森本稀哲の情報(もりもとひちょり) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
森本 稀哲さんについて調べます
■名前・氏名 |
森本稀哲と関係のある人
坪井智哉: しかし、4月当初は森本稀哲、エンジェル・エチェバリア、島田一輝、西浦克拓らの併用もあり、スタメン起用は少なかった。 實松一成: セレモニーでは自身のドラフト同期入団である建山義紀と森本稀哲が駆けつけており、2人から花束を手渡されている。 稲葉篤紀: 5月23日には札幌ドームにて「稲葉篤紀2000本安打メモリアルナイター」が開催され、試合前のセレモニーでは山田久志名球会理事よりブレザーが贈呈され、相手チームのDeNAからは元同僚の森本稀哲より花束が贈呈された。 坪井智哉: そんな中、坪井はマウンドを通り過ぎ外野へと向かい森本稀哲と抱き合ったあと、ひとり泣きながらベンチへゆっくり戻る新庄のもとへ駆け寄り抱き合った。 土屋朋弘: 初奪三振:2010年9月24日、対北海道日本ハムファイターズ24回戦(クリネックススタジアム宮城)、9回表に森本稀哲から空振り三振 武内久士: 初奪三振:2010年5月16日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、6回表に森本稀哲から空振り三振 稲葉篤紀: 特にカーブを得意とし、森本稀哲曰く「世界一カーブが好きな男性」だという。 小谷野栄一: 9月の札幌ドームでの試合前に新庄剛志、森本稀哲、稲葉篤紀、石本努との5名で同じデザインのかぶりもの(新庄の顔を模った仮面で「SHINJO5」と命名)を被り、ユニフォームも全員で「背番号:1、背ネーム:SHINJO」のものを着用してシートノックを受けるというパフォーマンスを披露した。 和田毅: 上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は松坂世代で最も強い先発左投手として彼の名前を挙げている。 井手正太郎: しかし、国内FA権の行使により、北海道日本ハムファイターズから移籍した森本稀哲が外野のレギュラーに定着したことなどから、自身の一軍公式戦出場は13試合にとどまった。 小池正晃: 上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は、松坂世代の中で一番強い右翼手として迷った末に彼の名を挙げた。 田村勤: この試合で田村はプロでは最初で最後となる先発マウンドに立ち、先頭打者の森本稀哲を三振に抑え、降板した。 稲葉篤紀: なお左翼・森本稀哲、中堅・SHINJO(新庄剛志)との外野陣を2005年に10数試合、SHINJOの現役最終2006年には1年を通して形成し、2006年は森本と刺殺・レンジファクター(RF/G)共にリーグ外野手2位のSHINJOとで合計800弱の刺殺を記録して、3人揃って当年のゴールデングラブ賞を受賞している(同一チーム選手での外野手部門独占は1978年・阪急ブレーブス以来で、史上2例のみ〈2016年度発表時点 〉)。 梵英心: 森本稀哲は、上原浩治のYouTubeチャンネルに出演した際、松坂世代の中で一番強い遊撃手として彼を挙げた。 工藤隆人: この成績をうけてシーズン終盤に一軍登録され、9月22日の対オリックス・バファローズ戦にて森本稀哲の代打としてプロ入り初の一軍出場を果たした。 中島俊哉: 上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は、松坂世代の中で一番強い指名打者として彼を挙げた。 中田翔: 2010年は長距離打者であるターメル・スレッジの退団と、レギュラー左翼手だった森本稀哲が故障で離脱したこともあり、開幕戦で7番・左翼手として自身初の開幕戦先発出場を果たし、杉内俊哉から自身初の2点適時打を打つ。 村田修一: 上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は、松坂世代の中で一番強い三塁手として彼を挙げ、「守備もうまく、ホームランバッターでありながらチームバッティングもできる」と評した。 紺田敏正: 同年秋のアジアシリーズでは、出場を辞退した現役を引退する予定のSHINJOに代わり、3試合に左翼手として先発出場した(その年に主に左翼手を務めていた森本稀哲が、SHINJOが務めた中堅手に回る)。 山崎康晃: 前述の通り、森本稀哲とは幼い頃から親交があり、山﨑が野球を始めたきっかけも帝京高校に進学したきっかけも森本。 陽岱鋼: シーズン中は、フリーエージェント権を行使して退団した森本稀哲に替わる2番打者を主に務め、6月下旬に田中賢介が骨折した後は1番打者としても出場した。 工藤隆人: 初出場:2005年9月22日、対オリックス・バファローズ17回戦(スカイマークスタジアム)、6回表に森本稀哲の代打で出場 河内貴哉: 1年夏から登板し、同年秋の都大会では準々決勝で森本稀哲のいた帝京高を相手に延長13回完投勝利するも準決勝で敗れた。 糸井嘉男: 2009年は「7番センター」として2年連続の開幕スタメンの座を掴むと、打順は7番や2番を中心に、主に3番の稲葉篤紀がスタメンを外れた12試合では3番を担い、ポジションは前年まで3年連続でゴールデングラブ賞を獲得していた森本稀哲を押しのけセンターとしてついにレギュラーに定着。 杉内俊哉: 上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は松坂世代で最も強い中継ぎ投手として久保田智之と共に彼の名前を挙げている。 石本努: 2004年に起こったプロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となった9月20日の対福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)試合前に「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称し、5名の同僚外野手で『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりもの(仮面)を被ってシートノックを受けるというパフォーマンスを披露した(アカレンジャー:森本稀哲、アオレンジャー:島田一輝、キレンジャー:新庄剛志、モモレンジャー:石本、ミドレンジャー:坪井智哉)。 古木克明: 上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は「フライが取れない」と彼の守備力を酷評していた。 東出輝裕: 上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は、松坂世代の中で一番強い二塁手として彼を挙げた。 島田一輝: この年起こったプロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となった9月20日の対福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)試合前に「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称し、5人の同僚外野手で『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりもの(仮面)を被ってシートノックを受けるというパフォーマンスを披露した(アカレンジャー:森本稀哲、アオレンジャー:島田、キレンジャー:新庄剛志、モモレンジャー:石本努、ミドレンジャー:坪井智哉)。 田淵裕章: 準々決勝の帝京高校戦でセンター前の痛烈な打球を放つも、ショートの森本稀哲に好捕されたことでレベルの差を痛感し、大学では野球をやめることを決意した(帝京高校は同年の東東京代表となった)。 |
森本稀哲の情報まとめ
森本 稀哲(もりもと ひちょり)さんの誕生日は1981年1月31日です。東京出身の野球選手のようです。
人物、選手としての特徴などについてまとめました。引退、テレビ、病気、現在、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。森本稀哲の現在の年齢は43歳のようです。
森本稀哲のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート ひちょりズム 森本 稀哲(もりもと ひちょり、1981年1月31日 - )は、東京都荒川区出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投右打)、コーチ、野球解説者、野球評論家、タレント、YouTuber。 1998年度ドラフト会議にて日本ハムファイターズから4位指名を受けて入団。2006年から2008年にかけて3年連続でゴールデングラブ賞を受賞、2007年にはベストナインにも選ばれた。2011年には横浜ベイスターズへ、2014年には埼玉西武ライオンズへ移籍し、ライオンズ在籍中の2015年に現役を引退。2023年から北海道日本ハムファイターズの一軍外野守備走塁コーチを務める。 小学生の時、汎発性円形脱毛症にかかり、髪の毛が抜けてしまう。そんな折、小学校の友人から野球に誘われ、サッカーと並行して野球を始める。野球にそれほど興味がなかったものの、所属していたサッカーチームには学校の友達がおらず疎外感を感じていた、帽子を被ってプレーする野球では頭髪を気にせず競技に打ち込めるなどの理由から、次第に野球に打ち込むようになる。Jリーグの発足とそれに伴う報道過熱で、有力野球チームに加入するか、一度諦めていたサッカーに復帰するか迷ったが、父が読売ヴェルディのテストを手配。ここで「まったく歯が立たなかった」「自分はこんなにも下手だったのかとすぐに自覚できるような状態」だったこともあり、中学以降は野球に専念するようになる。 帝京高校では3年生の時に主将、遊撃手として第80回全国高等学校野球選手権大会に出場。3回戦の浜田高校戦で、8回表に和田毅からバックスクリーンへの同点本塁打を放つも敗退。高校通算34本塁打。ちなみに後にフジテレビアナウンサーとなる田淵裕章がいる高校とも試合をした経験があり、田淵の打った球をファインプレーで取ったことから、田淵はレベルの違いを痛感して期待していたプロ入りを諦めたという。 1998年度のドラフト会議にて、日本ハムファイターズから4位指名を受けて入団。 1999年は一軍昇格がなく、2年目の2000年にレギュラーシーズン初出場を果たし初本塁打を記録。主に守備・代走要員で起用される。 2003年、監督に就任したトレイ・ヒルマンに「バーニー・ウィリアムスの再来」と評され、1番・中堅手で初めて開幕スタメン起用される。4月だけで4本塁打を打つが、その後は打撃が伸び悩み、阪神タイガースから移籍してきた坪井智哉にポジションを奪われ、守備・代走要員にとどまった。2005年には打撃が向上し、初の100試合出場で打率.264、7本塁打を記録した。 2006年は開幕スタメンの坪井の離脱などもあり4月下旬頃から1番・左翼手に定着し、自身初の規定打席に到達し、本塁打・打率ともに自身過去最高を記録。パシフィック・リーグ最多得点を記録し、ゴールデングラブ賞を初受賞した。7月、オールスターゲームに初出場して第2戦で本盗に成功した(2004年の同僚・新庄剛志以来史上3人目)。10月、日本シリーズに初出場して当シリーズ最高打率を記録し、優秀選手賞を受賞した。 2007年、前年限りで引退した新庄の意向で同選手が着用していた背番号1を継承し、主に新庄が就いていた中堅手に定着。シーズン終盤まで片岡易之(西武ライオンズ)と盗塁王のタイトルを争うなど(結果は片岡が獲得)、不動の1番打者として全イニング出場を果たし、2年連続のリーグ最多得点と初の打率3割を記録。24試合連続安打はリーグ歴代6位タイ、球団では大下弘と並び最多タイ記録。右打者であるが、内野安打の数も稲葉篤紀に次ぐリーグ2位を記録。最多得票でゴールデングラブ賞と、初のベストナインを受賞。補殺数は両リーグ1位の15個を記録した。だがこの華々しい結果により、シーズンオフには達成感で燃え尽きてしまったと本人は語っている。 2008年5月25日の読売ジャイアンツ戦で、西村健太朗から死球を受けて左手小指を骨折(全治5週間)。2006年から続いていた全イニング出場も途絶えた。後半戦はケガの影響から不振に喘ぎ、自身最低の打撃成績となった。3年連続となるゴールデングラブ賞を受賞。なお、この年の5月ごろに新庄の経営でアスリートのマネジメント等を業務とする株式会社レハサフとマネジメント契約を締結し、一定期間契約していた。2007年シーズンに燃え尽き症候群に陥った森本にとって、左手骨折による戦線離脱は「シーズン中なのに休めてラッキー」と認識するような出来事であったため、この気の緩みが尾を引いて残りのシーズンで打撃不調に陥ったと本人は後に分析している。 2009年は糸井嘉男に中堅手を奪われ、左翼手としての出場が多くなり、スタメン落ちも増え出場機会が激減。同年5月、出場登録日数が8年に達し、国内移籍が可能となるFA権を取得。オールスター戦明けには出場機会も増えていたが、8月6日の西武戦でジョン・ワズディンから死球を受け、左手小指を骨折。107試合に出場したが規定打席に到達せず、打率も.247に終わった。田中賢介が1番に定着して2番に回り、リーグ最多の43犠打を記録し、成功率10割を誇ったが、巨人と対戦した日本シリーズでは何度もバント失敗を繰り返し、2併殺と不振だった。この年はFA権を行使せず残留し、記者会見で「どんな条件を出されても残留するつもりだった。他チームでプレーする理由がまったくない」と語った。 2010年7月14日の西武戦の初回、犠打を試みた際に野上亮磨から死球を受け退場。右手薬指を骨折し、翌日に登録を抹消された。これで3年続けて死球により骨折したが、それでも2年連続リーグ最多の55犠打を記録し、打率も.272と持ち直した。 同年オフにFA権を行使し、横浜ベイスターズへ移籍。 12月11日に正式契約。同日に横浜中華街の媽祖廟で入団会見が行われた。背番号は5に決定。 2011年、6番・中堅手で開幕スタメン出場。5月1日に扁桃腺炎のため登録を抹消された。その後復帰したが、7月6日の広島東洋カープ戦で自打球を当て左足を負傷。左足脛骨近位骨挫傷と診断され8日に再び登録を抹消され、一軍復帰は10月となった。復帰後も若手主体で起用する監督の方針もありスタメン出場は限られ、成績面でも結果を残せなかった。 2012年、2年連続で開幕スタメンとなるが、アレックス・ラミレスの加入、荒波翔の台頭もあり、5月以降はスタメン機会が減少。代打、代走、守備固めでの途中起用が多くなった。最終的には108試合に出場し、スーパーサブとしてチームを支えた。9月に左手有鈎骨を骨折し、28日に登録抹消されシーズンを終える。 2013年はシーズンのほとんどが二軍でのプレーとなり、10月4日に球団から戦力外通告を受けた。シーズン最終戦の10月8日の対阪神タイガース戦(横浜スタジアム)で2番・右翼手で先発出場し、2打数無安打で4回の守備から退いた。 その後埼玉西武ライオンズの秋季キャンプにテスト生として参加し、2013年11月19日に同球団への入団内定が発表され、12月4日に正式に契約したことが発表された。背番号は0。この背番号には「0からのスタートで頑張れ」という球団からの思いが込められていた。 かつて1億円プレイヤーであった森本がプライドをかなぐり捨ててテスト生となったのは、「まだまだ野球がしたい」と願った上での選択であった。入団後は練習も真面目に行い、派手な私生活も見直し、パフォーマンスも封印して控え選手として陰ながら西武を支えた。 2014年、開幕一軍入りし、3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で移籍後初出場。開幕前の秋季キャンプで一塁手の練習をしており、実際4月12日の対日本ハム戦で一塁手として出場した。一軍の試合で一塁の守備に就いたのはプロ初である。最終的に、一塁手としての出場機会が外野手としてのそれを上回った。同年は99試合に出場し、打率は.252と一定の成績は残した。 2015年も開幕一軍入りは果たしたが11試合で11打数無安打と結果を残せず二軍落ちとなり、このシーズンを限りに現役引退を決断、9月21日に会見を行った。 9月27日に引退試合(対楽天、西武プリンスドーム)が行われ、チームがCS出場争いの最中だったため8回表の守備から守備固めとして7番・右翼手として途中出場する。3-1と西武がリードしていたため最後の攻撃となる可能性が高かった8回裏は1番打者から始まり、7番の森本まで回るには4人が出塁しなければならなかったが、ベンチで起こった「ひちょりさんに回せ」の合言葉のもと打線が繋がり、二死で打席が回る。涙を流しながら入った現役最終打席は三塁ゴロであった。セレモニーで流されたビデオメッセージには同僚に加え、日本ハム時代の元同僚・新庄剛志、稲葉篤紀もコメントを寄せており、その後グラウンドへ現れた稲葉からも花束を贈られる。スピーチでは打席を回してくれたチームメイトへ涙ながらに感謝の意を表す。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された。 経営学を学ぶ目的で、引退以降の活動のマネジメント契約先は、経営コンサルティング会社のCK PLAT(日本経営教育研究所)となった。2016年1月からは、日本ハム時代のチームメイト・金村曉の後任扱いで、『みんなのテレビ』(北海道文化放送)の月曜コメンテーターとなった。さらに同年のプロ野球シーズンからは、同局に加えて札幌テレビ・STVラジオ・北海道テレビ放送・北海道放送・CBCラジオ・テレビ東京(BSジャパン)・テレビ北海道・TVQ九州放送・tvk・テレ玉・文化放送(ゲスト)・GAORA・スポナビライブ(DeNA戦)の野球解説者としての活動も始めた。2021年からはNHK札幌(本数契約)の野球解説者としても活動する。 また同年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった。 2019年9月に自身初の冠番組『ひちょりのWA!!』(STVラジオ)のパーソナリティ就任が発表された。また、同月にはYouTubeチャンネル「ひちょりズム」を開設し、YouTuber活動もスタートしている。 2023年から北海道日本ハムファイターズの一軍外野守備走塁コーチを務める。 人物人物像
9月19日:試合前練習に新庄剛志、稲葉篤紀、小谷野栄一、石本努とともに同じデザインのかぶりもの(新庄の顔を模った仮面で「SHINJO5」と命名)を被り、ユニフォームも全員で「背番号:1、背ネーム:SHINJO」のものを着用して参加。 7月2日:試合後のヒーローインタビューで、尾崎豊『きっと忘れない』を熱唱した(前年のファン感謝イベントでの公約による)。 7月21日:オールスターゲーム第1戦の試合前イベントに、漫画『ドラゴンボール』に登場するピッコロの姿で登場。23日の第2戦試合前イベントには、リングドーナツ型のカツラを装着し、差し歯を抜いて登場した。オールスターで対戦した上原浩治は、森本の仮装について「こんな奴には打たれたくなかった!」と当時憤慨していたと、引退後に語っている。 8月13日:試合前のスターティングメンバー紹介時に自身だけ「ラリージャパン」の幟をつけた自転車で入場。 10月26日:日本シリーズ優勝決定後のビールかけの場にスピードスケート選手の衣装で登場。 6月2日:試合前練習に竹馬とズボンを履いて登場。身長3mの「ひちょ・マックス」(ジャンボマックスにちなむ)姿で守備練習を行った。 7月20日:オールスターゲーム第1戦の試合前イベントに、帽子から「伸びた頭」を付けて登場。21日の第2戦試合前イベントには、タイのムエタイ風の姿(上半身裸に緑のトランクス)で登場した。 11月25日:この日札幌ドームにて行われたファンフェスティバルでのキックベース対決において、同じく札幌ドームに本拠地を構えるコンサドーレ札幌のユニフォームを着て登場。背番号は「8」で、これは親交の深い砂川誠(当時コンサドーレ札幌所属)から借り受けたものであった。 12月10日:ゴールデングラブ賞表彰式会場に、マイケル・ジャクソンの様なメイクと上下赤のレザーファッションで登場。 2月14日:沖縄キャンプでの紅白戦初打席の登場曲に国生さゆりの『バレンタイン・キッス』を選曲、口には口紅で大きなハートマークを書いて登場。北海道文化放送で前年末に放送された番組での公約を守るためだったが、相手投手の藤井秀悟に試合終了後、謝罪した。 5月18日:始球式投手を務めた引退している新庄剛志と1打席の真剣勝負を行った。結果は5球目の140km/h超の速球で内野ゴロに打ち取られた。 7月22日:「WE LOVE HOKKAIDO シリーズ 2008」で「ひちょりイリュージョン」と称し、バックスクリーン横の地上17メートルからワイヤーに吊られて登場。 8月1日:オールスターゲーム第2戦の試合前イベントに、ユニフォームを上下逆さまに着て尻に人形の頭をつけ、一見すると逆立ちしているような姿で登場。その格好のまま堀内恒夫と山本浩二の野球殿堂入り表彰式に臨んだため、一部批判を受けた。 12月11日:横浜中華街の媽祖廟で行った横浜ベイスターズへの入団会見で、漫画『キン肉マン』に登場するラーメンマンのコスプレで登場した。 6月9日:交流戦・古巣日本ハムとの試合の降雨中断時に、日本ハムの小谷野栄一と乱闘のパフォーマンスで観衆を楽しませた。 6月10日:引退後の交流戦・DeNA対日本ハムの古巣同士の試合で、始球式投手を務めた樽美酒研二と1打席の真剣勝負を行った。服装はDeNAのユニフォームで、顔には樽美酒と揃いの白塗りメイクを施していた。対戦途中の投球は127km/hを記録し、最終的に外野まで打ち返した。 選手としての特徴外野守備では日本ハム時代に左翼手として、中堅・SHINJO、右翼・稲葉篤紀との外野陣を2005年に10数試合、SHINJOの現役最終2006年には1年を通して形成し、3人揃って2006年度ゴールデングラブ賞を受賞した(同一チーム選手での同賞の外野手部門独占は1978年・阪急ブレーブス以来、史上2回目)。中堅のSHINJOとは「左中間への深い打球を捕球→体勢が悪い時は相手にトス→トスを受けた方が補殺を狙う」という連携を時折行ったが、肩は強くなかったと自認している。 上原浩治の公式YouTubeチャンネルに2021年7月に公開された動画で森本稀哲は、松坂世代の中で一番強い中堅手として「僕よりセンター上手い人いないでしょう」と自身の名を挙げた。 2024/06/15 03:08更新
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morimoto hichori
森本稀哲と同じ誕生日1月31日生まれ、同じ東京出身の人
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