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斎藤 雅樹さんについて調べます
■名前・氏名 |
斎藤雅樹と関係のある人
遠藤一彦: 最多勝利:2回 (1983年、1984年)※2年連続はセ・リーグ最長タイ記録(他は金田正一、権藤博、村山実、平松政次、江川卓、斎藤雅樹、山本昌、セス・グライシンガー、内海哲也、菅野智之、青柳晃洋) 山中賢次: 初盗塁:1992年5月12日、読売ジャイアンツ6回戦(藤崎台県営野球場)10回表にハウエルの代走(投手・斎藤雅樹、捕手大久保博元) バルビーノ=ガルベス: 当時チームメイトだった斎藤雅樹と村田真一もガルベスに対して上記の堀内と同じ印象を抱いており、試合以外では「普通のお兄ちゃん(斎藤)」「シャイでいい奴(村田)」だったと評している。 檜山進次郎: 1996年に藤田平が正式に一軍監督に就任し、4月6日の巨人との開幕戦(東京ドーム)で3番・右翼手で初の開幕スタメン3打数1安打(相手の斎藤雅樹は開幕投手として完封勝利、桧山に被安打も村田真一が盗塁阻止し27人でシャットアウトの準完全試合)5番・左翼手に定着し、中日ドラゴンズの野口茂樹から2試合にまたがって4打席連続本塁打を放つなど22本塁打を記録。 音重鎮: 8月12日の中日対巨人戦(ナゴヤ球場)では9回裏一死までノーヒットノーランに抑え込まれていた巨人の先発・斎藤雅樹から代打で右翼線にヒットを打ち、斎藤のノーヒットノーランを阻止した。 原辰徳: 入団以来12年連続20本塁打の日本記録を更新し、この年のオフ、駒田、斎藤雅樹とともに、歴代の巨人の日本人選手として初めての1億円プレーヤーとなった。 落合博満: 8月12日の巨人戦(ナゴヤ球場)では、9回一死までノーヒットノーランを続けていた斎藤雅樹から、逆転サヨナラ3点本塁打を放っている。 井上真二: 2軍監督の斎藤雅樹がインフルエンザと診断されたため4月9日のDeNA戦から監督代行を務めたほか、11月25日から台湾で開催されたアジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の監督を務めた。 石原さとみ: 毎年異なる投球フォームを披露しており、2014年は左腕での投球(本来の利き腕は右だが、撮影で怪我をしたため)、2015年は村田兆治のマサカリ投法、2016年は野茂英雄のトルネード投法、2017年はサブマリン投法、2018年は三浦大輔の2段モーション投法、2019年は岡島秀樹のノールック投法、2021年は斎藤雅樹のサイドスロー投法を披露している。 西本聖: 移籍1年目の1989年に自己最多の20勝・勝率.769(こちらもキャリアハイ)で最多勝のタイトルを斎藤雅樹と共に獲得。 関根勤: 斎藤雅樹 大久保博元: 2年ぶりに開幕戦捕手として出場し、斎藤雅樹の2年連続開幕戦完封勝利に貢献。 廣田浩章: これは、同時期に活躍した斎藤雅樹(被本塁打率0.75)、桑田真澄(同0.86)、槙原寛己(同0.88)、高津臣吾(同0.96)、佐々木主浩(同0.85)らと比べても格段に低い。 藤田元司: また、投手では第一次で江川卓・西本聖・定岡正二、第二次で斎藤雅樹・槙原寛己・桑田真澄による「先発三本柱」を確立させ、投手陣の整備をおこなった。 大宮龍男: 9月20日の巨人戦(ナゴヤ)で斎藤雅樹からサヨナラ本塁打を放つなど活躍し、出場試合は少ないものの強気なリードで投手陣を引っ張り、6年ぶりのリーグ優勝に貢献した。 沖原佳典: 初本塁打・初打点:2001年4月1日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、2回表に斎藤雅樹から左越ソロ 鹿取義隆: 2002年は斎藤雅樹や槙原寛己が引退、さらにメイが退団して先発投手の不足が心配されていたが、桑田真澄を本人の希望通り先発で起用するなど、上原浩治を中心にローテーションを組む方針を打ち出した。 デュウェイン=ホージー: 初打席:同上、2回表に斎藤雅樹の前に中飛 セス=グライシンガー: 最多勝利:2回 (2007年、2008年)※2年連続はセ・リーグ最長タイ記録(他は金田正一、権藤博、村山実、平松政次、江川卓、遠藤一彦、斎藤雅樹、山本昌、内海哲也、菅野智之、青柳晃洋) 福原忍: 初本塁打・初打点:2001年4月1日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、2回表に斎藤雅樹から左越ソロ 多昌博志: スポーツ中継では斎藤雅樹(巨人・当時)の11試合連続完投勝利(1989年7月15日、対ヤクルト戦)、松井秀喜(巨人・当時)のプロ入り初ホームラン(1993年5月2日、対ヤクルト戦)、ON対決と言われた2000年の日本シリーズ第2戦、長嶋茂雄が巨人の監督を勇退した2001年の本拠地最終戦 (9月30日、対横浜戦)、オールスターゲームでは2002年の第2戦(松山坊っちゃんスタジアム)を実況。 バルビーノ=ガルベス: NPBでは1996年から 2000年までの5年間にわたり、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の読売ジャイアンツ(巨人)でプレーし、1年目の1996年にはチームメイトの斎藤雅樹とともに16勝を挙げ、リーグ最多勝のタイトルを獲得している。 須藤豊: 6月5日には14連敗を喫していた巨人・斎藤雅樹から9回土壇場で高木豊が逆転2ランを放つなど、セの台風の目となる。 村田真一: 同年のシーズン限りで斎藤雅樹・槙原とともに現役を引退。 星野伸之: いずれも斎藤雅樹と投げ合うが、第1戦では5回途中、第5戦では4回途中に降板。 岡島秀樹: 1999年8月31日の対中日23回戦の1回表二死の場面で、先発の斎藤雅樹が怪我のため降板し、2番手として登板。 山﨑健: 斎藤雅樹のフォームを参考にしたサイドスロー投手として、特に阪神戦では勝負強さを発揮し、「虎キラー」と呼ばれた。 斉藤清六: 読売ジャイアンツの投手だった斎藤雅樹は、入団当時清六の全盛期だったため、渾名を「セイロク」にされてしまった。 フェリックス=ペルドモ: 初安打:同上、5回表に斎藤雅樹から右前安打 安西叶翔: 指名挨拶時には「北の斎藤雅樹を目指す。 |
斎藤雅樹の情報まとめ
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斎藤 雅樹(さいとう まさき)さんの誕生日は1965年2月18日です。埼玉出身の野球選手のようです。
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経歴、選手としての特徴などについてまとめました。テレビ、現在、結婚、引退に関する情報もありますね。斎藤雅樹の現在の年齢は59歳のようです。
斎藤雅樹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 斎藤 雅樹(さいとう まさき、1965年2月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者・野球評論家。 サイドスローの投球フォームで1989年から1990年代の巨人投手陣を支え「平成の大エース」と呼ばれた。巨人では投手として、6度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ優勝に貢献。 桑田真澄、槙原寛己とともに先発「三本柱」と呼ばれた3人の中でも抜きん出た成績を残し、沢村栄治賞3回、最優秀選手1回、最多勝利5回、最優秀防御率3回、最多奪三振1回、最高勝率3回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回 など数々のタイトルや表彰を獲得した。1994年には、10.8決戦に登板し、勝利投手となった。 連続完投勝利記録(11)とシーズン最多完封回数(7)のNPB最多記録を持ち、2年連続20勝達成などでセ・リーグ最多記録となる最多勝利を5回獲得、セ・リーグ最多タイ記録となる最高勝率を3回獲得、セ・リーグ投手最多記録となるベストナインを5回受賞している。平成初の沢村栄治賞を受賞し、史上4人目の沢村栄治賞3回受賞も達成した。 選手時代の愛称は同音姓の芸能人・斎藤清六にちなんでセイロク。評論家となってからは、フジテレビONEの「プロ野球ニュース」などで「雅樹さん」と呼ばれている。 経歴プロ入り前東京都足立区で出生した後に、埼玉県川口市で生活。小学校5年時に、川口リトル・レッドボーイズで軟式野球を始めた。入団のきっかけは、川口市の「市政だより」で選手募集の情報を目にした実母が、本人に無断で募集に応じたことにある。本人は入団に乗り気でなかったが、「やると決めたら一生懸命やる」という性格から、入団テストでは地肩の強さを遠投で発揮。その強肩を見込まれて合格すると、捕手として本格的に野球に打ち込むことになったという。 川口市立北中学校を経て進学した川口市立川口高校で硬式野球部に入ると、かつて阪神タイガースの投手として通算31勝を挙げていた内山清監督の指導で頭角を現す。3年時(1982年)夏の全国高等学校野球選手権埼玉大会では決勝で熊谷高校と対戦したが、8回裏にエースの江頭靖二から2点適時打を打たれたことが響き、1対3で敗戦。結局、在学中は春夏とも甲子園球場の全国大会へ出場できなかった。 プロ入り後1994年まで1982年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツが最初に1位で指名した荒木大輔(早稲田実業)を抽選で外し、外れ1位として指名を受け、契約金3500万円、年俸300万円で契約を合意し、入団。当時の新聞では契約金4000万円、年俸260万円(金額は推定)と報じられた。担当スカウトは伊藤菊雄。打撃、守備センスの良さから、野手転向を勧める声もあったが、当時監督の藤田元司のアドバイス(投球時の腰回転がサイドスロー向きだったという)もあり、サイドスローへ転向。 1984年に一軍デビュー。8月28日の横浜大洋ホエールズ戦で救援登板し、遠藤一彦から自らサヨナラ適時打を打った。 1985年にはローテーションに定着し、リーグ最多の4完封、チーム最多の12勝を挙げ、最終戦まで最優秀防御率のタイトルを争う活躍を見せる(最終戦で8回1/3を自責点0に抑えれば1位に躍り出る状況だったが、シーズン本塁打日本記録のかかっていたランディ・バースに全打席出塁を許すなど5回1/3を4自責点に終わった)も、それ以降は不遇な時期もあった。王貞治監督時代は一軍と二軍を往復し、敗戦処理が役割だった時期もある。 1990年も8試合連続完投勝利を挙げるなど、20勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率、最高勝率(当時表彰なし)、最優秀選手、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得し、日テレや読売新聞等では「平成の大エース」、「球界のエース」、「ミスター完投」と呼ばれるまでに成長した。2021年シーズン終了まで、この年の斎藤を最後に2年連続20勝投手は現れていない。もっとも、シーズン最後の3試合は2勝1敗で2年連続20勝を果たすも、19イニングで自責点16と打ち込まれ、2年連続防御率1点台は逃す。その不調は日本シリーズでも露呈し、チームのシリーズ敗退の一因となった。斎藤は「疲れです。シーズンだけで燃え尽きてしまうんですよね」と後に回顧している。また沢村賞も野茂英雄が受賞し、2年連続とはならなかった。奪三振(斎藤146、野茂287)、完投数(斎藤19、野茂21)、登板数(斎藤27、野茂29)、投球回数(斎藤224回、野茂235回)は野茂の方が上だったが、勝ち星(斎藤20、野茂18)、勝率(斎藤.800、野茂.692)、防御率(斎藤2.17、野茂2.91)、完封数(斎藤6、野茂2)は斎藤の方が上だった。 1991年は前年終盤からの不調が続いて精彩を欠いた。8月13日の大洋戦で6回裏に5失点を喫した際に投じた1イニング62球は当時日本記録であった(現在は2位タイ)。 1992年は一転して好調をキープし、3度目の最多勝のタイトルを獲得。さらに最高勝率で、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選ばれた。 1993年から1997年まで5年連続で開幕投手を務めた。1993年は右肩の故障で成績を落とし、隔年投手というイメージが付いてしまったが、1994年から1996年は3年続けて開幕戦完封勝利を収める偉業を達成した。 1989年5月10日に行われた対横浜大洋ホエールズ戦、この試合は斎藤にとって連続完投勝利記録の1試合目であり、後年出版された『日本野球25人 私のベストゲーム』で斎藤自身が「最も記憶に残る試合」として選んだものである(この節の出典は、特記がない限り同書にもとづく)。 斎藤は5月7日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)で先発登板したものの、いきなり広島打線に捕まり、被安打3・与四死球2の3失点で、2回表に回った打順で代打を送られて降板、翌日の朝日新聞は「汗もかかずに降板」と書き立てた。この直後、5月10日の横浜大洋ホエールズ戦(横浜スタジアム)の先発を言い渡された。通常、先発投手はシーズン5 - 6人程度でローテーションが組まれるが、中2日で登板することはいわゆる「瀬戸際」で、斎藤自身も前年に出身校である市立川口高校のマネージャーだった女性と結婚したばかりで、奮起すべき材料はいくつもあったということである。 10日の試合で、巨人は8回表まで5対1とリードしていたが、8回裏に1点差に迫られ、さらに同点・逆転のピンチを迎えた。斎藤は交代を願う気持ちもあり、ベンチを見たが、藤田は交代の動きを示さなかった。結局、斎藤は代打の加藤博一を打ち取り、ピンチを脱した。この後、斎藤は、9回裏を無失点に抑え、シーズン3勝目を挙げた。試合後、藤田は「(9回に)走者が出たらリリーフを出そうと思っていた」と述べ、斎藤は「最後まで投げさせてくれるんだな、とうれしかった」とコメントしていた。 この試合における藤田の8回の判断については、5月11日付読売新聞は、「『粘れ斎藤!』藤田監督辛抱の続投 大成期待8回ピンチにも動かず」と比較的大きく取り上げたが、同日付の毎日新聞(上記)の扱いは小さく、朝日新聞、日本経済新聞では触れられず、当時の注目度は大きいとは言えなかった。なお、この試合の敗戦投手は、大洋の先発斉藤明夫であったため、朝日新聞、毎日新聞は、「斎藤対決は巨人に軍配」と報じた。 1994年の斎藤は、シーズン当初は快調に勝ち星を重ねたが、チーム打線の調子の低下もあり、8月24日に13勝目を挙げて以来勝ち星がなく、シーズン終盤を迎えていた。優勝のかかった10月6日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)に先発登板したが、1点リードの7回表に打順が回ったところで代打を送られ、降板し、7回裏に槙原が逆転打を打たれ、勝利投手となれず、チームも8日の同率首位最終決戦に臨むこととなった。 10月8日の対中日戦は、巨人先発の槙原寛己が2回途中で相手打線に打ち込まれ、斎藤にリリーフ登板が告げられた。2回裏、2-2の同点で、無死一・二塁であった。後年、斎藤は「(前回登板から)中1日だったし、出番はないと思っていたけど、ブルペンで投げていたらコーチが『おい、斎藤』と。思わず聞こえないフリをした」と述べている。桑田と同様に斎藤も試合前日に監督の長嶋茂雄に呼び出され、出番について告げられたとする文献もあるが、斎藤は否定している。 斎藤はこの回を、今中慎二のバントを処理した際に二塁走者を三塁で封殺、続く清水雅治から三振を奪い、同時に今中のバントで二塁に進んでおり、大きくリードをとっていた中村武志を捕手村田真一が牽制球でアウトとして、追加点(逆転)を阻んだ。この後、巨人は勝ち越しに成功。斎藤は6回に彦野利勝の適時打による1失点があったのみで、6回まで投球し、この試合の勝利投手となった。7回からは桑田が斎藤を救援する形で登板し、そのまま試合は終了。「胴上げ投手」となった桑田は、自著『桑田真澄という生き方』で「(槙原が早い段階で降板したため)『これは、早い回に代わるかもしれないぞ』と思った。二番手の斎藤さんは、シーズン後半に調子を落としていたから、(中略)しかし、斎藤さんが中日の勢いを止めた。(中略)巧みなピッチングで、6回の1失点に抑えた」と述べている。 斎藤は、試合終了後のインタビューで、「やればできる、できるんです。最後の最後でいい仕事ができた」と大声で叫んだ。後年、さらに、「5回途中に内転筋を痛めたが、テーピングをグルグルに巻いて投げた。あの試合で投げられたことが自信になり、さらにレベルアップできたと思う」と述べた。 投手コーチだった堀内恒夫はあらかじめ槇原、斎藤、桑田の順番で登板させることを決めていたものの、10月6日の試合で右足内転筋を痛めていた斎藤を本音では登板させたくなかったと後年振り返っている。10月6日のリリーフ登板が打者2人で交代しスタミナが温存されていると思われる先発の槇原に5回は投げてほしいと願っていたものの、先述したように2回無死から登板するという誤算に見舞われたが斎藤は5回1失点で手堅くまとめ勝利を引き寄せた。しかしこの試合で無理をしたことが斎藤が通算180勝にとどまった理由ではないかと堀内は振り返っており、もしこの登板がなければ200勝していたとも分析している。 1995年以降1995年は最多勝と最多奪三振の二冠で2度目の沢村賞に輝き、ベストナインとゴールデングラブ賞も受賞。2年連続の好成績で隔年投手のイメージを払拭。同年の日本一のヤクルト戦では、4完封を挙げた。 1996年8月16日、通算150勝のかかったヤクルト戦では、9回二死から同点に追いつかれた後も12回まで179球を投げきった。12回裏の打順で斎藤の代打に送られた岸川勝也が凡退し、二死無走者。この試合での150勝はお預けかと思われた矢先に当時新人の仁志敏久がサヨナラ本塁打を放ち、土壇場で150勝を達成した。この年は最多勝、最優秀防御率を獲得。最高勝率でもあった。ベストナインとゴールデングラブ賞も受賞し、2年連続で沢村賞に選ばれ、史上4人目となる3回目の沢村賞を受賞した。日本シリーズ第1戦に先発し7回3失点に終わる。のちに、この時が右肩の調子が絶好調の最後の登板だったと振り返った。 1997年は、自主トレーニングから肩の違和感を覚える中、ヤクルトとの開幕戦で広島から移籍してきた小早川毅彦に開幕3連発を打たれるなど精彩を欠き、右腕の故障も加わり、1桁勝利に終わる。 1998年は10勝を挙げたが、これが自身最後の2桁勝利となった。 1999年は、前年の右腕の故障に加え、足の内転筋の故障など全盛期のストレートが投げられず、わずか5勝に終わり、周囲からは衰えもささやかれた。 2000年も故障で出遅れ、一軍昇格は8月下旬にまでズレ込んだ。自身のモデルチェンジが功を奏し、5度の先発機会で3勝を挙げる活躍を見せた。2000年の日本シリーズでは1勝2敗で迎えた4戦目の先発に起用され、敵地福岡ドームでダイエー打線を相手に6回2/3を1失点に抑える好投を見せ、11年ぶりに日本シリーズで勝ち投手となった。その後は勢いを取り戻した巨人が連勝し、日本一を達成。これが自身最後の日本シリーズ出場となった。 復活が期待された2001年のシーズンでは開幕ローテーションに入り、4月22日の対横浜ベイスターズ戦でシーズン初勝利を挙げたが、5月6日の対横浜ベイスターズ戦で2回の走塁時に故障し、1回で降板、そのまま二軍降格となった。その回復に時間を要したが、シーズン最終盤ヤクルトとの優勝争いの中でリリーフ投手として一軍復帰し、5試合連続で中継ぎ登板を行うなど奮闘した。結果的に優勝を逃し、監督の長嶋が勇退。斎藤自身も故障した身体が限界に達したため、同シーズン限りで現役引退を発表。9月30日には同じく引退を発表していた槙原寛己・村田真一と共に引退試合が行われた。 現役引退後2002年から2003年の2年間は一軍投手コーチ。 2004年から2005年にはフジテレビ野球解説者・スポーツ報知野球評論家、沢村賞選考委員を務めた。 2006年に監督の原辰徳と共に一軍投手コーチとして復帰。 2008年から2009年は二軍投手コーチを務めた。 2010年から2015年は再び一軍投手コーチを務めた。 2016年からは二軍監督を務め、イースタン・リーグの優勝を達成(2015年前任の岡崎郁二軍監督と2017年途中から就任した内田順三二軍監督時代を含めとイースタン・リーグ三連覇)。 2017年7月15日から再び一軍投手コーチを務める。 2016年1月18日、野球殿堂入りを果たした。 2016年9月26日に第1回WBSC U-23ワールドカップの日本代表監督を務めることが発表された。 2018年は一軍投手総合コーチ。シーズン終了後の10月22日に一軍投手総合コーチ退任が発表された。 2019年からは14年ぶりにフジテレビの野球解説者に復帰した他、日本テレビにも本数契約で出演した。 2021年、リクルートの「AirPay」CMに「三本柱」の槙原寛己・桑田真澄と共に出演。 選手としての特徴巨人で1986年から一時低迷していたのは、前年(1985年)に初めての2桁勝利を挙げたことで相手打者の研究が進んだことに加えて、太腿の裏の筋肉を繰り返し痛めていたことにもよる。このような低迷から脱却すべく、投球時の右腕の角度をめぐって試行錯誤を重ねていたところ、内野手の出身で当時の二軍監督だった須藤豊から「(アナログ時計で長針と短針が)10時10分の(時刻を示す位置のような)イメージでいいんじゃないか」というアドバイスを受けた。本人によれば、須藤のアドバイスに沿って右腕の角度を真横より少し高い位置でボールを放せるようになったことが、入団当初の一軍監督だった藤田元司が復帰してから「先発完投型の投手」として大きな飛躍を遂げることにつながったという。 投球スタイルは常時145km/h前後の直球(ナチュラルシュート)、シュートしない直球(真ッスラ)、大きく沈むシンカー、直球と逆方向のカーブを操っていた。もっとも、古田敦也によると直球とスライダーの2球種でほぼ完結していたとのこと。 通算打撃成績は、打率は.165ながらも、123安打、26二塁打、1三塁打、5本塁打で、シーズン打率.200以上は3度、うち1度は.300を記録している(シーズン20打席以上)。 対戦した山﨑武司には、斎藤のスライダーは2回曲がって見えたという。また、古田は「スライダーは百発百中やったよね」とスライダーの制球力を絶賛した。 2024/06/15 23:10更新
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斎藤雅樹と同じ誕生日2月18日生まれ、同じ埼玉出身の人
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