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石井 一久さんについて調べます
■名前・氏名 |
石井一久と関係のある人
則本昂大: プロ入り後の6シーズン中、4シーズンでリーグ最多投球数を記録しており、石井一久GMは「慢性的なものだけど、ここで(手術を)やっておいた方がいいんじゃないかという判断になった。 平石洋介: 10月5日に石井一久GMからの要請を受諾したことが発表され、2019年シーズンより楽天生え抜きとして初の監督に就任することとなった。 若松勉: 日本シリーズでは近鉄と対戦し、第1戦の石井一久の好投、古田の攻守にわたる活躍により、4勝1敗で日本一に輝いた。 西口文也: また1996年の近鉄戦に8者連続三振、2006年には通算1500奪三振を記録し、要した投球回数1729イニングは当時48人の達成者の中で石井一久、江夏豊、川口和久に次ぐ4番目のスピード記録であり、右投げでは歴代1位であった。 則本佳樹: 2018年のNPB育成ドラフト会議で楽天から指名を受けた直後には、ゼネラルマネジャー(GM)の石井一久が、「お兄ちゃんが一流の野球選手だけに、何かヒントを与えてもらうことで、もう一つ上のレベルにいけるんじゃないかなと思ったから指名した」とのコメントを残した。 仁志敏久: 7月19日の対ヤクルト戦では、巨人キラーの石井一久に対して、松井秀喜以外はすべて右打者を並べるという監督の長嶋茂雄の采配のために左翼手を守った(二塁が元木大介、三塁が石井浩郎)が、その試合で池山隆寛の高い飛球をランニング本塁打にしてしまい、その後二度と守ることはなかった(試合後、長嶋は自分の起用ミスのせいであると仁志を庇い、先発の斎藤雅樹に謝罪した)。 礒部公一: また右投手より左投手からの方が打率が高かったが、日本シリーズ第1戦で左投手の石井一久に完全に抑え込まれ、結局このシリーズ無安打に終わり「逆シリーズ男」の烙印を押されてしまった。 菅野智之: 月間防御率0.00は2001年の石井一久以来15年ぶり、2リーグ制以降では史上4人目の記録となった。 生島淳: ジャーナリストとして雑誌や新聞のコラムを担当するほか、選手個人にスポットをあてたバイオグラフィー的(伝記的)な著作、選手の家族との共著などの著書があり、元メジャーリーグベースボール選手の長谷川滋利や石井一久などの本では構成を務めている。 今江敏晃: シーズン終了後の10月17日、石井一久の後任として2024年の一軍監督に就任することが発表された。 石岡康三: 国鉄スワローズ〜ヤクルトスワローズまで選手として連続して在籍した唯一の人物であり(ほかに福富邦夫がいるが、福富は途中で太平洋クラブライオンズに移籍した後ヤクルトに復帰)、同じくヤクルトスワローズで活躍した石井一久は従甥(石岡と石井の父が従兄弟同士)にあたる。 涌井秀章: 2005年に交流戦が開始されて以降にこの記録を達成した10人のうち、所属球団が最小の2球団で達成したのは久保康友・石井一久・杉内俊哉に次ぐ史上4人目。 デーブ=ドスター: 初安打:同上、7回裏に石井一久から左前安打 松井秀喜: 2月28日のオープン戦でプロ初打席を迎え、当時ヤクルトに所属していた一つ上の石井一久と対戦するもカーブで三振となり、その時は焦りや恐怖を感じたという。 飯島夏美: 石井一久&稲村亜美の「女神スポーツ」(Kawaiian TV、2018年8月14日・9月25日・11月6日・12月18日) 野村克也: 1995年は、投手の石井一久、山部太、高津、野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、新人の稲葉篤紀、新外国人テリー・ブロス、さらに阪神を自由契約になっていたトーマス・オマリー、前ロッテのヘンスリー・ミューレン、近鉄との間で西村とのトレードで獲得した吉井理人など移籍してきた選手が活躍。 ダルビッシュ有: 8月4日のメッツ戦で移籍後初先発登板を果たし、勝利投手となったが、ドジャースでの初登板で10奪三振を記録したのは、2002年の石井一久以来のことだった。 加藤幹典: 背番号は、この年まで石井一久が着用していた16。 松井秀喜: NPB時代には、石井一久を苦手にしていた。 寺村友和: ヤクルト時代の2001年8月15日の対横浜ベイスターズ戦(神宮球場)で4-0の時に石井一久に代わって登板、試合を三振で締めくくったが最後の1球で思い切り転倒してしまった。 北川哲也: 石井一久とは同学年で 渡邊佑樹: 監督の石井一久から「肘を下げること(サイドスローに転向すること)が契約の条件」というリクエストを受ける形で11月のフェニックス・リーグからサイドスローに挑戦し、12月8日に育成契約を結んだ。 ダルビッシュ有: 日本人投手の勝敗なしを挟まない連続登板勝利は、野茂英雄(1995年)と石井一久(2002年)の6連勝と並びタイ記録。 仁平馨: 高校通算69盗塁という俊足を生かしたプレーと、1994年に初本塁打を猪俣隆から、1995年には今中慎二(当時中日ドラゴンズ)、石井一久(当時ヤクルトスワローズ)から本塁打を放つなど左キラーとして活躍した。 福田永将: しかし、二軍では4番打者としてのスタメン出場もあり、フェニックスリーグでは石井一久から本塁打を放った。 野村沙知代: やっぱり古田くんは殺してやりたい」と発言したり、1998年1月にはハワイで、石井一久と交際していると報道されていたタレントの神田うのを殴打する騒動を起こすなど、南海ホークス時代同様に現場への介入を繰り返した。 葵夏美: 石井一久&稲村亜美の「女神スポーツ」(Kawaiian TV、2018年8月14日・9月25日・11月6日・12月18日) 権藤博: 地元胴上げの期待は最高潮に達していたが、野村は「1年目の権藤に簡単に優勝させるわけにはいかない」と闘争心を露にし、当時好調だった川崎憲次郎、石井一久、伊藤智仁らをぶつけて3連勝し、自身の目の前での胴上げだけは阻止した。 野村克則: ヤクルト時代は石井一久を同い年ながら兄のように慕っており、お揃いのスパイクを使用していた。 稲村亜美: 石井一久の〇〇してみた (2015年10月2日 - 、ニコニコ生放送) |
石井一久の情報まとめ
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石井 一久(いしい かずひさ)さんの誕生日は1973年9月9日です。千葉出身の野球選手のようです。
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選手としての特徴、人物などについてまとめました。父親、兄弟、テレビ、結婚、事件、引退、現在、卒業に関する情報もありますね。今年の情報もありました。石井一久の現在の年齢は50歳のようです。
石井一久のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 石井 一久(いしい かずひさ、1973年9月9日 - )は、千葉県千葉市若葉区出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。 2018年9月から2022年まで東北楽天ゴールデンイーグルス(株式会社楽天野球団)取締役GM、2021年から2023年まで同球団第9代監督を務めた。 マネジメントは吉本興業スポーツ部。妻はフリーアナウンサーの木佐彩子。 父親がヤクルトスワローズOB(および入団当時のヤクルト投手コーチ)だった石岡康三と従兄弟同士である縁から、幼少期からヤクルトに親しみを持っていた。またサッカー経験が豊富にあり、『笑っていいとも!』出演時には「野球は向いてない」「サッカーをやりたかった」「知らないうちにプロ野球選手になっていた。両親は喜んでいたけど、僕はうれしくなかった」などと話している。 みつわ台中時代は一塁手であった。東京学館浦安高等学校では投手に転向する。全国大会(甲子園)出場はならなかったが、1991年(3年次)には夏の千葉県大会4試合で52奪三振を記録。5回戦で銚子商業高校に0-1で敗れたが、プロ野球全12球団のスカウトからは「10年に1人、江夏豊に匹敵する左腕」と高評価を得た。 同年のプロ野球ドラフト会議を控え、今中慎二(当時は中日ドラゴンズ所属)以上という快速球左腕として注目を受けており、読売ジャイアンツ(巨人)・西武ライオンズに加え、地元・千葉(千葉マリンスタジアム)への本拠地移転が決まっていた千葉ロッテマリーンズが1位指名の候補として石井をピックアップしていた。また福岡ダイエーホークスも「高校生こそドラフトの宝」という信念を持つとされていた編成部長・穴吹義雄の意向から、石井を1位指名するとする予想があった。しかし石井本人は幼少期からヤクルトに親しみを持っていたことに加え、当時ヤクルトは野村克也監督の下で力をつけ、セントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝を狙えるチームとなっていたことから、ヤクルトへの入団を熱望した。ロッテはなおも地元出身の逸材である石井を熱心に勧誘しており、ドラフト会議直前にも石井はヤクルトとロッテから重複指名されるだろうという予想が報じられていたが、最終的にロッテは石井の指名を断念して吉田篤史(ヤマハ硬式野球部)を1位指名したため、競合必至とされた石井は意中のヤクルトから単独1位指名を受け、球団の高校生新人選手としては当時最高額となる契約金8000万円で入団した。他球団が石井指名を断念した理由は、石井がヤクルト以外への入団に消極的だったことに加え、「高校生の投手は一軍の戦力になるまで時間が掛かる」という判断からで、ロッテのスカウト部長代理・木樽正明は石井について「2年か3年で中心的なピッチャーになれる」と評していたが、当時のロッテは即戦力を必要としており、ヤクルトとの競合や前年オフの出来事もあって、最終的には会議直前に石井指名を断念することを決めたと報じられている。背番号は16。 1992年は12試合に登板したが勝敗は付かなかった。日本シリーズ第3戦では史上初の「レギュラーシーズンで未勝利の高卒新人ながら先発登板」を果たす。高卒新人投手の先発登板自体、1953年の中村大成、1956年の稲尾和久、1966年の堀内恒夫、2007年の吉川光夫含めて5人のみで、全守備位置を通じて高卒新人のシリーズ先発出場は1988年の立浪和義以来4年ぶりの事例だった。4回に2点を失い降板、敗戦投手となっている。 1993年8月3日の阪神タイガース戦でプロ初勝利を達成するが、雨天コールドゲームでの勝利だった。 1994年はチームが慢性的な左投手不足であったため、中継ぎ・谷間の先発を担い、リーグ2位の54試合に登板。 1995年は初の規定投球回数到達と2桁勝利(13勝)を達成し、2年ぶりのリーグ優勝・日本一における中心選手の一人となった。 1996年は前年オフに左肩関節の損傷の修復手術をした影響もあり開幕には間に合わず、後半戦復帰したが思うような投球ができずオフに再度左肩関節の手術する。 1997年はシーズン中盤まで渡米し、クリーブランド・インディアンスにて左肩のリハビリをする。復帰後はかつての豪速球が復活し、10勝を挙げた。9月2日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で、史上65人目となるノーヒットノーランを達成。これは4与四球を含むものだったため、横浜のバッテリーチーフコーチだった権藤博は「そんな記録に意味はない」と発言したが、鈴木尚典は「早くメジャー(リーグ)へ行ってほしい」とコメントした。佐々木主浩は「石井一久にノーヒットノーランを食らったところでガクッときましたよね。力の差を感じたというのがありました。力でねじ伏せられて、勢いだけじゃダメなんだ。もう少し力をつけないと、というのはありましたね」と述べている。この快投は終盤戦に追い上げてきた2位の横浜を突き放す上で大きな効果を挙げ、ヤクルトは2年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは第1戦に先発。当時日本シリーズタイ記録の12奪三振で完封。第5戦もリリーフで2勝を記録して日本一に貢献し、自らもシリーズ優秀選手に選出された。なお、同年のオフには女性タレントの神田うのとの交際と、これに対する野村克也監督夫人の野村沙知代からの痛烈な批判が週刊誌やワイドショーなどで報道された。 1998年4月3日の読売ジャイアンツ戦(明治神宮野球場)で初の開幕投手を務めるも敗戦投手となるが、同年は最終的に自己最多の14勝を挙げ、自身初の最多奪三振を獲得したほか、シーズン三振奪取率11.047の日本新記録を樹立する。一方でシーズン最多暴投の日本記録の所持者となった。 1999年は春季キャンプで左脛を痛めて状態のまま開幕を迎え2年連続の開幕投手を務め、初の開幕勝利を記録。初めてオールスターゲームに出場し、第3戦に登板して勝利投手になった。同年6月26日の阪神タイガース戦では川尻哲郎から通算3本目となる本塁打を打った(日本で最後の本塁打。日米通算4本塁打)。しかしキャンプで痛めた足の状態も思わしくなく好不調の波が激しく、同年は8勝に終わり規定投球回もわずか(133回で残り2回足らず)に届かなかった。 2000年3月31日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で、3年連続の開幕投手を務め、関川浩一・立浪和義・福留孝介・レオ・ゴメス・デーブ・ニルソン・山崎武司から6者連続奪三振を記録して勝利投手となる。9月8日の巨人戦から10月5日の阪神戦まで34回1/3連続無失点を記録するなど、勝ち負けは10勝9敗だったがセ・リーグの最優秀防御率と最多奪三振の二冠に輝いた。なお、同シーズンの開幕直前に、フジテレビアナウンサーの木佐彩子との結婚を発表した。 2001年、4年連続の開幕投手を務め、7回8奪三振で3年連続開幕勝利。前年の先発陣が移籍・退団・故障離脱により一新されたことで、先発陣の柱としてチームを牽引、年間ローテーションを守り、12勝を挙げて優勝に貢献する。日本シリーズでも初戦に先発し、8回を1安打12奪三振の好投で勝利する。日本シリーズ優秀選手賞を受賞した。 オフには「今まで具体的な夢を持ったことはなかったけど、初めて描いた夢がメジャーだった」とメジャー挑戦を表明し、ジョー・アーボンと代理人契約をする。前年から球団に訴えていたポスティングシステムでのメジャーリーグ移籍を目指したが、9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の影響を受け、一時はヤクルトと再契約を結んでメジャー移籍を断念する。同年12月には長男(第一子)が誕生した。 2002年1月7日に石井が移籍希望球団として挙げていたロサンゼルス・ドジャースが入札したことを受け、ドジャースと3年1230万ドルで契約を結んだ。背番号は17。入団会見では妻の木佐が小学2年から中学2年までロサンゼルス在住だったことを受けて「僕の妻はカリフォルニア人」とジョークを交え、会場の笑いを誘った。 2002年はスプリングトレーニングで3本塁打を打たれ、防御率は10.00を越えるなど報道陣から不安を持たれたが、初先発となった4月6日のコロラド・ロッキーズ戦で6回を2安打に抑える好投で初勝利を挙げ、監督のジム・トレーシーは「これが君たちが色々と言っていた投手(石井)の実力だよ。公式戦を見ろと言っただろ?」とコメントした。球速も96mph(約154km/h)を計測し、デビュー戦10奪三振はペドロ・アスタシオと並ぶチーム最多タイ記録だった。2度目の登板となった4月12日のサンディエゴ・パドレス戦では、「三振しか取れない投手だと思われるのもしゃくなので、打たせて取る投球も出来ることを見せたい」と語り、スプリングトレーニングで習得したツーシームを用いて凡打の山を築いた。その後、4月28日のシカゴ・カブス戦で自己最速となる97mph(約156km/h)を計測し、開幕から6連勝と好調なスタートを切り、4月は5勝0敗でルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した。前半戦で11勝を挙げ、5月終了時でオールスター選出はほぼ確実と見られていたが、6月から調子を落としてオールスター選出を逃す。その後も不安定な投球を続け、後半戦は防御率5.57、WHIP1.63と不調に陥った。9月8日のヒューストン・アストロズ戦では頭部に打球を受けて病院に搬送、頭蓋骨の亀裂骨折と診断され、医師から「あと1ミリ、亀裂が長くなっていたら頭の中を通っている大きな血管を損傷して、出血死していたかもしれない」と言われる程の大怪我でシーズンを終えた。同年チームメイトだった野茂英雄とは与四球数において、メジャー全体で1・2位を記録した(1位は石井106個、2位は野茂103個)。 2003年は前半戦最後の登板でNPB・MLB合算100勝を達成し、8勝3敗、防御率2.94の好成績で前半戦を終える。7月29日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で、ヤクルト時代からの古傷だった左膝の痛みが悪化し、早期降板も検討されたが、6回を3安打2失点に抑えた。その後「野球をしてきた蓄積で、投げようと思えば投げられないこともないが、メジャーは万全の調子でなければ簡単に成績を残せるところではないし、休む勇気もプロには必要」とコメントして故障者リスト入りし、靱帯損傷と診断された。故障者リスト入り中もチームには帯同し、8月30日のロッキーズ戦で復帰し、6四球を与えるも5回を3安打無失点に抑えた。9月10日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦では6回を内野安打1本に抑え、打者としてもシーズン唯一となる安打を、日米通算でも初だった右中間への三塁打で記録する活躍を見せた。 2004年からは投球にカットボールやチェンジアップを交えるようになり、例年に続き開幕3連勝の好スタートを切り、前半で10勝を記録。2002年からの3年間での前半戦勝利数29はメジャー全体でトップとなったが、後半は調子を崩して中継ぎ降格を告げられ、ポストシーズンのロースターからも外れた。オフにはニューヨーク・ヤンキース、ロサンゼルス・ドジャース、アリゾナ・ダイヤモンドバックス間の三角トレードによりランディ・ジョンソンと共にヤンキースへ移籍する予定であったが、ドジャース側の撤退により破談に終わっている。 2005年の開幕直前、ジェイソン・フィリップスとの交換トレードでニューヨーク・メッツへ移籍。背番号は23。しかし左膝痛が再発しての故障者リスト入りや、調整登板以外では初となるマイナー降格も経験。9月のロースター拡大で再昇格するも3勝にとどまり、「こういう苦労をしたくなかったらメジャーに来ていない。貴重な経験だと思って今後の野球人生につなげたい」とコメントした。 2006年1月20日に古田敦也が選手兼任監督に就任したヤクルトに年俸2億4000万円プラス出来高6000万円(推定)の2年契約で復帰。背番号は自身が過去につけていた16。シーズン通して外れることなく先発ローテーションを守り、11勝を挙げた。 2007年は5月17日の中日戦(ナゴヤドーム)で、史上48人目となるNPB通算1500奪三振を達成。1413投球回での達成は、江夏豊の1423投球回を抜く日本プロ野球最速となった。2007年9月23日の阪神戦で、2564日ぶりの完封勝利を挙げる(通算7回目)。 2007年は安定感を欠き、9勝10敗、防御率4.16に終わった。11月12日に前年途中に取得していたFA権を行使する。ヤクルトから慰留を受けるが、新たな環境を求めて移籍を決意。理由としては「新しい友達を作りたかったから」だと「開運!なんでも鑑定団」の中で話していたこともある。 2007年11月22日に埼玉西武ライオンズへの移籍が発表された。ヤクルト時代の背番号16は涌井秀章が着けていたため、16を反転した61を本人が選択。 2008年は、3月29日の福岡ソフトバンクホークス戦(西武ドーム)でNPB通算100勝を達成。同シーズンでは序盤は最多勝争いに名を連ねるなど好調だったが徐々に調子を落とし、最終的に11勝10敗・防御率4点台に終わった。北海道日本ハムファイターズとのクライマックスシリーズ(第2ステージ)では第4戦に登板し、7回13奪三振3失点で勝利投手となった。巨人との日本シリーズでは第3戦に先発するも6回5失点で敗戦投手になるが、第7戦に3回からリリーフで登板すると2回をパーフェクトに抑えた。結果的にチームは日本一となり、石井は第7戦で巨人にリベンジを果たした。 2009年は、涌井が背番号を18へ変更したため、背番号を16に変更。前年に比べて被打率が下がる代わりに四球が増え、9勝止まりで規定投球回も達しなかったが、投球回数を上回る奪三振数を記録。 2010年は5月19日のヤクルト戦(西武ドーム)で9回完投勝利(サヨナラ勝ち)を挙げ、12球団勝利を達成した(レギュラーシーズンで近鉄との対戦はなかったが、2001年の日本シリーズで近鉄に勝利している)。この年も9勝止まりだった。クライマックスシリーズでは登板はなかった。 2011年は、8月7日のソフトバンク戦で通算2000奪三振を達成(プロ野球20人目)。記録達成に要した投球回数は1967回2/3であり、これまでの最速記録保持者だった江夏豊を超えるプロ野球最速記録となった。しかしシーズンでは6勝、防御率4.31と先発ではあまり結果を残すことができず、シーズン終盤にはリリーフに回った。リリーフでは安定感を見せ、特にクライマックスシリーズファーストステージ第2戦では、8回無死一・三塁から西口文也をリリーフして、糸井嘉男、小谷野栄一、稲葉篤紀を完璧に抑え、ポストシーズンで勝ち星のなかった西口のポストシーズン初勝利とチームのクライマックスシリーズファイナルステージ進出に貢献した。 2012年は、5月25日のヤクルト戦で自身5年ぶりとなる完封勝利、6月13日の阪神戦では自身初となる無四球完封を記録した。また、シーズンで複数回完封勝利を記録したのは1997年シーズン以来。4年ぶりの2桁勝利を達成したが、怪我で二軍落ちし、10勝目を挙げて以降は勝ち星がなかった。クライマックスシリーズでは第3戦で4回表まで好投していたが、後続の投手が打たれたため敗戦投手となった。 2013年は左肩の不調で出遅れ、全て中継ぎでの7試合の登板に終わる。9月24日に現役を引退することを発表した。10月8日の引退セレモニー内のセレモニアルピッチでは夫人が見守るなか、長男(当時小六)のストライク投球を受けた。また、声援にこたえるためのグラウンド1周を電動立ち乗り2輪車セグウェイで行うなど石井らしいユーモラスな演出もあった。 引退の記者会見では、現役時代に芸能活動のマネジメントを委託していた吉本興業に、2014年4月に契約社員として入社する意向を表明。あくまで同社の高卒採用枠での入社で、給料も「一般の高卒社員と同じ」という。同社では一般の社員としての勤務のほか、並行してフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家としても活動した。現役スポーツ選手のマネージメント並びに引退後のスポーツ選手のマネージメントを仕事にし、広くスポーツ界に貢献するのが志望動機だとした。 2015年4月29日、ドジャー・スタジアムでのサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では、始球式を務めた。 2018年8月20日、1月に急逝した星野仙一(在任当時取締役副会長)の後任として、東北楽天ゴールデンイーグルスの編成部門を統括する取締役ゼネラルマネージャーに9月1日付で就任することが球団から発表された。 2020年11月12日、2021年シーズンから取締役GM兼監督に就任することが発表された。2013年以来、8年ぶりの現場復帰となった。背番号は99。 2022年12月4日、取締役GMを退任し、翌2023年から監督に専任することが発表された。3月6日、背番号を現役時代に使用していた16に変更することとなった。同年オフ退任を発表、2024年からは球団取締役シニアディレクターに就任する。 選手としての特徴投球時に上げた右足の膝が胸の前で構えた右肘に当たる特徴的な投球フォームとノーワインドアップのスリークォーターから投げる平均球速約142km/h、最速97mph(約156km/h)の速球に加え、カーブとも呼ばれるほどの独特の大きな変化を見せるスライダー(スラーブ)、フォークを武器とする。2001年までの通算奪三振率9.70と奪三振が多く、1998年には日本記録(当時)となる奪三振率11.047を記録した(現在の記録保持者は千賀滉大)。メジャーでも2003年までは奪三振率8.46と三振が多く、決め球であるスライダーはメジャーでも高く評され、2002年に対戦したトッド・ヘルトンは「(バッターボックスの)直前まで球種の判別が出来なかった」と語った。一方で好不調の波が激しく、2001年までの通算与四球率4.65と制球力に難があり、1998年にはセ・リーグのシーズン最多記録(達成当時はNPB最多記録)となる20暴投も記録している。 2004年頃からは変化球や投球術を駆使した技巧派の投球スタイルに変わり、それまでの球種に加え、ツーシーム、カットボール、チェンジアップを投球に取り入れるようになった。かつては「速球で三振を取れなくなったら引退する」と語っていたが、技巧派のスタイルになってからの平均球速は約138km/hと球速は下がったものの2006年のNPB復帰後の通算奪三振率は7.78(2012年シーズン終了時)とさほど落ちなかった。本人も「三振の取り方は知っている」と発言している。 ヤクルト時代は、松井秀喜を得意相手にしており、通算では打率.202とかなり抑えている。また、新人時代の松井のプロ初打席(オープン戦)の対戦相手は石井であり、三振に打ち取っている。 人物愛称は「ピン」。 子供の頃は野球選手に興味がなかったが、たまたま打者として参加したとき本塁打を打ってしまったことから、注目されるようになる。プロ入りのきっかけは、「高校卒業したら辞めようと思ったらスカウトがいっぱいきたから」という。 引退の理由について「マンネリ化してきたから」と話した。周りから「もうすぐ200勝達成できたのに」と言われても「何で200勝ってこだわるんですか? 僕何勝でしたっけ? 182勝したら別によくないですか? 200勝したからって人生素晴らしいかって言われたらそうでもない」と答えている。若い頃から良くも悪くも記録にこだわりを持たず、1997年のノーヒットノーラン達成時も、実は8回終了時点で「疲れたんで」と降板を申し出ていたという。これに対し、捕手の古田が「今日だけは投げろ」と続投を求め、その結果記録達成につながった。 ダウンタウンの浜田雅功とは親交があり、『ジャンクSPORTS』で共演した縁もあって2019年6月4日試合前のセレモニアルピッチに浜田が登場した。しかし、自ら仕掛けたドッキリに浜田がハマってしまい、対戦相手の巨人選手や観客から笑いが起きていた。また、嵐の相葉雅紀とも親交がある。 2010年はヒーローインタビューにてファンへの一言を求められた際に、犬のペロを飼い始めたことを明かし、以来ヒーローインタビューではペットの近況を報告していた。 2024/06/14 09:32更新
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ishii kazuhisa
石井一久と同じ誕生日9月9日生まれ、同じ千葉出身の人
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石井一久と近い名前の人
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