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新庄剛志の情報 (しんじょうつよし)
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【6月23日】今日誕生日の芸能人・有名人

新庄剛志の情報(しんじょうつよし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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新庄 剛志さんについて調べます

■名前・氏名
新庄 剛志
(読み:しんじょう つよし)
■職業
野球選手
■新庄剛志の誕生日・生年月日
1972年1月28日 (年齢52歳)
子年(ねずみ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
福岡出身

(昭和47年)1972年生まれの人の年齢早見表

新庄剛志と同じ1972年生まれの有名人・芸能人

新庄剛志と同じ1月28日生まれの有名人・芸能人

新庄剛志と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


新庄剛志と関係のある人

山本賢太: 小学2年の頃に、野球中継でヒーローインタビューを受けていた新庄剛志(元北海道日本ハムファイターズ)に憧れ、地域の少年野球チームに入った。


石井晶: 和田豊は1年目から指導を仰ぎ、1992年に一軍でブレイクした亀山努と新庄剛志も師匠として慕っていた。


浜崎満重: 新庄剛志には投手や遊撃手もやらせたが、3年時には中堅の守備は一流の域に達しており、プロでも通用するとプロ入りを勧めたのは後にも先にも高校監督時は新庄だけである。


立岡宗一郎: 走(50m走:5秒9)、攻(高校通算28本塁打)、守(遠投110m・速球の最速147km/h)三拍子揃った逸材として「秋山幸二2世」「新庄剛志2世」と注目を集め、2008年ドラフト会議において、福岡ソフトバンクホークスから2巡目で指名され入団。


真弓明信: 1992年以降は、新庄剛志・亀山努・久慈照嘉らの台頭で代打中心の出場となった。


森本稀哲: 日本ハムでは広瀬哲朗から始まり今や伝統的となった選手によるパフォーマンスは、その後は岩本勉に受け継がれ、その後2004年に日本ハムに移籍した新庄剛志が「新庄劇場」としてさらにそれを発展させて継承し、新庄の引退後は森本がそれを受け継いだ。


宮西尚生: 5月は10試合の登板で防御率3.12と持ち直したものの、6月1日に出場選手登録を抹消され、新庄剛志監督からは「スライダーの曲がりがちょっと早い。


八木裕: その後は若手の亀山努・新庄剛志などが台頭し、自身の故障もあり次第と出番が減っていった。


高塚光: 2001年(平成13年)、当時のプロ野球選手であった新庄剛志の渡米の応援のため、彼の愛車のインターネットオークションを大々的に開催するなど手腕を発揮した。


ルイ=ヴィトン: 野球用バッグ「サック・ベースボール」が少量発売され、同商品が翌春、ルイ・ヴィトン・ジャパンより北海道日本ハムファイターズに当時所属のSHINJO(新庄剛志)選手へ提供された。


佐々木恭介: 阪神時代は新庄剛志や亀山努をブレイクさせ、6年ぶりのAクラス入りに貢献した。


石井一成: 2022年は新たに監督に就任した新庄剛志の下、オープン戦から様々なポジションで積極的に起用される。


山口富士夫: 1999年、阪神vs巨人戦の延長12回、新庄剛志選手が槇原投手の敬遠球を打ち、サヨナラ勝利した試合を実況した。


清宮幸太郎: 2022年、前年11月に監督に就任したBIGBOSSこと新庄剛志から「デブじゃね?」と指摘されたことで減量に取り組む。


石貫宏臣: 当時のチームメイトには、同期に後にロッテでも同僚となる柴原浩、1年上に青柳進、後藤将和(ダイエー)、2年下に新庄剛志と、自身と同じく卒業後にNPBの球団へ入る選手が揃っていた。


広瀬哲朗: 日本ハムではファンサービスを目的とした選手主導パフォーマンスは今や球団の伝統ともなっており、広瀬の引退後は岩本勉、新庄剛志、森本稀哲、杉谷拳士と受け継がれているため広瀬を先駆とみる向きもある。


中村和希: 2021年の合同トライアウトを視察した新庄剛志からは「ミート力はものすごくあって面白いとは思います」と評される一方、「ちょっと気になったのは左バッターで打った後、ファーストまで4秒3くらいかかっていたので、その点は惜しいかなと思った」と、足の遅さを指摘されている。


桧山進次郎: しかし打率は.227で三振もリーグ2位の150を記録し、確実性の面で課題を残した(同年セ・リーグ三振数1位が清原和博152三振、3位が新庄剛志120三振)。


田中俊幸: 1995年 阪神・新庄剛志の本塁打性の飛球が応援団の旗に当たりグラウンドへ落下して二塁打と判定され、阪神ファンが物を投げ込んだ試合(横浜-阪神戦)で球審。


木元邦之: 2004年は、4月は5番、5・6月は6番、7・8月は8番、9月は坪井智哉や新庄剛志に代わって2番と打順が一定しない中で、前半戦は不振も後半戦持ち直して打率.285、9本塁打を打ち、初めて規定打席に到達した。パ・リーグ・プレーオフ第1ステージ(西武ライオンズ戦)・第3戦(10月3日)で西武の先発投手が左腕の帆足和幸だったためスターティングメンバーから外され、そのことに納得が行かずロッカーで暴れていた木元を新庄剛志が「良い場面で絶対にお前に回してやる。


アレックス=オチョア: ちなみに、日本シリーズで対戦した日本ハムの新庄剛志は、アレックスがエンゼルス時代に2002年のワールドシリーズで対戦したジャイアンツの選手としても出場しており、この両人はMLB/NPB両方のシリーズで選手として対戦した初めての例となった。


中村勝広: レギュラーに抜擢した亀山努・新庄剛志・山田勝彦・久慈照嘉などの活躍を追い風に、ヤクルトスワローズとの間で、シーズン終盤まで熾烈な優勝争いを繰り広げた。


槙原寛己: 1999年6月12日の対阪神戦(甲子園)では、12回裏同点一死一・三塁の場面で打者の新庄剛志を敬遠しようとしたが、新庄に敬遠球を打たれサヨナラ負けした。


伏見寅威: 山﨑の入団会見で新庄剛志監督は、ホーム開幕戦である4月2日の楽天戦で山﨑とバッテリーを組ませることを明言した。


宇佐見真吾: 2022年は、沖縄・名護市で行われたキャンプで、新庄剛志新監督から直接指導を受けた。メジャーを経験した新庄剛志の元チームメイトで、当時のプレースタイルなどをもとに、身ぶり手ぶりを交えたアドバイスを受けた。その後も新庄剛志監督直伝の「ボンズ打法」で打てる捕手として目立ち、7月2日に行われたオリックス・バファローズ戦(札幌ドーム)では山本由伸から巨人時代のキャリア最多タイに並ぶ4号のソロ本塁打を放った。


佐々岡真司: 1000奪三振:1998年7月5日、対阪神タイガース13回戦(広島市民球場)、7回表に新庄剛志から ※史上102人目


木村文和: 3回裏に新庄剛志監督の計らいでライオンズファンのいるレフトスタンドの守備につくと、4回表に二塁打を放ち、大歓声と拍手に包まれる中、現役最後のプレーを終えた。


マーク=クルーン: 新庄剛志が着用していた襟付きアンダーシャツの所持者であり、珍しい野球グッズを集めるのが趣味。


吉田輝星: この年の一軍登板は前述の1試合のみにとどまり、契約更改では60万円減となる推定年俸970万円でサインしたものの、秋季キャンプでは視察に訪れた新庄剛志新監督から高い評価を受けた。


中野佐資: 1992年には外野手に転向した八木裕や同年台頭した新庄剛志にレギュラーを譲ったことで出場機会が減少。


新庄剛志の情報まとめ

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新庄 剛志(しんじょう つよし)さんの誕生日は1972年1月28日です。福岡出身の野球選手のようです。

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経歴、特筆事項などについてまとめました。引退、母親、事故、父親、結婚、事件、映画、テレビ、離婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。新庄剛志の現在の年齢は52歳のようです。

新庄剛志のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

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新庄劇場

新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年〈昭和47年〉1月28日 - )は、長崎県対馬市生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投右打)、プロ野球監督。2022年シーズンより北海道日本ハムファイターズの監督を務めるほか、タレント・実業家・クリエイター(商品プロデューサー・画家・YouTuberなど)・地方競馬全国協会(NAR)の馬主でもある。

選手時代の2004年から2006年までSHINJO(シンジョウ)の登録名を使用したほか、監督就任後は2022年のみBIGBOSS(ビッグボス)を登録名としていた。

元妻はタレントの大河内志保。紺綬褒章受章(2007年)。

プロ野球選手としてNPBで14年間プレーしたほか、MLBでも3年間プレーした元メジャーリーガーでもある。現役時代は意外性あふれる打撃と強肩を生かした守備で、規格外の人気を獲得。ゴールデングラブ賞を計10回獲得している。

阪神タイガース時代の1993年に記録した21歳8か月3日での先発4番出場は球団の歴代最年少記録である(2020年シーズン終了時点)。2001年に日本人野手初のメジャーリーガーとなり、2002年には日本人選手として初めてワールドシリーズ出場を果たした。北海道日本ハムファイターズ選手時代の登録名は「SHINJO」であり、表記法をイニシャル以外でのアルファベットとするのはNPB史上初であった。

愛称は「プリンス」「ツーさん」「ビッグボス」など(後述)。また、印象的なプレースタイルや言動、立ち居振る舞いから「記録より記憶に残る選手」とも称される。

2001年より2009年まで個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属し、所属期間の途中よりは事務所とアワーソングスクリエイティブが業務提携してのタレント活動等のマネジメントを受けた。2008年に株式会社レハサフを設立して、2013年の会社閉鎖まで経営した(後述)。タレント活動等のマネジメントを自社から受けていた期間を経て、以降のマネジメント契約先は、2012年はプラファー、2013年よりエージェントオフィスタクト、2018年よりZE MANAGEMENT。

2006年限りで現役から引退した後にインドネシア・バリ島へ移住した。2019年に再びプロ野球選手を目指すことを公表し、引退時には任意引退の手続きがとられていたため、同年11月27日付でNPBより自由契約選手として公示された。

2022年シーズンより北海道日本ハムファイターズの監督に就任。同シーズンのみ登録名を「BIGBOSS(読み方:ビッグボス)」として活動した。

経歴

プロ入り前

福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として、長崎県の母親の実家にて誕生。体重は3680グラムあり、生後10か月で歩きだした。福岡市立長丘小学校時代に8回の交通事故に遭うが、いずれも大怪我は負わずにすんだ。しかし福岡市立長丘中学校時代の授業中に左手人差し指を切断寸前の大怪我を負い、自身はこれがもし右手であったなら間違いなくプロへは進めなかったであろうと語っている。小学1・2年時には町内のサッカーチームへ所属。後にソフトボールを経て野球へのめりこむきっかけは、漫画・アニメ『キャプテン』との出会いでもあった。

新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、息子には何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。足の速さと肩の強さは幼い頃から身につけており、6歳時には既に大人よりも遠くまで石を投げられるほどであった。やがて父親から野球を教わり始めた。小学時代(2年時より)の日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂上まで走らせていた。父親によると新庄は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという。小学高学年時には家業を手伝い重い石碑等を持つ作業で体力をつけた。

長丘小3年時より始めたソフトボールでは、6年時5月の町内対抗大会でのサヨナラ負けが決定するプレーの判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見たことがないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから少年野球チーム(軟式の学童野球)を創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日間でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も担当して「長丘ファイターズ」というチームが誕生した(1983年5月)。同チームへは後年に、さらに後にプロ入りする古本武尊、俳優の池松壮亮の二人が同学年として在籍した。キャプテンでエースで4番打者の新庄は目立ちたがり屋で、ノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。同チームのコーチを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛ノックを浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語ったほどである。同チームは結成後1か月余りで福岡県大会(出場64チーム)の第3位に入賞した。

長丘中学時代には軟式野球部に所属。当時の監督も新庄の小学時から走力・肩力が桁外れと評すなど実力を認めていたが、一度だけ試練を与えるため、2年時の全国中学校軟式野球大会ベンチ入りメンバーから外した。大会遠征から帰宅した新庄は自室に閉じこもり泣いていたというが、「監督は恩人」とプロ入り後に振り返っている。

1987年、高校は父親からの薦めもあり西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し、硬式野球部員として寮生活を送った。同部では2学年先輩の後にプロ入りする石貫宏臣・柴原浩、2学年後輩の後に社会人野球選手からプロボクサーとなる荒木慶大とチームメイトになった。

3年時の1989年、1番・中堅手として挑んだ第71回全国高等学校野球選手権福岡大会の4回戦・筑紫丘戦(久留米市野球場)で、練習試合を含む高校時代初のサヨナラ安打を記録(8回コールドゲーム)。決勝の福岡大大濠戦(久留米)では、生涯初のサイクル安打を達成するも敗戦。高校時代に部の全国大会出場は叶わなかった。

阪神時代

1年目の1990年は二軍で過ごし、腰痛の影響もあり出場36試合・打率.074(安打2)・本塁打および打点なし。守備は中堅手から、シーズン中に自らコンバートを志願して内野の遊撃手へ転向した。9月から11月にはフロリダ州レイクランドでの秋季教育リーグへ派遣された。

1991年も秋口まで二軍で過ごし、キャリアにおいて唯一となる二軍規定打席に到達して打率.246・本塁打9・打点39を記録した。そして一軍監督の中村勝広ら首脳陣により見いだされ、9月9日に初の一軍昇格。翌10日、東京ドームでの巨人戦で9回表の代打としてプロ初出場を果たし、香田勲男から初打席初安打初打点を記録した。16日、広島市民球場での広島東洋カープ戦で7番・遊撃手としてプロ初先発出場を果たした。

前述のようにこの年、前年まで低迷していたチームは最終戦の1試合前まで優勝争いをした(最終順位は2位)。この躍進は、右中間守備コンビを組む亀山努らと共に活躍したことから亀山・新庄の頭文字をとり「亀新フィーバー」と称された。当時に入寮している球団寮・虎風荘(当時は甲子園球場に隣接)へ届く新庄宛のファンレターは1日につき段ボール1個分あったという。また寮や新庄の行く先々へ連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道され、寮の前の混雑により球場からの帰寮もままならない状況となった際には、梅本正之寮長などが新庄をホテルへ一時的に住まわせるなどの対策を施した。シーズン打率.278・本塁打11を記録するも規定打席に僅かに及ばず、新人王を選定する記者投票でも同僚の久慈照嘉に5票及ばず、次点となった。11月の日米野球に初出場してロジャー・クレメンスとも対戦するも無安打に終わった。翌1993年の年俸は当年の520万円から2200万円に上がり、323%増の昇給率は当時の球団歴代最高であった(金額・昇給率は推定)。

1993年より背番号を「5」へ変更。春季キャンプより再び遊撃手へコンバートされるも、キャンプ中にコンバート中止となった(後述)。2月下旬のオープン戦でのヘッドスライディングの際に左肩を故障した影響でシーズン初出場は5月中旬となり、中堅手として2番と7番以降を除く打順で起用された。10月1日、甲子園での中日ドラゴンズ戦でプロ初の先発4番打者として出場。21歳8か月3日での先発4番は球団歴代最年少記録である(2020年終了時点)。この年に初めての規定打席へ到達。初のシーズン100安打も達成(高卒4年目までの達成はドラフト制以降の球団史上3人目)して打率.257、オマリーと並びチーム最多の23本塁打を記録し、ベストナイン初受賞。守備ではリーグ外野手最多13補殺(キャリア最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞初受賞。

1994年より外野手登録へ戻った(そのままキャリアを終えた)。1番中堅で開幕して、その後打順は6番・7番・3番で起用された。自身の後援会「新庄会」発足記念の「新庄ナイター」となった5月13日のヤクルトスワローズ戦(甲子園)で、高津臣吾からプロ初となるサヨナラ満塁本塁打を記録した。7月のオールスターゲームにファン投票セ・リーグ最多得票で初選出され、第1戦(西武ライオンズ球場)にて代走として初出場し、球宴初盗塁を記録した。この年は石嶺和彦と並びチーム最多の17本塁打、同じくチーム最多の205塁打を記録。守備ではリーグ外野手最多289刺殺(キャリア最多)を記録しゴールデングラブ賞を受賞。

1995年は中村監督が途中休養となり藤田平代行となる中、主に6・7番中堅で起用され、当年のみチームに復帰した山内一弘打撃コーチの指導のもとで打撃フォーム改造を試みたが、山内の打撃理論を理解することが出来ず、逆に打撃成績は大きく低迷してしまった。

この年は右足関節捻挫・右膝打撲などで出場選手登録抹消を繰り返し規定打席に到達できず、この年から打率が4年連続して2割4分を切った。

1996年は開幕より5月下旬まで1番中堅で、その後打順は9月上旬までは主に6・7番、そして藤田監督が途中休養に入り、柴田猛代行から4番で起用された。4月の中旬に自身初の4試合連続本塁打を、29日からの横浜3連戦1・3戦目の2試合で初回先頭打者本塁打(1戦目が自身初の先頭打者弾)を記録した。10月9日のシーズン最終戦(対中日・甲子園)1回裏には、4番の自身と9番(代打)の塩谷和彦が満塁本塁打を共に金森隆浩から放ち、チーム1イニング2満塁本塁打というNPB史上初の記録を残した。シーズン打率.238・本塁打19。共にキャリア最高となる四球55・出塁率.335を記録した。ゴールデングラブ賞受賞。オフに派遣され所属したハワイ・ウィンターリーグのヒロ・スターズ(英語版)には、後に日本ハムで再会するトレイ・ヒルマンが監督として、ニューヨーク・メッツ(2001年)で再び同僚となるベニー・アグバヤニが選手として在籍していた。新庄はこの1996年に横浜移籍を志願しており、水面下で畠山準とのトレードの交渉が進められていたが藤田平監督の途中解任を受けて話が流れている。

1997年は吉田義男新監督のもと5月下旬まで3番中堅で、その後打順は1番・7番・6番・5番で起用された。

この年は公式戦でも自身のみへの応援ボイコットを受け、クリーンナップを組んだ桧山進次郎と共に三振を量産した(キャリア最多120三振)。キャリア唯一となるシーズン全試合出場を果たし、本塁打は20本記録して4年ぶりの20本台にのせた。守備ではリーグ外野手最多13補殺(キャリア最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞受賞。オフにTBS『スポーツマンNo.1決定戦 第4回プロスポーツマン大会』へ出場し、MONSTER BOX(巨大跳び箱)に挑んだ際に跳び箱で左膝を強打負傷。残りの競技をリタイアし、その後のゴールデングラブ賞授賞式では立っているのも辛い状態となった。

1998年は6番中堅で開幕して、その後打順は7・8番など主に下位で起用された。この年はオープン戦のセ・リーグ・スター大賞を受賞するもシーズンでは極度の打撃不振に陥り、通算100本塁打まで残り3本としての開幕であったが、シーズン1号および記念本塁打達成は7月となった。10月8日に甲子園で横浜がリーグ優勝を決めた試合では、最終回二死から佐々木主浩の前に空振り三振に倒れ、最後の打者となった。シーズン打率.222(リーグ規定打席到達者最低)・本塁打6・打点27と、それぞれ規定打席到達年度ではキャリア最低となった。守備ではリーグ外野手最多タイ12補殺を記録しゴールデングラブ賞受賞。翌1999年の年俸はプロ入り以来2度目の減額となった。

秋季キャンプから野村克也新監督の発案により、外野手との兼務(二刀流)を目指して投手としての練習を開始した。翌1999年オープン戦の2試合に登板するも左膝を痛めたため、投手挑戦を断念した。

1999年は前述の故障によりシーズン初出場が4月中旬となり、左太股痛も抱えながらシーズンを送った。1990年代後半から現役引退まで、ほぼ常に脚・腰・右腹直筋などの中のどこかに故障を抱えることとなった。3番中堅で多く起用されるが、打順は4番・6番・8番など特に変動が激しい年となった。5月27日、首位攻防の中日戦(富山市民球場アルペンスタジアム)にて、三重殺(無死一二塁から三塁ゴロ)をとられたり、守備では満塁からの中前安打を後逸し3失点となる失策を犯した後、7点を追う攻撃でチーム初得点となる2点本塁打を放つなど二度得点に絡み、さらに6-7と1点差まで追い上げた最終回の攻撃では宣銅烈から9球粘り中前安打して一打同点の場面をつくった。結果チームは敗れ「僕のせいで負けた」と語り、良くも悪くも目立ったこの試合は、数週間後に敬遠球をサヨナラ安打した試合(後述)と共に「新庄デー」などと報じられ、当時の新庄の代表的エピソードとして取り上げられた。

1999年6月12日、巨人との首位攻防戦(甲子園)12回裏同点一死一・三塁の場面(投手:槙原寛己、捕手:光山英和)で敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。初球の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同様の投球を打ち、三遊間を抜いて左翼前へ転がした。外し方の甘い投球が来るように、初球の前よりバッターボックス内の三塁側の白線付近で構えておき、遊撃手が二塁ベース寄りに守っていて大きく空いた三遊間を狙ったという。巨人側から「打つ際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しており反則打球ではないか」という抗議があったが、球審の田中俊幸は「バッターボックスの白線に左足のかかとは残っていた(はみ出した足が白線を踏んでいれば反則打球にはならない)」とこれを退けた。自身は実行3日前の広島戦で敬遠された際にバットを出せば届くのではないかと感じ、予め柏原純一打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)、尻無浜啓造打撃投手と大きく外された投球を打つ練習を行っていた。また野村監督とも柏原を通し状況により実行許可のサインをもらえるよう打合せていて、実行直前にサインが出されていた。なお巨人側のこの敬遠策は走者三塁となったための満塁策であるが、前イニング同点の場面での阪神の攻撃においても先頭・新庄の三塁打が出たため満塁策がとられ、後続は三者凡退するという経緯があった。新庄のこのプレーは引退後の2015年に行われた阪神球団創設80周年特別企画でのファンに対するインターネットアンケート「思い出のシーン ベスト10」にて第6位に選出された。この試合では他にも、リードされた直後の8回の攻撃で同点ソロ本塁打を放つなど、6打数4安打2打点を記録。12回の守備では、前回の攻撃での代打起用で内野手が足りなくなった事情でプロ初の二塁に就いた(清原和博のセカンドゴロを処理する守備機会もあり)。ヒーローインタビューでは、最後の質問に対して「明日も勝つ!」と宣言し、そのままお立ち台を離れ自らインタビューを締めた。しかし翌13日の同対戦でチームは敗戦。自身も前夜から一転して上原浩治から3打席連続三振を喫するなど5打数無安打に終わった。自身は前夜の取材では、敬遠球を打つのは一度きりと宣言していたが、この日の試合前にも大きく外された投球を打つ練習を行っていた。以降しばらくの間、新庄を敬遠する際には相手捕手が投手に対して投球前ごとに大きく外すようジェスチャーを送る姿が見られた。

2000年は手術の影響で春季キャンプは別メニュースタートになるもキャリア唯一となる開幕戦4番で先発出場した。シーズン序盤に故障離脱もするが4番中堅でほぼ固定起用された。6月17日に自身の公式サイト「CLUB SHINJO」(旧サイト)を開設した。7月20日に甲子園で行われた巨人戦で通算1000試合出場を達成した。26日には生まれ故郷長崎県の長崎ビッグNスタジアムでのオールスターゲーム第3戦で森慎二から左翼場外への本塁打を放っている。9月30日の広島戦で9回裏に紀藤真琴から右翼席へサヨナラ本塁打を放った(これが阪神選手としての最後の本塁打。加えて日本シリーズも含めNPBで記録された20世紀最後のサヨナラ本塁打である)。この年は6月に自身2度目の4試合連続本塁打を、9月には16試合連続安打を記録した。勝利打点はチーム最多で自己新となる13回を記録するが僅か1回の差で最多勝利打点のタイトル(特別賞)を逃した。終わってみれば打率.278 142安打 23二塁打 28本塁打 85打点(本塁打・打点はキャリア最多。本塁打は「先制・同点・勝ち越し・逆転」の殊勲本塁打が20本)15盗塁でチーム六冠王に輝き、猛打賞10回を含む(三塁打以外の)打撃成績全てがこの年のチーム最多記録だった。ベストナイン・ゴールデングラブ賞受賞。シーズンオフの11月に開催された日米野球に出場して打率.409(22打数)を残した。

2000年8月に取得した初めてのフリーエージェント (FA) 権を11月9日に行使してFA宣言。横浜およびヤクルトとの交渉が報道された。シーズン中より残留交渉を重ねてきた阪神が当年の好成績の評価と、人気選手を引き止めようとして提示した条件は、他球団より好条件となる5年契約総額12億円(金額は推定)であった。

しかし新庄の決断は交渉をしていた阪神の球団関係者も予想できなかったところである、かねてより移籍志望を抱いていたMLBのニューヨーク・メッツへの移籍となった。契約内容は、契約金30万ドル(日本円換算で当時約3300万円)・年俸20万ドル(同2200万円、当時のメジャー選手最低保障額)プラス出来高払い50万ドル(同5500万円)の3年契約であった。シーズン中にはメッツの大慈彌功スカウトやオマー・ミナヤGM補佐も試合を視察していたが、移籍交渉の事実はメッツ側の意向で公表されていなかった。シアトル・マリナーズへ移籍したイチロー外野手と共に日本人野手(投手以外)として初めてMLBの球団へ在籍することとなった。12月11日の契約締結後の移籍発表会見では「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団とは、ニューヨーク・メッツです。」と発言した。背番号は阪神時代と同じ「5」に決まった。

12月27日、タレントの大河内志保と入籍。同年24日には結婚式を挙げた。彼女との交際は始まった1993年当時から認めていたが、入籍に際しそれまで約8年の間同棲していたことを公表した。夫人は芸能活動を2005年まで休止した。

メッツ時代

※以降のアメリカ合衆国およびカナダでの出来事の日付は現地時間。

MLB1年目は自身の意向で単身渡米し、2年目より夫人も居を移した。代理人をMLBでの3年間、マイク・ニコテラおよびその同僚のジーン・カザレッジョが務めた。通訳を2001年は球団職員・岩本賢一が、2002年より球団職員・小島克典(2003年は新庄と共に移籍)が務めた。また2001年より現役引退まで数人のトレーナーと専属契約を結んでいた。

2001年のスプリングトレーニングでの新庄を取材する日本人メディアの多さや新庄の話題性の高さについて、ニューヨーク・タイムズが「ジェームズ・ディーンがきた」と表現して報じた。オープン戦での成績に対し球団よりジョン・J・マーフィー賞を受賞して開幕メジャー入り(MLBでの3年間は毎年開幕メジャー入り)。シーズン序盤は途中出場も目立つが実績に伴ってレギュラーとなっていき、打順は7番・6番・1番・3番・4番など様々となった。MLBでの守備は外野の全てへ毎年つくが、この年のみ中堅メインではなく両翼へも万遍なくついた。4月3日の開幕戦(対アトランタ・ブレーブス、ターナー・フィールド)8回表の代走としてMLB初出場。一塁走者としては珍しい外野への飛球の時のタッグアップで二塁へ進塁し(右中間のウォーニングトラック手前への飛球をアンドリュー・ジョーンズ中堅手が捕球後)、10回表の初打席ではケリー・ライテンバーグから初安打を記録した。5日の同対戦で7番・右翼手として初先発出場。9日の本拠地開幕ブレーブス戦(シェイ・スタジアム)でジェイソン・マーキーから初本塁打を放ち、チームメイトが整列しての日本式の出迎えを受けた。この初本塁打を機に、メディアが新庄の姓を捩った造語である「SHINJOY(シンジョイ)」を使い始め、以降これは愛称として浸透していった。27日にアジア人初の死球での出塁を記録した。5月24日のフロリダ・マーリンズ戦の大差リード中 (11-3) の打席でカウント3ボール-0ストライクから打ちに出た行為が不文律に反するとされ、翌日の同対戦で足に死球を受けた。MLB1年目には他にも、日本では日常的に行っていた、本塁打となると自身が確信する打球を放った直後にバットを高々と放り投げる行為(後述)や、その後ホームイン時に手で触塁する行為(後述)が相手チームから挑発的と解釈されたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際に捕手が出すサインを覗いているのではないかという疑惑(後述)をかけられたりもした。

左太股の故障をおしての出場を続ける中、6月17日のニューヨーク・ヤンキース戦(シェイ・スタジアム)2点を追い掛ける8回裏一死一・三塁の攻撃で二塁ゴロを放ち、全力疾走して一塁へ足から滑り込んで併殺は阻止した(打点1)。その後に次打者マイク・ピアッツァの逆転決勝2点本塁打が出て、この試合はサブウェイシリーズ屈指の名試合と称され、新庄の故障をおしての走塁は「カミカゼ・スプリント」と称されて報じられた。しかし代走を送られこの走塁が最後のプレーとなり、20日より左太股裏(大腿四頭筋)肉離れで15日間の故障者リスト(期間は延長できる制度)に入った。その後A-級・ブルックリン・サイクロンズでの調整出場2試合を経て7月16日より復帰した。22日、フィラデルフィア・フィリーズ戦(ベテランズ・スタジアム)6回裏一死一塁の中堅守備で、直射日光を受ける中、トラビス・リーのバックスクリーン方向への大飛球を背走して追い続けた末にフェンス手前で振り向くことなくポケットキャッチ(背面キャッチ)。このプレーは、ウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」を彷彿とさせると報じられた。ボビー・バレンタイン監督などからクラッチヒッターとの評価を受け打順3番で起用されることが多くなり、9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、チームのプレーオフ進出争いに終盤は4番打者としても貢献した。

この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録して総数は12(リーグ外野手5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手歴代最多〈当時〉)。打撃では故障離脱の影響もあり規定打席には未到達(MLBでの3年間は毎年が未到達)ながら、満塁時に打率.583(12打数7安打)・打点17を記録し、勝利打点11はピアッツァと並びチーム最多。Topps ルーキーオールスターチーム(英語版)などを受賞した。翌2002年の年俸は135万ドルとなり、日本円換算で当時約1億3500万円と自身初めて1億円を超えた。プライベートでは日本メガネベストドレッサー賞とベストドレッサー賞を受賞。

ジャイアンツ時代

2001年12月16日、デシー・レラフォード(英語版)内野手と共に、ショーン・エステス投手との2対1トレードでサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍した。背番号は引き続き「5」。

2002年は球団が獲得に際し想定していた通り、監督のダスティ・ベイカーより1番中堅で起用され開幕。1番打者ということで基本的に早いカウントでは打つなとの指示を受け、4月下旬に打撃不振で打順降格してから7月下旬の離脱(後述)までは7番など主に下位に入った。5月11日、モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて すぐさま本塁まで約90メートルをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリー(英語版)を補殺した。このプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入した。試合はそのまま勝利し「新庄の肩が試合をセーブした」などと報じられ、相手監督のフランク・ロビンソンもこのプレーを賞賛した。7月、オールスターゲーム・ファン投票で100万票以上を得てナ・リーグ外野手部門第4位となった。25日の出場を最後に右太股(ハムストリング)を痛め15日間の故障者リストに入った。その後AAA級・フレズノ・グリズリーズでの調整出場2試合を経て8月13日に復帰出場するが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失った。復帰後の先発出場は激減し、この年は打撃のほとんどの部門において前年より成績を下げた。守備ではリーグ外野手および中堅手のレンジファクター (RF/9) 1位を記録。シーズン最終戦の1試合前に決めたチームのワイルドカード獲得に貢献して、自身NPB/MLB通じて初のポストシーズン出場(チャンピオンシップシリーズ)およびリーグ優勝を果たした。

10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番・指名打者で、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場。指名打者起用について監督のベイカーは「守備面を考えれば新庄を中堅守備に就かせたいが、(当時は相手先発が左投手時限定の先発起用方針で、かつ第3戦 - 5戦は指名打者制ではなく)シリーズを通して先発出場するロフトン中堅手のリズムを崩せないため」と説明した。第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンからシリーズ日本人選手初安打となる中前安打を放ち、この時使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されている。27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)の3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場するが、トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れた。チームはそのまま敗れシリーズ制覇を逃し、選手らはナ・リーグのチャンピオンリングを翌年に受け取った。当ポストシーズンでの個人打撃成績は出場4試合・8打席で安打は前述の1本であった。

オフ、球団は翌2003年の契約オプションを行使せず、11月15日にノンテンダーFAとなった。

メッツ復帰

2003年1月11日に古巣のニューヨーク・メッツと年俸60万ドル(日本円換算で当時約6000万円)で契約した。背番号は引き続き「5」。ジャイアンツ退団後にMLB/NPBの数球団より届いた契約オファーの中から在籍経験を活かせるよう古巣であり、また好きな都市の球団であるメッツを選んだという。

オープン戦で50打席以上のナ・リーグ選手としての最高打率.426を残すも、シーズンでは最終的に現役引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり、主に相手先発が左投手時の先発中堅手としての起用で出場試合は減少した。5月8日、シェイ・スタジアムでのロサンゼルス・ドジャース戦でNPB/MLB通算100補殺(外野守備機会)を達成。23日のターナー・フィールドでのブレーブス戦では外野手としてキャリア唯一となる、勝利を決める最後のアウトの補殺を記録(中堅からの本塁直接送球で同点の走者を刺した)。打撃成績は5月にこれまでの自身ワーストとなる24打席連続無安打を記録するなど次第に低迷していき、6月28日のヤンキース戦デイナイトダブルヘッダー第1試合(ヤンキー・スタジアム)終了後に、MLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちした(最終出場は前日27日の同球場での同対戦)。その頃「あのような成績でメジャーにいるのは恥ずかしかった」と語った。この年はスプリングトレーニングで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報じられた。7月17日にロースター40人枠から外れDFAとなり、後日にメッツとマイナー契約を締結。AAA級・ノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率.324(111打数)・本塁打3・打点9を記録。マイナー生活では様々なメジャーとの条件格差を体験するが、昇格を夢見て頑張る若い選手との交流などもあり、これまでの野球人生で一番に学べ、楽しい時代であったと語っている。オフにノンテンダーFAとなり、MLB/NPBの数球団より契約オファーを受けた。なお自身は渡米する2001年シーズン前には、MLB移籍は3年間と示唆していた。

日本ハム時代

移籍先はNPBの翌シーズンより北海道へ移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、契約金4000万円・年俸8000万円プラス出来高払い5000万円の2年契約(金額は推定、補殺数の出来高払いもあり)を結んだ。最初にオファーを受けた球団に行くと決めており、それが日本ハムであったという。他にオファーを受けたNPBの球団は千葉ロッテマリーンズであった。また非公式ながら本当に最初に獲得を打診してきた球団は読売ジャイアンツであるという(引退後に告白)。古巣の阪神は外野手層が厚くなった事情からオファーを出さなかった。入団発表予定の前日となる11月19日、映画『バッドボーイズ2バッド』の日本公開特別試写会にて、非公式に入団を発表した。翌20日の仮契約の席にてサインする様子が新庄の希望で後にテレビ放送された。仮契約後の入団公式発表会見では、北海道などのファンが自身の入団を求める署名を紹介した。12月3日に新本拠地・札幌ドームで行われた入団発表(正式契約後)の会見は、当初非公開の予定が約2000人のファンが来場したため、急遽グラウンドにて一般公開された。会見では「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と目標を掲げた。登録名は「SHINJO」、背番号は「1」と決まり、自身の専属広報に荒井修光が就任した(現役引退まで在任)。また日本ハム時代の専属トレーナーは自身運営の鍼灸院スタッフが務めた。

入団初年度よりファンサービスの一環として、本塁打時の談話にて独特の打法命名(一覧〈外部リンク〉)を始めたほか、翌年にかけて試合前シートノックにて かぶりもの(仮面)を着用するというパフォーマンスを5度行い、該当試合でチームは3勝1敗1引き分けの成績を残した。

2004年は開幕から7月まで主に2番中堅で、8月早々に打順を坪井智哉と交代した後はプレーオフまでビッグバン打線の1番で起用された。3月28日、開幕2戦目となる大阪ドームでの大阪近鉄バファローズ戦で吉田豊彦から、北海道日本ハムとしての球団第1号本塁打を記録。5月30日、函館オーシャンスタジアムでの西武ライオンズ戦で張誌家からNPB通算1000安打を達成。

2004年の前半戦最終試合(札幌ドーム)で受けた入団後初のヒーローインタビューと後日の取材にて、オールスターゲーム出場について触れ「MVPは僕のものです」と宣言した。7月11日、第2戦(長野オリンピックスタジアム)3回裏二死三塁の場面(バッテリー:元同僚の福原忍・矢野輝弘、打者:同僚の小笠原道大)で、三塁走者の新庄は捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切り本塁にヘッドスライディング。投手からすぐさま送球されたがクロスプレーでセーフとなり、球宴史上初となる単独本盗を記録した。ヘルメットが脱げていた新庄は腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜びを表した。このプレー直前に新庄は三塁塁上から、三塁ベースコーチを務めていた松中信彦や三塁側の対戦相手である全セ・リーグのベンチの古田敦也・山本昌などに対して本盗敢行についての相談を行い、古田・山本は新庄に対して敢行をあおるジェスチャーを送っていた。この試合では二塁打2本を記録して、球宴通算打率を.382とし、当年開催終了時点30打席以上の選手として歴代5位となった。また本盗での決勝点と合わせ全パ・リーグの全2得点も記録して、先の宣言通りにMVPを獲得した。ヒーローインタビューでは、この年起こったプロ野球再編問題を受け「これからは、パ・リーグです」と宣言した。

この年は猛打賞12回(チームは該当試合で11勝)・打率.298(リーグ16位)とそれぞれキャリア最高を記録。7月から9月はいずれも月間打率3割以上を残し、7月には下旬に『スパイダーマン』のかぶりものパフォーマンスを行った試合から5試合連続複数安打を記録。8月には中旬から7試合連続複数安打とリーグ月間最多二・三塁打(11本)を記録。9月には全16試合中15試合で安打し、前述したストライキ明けの試合から3試合連続本塁打するなど、それぞれリーグ月間最多の本塁打7・打点20・得点15を記録して月間MVPを受賞。守備でもリーグ外野手最多272刺殺を記録するなど、球団移転初年度でのプレーオフ進出に貢献。プレーオフ第1ステージにて自身NPBポストシーズン初出場を果たした。11月の日米野球にファン投票選出されるも、シーズン終盤から悪化させた右太股裏痛を理由に出場を辞退した。シーズンMVPを選定する記者投票で第4位(チーム最多)となる点数を得た。受賞は他に、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、JA全農Go・Go賞3回(歴代年間最多タイ)、日本プロスポーツ大賞功労賞など。

この年は規定打席に到達できなかった。ゴールデングラブ賞を外野手部門最多得票で受賞するが、授賞式を欠席し、「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」と声明を出した。2年契約満了のため結んだ再契約は、新庄側の希望で1年契約、年俸はNPB歴代最高昇給額(当時)の2億2000万円増であり、キャリア最高額の3億円となった(金額は推定)。

2006年、阪神時代の監督であった中村勝広がオリックスの、野村克也が東北楽天ゴールデンイーグルスのと同リーグ球団の監督に就任し、ロッテのボビー・バレンタイン監督(2001年メッツ時代の監督)と合わせ、3人の恩師と対戦することとなった。1年間を6番中堅でほぼ固定起用された。自身の発案で「ファイターズ超満員大作戦(43,000プロジェクト)」と銘打ち、何かやりますと予告していた3月25日の開幕戦(対楽天・札幌ドーム)試合開始にあたり守備へ就く際に、自身がハーレーダビッドソンのトライクを運転して入場し場内を周回して守備位置へ向かい、続いて他の先発選手もそれぞれサイドカーの助手席に乗車して守備位置へ向かうというパフォーマンスを、満員となった観客の前で披露した。これを皮切りとして、この年の試合前に本格的なパフォーマンスショーを行った3試合はいずれもチームが勝利を収めた。

4月18日、東京ドームでのオリックス戦にて、1本目の本塁打を「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名することにより、試合中に当シーズン限りでの現役引退を表明。そしてヒーローインタビューで改めて引退を宣言した。なお引退を表明した回の命名を最後に、2004年より続けてきた本塁打への打法命名を封印した。引退表明以降のマスコミからの注目度は日に日に増し、新庄のグラウンド内外におけるパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて連日のように報道された。

30日の福岡ソフトバンクホークス戦へ出場した際、ユニフォームの下に着用していた襟付き練習着についてマナーの問題で物議を醸した。自身は試合前に審判団へ同品を着用しての出場可否確認を求め、前川芳男パ・リーグ審判部長の「現行規則では明記されていないため、今後の検討材料にする」との判断により着用許可を得ていた。試合中から試合後に渡り、相手球団の王貞治監督およびフロントが苦言を呈し、審判団の協議の末「今後は着用しての試合出場不可」と通告を受けた。

9月27日、レギュラーシーズン最終戦となる札幌ドームでのソフトバンク戦にて、この日限定で背番号をプロで最初に背負った「63」に変更。これに伴い、元々同番である渡部龍一も1日限り「68」に変更した。チームがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合後に引退セレモニーが行われた。場内を消灯して大型ビジョンに流された野球人生を振り返るVTRを、中堅の守備位置から帽子の上にグラブを被る姿(日本ハム時代の新庄の恒例となっていた姿である)で観た後、ユニフォーム・グラブ・リストバンド・タオルをその場に置き、涙を浮かべながらグラウンドを後にした。ユニフォームを脱いで現れたアンダーシャツの背中には「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」とファンへ向けるメッセージがプリントされていた。スピーチは行わなかったが、去り際には大型ビジョンに「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」と署名付きの直筆メッセージが表示された。なお球団はこの時点では新庄の引退を認めておらず(慰留するため)、このセレモニーは球団ではなく自らがプロデュースしたものであり、先の引退表明を東京で行ったことに対する地元ファンへのけじめの意味合いも込められていた。予定通り、翌28日に渡部と共にそれぞれ背番号を元に戻した。

自身NPBでは初めてのリーグ優勝を決めたプレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク・札幌ドーム)の全2試合通算で6打数2安打1打点(第1戦の勝利打点)を記録した。

日本シリーズ終了後の11月に開催予定の日米野球にファン投票最多得票で選出されるも、引退することを理由に出場辞退を表明し「日本シリーズで完全燃焼したい」と声明を出した。シリーズで対戦した中日のアレックス・オチョアは、新庄がジャイアンツ時代に2002年のワールドシリーズで対戦したエンゼルスの選手としても出場しており、この両人はMLB/NPB両方のシリーズで選手として対戦した初めての例となった。このシリーズでチームは4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝き、個人5試合通算17打数6安打1打点を記録した。10月26日の最終第5戦(札幌ドーム)8回裏、涙を流して入った現役最後の打席では、中里篤史からの全3球ストレート勝負にて空振り三振に倒れた。最終回の守備、二死からアレックスの左飛で日本一が決まると、捕球した森本稀哲はマウンド方向へではなく打球を追ってきている中堅手・新庄の方へ向かい走り出し、両者は左中間で抱き合った。そして両者はマウンド付近にできている歓喜の輪へ向かい歩き出すが、新庄は涙を流し、まともに歩くことができなかった。その後、選手・首脳陣・スタッフ達の方が外野へ向かい歩いていって左中間で抱擁し合い、胴上げが新庄→小笠原道大→田中幸雄→大社義規前オーナーの遺影を掲げた大社啓二オーナー→トレイ・ヒルマン監督の順に行われた。日本ハム入団会見で掲げた2つの目標である「札幌ドーム満員」と「チームの日本一」を共に達成してユニフォームを脱いだ。

翌27日に札幌ドームのグラウンドで引退会見を行い、11月のアジアシリーズについても、気力と体力の限界を理由に出場辞退を表明した。11月8日、10度目のゴールデングラブ賞を受賞。シーズンMVPを選定する記者投票では第5位となる点数を得た。18日、札幌で行われた優勝パレードに私服姿で参加し、これがファイターズの新庄としての最後の姿となった。シーズン中から引退撤回を求めるファンが署名活動を行い、球団からも撤回要請を受けていた。しかし本人の意思は固く、球団側は手続き上、自由契約とすることを勧めるが、本人側の希望で任意引退となった。

現役引退

現役引退後はタレントへ転身。またエアブラシアート(エアブラシを使用する絵画制作およびメイクアップ)と、2011年より2016年ごろまではモトクロス競技の練習にも取り組む。

2007年1月28日、2003年を最後に休止していた自身の公式サイトの更新を再開して、今後の活動の方向性などを報告した。3月1日、2006年度ゴールデン・アロー賞・スポーツ賞を受賞。4月25日、前年に行った寄付について紺綬褒章を受章(後述)。12月28日、夫人との離婚を自身の公式サイトにて連名で発表した。離婚の際に「俺も意味分からないけれど、とにかく離婚したい」と妻に説明したといい、後に2020年4月16日放送分の『直撃!シンソウ坂上SP』でこの離婚劇が取り上げられた際には司会の坂上忍が「普通だったら訴えられますよ」と呆れていた。ただし、離婚して十数年は経つ、2023年時点でも大河内との関係は良好である模様。

この頃、絵画制作モデルとして購入する馬が地方競馬の競走馬となる予定であることから、地方競馬全国協会 (NAR) の馬主資格を取得していた。同馬はタノシンジョイ号と命名され、2009年9月の初出走で勝利を挙げた(翌年には中央競馬へも一度出走)。また翌年公開予定の映画『僕たちのプレイボール』の製作総指揮(エグゼクティブ・プロデューサー)を務めた。同作品主演・小原裕貴が11月1日の日本シリーズ・日本ハム対巨人第2戦(札幌ドーム)にて始球式投手を務めた際に、付き添ってグラウンドへ登場し、その後の同試合テレビ中継にて自身初の野球解説を担当した(後述)。

2010年前半を最後にメディア出演がなくなり、この頃よりインドネシア・バリ島へ移住した。当地への移住を決めるきっかけはCM撮影での訪島であった。モトクロス競技の練習は当地を拠点として行っていた。また当地では日本で始めた絵画制作に加え、当地の子供達への簡単な野球指導も行っている。

2012年11月18日の阪神対巨人OB戦(甲子園)では試合には参加しなかったが、試合のダイジェスト番組の企画で松村邦洋らがバリ島の自宅およびモトクロス場を訪れた時に収録した、新庄からのビデオメッセージが試合のイニング間に大型ビジョンで放映された。

2017年2月20日放送分の『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で、引退後のバリ島移住の際に、現役時代から自身の金銭の管理を担当していた母親の知り合いの実業家から約20億円を使い込まれていたことが発覚したと明かした。その人物が自己破産したことに伴い使い込まれた金銭の返還を巡る裁判は終結し、結局8000万円しか戻ってこなかった。新庄本人は番組内で「17年間、調べていないのは自分のミス。他人に任せた僕が一番悪い」「金額もそうだが、裏切られたことも悔しい」などと心情を述べた。

2019年11月13日、自身のInstagramに動画を投稿し、翌年のトライアウトを受験し現役復帰を目指すためトレーニングを始めると発表した。清原和博が「WorldTryout2019」の監督に就任したことで刺激を受けたとしており、動画では「みんな、夢はあるかい? 1%の可能性があれば、必ずできる。きょうからトレーニングを始めて、もう一回、プロ野球選手になろうと思います。みんなも何か挑戦しようぜ」と語りかけた。同月18日には日本に帰国したことを自身のInstagramで報告した。現役復帰を目指した背景には難病にかかった姉の存在も大きかったという。

その後、2019年11月27日付で任意引退選手公示が抹消され、自由契約選手公示された。

2020年12月7日に行われた12球団合同トライアウトに日本ハムのユニフォームで参加。第4打席に日隈ジュリアスから適時打を放った。しかしNPBの各球団は獲得を見送り、13日、本人は自身のInstagramで現役復帰を断念することを表明した。

現役復帰が失敗に終わった要因として、里崎智也は日刊スポーツの野球解説者の立場で「NPBの各球団が新庄さんの獲得を見送った理由の第一は、1年間やれる能力の不透明さだと思う。トライアウトの4打席だけでは、年間を通して活躍できる証明にはならない。何が何でもというならば、独立リーグでプレーしながら、継続してできるところを見せるべきだった」と指摘した一方で「とはいえ、新庄さんが今回の挑戦で得たものは小さくない。イメージや“商品価値”は格段に向上した。CM出演の話などが届いてもおかしくないのではないだろうか」とフォローした。独立リーグでのプレーについて新庄自身は、2020年5月に北海道ベースボールリーグからのオファーを断ったことを明かし、トライアウト後にベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)の新潟アルビレックス・ベースボール・クラブが獲得の意向を示したと報じられた際にも「多分48歳なので、すいませんが」というメッセージで事実上断る意向を示している。2021年4月18日に、長野オリンピックスタジアムで開催されたルートインBCリーグ公式戦(信濃グランセローズ対新潟)の始球式を務めた際のミニトークショーで「独立リーグも考えたけど、体力的にちょっと…」と独立リーグを断念した事情を述べた。

日本ハム監督時代

2021年、北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督が同シーズン限りで退任することが明らかとなり、10月26日、後任の監督として新庄に内定したとの報道がされた。その後、10月29日に日本ハム球団から正式に2022年シーズンからの監督就任のオファーを受け、受諾したことが発表された。2006年の現役引退から16年ぶりのNPB復帰となる。球団出身者が監督に就任したのは、2000年から2002年まで監督を務めた大島康徳以来、また北海道移転後のOBが監督になるのは初。11月4日に就任会見が行われ、年俸は推定1億円の1年契約、背番号は日本ハム選手時代に使用した番号で、2021年限りで引退した斎藤佑樹がつけていた1となることが明らかとなった。また、就任記者会見時に報道陣に手渡された名刺では自らの役職について「監督」ではなく「ビッグボス」と記載されており、会見の場でもそのように呼んでほしいと語ったことも話題を集めた。その後、2022年3月24日、実際に登録名を「BIGBOSS」へ変更した。

就任1年目の2022年はシーズンを最下位で終える。9月28日、北海道移転後の初代本拠地だった札幌ドームでの最終試合となったロッテ戦終了後のセレモニーで「今シーズンをもって"BIGBOSS"のユニフォームを脱ぎます」と宣言し、「BIGBOSS」と書かれたユニフォームをマウンドに置き退場、背ネーム「SHINJO」のユニフォームに着替え再登場すると共に「来年、新庄剛志で、エスコンフィールドで、監督の指揮を執ってもいいですか?」と「新庄剛志監督」としての来季続投を宣言した。

特筆事項

現役引退について

2006年4月18日、恩師である中村勝広監督が率いるオリックス戦(東京ドーム)2回裏にダン・セラフィニからソロ本塁打を打ちホームインすると、普段とは異なり外野応援席方向へ向かい、脱帽して深々と一礼した。攻撃が終わり守備位置に就くと再びファンに一礼(阪神時代途中からファンの新庄コールに対しては、一礼からガッツポーズに変えていた)。しばらくすると、恒例の本塁打の打法名が「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と発表され、当シーズン限りでの現役引退表明がなされた。7回裏に金子千尋から満塁本塁打を打つと三たびファンに一礼し、今度は打法命名がなされなかった。チームが勝利して受けたヒーローインタビューでは、冒頭からしばし沈黙した後に自らマイクを握り「ええ……今日、ヒーローインタビューという最高の舞台で報告したいことがあります。タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年……。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました」と観衆に改めて宣言した。引退を決意した決め手は開幕戦で観客満員を達成したことであり、早ければその翌日にでも表明するつもりでいたという。なおその決意はあらかじめ専属広報の荒井修光へのみ明かしており、試合中の発表直前に荒井の判断でGMの高田繁など一部の関係者へのみ伝えられていた。またこの日の表明に踏みきった理由には、東京ドームが球団の前本拠地であり、自身のプロ初出場時の球場でもあるということもあった。

翌19日の試合前には監督をはじめとした現場の人間へ、早い時期に引退表明を行い驚かせた件、決意を一部の人間へしか伝えていなかった件を謝罪。早期表明の理由を「1人でも多くのファンに球場へ足を運んでもらいたいから」と説明し、理解を得た。

概ね以下のような理由を挙げている。

守備の衰えと体力の限界。

    左内太股の故障。

    動体視力の低下(遺伝性の眼病によるものとされる)。

    開幕戦で観客満員を達成して夢が叶い「自分の仕事は終わった」という達成感。

    足の故障に関しては、MLB時代に筋肉を2本切っていた。動体視力の低下に関しては、2006年の開幕後1週間ほど経った試合から急に投球が霞んで見えだし、特に右投手のカーブと左サイドスロー投手の投球が見えなかったという。この動体視力低下の件は現役中は球団関係者へも明かしておらず、またMLB時代の2002年頃に原因不明の目の痛みを抱えていたことも、引退後に判明した。

    当時CM出演契約中であるダイドードリンコ・D-1 COFFEEの「SHINJO引退記念缶」が2006年10月2日より同年12月まで限定発売され、同時に「SHINJO引退記念キャンペーン」も展開された。またゼイヴェルと新庄の所属事務所(当時:剛ゴーエンタープライズ)が業務提携して開いた引退記念グッズショップが同年10月3日より全国数か所を行脚して設置された。

    現役引退後の活動について

    現役引退後よりエアブラシアート(エアブラシを使用する絵画制作およびメイクアップ)に取り組み、特に絵画制作には没頭した。2018年の取材時点では絵画制作を行っていない。

    現役引退後の2011年より移住先のバリ島でモトクロス競技の練習を開始してプロレーサーを目指し、2016年ごろまで練習を行っていた。郊外の自宅近所に練習場(日本円にして2000万円規模)を開設して、地元住民へも無料開放している。2012年には日本のスポーツランドSUGOで成田亮と共に走行練習を実施した。

2024/06/14 08:10更新

shinjou tsuyoshi


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