だからずっと(日本ハムへ残るとは)は考えていないけど、時期が悪い。就職活動ができないよ。誠意がないよな。前もって決まっているなら言ってほしかったな。(球団が他球団への就職先を)探すのはできないと言っていた」との表現で怒りを露わにした。その一方で、退団後にはプロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスへ加入。また、株式会社スーパーエージェントとの間でマネジメント契約を結んだ。 2008年には、北海道を主な拠点に、札幌テレビ・STVラジオ・サンテレビ・J SPORTSの解説者、デイリースポーツの野球評論家として活動。2009年に、阪神時代同様監督の野村克也の招聘で東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチとして現場復帰を果たした。その一方で、2010年12月7日には、野球殿堂入り候補者名簿(プレーヤー部門)へ掲載された。 楽天の投手コーチ時代には、田中将大をエースに育て上げるなど、投手陣の整備に尽力。2011年からは、阪神時代(2002・2003年)に続いて監督の星野仙一を支えていた。星野の方針からヘッドコーチ格の立場で迎えた2013年には、球団初のパ・リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献した。 2014年には、5月26日に対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)の指揮を急遽任された(試合は1 - 4のスコアで敗戦)。監督の星野が持病の腰痛で休養したことによる緊急措置だったが、星野が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靭帯骨化症を発症していることが後に判明したため、楽天球団では翌27日に星野の休養と佐藤の監督代行就任を発表した。監督代行としては5月28日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で初勝利を挙げたものの、通算成績が23試合で9勝14敗(勝率 .391)にとどまったことから、球団では7月2日に二軍監督の大久保博元を一軍監督代行に据えることを発表。佐藤は一軍投手コーチに再び専念した。結局、チームが序盤から低迷したままレギュラーシーズンを終えたため、シーズン終了後の10月14日にコーチ契約を更新しないことを球団から通告された。11月8日に、福岡ソフトバンクホークスの一軍投手コーチに就任することが発表されている。 ソフトバンクでは、「ヨシボール」を教えることで武田翔太の一本立ちを後押し、武田は2015年は13勝、2016年は14勝とエース格に成長した。コーチ就任1年目の2015年には、チームのレギュラーシーズン防御率を昨年よりも防御率は0.1以上改善し、リーグ1位に導き 、投手王国を構築し、同年のリーグ優勝、日本一に貢献した。嘉弥真新也をサイドスローに転向させた。2017年にはチームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇にも貢献したが、2017年の日本シリーズ終了後の11月5日に退団した。 2018年に、楽天の一軍投手コーチへ4年振りに復帰。レギュラーシーズンの当初はベンチ担当の役割を担っていたが、チーム成績の不振によって6月16日に梨田昌孝が一軍監督を辞任したことに伴って、ブルペン担当に回った。2019年には「テクニカルコーチ」という肩書で二軍の投手陣を指導していたが、シーズン終了後に退団した。 2020年からは、デイリースポーツの野球評論家に12年振りに復帰。ミヤギテレビ・東日本放送・東北放送・仙台放送・BS12(副音声)·BS松竹東急との間で、野球解説者としてのスポット契約を新たに結んだ。9月14日からは、クラブチームとして社会人野球へ参加している関メディベースボール学院の統括投手コーチを務めている。 2022年5月31日、DeNA対オリックス(横浜スタジアム)のレジェンドOB1打席対決に登板し、田代富雄と対戦して往年の投球を披露した。 愛称は「ヨシ」。楽天への入団が決まった直後には、日本ハム時代の教え子であるダルビッシュ有が、当時楽天に在籍していた田中将大に対して電話で「ヨシさん(佐藤義則)の言うことは間違いない」というアドバイスを送った。より速い球を投げられるようダルビッシュ有のフォームを改良、上半身に負担のかかる田中将大のフォームを改造し、エースへと育てた。長所を消さず、個々に適したフォームを伝授する指導には定評がある。佐藤は「ダルビッシュ、田中についてよく言われるんですけど彼らは甲子園で活躍して素質が違った。僕が見る前から完成されていたようなものです。個人的に印象に残っているのは武田久でしたね。僕が2005年に日本ハムの2軍投手コーチになった時に2軍監督の岡本から「壊れてもいいから徹底的に見てやってくれ」と本人と話し合いながら本人のやりたい方向に助言したら頑張ってくれた。1軍の抑えのエースに成長くれた」と述べている。 阪神、楽天投手コーチ時代監督だった星野仙一からは重用され、星野から「日本一の投手コーチ」と言わしめた。投手コーチを務めたオリックスの1球団を除いた阪神と日本ハムと楽天とソフトバンクの4球団で優勝していることから優勝請負人と言われている。阪神以外の3球団では日本一になっている。 各年度の太字はリーグ最高 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更 23試合 9勝14敗0分 勝率 .391 (2014年、楽天・星野監督欠場に伴い監督代行) 最多勝利:1回 (1985年) 最優秀防御率:1回 (1986年) 最多奪三振:2回 (1984年、1985年) ※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは、1989年より表彰 新人王 (1977年) 月間MVP:3回 (1985年6月、1990年5月、1992年7月) 奥尻町功労賞(1985年) 北海道新聞スポーツ賞 特別賞(1995年) パ・リーグ功労賞(1998年) 初登板:1977年5月11日、対クラウンライターライオンズ前期7回戦(西京極球場)、3回表一死に2番手として救援登板、4回2/3を無失点 初奪三振:同上、4回表に基満男から 初先発・初勝利・初完投勝利:1977年5月21日、対日本ハムファイターズ前期8回戦(阪急西宮球場)、9回1失点 初完封勝利:1977年9月4日、対ロッテオリオンズ後期9回戦(明治神宮野球場) 初セーブ:1977年10月6日、対近鉄バファローズ後期13回戦(岡山県野球場)、9回表二死に3番手として救援登板・完了、1/3回無失点 1000投球回:1985年5月15日、対近鉄バファローズ6回戦(阪急西宮球場)、5回表三死目に達成 1500投球回:1987年8月27日 対近鉄バファローズ19回戦(阪急西宮球場)、7回表二死目に達成 1000奪三振:同上、8回表にベン・オグリビーから空振り三振 ※史上74人目 100勝:1988年4月30日、対ロッテオリオンズ4回戦(阪急西宮球場)、9回4失点(自責点2)完投勝利 ※史上95人目 2000投球回:1991年4月28日、対近鉄バファローズ4回戦(藤井寺球場)、2回表二死目に達成 ※史上69人目 1500奪三振:1993年7月9日、対福岡ダイエーホークス14回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回表に浜名千広から ※史上35人目 150勝:1994年4月19日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回完封勝利 ※史上39人目 2500投球回:1995年8月15日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(グリーンスタジアム神戸)、3回表一死目に達成 ※史上39人目 500試合登板:1998年9月26日、対福岡ダイエーホークス26回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表二死に2番手として救援登板・完了 ※史上69人目 ノーヒットノーラン:1995年8月26日、対近鉄バファローズ19回戦(藤井寺球場) ※史上61人目 オールスターゲーム出場:7回 (1978年、1984年、1985年、1988年、1989年、1993年、1994年) 11 (1977年 - 1998年) 75 (1999年 - 2000年、2002年 - 2004年) 81 (2005年 - 2007年) 71 (2009年 - 2014年、2018年 - 2019年) 70 (2015年 - 2017年) 『絶対エース育成論:なぜ田中将大は24連勝できたのか?』(佐藤義則著、竹書房、2014年3月、ISBN 978-4-81-249926-9) 『佐藤義則 一流の育て方:ダルビッシュ有・田中将大との1600日』(永谷脩著、徳間書店、2010年11月、ISBN 978-4-19-863071-3) 『超一流の育て方:楽天イーグルス投手コーチ・佐藤義則とエースの5年間』(永谷脩著、KADOKAWA、2013年12月、ISBN 978-4-04-600086-6) PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球 STVアタックナイター サンテレビボックス席 J SPORTS STADIUM - オリックス戦のみ 『プロフェッショナル 仕事の流儀「まっすぐ戦う、勇気を持て プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルス投手コーチ・佐藤義則」』(2012年4月23日、NHK総合) 『プロフェッショナル 仕事の流儀、人を育てる極意スペシャル』(2013年9月9日、NHK総合) ^ それぞれ、6月8日の対日本ハム戦(東京ドーム、無四球)、6月15日の対近鉄戦(西京極球場)、7月6日の対近鉄戦(西京極球場)、9月6日の対日本ハム戦(東京ドーム)、9月22日の対ロッテ戦(阪急西宮球場)で計5度の完封勝利を記録。 ^ パ・リーグの先発投手は2000年第2戦は当時西武の松坂大輔、2008年の第1戦は当時北海道日本ハムファイターズのダルビッシュ有、2012年の第1戦は日本ハムの斎藤佑樹、2018年の第1戦は当時西武の菊池雄星である。 ^ 2006年に中日の山本昌が更新。 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、256ページ ^ 「「V3の即戦力に」 阪急 11番・佐藤(函有斗→日大)を発表」『北海道新聞』(縮刷版) 1976年(昭和51年)12月16日付朝刊、12面(スポーツ面)。 ^ 「佐藤義(函有斗 日大出)が初勝利 完投で"ハム"料理 阪急、首位へゲーム差「0」」『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)5月22日付朝刊、13面(スポーツ面)。 ^ 「佐藤義が初完封 第1 ロッテ 第2はやっと引き分け」『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)9月5日付朝刊、13面(スポーツ面)。 ^ 「MVP 二年連続で王(巨)と山田(急) プロ野球表彰選手決まる 新人王 斎藤明(大洋)と佐藤義(阪急)」『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)10月29日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「プロ野球情報 佐藤義が一発更改」『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)12月17日付朝刊、13面(スポーツ面)。 ^ “星野仙一が“日本一の投手コーチ”と称賛した通算165勝右腕・佐藤義則「やっぱり投げるのは大事」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2021年2月7日). 2023年5月8日閲覧。 ^ 「阪急 怒とうの一回表 全員安打、8連続安打、8連続得点」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)4月18日付朝刊、12面(スポーツ面)。 ^ 「佐藤5年ぶり完封」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)5月9日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「佐藤、完封で10勝目」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)6月29日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「阪急ノンストップ ブーマー四冠へ」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)9月5日付朝刊、13面(スポーツ面)。 ^ 「阪急まず1位確保 優勝M5 ブーマー37号3ラン 佐藤、4安打完封で17勝」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)9月20日付朝刊、17面(スポーツ面)。 ^ 「プロ野球だより」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1984年(昭和59年)12月5日付朝刊、17面(スポーツ面)。 ^ 「セ遠藤、パ佐藤 六月のMVP」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)7月7日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「佐藤 20勝一番乗り」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)9月27日付朝刊、15面(スポーツ面)。 ^ 「パ・リーグ全日程終了 落合 五部門制す 最多勝利投手に佐藤(阪急)」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)10月23日付朝刊、14面(スポーツ面)。 ^ 「佐藤投手に奥尻町功労賞」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)10月12日付朝刊、18面(スポーツ面)。 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Baseball-Reference (Japan) 所属タレント プロフィール/Profile 佐藤 義則 - 株式会社ジャイロスコープ 表 話 編 歴 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 表 話 編 歴 1950 米川泰夫 1951 阿部八郎 1952 柚木進 1953 米川泰夫 1954 宅和本司 1955 河村久文 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 杉浦忠 1961 稲尾和久 1962 米田哲也 1963 稲尾和久 1964 尾崎行雄 1965 尾崎行雄 1966 田中勉 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 成田文男 1974 鈴木啓示 1975 東尾修 1976 村田兆治 1977 村田兆治 1978 鈴木啓示 1979 村田兆治 1980 木田勇 1981 村田兆治 1982 松沼博久 1983 山沖之彦 1984 佐藤義則 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 阿波野秀幸 1988 小川博 1989 阿波野秀幸 1990 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 伊良部秀輝 1996 工藤公康 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 松坂大輔 2004 新垣渚 2005 松坂大輔 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 杉内俊哉 2009 杉内俊哉 2010 ダルビッシュ有 2011 ダルビッシュ有 2012 田中将大 2013 金子千尋 2014 則本昂大 2015 則本昂大 2016 則本昂大 2017 則本昂大 2018 則本昂大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大, 山本由伸 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 今井達也 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 江藤正 1952 野口正明 1953 川崎徳次 1954 宅和本司, 田中文雄 1955 宅和本司 1956 三浦方義 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保征弘 1963 稲尾和久 1964 小山正明 1965 尾崎行雄 1966 米田哲也 1967 池永正明 1968 皆川睦男 1969 鈴木啓示 1970 成田文男 1971 木樽正明 1972 山田久志, 金田留広 1973 成田文男 1974 金田留広 1975 東尾修 1976 山田久志 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 今井雄太郎, 村田兆治 1982 工藤幹夫 1983 東尾修, 山内和宏 1984 今井雄太郎 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 山沖之彦 1988 渡辺久信, 西崎幸広, 松浦宏明 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野田浩司, 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 K.グロス 1996 K.グロス 1997 西口文也, 小池秀郎 1998 西口文也, 武田一浩, 黒木知宏 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 涌井秀章 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 和田毅, 金子千尋 2011 D.ホールトン, 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平, 涌井秀章 2016 和田毅 2017 東浜巨, 菊池雄星 2018 多和田真三郎 2019 有原航平 2020 千賀滉大, 石川柊太, 涌井秀章 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平、伊藤大海 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 柚木進 1952 柚木進 1953 川崎徳次 1954 宅和本司 1955 中川隆 1956 稲尾和久 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保田治 1963 久保征弘 1964 妻島芳郎 1965 三浦清弘 1966 稲尾和久 1967 足立光宏 1968 皆川睦男 1969 木樽正明 1970 佐藤道郎 1971 山田久志 1972 清俊彦 1973 米田哲也 1974 佐藤道郎 1975 村田兆治 1976 村田兆治 1977 山田久志 1978 鈴木啓示 1979 山口哲治 1980 木田勇 1981 岡部憲章 1982 高橋里志 1983 東尾修 1984 今井雄太郎 1985 工藤公康 1986 佐藤義則 1987 工藤公康 1988 河野博文 1989 村田兆治 1990 野茂英雄 1991 渡辺智男 1992 赤堀元之 1993 工藤公康 1994 新谷博 1995 伊良部秀輝 1996 伊良部秀輝 1997 小宮山悟 1998 金村暁 1999 工藤公康 2000 戎信行 2001 N.ミンチー 2002 金田政彦 2003 斉藤和巳, 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 ダルビッシュ有 2011 田中将大 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平 2016 石川歩 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 山本由伸 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 L.モイネロ 表 話 編 歴 1950 若林忠志 1951 江藤正 1952 大神武俊 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 柚木進 1956 川崎徳次 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 中西勝己 1961 J.スタンカ 1962 土橋正幸 1963 稲尾和久 1964 J.スタンカ 1965 杉浦忠 1966 渡辺泰輔 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 石井茂雄 1970 木樽正明 1971 足立光宏 1972 山田久志 1973 江本孟紀 1974 金田留広 1975 足立光宏 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 井本隆 1980 井本隆 1981 高橋一三 1982 松沼博久 1983 松沼博久 1984 山田久志 1985 松沼博久 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 渡辺久信 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 工藤公康 1992 渡辺久信 1993 工藤公康 1994 渡辺久信 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 若田部健一 2001 J.パウエル 2002 松坂大輔 2003 斉藤和巳 2004 石井貴 2005 清水直行 2006 ダルビッシュ有 2007 ダルビッシュ有 2008 涌井秀章 2009 武田勝 2010 成瀬善久 2011 和田毅 2012 吉川光夫 2013 則本昂大 2014 J.スタンリッジ 2015 武田翔太 2016 大谷翔平 2017 千賀滉大 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平 表 話 編 歴 1936春夏 宮武三郎 1936秋 北井正雄 1937春 石田光彦 1937秋 石田光彦 1938春 宮武三郎 1938秋 小田野柏 1939 浅野勝三郎 1940 重松通雄 1941 浅野勝三郎 1942 橋本正吾 1943 天保義夫 1944 笠松実 1946 天保義夫 1947 天保義夫 1948 天保義夫 1949 今西錬太郎 1950 天保義夫 1951 天保義夫 1952 天保義夫 1953 柴田英治 1954 梶本隆夫 1955 柴田英治 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 梶本隆夫 1959 米田哲也 1960 梶本隆夫 1961 米田哲也 1962 石井茂雄 1963 梶本隆夫 1964 米田哲也 1965 足立光宏 1966 石井茂雄 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 米田哲也 1970 米田哲也 1971 米田哲也 1972 足立光宏 1973 足立光宏 1974 竹村一義 1975 山田久志 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 山田久志 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 山田久志 1984 山田久志 1985 山田久志 1986 山田久志 1987 佐藤義則 1988 佐藤義則 1989 佐藤義則 1990 星野伸之 1991 佐藤義則 1992 星野伸之 1993 星野伸之 1994 星野伸之 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 星野伸之 1998 星野伸之 1999 小林宏 2000 小林宏 2001 金田政彦 2002 E.ヤーナル 2003 吉井理人 2004 具臺晟 2005 川越英隆 2006 川越英隆 2007 川越英隆 2008 金子千尋 2009 小松聖 2010 金子千尋 2011 木佐貫洋 2012 A.フィガロ 2013 金子千尋 2014 金子千尋 2015 B.ディクソン 2016 金子千尋 2017 金子千尋 2018 西勇輝 2019 山岡泰輔 2020 山岡泰輔 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山下舜平大 2024 宮城大弥 表 話 編 歴 1位:佐藤義則 2位:森本進(入団拒否) 3位:吉沢俊幸 4位:平山正人 5位:根本俊郎(入団拒否) 6位:山本良材 表 話 編 歴 石山建一 太田誠 矢野暢生 田尾安志 田村政雄 峰尾晃 阿部政文 佐藤義則 森口益光 中西清治 土屋恵三郎 小川良一 伊藤升久 神垣雅行 吉沢俊幸 平田薫 八木茂 斎藤茂樹 二宮至 新井鐘律 前川善裕 村山修一 表 話 編 歴 宮井勝成 五明公男 阿部政文 大屋好正 黒紙義弘 佐藤義則 谷井潤一 辻内修 中尾孝義 福田功 坂田松一 武智勇治 行沢久隆 花野巧 松本哲 若松茂樹 岩谷茂範 高柳秀樹 平川貴之 羽田国雄 表 話 編 歴 太田誠 五明公男 小川茂仁 森繁和 江川卓 佐藤義則 吉田恭之 林博之 高橋三千丈 齊藤明雄 堀場秀孝 袴田英利 大宮龍男 山倉和博 石毛宏典 石井昭男 秋田秀幸 武智勇治 金光興二 松本匡史 岡村隆則 渡辺良 植松精一 VIAF 日本 日本の野球選手 函館大学付属有斗高等学校出身の野球選手 日本大学硬式野球部の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) 最優秀防御率 (NPB) 最多奪三振 (NPB) パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 日本の野球監督 阪神タイガース関連人物 北海道日本ハムファイターズ関連人物 東北楽天ゴールデンイーグルスの監督 福岡ソフトバンクホークス関連人物 野球解説者 日本の男性YouTuber 元NPB選手のYouTuber 北海道出身のスポーツ選手 1954年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 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2024/11/19 10:02更新
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satou yoshinori
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