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槙原寛己の情報 (まきはらひろみ)
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【6月20日】今日誕生日の芸能人・有名人

槙原寛己の情報(まきはらひろみ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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槙原 寛己さんについて調べます

■名前・氏名
槙原 寛己
(読み:まきはら ひろみ)
■職業
野球選手
■槙原寛己の誕生日・生年月日
1963年8月11日 (年齢60歳)
卯年(うさぎ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
愛知出身

(昭和38年)1963年生まれの人の年齢早見表

槙原寛己と同じ1963年生まれの有名人・芸能人

槙原寛己と同じ8月11日生まれの有名人・芸能人

槙原寛己と同じ出身地愛知県生まれの有名人・芸能人


槙原寛己と関係のある人

大熊忠義: 死球が飛び交った1998年8月2日の巨人戦(甲子園)では、報復的死球を与えた槙原寛己に飛び蹴りを食らわせて退場処分となった。


八重樫幸雄: チームの後輩の広澤克実は「オープンスタンスの走り」と評しており、槙原寛己は「八重樫さんがもうちょっと打ってれば、もうちょっと早く世間に…」と打撃面で大成しなかったことを惜しんでいる。


工藤公康: 高校時代は、同学年かつドラフト同期の槙原寛己(大府高校から巨人1位指名)・浜田一夫(愛知高校から中日2位指名)とともに、愛知三羽烏と呼ばれ、速球と大きく割れるカーブを武器に活躍。


勝呂壽統: 5月28日の広島東洋カープ戦は槙原寛己と大野豊の投手戦で、0対0のまま迎えた延長10回にセンターバックスクリーンにプロ初となる決勝ホームランを放つ。


松原誠: 同年5月24日の中日戦(ナゴヤ)で3回、顔面近くを通った槙原寛己の投球に怒ったバンスローがマウンドに向かおうとして両軍入り乱れての乱闘騒ぎになる。


阿部慶二: 初打席・初安打・初本塁打・初打点:1984年8月8日、対読売ジャイアンツ16回戦(後楽園球場)、6回表に槙原寛己から右越ソロ ※史上18人目の初打席初本塁打


斎藤雅樹: 桑田真澄、槙原寛己とともに先発「三本柱」と呼ばれた3人の中でも抜きん出た成績を残し、沢村栄治賞3回、最優秀選手1回、最多勝利5回、最優秀防御率3回、最多奪三振1回、最高勝率3回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回 など数々のタイトルや表彰を獲得した。


メルビン=ニエベス: 読売ジャイアンツとの日本シリーズにも主力として出場し、第1戦(東京ドーム)で槙原寛己から9回に看板直撃の代打決勝本塁打、第4戦(福岡ドーム)でも斎藤雅樹から初回に同点本塁打を放ったが、チームは第6戦で敗戦。


菅野智之: 通算投球回数1739回2/3で到達は1994年の槙原寛己の1750回1/3を抜く球団最速での達成となった。


山倉和博: 槙原寛己に対しては、スライダーが甘く入らないように注意しながら、おだてて気持ちよく投げさせた。


水野雄仁: この時に槙原寛己は何度か「おーい、生きてるか?」と茶化した。


宮國椋丞: 7回を1失点に抑え、巨人では槙原寛己以来29年ぶりとなる10代での初登板初勝利を挙げた。


山崎武司: 6月19日の対巨人戦では8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮に続いて本塁打を放ち、山﨑の後の大豊も本塁打を放ったため、3者連続本塁打となった。


佐野元国: 当初は山倉和博に続く2番手捕手として期待されていたが、4月5日に行われた大洋とのオープン戦(水戸)の5回に本塁上で走者の若菜嘉晴に左脚大腿部をスパイクされ7針の皮下裂創を負い退場し、その12日後の阪神戦で槙原寛己とバッテリーを組んだ際、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布のクリーンナップからバックスクリーンへの3連続本塁打を浴びた。


御船英之: 1994年5月18日に福岡ドームで行われた対巨人戦で槙原寛己が完全試合を達成した際(槙原寛己の完全試合)の最後の打者であり、一塁ファウルフライを落合博満にキャッチされた。


山本文男: 1994年5月18日の巨人-広島戦(福岡ドーム)で、槙原寛己(巨人)が達成(2塁塁審で出場、球審は鷲谷亘)


川口和久: 奇しくもこの日は巨人の先発である槙原寛己が日本プロ野球史上15人目となる完全試合を達成している。


浜田一夫: 愛知高校時代は同期の工藤公康・槙原寛己とともに「愛知三羽烏」として名を馳せ、1981年のプロ野球ドラフト会議で地元・愛知県に本拠地を置く中日ドラゴンズから2位指名を受けて入団。


前田智徳: 槙原寛己は前田について、「真ん中のボールは平気で見逃すくせに、難しいボールは確実にヒットにする。


薄井しお里: ミスターパーフェクト槙原 元読売ジャイアンツ投手 槙原寛己氏のYouTubeチャンネルのアシスタント(2021年6月配信から2022年7月9日配信分まで)


今井雄太郎: その後、平成時代に入った1994年に巨人の槙原寛己が完全試合を達成するが、今井は福岡ドームでの槙原の完全試合に居合わせており、槙原の完全試合達成の瞬間を現場で目の当たりにして涙を流した。


原辰徳: かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口貴彦や西村健太朗の指導を依頼。


吉鶴憲治: 初打点:1993年5月29日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、6回表に槙原寛己から


紀藤真琴: 9月17日には広島市民球場の巨人戦で槙原寛己から通算1号となるソロ本塁打を放っている。


杉浦享: 200本塁打:1988年10月2日、対読売ジャイアンツ26回戦(東京ドーム)、5回表に槙原寛己から右越先制ソロ ※史上56人目


定岡正二: 1985年には、槙原寛己が台頭したことを背景に、一軍定着後初めてリリーフへ専念。


寺原隼人: 小学校4、5年生の時の野球教室で原辰徳、桑田真澄、斎藤雅樹、槙原寛己から指導を受け、日南学園の小川監督が東海大で原の先輩だったこともありドラフト前の面談で原は2度宮崎を訪れた。


山崎章弘: 初出場:1986年6月28日、対広島東洋カープ12回戦(後楽園球場)、9回裏に槙原寛己の代打として出場


オレステス=デストラーデ: 読売ジャイアンツと対戦した同年の日本シリーズでは、初戦の第1打席で槙原寛己から特大の3ラン本塁打を放ち、シリーズの流れを引き寄せた。


藤田元司: 斎藤はこの年に11試合連続完投勝利のプロ野球記録を樹立するなど20勝を挙げ、桑田真澄、槙原寛己ともに巨人の先発の柱としてチームを支えることになる。


槙原寛己の情報まとめ

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槙原 寛己(まきはら ひろみ)さんの誕生日は1963年8月11日です。愛知出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、人物などについてまとめました。引退、現在、テレビ、兄弟、事件に関する情報もありますね。去年の情報もありました。槙原寛己の現在の年齢は60歳のようです。

槙原寛己のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ミスターパーフェクト槙原

槙原 寛己(まきはら ひろみ、1963年8月11日 - )は、愛知県半田市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者・野球評論家・タレント・YouTuber。

斎藤雅樹、桑田真澄とともに1990年代の読売ジャイアンツを支えた先発3本柱の一人。愛称は「マッキー」「マキさん」「ミスター・パーフェクト」など。所属事務所はノースプロダクション→オールラウンド。

1994年5月18日、史上15人目、平成唯一の完全試合を福岡ドームで達成している。

平成30年10月より、オフィスコンサルティング株式会社の代表取締役をしている。

大府高校在学時から同期の工藤公康(愛工大名電高校→西武6位指名)・浜田一夫(愛知高等学校→中日2位指名)とともに愛知三羽烏と呼ばれ剛速球投手として有名だった。1981年の第53回選抜高等学校野球大会に出場、ストレートが当時の甲子園最速記録となる147km/hを記録する。

1981年11月25日のドラフト会議にて読売ジャイアンツから1位指名を受け、入団。

入団1年目は二軍での体作りに専念したため登板機会が無かった。150km/hを超える速球派投手として球団から期待される。秋の阪神とのオープン戦で好投し、自信をつけた。

1983年、春のグアムキャンプの一軍メンバーに選抜される。ここで監督の藤田元司から大きく曲がるカーブを教わり、速球を生かせるようになった。キャンプから若手の成長株として評価され、一軍に初昇格して活躍した同期生の吉村禎章、1歳年上の駒田徳広らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。

開幕一軍入りを果たすと、4月16日の対阪神2回戦(甲子園球場)に一軍初登板で初先発すると、延長10回を5安打9奪三振、1-0で完封という鮮烈なプロデビューを飾った。4月24日の対ヤクルト戦に先発し、プロ入り2試合連続で完投勝利した。先発ローテーション入りを果たし、12勝1セーブ(9敗)の成績を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献。記者投票で213票、それ以外は「該当者なし」1票、「無効」1票という圧倒的な票を集め、新人王に選出された。

同年の西武ライオンズとの日本シリーズでも第3戦、第6戦に先発登板した。後楽園球場での第3戦は、2-1とリードした6回表にテリー・ウィットフィールドに1号3ランを打たれ、5回1/3を4失点。西武球場での第6戦は、1回表原辰徳の適時打で1-0とリードしていたが、5回裏に石毛宏典に三塁打、6回大田卓司に1号本塁打を打たれて1-2と逆転され、6回2失点。いずれも勝ち負けはつかなった。

1984年、ストレートの最高球速がボール球ながら155km/hと当時の日本最速スピードを記録。翌年に西武ライオンズに入団した郭泰源が156km/hを出し更新されるが、1984年に記録した155km/hは終速表示であったため「日本人で最初に160km/hを記録するのは槙原では」とさえ言われていた。同年の日米野球では、槙原はボルチモア・オリオールズの主砲エディ・マレーと対決し、マレーに超特大の場外本塁打を打たれたが、後に自分が完璧に投げて、それでも打たれた本塁打だったと述懐している。

1985年4月17日の対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)で佐野元国とバッテリーを組み、7回裏にクリーンナップであるランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布に3者連続でバックスクリーンへの本塁打(バックスクリーン3連発)を喫した。それから2か月後の6月28日の同カード13回戦に先発し、チームは球団記録となる1試合8本塁打を記録、自身も球団通算5000号本塁打となる現役生活で唯一の本塁打を打ち、大量14点の援護点もあり1失点で完投勝利した。ところが、降雨ノーゲームとなった7月14日の対阪神16回戦の1回表にランディ・バースの打球が右足のスネに当たり、撥ね返った打球を捕りにいくときに転んで、左股関節骨折の重傷を負い、その後のシーズンを棒に振った。

1986年、イースタン・リーグで調整登板を重ね、5試合に登板して計33回を投げ、36奪三振、6失点、また2日の金沢での西武戦で完封するなど「怪我の後遺症がなくなった」と判断されたため、5月4日、10か月ぶりに一軍登録された。5月11日の対広島6回戦に先発して前年7月14日以来300日ぶりに復帰登板したが、3回2/3、6失点で降板した。後半戦は、8月に4勝1敗、3完封、防御率0.63で月間MVPを受賞するなど、投手陣の柱としてチームを支え、広島東洋カープとの優勝争いの原動力となっていた。しかし、10月7日の対ヤクルト26回戦ではマーク・ブロハードに逆転本塁打を打たれ、広島が首位に浮上し巨人は2位に転落する痛恨の敗戦となり、12日に広島がリーグ優勝を決め、巨人は広島と僅差の2位に終わった。現役引退時に、「一番悔しかった」試合として阪神戦での3連続被弾ではなく、この試合を挙げた。

1987年は、新人王を獲得した1983年以来4年ぶりに2桁となる10勝(6敗)を挙げ、チームの4年ぶりのリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第4戦に先発し、3安打11奪三振で完封し、シリーズ初勝利を挙げた。シリーズは2勝4敗で西武に敗れたものの、優秀選手賞を受賞した。同年から背番号が入団時から付けていた「54」から「17」に変更され、引退まで着用した。

1988年は、プロ入り後初めて年間200イニングを突破した(208回1/3)。また、当時はリーグ連盟表彰の対象ではなかったが、リーグ最多の187奪三振を記録した。

1989年は、開幕から先発とともに登板の合間にはリリーフも兼ねるなど、オールスターゲーム前までに12勝3敗4セーブ、防御率1.75という活躍を見せた。しかし、後半戦の開始となった7月29日の対広島15回戦で、2回裏一死後、植田幸弘へ3球目を投げた後に軸足の右膝をひねったため降板。31日、東京・慈恵医大病院での精密検査で右膝内側半月板損傷と判明し、治療のため残りのシーズンを棒に振った。チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たし、槙原もリハビリを終えて近鉄バファローズとの日本シリーズに出場有資格選手入りした。10月24日の第3戦に3番手で登板し、約3か月ぶりに実戦登板を果たした。

1990年も、前年の怪我が尾を引いていた。4月に2勝したものの、その後は打ち込まれる試合が続き、5月末に不調による再調整と足に打球を受けた治療を理由に二軍落ちした。夏に復帰し、それから調子を上げたが、この年の公式戦最終戦の10月10日の対広島26回戦に先発するも敗戦投手となって9勝に終わり、シーズン序盤の不調の影響で4年ぶりに規定投球回に到達できなかった。西武との日本シリーズでは、終盤の好調さを買われ第1戦の先発に起用されたが、その初回に西武のオレステス・デストラーデに、カウント0-3からの4球目が「ボール気味に投げたつもりが、ど真ん中」となって1号3点本塁打を打たれた。西武は無傷の4連勝で日本一となり、このデストラーデの本塁打は「シリーズの流れを決めた本塁打」と評された。

1991年、自身初の開幕投手に指名されたが、7回途中2失点での降板で勝敗は付かなかった。7月19日の対中日14回戦に先発し、7回まで8-0と大量の援護点を貰いながら、その裏1失点、8回に一死満塁のピンチに二点適時打を打たれた所で降板させられる。しかし、救援した木田優も失点を重ね中村武志に代打満塁本塁打を打たれて同点、そして延長10回にまたも中村にサヨナラ本塁打を打たれて、球団史上初の8点差からの逆転負けを喫した。

この年のオールスターゲーム(2試合制)では、第1戦で先発したため、第2戦では登板予定がなかった。しかし、第1戦は東京ドーム(日本ハムの本拠地だったためセ・リーグはビジター)で開催だったため、いつもの癖で第2戦の広島市民球場の試合はビジターのユニフォームと思い、槙原はホーム用のユニフォームをクリーニングに出してしまっていた。もっとも、登板予定はなかったために、ユニフォームと同じデザインのTシャツでベンチにいて事なきを得るはずだった。しかし、試合が延長戦に突入し、他チームの選手を無理に引っ張ることのできなかった全セ監督・藤田元司は、Tシャツのまま槙原を登板させることとなった。これを最後にNPBのオールスターは、延長戦なし・9回打ち切りとなっている。

1992年は、二年連続開幕投手となり完投勝利を挙げる等開幕から順調に勝ち星を伸ばし、前半戦だけで10勝(5敗)を挙げ、3年ぶりの2桁勝利を記録するが、オールスター後は2勝8敗と調子を落とし、自己最多タイの12勝を挙げる一方で、負け数が13で2年連続で負け越してしまう。

1993年には斎藤、桑田が軒並み調子を落とす中で孤軍奮闘し、自己最高の13勝、防御率2.28の好成績でチーム最多勝、FAの権利を取得した。シーズンオフになり槙原はいくつかの球団から誘いを受けたが、球団フロントが慰留などの態度を一切示さないことに不信感を持ちFA宣言をする。その後、当時監督を務めていた長嶋茂雄が槙原の自宅を訪問、説得を受けて巨人に残留を決めた。この際に長嶋が槙原の背番号と同数の17本のバラの花束を持ってきた逸話が残されているが、実際は20本だったという。

1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で平成唯一の完全試合を達成。

平成唯一および20世紀最後の達成者になった。現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。完全試合達成は引退会見の際に記者からの質問で「一番思い出に残っている試合はどれですか?」と聞かれた際、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」と答えた程で、本人にとってプロ野球人生の中で最高の思い出となっている。前々日の門限破りで外出禁止1か月を言い渡されたため、好投してこれを解こうと奮起した結果であると大久保博元と「おしゃれカンケイ」に出演した際に話している。ちなみに同試合で広島の両主砲、江藤智・前田智徳はともに欠場であった。

同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦と優勝決定の第6戦で完投勝利、2勝0敗・防御率0.50と、今までの勝負弱いイメージを払拭する活躍でシリーズMVPも獲得した。

1995年オフにレーシック手術を受けたが、最初の手術で左目に痛みが出て物が二重に見えるようになってしまい、翌シーズン直前に新しいコンタクトレンズを用意し、シーズン終了後再手術をすることとなった。

1996年、6月19日のナゴヤ球場での中日戦で音重鎮、山崎武司、大豊泰昭に、3連続本塁打をまたも打たれた。7月、胸の痛みを訴えて入院。肺気胸と診断された。その前日に球団トレーナーが行った鍼治療で電気針を深く打ちすぎたのが原因で、槙原は鍼が原因との自覚を持ちながら、トレーナーを庇うため表沙汰にはしなかったが、球団側が槙原の名誉のために事実を公表。治療を行ったトレーナーを減俸にするなどの処分を行い、槙原には公傷を認めた。槙原は「起きたことは仕方がないので、早くリハビリをして復帰の準備をしたい」などとコメントした。

1997年、チームが開幕から低迷する中チーム最多タイの12勝を挙げるも自己ワーストの被本塁打を記録した。

1998年、開幕から出遅れ4月半ばにシーズン初登板となり5月の頭にシーズン初勝利が通算150勝目の記録となった。しかし初登板から不調な投球が目立ったものの、5月16日の対ヤクルト戦の延長戦でチームは勝ち越したがリリーフ投手を使い切りベンチ入りしていたこともあり登板すると無失点で抑え6年ぶりのセーブを記録。この登板を境に調子を取り戻し次の試合ではシーズン初完封し更に三連勝を記録(通算では4連勝)。しかしその頃チームがストッパー不在に苦しみ6月末からストレート、フォーク、スライダーのキレを買われて、ストッパーに転向。

リリーフでの成績は2勝2敗18セーブ防御率2.93(先発での成績は4勝2敗防御率4.71)を記録し、27試合の登板で無失点で抑えたのは23試合ありセーブ機会での失敗による敗戦は一度だけだった。7月15日の横浜戦では、3点リードの8回に登板。1点を失い、なおも走者一塁のピンチも佐伯貴弘をライトフライに打ち取りチェンジかと思われたがボークが宣告され打ち直しになってしまう。直後に同点2ランを打たれ、続投した9回にサヨナラ負けを喫する。

全国中継が多いチームの宿命からか少しの失敗だけで一部マスコミ等では「ダメ魔神」(さらに犬顔だったことから「犬魔神」とも)と書かれた。これは当時横浜ベイスターズのリリーフエースだった佐々木主浩の「ハマの大魔神」のあだ名をもじったものである。このフレーズは、自虐ネタの達人である槙原が自ら売り込んだほど。契約更改では翌年もリリーフでの登板が濃厚で「200勝は諦めます」と記者会見で発表した。

1999年6月12日の対阪神戦(甲子園)では、12回裏同点一死一・三塁の場面で打者の新庄剛志を敬遠しようとしたが、新庄に敬遠球を打たれサヨナラ負けした。なお、槙原にとってはこれが現役最後の敬遠であった。年間ではプロ入り初の全試合リリーフ登板をしたが、シーズン終盤に不振の投球でストッパーの座は桑田に代わった。

2000年も開幕から引き続きストッパーとしてシーズンを迎えたが敗戦投手にはならないものの投球内容が悪く、7月15日の対ヤクルト13回戦の9回に登板するも一死も取れないまま降板し更に足を負傷、チームは逆転負けをした。その後シーズン終盤に一軍復帰し福岡ダイエーホークスとの日本シリーズ第1戦に同点の9回にリリーフ登板するも、メルビン・ニエベスに決勝本塁打を打たれ敗戦投手となった。故障後に日本シリーズに合わせ無理に体を作ったことで、それまで一度も怪我が無かった肩を負傷、直球が130km/h台に落ち込む。

2001年、肩の怪我からの再起を目指したが一向に回復せず、このシーズンの一軍での登板は引退試合の1試合の登板に留まり、現役引退引退試合は9月30日の横浜戦で、この試合では槙原から同年引退が決まっていた斎藤雅樹にリレーされ、2人の球を受けたのは同年引退が決まっていた村田真一だった。

引退後は野球評論家として活動し、2023年現在はTBSテレビ、スポーツニッポンの評論家を務めている。2017年までは、TBSラジオの野球解説者でもあった。2007年オフは巨人の臨時コーチとしてキャンプに参加した。

2019年4月30日、平成最後の日で平成最後の試合となった巨人-中日3回戦(東京ドーム)前に、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の“平成の3本柱”がマウンドに立ち、「10・8決戦」のリレー形式での始球式を行った。捕手は村田真一が務めた。

2021年2月25日、YouTubeチャンネル「ミスターパーフェクトチャンネル」を開設。

選手としての特徴

速球派投手として

若手時代からそのストレートの速さについては言われていたが、入団当時江川卓と並んで巨人の先発投手陣の柱だった西本聖は「歴代見たピッチャーの中で文句無しにマキが一番球が速い。デビュー当時は江川さんより上だと思った」と槙原のストレートを評している。槙原が一軍に昇格した1983年の春季キャンプでは、ホテルで同室となった際には「俺は君より速いボールを投げるピッチャーはこれまで見たことがない。俺に君のストレートがあれば年間30勝だって出来る」と槙原を励ましたという。また、2001年9月30日の現役引退セレモニーでも原辰徳(当時はヘッドコーチ・2002年度より巨人軍監督内定)から「槙原君、 一軍のマウンドで初めて投げた時 150kmのストレート 忘れません」と賛辞を贈られていた。

一方、小松辰雄は自身が打席に立った経験を踏まえて「槙原はスピードガンは速いんだけど江川さんに比べれば大したことないな」と評している。

球種

前述のようにプロ1年目から速球派投手として鳴らしていたが、プロ5年目の1986年後半から球種をスライダーをメインにし、1992年頃からは走者がいなくてもセットポジションから投げる投球スタイルに変更。150km/hを超えるストレートはあまり見られなくなる反面、与四球率は大幅に改善され、フォークボール、まれにスローカーブも交えながら、引退まで三振の取れる本格派として活躍した。スライダーは元々入団当初から投げていたがうまく曲がらず、抜けると一番危険な球であるため試合では使えなかった。1986年、スライダーの良い握りはないかと模索していたところ、スコアラーの小松俊広が篠塚利夫とキャッチボールをしていた際「シノのスライダーはいいんだよなあ」と言っていたのを聞き、すぐに篠塚に投げ方を教わった。普通より狭めて、スピードの出るスライダーとなった。7月の阪神戦で試しに投げた所、好感触を得たため、スライダーに自信を持つようになった。

先発投手として

巨人では斎藤雅樹、桑田真澄とともに「三本柱」と呼ばれるほどの投手だった。しかし、斎藤、桑田の2人が年間200イニング以上をコンスタントに投げて年間を通じて活躍するのに対して、槙原は二人に比べて年間200イニングを超えたのは1988年の1度のみであった。シーズンの勝利数も1993年の13勝が最高であり、防御率2点台序盤や1点台を記録した年もランキングでは2位で終わること2度と不運も重なった。1988年に年間最多奪三振を記録したがセ・リーグの最多奪三振のタイトルは1991年からの制定で、主要な投手タイトルを獲得できず常に先発3番手と見られていた。

1986年の優勝争いの終盤、10月7日の対ヤクルトスワローズ戦でマーク・ブロハードに逆転の決勝2点本塁打を打たれたり、1990年日本シリーズ第1戦1回表にオレステス・デストラーデに先制3点本塁打を打たれるなど、「ここ一番に弱い」と評されていた。

打撃・守備

打撃・守備は非常に苦手である。送りバントも苦手であり、そのため走者を置いて打席に立ってもチャンスを広げられず、結果として味方の援護点も低かった。そのことから、元チームメイトの後藤孝志から「槙原さんはバントがうまかったら200勝していた」と言われている。1985年6月28日対阪神戦(甲子園)で唯一本塁打を放っているが、これは球団5000号となるメモリアル本塁打となった。

弱視

弱視で視力が非常に悪かった。コンタクトをつけても視力は0.5ほどで矯正が難しく、捕手のサインがよく見えなかった。急な登板でコンタクトレンズをつける時間がなく、誰がグラウンドに立っているかも判別できない状態で投球したこともある。引退後「実はプロ生活20年で捕手のサインが一度も見えなかった」と告白している。

記録、相性

バース・掛布・岡田の3連続被弾、新庄の敬遠球サヨナラ安打(敗戦投手は入来祐作)は語り草の一つになっているが、実際は阪神戦にはめっぽう強く、前述のバックスクリーン3連発の次の試合から4年にかけて8連勝、1つ負けて3年にかけて7連勝、その後も8連勝、1つ負けて5連勝してるように対阪神戦38勝10敗10完封の好成績を残している。阪神以外の4球団との通算対戦成績は121勝118敗と、勝率.506でしかないが、対阪神戦での勝率は同時期に同じチームでエースとして活躍し、同じく阪神戦を得意にしてた斎藤雅樹をも上回る、勝率.792を記録(斎藤は.727)。プロ初登板での初勝利・初完封も阪神戦である上に、初安打・初本塁打も阪神戦である。

現役時代に最も苦手としていた打者として、ヤクルトの古田敦也の名前を挙げている。本人曰く「ボール球も打つわ、(対策を練って)裏をかいたつもりが打たれるわで顔を見るのも嫌だった」とのこと。古田は引退後に「槙原さんは変化球を投げる際に独特の癖があり、特にフォークボールを投げる際はグローブの中でグッと握り直す癖があった」と当時の事情を明かしている。広澤克実も同様の証言をしており、「癖を見抜いても必ず打てるわけではないが対戦する側としては楽。当時ヤクルトの選手はみんな知っており、他のチームでも有名だと聞いた」と解説した。逆に中日時代の落合博満は、槙原の顔を見るのも嫌なぐらい苦手にしており、セーフティーバントを試みたこともあったという。

広島東洋カープの大野豊は、先発投手として活躍していた頃について「槙原君との投げ合いはいつも燃えた。『1点でも取られたら終わりだ』と思って投げていた」と語っている。

その他

阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」をひどく嫌っていた時期がある。槙原が引退後『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に出演した際に事情を詳しく語っており、飲食店などで「六甲おろし」のカラオケが流れると、決まって1985年の阪神戦におけるバックスクリーン3連発の際にうなだれる自分の姿が画面に大映しにされ、「いつまで笑い者にしたら気が済むんだ」と憤慨していたという。しかしある時期を境に「あれだけのクリーンナップに真っ向勝負した投手は俺だけだ」と誇りに思うようになり、引退後は講演の席などで「バックスクリーン3連発を打たれた槙原です」と笑いを取るネタにする余裕も出来たと述べている。

人物

元木大介は自著において冗談交じりに「義兄弟の盃を交した仲」と語り「面倒見のいい人だった」と槙原を評している。特に新人や、他球団から移籍した選手をよく食事や、飲みに誘ったと書かれてある。

花火が大好き。愛犬に花火を見せる目的でライターで直接着火しようとしていたら花火が急に引火し、勢いよく散った火花が槙原の右手親指に接触し、大きな水ぶくれができた。その翌日(1988年7月20日・対阪神戦)は先発登板日だったため、チーム内や報道陣には「マメが出来た」と言ってごまかし登板した。8回に水ぶくれが破れたが、事実を知らない解説者が「血が出ながらも頑張っている」といい、槙原は本当のことも言えず、耐えながら投げ続けた。

競馬が大好きで、2008年有馬記念のトークイベントに出席したり、TCK・東京競馬場でも度々目撃されている。広島から巨人に移籍した川口和久は東スポのコラムで、槙原に1996年の日本ダービーに招待してもらったことを「今でも恩義に感じている」とコメントしている。

金遣いは荒く、現役時代は少なくとも20億は稼いだが、引退後にテレビ出演した時には、その多くを使い果たしたことを告白している。また、株取引にも金を多く費やしており、夫人は不満をもっていることを述べている。本人も「江川卓にカーブを教わろうとしたら、株取引を教わった」と出演番組で度々ネタにしている。

2004年5月には、愛知県碧南市内で発生した強盗傷害事件で実兄が現行犯逮捕されたため、出演した番組内にて謝罪する形に至った。

上述の完全試合達成から28年が経過した2022年4月、佐々木朗希が槙原以来の完全試合を達成したことに伴い、槙原の存在が再び注目されることになった。

崎陽軒をこよなく愛する人物として知られている。空港と新幹線での食事は崎陽軒(の弁当)と決めている。

2024/06/12 13:28更新

makihara hiromi


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