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川相昌弘の情報 (かわいまさひろ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

川相昌弘の情報(かわいまさひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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川相 昌弘さんについて調べます

■名前・氏名
川相 昌弘
(読み:かわい まさひろ)
■職業
野球選手
■川相昌弘の誕生日・生年月日
1964年9月27日 (年齢59歳)
辰年(たつ年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
岡山出身

(昭和39年)1964年生まれの人の年齢早見表

川相昌弘と同じ1964年生まれの有名人・芸能人

川相昌弘と同じ9月27日生まれの有名人・芸能人

川相昌弘と同じ出身地岡山県生まれの有名人・芸能人


川相昌弘と関係のある人

岡友美: 川相昌弘(元読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ)のファン。


静恵一: 尊敬する人はジャイアンツの二遊間レジェンド、篠塚和典、川相昌弘


鴻野淳基: 1988年の開幕試合となる4月8日のヤクルト戦(東京D)で、7回表一死一、三塁の場面で荒井幸雄が放った二ゴロの併殺プレーの際、逆転負けにつながる悪送球をしてしまい、以降は勝呂博憲や川相昌弘の台頭もあり二軍に落ち、シーズン中に外野手に転向した。


松井秀喜: 川相昌弘は巨人在籍中10年間ずっとロッカールームで隣同士だった。


青山愛子: プロ野球は、根っからの巨人ファンであるとともに、各方面で川相昌弘のファンだと公言している。


細見和史: 初奪三振:同上、8回表に川相昌弘から


井端弘和: 自分が彼らのようなグラブさばきをすると、軽いプレーだと思われる恐れがあった」と振り返り、堅実なプレースタイルが特徴であった川相昌弘を参考にしたという。


二岡智宏: 1999年、長期にわたり巨人の遊撃手のレギュラーだった川相昌弘からポジションを奪取。


須藤理恵: 川相昌弘(元読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ)のファン。


矢野燿大: 前年まで2年続けてNPBの全12球団で最多の失策数を記録していたことを踏まえて、現役時代のチームメイトではなく、阪神に在籍したこともなかった川相昌弘を春季キャンプで臨時コーチに招聘した。


藤田元司: 遊撃手として巨人・中日でプレーし、のちに犠打の世界記録を更新する川相昌弘は藤田がレギュラーに抜擢した選手の一人で、現在も藤田に強い恩義を感じているという。


遠田誠治: 甲子園ではエース川相昌弘(巨人-中日)、3番横谷総一(阪神)、4番本間立彦(日本ハム)を擁する岡山南高と対戦し2-3で敗れている。


板倉賢司: 大会では初戦の西京商業高(近畿・京都)を3-1、2回戦では好投手の川相昌弘を擁する岡山南高(中国・岡山)を3-0の完封で下し優勝への期待が高まるも、準々決勝で2年生エース三浦将明とスラッガー荒井幸雄、高井直継を擁する横浜商業高(関東・神奈川)に1-3で敗れ前年夏の甲子園に続いてのベスト8敗退となった。


増田大輝: 2016年は支配下登録はならなかったが、三軍戦に二塁手や遊撃手として出場し当時三軍監督の川相昌弘から「成長株」として名を挙げられたと報じられた。


辻発彦: 読売ジャイアンツと戦った日本シリーズ第6戦では8回裏二死から安打で出塁し、続く秋山がセンター前ヒットを放つと捕球したウォーレン・クロマティの緩慢な返球と、中継に入った川相昌弘が打者秋山・走者辻の二塁進塁を警戒して三塁側が死角になったことに乗じて、辻は一気に一塁から生還して駄目押しのホームを踏んだ。


稲垣秀次: プロ1年目となる1983年の同学年には、斎藤雅樹・川相昌弘・荒木大輔(調布リトルで同期)ら高卒ルーキーがいる。


吉田義男: このうち通算犠打については、吉田が現役を引退した時には当時のプロ野球記録でもあった(現在のプロ野球記録は川相昌弘の533犠打)。


須藤豊: 村田真一を試合経験を積ませて味のある女房役に育て、非力でも守備と犠打で一軍で通用するようにと、川相昌弘にマンツーマン指導。


岩舘学: 巨人のかつての正遊撃手であった川相昌弘を目標としているが、2007年シーズン序盤にはイースタン・リーグでも上田和明に連続バント失敗を叱責されており、前述の守備難も相俟って際立ったセールスポイントが無いことから二軍でも出番が年々減っていた。


加藤伸一: 1000投球回:1996年7月10日、対読売ジャイアンツ17回戦(東京ドーム)、5回裏3死目に川相昌弘を三振にとり達成 ※史上269人目


福王昭仁: 1988年から内外野の守備固めや代走として起用され一軍に定着し、主に二塁手であったが、岡崎郁や川相昌弘といった内野陣が不調の時には先発で三塁手や遊撃手として起用されたこともあった。


横谷総一: “【独占】なぜ巨人OBの川相昌弘氏は”ライバル”阪神の臨時コーチを引き受けたのか…「阪神がするべき野球とは」”. Yahoo!ニュース. (2021年2月6日). https://news.yahoo.co.jp/articles/d29991893a7fa8a638e72feba33e9c381d521652 2023年1月17日閲覧。


上田和明: この年はショートの川相昌弘が8月31日に投球を受けて骨折したため、上田がその代わりを務めたが、同年9月29日に、一塁ベースを踏んだ際に左足首を痛めて退場したため、二軍落ちして、10月のリーグ優勝時は勝呂壽統がショートを守っていた。


久慈照嘉: 現役時代は他球団に川相昌弘らの存在もあり、ゴールデングラブ賞には縁がなかったが、その鉄壁の守備で阪神・中日を支えた。


茂木栄五郎: NPBの一軍公式戦で1人の選手が1シーズン中に複数のランニング本塁打を記録した事例は、1992年に川相昌弘が2本放って以来24年ぶりで、2リーグ分立(1950年)以降の新人選手では史上初となった。


上田和明: 1990年にはレギュラーの川相昌弘が怪我でスタメンを外れた試合で代わりに多く起用され、主に二番・遊撃手として26試合に先発出場を果たす。


伊原春樹: 対戦チームである巨人の中堅手ウォーレン・クロマティは返球が緩慢であり、中継プレーに入る遊撃手川相昌弘には「二塁進塁を警戒して打者走者を見るために右回転し、結果先の走者を見ない」という癖があった。


エディ=コリンズ: コリンズのメジャーリーグ記録である通算犠打数(512)は、2003年8月20日に、当時読売ジャイアンツの川相昌弘選手が更新した。


中井大介: その後も1試合4安打を記録するなどしたが、同月12日の全体練習に寝坊で1時間遅刻し、川相昌弘ヘッドコーチの判断により即二軍降格となった。


八木裕: 2年生の頃から4番を打ち、1982年、2年生の夏の全国高等学校野球選手権岡山大会では準決勝で川相昌弘(元巨人-中日)や後にチームメイトとなる横谷総一(同学年だがプロ野球では先輩に当たる、現阪神球団フロント)のいた岡山南を破ったが、決勝で関西に敗れ、翌年の3年生の夏は初戦で倉敷商に敗れて甲子園出場は叶わなかった。


川相昌弘の情報まとめ

もしもしロボ

川相 昌弘(かわい まさひろ)さんの誕生日は1964年9月27日です。岡山出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、人物などについてまとめました。卒業、引退、現在、ドラマ、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。川相昌弘の現在の年齢は59歳のようです。

川相昌弘のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

川相 昌弘(かわい まさひろ、1964年9月27日 - )は、岡山県岡山市南区出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)、プロ野球コーチ、野球解説者、野球評論家。

現役時代は読売ジャイアンツ(巨人)、中日ドラゴンズで活躍。通算533本の犠牲バントは世界記録で、通算犠打成功率は9割を超えるなど「犠打職人」「バント職人」「バントの神様」の異名を持つ。ゴールデングラブ賞6回受賞の守備力を誇る遊撃手でもあった。2015年から2017年まで巨人に所属した川相拓也は次男。

愛称はしわが多く老け顔だったことから「ジイ」。

岡山市立第二藤田小学校、藤田中学校から岡山県立岡山南高等学校へ入学。硬式野球部の投手として、2年時(1981年)の夏に第63回全国高等学校野球選手権大会、3年時(1982年)の春に第54回選抜高等学校野球大会へ出場した。3年時春の選抜大会では、主将の立場でチームを率いながら、2回戦で早稲田実と対戦。敗れはしたものの、荒木大輔と互角の投手戦を演じた。しかし、夏の選手権岡山大会では、2年生の八木裕を4番打者に起用していた岡山東商との準決勝で敗れている。

ちなみに、岡山南高校硬式野球部の同期には本間立彦、1学年後輩には横谷総一がいた。横谷は、川相の卒業を機にエースの座を引き継ぐと、川相の卒業翌年(1984年)に阪神タイガースへ入団。内野手への転向・現役引退を経て阪神球団のフロントで要職に就いてからも、川相と親しく交流している(詳細後述)。

1982年のNPBドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)から4位で指名。投手として指名されたが、入団の直後に内野手へ転向した。入団当初の背番号は60。

1983年には二軍生活に終始。須藤豊二軍守備・走塁コーチ(当時)の熱心な指導によって、遊撃手としての才能が徐々に開花した。

1984年に守備力が王貞治監督の目に留まり一軍に初昇格。

1985年から守備要員として一軍に定着し、プロ初犠打を同年6月13日の対ヤクルトスワローズ12回戦(福井県営球場)の7回裏、阿井英二郎から決めた。

1986年も出場機会を増やしていたが、8月22日の大洋戦で中山裕章から死球を受けて左手首の亀裂骨折で戦線を離脱。オフには年俸650万円で契約を更改した。

1987年のリーグ優勝には内外野の守備固め要員として貢献した。日本シリーズで、秋山幸二の単打を捕球した中堅手ウォーレン・クロマティが緩慢な送球を返し、一塁走者の辻発彦に一気にホームインされたプレーの際に返球を受けていたのが川相であり、この試合が日本シリーズのデビュー戦だった。クロマティの動きに対する批判が多かったが、川相は「クロマティのプレーを頭に入れておかなかった自分のミス」と語り、悔しさを口にした。西武の三塁ベースコーチだった伊原春樹一軍守備走塁コーチも、川相が先頭の走者ではなく打者走者を見る癖があったのがポイントだったと語っている。後の1994年の西武とのオープン戦で、二塁走者だった川相は、次打者のセンターフライを佐々木誠が後ろ向きで捕球したのを見ると、猛然とタッチアップでスタートし、西武の緩慢な中継の隙を突いて本塁を落とし入れた。川相は後に、上記のプレーの反省が頭にあったと述べている。王監督時代、当時の巨人は引退した河埜和正の後を継ぐ遊撃手の定位置の座を、岡崎郁と西武から移籍した鴻野淳基の2人が争っていたが、守備力を武器に勝呂博憲も台頭し、競争は激しさを増していた。1987年オフには年俸840万円で契約を更改した。

1988年、それまでスイッチヒッターとして打席に立っていたが、開幕直前に本来の右打ち一本に絞る。この年は、7月7日の対中日戦で近藤真一からプロ入り第1号本塁打を放ち、2試合後の10日の対広島戦で右投手の長冨浩志から右打席で本塁打を放つ。オフには年俸1020万円で契約を更改した。

1989年、背番号を0に変更。巨人では球団史上初の0番であった。この年藤田元司が監督に復帰すると、岡崎がコンバートされ(鴻野も前年途中から外野でこの年から外野手登録)、勝呂がショートの開幕レギュラーだったものの打撃面で伸び悩み、逆に前年まで外野手での出場が6割を占めていたこともあった川相が台頭した。川相は持ち前の守備能力や確実性のある小技を磨き、絶対的な巨人の2番・遊撃の座を勝ち取った。しかし、8月31日、阪神のマット・キーオから死球を受けて右手親指を骨折し、リーグ優勝時は一軍登録を抹消されていた。その後、チームのリーグ最終戦となる10月13日に復帰し、日本シリーズは全試合スタメン出場した。結局、規定打席には届かなかったものの、自己最多の98試合に出場し、初のゴールデングラブ賞を受賞した。レギュラーを確保して初めての契約更改では、球団が当初提示した2400万円(その後2520万円とされた)を保留、2度目の交渉で2580万円で更改した。

1990年は、5月4日の広島戦でゴロに飛びついた際にグラブの中の左手親指付け根を捻挫し、一軍登録を抹消されてその後5月29日に復帰する。9月4日、阪神の和田豊の年間犠打記録56を抜き、プロ野球新記録を樹立。しかし、翌5日に中日の郭源治の投球を避けた際に、倒れて右肩鎖関節亜脱臼で全治2週間となり、またもリーグ優勝時は一軍登録を抹消されていた。その後、チームのリーグ最終戦となる10月10日に復帰し、日本シリーズは全試合スタメン出場した。このリーグ最終戦で自身初となる規定打席にも到達し、犠打記録を58に伸ばして打率.288を記録した。オフには年俸4300万円で契約を更改した。

1991年には66犠打を記録し、自身の年間犠打新記録を更改する(現在のプロ野球記録は、2001年に宮本慎也が記録した67犠打)。また、自身初めて100試合以上出場し、3年連続のゴールデングラブ賞を獲得する。2番打者、遊撃手としての地位を完全に確立した。オフには年俸5880万円で契約を更改した。

1992年は、8月1日に広島の佐々岡真司から死球を受けて右手小指の亀裂骨折(全治10日)で戦線を離脱し、8月21日に復帰する。しかし、9月27日には中日与田剛から死球を受けて退場し右手薬指の付け根を骨折する(この試合は川相が9回裏に退場したことで、延長戦でショートがいなくなり、セカンドの岡崎郁がショート、サードの原辰徳がセカンドに回った。岡崎はショートを、原はセカンドを、それぞれ現役最後に守った試合となった)。結局、残りのシーズンを棒に振り、規定打席には届かなかった。オフには、現状維持の年俸5880万円を保留したが、2度目の交渉でも金額が変わらずそのまま5880万円で更改した。

この時期について、藤田は、「楽をしたくなる気持ち(もあるであろう)自分自身と戦っている時間の長さが川相と普通の選手の違いになっている」「川相のような選手が多くなればチームは強くなる」など、巨人監督退任直後の自著『藤田前監督 巨人軍を語る』で賞賛している。

1993年からは長嶋茂雄が巨人監督に復帰したが、2番・遊撃として変わらずレギュラーで活躍。原辰徳ら他の主力選手が軒並み不調に陥る中で孤軍奮闘し4年連続でリーグ最多犠打を記録、打率もチームトップの.290を記録し、自身初の全試合出場を果たした。また、同年8月14日には中日の今中慎二からプロ入り初、自身の野球人生でも初というサヨナラ本塁打を放った。2年ぶりのゴールデングラブ賞も奪還した。オフには年俸9200万円で契約を更改した。

1994年も安定した活躍を見せ、2年連続となる全試合出場(自身初で現役唯一のフル出場も達成)と自身初となる打率3割を記録し、リーグ優勝に大きく貢献した。ゴールデングラブ賞に合わせて、こちらも自身初となるベストナインを受賞した。守備・打撃の両面で1990年代を代表する選手の一人にまで成長した。同年10月1日の対ヤクルト戦で決勝打を放ち、試合後のヒーローインタビューで自身の子供たちの名前(当時は二男一女)の名前を挙げて「パパ頑張ったよ」と声を張り上げて、話題となった。また、10.8決戦では、3回に安打で出塁した後に生還し決勝点となる得点を記録、9回にバックスクリーンを直撃する打球を放つが、インプレー(三塁打)の判定となり長嶋監督が猛抗議するも受け入れられず、結局この年の本塁打は0本だった。オフには、1度目の年俸交渉で1億1600万円を保留、2度目は1億3000万円を保留、3度目は1億4000万円を保留、4度目の交渉で1億4000万円で更改した。

1996年から1998年まで巨人の選手会長を務め、名実ともに巨人の顔となった。1996年には札幌・円山球場でプロ入り初の満塁本塁打を放ち、メークドラマの実現に大きく貢献した。しかし、長嶋監督が清水隆行を2番に据えるなど攻撃的な野球を標榜したため、7番や8番を打つ機会も増えてきた。元木大介や仁志敏久の台頭もあり、1997年が規定打席到達の最後のシーズンとなった。1998年には平野謙の記録を抜き、通算452犠打のプロ野球新記録を樹立した。

1999年には大型遊撃手の二岡智宏の加入により出場機会は減少したものの、守備要員・バント要員で依然チームに欠かせない存在だった。遊撃手での出場機会が大幅に減り、三塁手での出場が中心になった他、1988年以来11年ぶりに外野手としても3試合に出場している。

2000年より、同い年の石井浩郎の退団に伴って空いた背番号6に変更。しかし、二岡が完全にレギュラー遊撃手として固まり、江藤智の入団などもあり、2000年から2001年にかけては出場機会が代打や守備固めに限られていく。

2001年5月16日に阪神の井川慶から3年ぶりとなる本塁打を代打で記録し、5月23日には史上132人目となる1500試合出場も達成した。また、2001年には村田真一・槙原寛己・斎藤雅樹の3人が引退したが、川相は現役にこだわった。

2002年から原辰徳が監督に就任。原は巨人のレギュラーとして闘った旧知の仲であり、スタメンでの出場機会も増え、お立ち台に2度も上がるなど就任1年目でのリーグ優勝に貢献した。

2003年8月20日には東京ドームで通算512犠打を達成し、エディ・コリンズのMLB記録を超え、ギネス世界記録にも認定された。なお、この犠打を決めた時、川相の右足が打席から出ていた、という写真が『巨人軍5000勝の記憶』にも掲載された。

同年、現役引退を表明。9月21日の引退試合では2番・二塁手としてスタメン出場、第3打席でセンター前ヒットを放ち、代走を送られて退いた。試合後は引退セレモニーが行われた。引退後は一軍内野守備・走塁コーチ就任が内定していたが、直後に発生した原の辞任により、しばらく保留状態が続いた。混乱の後に球団から二軍内野守備・走塁コーチ就任を言い渡されたが、10月6日引退を撤回し巨人を退団した。

直後、元同僚の落合博満が監督に就任した中日ドラゴンズに入団テストを経て11月6日に移籍が決まった。

自身と同じ遊撃手で、球団史上最多通算本塁打記録を持つ宇野勝がつけていた背番号7を与えられたことからも、川相に対する期待の大きさが窺える。

2004年は落合監督の「一芸に秀でている選手を起用する」という采配に合致する活躍を見せ、地味ながらも代打バント・守備要員として存在感を発揮。サヨナラヒットを2本打つなど、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。移籍後初めて巨人戦に代打出場してバントを決めたことや、札幌ドームで佐藤宏志から本塁打を打ったことで、古巣・巨人の応援席を含めて球場全体から歓声が沸き起こったこともあった。同年の日本シリーズ第2戦では、9回表から主軸の立浪和義に代わる守備固めで三塁の守備に就き、無死無走者で赤田将吾が岩瀬仁紀から放ったゴロを一塁に送球した。

2005年、出場機会は減少したものの、守備に衰えが見えていた立浪に代わる三塁の守備固めや代打として活躍した。

2006年には球界初の「メンタルアドバイザー」に就任。コーチの肩書では会議に出席する必要があるので、あくまで相談役というポジションに落ち着いた。チームが勝っている試合で8・9回辺りから主に立浪の守備固めとして出場することが多かったが、荒木雅博の怪我などで5月には「2番・二塁手」としてスタメン起用された。しかし、森野将彦が怪我から復帰しスタメン獲得、立浪が代打要員となり、代走・守備要員として奈良原浩を金銭トレードで獲得、7月頃に荒木が復帰したことから出場機会がなくなり、球宴直前に登録抹消。その後は一軍に帯同しながら、メンタルアドバイザーとして裏方からリーグ優勝に貢献した。中日スポーツで毎週月曜日に「明日への送りバント」という題名で寄稿もしていた。

10月13日、翌年の選手契約を結ばない方針と一軍コーチ就任要請を球団から伝えられて現役引退を表明。翌年(実質的には同年オフのキャンプ時)から中日一軍内野守備走塁コーチに就任することも発表された。10月15日、ナゴヤドームでのシーズン最終戦の横浜戦は川相の引退試合として、2番・三塁手でスタメン出場。1打席目は安打、2打席目では送りバントを三塁線に決め、観客から大きな拍手が送られた。7回には1イニングだけ、慣れ親しんだ遊撃の守備にも就く。この日の犠打で通算533犠打となり、自身が持つ記録を更新。試合終了後はチームメイトから胴上げされ、挨拶では「24年間の選手生活の中で、中日での3年間が最高だった。日本シリーズを花道にしたい」と語った。日本シリーズでは第5戦に代打で登場。最後の送りバントを決め、有終の美を飾った。

2007年シーズンからは中日ドラゴンズ一軍内野守備・走塁コーチに就任。公式戦では一塁コーチボックスに立っていた。オープン戦では経験を積むため、三塁コーチボックスに立っていることもあった。2010年シーズンは二軍監督を務めるが、同年9月28日に突然の退団通告を受けた。

10月25日に翌2011年シーズンから古巣巨人で二軍監督を務めることが発表された。巨人には8年ぶりの復帰となった。超重量打線と呼ばれる巨人の打撃陣にも、積極的にバントをさせると宣言。その言葉通り、チームの犠打数は2010年の33から135と約4倍に、盗塁数も60から152と大幅に増加した。本塁打数はリーグ最少ながら、確率を求めた細かい野球によってチームを牽引した。12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される。2012年も二軍監督を務め、日本シリーズではコーチ登録されベンチ入りした(代わりに橋上秀樹一軍戦略コーチが登録から外れた)。

2013年シーズンより、巨人の一軍ヘッドコーチに就任。3月のオープン戦では、ワールド・ベースボール・クラシック準決勝に進出した日本を応援するため渡米した原監督に代わって、監督代行として指揮を執った。また、2014年5月5日と2015年4月15日から19日の合計6試合においても、欠場した原監督の代行を務めた。

2015年シーズンは途中、一軍内野守備・走塁コーチの勝呂に代わって三塁ベースコーチを務めたこともあった。

2015年10月にサンケイスポーツが巨人の後任監督として検討されていると報道されたが、実際には一軍打撃コーチ兼外野手の高橋由伸が現役を引退して監督に就任した。

2016年シーズンより、三軍監督に就任。

2017年、11月25日から台湾で開催されるアジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の監督を務める。球団から、2018年シーズンの二軍監督への配置転換が発表された。

2018年、9月18日イースタン・リーグの優勝を達成(2015年からイースタン・リーグ4連覇達成)。10月7日、フェニックス・リーグの前日に球団からの解任が発表された。10月23日、11月1日付で「読売新聞スポーツアドバイザー」に就任することが読売新聞グループ本社から発表された。

2019年から2021年までは、日本テレビ、ニッポン放送、J SPORTSの野球解説者・スポーツ報知の野球評論家として活動していた。2019年には学生野球資格回復研修制度を利用し母校の岡山南高校の臨時コーチに就任した。

2021年には、2月1日から22日まで、阪神の一軍春季キャンプに臨時コーチとして参加。チームの弱点である内野守備やバントの技術を指導した。巨人のOBが長年のライバル球団である阪神の春季キャンプを臨時コーチの立場で指導することは異例だが、岡山南高校時代のチームメイトで、引退後も阪神球団でフロントの要職に就いている横谷からの打診が指導のきっかけになったという。このように阪神との縁ができたことから、サンテレビや朝日放送テレビなどが制作する阪神の主催試合中継にも、ゲスト解説者として随時招かれるようになった。

2021年11月15日、2022年よりファーム総監督として巨人に復帰することが発表された。この「ファーム総監督」は2022年度から新設されたもので、直接ユニフォームを着て指導を行うというものではなく、育成型チームの統括責任者的な役割として、二・三軍の選手に対する指導・助言を実施するものである。

2022年10月13日、2023年より一軍総合コーチに配置転換されることが発表された。

2023年10月16日、2024年より内野守備コーチに配置転換されることが発表された。

選手としての特徴

走塁に関しては、2桁盗塁を記録したことは1度もない。ただし走者として塁に出た時には、相手投手のクセを研究して、少しでも早くスタートが切れるように心掛けていた。

遊撃手としてゴールデングラブ賞6回受賞している。川相本人は「池山(隆寛)や野村(謙二郎)の方が上だよ」と語っており、「負けてたまるか」という気持ちでやってきたと述べている。

遊撃手以外には二塁手や三塁手、外野手としても出場しており、中日時代には一試合のみ一塁手も務めた。

バント技術

犠打数のギネス記録保持者であり、バントの技術はプロ野球史上最高峰のレベルである。巨人でのレギュラー時代は2番打者として多くの犠打を記録し、レギュラーを外れた晩年は「ピンチバンター」として代打で登場し、誰もが送りバントと分かっている状況の中で成功を重ねた。2000年の日本シリーズ第5戦では「5番・DH」のドミンゴ・マルティネスに代わって代打で登場し、無死一・二塁の場面でバントを決めた。

通算の犠打成功率は9割を超えている。中でも47犠打を記録した1995年の失敗数は0である。

送りバントのコツとしては「割り切りが大事」「ここに転がすと決めたら、どんなボールが来てもそこに転がす」という気持ちの整理が重要だという。技術面では、目とバットの距離を変えないようにする(手先ではなく膝でバットをボールに合わせて、目とバットの距離を一定に保つ)ことが重要なポイントだと話している。

ちなみに、川相が記録してきた送りバントのほとんどは、自軍のベンチからのサインによるもので、自分で判断してバントしたケースは通算で10回あるかないかだという。また、過去に何度か「死んでも成功させる」という気持ちで打席に立ったことがあるという。

人物

巨人で一軍のヘッドコーチを務めていた頃の川相について、当時投手コーチだった川口和久は、コーチから退任した後に「こだわりがあって気配りもできて、なおかつ、相当ねちっこい男でもあった」と証言している。当時の川相は試合後のミーティングが長く、その日に起こったことはその日に分析しないと気が済まない性分であった。川口はこれを「とことんまで原因を突き詰め、改善策を立て、それを翌日からに生かそうという気持ちが強いんだ。たぶん選手時代から続けてきたことだと思う。努力の男だったからね。そうじゃなきゃ犠打の世界記録なんて作れない」と2018年9月の雑誌の記事で評している。

現役時代からダジャレが得意で、野球解説者に転じてからも、解説を担当する試合の中継でしばしば披露している。もっとも、川口によれば「ダジャレのセンスは寒い(非常に悪い)」とのことで、「熱帯夜には稲川淳二の怪談か川相のオヤジギャグだね(笑)」とも揶揄している。

一般的には人格者として評価されることが多いが、実は武闘派の一面もあり、現役時代に試合中ムシャクシャしたことがあるとベンチ裏の壁やロッカーに当たり散らすことが多かったという。そのため巨人のチームメイトからは、背番号0に引っ掛けて陰で「台風0号」というあだ名をつけられていた。

2000年代になってからセイバーメトリクスが浸透し始めてプロ野球では犠牲バントが減少しているが、そのデータをテレビ番組「戦え! スポーツ内閣」のゲストに招かれた際に見せられたことがある。川相自身は長い沈黙ののち「数値だけで判断はできない」と返答している。

2024/06/14 13:26更新

kawai masahiro


川相昌弘と同じ誕生日9月27日生まれ、同じ岡山出身の人

桃山 ひなせ(ももやま ひなせ)
9月27日生まれの有名人 岡山出身

桃山 ひなせ(ももやま ひなせ、9月27日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。男性。別ペンネームに相賀 うい(そうが うい)。岡山県倉敷市出身。 2002年、相賀名義で投稿した「死の舞踏」…


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川相昌弘と近い名前の人

河合 雅雄(かわい まさお)
1924年1月2日生まれの有名人 兵庫出身

河合 雅雄(かわい まさを、1924年(大正13年)1月2日 - 2021年(令和3年)5月14日)は、日本の霊長類学者、児童文学作家で理学博士。従四位。兵庫県立丹波の森公苑長、京都大学名誉教授、愛知…

河合 正智(かわい まさとも)
1944年1月22日生まれの有名人 岐阜出身

河合 正智(かわい まさとも、1944年1月22日 - 2012年5月1日)は、日本の政治家。公明党所属の元衆議院議員(通算4期)、元岐阜県議会議員(通算2期)。 岐阜県羽島市に生まれる。中央大学…

河井 マモル(かわい まもる)
1966年5月28日生まれの有名人 千葉出身

河井 護(かわい まもる(本名:下林山 守)、 1966年5月28日 - )は、千葉県生まれの元俳優。元パシフィックボイス所属。 1984年、高校2年生の時にNHK『だから青春〜泣き虫甲子園』で俳…

川合 正矩(かわい まさのり)
1943年9月30日生まれの有名人 静岡出身

川合 正矩(かわい まさのり、1943年9月30日- )は、日本の経営者。日本通運社長、会長を務めた。静岡県榛原郡金谷町(現・島田市)出身。 静岡県立藤枝東高等学校を経て、1966年に東京大学法…

川井 真紀(かわい まき)
3月11日生まれの有名人 東京出身

出演作品 un think(エクスコミュニケーター、カゲの声) 営業マンのコンプライアンス ディスカバリー 野生の王者たち J:COM TV無料視聴デー NEC プリモード2 ナチュラルビート社内ビデ…

川井 雅弘(かわい まさひろ)
1994年10月27日生まれの有名人 神奈川出身

川井 雅弘(かわい まさひろ、1994年10月27日 - )は、日本の歌手、モデル、俳優、、タレント。神奈川県出身。エルアンドエル・ビクターエンタテインメント所属。Candy Boyの元メンバー。 …

川相 拓也(かわい たくや)
1990年11月25日生まれの有名人 神奈川出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 川相 拓也(かわい たくや、1990年11月25日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(内野手)、指導者。右投右打。プロでは…

河井 学(かわい まなぶ)
1936年8月21日生まれの有名人 愛知出身

河井 学(かわい まなぶ、1936年8月21日 - )は、愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手。 1955年、愛知県立岡崎高等学校卒業。同年、毎日オリオンズへ入団。1957年に退団。 詳細情報 年…

川合 将嗣(かわい まさつぐ)
1977年9月7日生まれの有名人 神奈川出身

川合 将嗣(かわい まさつぐ、本名 川合将嗣、1977年9月7日 - )は、日本の俳優。神奈川県鎌倉市出身、身長173cm、血液型はB型、星座は乙女座、現在フリーで活動中。芸名の川合将司から本名の川合…

河井 誠(かわい まこと)
1974年4月24日生まれの有名人 大分出身

河井 誠(かわい まこと、1974年4月24日 - )は、日本の俳優。大分県佐伯市出身。血液型A。身長165cm。井筒和幸監督作品 映画『のど自慢』(1999)のヒロインの相手役オーディションで選ばれ…

河合 まゆ(かわい まゆ)
1998年10月17日生まれの有名人 兵庫出身

河合 まゆ(かわい まゆ、1998年10月17日 - )は、日本のジュニアアイドル。兵庫県出身。 2011年の活動開始から2014年5月までは河合 真由(読み同じ)の表記で、いもうとシスターズのメ…

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