寺原隼人の情報(てらはらはやと) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
寺原 隼人さんについて調べます
■名前・氏名 |
寺原隼人と関係のある人
中山慎也: クライマックスシリーズ進出が差し掛かった場面では監督の岡田彰布から金子千尋・寺原隼人に並ぶ先発3本柱とまで評価された。 小林至: また、内川聖一、細川亨、中田賢一、寺原隼人、鶴岡慎也、ロベルト・ペタジーニ、アレックス・カブレラ、ブラッド・ペニー、ジェイソン・スタンリッジ、デニス・サファテ、李大浩、リック・バンデンハークなど、内外の大物選手を次々と獲得したり、フロントと現場での大胆な人事交流を促進するなど、刺激的なチーム人事をもって、王貞治会長や秋山幸二監督を支えた。 西勇輝: 金子千尋・寺原隼人などの先発陣が続々と戦線離脱していく中で先発ローテーションを守り続けたが、8月9日に右肩痛で登録抹消。 江尻慎太郎: 当初、日本ハムはドラフト1位で寺原隼人の指名を予定しており一転しての獲得だった。 小林雅英: 2011年4月27日の対ロッテ戦(QVCマリン)で、7回の裏二死満塁、オリックスの先発寺原隼人に代わってリリーフとして小林の名がコールされるが、実際にリリーフカーに乗って登場したのは吉野誠であった。 巽真悟: 2014年には、2006年までソフトバンクで背番号20を着用していた寺原隼人が国内FA権の行使を経てオリックスから復帰したことに伴って、背番号を25に変更。 坂克彦: 2007年は今岡誠や関本健太郎らの不調もあり、6月から7月にかけて二塁手や三塁手でスタメン起用され、7月1日の対横浜ベイスターズ戦で寺原隼人からプロ初安打、初打点となる本塁打を放った。 鴨志田貴司: 同じく速球派投手であり、後にオリックスでチームメイトとなる日南学園高の寺原隼人とともに「東の鴨志田、西の寺原」と言われた。 ジョージマン北: 高木豊監督が城島健司をサードにさせて、ピッチャー寺原隼人とバッテリー組ませて、無失点に抑えた事を飲み屋で自慢している。 渡部龍一: 初安打:2008年6月9日、対横浜ベイスターズ4回戦(横浜スタジアム)、9回表に寺原隼人から右中間二塁打 會澤翼: 初安打:同上、5回裏に寺原隼人から右前安打 小川茂仁: 2007年までに務め、春4回、夏5回で甲子園への出場に導き、1998年秋の明治神宮野球大会で全国優勝を果たし、寺原隼人、赤田将吾、井手正太郎などを育成した。 高橋純平: 11月26日に岐阜市内のホテルで契約交渉に臨み、契約金1億円プラス出来高5000万円、年俸1500万円と、球団の高校生では2001年のドラフト1位の寺原隼人以来となる最高額で契約に合意した。 井手正太郎: 同学年の寺原隼人は高校当時、ソフトバンク時代、横浜移籍時共にチームメイトとなった。 高宮和也: 2010年12月6日、山本省吾・喜田剛との交換トレードで寺原隼人とともにオリックス・バファローズへ移籍することが発表された。 帆足和幸: オフの12月4日にオリックスからFAで加入した寺原隼人の入団に伴い、背番号が11から西武時代に着用していた47へ変更。 山田秋親: 2003年はエースの若田部健一がFA移籍するなど先発投手の再編もあり山田にも期待が持たれたが、若手の斉藤和巳、杉内俊哉、寺原隼人や新人の和田毅、新垣渚の台頭で先発投手陣は激戦になり、山田は先発投手枠から外れ辛うじてリリーフのみでの登板で2勝挙げるのがやっとだった。 リック=ショート: 初盗塁:2003年5月2日、対福岡ダイエーホークス7回戦(福岡ドーム)、4回表に二盗(投手:寺原隼人、捕手:城島健司) 馬原孝浩: 2013年1月12日、寺原隼人のFA移籍に伴う人的補償で、オリックスに移籍する事がソフトバンク、オリックス両球団から発表された。 吉原道臣: 7月6日の阪神タイガース戦では7回から2イニングを無失点に抑え、8回裏にチームが3点を勝ち越したため初勝利の権利を得たが、9回2アウトから寺原隼人が逆転を許し、初勝利を逃した。 石川雅規: しかし、同年夏の高校野球・第83回全国高等学校野球選手権大会では、日南学園高校の寺原隼人が活躍し、自由獲得枠の対象ではない高校出身の寺原を1巡目で指名することになった。 クレイグ=ブラゼル: 7月16日の対ソフトバンク戦では、寺原隼人からライトスタンドへ移籍後第1号本塁打を放った。 髙橋純平: 11月26日に岐阜市内のホテルで契約交渉に臨み、契約金1億円プラス出来高5000万円、年俸1500万円と、球団の高校生では2001年のドラフト1位の寺原隼人以来となる最高額で契約に合意した。 細川成也: 福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも、第1戦(10月28日)の9回表に代打で寺原隼人から中前安打を放つと翌29日の第2戦(いずれも福岡ヤフオク!ドーム)では「8番・指名打者」としてスタメンで出場。 小窪哲也: 5月4日の対横浜戦では寺原隼人から決勝適時打を打ち、初のお立ち台に立っている。 帆足和幸: ソフトバンク移籍後に古巣の西武に勝利すれば全球団勝利とともに工藤公康、杉内俊哉、寺原隼人に続く4人目の「13球団からの勝利」も達成するところであったが、西武から勝利することができないまま引退したためいずれも達成できなかった。 木佐貫洋: リハビリに努めていたある日、娘に「パパはどうして、昼間から家にいるの?」と尋ねられて戸惑い、その時に同僚の寺原隼人が「僕らは好きな野球をやっていればそれでいいかもしれないけれど、娘たちには肩身の狭い思いをさせられない」と発言したのを思い出して発奮し、7月13日に再登録されると、3試合の救援登板を経て、オールスター明けに2試合連続完投勝利をあげる。 秦裕二: 2001年度プロ野球ドラフト会議にて寺原隼人の外れで横浜ベイスターズから1巡目指名を受け、入団。 柳瀬明宏: 続く10月9日第3戦では寺原隼人の後を受け、6回1点ビハインドから登板し、与四球2ながら2イニングを無失点に抑え、登板中の5点の援護により連日の勝利投手となった。 真田裕貴: 2001年のドラフト会議で読売ジャイアンツから寺原隼人の外れ1巡目で指名され入団。 |
寺原隼人の情報まとめ
寺原 隼人(てらはら はやと)さんの誕生日は1983年10月9日です。宮崎出身の野球選手のようです。
テレビ、引退、映画、趣味、結婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。寺原隼人の現在の年齢は41歳のようです。
寺原隼人のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 寺原 隼人(てらはら はやと、1983年10月9日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。右投右打。 1983年10月9日に宮崎市で生まれた。職場で野球をやっていた父や6歳上の兄の影響で宮崎市立本郷小学校3年生の時に軟式野球の「ワールドボーイ」に入団して野球を始めて小学校5年生になると6年生を押しのけてエースとなった。宮崎市立赤江東中学校では軟式野球部に入り、1年目は制球難を克服するため下半身を鍛え、2年秋には宮崎県大会決勝戦で完封勝利を果たした。3年夏には4番・エースとして県大会で優勝し、九州大会でも2位となって宮崎県勢15年ぶりの全国大会に出場となったが、初戦で東海代表の長泉町立北中学校に敗れた。 日南学園高等学校では入学時に球速135km/hを超えていた。1年春の九州大会では対瓊浦高等学校戦で中継ぎ登板したが2回3失点のデビューだった。甲子園を目指すため小川茂仁監督の下でアーム式の投法から肘を上げるフォームへの変更に取り組んだ。2年夏には最速140km/h台となったが夏の県大会では準決勝で宮崎日大に敗れて敗退、2年秋の県大会は優勝し、九州大会では最速147km/hを記録したが準々決勝で神埼に1対4で敗れた。この頃急激な成長に捕手が追いつけずバッテリーエラーを繰り返していた。 2001年、3年春から捕球の巧い中原幸広に変更し、春の県大会では準決勝の対延岡学園戦で後の同僚・神内靖と投げ合い球速153km/hを記録した。決勝戦は2安打に抑えながらも1対2で宮崎日大に破れた。6月にサンマリンスタジアム宮崎で行われた市立船橋との練習試合で当時の高校生最高球速となる155km/hを記録した。3年夏の県大会の3回戦(7月18日・対日南振徳商戦)では新たに覚えた120km/h後半の高速カーブを交えて15奪三振でノーヒットノーランを達成した。決勝戦では9回3失点の完投勝利で宮崎日大を破って3年ぶり3度目の甲子園出場に導いた。同級生の井手正太郎も3番打者で同大会7打点と寺原を支えた。 8月7日に右手中指の靭帯炎症がで練習を中断していたが、 第83回全国高等学校野球選手権大会は8月11日の四日市工との1回戦では先発して8回を1失点に抑え、ニューヨーク・メッツスカウトのスピードガンで初球に153km/h、22球目に155km/hを計測したがテレビ中継画面の表示は甲子園タイ記録の151km/hだった。8月16日の岡山県立玉野光南高等学校との2回戦では前夜に発熱していたものの同点の5回裏から登板し、2イニング目の6回にアトランタ・ブレーブススカウトのスピードガンで98mph(約157.7km/h)を計測、テレビ中継では154km/hと表示され当時の甲子園記録を塗り替え、6イニングを3失点にまとめて延長戦で勝利した。8月17日に大阪市内の病院で点滴を受けブルペン待機となったが、チームは20安打15得点の完封リレーで3回戦を突破した。8月19日に行われた準々決勝の対横浜高校戦では最速150km/hは出たものの、2回以降の直球の約8割が130km/h台と苦しみ、同点で迎えた9回に3四球で満塁とした所で決勝打を浴びて敗れ、ベスト8に終わった。翌日8月20日に大阪市内の病院で検査の結果、右足内転筋の肉離れと診断され、AAAアジア野球選手権大会日本高校選抜を辞退した。 台湾で行われた第34回IBAFワールドカップに日本代表として出場した。プロ・アマ合同の同大会で高校生が日本代表として選出されたのは史上初であった。11月7日第1戦の対フィリピン戦では15点リードの5回から2番手で登板して2イニングを無失点4奪三振に抑えた。11月13日に下痢と発熱で体調を崩したが、11月14日第7戦の対オランダ戦では8回3点リードから2番手で登板し、8回はダーク・ファンクルースターの打球が右足首を直撃しながらも無失点で抑え、9回にライリー・レヒトに2点タイムリー打を浴びたが後続を断ってセーブを記録し、チームは予選リーグ全勝で終えた。プロ野球ドラフト会議の為、3位決定戦を前に帰国した。 11月19日に行われた2001年のドラフト会議で、4球団(ダイエー・中日・巨人・横浜)から1位指名を受け、抽選の末、3番目に引いた王貞治が率いるダイエーが交渉権を獲得した。なお、これまで王が4度引いたドラフトのくじで初めて交渉権を獲得した選手となった。11月20日の指名挨拶には王と中内正オーナーが訪れ、11月27日にダイエーへの入団を表明した。12月4日に井手・神内らと共に入団会見を行った。背番号は20。12月5日のメディカルチェックでは右肩の可動域の狭さを指摘された。 2002年、高知県での春季キャンプは「寺原フィーバー」で集客数を伸ばし、10万9850人と球団史上過去最高(2002年当時)の集客数だった。2月16日のシート打撃では島田誠守備走塁コーチに牽制時のクセを見破られて3盗塁を許した。数日風邪による発熱で離脱したが、紅白戦で無失点と結果を残し、一軍のままキャンプを終えた。オープン戦は巨人戦登板と予告されるとチケットが球団史上最速の1時間30分で完売した。しかしあまり結果が出ず、投球フォームなどにも課題があり、開幕は二軍で迎えた。 また、3月のオープン戦期間中に岡本克道、永井智浩に連れられキャバクラで飲酒し球団から厳重注意処分を受けた。 4月16日に一軍選手登録されて同日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で先発してプロ初登板を果たした。3回に井出竜也に先制ソロ本塁打を浴び、6回に逆転したその裏に捕まり5回0/3を投げ4失点のデビューだった。4月28日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で本拠地・福岡ドーム初先発を果たすと、4回までパーフェクトの6イニング3安打無失点、7奪三振の好投でプロ初勝利を挙げた。5月12日の対千葉ロッテマリーンズ戦では6番手として9回7点ビハインドから初のリリーフ登板だったが1イニングを3人で抑えた。5月15日には台北市立天母棒球場での海外公式戦でも4番手で2イニングを無失点に抑えた。5月29日にはプロ入り前から比較された西武ライオンズ・松坂大輔との初対決も制して3勝目を挙げた。しかし続く6月6日の対オリックス戦で2回1/3の最短KOを喫し、6月11日の試合前練習で左太もも裏に違和感を覚えて6月13日に登録抹消、7月30日に再昇格すると、負ければ借金突入という同日の対オリックス戦で試合を作ってチームの連敗を止めた。これまでは城島健司とバッテリーを組んでいたが同試合では田口昌徳が先発マスクを被った。8月2日の投球練習中に右内転筋を傷めて8月4日に抹消されたが、9月27日に再昇格して以降はリリーフとなった。9月29日の対西武戦では7回同点の場面から4イニングを無失点に抑えて初の救援勝利・サヨナラ勝利で5勝目を挙げた。10月2日の対オリックス戦では4回2点リード一死一塁から3イニングを無失点で切り抜けて6勝目を挙げ、これはドラフト制導入後の1984年南海ホークス加藤伸一がマークした高卒新人最多勝利を塗り替えて球団新記録となった。10月6日の対千葉ロッテ戦・秋山幸二の引退試合で7回5点リードから登板して3イニングを1失点にまとめてプロ初セーブを記録した。1年目は先発7試合で4勝2敗、防御率4.28、QS率57.1パーセント、中継ぎ7試合では2勝0敗1S、防御率2.04、WHIP1.13だった。10月9日のメディカルチェックで右肩炎症が発覚して秋季キャンプの11月2日まで投球を控え、11月10日のパ・リーグオールスター東西対抗で西軍の先発として実戦復帰した。 2003年、春季キャンプからオープン戦まで投球フォームが固まらずに出遅れたが、4月2日に一軍へ昇格して開幕6枚目の先発として同日の対大阪近鉄バファローズ戦に先発して7回途中2失点の好投で開幕5連勝していた近鉄に勝利した。4月18日の対近鉄戦では9回を4安打2失点に抑えてプロ初完投勝利を果たし、これで1977年南海以来・ダイエーとしては初となるチーム4試合連続完投勝利を達成した。6月15日の対近鉄戦で先発したが右肩違和感により5回1失点で降板 、開幕から10試合で無傷の先発6連勝を記録したものの、翌日6月16日に福岡市内の病院で右肩関節炎と診断され、6月17日に登録を抹消された。7月11日に再昇格して7月23日の対日本ハム戦で先発したが4回途中でKOされ、2年間の本拠地「福岡ドーム不敗神話」が崩れた。8月1日の対オリックス戦ではチームが29得点を挙げて得点・得点差ともにパ・リーグ新記録を打ち立てた。この試合で寺原は8回25点リードから2番手で登板して9回に代打・副島孔太にタイムリー打を浴びて唯一の失点を許した。先発3連敗を喫していたが8月22日の対千葉ロッテ戦では制球に苦しみながらも自己最多となる7勝目を挙げた。8月29日の対千葉ロッテ戦で先発したが1回1/3で4失点と最短KOを更新し、点灯していた2度目の優勝マジックを消滅させた。続く9月7日の対西武戦では9回4点ビハインドの場面から登板した直後に5連打3失点を喫して一死も取れずに降板させられ、翌日9月8日に二軍へ降格した。二軍で結果を出して9月28日の対近鉄戦で登板したがまたも2回途中KOでレギュラーシーズンを終えた。 日本シリーズではベンチ入りしたものの登板は無かったが、オフには日本代表との壮行試合や台湾選抜との親善試合に登板した。 また同年8月に米国で公開されたアメリカ警察特殊部隊を題材とした映画『S.W.A.T.』になぞらえて球団広報により斉藤和巳(Saitoh)、和田毅(Wada)、新垣渚(Arakaki)、寺原(Terahara)の若手4投手のローマ字頭文字を取って「SWAT」というグループが結成されてグッズが販売された。オフの12月8日に高校の1年後輩の女性と入籍した。 2004年、教育リーグの最終テストで開幕先発ローテーション枠には入ったものの、開幕5戦目となる3月31日の対西武戦で初回・2回と満塁のピンチを作ったため王監督により自己ワーストタイの1回1/3で降板させられ、翌日4月1日に二軍降格し、以降二軍のローテーションへ入った。7月19日にようやく一軍に昇格して7月24日の試合で8回3点ビハインドから2回を無失点に抑えたが、以後の中継ぎ登板4試合で4試合連続ホームランを浴び、先発の機会を得る前に8月11日に二軍降格となりそのままシーズンを終えた。二軍ではウエスタン・リーグ2位の防御率、1位の奪三振数を記録した。二軍先発15試合で5勝5敗、防御率2.84、中継ぎ4試合で0勝2敗、防御率9.00だった。秋季キャンプはB組となり杉本正二軍投手コーチの下でフォーム固めに取り組んだ。 2005年、春季キャンプでは尾花高夫投手コーチの下でテークバックで昨年よりも肘を上げるフォームへ改造した。ロッテ・ジャイアンツ、東京ヤクルトスワローズ、広島二軍と先発無失点を続けていたが最終テストで炎上し、開幕ローテから漏れた。二軍公式戦では先発で4連敗するなど調子が上がらず、5月22日に昇格して同日の対阪神タイガース戦に先発したが3回でKOされた。続く5月27日に中継ぎ登板で1イニングを3者凡退に抑えたが、馬原孝浩の一軍復帰により6月3日に二軍降格となった。降格後は二軍の先発として調子を上げ4試合連続で好投していたが、7月5日の試合で3回KOされ、7月15日に西戸崎室内練習場での練習中にノックのボールを踏んで左足首を痛め、同日福岡市内の病院で検査の結果、左足首靭帯の断裂と診断され、7月22日に福岡市内の病院で縫合手術を受けた。秋季キャンプから小久保裕紀の個人トレーナーだった山尾伸一と個人契約を結んで肉体改造を行った。 2006年、4月13日に一軍へ昇格すると同日の対ロッテ戦で5回を1失点に抑えて965日ぶりの勝利を挙げた。5月6日の対西武戦で完投勝利したが、交流戦で3連敗して5月28日に二軍降格となった。6月28日に昇格すると準本拠地・北九州市民球場で初先発し、4回まで1安打無失点と抑えたが、5回先頭から3安打と崩れて3点目を奪われた所で降板となった。7月16日の対日本ハム戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム)では初回に3連続四球があったものの9イニングを2安打に抑えてプロ入り初完封勝利を挙げ、病床の王監督から祝福の電話を受けた。8月5日の対千葉ロッテ戦では初の10奪三振を記録した。8月19日以降の先発で3試合連続5回持たず3連敗を喫して9月4日へ二軍降格となりそのままレギュラーシーズンを終えた。同年は城島健司の移籍により山崎勝己とのコンビで復活を果たしたが援護に恵まれない事も多く13試合で3勝5敗、的場直樹と組んだ2試合はいずれも5回持たずKOされ2敗だった。 プレーオフでは虫垂炎で離脱した新垣渚に代わって、10月9日の第1ステージ第3戦で急遽先発して5回イニングを投げ3安打、中村剛也に許したソロ本塁打の1失点のみの好投でステージ突破に貢献した。 12月5日に多村仁とのトレードで横浜ベイスターズへ移籍した。 2006年、12月7日に入団会見を行い、12月15日に背番号が24に決まった。 2007年、開幕一軍入りを果たし、抹消されることなく一軍ローテーションを守った。開幕第4戦となる4月3日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)で移籍後初登板・初先発し、8イニングを4安打1四球、嶋重宣のソロ本塁打のみに抑えて移籍初勝利、セ・リーグ球団からプロ初勝利を挙げた。続く4月10日の対ヤクルト戦では本拠地・横浜スタジアムでの初勝利を挙げ、4月28日の対中日戦では内野ゴロでプロ初打点を挙げ、投げては開幕4試合で無傷の3連勝だった。5月4日の対中日戦で移籍初黒星を喫したが、続く5月10日の対ヤクルト戦(神宮球場)では移籍後初完投勝利を挙げ、藤井秀悟からタイムリー打を放ってプロ初安打も記録した。その後3連敗して迎えた6月5日のソフトバンク戦では和田毅と投げ合い、多村にも安打を許さず古巣から初勝利を挙げた。夏に調子を崩し7月8月は9試合で3勝6敗だったが、9月16日にプロ6年目にして初の2桁勝利を達成した。9月28日の本拠地での対ヤクルト戦では9イニングを3安打に抑えて自身初の無四球完封勝利、移籍初完封勝利を挙げた。続く10月5日の対ヤクルト戦でも9イニングを2安打に抑えて自身初の2試合連続完封勝利を達成し、チーム単独トップの12勝目を挙げてチームの前年最下位から4位浮上へ貢献してシーズンを終えた。12勝中6勝がヤクルトから荒稼ぎし、巨人には4戦4敗だった。27試合で5回持たずの降板は1試合のみでQS率は63.0パーセント、うち25試合で相川亮二が先発マスクを被り11勝11敗だった。秋季キャンプでは特守中に右足首を捻挫してリタイア第1号となった。 2008年、3月28日の対阪神戦で自身初の開幕投手を務め、3回まで完璧に抑えていたが右手がしびれるアクシデントで逆転タイムリーを許して4イニングで降板して敗戦投手となった。続く4月4日の対広島戦でプロ初先発マスクの同級生・齋藤俊雄とのコンビで1勝したものの、他の試合でも足が攣るなどして4月は先発4試合で1勝3敗、防御率4.29だった。抑えに予定していたトラビス・ヒューズが不調だったことから、大矢明彦監督は寺原の了承を得た上で4月27日の対広島戦で抑えとして起用、セ・リーグからは初となる6年ぶりのセーブを挙げ、5月中旬にはストッパーに固定する方針となった。6月17日には自身と真田裕貴、秦裕二の3人の2001年ドラフト1位が一軍に揃う珍事が起きた。なお真田と秦は寺原がドラフトで競合された際にくじを外した巨人と横浜がそれぞれ獲得したいわゆる外れ1位である。7月6日の対阪神戦で林威助の打球を受け右足すねを打撲して3度目のセーブ失敗となったが、大事には至らず7月9日以降は5連続セーブを挙げた。7月14日には監督推薦によりオールスターゲームに初選出され、8月1日第2戦(横浜スタジアム)で7回から登板して初出場を果たし、1イニングを無失点に抑えた。9月23日の対阪神戦ではプロ初ホールドを挙げた。チームが年間100敗ペースの弱さで登板機会が少なく、10月2日の対中日戦では中8日での登板で李炳圭に勝ち越しスリーランを打たれてチームは13連敗して90敗目を喫した。最終的にリリーフ登板37試合45回2/3で防御率2.76、WHIP0.88、22セーブ1ホールド、2勝6敗だった。セーブ成功率は84.6パーセントで4度のセーブ失敗はいずれも逆転負けした。同点からの登板5試合は2勝2敗1ホールドだった。シーズン終了後の10月中旬時点で来季は先発に戻る事が決まった。オフの契約更改交渉では急な配置転換による「スクランブル手当て」として2,000万円増の年俸8,000万円(金額は推定)で更改した。 2009年、キャンプは2月21日のブルペンで右内転筋の張りを感じて離脱して出遅れ、3月8日の教育リーグで実戦復帰して開幕一軍に間に合い開幕4戦目に先発したが5回途中KOで敗戦、4月14日に1勝目を挙げたものの、3戦目の後に左膝を痛め、さらに背筋痛で出場選手登録を抹消された。7月3日に一軍昇格して7月15日に2年ぶりの完投勝利でチームを4連勝に導いたが、同年もチームが弱く復帰後10試合で1勝6敗に終わった。9月1日の対巨人戦では右肘の違和感で4回降板し、9月2日に抹消されてそのままシーズンを終えた。先発13試合で2勝7敗だったが、防御率3.90、QS率53.8パーセントと試合は作った。5人の捕手とコンビを組んだがいずれも勝ち越すことはできなかった。 2010年、かつてのコーチ・尾花高夫が自軍の監督に就任するも、2月6日のキャンプ中に右太腿炎症で別メニューとなった。3月9日に登録名を「寺原 早人」に変更することが発表された。開幕は一軍で迎えて開幕第2戦からローテーション入りした。4月8日の対中日戦ではエドワード・バルデスからプロ初の長打となる2点タイムリー二塁打を放つなど活躍して同年初勝利を挙げた。4月20日には日南・ダイエーでの同僚・井手正太郎が横浜に移籍して再びチームメイトとなった。5月4日の試合中に右肘の違和感を訴えて降板し、5月5日に横浜市内の病院で検査の結果、右肘付近に筋肉の炎症が見られたため同日出場選手登録を抹消された。ここまで先発6試合で3勝2敗、防御率2.92、QS率57.1パーセントだった。約2ヶ月と復帰に期間を要して6月22日に一軍昇格したが、その間に離脱した牛田成樹の代わりにリリーフ起用される事が決まった。しかし同日の対中日戦2点ビハインドからの登板で二死から連続本塁打を浴びて、わずか1試合の登板で6月25日に二軍降格となった。9月3日に再昇格して12試合に登板したが、内6試合で失点するなど結果は残せなかった。中継ぎ13試合14イニングで防御率5.79、WHIP1.86だった。 オフの12月5日、山本省吾・喜田剛との交換トレードで高宮和也と共にオリックス・バファローズへ移籍することが決まった。 2010年、12月16日に入団会見を行い、背番号はダイエー時代の20、登録名も「寺原 隼人」へ戻す事が発表された。 2011年、4月13日に一軍登録され、同日の開幕2戦目である本拠地(京セラドーム大阪)で対ソフトバンク戦で移籍初登板・初先発し、昨年までわずか出場3試合の4年目・伊藤光とのバッテリーで移籍後初完封勝利を挙げた。4月27日の対ロッテ戦では自己ワーストの1試合8失点(自責点8)を喫したが、5月4日の対日本ハム戦で2度目の完封勝利、その後前田大輔と組み2連敗したが、5月23日にはプロ入りして12連敗(先発では11連敗)していた巨人から敵地・東京ドームで9回1失点の完投勝利を挙げた。5月31日の対横浜戦では口唇ヘルペスを発症しながらも6回を無失点に抑えて古巣から移籍後初勝利を挙げた。6月6日にはプロ入り8連敗(先発では7連敗)の対阪神戦で9回1失点完投勝利を挙げた。6月14日の対横浜戦(横浜スタジアム)ではトレード相手の山本省吾と投げ合い、8回無失点で勝利した。7月4日には監督推薦により2度目のオールスターゲーム出場が決まった。7月8日の対西武戦でも勝利し、自己最多の7連勝を記録した。この7戦7勝期間の先発マスクは全て伊藤光だった。しかし伊藤光が打撃不振と脳震盪により7月12日に抹消され、横浜時代の同僚で1月にロッテから移籍した齋藤俊雄とオリックスで初バッテリーを組むことになった。7月15日の対楽天戦では近鉄を含む13球団からの勝利を賭けて臨んだが味方打線が完封を喫して敗戦した。球宴前で登板機会が無いため7月16日に登録を抹消。7月22日のオールスターゲーム第1戦で先発してプロ野球史上74人目両リーグ出場を果たし、3イニング打者10人に対して1安打無失点の投球で敢闘選手賞を受賞した。7月29日に一軍登録されて同日の試合で4年ぶりとなる二桁勝利を記録したが、試合中に右肘に痛みを感じて8月4日に右肘の張りにより出場選手登録を抹消された。8月14日に最短で再昇格し、再び伊藤光とのコンビで5試合全てQS達成で無四球完投勝利を含む2完投を挙げたものの1勝3敗と負け越し、以降は他の捕手と組んだ。9月28日の対ロッテ戦では2回に角中勝也の打球を左太腿に受けながらも9回を2安打1四球と完封し、自己最多タイの12勝目を挙げた。以後2試合は10月10日に中4日の登板も1回2/3で5失点し移籍最短KOされるなど試合を作れず、最後の登板も背筋痛で登板を回避し、チームは1毛差でクライマックスシリーズ出場を逃した。最終的には170回1/3を投げ12勝7完投3完封(いずれもチームトップ)、QS率72.0パーセントで終えた。伊藤光と組んだ16試合は10勝5敗だった。 オフの12月12日の契約更改交渉で2,500万円増の年俸8,500万円で更改した(金額は推定)。 2012年、春季キャンプ2月13日に右肩に張りを訴えて宮古島市内の病院で検査を受け、さらに右太腿裏痛で調整は遅れたが、開幕一軍に間に合い、開幕第3戦の対ソフトバンク戦に先発して7回2失点と好投も援護が無く敗れた。4月5日の飛行機移動の際に腰痛を発症して4月7日に登録を抹消された。5月4日に再昇格したが開幕3連敗を喫し、登板機会が無いため二軍で再調整となった。5月26日に一軍復帰してからは連勝、6月30日の対ロッテ戦では完封勝利を挙げた。球宴時期の7月15日に抹消され7月27日に再昇格して連勝したが、調子を崩して8月23日に2回7失点KOされ、右肘の炎症で翌日8月25日に抹消され、そのままシーズンを終えた。最終的には16試合に登板してQS率は62.5パーセント、6勝止まりだったが最下位のためチーム3位の勝ち数だった。同年も主に伊藤光・齋藤俊雄とバッテリーを組み、前年と同じく他の捕手では1度も勝てなかった。 11月14日に故障者選手特例措置制度によって得たフリーエージェント権(FA権)を行使し、11月24日に7年ぶりのソフトバンク復帰を表明し、かつてのトレーナー山尾伸一との再契約も結んだ。 2012年12月4日に入団会見を行い、背番号は帆足和幸が1シーズンのみ着用していた11に決まった。3年契約で2年目まで年俸8,500万円で固定の年俸総額4億円で契約した(金額は推定)。 2013年、3月15日のオープン戦で背中の張りを訴えて途中降板し、検査で異常は無かったがリハビリ組へ合流し、開幕ローテーションから漏れた。山田大樹、東浜巨の相次ぐ二軍落ちで当初の予定より早めて4月24日に一軍へ昇格し、同日の対日本ハム戦(福岡ヤフオク!ドーム)で古巣復帰後初登板・初先発を果たしたが4回途中でKOされた。捕手は山崎勝己でツーシームを多投して痛打された。同試合で福岡のホークスファンから「横浜へ帰れ」などの野次が飛び、自身の都合で福岡の小学校へ転校させた2年生の息子まで学校で「ダメだったね」と言われて奮起し、5月1日の対西武戦(福岡ヤフオク!ドーム)では細川亨とのバッテリーでツーシームを封印して8回を1失点に抑え、移籍後初勝利を挙げた。5月29日の対巨人戦の6回に左腰を痛めて途中降板し、5月30日に登録を抹消、5月31日に福岡市内の病院で検査の結果、左第11、12肋間筋の軽度肉離れと診断された。7月9日に再昇格し、13球団勝利を賭けて再び対楽天戦(北九州市民球場)に臨み5回まで2安打無四球無失点と好投、6回に捕まり2点リード二死満塁で降板した。しかし金子圭輔の2度のタイムリーエラーによって勝利は潰えた。8月6日の対ロッテ戦(福岡ヤフオク!ドーム)では続投を直訴し、9回を1失点に抑えて移籍後初完投勝利を挙げた。続く8月13日の対西武戦の3回に右膝に力が入らないと異変を訴えて途中降板し、8月14日に腫れが引かず登録を抹消、9月10日に再昇格し、以後は毎度右膝に溜まる水を抜きながら登板する事になった。台風18号の影響で当日空港から球場へ直行となった9月17日の対楽天戦では無失点で迎えた3点リードの5回に捕まりケーシー・マギーに逆転満塁本塁打を浴びて13球団勝利に失敗した。9月25日の古巣・オリックスとの試合に敗れて同年の対戦成績は3戦3敗に終わり、同時にチームの優勝の可能性も完全に消滅した。最終的には4勝7敗と負け越し、防御率も4.65、QS率も37.5パーセントと結果を残せなかった。細川とは11試合組み完投勝利など試合を作る日が多かったが2勝4敗と負け越し、山崎と組んだ5試合では大量失点が多かったが2勝3敗だった。オフの12月7日にプロ1年目に着けていた背番号20へ変更されることが決まった。 2014年、オープン戦は好調ではなかったが東浜巨、大場翔太を押し退けて4月2日の開幕第5戦からローテーション入りし、同日の対日本ハム戦で通算1000投球回を達成した。プロ入り後通算6敗(全て先発)で迎えた4月16日の対楽天戦で7回を1失点に抑えて工藤公康、杉内俊哉に続くNPB史上3人目の13球団からの勝利を達成した。4月30日の対オリックス戦で4回途中KOとなり、5月1日に二軍降格となった。ウエスタン・リーグでも被弾し右膝の違和感が消えず、5月12日に福岡市内の病院で精密検査を受け、5月27日に右膝軟骨損傷による内視鏡下デブリードマン手術を受けた。100パーセント完治する手術ではなく、翌年以降も毎週膝に溜まる水を抜き、ヒアルロン酸の注射が必須となった。同年はわずか5試合にとどまり1勝4敗に終わりながらもQS率は60パーセントだった。敗戦した4試合はいずれも1回、2回に先制点を奪われて本塁打も浴び、味方の援護も2点以下だった。5試合で被本塁打8と、9イニングあたり2.60本(前年までの8年間は1.00未満)と数字からも異変が起きていた。なお全5試合の捕手は同年より移籍加入した鶴岡慎也だった。オフの12月3日の契約更改交渉で減額制限を越える47パーセントダウンの年俸4,500万で更改した。 2015年、二軍で中継ぎからの調整となったが先発でも結果を出し、5月5日に一軍へ昇格して同日の対千葉ロッテ戦で先発して5回1失点と好投、自身の勝ち星は消えたものの工藤公康新監督の誕生日での勝利には貢献した。5月16日には対西武戦の延長11回同点の場面から登板して打者6人を完璧に抑えて引き分けを勝ち取った。同点・リードした場面でのリリーフは2010年9月以来だった。5月24日から先発に戻り、6月7日の対巨人戦では同日まで6勝を挙げていた高木勇人から横浜時代以来の2点タイムリー打を放ち、投げては7回2安打1失点の好投で先発3連勝を果たした。8勝のうち7勝を先発で挙げ、リーグ連覇に貢献した。 2016年、4月24日の対日本ハム戦でリリーフとして今季初登板、5月3日に同じく対日本ハム戦においてリリーフで今季初勝利を飾るも、状態があがらず、リハビリ組やファームでの調整が続き、今季はリリーフ起用のみの僅か14試合の一軍登板に留まる。 2017年、リリーフでの起用が多かったが、4月23日の楽天戦(福岡ヤフオク!ドーム)で初先発をするも4回途中KOで敗戦投手になる。先発3試合目の5月7日のロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)で初勝利するも。炎上する日々が続き、5月21日の西武戦(メットライフドーム)で炭谷銀仁朗に危険球を与えて退場処分となって二軍落ちした。古巣横浜DeNAベイスターズとの日本シリーズではベンチ入りを果たし、10月28日の第1戦、9回表にて自身日本シリーズ初登板を経験した。 シーズンオフの12月8日、福岡ヤフオク!ドーム内の球団事務所で契約更改交渉に臨み、700万円ダウンの年俸4,500万円(金額は推定)でサインした。 2018年、リリーフ専門で21試合に登板し防御率2.39と結果は残したが、11月4日に球団より戦力外通告を受けた。 2018年11月27日、東京ヤクルトスワローズが寺原との来季契約についての基本合意に達したと発表した。年俸は2200万円。背番号35。 2019年は開幕から先発投手として起用された。4月11日の広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で5回2/3を投げ2失点に抑え、ヤクルト移籍後初勝利を挙げた。9月17日に現役を引退することが発表された。 2020年1月より活動を本格的に行う沖縄県に設立された琉球ブルーオーシャンズの投手コーチを務めることが発表された。参考にしたいコーチとして名前を挙げたのが、2007年から4年間、横浜で指導を受けた野村弘樹で「野村さんは選手を見ながら、練習メニューの指示をしてくれていました。例えば、ある選手が苦手なメニューは、それをやらないで済む別の練習法を提示してくれていました。僕は、基本的に遠投があまり好きではなかったのですが、野村さんは練習を見ながら『遠投はそんなにしなくていいけど、そのかわりにこれをやっておきなさいよ』と、いうふうに、的確な指示をしてくれました」と述べている。2021年シーズン中、琉球球団の選手、コーチら合わせて15人が新型コロナウイルスに感染したことが発表され、球団規律に反する行為があったことも判明していたが、寺原自身は陰性であり、規律違反も犯していないことを自身のInstagramで報告した。同年10月12日、契約期間満了により退団することが発表された。 同月21日、2022年よりプロ野球独立リーグ・九州アジアリーグに参戦する新球団・福岡北九州フェニックスの投手コーチへの就任が発表された。背番号は61。その傍らスポーツライブ+の野球解説者としても連動して活動する。 2022年、8月6日にて3年ぶりにコーチ兼任で現役復帰することが発表された。背番号は61。復帰の背景には、チーム内の投手陣が手薄であることや、複数の選手が新型コロナウイルス感染症の陽性判定を受けたことなどで、選手不足に陥っていた状況があった。 8月7日の火の国サラマンダーズ戦(北九州市民球場)で先発登板し、2回を1安打3奪三振無失点に抑えた。この日の最速は139㎞/hであった。 9月20日の大分B-リングス戦(県営筑豊緑地野球場)では先発で5回を94球で投げ切り、被安打8、2失点に抑えて現役復帰後初勝利を挙げた。この日は最速142km/hを計測した。これにより、NPB13チームと合わせて計14球団からの勝利投手となった。 シーズン終了後の10月29日、コーチの退任と選手の引退が発表された。 北九州退団発表前の10月28日に、スポーツ紙がソフトバンク三軍投手コーチに就任の見込と報じ、11月1日にソフトバンクによる記者会見で正式にコーチ就任が発表された。2024年からは二軍ファーム投手コーチを担当する。 高めのスリークォーターから平均球速146km/h、プロでの最速157km/hのストレートが持ち味である。KALでの現役復帰後も最速142km/hを計測する。一方でプロ入り当初は目立った変化球が無く直球に頼った力投型だったが、横浜移籍前年・2006年から制球を重視するようになり、横浜移籍以降からは直球に変化球を織り交ぜて緩急も使ったゴロで打ち取るスタイルへと変わっていった。 球種はプロ1年目の時点でスライダー、高速カーブ(120km/h後半)、チェンジアップがあり、チェンジアップは2001年のワールドカップで藤井秀悟から教わった。2003年からスローカーブ(100km/h台)とカットボール、フォークボールを使用し始めた。2004年は横滑りと大きく曲がる2種類のスライダーを使った。フォークは高校の練習で試していたが中指が短いという理由で諦めていた。さらに2006年にシュート、2008年オフに特殊な握りの高速フォークを習得した。2011年は140km/h台の高速縦スライダー、2012年秋からツーシームを投げ始めた。2013年秋には加藤伸一コーチからパームボールを習い、それを参考に2014年の2月にはフォークに近いチェンジアップ(中村晃談)も身につけた。 制球は甘く、12年目の2013年7月時点でも高山郁夫コーチからインコースを突く制球力が課題と指摘された。 軟らかいマウンドが好みであり、同僚の大場翔太も寺原が軟らかいマウンドが得意だと述べている。オリックス時代は硬さを調整していた。 1年目は下半身の筋力不足から肩の開きも早かった。自身のフォームを忘れやすく、2004年1月の和田毅との自主トレでは和田風のフォームへと変更してしまい、春季キャンプで修正する事になった。同年の秋季キャンプでも肩の開きは改善されず、2005年の春季キャンプで尾花コーチから高校時代のフォームを見せられマンツーマンで修正に取り組み一旦は成果を上げたが、二軍から戻ると重心の高いフォームとなりリリースポイントもバラバラになっていた。2006年はキャッチボールの基本動作から矯正してスムーズな体重移動へと変わり、2007年春はフォームに悩むことがなくなった。2010年春にさらに安定したフォームを手に入れたが、オープン戦で1試合6盗塁と問題が発覚、4月に左肩が動く癖を修正したが、同月末にも1試合6盗塁を許す。2011年には投球テンポを速める事で安定化を図った。また同年は投球姿勢に悩んでいたが、2012年からノーワインドアップに一本化する事を決めた。2014年春に左足のインステップ矯正を行った。2013年に膝を痛めて力が入らない事が増え、2014年の膝手術以降、2015年から右膝の負担を減らすために体重を落とし、膝に負担のかからないフォームを模索した。工藤公康監督からは左肩が開くことでシュート回転する癖を矯正する指導を受けた。 クイックモーションでの左足を上げてから本塁までの投球到達時間は2010年時点で1秒14とプロの中では速い。 またプロ1年目から牽制、一塁へのベースカバー、バント処理などのフィールディングが課題で、9年目・2010年時点でも改善はされずミスから冷静さを欠き失点していた。 趣味は釣りで城島健司、馬原孝浩らと2005年1月からの佐世保市での自主トレ期間中に行っていた。 2013年1月11日の唐津市での馬原との合同自主トレ中に自身のFAによる人的補償が馬原であると直接本人から電話で知らされショックを受けたが、馬原の意向により自主トレは予定通り行った。 高校3年時のワールドカップ出場の際に中村隼人(当時・日本ハム)に髭を伸ばすように勧められて興味を持ったが、新人合同自主トレ中の商品撮影でも伸ばしていたため自身の担当スカウトから寮長となっていた河埜敬幸に身なりを整えるよう注意を受けた。2004年8月頃には再び生やしており、2013年は小さい頃から好きなプロレスラー・武藤敬司をイメージしてセットしていた。 中学校時代は大人しい性格を克服するために生徒会長に立候補し、文化祭ではバンドを組みドラムを担当した。 プロ1年目の高知キャンプでは302個(チーム1位)のバレンタインチョコが届いた。また同年の福岡ドーム初勝利の際に「高卒ルーキーの初勝利はハイタッチするからマウンドに走れ」と大越基に騙されて飛び出し、チームの爆笑を誘った。 2002年3月にウィズン(We'SN)から「寺原弁当」・「寺原どん」の2種類の弁当が発売された。 水島新司の漫画「ドカベン プロ野球編」では、実在選手としては唯一、裏表紙に描かれたことがある(同作44巻)。 小学校4、5年生の時の野球教室で原辰徳、桑田真澄、斎藤雅樹、槙原寛己から指導を受け、日南学園の小川監督が東海大で原の先輩だったこともありドラフト前の面談で原は2度宮崎を訪れた。 先述の通り、NPB史上3人目となる13球団勝利を記録しているが、かつての先輩である福岡ソフトバンク・和田毅が他球団に移籍して対福岡ソフトバンク戦で白星を挙げない限りは、寺原がNPB最後の同記録達成者となる。 ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更 オールスターゲーム敢闘選手賞:1回(2011年第1戦) 宮崎日日新聞スポーツ賞 特別賞(2020年) 初登板・初先発:2002年4月16日、対日本ハムファイターズ4回戦(東京ドーム)、5回0/3を8安打4失点 初奪三振:同上、3回裏に野口寿浩から 初勝利・初先発勝利:2002年4月28日、対オリックス・ブルーウェーブ5回戦(福岡ドーム)、6回3安打無失点 初セーブ:2002年10月6日、対千葉ロッテマリーンズ28回戦(福岡ドーム)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回1失点 初完投勝利:2003年4月18日、対大阪近鉄バファローズ4回戦(福岡ドーム)、9回4安打2失点 初完封勝利:2006年7月16日、対北海道日本ハムファイターズ10回戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム) 初ホールド:2008年9月23日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場)、10回裏に4番手で救援登板、2回無失点 初安打・初打点:2007年5月10日、対東京ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、5回表に藤井秀悟から左前適時打 1000投球回:2014年4月2日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、4回表1死目に大引啓次の盗塁死で達成 ※史上336人目 13球団勝利:2014年4月16日、対東北楽天ゴールデンイーグルス5回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、7回1失点 ※史上3人目、最後の達成者 オールスターゲーム出場:2回(2008年、2011年) 20(2002年 - 2006年、2011年 - 2012年、2014年 - 2018年) 24(2007年 - 2010年) 11(2013年) 35(2019年) 74(2020年 - 2021年) 61(2022年) 76(2023年 - ) 寺原 隼人(てらはら はやと、2002年 - 2009年、2011年 - ) 寺原 早人(てらはら はやと、2010年) 「THE NEVER LAND〜光射す方へ〜」NEVER LAND 「PRIDE」山嵐(2013年) 「カリフォルニー」ケツメイシ(2014年) 「INTRO(RISE)」TAEYANG(2015年 - 2016年) 「GLORY」Hi-STANDARD(2017年 - )
宮崎市観光協会 (2002年6月、大阪地区、福岡、熊本、宮崎、鹿児島限定) ^ 1.ポジションはもちろん投手 兄の影響で小3から野球チーム 以来、道は“一筋” 2011年11月22日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人 ^ 夢の160キロへ 寺原ストーリー(1) 泣き声も“剛速球”な赤ん坊 日刊スポーツ九州 ^ 夢の160キロへ 寺原ストーリー(2) 体格も技術も図抜けた小学生 日刊スポーツ九州 ^ 夢の160キロへ 寺原ストーリー(3) 中学では生徒会長に 日刊スポーツ九州 ^ 3.県大会V 仲間とのきずな深めた自主トレ 2011年11月24日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人 ^ 日南学園寺原・松坂超えだ 「進化」続ける155キロ右腕 2001年7月2日 日刊スポーツ九州 ^ 4.宣言 甲子園目指し日南学園へ 2011年11月25日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人 ^ 夢の160キロへ 寺原ストーリー(4) 大きかった小川監督との出会い 日刊スポーツ九州 ^ 日刊スポーツ・野球・第82回全国高校野球・地区予選・宮崎結果 ^ 夢の160キロへ 寺原ストーリー(5) チーム内ライバルが成長の糧 日刊スポーツ九州 ^ 日南学園寺原、ノーヒットノーラン/地区大会 日米13球団のスカウトの前で150キロ披露 2001年7月19日 日刊スポーツ九州 ^ 夢の160キロへ 寺原ストーリー(6) 高校最速155キロを記録 日刊スポーツ九州 ^ 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球・地方大会・情報 ^ 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球・地方大会 ^ 寺原、投球練習2球でストップ 右手中指に違和感 2001年8月7日 日刊スポーツ九州 ^ 日南学園・寺原8回10K 出た!155キロ 2001年8月12日 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球 ^ 日南学園・寺原が157.68キロ 2001年8月17日 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球 ^ 日南学園・寺原、準々決勝は待ち望んだ相手 2001年8月19日 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球 ^ [1] 2001年8月20日 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球 ^ 寺原、右足肉離れ 高校日本代表入り微妙に 2001年8月21日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原の意中球団発言に高野連注意 日南学園、小川監督に注意 2001年8月22日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原きょう帰国、次はドラフト 2001年11月18日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原世界デビューは2回4K 最速149キロ直球見せた 2001年11月8日 日刊スポーツ九州 ^ 原因不明の下痢で投げられない~ 2001年11月14日 日刊スポーツ九州 ^ 9.世界挑戦 すべてが勉強、経験は財産 2001年11月30日 西日本スポーツ 新怪物伝説 寺原隼人 ^ 寺原147キロ!下痢も封じた! 2001年11月15日 日刊スポーツ九州 ^ ダイエー寺原、今日にも誕生 「光栄です。長くかからない」 2001年11月20日 日刊スポーツ九州 ^ 「寺原は即戦力」 ダイエー交渉権獲得 2001年11月20日 西日本スポーツ ^ 寺原2月の練習試合でデビュー 2002年1月7日 日刊スポーツ九州 ^ ドラフト会議 福岡ダイエー 九州の剛腕獲った 寺原「光栄です」 2001年11月21日 西日本スポーツ ^ 寺原、着た!ダイエー姿だ ドラフト一夜グッズ拒否一転 2001年11月21日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原入団表明!全タイトル奪取だ 2001年11月27日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原、年俸でも松坂越えだ! 2001年12月5日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原、ストレッチで右肩矯正 福岡市内の病院でメディカルチェック 2001年12月6日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原 ランニングも 球団史上初“SP”伴走 2002年2月2日 西日本スポーツ ^ キャンプ王国・高知が背水改革へ 2005年2月14日スポニチ Sponichi Annex ^ 147キロ無失点デビュー 寺原が3・2へ試運転上々 2002年2月25日 日刊スポーツ九州 ^ もう風邪はひきません 2002年2月20日 日刊スポーツ九州 寺原日記 ^ そろそろ出るかも150キロ 2002年2月24日 日刊スポーツ九州 寺原日記 ^ 寺原効果でチケット完売 2002年1月26日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原2軍危機 オープン戦初先発で3回5安打1失点 2002年3月4日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原力負け、1軍残留ピンチ 2002年3月22日 日刊スポーツ九州 ^ 左肩の開きが早いから球が伸びない 稲尾氏が寺原フォームチェック 2002年2月25日 日刊スポーツ ^ 寺原、じっくりファームで 荒木大輔の目 2002年3月22日 日刊スポーツ ^ 寺原、飲酒・キャバクラ豪遊デビュー! 2002年4月12日ZAKZAK ^ 軽率だったと反省しています 2002年4月11日 日刊スポーツ九州 寺原日記 ^ - the baseball - 4月16日(火) 日ハム vs ダイエー(試合詳細) ^ 寺原148キロ!最速被弾 KO後に待っていた逆転劇 2002年4月17日 日刊スポーツ九州 ^ - the baseball - 4月28日(日) ダイエー vs オリックス(試合詳細) ^ 寺原プロ初勝利、6回7K無失点 2002年4月29日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原が救援で149キロマーク 2002年5月13日 日刊スポーツ九州 ^ - the baseball - 5月15日(水) ダイエー vs オリックス(試合詳細) ^ 寺原、松坂に投げ勝った! 2002年5月30日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原が右肩違和感で降板 2003年6月16日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原がチーム危機救った 復活登板で4勝目、また連敗止めた 2002年7月31日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原、カブ斬り!復活5勝目だ 2002年9月30日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原が球団新の6勝 2002年10月3日 日刊スポーツ九州 ^ - the baseball - 10月6日(日) ダイエー vs ロッテ(試合詳細) ^ 寺原がプロ初セーブ 2002年10月7日 日刊スポーツ九州 ^ パ・リーグ東西対抗 パシフィック野球連盟公式サイト ^ MVPは小久保 2002年11月11日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原猛牛止めた連敗止めた 2003年4月3日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原続いた!若タカ4連続完投 2003年4月19日スポニチ Sponichi Annex ^ 日刊スポーツ九州 / FDH試合速報 ダイエーvs近鉄 2003年4月18日 ^ 寺原、右肩関節炎で前半戦絶望 2003年6月17日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原が福岡ドームで初めて負けた 2003年7月24日 日刊スポーツ九州 ^ 日刊スポーツ九州 / FDH試合速報 オリックスvsダイエー 2003年8月1日 ^ 寺原がリリーフで1失点 2003年8月2日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原自己最多7勝目! 粘投実り後半戦初○ 2003年8月23日 日刊スポーツ九州 ^ ダイエーまさかの大敗、マジック消滅 2003年8月30日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原5連打KOで2軍落ち 2003年9月8日 日刊スポーツ九州 ^ 日刊スポーツ九州 / FDH試合速報 ダイエーvs西武 2003年9月7日 ^ 寺原、まさかの2回途中KO 2003年9月29日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原好投!3回を1安打1失点 2003年11月2日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原5回6失点KO 2003年11月15日 日刊スポーツ九州 ^ 鷹・新垣が新人タイの5試合連続2ケタ奪三振に自信 2003年8月1日SANSPO.COM ^ SWATグッズ発売 2003年8月12日 日刊スポーツ九州 ^ 突然ですが、結婚します! 2003年12月2日 日刊スポーツ九州 寺原日記 ^ 寺原結婚!奥さまは18歳、20歳の決断 2003年12月2日 日刊スポーツ ^ 寺原が苦しみ抜いて開幕ローテ 2004年3月21日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原が屈辱2軍落ち 2004年4月1日 日刊スポーツ九州 ^ 2004 ウエスタン・リーグ 個人投手成績(規定投球回以上)NPB.jp 日本野球機構 ^ 2004 ウエスタン・リーグ リーダーズ(投手部門) 奪三振NPB.jp 日本野球機構 ^ 寺原83球スタート 2004年10月27日 日刊スポーツ ^ 寺原はゼロからの再出発 2005年2月11日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原炎上、2軍落ちも 2005年3月22日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原4失点KO、虎に連敗・・・ 2005年5月23日 日刊スポーツ九州 ^ 稲尾和久氏「寺原は課題が克服されていない」 2005年5月23日 日刊スポーツ九州 ^ 馬原が4人完全救援 2005年6月4日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原は今季絶望 2005年7月18日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原、全治3カ月 病院で縫合手術を受ける 2005年7月22日毎日新聞 ^ ソフトB寺原、転機に涙はつきもの 2006年4月14日 日刊スポーツ九州 ^ ソフトB寺原復活、965日ぶり白星 2006年4月14日 日刊スポーツ九州 ^ ソフトB寺原3戦連続黒星…2軍落ちも 2006年5月28日 日刊スポーツ九州 ^ ソフトB寺原は勝ち投手になれず 2006年6月29日 日刊スポーツ九州 ^ ソフトB寺原が王監督へささげる初完封 2006年7月17日 日刊スポーツ九州 ^ プロ野球スコア速報 ソフトバンク−日本ハム nikkansports.com 日刊スポーツ 2006年7月16日 ^ プロ野球スコア速報 ロッテ−ソフトバンク nikkansports.com 日刊スポーツ 2006年8月5日 ^ ラッキーボーイだ!柳瀬連投で2勝 2006年10月10日スポニチ Sponichi Annex ^ プロ野球スコア速報 西武−ソフトバンク nikkansports.com 日刊スポーツ 2006年10月9日 ^ ソフトBが寺原と交換で横浜多村を獲得 2006年12月5日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原ソフトBに「恩返ししたい」 2006年12月6日 日刊スポーツ九州 ^ 横浜移籍の寺原が2けた勝利に意気込み 2006年12月7日 日刊スポーツ九州 ^ 寺原隼人選手が入団記者会見 2006年12月7日 横浜ベイスターズ オフィシャル・ウェブサイト ^ 横浜・寺原は背番号24 2006年12月15日スポーツ報知 ^ 【横浜】寺原が移籍初登板初先発で勝利 2007年4月3日 日刊スポーツ ^ エキサイトベースボール | 4月3日(火) 広島 vs 横浜(試合詳細) ^ 横浜・寺原、新天地で1勝!8回1失点「丁寧に投げました」 2007年4月4日SANSPO.COM ^ エキサイトベースボール | 4月10日(火) 横浜 vs ヤクルト(試合詳細) ^ 寺原がウッズを4三振、横浜連敗脱出 2007年4月29日 日刊スポーツ ^ エキサイトベースボール | 5月4日(金) 中日 vs 横浜(試合詳細) ^ 早くもハマの大黒柱に!寺原が完投4勝目&プロ初安打 2007年5月11日SANSPO.COM ^ エキサイトベースボール | 5月10日(木) ヤクルト vs 横浜(試合詳細) ^ 寺原 力投で古巣に恩返し 2007年6月6日スポニチ ^ 横浜・寺原、8回2失点の好投…プロ6年目で初の2ケタ勝利 2007年9月16日SANSPO.COM ^ 横浜4連勝、寺原が移籍後初完封 2007年9月29日 日刊スポーツ ^ エキサイトベースボール | 9月28日(金) 横浜 vs ヤクルト(試合詳細) ^ 寺原初の2戦連続完封で横浜トップ12勝 2007年10月6日 日刊スポーツ ^ 横浜・寺原“魔の七回”突然の乱調5失点…巨人戦白星なし 2007年9月22日SANSPO.COM ^ 横浜“リタイア1号”は寺原…右足ねんざで緊急帰京の可能性 2007年11月3日SANSPO.COM ^ エキサイトベースボール | 3月28日(金) 阪神 vs 横浜(試合詳細) ^ 寺原 8回1失点で開幕KOの雪辱 2008年4月5日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原7回悔し…横浜4連敗 2008年4月24日スポニチ Sponichi Annex ^ 抑え固定できず…ヒューズが救援失敗 2008年4月6日スポニチ Sponichi Annex ^ ルーキー小林好投に最後は寺原締めた スポニチ Sponichi Annex 2008年4月28日 ^ 寺原 今季はストッパーに固定 2008年5月11日スポニチ Sponichi Annex ^ 横浜 同期のドラ1そろって1軍登録 2008年06月17日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原打たれた 横浜再び100敗ペース 2008年7月7日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原離脱中は吉原が“暫定守護神” 2008年7月8日スポニチ Sponichi Annex ^ マツダオールスターゲーム2008 出場者NPB.jp 日本野球機構 ^ 2008年度マツダオールスターゲーム 試合結果(第2戦)NPB.jp 日本野球機構 ^ エキサイトベースボール | 9月23日(火) 阪神 vs 横浜(試合詳細) ^ 「最悪」は目前…横浜泥沼の13連敗 2008年10月2日スポニチ Sponichi Annex ^ 横浜 五十嵐&小野ダブル獲りも 2008年10月14日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原スクランブル手当ゲットの2000万円増 2008年12月11日 日刊スポーツ ^ 【横浜】寺原の実戦復帰は3月 2009年2月23日 日刊スポーツ ^ 背中に違和感…横浜・寺原が登録抹消 2009年5月3日スポニチ Sponichi Annex ^ 佐伯本盗に寺原完投!横浜2年ぶり4連勝 2009年7月15日スポニチ Sponichi Annex ^ 横浜 8年連続のシーズン負け越し決まる 2009年9月2日スポニチ Sponichi Annex ^ 筒香両打ちから左打ち、寺原は“早人”に 2010年3月9日 日刊スポーツ ^ 寺原「気分転換」登録名変更 2010年 3月10日スポニチ Sponichi Annex ^ 改名 寺原「早人」で1勝 2010年4月9日スポニチ Sponichi Annex ^ 横浜へ移籍「自分から望んでいた部分もあった」 2010年4月20日スポニチ Sponichi Annex ^ 横浜 寺原が登録抹消 2010年5月5日スポニチ Sponichi Annex ^ 右ひじ痛から寺原がリリーフで復帰 2010年6月22日 日刊スポーツ ^ 横浜 両リーグ最速40敗…尾花監督「再逆転が…」 2010年6月22日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原、山本ら2対2の交換トレード発表 2010年12月6日スポニチ Sponichi Annex ^ 移籍の寺原「横浜での4年間が野球をやってて一番楽しかった」 2010年12月15日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原投手、高宮投手入団発表記者会見! 2010年12月16日配信 オリックス・バファローズ オフィシャルサイト ^ オリ寺原移籍初戦で12球団初完封 2011年4月14日 日刊スポーツ ^ 寺原古巣斬り完封!岡田監督のゲキに“グァー” 2011年4月14日スポニチ Sponichi Annex ^ 坂口が先制打!李スンヨプが特大アーチ!寺原が完封!投打がガッチリ噛み合い勝利!! 2011年4月13日ゲームレポート オリックス・バファローズ オフィシャルサイト ^ 散々だった寺原「靴ひもが切れて戻ったら交代だった」 2011年4月28日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原「京セラ男」18イニング無失点2勝目 2011年5月5日 日刊スポーツ ^ 寺原12度目挑戦で…巨人戦先発初勝利 2011年5月24日 日刊スポーツ ^ オリ寺原古巣から初勝利13球団制覇見えた 2011年6月1日 日刊スポーツ ^ 【オリックス】寺原が今季4度目完投勝利 2011年6月6日 日刊スポーツ ^ 寺原8回零封6勝!古巣ファンも「おめでとう!」 2011年6月15日スポニチ Sponichi Annex ^ 監督推薦オリ4選手が意欲/球宴 2011年7月4日 日刊スポーツ ^ オリックス 6回に逆転!寺原9勝目 2011年7月8日スポニチ Sponichi Annex ^ 【オリックス】寺原13球団目の勝利お預け 2011年7月15日 日刊スポーツ ^ マツダオールスターゲーム2011 表彰選手(第1戦)NPB.jp 日本野球機構 ^ 寺原150キロ連発!3回1安打無失点で敢闘選手賞 2011年7月22日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原 3年ぶり夢舞台で3回無失点「最高の気分」 2011年7月23日スポニチ ^ 【オリックス】4年ぶりです寺原10勝 2011年7月29日 日刊スポーツ ^ 【オリックス】寺原抹消「悔しいですね」 2011年8月4日 日刊スポーツ ^ 寺原今季初の無四球完投でオリ6連勝 2011年9月4日 日刊スポーツ ^ 寺原完封 自己最多タイの12勝目「監督の言う通りでした」 2011年9月29日スポニチ Sponichi Annex ^ オリ止まらん5連勝!岡田政権最多貯金7 2011年9月29日 日刊スポーツ ^ 成績詳細 | オリックス・バファローズ オフィシャルサイト 2011年9月28日 ^ 岡田監督「ネタ切れや」 ついに西武と1ゲーム差… 2011年10月11日スポニチ Sponichi Annex ^ オリ木佐貫2勝目、開幕以来の勝利 2011年10月16日 日刊スポーツ ^ CS逃した岡田監督、T―岡田に怒りの矛先「お仕置きの4番やから」 2011年10月18日スポニチ Sponichi Annex ^ 12勝の寺原2500万円増「一番いいシーズンだった」 2011年12月13日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原、右肩に張り…今後はノースロー調整へ 2012年2月14日スポニチ Sponichi Annex ^ 【オリックス】寺原振りかぶるのやめます 2012年3月2日 日刊スポーツ ^ 先発寺原が力投もHに連敗喫す。 2012年4月1日ゲームレポート | オリックス・バファローズ オフィシャルサイト ^ 【オリックス】寺原、腰痛で登録外れる 2012年4月7日 日刊スポーツ ^ 寺原 登録抹消「これ、というフォームをつかみたい」 2012年5月14日スポニチ Sponichi Annex ^ マエケンに続き沢村にも…寺原、好投手に連勝 2012年6月2日スポニチ Sponichi Annex ^ 無敗の赤オリ4連勝!寺原が今季初完封 2012年7月1日デイリースポーツ ^ 【オリックス】寺原チームトップ6勝目 2012年8月3日 日刊スポーツ ^ 寺原背信7失点「情けないし、申し訳ないとしか」 2012年8月24日スポニチ Sponichi Annex ^ 【オリックス】先発いない!寺原も抹消 2012年8月25日 日刊スポーツ ^ 寺原「高いレベル求め」ソフトバンク決断 2012年11月24日 日刊スポーツ ^ 寺原投手が入団会見。「良い成績を残すのが宿命と思う」 2012年12月4日配信 選手ニュース 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト ^ ソフトB寺原、狙え!開幕投手 2012年12月5日 日刊スポーツ ^ 【ソフトB】寺原3年で年俸4億背番11 2012年12月4日 日刊スポーツ ^ 【ソフトB】寺原は現状維持8500万 2013年12月10日 日刊スポーツ ^ 寺原緊急降板 背中に張りローテ黄信号 2013年3月16日 日刊スポーツ ^ ソフトB寺原 背中の張りで開幕ローテ外 2013年3月23日 日刊スポーツ ^ ソフトB寺原シュートでハムえぐる! 2013年4月23日 日刊スポーツ ^ ソフトB寺原4回途中KO「申し訳ない」 2013年4月25日 日刊スポーツ ^ 寺原 涙のソフト復帰1勝「息子のために頑張った」 2013年5月2日スポニチ Sponichi Annex ^ 寺原「ただいま」2481日ぶり男泣き1勝 2013年5月2日 日刊スポーツ ^ ソフトバンク 寺原途中降板も救援陣奮投 巨人に連勝 2013年5月30日スポニチ Sponichi Annex ^ ソフトバンク 寺原 左脇腹肉離れ 球宴前復帰は微妙 2013年6月1日スポニチ Sponichi Annex ^ ソフトB最下位転落 鬼門北九州で逆転● 2013年7月25日 日刊スポーツ ^ 一球速報 | 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト 2013年7月24日 ^ ソフトB寺原初完投星 続投直訴133球 2013年8月7日 日刊スポーツ ^ 寺原 完投勝利 摂津以外で初 来たぞ!!ホークス2位西武、ロッテと0差 2013年8月7日 西日本スポーツ ^ 寺原が右膝の古傷再発「力入りにくい」 2013年8月14日 日刊スポーツ ^ ソフトB寺原抹消 右膝痛一夜明け腫れ 2013年8月15日 日刊スポーツ ^ 寺原、右肘手術で今季絶望も 2014年5月17日 西日本スポーツ ^ ソフトB・寺原 あと一人で13球団勝利逃す「失投です」 2013年9月18日スポニチ Sponichi Annex ^ ソフトV消滅 2位とも4位とも2差 2013年9月25日 日刊スポーツ ^ 背番号について 2013年12月7日配信プレスリリース 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト ^ 寺原 対ハム一発病 1000投球回飾れず 後悔…中田と陽に不用意な一球 2014年4月3日 西日本スポーツ ^ 寺原 13球団制覇 工藤、杉内に続く史上3人目 2014年4月17日 西日本スポーツ ^ ソフトB寺原被弾王 また2発4回持たず 2014年5月1日 日刊スポーツ ^ 寺原 右膝に再び違和感、手術も検討 2014年5月17日スポニチ Sponichi Annex ^ ソフトB寺原が退院、4日からリハビリへ 2014年6月3日 日刊スポーツ ^ ソフトB寺原1年ぶり1軍 4日今季初先発へ 2015年5月1日 日刊スポーツ ^ ソフトB寺原403日ぶり1勝 右膝手術から1年 2015年5月25日 西日本スポーツ ^ 寺原「危機感」、47%ダウン 2014年12月4日 西日本スポーツ ^ 寺原も参戦、2軍戦で好投 今季初先発 2015年4月24日 西日本スポーツ ^ ソフトB寺原が1年ぶりに帰ってきた 5回1失点 2015年5月6日 日刊スポーツ ^ ソフトB価値あるドロー“先発要員”寺原好救援、計5投手で毎回17K 2015年5月16日スポニチ Sponichi Annex ^ ソフトB寺原 5年ぶりタイムリーで巨人戦5連勝 2015年6月8日 日刊スポーツ ^ 寺原隼人氏を3軍コーチ招聘 今季独立リーグで現役復帰 2022年10月28日 西日本スポーツ ^ ソフトバンク寺原9回2死満塁しのぎ今季初勝利 日刊スポーツ 2016年5月4日掲載。 ^ ソフトバンク寺原「何も問題ない」実戦復帰へ81球 日刊スポーツ 2016年7月9日掲載。 ^ “2017/04/23(日)第6回戦 福岡ソフトバンク vs 楽天イーグルス”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2017年4月23日). 2017年12月25日閲覧。 ^ “2017/05/07(日)第9回戦 千葉ロッテ vs 福岡ソフトバンク”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2017年5月7日). 2017年12月25日閲覧。 ^ “寺原危険球退場 2回2/3 4失点”. 西日本スポーツ (2017年5月22日). 2017年12月25日閲覧。 ^ “2017/10/28(土)第1戦 福岡ソフトバンク vs 横浜DeNA”. 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト (2017年10月28日). 2017年12月25日閲覧。 ^ “ソフトバンク寺原雪辱誓う 15%減の4500万”. 日刊スポーツ (2017年12月8日). 2017年12月25日閲覧。 ^ “ヤクルト寺原粘って新天地初勝利 中村リードに感謝”. 日刊スポーツ (2019年4月11日). 2019年4月14日閲覧。 ^ “沖縄新球団「琉球」、NPB4球団経験の寺原隼人氏が投手コーチ 「経験を伝えたい」”. full-count (2019年12月28日). 2019年12月28日閲覧。 ^ “琉球の寺原隼人コーチ 新型コロナ陰性報告 チームで15人陽性「僕個人はキャバクラにも行ってません」”. 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日本の野球選手 日南学園高等学校出身の野球選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 琉球ブルーオーシャンズ 北九州下関フェニックス及びその前身球団の選手 野球解説者 宮崎県出身のスポーツ選手 1983年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/12/02 07:55更新
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terahara hayato
寺原隼人と同じ誕生日10月9日生まれ、同じ宮崎出身の人
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