川口和久の情報(かわぐちかずひさ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


川口 和久さんについて調べます
■名前・氏名 |
川口和久と関係のある人
原辰徳: 2011年は、前年度の失敗から投手総合コーチに川口和久を招聘し立て直しを図り、この年入団した澤村拓一の活躍もあり改善したが、抑え投手を固定できず、久保裕也に決まるまではレビ・ロメロやジョナサン・アルバラデホなどを日替わりで起用した。 川相昌弘: 巨人で一軍のヘッドコーチを務めていた頃の川相について、当時投手コーチだった川口和久は、コーチから退任した後に「こだわりがあって気配りもできて、なおかつ、相当ねちっこい男でもあった」と証言している。 阿南徹: 川口和久コーチはストレートを評価する一方、変化球の精度が課題だとしている。 栁田昌夫: 初本塁打:1990年4月21日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に川口和久から 藤原良平: 鳥取城北高等学校出身のプロ野球選手は川口和久、能見篤史に続いて3人目である。 金石昭人: 同月3日に行われた広島との最終戦(東京ドーム)で、PLの後輩・吉村禎章や広島時代からの同僚・川口和久と共に引退セレモニーが実施され、背番号19の後任となった上原浩治とも親交が深い。 金本知憲: かつて広島から巨人へFA移籍した川口和久や江藤智が広島市民球場で激しく野次られるのを見ていたため自分も野次られるのではないかと恐れていたが、移籍後初の広島市民球場での試合で逆に声援を受け安堵したと語っている。 岡平健治: 川口和久のサイン入りユニフォームを所持しており、『開運!なんでも鑑定団』出演時に鑑定してもらった時は30万円の値がついた。 柳田浩一: 初本塁打:1990年4月21日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に川口和久から 宮田征典: 巨人ではコーチ1期目こそ球団史上初の最下位に終わり、二軍に降格して解任されたが、コーチ2期目に桑田真澄を立ち直らせ、石毛博史を育て、川口和久にリリーフ転向を誘った。 津田恒実: この時、津田とダブルストッパーを組むことになっていた大野豊を始めとする投手陣は、リーグの投手部門の主要タイトルを独占するという大活躍を見せている(最優秀救援投手: 大野、最多勝利・最優秀防御率・沢村賞: 佐々岡真司、最高勝率: 北別府学、最多奪三振: 川口和久)。 山崎武司: また、8月19日の広島戦では川口和久からサヨナラ本塁打を放った。 高橋慶彦: 寮では基本的には酒を飲めなかったが、高橋と北別府の部屋は例外だったため、川口和久らはよく高橋の部屋で飲んだという。 長嶋茂雄: ヤクルトからFAで広沢克己と自由契約になったジャック・ハウエル、広島からもFAで川口和久、メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズからシェーン・マックを4億円で獲得するなど30億補強とも言われた大型補強を敢行したが広沢・松井ら大型打線が落合を除き全体的に調子が上がらず、桑田真澄の故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルトの後塵を終始拝し続け3位に終わる。 土橋勝征: 初盗塁:1992年7月30日、対広島東洋カープ16回戦(明治神宮野球場)、3回裏に二盗(投手:川口和久、捕手:達川光男) 西山一宇: 初奪三振:同上、6回表に川口和久から 達川光男: 川口和久にそのコースへ投げさせたところ、あわやホームランという大ファウルを打たれ冷や汗をかいたという。 植田幸弘: 初出場:1986年7月3日、対中日ドラゴンズ13回戦(ナゴヤ球場)、5回表に川口和久の代打として出場 安仁屋宗八: 川口和久は公私ともお世話になった恩師と名前を挙げている。 デーブ=レーシッチ: しかし当時の広島は大野豊、北別府学、川口和久、山根和夫ら先発陣が磐石であり、抑えでは西武ライオンズから復帰したばかりの小林誠二も危なげない投球を見せていたため、制球に不安があるレーシッチは敗戦処理中心の起用となった。 松尾雄治: 関口宏の東京フレンドパークII(1999年1月4日、TBSテレビ)川口和久と来園。 松谷竜二郎: 初奪三振:1989年6月14日、対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)、9回表に川口和久から 山口鉄也: 7月5日には4連投し、村田修一が川口和久投手総合コーチに「休ませてください」と直訴するなど周囲を心配させるも、その後も安定した投球を続け、7月には育成枠出身選手として初の月間MVPを受賞した。 片岡安祐美: 第1打席は川口和久と対戦しセカンドゴロ、第2打席は北別府学と対戦しライト前に流し打つがライトゴロに終わる。 植田幸弘: 初安打:1987年10月15日、対ヤクルトスワローズ23回戦(広島市民球場)、8回裏に川口和久の代打として出場、矢野和哉から単打 西口文也: また1996年の近鉄戦に8者連続三振、2006年には通算1500奪三振を記録し、要した投球回数1729イニングは当時48人の達成者の中で石井一久、江夏豊、川口和久に次ぐ4番目のスピード記録であり、右投げでは歴代1位であった。 小山昭晴: 初打点:同上、4回表に川口和久から決勝適時二塁打 岡本哲司: 初打席・初安打:同上、7回裏に川口和久から単打 古葉竹識: 当初は池谷公二郎以外の仲人を唯一の例外として「選手に情が移る、と周りから思われる」ことを理由に断り続けてきたが、1985年の高橋慶彦・川口和久・長嶋清幸ら主力に育てた若手の結婚ラッシュのときは「監督しかいない」と頼まれ、そのほぼ全員の仲人を務めることになった。 岩田徹: 初本塁打・初打点:1990年5月24日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)、3回表に川口和久からソロ |
川口和久の情報まとめ

川口 和久(かわぐち かずひさ)さんの誕生日は1959年7月8日です。鳥取出身の野球選手のようです。

兄弟、卒業、テレビ、結婚、引退、ドラマ、趣味、映画、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。川口和久の現在の年齢は65歳のようです。
川口和久のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 川口 和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日 - )は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者、タレント。愛称は「カワ」、「グッチ」 実家は鳥取の吉岡温泉で旅館と食堂を経営していた家庭で、男ばかりの三兄弟の末子として生まれる。兄たちの影響もあって早くから野球を始め、湖南小学校4年生で少年野球チームに入った。当初は一塁手であったが6年生で投手になり、湖南中学校では市大会で優勝する原動力となった。味方が失策をしても怒らずに慰めるなど、冷静な投手であったという。 速球派投手として注目され県内の各高校野球部から誘いを受けたが、1975年に鳥取城北高校へ進学。1年次の同年秋には鳥取県大会で3位に入って明治神宮野球大会に出場し、1回戦で関東代表の作新学院に1-3で敗れた。これをきっかけに県外遠征も増え、2年次の1976年には春季中国大会では黒田真二を擁して同年の春の選抜で優勝した崇徳高を8回まで1失点に抑える好投を見せ、1-2で敗れはしたもののプロのスカウトから注目を集めるようになった。 同年夏の鳥取大会では優勝候補と見られていたが四球を連発して2回戦で敗れ、大きなショックを受けて野球に対する考え方が厳しくなったという。3年次の1977年になると松本正志や田辺繁文と共に、高校左腕三羽ガラスという高い評価を受けていた。NPBの10球団から獲得を打診されたほか、先述の中国大会での川口の投球がロッテの金田正一監督の目に留まり、川口の所に直接金田から「どうだ、ロッテに来ないか? 俺はお前の左投げが好きなんだよ。(金田自身が着けていた)背番号34も用意するし、(ロッテのドラフト1位選手と同待遇の)契約金も3000万円は用意するから、ロッテに来い」と電話が来るほど金田は川口の獲得に熱心だった。そんな金田の熱意に反し、当時『プロ野球ニュース』でロッテといえば金田流の「とにかく走って走って走りまくる」練習映像ばかりが流れていたイメージが川口にはあったので、「こんな(走る練習ばかりの)チームには行きたくねぇな…」とロッテ入りを嫌がり、「金田さん、出来たら社会人野球からロッテに入れさせて下さい。高校からの指名は無しでお願いします」と金田に断りの電話を入れた。これで高卒後のロッテ入りの可能性は無くなったと思われたが、1977年のドラフトで断りを入れたはずのロッテから6位指名を受けた。そして金田から再び電話があり、「(入団するかどうかは別として)とりあえず6位で指名しといたから。気が変わったら(ロッテに)入って来い、契約金等は一位の時と一緒だから」と言われたという。周囲からは入団を勧める声もあったが、結局ロッテ入りは破談となった。 高校卒業後の1978年、野球部の監督と同じ鳥取西高のOBが監督と部長を務めるデュプロに入社。川口自身は鳥取城北の先輩が在籍していた三菱自動車京都に入社したかったが、高校の監督の先輩であるデュプロの監督に任せれば全部ちゃんとやってくれるから行きなさいと、半強制的にデュプロに決められたという。また、当時のプロ野球はどの球団も今ほど育成システムがしっかりしておらず、高卒から即プロ入りした選手で大成しないままクビになる選手が統計的にもとても多かったので、(高校から即プロではなく)社会人野球を選んだとも川口は語っている。なお、当時のロッテからは契約金3500万円(ドラフト1位選手以上の評価)を提示されていたという。 当時のデュプロは自社のグラウンドがないなど環境は厳しく、平日は朝9時から夕方まで自動車を運転して営業の業務を行ない、野球の練習は夜の2時間半だけで、川口曰く、営業8割・練習2割であった。1年目は住友金属に補強されて都市対抗野球では準々決勝でリードされた最後僅かに登板。この時、チームのエースであった森繁和と都市対抗の期間中である約1ヶ月間を同じ部屋で過ごし、とても可愛がってもらったという。 2年目の1979年には初先発の松下電器戦でバスターの構えから本塁打を打たれて自信をなくし、高校時代に膝を痛めていたのに走り込みを強要されそうになったこともあり、一時は退部を真剣に検討したが、翌年までプロ入りできないためもう1年続けることを決めたという。この頃、帰郷した際に馴染みのスポーツ用品店を訪れたところ、店主が広島東洋カープの小林正之コーチと大学でチームメイトであったことから球団に推薦してもらい、ドラフト解禁となる翌年にはドラフト外でも獲得してもらえるよう話が進んだという。その後は地方大会などで好投して注目を集めたが、広島入りを希望しているという噂を聞いて視察したスカウトの木庭教から高い評価を受け、「ドラフト外で獲るので、注目を避けるため故障という事にして1年間投げないでほしい」と頼まれた。大洋の別当薫監督が来た時も痛みをアピールし、これによって故障を信じる関係者が増えたという。 当時のデュプロの社長は元海軍軍人で野球が大好きな鬼社長で、試合に負けたら烈火の如く怒り、野球部全員を一列に並ばせてケツバットを浴びせた。どこも痛いところはないのに嘘を付き通すのは気が引けたが1980年のドラフト会議で原辰徳を抽選で外した広島から1位指名を受け、契約金と年俸それぞれ3300万円、360万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ。契約金に関してはのちに本人がテレビ番組出演時に3500万円でサインしたと明かしている。 先の事情から、親にも会社にも広島からドラフト外で獲られることは話してなく、マスコミも指名されるとは知らなかった。外れとはいえ、ドラフト1位の指名に、「お宅の社員に川口さんという人はいますか!」と、当時デュプロ本社から50メートルの所にあった読売テレビが問い合わせしてきて、すぐにデュプロ本社にテレビクルーが押しかけて来た。指名されたときは、職場で売り上げのグラフを書いていたという。その後貴賓室で急遽記者会見が行われ、作業服にデュプロのジャンパーを着た川口の姿が全国放送に映し出された。先が細い作業服にトンボ眼鏡の川口の出で立ちにカープファンからも「どこの馬の骨じゃ」と訝しがった。デュプロ初のドラフト1位指名に社長も大喜びかと思いきや、「結婚の時にはお宅の娘さんを下さいと親に挨拶をするのが常識。ドラフト指名するなら普通会社に挨拶ぐらいするだろう。広島というのはどうしょうもないチームだ。突然来て、指名できるのはキャバレーだけだ!お前はプロにはやらん!」と記者会見で捲し立てた。スカウトの木庭が会社に挨拶に行った際も、このキャバレー理論で即座に追い返されたが、野球大好きな社長は内心は喜んでいて、若干揉めたが無事広島に入団した。 現役時代はセントラル・リーグで一貫してプレー。日本プロ野球に於いて、外国人選手でも珍しい左投げのスイッチヒッターであった。高校までは右で打っていたが、利き腕の左肩にデッドボールを受けて当時の監督に左打者に矯正させられ、プロでも最初は左で打っていた。1994年の対ヤクルト戦で、石井一久の頭を目掛けて飛んでボールにひっくり返って頭を地面に強く打ち、脳震とうを起こしてから、左投手には右打席に立つようになった。実際、年に1回は猛打賞を記録し、左右共に安打を打ち、現役18年間の打撃成績は797打数128安打、3本塁打である。 プロ1年目の1981年はオープン戦から落ち着いたマウンドさばきを監督の古葉竹識に評価されていた。すぐに一軍に登録され自信を持っていたが、初登板となった4月10日の対中日戦で左打者相手に起用されながら二塁打を打たれ、二軍で調整したいと志願した。これは却下されたが、6月頃にはキャッチボールを見ていた山本浩二に投球フォームのクセから全ての球種をあっという間に看破され、恐怖を感じたという。同月の対阪神戦で投手の山本和行に満塁本塁打を打たれて二軍落ちし、大下剛史や大石清によって徹底的に走らされた。ナゴヤ球場でのジュニアオールスターゲームにはオールウェスタンの一員として出場。 一方で厳しい練習を乗り越えた事で自信がつき、入団2年目の1982年は7月8日に一軍に昇格し、10日の対巨人戦登板中にギックリ腰を発症した福士敬章に代わって15日の対大洋戦の先発を任され、この試合でプロ初勝利を挙げた。9月2日の対中日戦では4安打完封で初完投勝利を達成するなど、同年は15試合に登板して4勝を記録し、防御率は1.94となっている。同年オフは前年に続きアメリカの教育リーグに参加した。 3年目の1983年春、臨時コーチで招かれた長谷川良平から、コントロールを意識したノーワインドアップ投法ではなく、入団時のワインドアップ投法に戻すように指示されたことが転機となり、先発ローテーション投手として一軍に定着。この時長谷川からは、「ノーワインドアップだと上体に頼り過ぎ、肩・肘を痛める。制球難は気にせず荒れ球は味方にすればよい」と助言されたという。6月には初の月間MVPを受賞している。オールスターゲームに初出場を果たし、登板した第2戦では門田博光から三振を奪ったものの落合博満に本塁打を打たれている。ペナントレース終盤まで巨人を追うチームにあって9月3日の直接対決では188球を投げて完投勝利を挙げ、中3日の登板となった9月21日の対大洋戦でも完投勝利を挙げた。同年はリーグ最多の32試合に先発登板し、初めて規定投球回(リーグ3位、防御率2.92)に達し、15勝10敗を記録した。 1984年はそれまでの速球とカーブだけのコンビネーションが通用しなくなり、前半戦で1勝しかできなかった。このため、江夏豊の助言もあってアウトコースの速球のコントロールを磨く必要を感じ、6月から1カ月半にわたって二軍で調整を続けた。後半戦は7勝を記録するなど復調し、チームはセ・リーグ優勝を果たした。阪急ブレーブスとの日本シリーズでは第3戦に登板し、初回を3者凡退で切り抜けるとペースをつかみ、シリーズ初登板で完投勝利を挙げている。しかし第6戦では福原峰夫に満塁本塁打を打たれるなど、3回途中7失点で敗戦投手になった。チームが日本一となったため、前年のワールド・チャンピオンとして訪日したボルチモア・オリオールズと日米野球で対戦し、第1戦に先発登板してカル・リプケン・ジュニアやエディ・マレーらを6被安打、10奪三振に抑えて完封勝利を収めている。最終戦でも再び先発したが、敗戦投手になった。また、同年に結婚している。 1985年は、右打者のアウトコースをさらに有効に使うためスクリューを習得し、2年ぶりに規定投球回数に達して9勝を記録した。1986年は前年優勝した阪神からの5勝を含め、3年ぶりの2桁勝利となる12勝を記録している。オールスターゲームにも3年ぶりに出場し、広島市民球場で開催された第3戦で先発登板した。なお、腰痛のため日本シリーズには出場できなかった。オフには800万円増の年俸2400万円(推定)で契約を更改した。 1987年は6月6日まで無敗で7連勝を記録するなど好調なスタートを切り、シーズンでは初のリーグ最多奪三振を記録している。1988年はオールスターゲーム第3戦で2番手として登板し、3回を1安打無失点、3奪三振に抑えた。9月に登板した4試合すべてで完投勝利を挙げ、特に9月15日の対巨人戦では1安打完封の好投を見せ、2度目の月間MVPを受賞した。日米野球では第3戦に先発したが、2回4失点で敗戦投手となっている。同年は13勝10敗、防御率2.55(リーグ4位)を記録。1989年も4月に月間MVPに選ばれ、オフを挟んで2カ月連続の受賞となった。同年も12勝7敗と気を吐き、2年ぶりのリーグ最多奪三振を記録した。しかし、翌1990年は勤続疲労のような状態で体が重く本来の投球ができずに苦しみ、11勝13敗と負け越している。 速球とカーブの比率からカーブを見逃されるケースが増えたため、スライダーを覚え、1991年はシーズン通算230奪三振を記録して同年タイトルとして制定された最多奪三振を獲得するなど、チームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは前日に佐々岡真司がノックアウトされてターニングポイントとなった第2戦に先発登板し、オレステス・デストラーデに2点本塁打を打たれたものの8回まで被安打3、2失点の内容で勝利投手となっている。監督の山本浩二はシリーズの流れを引き寄せるため、シーズン中は一度もなかった中3日の間隔で川口を第5戦の先発として起用した。川口もこれを意気に感じて104球を投げて8回無失点の好投を見せ、シリーズMVPの最有力候補とも言われた。特に、8回二死満塁の場面で秋山幸二から見逃し三振を奪った速球は二宮清純らから絶賛された。しかしリリーフとして登板した第6戦では同点の6回二死満塁から鈴木康友に2点適時打、第7戦では5回一死三塁から平野謙と田辺徳雄に決勝適時打を打たれている。先発での好投が評価され、シリーズ敢闘賞を受賞した。契約更改では1750万円増の年俸7550万円(推定)となっている。 1992年は自身の現役生活唯一の開幕投手、開幕戦敗北含めて6月まで2勝8敗と成績が低迷し、速球を打たれることが多くシーズンでも6年連続で達成していた2桁勝利が途切れ、オフの契約更改では自身初のダウンとなる350万円減の年俸7200万円(推定)となっている。また、同年は日米野球に出場して第3戦でデーブ・ホリンズとシェーン・マックに本塁打を打たれて敗戦投手となった。1993年は6月に急性左ひじ関節炎で一軍登録を抹消され、シーズン終盤には左手人差し指が血行障害となっている。なお同年にFA権を取得したが、行使せずに年俸8000万円(推定)で契約を更改した。 1994年は開幕から勝ち星を挙げられず7連敗して一時は先発ローテーションを外れるなど成績が低迷したが、7月以降は7勝3敗と調子を取り戻した。一方で、前年に難治性の膵臓ガンで倒れた日野市に住む妻の父の容態が9月に悪化し、東京に移住して看病したいと妻が強く訴えた。川口自身は第二の故郷となった広島に愛着があり、師匠のような存在の大野豊をはじめとする同僚と離れることに抵抗があったという。しかし毎晩のように話し合いを重ね、遠征が続く生活を長年送ってさらに離れて生活したくないと考えたこともあり、悩んだ末に手続きの期限である11月8日の夜になって球団へFA権の行使を連絡した。これは広島の球団史上初のFA権行使となったが、11月10日に川口と会談した広島の球団常務は「気持よく送り出したい」と話し、慰留はしなかった。また、この時点ですでに巨人や阪神が獲得の意志を広島側に伝えている。 プレースタイルなどが知られていないパ・リーグでプレーするメリットなども考え、在京球団であり妻の実家がある日野市から本拠地のある所沢市が比較的近かったこと、さらには先述の社会人時代に可愛がってもらった森繁和が投手コーチとして在籍していた縁もあり、川口は西武ライオンズへ入団する意思をほとんど固めていた(川口のFA権行使が発表されて、いの一番に森から電話がかかり、「おい川口! 西武に来るか?」と問われ、泣くほど嬉しかった川口は「喜んでお願いします! ありがとうございます」と森に返事をした)。ところが後日、川口の幼少期からの憧れの人物である巨人・長嶋茂雄監督から直接誘われたことや、義父が大の巨人ファンであったこと(川口は妻と結婚する際に、「娘の夫がなんでカープのエースなんだ!」と義父に言われたことがある)もあって、巨人に入団した(川口の巨人入りが決まって義父は大変喜んだが、川口の西武入りを確信していた森からは電話で「馬鹿野郎!」と怒鳴られ、しばらく口を利いてもらえなかったという)。巨人側にとっては宮本和知しかいなかった左の先発投手を補強できる点や、前年に巨人から4勝を挙げていた苦手投手との対戦がなくなる点などを評価されていた。なお、広沢克己に続いてFAによる巨人への入団が決まったことで、同じくFA宣言をして去就を取り沙汰された工藤公康の巨人入りの可能性がなくなった事が報じられている。移籍にともない、年俸は2000万円増の1億円(推定)となった。一方で、週刊誌などでは「1桁勝利が3年続いており、FA移籍による高年俸の獲得を狙った」と皮肉的な論調の記事が書かれていた。妻の父は移籍を喜んだ後、1995年の3月に逝去している。 しかし左の先発の柱として期待された1995年は4勝に終わった。特に5月10日の対広島戦(東京ドーム)では5回表無死一塁で正田耕三の一塁線へのバント処理を、一瞬ためらった後にライン上で慌てて拾い上げてフェアにしてしまう判断ミスを犯した。さらに一軍投手コーチの堀内恒夫からは戦力外とも捉えられる言動も受け翌年は二軍スタートとなった、1996年もオープン戦で結果を残し開幕3戦目に先発し9回途中1失点と好投したが、その後は不振の投球で全く勝てず5月に先発ローテーションから外され、6月上旬まで二軍で調整を行なっていた。この間に引退も考えたが、二軍投手コーチの宮田征典に誘われてリリーフに転向した。宮田に声を掛けられる前は練習も午前中で切り上げていたが、気持ちを入れ替えフォームの改造に着手しコントロールが改善、また高齢で球速が著しく落ちていた事もあり前年オフから筋力の部分強化のトレーニングを続けたところ球速が130キロ中盤から10キロ以上も上がった。二軍での好投が認められ一軍に昇格、先発は8月10日の対中日戦が最後となったものの、7月から8月にかけて負け試合の救援登板で安定した投球を見せ、リードしている場面での起用が増えていった。リリーフでは防御率1点台前半の好成績を残し、その頃に抑えのマリオ・ブリトーが攻略されだしたこともあり、バッテリーコーチの山倉和博から抑えで投げてみないかと提案される。投手コーチの堀内恒夫からは猛反対を受けたが好成績を挙げていたこともあり抑えとして登板し、9月24日にはプロ16年目にして初のセーブを記録している。メークドラマに向かって調子を上げたチームにあって同じ左投げの河野博文とともにリリーフの軸となった。10月6日の対中日戦(ナゴヤ球場)では9回裏2死で立浪和義から奪三振を記録し、自身初の胴上げ投手となった。奇しくもこの試合は、ナゴヤ球場での一軍公式戦最終試合であった(中日は翌1997年から本拠地をナゴヤドームに移転するため)。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズでは第1戦、第2戦、第5戦の3試合に登板し、計4.2回を無失点で終えている。 1997年からは古傷である腰や左足の痛み肩の違和感などから二軍での調整が増え、趙成珉や小野仁ら若手選手に投球や心構えについての助言を送っていた。1998年シーズン限りで現役引退。引退試合となった10月3日の対戦相手は古巣の広島で、挨拶の際にセレモニーに参加した広島の選手に対して礼を述べた。 引退直後の1999年から東京放送(TBS)の野球解説者とおはようクジラにコメンテーターとしてレギュラー出演し、同局との契約は2009年まで続き、2010年からはCS・ラジオに出演している。また、1998年秋にはNHK教育の趣味悠々に出演し、番組内でイタリア料理を学んだ。1999年には7月31日の広島市民球場における公式戦で始球式を行なった。TBSや同系列の中国放送で野球解説者を務める傍ら、プロ野球マスターズリーグでは札幌アンビシャスに所属した。またタレントとしてテレビやラジオ、俳優としてドラマ、映画にも出演し、趣味である競艇の解説も行ったりするなど様々な方面で活動している。 2005年には故郷の鳥取県で加藤伸一らとともに社会人野球クラブチームの設立に携わり、12月8日に鳥取キタロウズ(後に鳥取Pear Kings)が誕生すると総監督に就任した。1年間務めた後、解説者などの仕事との両立が難しく十分に指導する時間が取れないとして辞任を申し出た。球団からは慰留されたが2007年1月に了承され、関係者からはチームを盛り上げたことを感謝されている。 2009年、2010年には巨人の宮崎春季キャンプにて臨時投手コーチを務め、2011年シーズンより一軍投手総合コーチに就任した。2014年10月19日に一軍投手総合コーチの退任と非常勤でのフロント(編成部)入りが発表された。2015年からは巨人編成部に在職の立場でTBSラジオ・TBSテレビ(主に衛星波のBS-TBS・TBSチャンネル向けの放送)の解説者に復帰した。TBSラジオが野球中継から撤退した2018年から、引き続き同局が裏送りで制作するDeNA主催の中継でCBCラジオ・中国放送などに出演している。また、ロッテ・西武主催試合では文化放送およびニッポン放送制作のRKBラジオ・HBCラジオへの裏送り中継にも出演、2021年に実母の死去に伴い親戚が集まった際、鳥取への帰郷を勧められたことがきっかけで、2021年年末より故郷・鳥取市に一家で移住する。移住後「とっとりへウェルカニスポーツ総合アンバサダー」に就任。これまでも行っていた解説もしつつ、鳥取にて野球指導と未経験だった農作業に従事し、精米を行っている。 一番得意な球種は速球で、そこに同じフォームで投げるカーブやスライダーを加えるという投球スタイルが基本だった。プロ入り直後に安仁屋宗八から助言を受け、右打者はインコースのクロスファイヤーへの対応を第一に考えてくるので、そこに力のある速球を投げられれば抑える、と考えるようになった。体から近くバットの芯に当たりにくいインハイを突くためにグリップのやや下を狙って投げ、打者が手を出す範囲で最も厳しいコースを突こうとしていた。インハイでファウルを打たせられれば、アウトローの緩い変化球で三振を楽にとれたという。一方、左打者の場合はアウトコースに目標物がなくて細かい制球が難しいため、インコースへの制球により気を使った。 制球を改善するとともに球種を見破られないようにするため、リリースポイントを一定に保つ事を重視していた。腕の振りが速球とカーブやスライダーで全く変わらないため、打者が打ちにくいだけでなく捕手もキャッチングが難しかったという。このため巨人ではノーサインで川口の投球を捕れる達川光男のような捕手がおらず、空振りを取ってもパスボールになることも数回に上った。 その達川とはバッテリーを組み始めた頃は全く息が合わず、気分が乗らず試合開始直後にサインに3回連続で首を振って達川を怒らせた事もあったが、投手が塁に出ても牽制球を投げたりする川口の独特のリズムを尊重し、打者の弱点を攻めるよりも投げやすさを重視するようになって相性が良くなったという。このようにムラッ気があり、なんでもないような打者に簡単に四球を出す事がある一方で、強打者に対しては非常に気持の入った投球をして抑えていたという。コントロールが良くないこともあり、2ストライクまでは捕手に大きく構えてもらい、追い込んでからはコースに体ごと構えさせて集中力を高めて勝負に行っていた。 現役引退後のインタビューにて、ドーム球場での登板は好きでは無かった事を告白しており、その中でも特に福岡ドームは苦手としていたという。その理由として川口自身はアウトコースのストレートを生命線としており、これを出し入れする事で主導権を握っていくスタイルを取っていたが、「福岡ドームは暗い上にマウンドが高いから18.44メートルの距離感がなかなか掴めない。そのためアウトコースのストレートの軌道が安定しない」との事であった。現に1994年5月18日に福岡ドームで行われた巨人戦に先発出場した際は2回途中3失点で早々に降板しており、苦戦していた。奇しくもこの日は巨人の先発である槙原寛己が日本プロ野球史上15人目となる完全試合を達成している。 また、三振か四球かの投球が持ち味だった。 速球については140km/h台の球速やコースよりも、思い切り握ってスピンを利かせて手元で伸びるようにする事を心がけたという。速球にキレがあるため、狙った場面で確実に三振を取る力があり、1987年、1989年、1991年の3回にわたってセ・リーグ最多奪三振を記録している。下半身を粘らせ球持ちを長くして顔の前でリリースするようなイメージで投げ、打者からはノビがあって球速以上に速く見えるといわれた。このために腰を中心に体を縦に回転させ、体の前で速く腕を振って肘を前に出しながら投げた。 現役だった1980年代から1990年代は後年と違い、速球のキレと球威があれば変化球に多少難があっても打者を打ち取れた、と語っている。右打者に対しては、カウントを稼ぎたい時に手を出しやすくするために、あえて肘を下げて上下の角度をなくして球の出どころを見やすくして投げることもあった。また、左打者に対してはリリースの際に中指だけにボールを乗せるような投げ方で微妙なシュート回転をかけ、内角に食い込ませることも多かった。 少年時代に目標としていた新浦壽夫の影響でまずカーブを覚え、続いてスライダー、プロ入り後に縦の変化球としてフォークボールやスクリューなど、研究熱心で2、3年ごとに新しい球種を習得していた。なお、実戦で投げることが変化球の上達には最も重要で、例えばフォークボールは対ヤクルト戦の大杉勝男の打席で初めて投げたという。 カーブは手の平とボールを離す特徴的な握り方で、リリースの際に中指でボールを潰すような感覚で投げるとスピンのかかりが良かったという。軸足でタメを作る事が重要で、現役晩年はカーブの曲がりが悪化していた。リリースポイントの位置を変えることで、速いカーブと遅いカーブの2種類を投げ分けていた。左打者に対しては、内角に投げると頭の上で消えるような軌道だったという。 スライダーはカーブと同じ握りで手の平をボールに付け、離す瞬間に手首を斜めに向ける以外は速球と同じフォームだった。打者からは、速球と同じ軌道から曲がって消えるように見えていたという。試合で初めて試した時は達川に酷評されたが、徐々に改善することができた。この球種を習得したことで1991年はリーグトップの230奪三振を記録したが、その後は変化量が落ちていった。左打者には主にアウトコースに投げて三振を取りに行ったが、野村謙二郎との対戦をきっかけに意表を突くためインコースにも投げるようになった。 スクリューボールはフォークボールをベースにしており、リリースの際にボールが曲げた人差し指に引っかって外に逃げながら落ちていた。また、中指は縫い目にかけなかったという。右打者に対しては有効だったが左打者には通用しなかったため、シュートを習得した。速球から少しだけ変えた握りで投げて変化量はわずかだったが、左打者に対しては狭い角度で入ってくるため内角に投げると打球が詰まらせる効果があり、カーブとの組合せが効果的だった。 コントロールが悪かったため、上半身をブレさせないよう下半身でリズムを取ることを意識していた。シーズン最多暴投を記録したほか、1994年には通算暴投数のセ・リーグ記録(従来は権藤正利の69)を更新している。一方、四球を含めて球数が多いもののリズムが良いため試合時間は短く、守備についている野手の集中力が切れなかったという。落合博満からは、10四球を出して150球以上投げても完投勝利を挙げるようなタイプと評されている。 四球を続けて満塁になって次の打者にも3ボール0ストライクとなるような事も少なくなかったが、そこからは粘り強く点を簡単に与えないなど、普通の打者とは四球の意味が違うと達川光男は語っている。また、一般的に投手が不利とされる3ボール2ストライクや3ボール1ストライクのボールカウントを非常にうまく使うと評されていた。打者が高確率で打ってくるこれらのカウントでも腕をしっかり振って投げるため、ボール球でもスイングさせたり、甘いコースでも力が入って打ち損じとなる事があったという。 1年間を通じて先発ローテーションを守るため、体力をつけるとともに二軍での調整も視野に入れて不調の時期をなるべく短くすることを心がけていた。毎年2桁勝利を挙げることを先発のノルマとして捉え、ペナントレースが6カ月のため毎月2勝という目標をクリアするために月の初めの登板で勝つことに全力を注いだ。ここで勝つと残りの試合は非常に気が楽になったという。 先発では完投を常に念頭に置き、5回までは全力で投げて以降は毎回先頭打者を出さないよう注意し、8、9回は1人ずつ抑えていく事を重視していたという。打者1巡目は速球を軸にカウントを整えて2巡目はカーブに切り替え、持ち球の中で比重を変えながら配球を組み立てていた。また、先頭打者については試合を通じて出塁を防ぐことを意識していた。立ち上がりを苦手として3回までに何度もピンチとなったが、そこを乗り越えるとスムーズに勝利に向かうことが多かったという。 巨人移籍後に先発を外れた時は現役を辞めようとも思い、リリーフ転向後も1球ずつ全力で投げるなどのリズムをつかむのに1カ月かかった。「警戒する打者にはボール球で入って、四球になれば次の打者と勝負」という先発での投球スタイルが通じないため、苦手な打者でも大胆に勝負する事を心がけたという。また、宮田征典の指導で歩幅を短くして軸を作るフォームにしたところ制球が良くなり、打者の狙うコースの近くを狙って球数を減らすような投球スタイルに変化した。負け試合を整えていくことは難しかったが、中継ぎや抑えを経験したことは長期的にプラスになったという。 落合博満との対戦成績は118打数32安打で、打率.271、6本塁打、15打点と特別に良くはなかったが、落合からは「プロで唯一の精神的な天敵」というほどの苦手意識を持たれていた。ボールを呼び込む打撃スタイルが左投手と相性が悪かったことに加え、速球のキレとコントロールの水準が一試合を通じて高く、投球パターンを研究しても投球の途中で球種を変えられてしまい、深く考えず本能的に立ち向かうしかなかったという。また川口が全盛期にイチローと対戦していれば、シーズンを通じて抑えられる可能性が最も高い投手だっただろう、と語っている。 一方、川口自身も落合との対戦は一試合を通じた駆け引きなどが非常に面白かったと述べている。普通に勝負すると打たれるため、一球一球を大事にして伏線を使いながら抑えようとし、勝負の過程を互いに堪能していた。 広島時代は巨人キラーとしても活躍、対巨人戦33勝31敗を記録している。対巨人戦で30勝以上している投手のうち勝ち越しを記録している選手は星野仙一、平松政次、川口の3人だけである。同時に阪神キラーでもあり、1983年には阪神戦3試合連続完封勝利を記録、1987年は5勝0敗、1988年は5勝1敗の好成績を記録するなど、広島時代だけで巨人戦を上回る通算34勝(21敗)を記録した。また巨人移籍後に阪神から2勝を記録しており、対阪神戦の生涯成績は36勝21敗となる。 各年度の太字はリーグ最高 最多奪三振:3回(1987年、1989年、1991年)※当時連盟表彰なし、セントラル・リーグでは、1991年より表彰 月間MVP:3回(1983年6月、1988年9月 投手部門:1989年4月) 優秀JCB・MEP賞:1回(1989年) 日本シリーズ敢闘賞:1回(1991年) 初登板:1981年4月10日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に4番手で救援登板・完了、3回3失点 初奪三振:同上、7回裏に平野謙から 初先発・初勝利:1982年7月15日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(横浜スタジアム)、6回1失点 初完投勝利・初完封勝利:1982年9月2日、対中日ドラゴンズ24回戦(広島市民球場) 初セーブ:1996年9月24日、対広島東洋カープ26回戦(東京ドーム)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回無失点 1000投球回:1988年7月7日、対阪神タイガース13回戦(広島市民球場)、5回表3死目に達成 1000奪三振:1989年6月8日、対ヤクルトスワローズ10回戦(広島市民球場)、2回表に角富士夫から ※史上79人目 1500投球回:1990年9月22日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、6回裏2死目に達成 100勝:1991年6月16日、対読売ジャイアンツ14回戦(広島市民球場)、完封勝利 ※史上102人目 1500奪三振:1991年9月7日、対読売ジャイアンツ23回戦(東京ドーム)、4回裏に岡崎郁から ※史上34人目 2000投球回:1993年7月15日、対読売ジャイアンツ16回戦(札幌市円山球場)、3回裏3死目に達成 ※史上71人目 2000奪三振:1995年9月27日、対横浜ベイスターズ10回戦(東京ドーム)、3回表に波留敏夫から ※史上14人目 オールスターゲーム出場:6回(1983年、1986年 - 1990年) 34(1981年 - 1994年) 25(1995年 - 1998年) 71(2011年 - 2014年) コラム「川口和久のスクリューボール 斬り込む自在の野球論」(週刊ベースボール、2017年4月 - ) 川口和久WEBコラム(週刊ベースボールONLINE、2018年5月 - ) 『投球論』(1999年9月20日、講談社現代新書) ISBN 4061494600 『反逆の左腕』(2001年8月、ネコ・パブリッシング) ISBN 4873662419 川口和久の右脳的ピッチング術(スポーツDVDのRealStyle) JAN 4562277739756 SAMURAI BASEBALL(地上波は1999年から2009年まで、2010年と2015年以降はTBSニュースバード→TBSチャンネル・BS-TBSの横浜ベイスターズ~横浜DeNAベイスターズホームゲーム中継や読売ジャイアンツビジターゲーム中継やパシフィック・リーグ球団ホームゲーム中継のみの出演。また年度により中国放送など系列局の中継にも出演) TBSラジオ エキサイトベースボール(1999 - 2010年、2015 - 2017年) RCCカープナイター(関東圏の試合でのTBSラジオ〈2018年からはDeNA主催のみ〉・ニッポン放送〈2019年の西武主催〉からの裏送りおよびRCCの自社制作を中心に出演するが、2004 - 2006年頃にはホームゲームや関東圏以外のビジターゲームでのRCCの自社制作時にも出演) HBCファイターズナイター(2003年 - 2006年。それ以後も関東圏の試合でのTBSからの裏送り時に出演) CBCドラゴンズナイター(自社制作での出演は2018年から増加。それ以前にもTBSからの裏送り時を中心に出演) RKBエキサイトホークス(関東圏の試合で2017年まではTBSラジオからの、2018年からは文化放送・ニッポン放送からの裏送り時に出演) BS12 プロ野球中継(2019年3月22日のソフトバンク対広島戦の副音声で初出演) 関口宏の東京フレンドパークII(1996年、1999年) TBS系ドラマ「ビッグウイング」(2001年)第2話ゲスト 東映系映画「走れ!イチロー」(2001年)- 早川圭 役 競馬場の達人(2010年7月11日放送) 爆報! THE フライデー(TBS系、2018年3月2日) プロ野球みんなが知らないおカネの話3 ~グランドにはゼニが埋まっている!?スペシャル~(BSスカパー!、2018年9月28日) おびわんっ!(日本海テレビ、2023年4月10日 - 2024年3月29日) - 月曜ゲスト One(日本海テレビ、2024年7月1日 - ) - 月曜ゲストコメンテーター ^ 「プロフェッショナルの『原風景』 3回 川口和久 『だれよりも長く野球をやりたい』すべてのはじまりはそこからだった」『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.109 ^ 『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.110 ^ 毎日新聞、2012年2月23日付朝刊、鳥取地方面 ^ 「核心インタビュー 川口和久 『奪三振』のたまらない誘惑」『現代』、1993年4月号、P.123 ^ 『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.111 ^ 『週刊ベースボール』、1990年5月14日号、P.108 ^ 毎日新聞、1999年1月14日付朝刊、P.26 ^ スポニチ日めくりプロ野球10年3月【3月11日】1981年(昭56) 強心臓のドラフト1位川口和久 4イニングで2勝 ^ '94スポニチプロ野球手帳 ^ 【川口和久登場】社会人で辞めるつもりだった?広島ドラ1のアマチュア時代について話してもらいました 中西清起の虎の穴チャンネル ^ 朝日新聞、1998年2月18日付夕刊、P.3 ^ 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈4〉』2008年4月11日3頁。 ^ 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈5〉』2008年4月15日3頁。 ^ 読売新聞、1980年12月8日付朝刊、P.17 ^ 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈7〉』2008年4月17日3頁。 ^ 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈8〉』2008年4月18日3頁。 ^ 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈41〉』2008年6月18日3頁。 ^ 「去りゆく男たちへの賛歌 川口和久(巨人) 最後のマウンド」『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.156 ^ 読売新聞、1982年9月3日付朝刊、P.17 ^ 朝日新聞、1984年10月28日付朝刊、P.17 ^ デイリースポーツ、2007年10月10日付朝刊、広島版、P.10 ^ 朝日新聞、1983年7月7日付朝刊、P.19 ^ 日本野球機構 1983年度オールスター・ゲーム 試合結果(第2戦) ^ 朝日新聞、1983年9月4日付朝刊、P.17 ^ 朝日新聞、1983年9月22日付朝刊、P.18 ^ 「内角と殺気〜限界ギリギリの内角空間へフォーカスせよ! 痩身サウスポーの内角へのこだわり インサイド攻めが生命線 川口和久のクロスファイアー」『野球小僧』、2006年2月号、P.120 ^ 朝日新聞、1984年10月17日付朝刊、P.17 ^ 日本野球機構 1984年度日本シリーズ 試合結果(第6戦) ^ 朝日新聞、1984年11月2日付朝刊、P.17 ^ 朝日新聞、1986年8月23日付朝刊、P.19 ^ 日本野球機構 1986年度オールスター・ゲーム 試合結果(第3戦) ^ 読売新聞、1991年10月13日付朝刊、P.19 ^ 読売新聞、1986年11月26日付朝刊、P.17 ^ 読売新聞、1987年6月7日付朝刊、P.17 ^ 日本野球機構 1988年度オールスター・ゲーム 試合結果(第3戦) ^ 読売新聞、1988年10月7日付朝刊、P.19 ^ 読売新聞、1988年11月9日付朝刊、P.19 ^ 『野球小僧』、2006年2月号、P.122 ^ 「プロが明かす球種のツボ 変化球奥義 変化球はこう投げる! 川崎憲次郎×川口和久」『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.16 ^ 「天国と地獄を見た男 川口和久」『Sports Graphic Number』、1991年11月20日号、P.46 ^ 『現代』、1993年4月号、P.125 ^ 読売新聞、1991年12月21日付朝刊、P.17 ^ 毎日新聞、1992年7月5日付朝刊、P.23 ^ 読売新聞、1992年8月31日付朝刊、P.23 ^ 毎日新聞、1992年12月3日付朝刊、P.21 ^ 毎日新聞、1992年11月2日付朝刊、P.17 ^ 毎日新聞、1993年6月28日付朝刊、P.15 ^ 朝日新聞、1994年3月28日付朝刊、P.17 ^ 毎日新聞、1993年11月24日付朝刊、P.17 ^ 朝日新聞、1994年6月20日、P.23 ^ 朝日新聞、1994年9月1日付朝刊、P.27 ^ 読売新聞、1998年10月2日付朝刊、P.23 ^ 毎日新聞、1994年11月11日付朝刊、P,24 ^ 『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.157 ^ 毎日新聞、1995年1月24日付朝刊、P.17 ^ 朝日新聞、1994年11月20日付朝刊、P.27 ^ 朝日新聞、1994年12月6日付朝刊、P.23 ^ 【最終回】1996年のジャイアンツ優勝!川口さんが語るメークドラマの裏側【川口和久】【高橋慶彦】【カープOBを回る旅】 よしひこちゃんねる ^ 「D vs. G 歓喜の追憶 長嶋巨人のメークドラマを完結させた男 川口和久 96年リーグ優勝の胴上げ投手」『週刊ベースボール』、1999年10月4日号、P.19 ^ 【最終回】1996年のジャイアンツ優勝!川口さんが語るメークドラマの裏側【川口和久】【高橋慶彦】【カープOBを回る旅】 よしひこちゃんねる ^ 読売新聞、1996年9月28日付夕刊、P.7 ^ 『週刊ベースボール』、1999年10月4日号、P.21 ^ 日本野球機構 1996年度日本シリーズ 試合結果 ^ 『週刊ベースボール』、1998年12月14日号、P.158 ^ 「『大人の天才』大集合! 50歳になって自分のなかに意外な才能を見つける キャプテンタイプ 手打ちパスタの味は家族の味 川口和久」『オブラ』、2003年5月号、P.96 ^ 毎日新聞、1999年6月29日付朝刊、広島地方面 ^ 朝日新聞社、2005年12月25日付朝刊、鳥取地方面 ^ 毎日新聞、2005年2月4日付朝刊、鳥取地方面 ^ 読売新聞、2010年11月2日付朝刊、P.19 ^ コーチ人事について巨人球団公式サイト2014年10月19日配信 ^ 「第三の人生を鳥取のために」元プロ野球選手・川口和久さん 「野球選手」と「米」を故郷で育てる FNNプライムオンライン (2022年4月19日).2022年5月26日閲覧。 ^ 『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.17 ^ 『野球小僧』、2006年2月号、P.119 ^ 『野球小僧』、2006年2月号、P.121 ^ 『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.14 ^ 『本』、講談社、1999年4月号、P.60 ^ 「野球の唯物論 52 達川晃豊vs.川口和久『バッテリ-とは何か』(後編)」『本』、講談社、1999年5月号、P.55 ^ “槙原寛己「完全試合」のウラで、広島先発・川口和久は何を思ったか”. 現代ビジネス (2020年5月2日). 2020年8月9日閲覧。 ^ 週刊ベースボール2021年7月5日第31号 ^ 「プロフェッショナルたち 落合博満『球界紳士録』 vol.19 川口和久」『週刊ベースボール』、1999年6月21日号、P.49 ^ 『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.13 ^ 『本』、講談社、1999年5月号、P.57 ^ 『週刊ベースボール』、2005年6月6日号、P.15 ^ 『野球小僧』、2006年2月号、P.123 ^ 読売新聞、1994年7月11日付夕刊、P.10 ^ 『本』、講談社、1999年4月号、P.61 ^ 「野球の唯物論 51 達川晃豊vs.川口和久『バッテリーとは何か』(前編)」『本』、講談社、1999年4月号、P.59 ^ 『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.25 ^ 「スターターの美学 川口和久が語るスターター論 『2ケタ勝利をクリアして初めて先発投手の称号が与えられる』」『週刊ベースボール』、2007年8月13日号、P.22 ^ 「投球術 勝ちをつかむ『1球の攻防』 川口和久×槙原寛己」『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.24 ^ 『週刊ベースボール』、2004年7月5日号、P.27 ^ 『朝日新聞』、2017年1月24日付夕刊。 ^ “爆報!THE フライデー ワイドショーを騒がせた美女 2018/03/02(金)19:00放送 TBS”. TVでた蔵. 富士ソフト株式会社. p. 1 (2018年3月2日). 2018年10月13日閲覧。 鳥取県出身の人物一覧 広島東洋カープの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 川口和久 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1950 杉下茂 1951 金田正一 1952 金田正一 1953 金田正一 1954 杉下茂 1955 金田正一 1956 金田正一 1957 秋山登 1958 金田正一 1959 金田正一 1960 金田正一 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 金田正一 1964 金田正一 1965 村山実 1966 村山実 1967 江夏豊 1968 江夏豊 1969 江夏豊 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 江夏豊 1973 高橋一三 1974 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 池谷公二郎 1978 斉藤明雄 1979 新浦寿夫 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 江川卓 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 遠藤一彦 1987 川口和久 1988 槙原寛己 1989 川口和久 1990 木田優夫 1991 川口和久 1992 仲田幸司 1993 今中慎二 1994 桑田真澄 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤隆 1997 山本昌 1998 石井一久 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 井川慶 2003 上原浩治 2004 井川慶 2005 門倉健, 三浦大輔 2006 川上憲伸, 井川慶 2007 内海哲也 2008 C.ルイス 2009 C.ルイス 2010 前田健太 2011 前田健太 2012 杉内俊哉, 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 R.メッセンジャー 2015 藤浪晋太郎 2016 菅野智之 2017 M.マイコラス 2018 菅野智之 2019 山口俊 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 戸郷翔征 2023 今永昇太 2024 戸郷翔征 表 話 編 歴 1950 内藤幸三 1951 杉浦竜太郎 1952 大田垣喜夫 1953 長谷川良平 1954 長谷川良平 1955 長谷川良平 1956 長谷川良平 1957 長谷川良平 1958 長谷川良平 1959 備前喜夫 1960 備前喜夫 1961 河村英文 1962 大石清 1963 大石清 1964 池田英俊 1965 大石清 1966 池田英俊 1967 安仁屋宗八 1968 大石弥太郎 1969 安仁屋宗八 1970 外木場義郎 1971 大石弥太郎 1972 白石静生 1973 外木場義郎 1974 佐伯和司 1975 外木場義郎 1976 外木場義郎 1977 外木場義郎 1978 高橋里志 1979 福士明夫 1980 池谷公二郎 1981 池谷公二郎 1982 北別府学 1983 北別府学 1984 北別府学 1985 大野豊 1986 北別府学 1987 北別府学 1988 北別府学 1989 北別府学 1990 大野豊 1991 長冨浩志 1992 川口和久 1993 北別府学 1994 北別府学 1995 佐々岡真司 1996 大野豊 1997 山内泰幸 1998 大野豊 1999 N.ミンチー 2000 佐々岡真司 2001 佐々岡真司 2002 佐々岡真司 2003 黒田博樹 2004 黒田博樹 2005 黒田博樹 2006 黒田博樹 2007 黒田博樹 2008 大竹寛 2009 C.ルイス 2010 前田健太 2011 前田健太 2012 前田健太 2013 B.バリントン 2014 前田健太 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 K.ジョンソン 2018 野村祐輔 2019 大瀬良大地 2020 大瀬良大地 2021 大瀬良大地 2022 大瀬良大地 2023 大瀬良大地 2024 九里亜蓮 2025 森下暢仁 表 話 編 歴 1位:川口和久 2位:榊原聡一郎 3位:松林和雄 4位:原伸次 表 話 編 歴 1位:袴田英利 2位:梅沢義勝 3位:広木政人 4位:川島正幸 5位:佐藤健一 6位:川口和久(入団拒否) VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の野球選手 鳥取城北高等学校出身の人物 デュプロ硬式野球部の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 最多奪三振 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 野球解説者 日本の野球指導者 競艇に関係する人物 鳥取県出身のスポーツ選手 1959年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 Reflistで3列を指定しているページ ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2025/04/02 00:24更新
|
kawaguchi kazuhisa
TOPニュース
川口和久と近い名前の人


話題のアホネイター

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「川口和久」を素材として二次利用しています。