もしもし情報局 > 1952年 > 6月15日 > 野球選手

柏原純一の情報 (かしわばらじゅんいち)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

柏原純一の情報(かしわばらじゅんいち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

柏原 純一さんについて調べます

■名前・氏名
柏原 純一
(読み:かしわばら じゅんいち)
■職業
野球選手
■柏原純一の誕生日・生年月日
1952年6月15日 (年齢72歳)
辰年(たつ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
熊本出身

(昭和27年)1952年生まれの人の年齢早見表

柏原純一と同じ1952年生まれの有名人・芸能人

柏原純一と同じ6月15日生まれの有名人・芸能人

柏原純一と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


柏原純一と関係のある人

新庄剛志: 自身は実行3日前の広島戦で敬遠された際にバットを出せば届くのではないかと感じ、予め柏原純一打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)、尻無浜啓造打撃投手と大きく外された投球を打つ練習を行っていた。


野村克也: 柏原純一が一塁手のレギュラーに定着。


永射保: 柏原純一(日本ハム)に敬遠球を本塁打にされたことがあった。


野村克也: 当時阪神球団専務だった野崎勝義によると、野村が連れてきたコーチはヘッドコーチに松井優典、投手コーチに八木沢荘六、打撃コーチに柏原純一の3人である。


藤田平: 12月の契約更改では新庄が球団への要求を吐き出し、「ここまで来たのは2人のおかげ」という中村前監督の退任、柏原純一二軍打撃コーチの解任も不満だが「理解できない交代や抹消や昇格がある」と藤田の采配を批判。


中田翔: 球団では張本勲(1963年)、柏原純一(1983年)に続いて3人目の全試合4番出場となった。


伊藤四郎: 引退後は鶴岡一人に請われて南海の東海地区常駐スカウトに就任、のちチーフスカウトを務め、1997年に退任するまで新井宏昌・柏原純一・斉藤和巳ら、多くの名選手を獲得した。


河野旭輝: 阪神2軍監督時代コーチだった柏原純一は「コーチとしてイロハを教えてくれる人もいた。


野村克也: 南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊がトレードを主張した。


古屋英夫: 1985年は高田繁が監督に就任し、5月に柏原純一が死球を受けて欠場したのを契機に津末英明が代わって一塁手を務める機会が増えた。


広瀬叔功: 就任後は野村解任騒動でバラバラになった選手の気持ちをまとめようと「団結と和」を基本理念に掲げてスタートを切ったが、広瀬が監督に就任した段階で江夏豊、柏原純一は野村に同調し、球団のやり方には納得できないとして江夏が広島東洋カープへ、柏原は日本ハムファイターズへ移籍した。


鶴岡一人: その後、沙知代派の江夏豊と柏原純一が球団に抗議して移籍を要求し、江夏は広島、柏原は日本ハムへとトレードで移籍した。


河野旭輝: ^ スポーツニッポン2022年3月26日11版、柏原純一の我が道㉕、引退と同時、フロリダでコーチ修行


島野育夫: 2軍コーチだった柏原純一は「1軍に送り出した亀山と新庄にコーチとして思い切りプレーできる環境をつくったのは島野育夫さんだった。


鈴木啓示: 2500奪三振:1979年4月19日、対日本ハムファイターズ前期1回戦(日生球場)、8回表に柏原純一から ※史上6人目


定岡智秋: 藤原満に同期の鶴崎茂樹・柏原純一・矢部徳美などの若手内野手が一軍の座を狙っていたが、3年目の1974年9月に一軍初昇格。


杉田久雄: 翌1977年も3勝するが、同年オフの柏原純一移籍騒動に巻き込まれる形になり、柏原との交換トレードで、小田義人と共に南海に移籍。


古葉竹識: 二軍時代は藤原満・片平晋作・柏原純一を指導し、古葉は「現役時代は一度も2軍に落ちたことがなかったので、若手を鍛える日々はとても新鮮でした」と語っている。


古屋英夫: 同年の打順は、ボビー・ミッチェル、柏原純一、サム・ユーイングの後の六番を主に務めた。


藤原満: 1974年には柏原純一と併用されて出場機会が減少する。


トニー=ソレイタ: しかし、MVPは、3勝6敗25S防2.85の江夏豊、.310・16本・81打点の柏原純一に次いで3位という結果であった。


トミー=クルーズ: 在籍時は3番クルーズ、4番トニー・ソレイタ、5番柏原純一(柏原とクルーズは入れ替えで3・5番を務めた)のクリーンナップを組んだが、ソレイタや柏原は後にクルーズについて「私生活では良い奴であり、野球では一切、自分に妥協を許さなかった選手」と語っている。


小田義人: 1977年シーズンオフに柏原純一との交換トレードで杉田久雄と共に南海ホークスへ移籍、南海でも1年目はレギュラーとして102試合に出場するが、その後は片平晋作にポジションを譲る。


津末英明: 当時の日本ハムの一塁手には柏原純一がおり、あまり出番に恵まれなかった。


野村克也: その言葉に説得力がない」、打撃コーチの柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。


高畠導宏: 1977年には野村監督解任に伴い江夏豊、柏原純一と共に球団に反旗を翻し、1978年からは選手専任となった野村と共にロッテへ移籍。


大沢啓二: 1978年に南海から日本ハムへ移籍した柏原純一は「細かいことは気にせず、これから頑張ってくれよ。


柏原純一の情報まとめ

もしもしロボ

柏原 純一(かしわばら じゅんいち)さんの誕生日は1952年6月15日です。熊本出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

人物、詳細情報などについてまとめました。母親、引退、事故、テレビに関する情報もありますね。柏原純一の現在の年齢は72歳のようです。

柏原純一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

柏原純一の野球魂

柏原 純一(かしわばら じゅんいち、1952年6月15日 - )は、熊本県八代市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者・評論家・YouTuber。

実家はイグサ農家で、母親は代用教員をしていたという家庭だった。4人きょうだいの第3子(姉、兄、妹がいる)。八代東高校では3年次の1970年、春の選抜にエースとして出場。1回戦で日大三高の渡部良克(日大)と投げ合うも0-2で完封負けを喫した。同年の夏の甲子園県予選では、準々決勝で熊本一工に延長15回の末、敗退した。

同年のドラフトで南海ホークスから8位指名を受け、外野手として入団。その年の秋季キャンプでは袴のようなダブダブのジャージ姿で現れ、当時評論家として視察に来ていた青田昇に「あれは本当に野球選手か。早く地元に帰したらどうか」と酷評されたが、2年後一軍のレギュラーとなり、大洋の監督に就任した青田の前に野村克也選手兼任監督が柏原を連れて行った。「プロに二軍があるとは知らなかった」というほど、何も知らずに大阪へ来たという。

1973年に一軍に上がり、内野手に転向。

1974年には藤原満と併用され、三塁手として54試合に先発出場するが、ドン・ブレイザーヘッドコーチに失格の烙印を押される。

1975年からは一塁手に回る。

1976年にはレギュラーを獲得して規定打席(22位、打率.260)にも達した。

1977年に連続して2桁本塁打を打ち、南海のホープとして期待される。南海時代、ボサボサ頭で、合宿所の畳部屋に一升瓶と共に寝転がっていた姿を見た漫画家の水島新司が、柏原のその風貌を「あぶさん」のモデルの一人にした。柏原は、1977年シーズン途中での野村の解任に際して球団に反旗を翻し、「ロッテじゃなければ引退する」などといった発言まで出して野村と同じロッテオリオンズへの移籍を直訴したが認められなかった。

1978年に小田義人、杉田久雄との交換トレードで日本ハムファイターズへの移籍が決定する。南海、日本ハムの両球団が対象選手の統一契約書のみの交換でトレードを成立(本人の合意を取り付けないままの書類上による強制トレード:プロ野球史上2例目)させたため、任意引退を覚悟した上で柏原も移籍を拒絶したが、野村夫妻に説得されるなどして最終的には承諾、移籍した。日本ハムでは移籍1年目から4番を任され、全試合に出場して共にリーグ5位の24本塁打、84打点と自身最高の成績を記録し、11年ぶりのAクラス入りに貢献した。

1980年から1984年にかけて5年連続全試合出場を果たし、1980年には自己最高の34本塁打(リーグ7位)、96打点(リーグ5位)を記録。選手会長を務めた1981年には打率.310(リーグ8位)、16本塁打、81打点の成績を挙げ19年ぶりのリーグ優勝に貢献する。巨人との日本シリーズでは、19打数8安打2打点2本塁打と活躍した。

1980年6月、首都高速道路を走行中に衝突事故を目撃し持っていたバットでドアガラスを割り、事故車両に閉じこめられていた負傷者らを救出した。

1981年7月19日の西武ライオンズ戦(平和台)では、永射保から敬遠球を大根斬りしたような打法で本塁打を放った。柏原ばかりがクローズアップされる敬遠からの本塁打ではあるが、最初から本塁打を狙っていたわけではなく、きっかけには柏原の同僚だったトニー・ソレイタの存在が関わっていた。その場面は6回裏2死三塁、打者が柏原で、次打者のソレイタが永射を大の苦手としており、西武ベンチは空いていた一塁を埋めるために柏原を敬遠してソレイタで抑える作戦で考えていたが、永射と捕手の吉本博はベンチの指示に従い、永射は立ち上がっていた吉本に1球目と2球目は外角への投球をしていた。「本塁打狙いより三遊間を抜ける安打を打てば1点は入るだろう」と事前に考えていた柏原が「永射の敬遠球が内角に来たら打ってやろう」と思い、永射の3球目が甘くなり内角気味に来たところ、バットをグリップエンドからしっかり握って思い切り振り込んだ結果、打球がバットの真芯に当たり左中間方向に大きく飛び、外野のフェンスを越えてスタンドに入ってそのまま本塁打となった。これは2017年12月2日にNHK BS1「球辞苑」で敬遠がテーマになった際、出演した柏原がこの本塁打についていろいろと語っていて、失敗をするリスクはなかったとも語っていた。この経験は後に阪神タイガースで指導した新庄剛志にも生かされた。ただ、2018年から日本プロ野球でも申告敬遠のルールが適用されているため、敬遠球を本塁打にしたプロ野球選手は巨人の長嶋茂雄と唯一、外野スタンドまで打球を飛ばした柏原の2人のみとなる。

1985年に就任した高田繁監督の構想から外れる。

1986年に阪神に金銭トレードで移籍。同年は主に左翼手として起用されるが、シーズン終盤には掛布雅之の故障離脱に伴い三塁手もこなした。規定打席には届かなかったが打率.313、17本塁打を記録。

1987年は打撃が低迷。

1988年には村山実監督による若手への世代交代策によって出場機会も減少。同年引退引退を判断したのはランディ・バースの守備固めで一塁で1試合2失策を記録し、守備には自負があったからこれがこたえ限界だと思って自分で判断したと述べている。

引退後は阪神で一軍守備・走塁コーチ(1989年)→二軍打撃コーチ(1990年 - 1995年)を務め、在任中は新庄を育て、亀山努を1軍に送り出したが、解任。

阪神退団後は阪神コーチで一緒だった島野育夫ヘッドコーチに声掛けで中日ドラゴンズ一軍打撃コーチ(1996年 - 1997年)を務め、本拠地のナゴヤ球場最終年とナゴヤドーム元年に在任をしていたが、狭いナゴヤ球場から広くなったナゴヤドームに移転してからのチーム打率・得点がリーグ最下位、安打もリーグ5位と成績が前年より低迷をしてしまい、その責任を取らされる形で退団。

中日退団後は朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ・サンテレビ野球解説者(1998年)を経て、1999年から2001年まではかつての恩師である野村に請われ、古巣・阪神の一軍打撃コーチを務めたが、3年連続チーム打率・得点がリーグ最下位に低迷。2001年10月8日解任。当時球団社長の野崎勝義によると「打撃担当の柏原コーチが外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気選手の新庄選手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」と語り、当時オーナーの久万俊二郎も「打撃コーチは能力的に無理なのではないか?」と指導力を問題視された。

阪神退団後はTigers-ai野球解説者・サンケイスポーツ(関西版)野球評論家(2002年 - 2003年)を経て、2004年に日本ハムチーム強化部プロスカウトに就任。2006年よりアマ担当「西日本統括スカウト」となり、2014年からは一軍打撃コーチとして13年ぶりに現場復帰。自身29年ぶりにファイターズのユニフォームに袖を通すこととなり、大谷翔平を指導し、2015年10月13日に退任が決まり、2016年からはチーム統轄本部プロスカウトに就任。2017年12月27日に日本ハムから同シーズン限りでの退団が発表され、2018年からは北海道テレビ・GAORA野球解説者。

人物

南海時代、ナイター前の休息時に大阪にある自宅マンションの近所の小学生達に請われてキャッチボールや簡単な野球の指導もした。夕方になり辺りが暗くなった際には、自宅にその近所の子供達を呼び、柏原の奥さんが作った晩ご飯を振る舞った。

日本ハム時代には、ブラザーの電子レンジのCMに夫婦で出演したことがある。掛布雅之も著書の中で、「安芸キャンプの宿舎のロビーにいた美人を大野久がナンパしようとしたところ、『いつもお世話になっています。柏原の妻です』と挨拶され、慌てて逃げた」というエピソードを紹介している。

日本ハム在籍当時はまだトランペットを使う応援がなく、笛を使った応援がされていたが柏原のみリズムの異なる「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった。柏原の阪神移籍後、トランペット応援が主流でありながらも、柏原は個人応援歌は作成されずに笛応援が継続されていた。

詳細情報

年度別打撃成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
1973 南海 25 70 65 7 18 3 1 1 26 6 2 0 0 0 3 0 2 8 1 .277 .329 .400 .729
1974 82 210 188 24 45 10 1 6 75 21 7 2 0 1 19 3 2 31 2 .239 .314 .399 .713
1975 70 212 186 20 41 3 1 6 64 29 6 6 0 3 20 0 2 14 6 .220 .299 .344 .643
1976 124 487 435 48 113 18 4 16 187 55 26 7 4 2 40 1 6 59 9 .260 .329 .430 .759
1977 129 507 462 65 118 19 3 18 197 54 12 4 2 2 38 0 3 58 12 .255 .315 .426 .741
1978 日本ハム 130 555 500 72 147 18 4 24 245 84 15 10 0 4 49 3 2 64 12 .294 .357 .490 .847
1979 123 546 487 77 139 18 3 22 229 90 18 2 0 3 54 4 1 47 10 .285 .356 .470 .826
1980 130 578 503 82 133 17 3 34 258 96 8 3 0 4 68 6 3 61 10 .264 .353 .513 .866
1981 130 563 468 92 145 22 3 16 221 81 15 3 1 6 84 3 4 39 11 .310 .415 .472 .887
1982 130 529 470 71 134 22 1 22 224 75 3 4 0 5 50 3 3 41 16 .285 .354 .477 .831
1983 130 557 490 68 138 21 0 26 237 89 6 4 2 7 57 2 1 39 21 .282 .353 .484 .837
1984 130 526 454 67 103 15 1 18 174 68 13 4 0 3 68 3 0 57 16 .227 .326 .383 .709
1985 94 223 185 26 40 5 0 5 60 18 3 0 3 1 32 2 2 19 5 .216 .336 .324 .661
1986 阪神 107 345 310 49 97 20 1 17 170 46 3 2 0 2 31 0 2 49 11 .313 .377 .548 .925
1987 57 100 91 4 16 3 0 1 22 5 1 0 0 0 9 0 0 23 3 .176 .250 .242 .492
1988 51 68 59 3 10 5 0 0 15 1 2 0 1 1 7 1 0 9 1 .169 .254 .254 .508
通算:16年 1642 6076 5353 775 1437 219 26 232 2404 818 140 51 13 44 629 31 33 618 146 .268 .346 .449 .796

各年度の太字はリーグ最高

表彰

ベストナイン:3回 (一塁手部門:1978年、1981年、1982年)

ダイヤモンドグラブ賞:4回 (一塁手部門:1978年、1979年、1981年、1982年)

オールスターゲームMVP:1回 (1982年第2戦)

パ・リーグプレーオフMVP:1回 (1981年)

後楽園MVP:1回 (1981年)

記録

初出場:1973年8月9日、対日拓ホームフライヤーズ後期3回戦(大阪球場)、3回裏に桜井輝秀の代走として出場

初安打:同上、6回裏に藤原真から

初盗塁:同上、6回裏に二盗(投手:藤原真、捕手:加藤俊夫)

初先発出場:1973年8月10日、対太平洋クラブライオンズ後期4回戦(平和台球場)、7番・二塁手として先発出場

初本塁打・初打点:1973年8月11日、対太平洋クラブライオンズ後期6回戦(平和台球場)、9回表に三輪悟からソロ

100本塁打:1980年5月19日、対阪急ブレーブス前期9回戦(阪急西宮球場)、3回表に三浦広之から左越3ラン ※史上109人目

150本塁打:1982年5月9日、対ロッテオリオンズ前期9回戦(後楽園球場)、10回裏に仁科時成から左越サヨナラソロ ※史上64人目

1000試合出場:1982年6月16日、対阪急ブレーブス12回戦(阪急西宮球場)、4番・一塁手として先発出場 ※史上229人目

1000安打:1982年8月1日、対阪急ブレーブス後期6回戦(札幌市円山球場)、2回裏に今井雄太郎から左越ソロ ※史上124人目

200本塁打:1984年5月18日、対南海ホークス7回戦(後楽園球場)、8回裏に山内孝徳からソロ ※史上43人目

1500試合出場:1986年8月15日、対中日ドラゴンズ20回戦(ナゴヤ球場)、9回表に吉竹春樹の代打として出場 ※史上83人目

オールスターゲーム出場:3回 (1978年、1979年、1982年)

背番号

53 (1971年 - 1974年)

9 (1975年 - 1977年)

6 (1978年 - 1985年)

2 (1986年 - 1988年)

85 (1989年 - 1995年)

75 (1996年 - 1997年)

77 (1999年 - 2001年)

71 (2014年 - 2015年)

2024/06/14 07:59更新

kashiwabara junichi


柏原純一と同じ誕生日6月15日生まれ、同じ熊本出身の人

映美 くらら(えみ くらら)
6月15日生まれの有名人 熊本出身

映美 くらら(えみ くらら、1979年6月15日 - )は、日本の女優。元宝塚歌劇団月組トップ娘役。 熊本県、熊本信愛女学院高等学校出身。身長159cm。愛称は「くらら」、「くらリン」。 所属事務…

清元 登子(きよもと たかこ)
1939年6月15日生まれの有名人 熊本出身

清元 登子(きよもと たかこ 、1939年6月15日 - 2017年9月16日)は熊本県熊本市出身の日本の女子プロゴルファー、ゴルフ指導者、元日本女子プロゴルフ協会会長である。 24歳で初めてゴル…

上田 桃子(うえだ ももこ)
1986年6月15日生まれの有名人 熊本出身

上田 桃子(うえだ ももこ、1986年6月15日 - )は、日本の女子プロゴルファー。熊本県熊本市東区出身。ZOZO(2020年まではかんぽ生命保険)所属。身長161cm、体重54kg、血液型A型。得…

川口 敬次郎(かわぐち けいじろう)
1919年6月15日生まれの有名人 熊本出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 川口 敬次郎(かわぐち けいじろう、1919年6月15日 - 1991年11月29日)は、熊本県出身のプロ野球選手(投手)。旧姓:岡本…

原田 孝一(はらだ こういち)
1928年6月15日生まれの有名人 熊本出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 原田 孝一(はらだ こういち、1928年6月15日 - 2019年12月24日)は、熊本県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 …

菊永あかり(きくなが あかり)
6月15日生まれの有名人 熊本出身

菊永 あかり(きくなが あかり、6月15日 - )は、日本の女優、声優。熊本県出身。フリー。かつてはネクシードに所属していた。 大阪アニメーションスクール、ネクシード附属養成所&(アンド)…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


柏原純一と近い名前の人

柏原 芳恵(かしわばら よしえ)
1965年10月1日生まれの有名人 大阪出身

柏原 芳恵(かしわばら よしえ、1965年(昭和40年)10月1日 - )は、日本の女性歌手、女優、タレント。Office YOSHIE、フリーボード所属。主な代表曲には、「ハロー・グッバイ」、「春な…

柏葉比呂樹(かしわば ひろき)
生まれの有名人 北海道出身

柏葉 比呂樹(かしわば ひろき、1975年 - )は、日本の漫画家。北海道出身。2007年、『甲子園スーパースター名勝負K・Kコンビ終わらない夏』(双葉社)で、漫画家デビュー。 Be Smile …

柏原 麻実(かしわばら まみ)
1980年6月17日生まれの有名人 福島出身

柏原 麻実(かしわばら まみ、1980年6月17日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。福島県出身、さいたま市在住。女性。兄はイラストレーターの山本七式。 1996年、アフタヌーン四季賞・春の…

柏原 崇(かしわばら たかし)
1977年3月16日生まれの有名人 山梨出身

柏原 崇(かしわばら たかし、本名同じ、1977年3月16日 - )は、日本の元俳優。身長178cm。山梨県出身。実弟は俳優・歌手の柏原収史。 俳優業を引退後は裏方に転身し、現在は女優の内田有紀のマ…

柏原 丈二(かしはら じょうじ)
1963年4月19日生まれの有名人 熊本出身

柏原 丈二(かしはら じょうじ、1963年4月19日 - )は、熊本県出身の元サッカー選手、元サッカー審判員(元国際審判員)、アジアサッカー連盟審判委員長。 名前より、一部のサポーターからは「ジョ…

柏原 明日架(かしわばら あすか)
1996年1月30日生まれの有名人 宮崎出身

柏原 明日架(かしわばら あすか、1996年1月30日 - )は、宮崎県出身の女子プロゴルファー。所属は富士通。 父親の影響で7歳からゴルフを始める。日章学園高等学校卒業。2010年、全国中学校ゴ…

柏原 真智子(かしわばら まちこ)
1980年3月28日生まれの有名人 大阪出身

3月28日生まれwiki情報なし(2024/06/14 11:29時点)

柏原 孝(かしはら たかし)
1950年5月10日生まれの有名人 福岡出身

5月10日生まれwiki情報なし(2024/06/14 07:40時点)

柏葉 幸子(かしわば さちこ)
1953年6月9日生まれの有名人 岩手出身

柏葉 幸子(かしわば さちこ、1953年6月9日 - )は、日本の児童文学作家・翻訳家。岩手県宮古市生まれ、花巻市出身、盛岡市在住。東北薬科大学(現:東北医科薬科大学)卒業。本業は薬剤師。日本ペンクラ…

柏原 賢二(かしはら けんじ)
1947年6月15日生まれの有名人 大阪出身

6月15日生まれwiki情報なし(2024/06/14 03:29時点)

柏原 竜二(かしわばら りゅうじ)
1989年7月13日生まれの有名人 福島出身

柏原 竜二(かしわばら りゅうじ、1989年7月13日 - )は日本の陸上競技元選手、スポーツ解説者・ナビゲーター。現役時代の陸上専門種目は主に長距離走・駅伝競走。福島県いわき市出身。愛称は「かっしー…

柏原 寛司(かしわばら ひろし)
1949年9月6日生まれの有名人 東京出身

柏原 寛司(かしわばら ひろし、(1949年〈昭和24年〉9月6日 - )は、日本の脚本家、映画監督。東京都中央区日本橋出身。一般社団法人シナリオ作家協会会長、日本シナリオ作家協会副理事長を歴任。通り…

柏原 兵三(かしわばら ひょうぞう)
1933年11月10日生まれの有名人 千葉出身

柏原 兵三(かしわばら ひょうぞう、1933年11月10日 - 1972年2月13日)は、日本の作家、ドイツ文学者。 千葉県千葉市出身。父は運輸通信省自動車局長や大日本産業報国会理事長を務めた柏原…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
柏原純一
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

ベイビーレイズ TEAM★NACS predia Timelesz アリス十番 Kis-My-Ft2 ももクロ THE ポッシボー SixTONES 9nine 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「柏原純一」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました