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槙原寛己の情報 (まきはらひろみ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

槙原寛己の情報(まきはらひろみ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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槙原 寛己さんについて調べます

■名前・氏名
槙原 寛己
(読み:まきはら ひろみ)
■職業
野球選手
■槙原寛己の誕生日・生年月日
1963年8月11日 (年齢61歳)
卯年(うさぎ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
愛知出身

(昭和38年)1963年生まれの人の年齢早見表

槙原寛己と同じ1963年生まれの有名人・芸能人

槙原寛己と同じ8月11日生まれの有名人・芸能人

槙原寛己と同じ出身地愛知県生まれの有名人・芸能人


槙原寛己と関係のある人

垣内哲也: 1994年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは槙原寛己に三振に打ち取られ最後の打者になっている。


村田真一: 1994年5月18日に槙原寛己が達成した、平成唯一の完全試合の投球を受けた唯一の捕手。


紀藤真琴: 9月17日には広島市民球場の巨人戦で槙原寛己から通算1号となるソロ本塁打を放っている。


山崎章弘: 初出場:1986年6月28日、対広島東洋カープ12回戦(後楽園球場)、9回裏に槙原寛己の代打として出場


オレステス=デストラーデ: 読売ジャイアンツと対戦した同年の日本シリーズでは、初戦の第1打席で槙原寛己から特大の3ラン本塁打を放ち、シリーズの流れを引き寄せた。


寺原隼人: 小学校4、5年生の時の野球教室で原辰徳、桑田真澄、斎藤雅樹、槙原寛己から指導を受け、日南学園の小川監督が東海大で原の先輩だったこともありドラフト前の面談で原は2度宮崎を訪れた。


郭源治: また、1988年5月13日の対巨人戦で槙原寛己からサヨナラ2ラン本塁打を放っている。


宮國椋丞: 7回を1失点に抑え、巨人では槙原寛己以来29年ぶりとなる10代での初登板初勝利を挙げた。


阿部慶二: 初打席・初安打・初本塁打・初打点:1984年8月8日、対読売ジャイアンツ16回戦(後楽園球場)、6回表に槙原寛己から右越ソロ ※史上18人目の初打席初本塁打


岡島秀樹: 2000年には怪我で離脱した槙原寛己に代わり抑えとなった桑田真澄が不振で代役の代役として抑えを担当し優勝に貢献し、日本シリーズでは胴上げ投手になった。


新庄剛志: 1999年6月12日、巨人との首位攻防戦(甲子園)12回裏同点一死一・三塁の場面(投手:槙原寛己、捕手:光山英和)で敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。


川口和久: 奇しくもこの日は巨人の先発である槙原寛己が日本プロ野球史上15人目となる完全試合を達成している。


エディ=マレー: オフに日米野球で来日した際には全14試合に出場し本塁打9本を放ち、槙原寛己から平和台球場史上最長と言われる場外本塁打を放っている。


木下透: 1978年から1981年まで4年間在籍したが、故障のため一軍出場はなく1981年限りで引退し、背番号54は翌年から入団する槙原寛己に引き継がれた。


小野ヤスシ: 岩手互助センター 長安殿(2008年 - 、槙原寛己と共演)


金沢次男: 1000投球回数:1990年4月29日、対読売ジャイアンツ4回戦(明治神宮野球場)、5回表2死目に槙原寛己を三振で達成


斎藤雅樹: 9月30日には同じく引退を発表していた槙原寛己・村田真一と共に引退試合が行われた。


沢村栄治: 元巨人の槙原寛己は、この企画での千葉・青田の球速評価について、「それは目が老化してるだろ」と指摘している。


掛布雅之: 同年の対読売ジャイアンツ戦では槙原寛己からバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入ったため、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーの計らいでもらっている)ではバースに続いて本塁打を叩き込み、この年の象徴のように語られている。


パット=マホームズ: 初奪三振:1997年7月17日、対読売ジャイアンツ17回戦(東京ドーム)、5回裏に槙原寛己から


秦真司: 7回裏にリリーフの槙原寛己をヤクルトがとらえ、同点に追いつき、なおも走者を2人残して秦が打席に立ち、秦は右翼席中段に勝ち越し3点本塁打を放った。


土橋正幸: ブロハートは打率.258、21本塁打、64打点と今一つだったが、優勝を広島と争っていた巨人との最終戦で槙原寛己から逆転の2ランを放ちファンの溜飲を下げた。


近藤真一: 中でも地元球団の中日は過去、槙原寛己(大府高校から読売ジャイアンツに入団)や工藤公康(名古屋電気高校から西武ライオンズに入団)といった地元出身の高校生スターを他球団に取られていたことから、「今度こそは」と近藤の獲得に強い熱意を入れており、将来的には近藤の3学年先輩である藤王康晴とともに、投打の中心的存在として活躍することを期待していた。


森祇晶: 日本シリーズはかつてのチームメイト・藤田元司率いる巨人と、1987年以来3年ぶりの対戦となり「斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己ら5人の2ケタ勝利の先発陣対西武の秋山、清原、デストラーデの強打クリーンナップとの対決」とマスコミに喧伝されたが、森はそれとは逆に自軍の投手陣と巨人の打者陣を比較検討し「4点取れば勝てる」と結論付けた。


吉田康夫: 初打席・初安打・初打点:同上、2回裏に槙原寛己から


川相昌弘: また、2001年には村田真一・槙原寛己・斎藤雅樹の3人が引退したが、川相は現役にこだわった。


鹿取義隆: 2002年は斎藤雅樹や槙原寛己が引退、さらにメイが退団して先発投手の不足が心配されていたが、桑田真澄を本人の希望通り先発で起用するなど、上原浩治を中心にローテーションを組む方針を打ち出した。


山下末則: 1994年5月18日に槙原寛己が完全試合を達成した試合(対広島東洋カープ戦。


桑田真澄: リーグ終盤には抑えの槙原寛己の救援失敗が目立ち、10.8決戦以来となる公式戦救援登板に回った。


小松崎善久: 初本塁打:1987年4月30日、対読売ジャイアンツ6回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に槙原寛己から右越えソロ


槙原寛己の情報まとめ

もしもしロボ

槙原 寛己(まきはら ひろみ)さんの誕生日は1963年8月11日です。愛知出身の野球選手のようです。

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引退、現在、テレビ、兄弟、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。槙原寛己の現在の年齢は61歳のようです。

槙原寛己のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ミスターパーフェクト槙原

槙原 寛己(まきはら ひろみ、1963年8月11日 - )は、愛知県半田市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者・野球評論家・タレント・YouTuber。

斎藤雅樹、桑田真澄とともに1990年代の読売ジャイアンツを支えた先発3本柱の一人。愛称は「マッキー」「マキさん」「ミスター・パーフェクト」「ミスター・三連発」など。所属事務所はノースプロダクション→オールラウンド。

1994年5月18日、史上15人目、平成唯一の完全試合を福岡ドームで達成している。

2018年10月より、オフィスコンサルティング株式会社の代表取締役をしている。

大府高校在学時から同期の工藤公康(愛工大名電高校→西武6位指名)・浜田一夫(愛知高等学校→中日2位指名)とともに愛知三羽烏と呼ばれ剛速球投手として有名だった。1981年の第53回選抜高等学校野球大会に出場、当時の甲子園最速記録となる147km/hを記録する。

1981年11月25日のドラフト会議にて読売ジャイアンツから1位指名を受け、入団。

入団1年目は二軍での体作りに専念したため登板機会が無かった。それでも150km/hを超える速球派投手として球団から期待されており、秋の阪神とのオープン戦で好投して自信をつけた。

2年目の1983年、春のグアムキャンプで一軍メンバーに選抜される。ここで監督の藤田元司から大きく曲がるカーブを教わり、速球を生かせるようになった。同シーズンに若手の成長株として活躍し始めた同期生の吉村禎章、1歳年上の駒田徳広らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。

開幕一軍入りを果たし、4月16日の対阪神2回戦(甲子園球場)に一軍初登板で初先発すると、延長10回を5安打9奪三振、1-0で完封という鮮烈なプロデビューを飾った。4月24日の対ヤクルト戦に先発し、プロ入り2試合連続で完投勝利した。先発ローテーション入りを果たし、12勝9敗1セーブの成績を挙げてチームのリーグ優勝に貢献。記者投票で213票(他は「該当者なし」と「無効」が1票ずつ)という圧倒的な票を集め、新人王に選出された。

同年の西武ライオンズとの日本シリーズでも第3戦、第6戦に先発登板した。後楽園球場での第3戦は、2-1とリードした6回表にテリー・ウィットフィールドに3点本塁打を打たれ、5回1/3を4失点。西武球場での第6戦では、初回に1点先制したが中盤に逆転を許して6回2失点。いずれも勝ち負けはつかなった。

翌1984年、ボール球ながら155km/hと当時の日本最速スピードを記録。この翌年に西武ライオンズに入団した郭泰源が156km/hを出し更新されるが、この時記録した155km/hは終速表示であったため「日本人で最初に160km/hを記録するのは槙原では」と言われていた。同年の日米野球では、槙原はボルチモア・オリオールズの主砲エディ・マレーに超特大の場外本塁打を打たれ、後に「自分が完璧に投げて、それでも打たれた」と述懐している。

1985年4月17日の対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)で佐野元国とバッテリーを組み、7回裏にクリーンナップであるランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布に3者連続でバックスクリーンへの本塁打(バックスクリーン3連発)を浴びた。それから2か月後の6月28日の同カード13回戦に先発し、チームは球団記録となる1試合8本塁打を記録、自身も球団通算5000号本塁打となる現役生活で唯一の本塁打を打ち、大量14点の援護点もあり1失点で完投勝利した。ところが、降雨ノーゲームとなった7月14日の対阪神16回戦の1回表にバースの打球が右足のスネに当たり、撥ね返った打球を捕りにいくときに転んで、左股関節骨折の重傷を負い、その後のシーズンを棒に振った。

1986年、開幕直後は二軍で調整登板を重ねて5試合で計33回を投げ36奪三振、6失点を記録、また2日の金沢での西武戦で完封するなど「怪我の後遺症がなくなった」と判断されたため、5月4日、10か月ぶりに一軍登録された。5月11日の対広島6回戦に先発して前年7月14日以来300日ぶりに復帰登板したが、3回2/3、6失点で降板した。後半戦は、8月に4勝1敗、3完封、防御率0.63で月間MVPを受賞するなど、投手陣の柱としてチームを支え、広島東洋カープとの優勝争いの原動力となっていた。しかし、10月7日の対ヤクルト26回戦ではマーク・ブロハードに逆転本塁打を打たれ、広島が首位に浮上し巨人は2位に転落する痛恨の敗戦となり、12日に広島がリーグ優勝を決め、巨人は広島と僅差の2位に終わった。現役引退時に、「一番悔しかった」試合として阪神戦での3連続被弾ではなく、この試合を挙げた。

1987年は背番号が入団時から付けていた「54」から「17」に変更。10勝6敗と新人王を獲得した1983年以来4年ぶりに2桁勝利を挙げ、チームの4年ぶりのリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第4戦でシリーズ初勝利を被安打3、11奪三振の完封で達成した。チームは2勝4敗で西武に敗れたものの、自身は優秀選手賞を受賞した。

1988年は、初めて投球回200イニングを記録した(208回1/3)。また当時はリーグ連盟表彰の対象ではなかったが、リーグ最多の187奪三振を記録した。

1989年は、開幕から先発とともに登板の合間にはリリーフも兼ねるなど、オールスターゲーム前までに12勝3敗4セーブ、防御率1.75という活躍を見せた。しかし、後半戦の開始となった7月29日の対広島15回戦で、2回裏一死後、植田幸弘へ3球目を投げた後に右膝をひねったため降板。31日、東京・慈恵医大病院での精密検査で右膝内側半月板損傷と判明し、治療のため残りのシーズンを棒に振った。チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たし、槙原もリハビリを終えて近鉄バファローズとの日本シリーズに出場有資格選手入りした。10月24日の第3戦に3番手で登板し、約3か月ぶりに実戦登板を果たした。

1990年は前年の怪我が尾を引いており、4月には2勝を挙げたがその後は打ち込まれる試合が続いた。5月末、不調による再調整と足に打球を受けた治療を理由に二軍落ちした。夏に復帰してからは復調したが、この年の公式戦最終戦の10月10日の対広島26回戦に先発するも敗戦投手となって9勝に終わり、4年ぶりに規定投球回にも到達できなかった。西武との日本シリーズでは、終盤の好調さを買われ第1戦の先発に起用されたが、その初回に西武のオレステス・デストラーデに、カウント0-3からの4球目が「ボール気味に投げたつもりが、ど真ん中」となって1号3点本塁打を打たれた。西武は無傷の4連勝で日本一となり、このデストラーデの本塁打は「シリーズの流れを決めた本塁打」と評された。

1991年、自身初の開幕投手に指名されたが、7回途中2失点で勝敗は付かなかった。7月19日の対中日14回戦に先発し、7回表まで8-0と大量の援護点を貰っていたが、徐々に援護を吐き出し8回途中で降板。しかし、救援した木田優も失点を重ね中村武志に代打満塁本塁打を打たれて同点、そして延長10回にまたも中村にサヨナラ本塁打を打たれて、球団史上初の8点差からの逆転負けを喫した。

この年のオールスターゲーム(2試合制)では、第1戦で先発した。第1戦は東京ドーム開催(日本ハムの本拠地だったためセ・リーグはビジター扱い)であり、いつもの癖で「第2戦の広島市民球場ではビジターのユニフォーム」と勘違いし、槙原はホーム用のユニフォームをクリーニングに出してしまっていた。ただし、第2戦での登板予定は無かったのでユニフォームと同じデザインのTシャツでベンチにいて事なきを得るはずだった。しかし、よりによって試合は延長戦に突入し、他チームの選手を無理に引っ張ることのできなかった全セ監督・藤田元司は、Tシャツのまま槙原を登板させることとなった。これを最後にNPBのオールスターは延長戦なし・9回打ち切りとなっている。

なお、これに関して槙原は、ベンチでの藤田元司と野村克也とのやりとりとして、野村が球宴明けの巨人戦に備えて西村龍次を投げさせなかったかのように話しているが、前年野村が率いるヤクルトは5位だったため、この年のオールスターで野村はベンチ入りしていない。

1992年は、二年連続開幕投手となり完投勝利を挙げる等開幕から順調に勝ち星を伸ばし、前半戦だけで10勝を挙げ、3年ぶりの2桁勝利を記録した。しかし、後半戦は2勝8敗と調子を落としてしまい自己最多タイの12勝を挙げる一方、負けが13で2年連続で負け越してしまった。

1993年には斎藤、桑田が調子を落とす中で孤軍奮闘して自己最高の13勝、防御率2.28の好成績でチーム最多勝、FAの権利を取得した。シーズンオフになり槙原はいくつかの球団から誘いを受けたが、球団フロントが慰留などの態度を一切示さないことに不信感を持ちFA宣言をする。その後、当時監督を務めていた長嶋茂雄が槙原の自宅を訪問、説得を受けて巨人に残留を決めた。この際に長嶋が槙原の背番号と同数の17本のバラの花束を持ってきた逸話が残されているが、実際は20本だったという。

1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で平成唯一の完全試合を達成。

平成唯一および20世紀最後の達成者になった。現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。完全試合達成は引退会見の際に記者からの質問で「一番思い出に残っている試合はどれですか?」と聞かれた際、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」と答えた程で、本人にとってプロ野球人生の中で最高の思い出となっている。大久保博元と「おしゃれカンケイ」に出演した際「前々日の門限破りで外出禁止1か月を言い渡されたため、好投してこれを解こうと奮起した結果である」と話している。

同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦と優勝決定の第6戦で完投勝利、2勝0敗・防御率0.50と、今までの勝負弱いイメージを払拭する活躍でシリーズMVPも獲得した。

1995年オフにレーシック手術を受けたが、最初の手術で左目に痛みが出て物が二重に見えるようになってしまい、翌シーズン直前に新しいコンタクトレンズを用意し、シーズン終了後再手術をすることとなった。

1996年、6月19日のナゴヤ球場での中日戦で音重鎮、山崎武司、大豊泰昭に3連続本塁打をまたも打たれた。7月に胸の痛みを訴えて入院、肺気胸と診断された。前日に球団トレーナーが行った鍼治療で電気針を深く打ちすぎたのが原因で、槙原は鍼が原因との自覚を持ちながら、トレーナーを庇うため表沙汰にはしなかった。しかし、球団側が槙原の名誉のために事実を公表。治療を行ったトレーナーを減俸にするなどの処分を行い、槙原には公傷を認めた。槙原は「起きたことは仕方がないので、早くリハビリをして復帰の準備をしたい」旨をコメントした。

1997年、チームが開幕から低迷する中、チーム最多タイの12勝を挙げるも自己ワーストの被本塁打を記録した。

1998年、開幕から出遅れ4月半ばにシーズン初登板、初登板から不調な投球が目立ったものの、5月の頭にシーズン初勝利となる通算150勝目を記録した。5月16日の対ヤクルト戦の延長戦でリリーフ投手を使い切ってしまい、ベンチ入りしていた槇原を登板させて無失点で抑え6年ぶりのセーブを記録。この登板を境に調子を取り戻し次の試合ではシーズン初完封し更に3連勝を記録(通算では4連勝)。しかしその頃チームはストッパー不在に苦しんでおり、ストレート、フォーク、スライダーのキレを買われて、6月末からストッパーに転向。

リリーフでの成績は2勝2敗18セーブ防御率2.93(先発での成績は4勝2敗防御率4.71)を記録し、27試合の登板で無失点で抑えたのは23試合ありセーブ機会での失敗による敗戦は一度だけだった。7月15日の横浜戦では、3点リードの8回に登板。1点を失い走者一塁で佐伯貴弘を右飛に打ち取りチェンジかと思われたがボークが宣告され打ち直しになってしまう。直後に同点2点本塁打を打たれ、続投した9回にサヨナラ負けを喫する。

全国中継が多いチームの宿命からか少しの失敗だけで一部マスコミ等では「ダメ魔神」(さらに犬顔だったことから「犬魔神」とも)と書かれた。これは当時横浜ベイスターズのリリーフエースだった佐々木主浩の異名である「ハマの大魔神」をもじったものである。契約更改では翌年もリリーフでの登板が濃厚で「200勝は諦めます」と記者会見で発表した。

1999年6月12日の対阪神戦(甲子園)では、12回裏同点一死一・三塁の場面で打者の新庄剛志を敬遠しようとしたが、新庄に敬遠球を打たれサヨナラ負けした。なお、槙原にとってはこれが現役最後の敬遠であった。初めての全試合リリーフ登板だったが、シーズン終盤は不振によりストッパーの座を桑田に代わった。

2000年も開幕から引き続きストッパーとしてシーズンを迎えた。敗戦投手にはならないものの投球内容が悪く、7月15日の対ヤクルト13回戦の9回に登板するも一死も取れないまま降板し更に足を負傷、チームは逆転負けをした。その後シーズン終盤に一軍復帰し福岡ダイエーホークスとの日本シリーズ第1戦に同点の9回に登板するも、メルビン・ニエベスに決勝本塁打を打たれ敗戦投手となった。故障後に日本シリーズに合わせ無理に体を作ったことで、それまで一度も怪我が無かった肩を負傷、直球が130km/h台に落ち込む。

2001年、肩の怪我からの再起を目指したが一向に回復せず、このシーズンの一軍での登板は引退試合の1試合の登板に留まり、現役引退引退試合は9月30日の横浜戦で、この試合では槙原から同年引退が決まっていた斎藤雅樹にリレーされ、2人の球を受けたのは同年引退が決まっていた村田真一だった。

引退後は野球評論家として活動し、2023年現在はTBSテレビ、スポーツニッポンの評論家を務めている。2017年までは、TBSラジオの野球解説者でもあった。2007年オフは巨人の臨時コーチとしてキャンプに参加した。

2019年4月30日、平成最後の日で平成最後の試合となった巨人-中日3回戦(東京ドーム)前に、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の“平成の3本柱”がマウンドに立ち、「10.8決戦」のリレー形式での始球式を行った。捕手は村田真一が務めた。

2021年2月25日、YouTubeチャンネル「ミスターパーフェクトチャンネル」を開設。

若手時代から、そのストレートの速さが頻繁に話題に挙がったが、入団当時江川卓と並んで巨人の先発投手陣の柱だった西本聖は「歴代見たピッチャーの中で文句無しにマキが一番球が速い。デビュー当時は江川さんより上だと思った」と槙原のストレートを評している。槙原が一軍に昇格した1983年の春季キャンプでは、ホテルで同室となった際に「俺は君より速いボールを投げるピッチャーはこれまで見たことがない。俺に君のストレートがあれば年間30勝だって出来る」と槙原を励ましたという。また、2001年9月30日の現役引退セレモニーでも原辰徳(当時はヘッドコーチ・2002年度より巨人軍監督内定)から「槙原君、一軍のマウンドで初めて投げた時 150kmのストレート 忘れません」と賛辞を贈られていた。

一方、小松辰雄は自身が打席に立った経験を踏まえて「槙原はスピードガンは速いんだけど江川さんに比べれば大したことないな」と評している。

前述のようにプロ1年目から速球派投手として鳴らしていたが、プロ5年目の1986年後半から球種をスライダーをメインにし、1992年頃からは走者がいなくてもセットポジションから投げる投球スタイルに変更。150km/hを超えるストレートはあまり見られなくなる反面、与四球率は大幅に改善され、フォークボール、まれにスローカーブも交えながら、引退まで三振の取れる本格派として活躍した。スライダーは元々入団当初から投げていたがうまく曲がらず、抜けると一番危険な球であるため試合では使えなかった。1986年、スライダーの良い握りはないかと模索していたところ、スコアラーの小松俊広が篠塚利夫とキャッチボールをしていた際「シノのスライダーはいいんだよなあ」と言っていたのを聞き、すぐに篠塚に投げ方を教わった。普通より狭めて、スピードの出るスライダーとなった。7月の阪神戦で試しに投げた所、好感触を得たため、スライダーに自信を持つようになった。

巨人では斎藤雅樹、桑田真澄とともに「三本柱」と呼ばれるほどの投手だった。しかし、斎藤、桑田の2人が年間200イニング以上をコンスタントに投げて年間を通じて活躍するのに対して、槙原は二人に比べて年間200イニングを超えたのは1988年の1度のみであった。シーズンの勝利数も1993年の13勝が最高であり、防御率2点台序盤や1点台を記録した年もランキングでは2位で終わること2度と不運も重なった。1988年に年間最多奪三振を記録したがセ・リーグの最多奪三振のタイトルは1991年からの制定で、主要な投手タイトルを獲得できず常に先発3番手と見られていた。

1986年の優勝争いの終盤、10月7日の対ヤクルトスワローズ戦でマーク・ブロハードに逆転の決勝2点本塁打を打たれたり、1990年日本シリーズ第1戦1回表にオレステス・デストラーデに先制3点本塁打を打たれるなど、「ここ一番に弱い」と評されていた。

打撃・守備は非常に苦手である。送りバントも苦手であり、そのため走者を置いて打席に立ってもチャンスを広げられず、結果として味方の援護点も低かった。そのことから、元チームメイトの後藤孝志から「槙原さんはバントがうまかったら200勝していた」と言われている。1985年6月28日対阪神戦(甲子園)で唯一本塁打を放っているが、これは球団5000号となるメモリアル本塁打となった。

弱視で視力が非常に悪かった。コンタクトをつけても視力は0.5ほどで矯正が難しく、捕手のサインがよく見えなかった。急な登板でコンタクトレンズをつける時間がなく、誰がグラウンドに立っているかも判別できない状態で投球したこともある。引退後「実はプロ生活20年で捕手のサインが一度も見えなかった」と告白している。度々メガネを付けたらと周囲からも提言されてたが、メガネを付ける姿がカッコ悪いという理由で拒否していた。

バース・掛布・岡田の3連続被弾、新庄の敬遠球サヨナラ安打(敗戦投手は入来祐作)は語り草の一つになっているが、実際は阪神戦にはめっぽう強く、前述のバックスクリーン3連発の次の試合から4年にかけて8連勝、1つ負けて3年にかけて7連勝、その後も8連勝、1つ負けて5連勝してるように対阪神戦38勝10敗10完封の好成績を残している。阪神以外の4球団との通算対戦成績は121勝118敗と、勝率.506でしかないが、対阪神戦での勝率は同時期に同じチームでエースとして活躍し、同じく阪神戦を得意にしてた斎藤雅樹をも上回る、勝率.792を記録(斎藤は.727)。プロ初登板での初勝利・初完封も阪神戦である上に、初安打・初本塁打も阪神戦である。

現役時代に最も苦手としていた打者として、ヤクルトの古田敦也の名前を挙げている。本人曰く「ボール球も打つわ、(対策を練って)裏をかいたつもりが打たれるわで顔を見るのも嫌だった」とのこと。古田は引退後に「槙原さんは変化球を投げる際に独特の癖があり、特にフォークボールを投げる際はグローブの中でグッと握り直す癖があった」と当時の事情を明かしている。広澤克実も同様の証言をしており、「癖を見抜いても必ず打てるわけではないが対戦する側としては楽。当時ヤクルトの選手はみんな知っており、他のチームでも有名だと聞いた」と解説した。逆に中日時代の落合博満は、槙原の顔を見るのも嫌なぐらい苦手にしており、セーフティーバントを試みたこともあったという。

広島東洋カープの大野豊は、先発投手として活躍していた頃について「槙原君との投げ合いはいつも燃えた。『1点でも取られたら終わりだ』と思って投げていた」と語っている。

阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」をひどく嫌っていた時期がある。槙原が引退後『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に出演した際に事情を詳しく語っており、飲食店などで「六甲おろし」のカラオケが流れると、決まって1985年の阪神戦におけるバックスクリーン3連発の際にうなだれる自分の姿が画面に大映しにされ、「いつまで笑い者にしたら気が済むんだ」と憤慨していたという。しかしある時期を境に「あれだけのクリーンナップに真っ向勝負した投手は俺だけだ」と誇りに思うようになり、引退後は講演の席などで「バックスクリーン3連発を打たれた槙原です」と笑いを取るネタにする余裕も出来たと述べている。

元木大介は自著において冗談交じりに「義兄弟の盃を交した仲」と語り「面倒見のいい人だった」と槙原を評している。特に新人や、他球団から移籍した選手をよく食事や、飲みに誘ったと書かれてある。

花火が大好き。愛犬に花火を見せる目的でライターで直接着火しようとしていたら花火が急に引火し、勢いよく散った火花が槙原の右手親指に接触し、大きな水ぶくれができた。その翌日(1988年7月20日・対阪神戦)は先発登板日だったため、チーム内や報道陣には「マメが出来た」と言ってごまかし登板した。8回に水ぶくれが破れたが、事実を知らない解説者が「血が出ながらも頑張っている」といい、槙原は本当のことも言えず、耐えながら投げ続けた。

競馬が大好きで、2008年有馬記念のトークイベントに出席したり、TCK・東京競馬場でも度々目撃されている。広島から巨人に移籍した川口和久は東京スポーツのコラムで、槙原に1996年の日本ダービーに招待してもらったことを「今でも恩義に感じている」とコメントしている。

金遣いは荒く、現役時代は少なくとも20億は稼いだが、引退後にテレビ出演した時には、その多くを使い果たしたことを告白している。また、株取引にも金を多く費やしており、夫人は不満をもっていることを述べている。本人も「江川卓にカーブを教わろうとしたら、株取引を教わった」と出演番組で度々ネタにしている。

2004年5月には、愛知県碧南市内で発生した強盗傷害事件で実兄が現行犯逮捕されたため、出演した番組内にて謝罪する形に至った。

上述の完全試合達成から28年が経過した2022年4月、佐々木朗希が槙原以来の完全試合を達成したことに伴い、槙原の存在が再び注目されることになった。

崎陽軒をこよなく愛する人物として知られている。空港と新幹線での食事は崎陽軒(の弁当)と決めている。

ナゴヤ球場で登板した際、その試合を観戦していた後藤孝志(槙原と同じ愛知県出身、大の中日ファン)に「名古屋の裏切り者」と大声でヤジを飛ばされた。その後、後藤は巨人に入団し、「よくもナゴヤ球場で、裏切り者!とヤジを飛ばしやがって」と槙原に返されている。

各年度の太字はリーグ最高

812打数 87安打(.107) 1本塁打 42打点

最多奪三振:1回(1988年) ※当時連盟表彰なし、セントラル・リーグでは1991年より表彰。ただし、日本野球機構オフィシャルサイトでは「最多奪三振」獲得者として名前が記載されている。

新人王(1983年)

月間MVP:3回(1986年8月、1988年5月 投手部門:1989年5月)

日本シリーズMVP:1回(1994年)

日本シリーズ優秀選手賞:1回(1987年)

初登板・初先発登板・初完投・初勝利・初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1983年4月16日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、10回無失点

初奪三振:同上、2回裏に藤田平から

初セーブ:1983年8月27日、対ヤクルトスワローズ17回戦(後楽園球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点

1000投球回:1989年6月27日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)

1000奪三振:1991年6月16日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(北九州市民球場)、3回表に宮里太から ※史上82人目

1500投球回:1992年9月1日、対ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場) ※史上133人目

100勝:1993年7月13日、対広島東洋カープ14回戦(札幌市円山球場)、先発登板で8回無失点 ※史上107人目

1500奪三振:1994年5月31日、対中日ドラゴンズ7回戦(東京ドーム)、5回表に仁村徹から ※史上36人目

2000投球回:1995年7月31日、対ヤクルトスワローズ18回戦(明治神宮野球場) ※史上72人目

2000奪三振:1998年6月18日、対中日ドラゴンズ14回戦(東京ドーム)、1回表に井上一樹から ※史上15人目

150勝:1998年5月5日、対横浜ベイスターズ4回戦(東京ドーム)、先発登板で7回2/3を3失点 ※史上42人目

完全試合:1994年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(福岡ドーム) ※史上15人目

初本塁打:1985年6月28日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、7回表に工藤一彦から ※球団通算5,000号

通算ボーク数:14 ※セ・リーグ記録

オールスターゲーム出場:6回(1988年、1989年、1991年、1992年、1994年、1999年) ※全て監督推薦選出

54(1982年 - 1986年)

17(1987年 - 2001年)

S☆1 BASEBALL(地上波TBS系列・BS-TBS・TBSチャンネル2)

TBSラジオ エキサイトベースボール(TBSラジオ、2002年-2017年)※HBCラジオ・CBCラジオ・RKBラジオ、一部曜日および時間帯のABCラジオ・MBSラジオ・RCCラジオ向けの中継(主に横浜DeNA主催カード)には2018年以降も出演

ナニコレ珍百景(「珍百景な大会に挑戦」というコーナーに不定期で出演)

J-SPORTS→J-SPO(2002年 - 2009年)

S☆1(2010年より準レギュラー、2009年までは日曜キャスター)

富士フイルム「フジカラーHR」(現役時代、上述の「50番トリオ」で出演)

タカラ「速球王」(現役時代、小松辰雄と共演)

大塚製薬「オロナミンCドリンク」(現役時代)

岩手互助センター 長安殿(2008年〜、小野ヤスシと共演)

アルファクラブグループ さがみ典礼 長安殿(2011年〜2012年頃まで)

リクルート「AirPay」(2021年、斎藤雅樹・桑田真澄と共に出演)

『パーフェクトとKOのあいだ - ここ一番の投球心理』(光文社)

『槙原寛己 スライダーの魔力と魅力』(ベースボール・マガジン社)

『プロ野球 視聴率48.8%のベンチ裏』(ポプラ社)

^ 日本プロ野球では、人工芝球場初、ドーム型球場初の完全試合であり、完全試合がテレビで全国に生中継されたのも初めてのことだった。

^ 「会社概要」『オフィスコンサルティング株式会社』。2024年3月25日閲覧。

^ 『'85プロ野球 12球団全選手百科名鑑』第9巻第3号(通算:第88号、1985年3月号)、日本スポーツ出版社、1985年3月31日、37頁。

^ 読売新聞1983年4月8日夕刊3面「晴れの開幕"1軍キップ" 躍り出た50番トリオ」読売新聞縮刷版1983年4月p321

^ 読売新聞1983年4月17日17面「SBO 掛布も脱帽 "第4の投手"へ期待十分」読売新聞縮刷版1983年4月p663

^ 読売新聞1983年4月17日17面「槙原熱投、完封デビュー 10回を5安打9奪三振」読売新聞縮刷版1983年4月p663

^ 読売新聞1983年11月10日17面「MVPは原(セ・リーグ)と東尾(パ・リーグ) 新人王に槙原(巨人)と二村(日ハム)」読売新聞縮刷版1983年11月p363

^ 『永久保存版・日本プロ野球名投手100人』槙原寛己の項目(1989年、ベースボール・マガジン社)

^ 「元阪神・バース氏「僕らのおかげで君は有名に」バックスクリーン3連発を浴びせた槙原氏をいじる」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2023年3月30日。2023年3月30日閲覧。

^ 読売新聞1985年6月29日17面「巨人・槙原が球団通算5000本塁打」読売新聞縮刷版1985年6月p1163

^ 読売新聞1985年7月15日19面「巨人・槙原が左股関節負傷」読売新聞縮刷版1985年7月p625

^ 読売新聞1985年7月18日17面「槙原が股関節骨折で入院」読売新聞縮刷版1985年7月p763

^ 読売新聞1986年5月4日17面「槙原10か月ぶりに一軍昇格」読売新聞縮刷版1983年5月p125

^ 日刊スポーツ1986年5月11日2面「槙原4回KO 300日ぶり先発飾れず」

^ 読売新聞1986年9月7日16面「セ、槙原とクロマティ 月間MVP パは石毛が3度目」読売新聞縮刷版1986年9月p268

^ 『パーフェクトとKOのあいだ - ここ一番の投球心理』(光文社)

^ 読売新聞1986年10月7日17面「巨人痛恨の1敗、首位滑る」読売新聞縮刷版1986年10月8日p317

^ 読売新聞1987年10月17日17面「YGリポート 一味違った槙原 偵察隊も『オヤ?』」読売新聞縮刷版1987年10月p815

^ 読売新聞1987年10月30日17面「槙原快投!西武止める 奪11三振、3安打完封」読売新聞縮刷版1987年10月p1393

^ 読売新聞1989年7月30日19面「巨人・槙原寛己投手(二五)が右ひざ痛で退場」読売新聞縮刷版1989年7月p1477

^ 読売新聞1989年8月1日19面「槙原、今季は絶望 半月板損傷で近く手術」読売新聞縮刷版1989年8月p19

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^ 読売新聞1989年10月25日19面「『先発したい』槙原」読売新聞縮刷版1989年10月p1263

^ 読売新聞1990年10月11日19面「槙原10勝届かず 巨人、公式戦を終了 広島2位確保」読売新聞縮刷版1990年10月p547

^ 読売新聞1990年10月19日19面「SBO 槙原ー中尾 不用意な棒ダマ」読売新聞縮刷版1990年10月p1091

^ 読売新聞1990年10月25日19面「流れは一球で決まった」読売新聞縮刷版1990年10月p1309

^ 読売新聞1991年7月20日21面「SOB 両チームの今季を象徴 槙原8回ついに沈む」読売新聞縮刷版1991年7月p989

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^ ベースボール・レコード・ブック1993

^ スポニチFLASH photo & blog スポニチBlog 槙原寛己のベースボール見聞録|上原、今年はその身をチームに捧げてよ!

^ ジャイアンツ広場 動画 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

^ 『週刊プレイボーイ』2009/06/15号(集英社)

^ 著書 パーフェクトとKOのあいだ

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^ “G魂”注入!?元巨人選手 東海大臨時コーチに

^ 元巨人・槙原氏が告白 “プロ生活20年間ずっと・・・・・・”

^ 【ミスターパーフェクト 槙原寛己 ある物が大嫌いで200勝を逃していた!?外見より結果が大事…【#しくじり先生 #槙原寛己 #4週連続野球先生SP 】 しくじり先生 俺みたいになるな!!【公式】

^ 落合博満自伝『勝負の方程式』(小学館 1994年6月 ISBN 4093871213)

^ 大野豊自伝『全力投球:我が選んだ道に悔いはなし』(2001年、宝島社)ISBN 4796621237

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愛知県出身の人物一覧

読売ジャイアンツの選手一覧

ノーヒットノーラン達成者一覧

[槙原 寛己] タレント / アーティスト|株式会社オールラウンド|芸能プロダクション

個人年度別成績 槙原寛己 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

選手情報 - 週刊ベースボールONLINE

槙原寛己のベースボール見聞録

槙原寛己 (@makihara17) - Instagram

ミスターパーフェクト槙原 - YouTubeチャンネル

藤本英雄 1950.6.28

武智文雄 1955.6.19

宮地惟友 1956.9.19

金田正一 1957.8.21

西村貞朗 1958.7.19

島田源太郎 1960.8.11

森滝義巳 1961.6.20

佐々木吉郎 1966.5.1

田中勉 1966.5.12

外木場義郎 1968.9.14

佐々木宏一郎 1970.10.6

高橋善正 1971.8.21

八木沢荘六 1973.10.10

今井雄太郎 1978.8.31

槙原寛己 1994.5.18

佐々木朗希 2022.4.10

1950 別当薫

1951 南村不可止

1952 別所毅彦

1953 川上哲治

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 豊田泰光

1957 大下弘

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 近藤昭仁

1961 宮本敏雄

1962 土橋正幸, 種茂雅之

1963 長嶋茂雄

1964 J.スタンカ

1965 長嶋茂雄

1966 柴田勲

1967 森昌彦

1968 高田繁

1969 長嶋茂雄

1970 長嶋茂雄

1971 末次民夫

1972 堀内恒夫

1973 堀内恒夫

1974 弘田澄男

1975 山口高志

1976 福本豊

1977 山田久志

1978 大杉勝男

1979 高橋慶彦

1980 J.ライトル

1981 西本聖

1982 東尾修

1983 大田卓司

1984 長嶋清幸

1985 R.バース

1986 工藤公康

1987 工藤公康

1988 石毛宏典

1989 駒田徳広

1990 O.デストラーデ

1991 秋山幸二

1992 石井丈裕

1993 川崎憲次郎

1994 槙原寛己

1995 T.オマリー

1996 T.ニール

1997 古田敦也

1998 鈴木尚典

1999 秋山幸二

2000 松井秀喜

2001 古田敦也

2002 二岡智宏

2003 杉内俊哉

2004 石井貴

2005 今江敏晃

2006 稲葉篤紀

2007 中村紀洋

2008 岸孝之

2009 阿部慎之助

2010 今江敏晃

2011 小久保裕紀

2012 内海哲也

2013 美馬学

2014 内川聖一

2015 李大浩

2016 B.レアード

2017 D.サファテ

2018 甲斐拓也

2019 Y.グラシアル

2020 栗原陵矢

2021 中村悠平

2022 杉本裕太郎

2023 近本光司

2024 桑原将志

1957 豊田泰光

1958 中西太

1959 杉山光平

1960 近藤和彦

1961 塩原明

1962 岩下光一

1963 王貞治

1964 K.ハドリ

1965 林俊彦

1966 長嶋茂雄

1967 D.スペンサー

1968 柴田勲

1969 足立光宏

1970 黒江透修

1971 黒江透修

1972 長嶋茂雄

1973 高田繁

1974 山崎裕之

1975 中沢伸二, 外木場義郎

1976 B.ウイリアムス

1977 福本豊

1978 若松勉

1979 水谷実雄

1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

1950 大島信雄

1951 松田清

1952 佐藤孝夫

1953 権藤正利

1954 広岡達朗

1955 西村一孔

1956 秋山登

1957 藤田元司

1958 長嶋茂雄

1959 桑田武

1960 堀本律雄

1961 権藤博

1962 城之内邦雄

1964 高橋重行

1966 堀内恒夫

1967 武上四郎

1968 高田繁

1969 田淵幸一

1970 谷沢健一

1971 関本四十四

1972 安田猛

1974 藤波行雄

1976 田尾安志

1977 斉藤明雄

1978 角三男

1979 藤沢公也

1980 岡田彰布

1981 原辰徳

1982 津田恒美

1983 槙原寛己

1984 小早川毅彦

1985 川端順

1986 長冨浩志

1987 荒井幸雄

1988 立浪和義

1989 笘篠賢治

1990 与田剛

1991 森田幸一

1992 久慈照嘉

1993 伊藤智仁

1994 藪恵市

1995 山内泰幸

1996 仁志敏久

1997 澤﨑俊和

1998 川上憲伸

1999 上原浩治

2000 金城龍彦

2001 赤星憲広

2002 石川雅規

2003 木佐貫洋

2004 川島亮

2005 青木宣親

2006 梵英心

2007 上園啓史

2008 山口鉄也

2009 松本哲也

2010 長野久義

2011 澤村拓一

2012 野村祐輔

2013 小川泰弘

2014 大瀬良大地

2015 山﨑康晃

2016 髙山俊

2017 京田陽太

2018 東克樹

2019 村上宗隆

2020 森下暢仁

2021 栗林良吏

2022 大勢

2023 村上頌樹

1950 杉下茂

1951 金田正一

1952 金田正一

1953 金田正一

1954 杉下茂

1955 金田正一

1956 金田正一

1957 秋山登

1958 金田正一

1959 金田正一

1960 金田正一

1961 権藤博

1962 小山正明

1963 金田正一

1964 金田正一

1965 村山実

1966 村山実

1967 江夏豊

1968 江夏豊

1969 江夏豊

1970 江夏豊

1971 江夏豊

1972 江夏豊

1973 高橋一三

1974 金城基泰

1975 外木場義郎

1976 池谷公二郎

1977 池谷公二郎

1978 斉藤明雄

1979 新浦寿夫

1980 江川卓

1981 江川卓

1982 江川卓

1983 遠藤一彦

1984 遠藤一彦

1985 小松辰雄

1986 遠藤一彦

1987 川口和久

1988 槙原寛己

1989 川口和久

1990 木田優夫

1991 川口和久

1992 仲田幸司

1993 今中慎二

1994 桑田真澄

1995 斎藤雅樹

1996 斎藤隆

1997 山本昌

1998 石井一久

1999 上原浩治

2000 石井一久

2001 野口茂樹

2002 井川慶

2003 上原浩治

2004 井川慶

2005 門倉健, 三浦大輔

2006 川上憲伸, 井川慶

2007 内海哲也

2008 C.ルイス

2009 C.ルイス

2010 前田健太

2011 前田健太

2012 杉内俊哉, 能見篤史

2013 R.メッセンジャー

2014 R.メッセンジャー

2015 藤浪晋太郎

2016 菅野智之

2017 M.マイコラス

2018 菅野智之

2019 山口俊

2020 大野雄大

2021 柳裕也

2022 戸郷翔征

2023 今永昇太

2024 戸郷翔征

1950 大島信雄

1951 藤本英雄

1952 別所毅彦

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 大友工

1957 義原武敏

1958 藤田元司

1959 義原武敏

1960 鈴木隆

1961 中村稔

1962 小山正明

1963 伊藤芳明

1964 村山実

1965 金田正一

1966 城之内邦雄

1967 金田正一

1968 金田正一

1969 堀内恒夫

1970 堀内恒夫

1971 堀内恒夫

1972 堀内恒夫

1973 高橋一三

1974 松本幸行

1975 外木場義郎

1976 堀内恒夫

1977 小林繁

1978 安田猛

1979 北別府学

1980 山根和夫

1981 江川卓

1982 小松辰雄

1983 江川卓

1984 山根和夫

1985 池田親興

1986 北別府学

1987 桑田真澄

1988 小野和幸

1989 斎藤雅樹

1990 槙原寛己

1991 佐々岡真司

1992 岡林洋一

1993 荒木大輔

1994 桑田真澄

1995 T.ブロス

1996 斎藤雅樹

1997 石井一久

1998 野村弘樹

1999 野口茂樹

2000 工藤公康

2001 石井一久

2002 上原浩治

2003 井川慶

2004 川上憲伸

2005 井川慶

2006 川上憲伸

2007 川上憲伸

2008 上原浩治

2009 D.ゴンザレス

2010 吉見一起

2011 チェン

2012 内海哲也

2013 内海哲也

2014 R.メッセンジャー

2015 石川雅規

2016 K.ジョンソン

2017 井納翔一

2018 大瀬良大地

2019 山口俊

2020 菅野智之

2021 奥川恭伸

2022 小川泰弘

2023 村上頌樹

2024 A.ジャクソン

1936夏 沢村栄治

1936秋 沢村栄治

1937春 沢村栄治

1937秋 沢村栄治

1938春 V.スタルヒン

1938秋 前川八郎

1939 川上哲治

1940 V.スタルヒン

1941 須田博

1942 広瀬習一

1943 須田博

1944 藤本英雄

1946 近藤貞雄

1947 川崎徳次

1948 川崎徳次

1949 多田文久三

1950 藤本英雄

1951 別所毅彦

1952 藤本英雄

1953 別所毅彦

1954 大友工

1955 別所毅彦

1956 別所毅彦

1957 大友工

1958 藤田元司

1959 伊藤芳明

1960 伊藤芳明

1961 中村稔

1962 城之内邦雄

1963 伊藤芳明

1964 高橋明

1965 金田正一

1966 金田正一

1967 城之内邦雄

1968 金田正一

1969 金田正一

1970 高橋一三

1971 渡辺秀武

1972 堀内恒夫

1973 堀内恒夫

1974 高橋一三

1975 堀内恒夫

1976 堀内恒夫

1977 堀内恒夫

1978 堀内恒夫

1979 新浦寿夫

1980 江川卓

1981 西本聖

1982 江川卓

1983 西本聖

1984 江川卓

1985 西本聖

1986 江川卓

1987 西本聖

1988 桑田真澄

1989 桑田真澄

1990 斎藤雅樹

1991 槙原寛己

1992 槙原寛己

1993 斎藤雅樹

1994 斎藤雅樹

1995 斎藤雅樹

1996 斎藤雅樹

1997 斎藤雅樹

1998 桑田真澄

1999 B.ガルベス

2000 上原浩治

2001 上原浩治

2002 上原浩治

2003 上原浩治

2004 上原浩治

2005 上原浩治

2006 上原浩治

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2008 高橋尚成

2009 S.グライシンガー

2010 内海哲也

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2013 宮國椋丞

2014 菅野智之

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2018 菅野智之

2019 菅野智之

2020 菅野智之

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2022 菅野智之

2023 T.ビーディ

2024 戸郷翔征

1位:槙原寛己

2位:山本幸二

3位:吉村禎章

4位:橋本敬司

5位:村田真一

6位:仁村薫

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槙原寛己

日本の野球選手

読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手

セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB)

最多奪三振 (NPB)

日本プロ野球完全試合達成者

NPBオールスターゲーム選出選手

野球解説者

愛知県立大府高等学校出身の人物

日本の男性YouTuber

元NPB選手のYouTuber

愛知県出身のスポーツ選手

1963年生

存命人物

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野球に関する記事

プロジェクト人物伝項目

2024/11/17 06:53更新

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竹内 花(たけうち はな)
1998年8月11日生まれの有名人 愛知出身

竹内 花(たけうち はな、1998年〈平成10年〉8月11日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル、女優、アイドル。ガールズグループ「TiiiMO」およびヤンチャン学園 音楽部、アイドルグループ…

木本 花音(きもと かのん)
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飯田 覚士(いいだ さとし、1969年8月11日 - )は、日本の元プロボクサー。愛知県名古屋市出身。緑ボクシングジム所属。元WBA世界スーパーフライ級王者。 愛知県立大府東高等学校、岐阜経済大学経…

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槙原 あこ(まきはら あこ、1987年12月29日 - )は鹿児島県鹿児島市出身のタレント。 かつては芸能事務所アヴィラ (芸能プロダクション)に所属していたがその後モデル事務所で水澤亜子として活動し…

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槇原 千夏(まきはら ちか、6月17日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。ぷろだくしょんバオバブ所属。 M3〜ソノ黒キ鋼〜(アカシの母) 黒執事 Book of Circus(メイヤール婦人) …

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牧原 あゆ(まきはら あゆ、1998年12月11日 - )は、日本の元ジュニアアイドル、子役。埼玉県出身。元チャームキッズ所属。 かつてチャームキッズに所属していた。2015年4月1日にチャームキッ…


槙原 稔(まきはら みのる)
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話題のアホネイター
槙原寛己
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