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西口 文也さんについて調べます
■名前・氏名 |
西口文也と関係のある人
駒田徳広: 西武ライオンズとの日本シリーズでは第4戦までわずか2安打とシーズン終盤の不調をひきずっていたが、第5戦(西武ドーム)で満塁での適時打を含む4安打5打点と大活躍をして調子を取り戻すと、日本一を決めた第6戦(横浜スタジアム)では、スコア0-0の8回裏、西口文也から決勝2点適時二塁打を放ちシリーズ優秀選手に選出された。 髙橋光成: 西口文也と野上亮磨が保持していた球団ワースト記録を上回る、自身交流戦7連敗を喫した。 草野大輔: 2007年開幕戦の西武ライオンズ戦(グッドウィルドーム)で、「2番・三塁手」として先発出場し、西口文也からプロ初本塁打を放つなど幸先の良いスタートとなった。 石井一久: リリーフでは安定感を見せ、特にクライマックスシリーズファーストステージ第2戦では、8回無死一・三塁から西口文也をリリーフして、糸井嘉男、小谷野栄一、稲葉篤紀を完璧に抑え、ポストシーズンで勝ち星のなかった西口のポストシーズン初勝利とチームのクライマックスシリーズファイナルステージ進出に貢献した。 厚澤和幸: 4年春に2部でMVPとなり、入替戦では初戦で西口文也と投げ合って勝利し、東都大学野球リーグ1部昇格の原動力となる。 クリス=ドネルス: 初安打・初打点:1996年3月31日、対西武ライオンズ2回戦(西武ライオンズ球場)、3回表に西口文也から左中間へ先制決勝適時二塁打 松村豊司: 長身から投げ下ろす最速150km/hのストレートが最大の売りで、同じく細身の西口文也を目標としていた。 平井克典: その後は日程の都合もあり、リリーフとして3試合に登板し前半戦を終えると、エキシビションマッチでもリリーフ起用が続き、西口文也投手コーチから配置転換が明言された。 森慎二: 1998年シーズンは、開幕からストッパーとして期待され起用されたものの不振で、同じく先発で不振だった西口文也と配置転換で先発登板する。 細川亨: 翌9月23日の対オリックス・ブルーウェーブ戦でも8番捕手で先発出場し、エース西口文也との初コンビで、2回の塩崎真の同点打で本塁突入した高見澤考史をブロックした際に右大腿上部を打撲して負傷退場し、翌9月24日に出場選手登録を抹消され、10月10日に一軍へ戻ったが、同年の一軍出場は2試合で無安打。 小池秀郎: 最終的には27試合に登板して投球回は182イニング2/3を記録、15勝6敗・防御率2.96(パ・リーグ5位)の好成績を挙げ、西口文也(西武)と同数でリーグ最多勝投手となる。 仁科時成: 同ケースは過去に19例あるが、2回逃したのは仁科と西口文也だけである。 本多雄一: 8月27日の対埼玉西武ライオンズ戦では西口文也からタイムリー二塁打を放ち、代打起用での初安打・初打点を記録した。 藤井秀悟: 10月1日には通算1000奪三振を記録するが、この試合は6イニングで降板し先発無完投が103試合連続となり、西口文也の102試合連続を抜き、先発無完投連続試合の日本記録を更新した。 大松尚逸: ロッテ時代に涌井秀章・西口文也(対戦時点ではいずれも西武に在籍)や田中将大(対戦時点では楽天に在籍)を得意にするなど右投手に強い一方で、和田毅などの左投手と対した時の打撃に課題を残している。 細川亨: 5月25日の対阪神タイガース戦で西口文也のフォークボール捕球の際に右手人差し指と親指の間を裂傷し、試合後病院に直行し4針縫ったが、1試合の欠場でスタメンに復帰した。 ドミンゴ=マルティネス: 日本に居た時代にすごいと思った投手は上原浩治、西口文也、工藤公康、すごいと思った打者は鈴木健、松井秀喜、高橋由伸、江藤智、前田智徳、緒方孝市の名前を挙げている。 入来祐作: 入替戦では2年後輩の部坂俊之らと登板するも西口文也擁する立正大学に敗れ、亜大野球部の1部昇格以来初の2部降格で終える。 金森隆浩: ドラフト会議直前には同郷の西口文也とともに、中日が紀田彰一の抽選を外した場合の外れ1位候補としてリストアップしていた。 富岡久貴: 1995年には西口文也とともに、アメリカの独立リーグであるノーザンリーグのスーシティ・エクスプローラーズで野球留学した。 清水隆行: 5月13日の対西武ライオンズ戦(インボイスSEIBUドーム)では先発の西口文也が9回二死までノーヒットノーランの投球を見せたが、最後の打者として回ってきた清水がノーヒットノーランだけでなく完封試合も阻止するソロ本塁打を放つという試合もあった。 トロイ=ニール: 1996年には4月14日の西武ライオンズ戦で西口文也からサヨナラ本塁打、6月25日の日本ハムファイターズ戦で岩本勉からサヨナラ本塁打、9月8日のロッテ戦で河本育之からサヨナラ2ラン本塁打を放った。 高木浩之: 引退セレモニーでは西武での14年間を「悔いはありません」とコメントし、同期入団で同い年の西口文也(セレモニー開始時にLビジョンで流された高木の足跡を振り返るVTRの最後にメッセージを贈った。 土谷鉄平: 初本塁打:2006年4月22日、対西武ライオンズ4回戦(フルキャストスタジアム宮城)、7回裏に西口文也から右越先制決勝ソロ 岸孝之: ドラフト前には西武ライオンズと地元の東北楽天ゴールデンイーグルスが、さらにドラフト直前には大隣憲司の獲得を断念した読売ジャイアンツが希望枠での獲得を目指すが、最終的に当初から目を掛けてくれていること、尊敬する西口文也がいることを理由に西武を選択。 広田庄司: 東都大学野球リーグの立正大学へ進学、入学時は西口文也が4年生エースだったが、春からリーグ戦に登板。 南昌輝: 球歴が似ていることから、同郷および大学の先輩にちなんで、「西口文也二世」と呼ばれる。 渡辺久信: シーズンでは、開幕からローテーションに入り、チームが下位に低迷する中でノーヒットノーランを記録した6月まで、西口文也の9勝に次ぐ6勝(4敗)と奮闘していたが、6月末から8月末まで5連敗し、チームが若手主体に切り替えたことにより二軍降格し、そのままシーズンを終える形になった。 江川智晃: 5月6日の同カードでは4回二死二塁の場面で西口文也からプロ初打点となるダメ押し適時打を放った。 坂本勇人: 埼玉西武ライオンズとの日本シリーズ第7戦では西口文也から本塁打を放つ。 |
西口文也の情報まとめ
西口 文也(にしぐち ふみや)さんの誕生日は1972年9月26日です。和歌山出身の野球選手のようです。
選手としての特徴、エピソードなどについてまとめました。引退、卒業、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。西口文也の現在の年齢は51歳のようです。
西口文也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 西口 文也(にしぐち ふみや、1972年9月26日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 NPBにおける現役時代は、1995年 - 2015年まで21年間にわたり、西武ライオンズ(2008年以降の球団名は「埼玉西武ライオンズ」)一筋でプレーし、通算182勝を挙げた(フランチャイズ・プレイヤー)。愛称は「オツ」で、体型がジョセフ・オツオリに似ていることから。 市立西和佐小学校から市立高積中学校までは遊撃手、外野手としてプレーしていたが、和歌山県立和歌山商業高等学校1年生の途中から、当時部員が10人しかいない人手不足で、同学年に1人しか投手がいなかったという台所事情から投手を兼任。高校入学当初は二塁手を希望したが二塁手の動きが体に負担で筋肉痛がひどくなり、即座に二塁手失格を言い渡され、それからピッチングマシーンもない部内の環境で打撃投手をしていた中で良い球を投げることに目を付けられて投手を行うことにしたのが真相である。高校時代は無名であり、1990年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、星林高等学校に敗退した。高校時代はストレートとカーブしか持ち球が無く、速球の最高球速は136 km/h。 立正大学入学後は投手に専念して活躍。当時の立正大は東都大学野球リーグ二部に低迷していたが、1992年春季二部リーグで最優秀投手賞を受賞している。以降はエース格の働きを見せ、1993年秋季リーグで5勝を挙げ二部優勝。東京農業大学との入替戦を制して一部リーグに昇格するが、翌季にはまたも二部陥落。二部リーグで迎えた最後の1994年秋季リーグでも優勝し、入替戦で入来祐作を擁する亜細亜大学を相手に2勝を挙げる活躍で、一部昇格を置き土産にした。一部リーグ通算5試合に登板、0勝3敗、防御率1.74、39奪三振を記録。二部リーグ通算では28試合、14勝4敗。後のプロ野球での決め球となるスライダーはこの大学時代に会得したもので、大学入学してからカーブが曲がらなくなるスランプに陥ったため曲がる投げ方を探していたらスライダーに行き着いた。大学時代には球速が最速で147 km/hから148 km/hまでアップした。 結果的に近鉄にスカウトされた酒井弘樹を視察していた西武のスカウトが「こっちのほうがいい」と目を付けたことからプロ入りの道が開けた。 1994年のドラフト会議で、西武ライオンズから3巡目で指名を受けて入団。背番号は13で、2015年に現役を引退するまで21年間にわたり着用した。なお、中日ドラゴンズ(セントラル・リーグ)も紀田彰一(横浜高校)の抽選を外した場合の1位指名候補として西口と、同郷の金森隆浩(立命館大学)の2人をリストアップしていたが、結局は西口ではなく、金森を1位指名した。しかし、西口が後に西武で通算182勝を挙げた一方、金森は一軍未勝利(通算2試合登板)のまま現役生活を終えている。当時中日の関西地区担当スカウトだった中田宗男は高校時代から西口と金森それぞれのスカウティングを担当しており、西口は高校卒業時に指名を検討したものの、その時は立正大に進学することから指名を断念したという。中田によれば同年のドラフト当時、関東地区担当スカウトの堀江忠一が西口のスライダーの切れの良さを高く評価していたが、当時の中日スカウト陣はスカウト部長の岡田悦哉の方針により、自身の担当地区以外の選手を見ることが事実上できなかったため、中田は大学進学後の西口の投球を見ておらず、岡田から2人のどちらが良いか質問され、高校時代に限れば西口よりも金森の方が好素材だと感じていたということを話したところ、岡田は金森を紀田の外れ1位として指名することを決断したという。 1995年、富岡久貴とともにアメリカの独立リーグであるノーザンリーグのスーシティ・エクスプローラーズに野球留学し、後の決め球となるチェンジアップを習得。後半戦で初完投・初完封勝利を記録。 1996年には開幕から先発ローテーションに入り、初めて規定投球回(リーグ7位、防御率3.17)にも達する。キップ・グロス(日本ハムファイターズ)に次ぐパ・リーグ2位の16勝を挙げ、奪三振数173も工藤公康(福岡ダイエーホークス)に次ぐパ・リーグ2位を記録。また、リーグ最多完投13を記録した。オールスターにも監督推薦で初選出された。9月23日の対近鉄24回戦では5回無死から7回二死まで8連続奪三振をし、この試合初回2番水口栄二の安打以外は全て打ち取り無四球完封勝利の準完全試合となった。 1997年は初の開幕投手を務める。優勝争いの佳境の9月以降は先発登板に加えてリリーフ登板もこなした。小池秀郎(近鉄バファローズ)と共に15勝を挙げてパ・リーグの最多勝を獲得したほか、最多奪三振(192奪三振)・最高勝率 (.750) ・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・沢村賞・MVPを受賞した。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、第1戦(10月18日・西武球場)で石井一久と投げ合ったが、8回表にジム・テータムからソロ本塁打を打たれ、0対1で敗れた。第5戦(10月23日・明治神宮野球場)でも先発登板したが、5回3失点で敗戦投手になり、チームも敗退した。 1998年も開幕投手を務めたが、一向に調子が上がらず、5月半ばまでで1勝5敗の成績からリリーフに回された。しかしリリーフでも8試合0勝2敗4セーブ防御率6.94と復調の兆しが見えない中、6月15日に一軍投手コーチの森繁和が二軍コーチへの降格が報道された。その2日後の6月17日に先発復帰すると、シーズン初完封を記録し、次の試合も連続完封勝利を挙げてからは復調。最終的に武田一浩(ダイエー)・黒木知宏(千葉ロッテマリーンズ)とともに13勝を挙げ、2年連続のパ・リーグ最多勝を獲得。また最多奪三振(148個)・ベストナイン・ゴールデングラブ賞も2年連続で獲得し、チームもパ・リーグ2連覇を果たした。横浜ベイスターズとの日本シリーズでは第1戦(10月18日・横浜スタジアム)で先発登板したが、横浜の「マシンガン打線」に打ち込まれて4失点を喫し、3回に降板。10月21日の第3戦予定の日に試合は雨天延期となったが、風邪による発熱を発症し点滴療養する。第5戦(10月24日・西武ドーム)では当初、先発登板予定だったが風邪に加え、腰痛も発症し急遽先発を回避し横田久則が代役先発に上がることになった。横浜に王手を掛けられ、3勝2敗で迎えた第6戦(10月26日・横浜スタジアム)では7回まで横浜打線を無失点に抑えたが、味方打線も川村丈夫に無失点に抑えられ、8回に2失点を許し敗戦投手になった。 1999年は3年連続で開幕投手を務める。チーム最多勝は新人の松坂大輔に奪われたが、2年連続で最多完封勝利を記録した。また、同年9月19日のオリックス・ブルーウェーブ戦(西武ドーム)で8回二死まで無安打の投球をしていた。三輪隆に内野安打を許し、記録は途切れたが、エピソードの「幻の完全試合・2度のノーヒットノーラン未遂、被安打1の「準」完全試合」に加え、この試合が語られている。 2000年は右足内転筋を痛めて約1か月半離脱、シーズン成績は辛うじて2桁勝利と規定投球回はクリアしたがこの内転筋の怪我が後に持病となってしまった。 2001年は91与四死球と制球難に苦しみ、防御率が初の4点台に悪化した。 2002年はエース松坂が長期離脱の中チームを引っ張りチームトップ、リーグ2位となる15勝を挙げてリーグ優勝に貢献。3度目のゴールデングラブ賞を受賞した。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは相手チームの本拠地の東京ドームでの相性の悪さ等もありチームが3連敗の中第4戦に先発し、5回を2安打2失点と粘りの投球で抑えるも6回に代わった松坂が勝ち越され、そのまま敗れ日本一を逃した。 2003年は右足のケガの悪化に不調も重なり、規定投球回数に届かない6勝・防御率6.84の成績に終わり、連続2桁勝利・連続防御率10傑入りが共に7年で途切れた。 2004年から禁煙・食事制限など節制に努めて復活を期し、3度右足内転筋を痛めて離脱したが10勝を挙げる。この年FA権を取得するが「これから西武で何勝できるかやってみたい」と発言し残留を決めた。怪我の影響でプレーオフは登板はなかったが、チームはリーグ優勝した。自身は中日ドラゴンズとの日本シリーズ第5戦に先発し、6回2/3を投げて3失点で敗戦投手となり中日の日本一に王手をかけられたが、チームはそこから2連勝し日本一を達成した。 2005年は開幕から絶好調でセ・パ交流戦では6勝を挙げて交流戦の初代最多勝投手に輝く。杉内俊哉とシーズン最多勝を争い、直接対決で敗れたため1勝及ばずタイトルを逃すが、自己最多の17勝を挙げた。防御率も初の2点台を記録した。なお、8月27日の対楽天戦では9回終了時点で完全試合だったものの味方が無得点のため延長戦となり、延長10回先頭打者に安打を許し記録達成を逃した。なお加えて四球も与えたものの得点は許さず、その裏に西武がサヨナラ勝ちしたため勝利投手となっている。 2006年は自身4度目となる開幕投手を務めたが、序盤は調子が上がらず負けが先行し、中盤以降に復調して9勝を挙げるが2桁勝利には届かなかった。 2007年に松坂がボストン・レッドソックスへ移籍し、5度目の開幕投手を務めて1999年以来の白星を記録。3・4月の月間MVPを初めて獲得した他、8月17日の対オリックス・バファローズ戦(グッドウィルドーム)に先発して、史上46人目の通算150勝を達成。9月18日の対オリックス戦では史上83人目の2000投球回を達成した。しかし6月以降の失速が響いて勝ち星は前年と同じ9勝(11敗)となり、プロ入り以来初めて負け越したシーズンとなった。 2008年は試合前半に打ち込まれる姿が目立ち、7月までは防御率6.35と苦しんだ。しかし後半は持ち直し、7月27日の対日本ハム戦で好投して以降は4勝1敗・防御率2.74と活躍、終盤のケガもあって前年より勝ち星は減ったが、レギュラーシーズンを勝ち越して終えた。巨人との日本シリーズでは第7戦に先発。初回に一死満塁のピンチを作ると暴投で先制点を与えたが、暴投時の打席の亀井義行、続く李承燁を打ち取り1失点で切り抜ける。しかし、2回には先頭の坂本勇人にソロ本塁打を打たれ2回2失点で降板した。その後チームは3回からの継投で一人の走者も出さないピッチングが打線の8回の逆転劇を呼び込み、4年ぶりの日本一を勝ち取った。 2009年も前年同様前半戦はローテーションに入ったものの、打ち込まれる試合が続いたほか、チーム事情もあって中継ぎに回される。しかし中継ぎでも打たれる場面が多く、防御率は2年連続の5点台、勝ち星も4勝に終わった。 不調を払拭するためにウエイトトレーニングに取り組んだ結果、翌年2010年には球速が145km/hまで回復し、終盤には好投も見せたが3年連続の防御率5点台・3勝に終わった。 2011年は開幕当初6人目の先発要員となり、前半戦は負け越していたが8月以降は7勝1敗、防御率2.00を記録した。8月28日には2006年以来となる完投勝利を2005年以来の完封で飾り、自身の先発登板連続無完投記録(102試合で当時の日本記録)をストップさせた。この試合により、ジョージア魂賞も受賞。10月12日には2005年以来、実に6年ぶりの2桁勝利を挙げ、迎えた10月18日の最終戦に先発、8回2失点140球で勝利し、チームをクライマックスシリーズ進出へと導いた。最終的に規定投球回には4イニング足らなかったものの、チームトップの11勝、防御率2.57を記録した。日本ハムとのクライマックスシリーズ1stステージ第2戦では7回0/3を1失点に抑え、ポストシーズン通算10試合目にして初勝利を挙げると共に、チームの2ndステージ進出を決めた。 2012年は短いイニングでマウンドを降りるケースが目立った。シーズン中盤に右肩痛に悩まされるようになり、投球内容が悪化して二軍落ちした。シーズン最後まで再調整を行うものの一軍昇格は見送られた。 2013年8月8日の日本ハム戦で先発し、高橋直樹が持っていた最年長先発投手の球団記録を更新した。この年はプロ入り初の未勝利でシーズンを終えた。 2014年は中継ぎで8試合に登板。2年連続で未勝利に終わり、プロ入り初の先発登板なしのシーズンとなった。 2015年は開幕二軍スタートとなったが、5月28日の巨人戦で一軍初登板を果たし、2年ぶりに先発したが4回4失点で降板した。結局この1試合で二軍落ちとなった。9月23日に現役引退を表明した。フランチャイズ・プレイヤー歴21年は伊東勤の22年に次ぐ記録。11月5日に日本野球機構(NPB)より任意引退公示された。 2015年10月、球団本部編成部に所属することが決まる。 2016年1月、2016年3月から4月の間、台湾の統一ライオンズ臨時コーチ就任が発表される。その前の同年2月、韓国プロ野球のハンファ・イーグルスで臨時コーチを務める。 2016年10月、翌2017年度の埼玉西武ライオンズの二軍投手コーチ就任が発表された。 2017年6月27日、一軍投手コーチを務めていた森慎二が病気療養で休養することが発表され、代わって西口が一軍投手コーチとしてブルペン部門を担当することとなった(翌28日、森は多臓器不全のため死去)。その後、2018年からは正式に一軍投手コーチとなり、2020年からはベンチ担当。 2022年からはファーム監督に就任。 選手としての特徴現役時代はキレの良いスライダーを代名詞としていた。変化の大きいものから小さいもの、横変化の強いものや縦変化の強いものと様々な種類のスライダーを投げ分け、特に2ストライクに打者を追い込んでからは、時にフォークボールと見間違えられる程に鋭く縦に変化し、打者にスライダーを空振りしたのではなくフォークを空振りしたかのようなスイングをさせることがあった。好調時には高い確率で打者の空振りを誘い、早いカウントの時は小さな変化でストライクを稼ぐというように使い分けていた。速球はかつては150km/h以上(最速152km/h)を計測することもあったが、晩年は平均球速約138km/hに収まっていた。 本人が2024年3月5日公開分の『フルタの方程式』で語ったところによると、スライダーは思い切り手首を捻って投げたといい、手首で変化方向や変化量、緩急を調整したとのこと。速球の握りも親指の腹で握る特殊なものであった。ボールの握り方が通常と違うのは常人より掌と比べて指が非常に長いためであった。高校・大学時代には走り込みで体を作り、投げ込みや打撃投手の仕事でひたすら投球数を重ねて制球力を磨いた。 毎年20本前後の本塁打を打たれ、先発投手としては良い被安打率を誇る割には防御率が良くない。現役21年のプロ生活で10回の2桁勝利を達成している(9勝のシーズンも2回)が、規定投球回投げている年で防御率が3点未満になったのは1度だけである(2005年)。 また尻上がりに調子を上げていく傾向があり、西口いわく「僕はどうしても点差が開くと気が抜けて、投球が雑になってしまうタイプ」「投手戦の方が、気が張っていい結果が出る」という。 2006年6月4日の対読売ジャイアンツ6回戦(東京ドーム)で8回2/3を2失点完投して(この試合は9回サヨナラ負け)以降、2011年8月28日の北海道日本ハムファイターズ17回戦(西武ドーム)で後述する「幻の完全試合」となった2005年8月27日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦以来の完封勝利を挙げるまで、先発での登板時に102試合連続で完投がなかった。この数字は、従来ケビン・ホッジスが持っていた81を大幅に更新する日本記録(当時)であった。後日、この記録について西口は、「おそらく、この記録は抜かれることはないと思いますから。どんなことでも記録として名前が残るのは、うれしいことです」と振り返っていたが、翌2012年には藤井秀悟が先発登板時に103試合連続完投なしとなり、西口の記録は1年あまりで更新された。 ゴールデングラブ賞を3度受賞している。西口は松坂と共に1997~2006年までの10年間パ・リーグゴールデングラブ賞投手部門を西武勢で独占した。 また1996年の近鉄戦に8者連続三振、2006年には通算1500奪三振を記録し、要した投球回数1729イニングは当時48人の達成者の中で石井一久、江夏豊、川口和久に次ぐ4番目のスピード記録であり、右投げでは歴代1位であった。1997年4月12日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)の2回裏に、史上4人目の1イニング4奪三振を記録している。2006年6月18日の対横浜ベイスターズ戦では12個の三振を奪い、1996年から11年連続で2桁奪三振試合を達成するというパ・リーグ新記録を樹立した。 本塁打が出やすいと言われている東京ドームでは、1996年8月3日の対日本ハムファイターズ戦から2007年6月24日の読売ジャイアンツ戦(交流戦)まで11年間勝ち星から遠ざかっていた(その余りの相性の悪さに2002年の巨人との日本シリーズではチーム最多の15勝を挙げたもののシリーズ開幕が東京ドームから西口の登板は第4戦まで無かった)。その後2012年6月8日の読売ジャイアンツ戦でも5回1/3を1失点で勝利投手となったが、これが西口にとって東京ドームでの現役最後の勝利となった。逆に大阪ドームでは1997年の開場以来、先発登板した試合では2003年5月20日まで敗戦投手にはなっていなかった。 日本シリーズには5回出場し7回登板したが、0勝5敗で1度も勝つことができなかった。 エピソード幻の完全試合・2度のノーヒットノーラン未遂完全試合またはノーヒットノーラン達成まで「残りアウト1つ」の場面で、いずれも「28人目の打者」を相手に安打を打たれて大記録達成を逃し完封・完投どまりになったことが3度ある。すなわち、「相手打者27人」を3度「無安打無得点」に抑え、そのうち1度は「パーフェクトピッチング」だった。以下に概要を記す。 2015年9月23日に行った西口の引退会見でも、「日本シリーズ未勝利と共にノーヒットノーランを達成できなかったことが心残りである」と述べた。 2022年5月6日、中日ドラゴンズ対阪神タイガース戦(バンテリンドーム)において、中日の先発・大野雄大が9回終了まで相手打線を完全に抑えながらも、0-0で延長戦に突入してしまい、そこで被安打を喫して完全試合達成を逃すという、2005年8月の西口のケースからNPB史上2度目となる出来事が発生した。その回の裏で中日はサヨナラ勝ちしており、西口同様、大野も完封勝利が記録されている。この試合の終了後、西口は「僕と一緒ですね」「1本打たれた後の方がさらにギアが入った」「大野投手も同じ気持ちだったんじゃないですかね」と球団を通じてコメントしている。なお、西口も大野も同じ9月26日生まれであることも取り上げられた。 2024/06/15 08:33更新
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nishiguchi fumiya
西口文也と同じ誕生日9月26日生まれ、同じ和歌山出身の人
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