もしもし情報局 > 1975年 > 12月14日 > 野球選手

福浦和也の情報 (ふくうらかずや)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

福浦和也の情報(ふくうらかずや) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

福浦 和也さんについて調べます

■名前・氏名
福浦 和也
(読み:ふくうら かずや)
■職業
野球選手
■福浦和也の誕生日・生年月日
1975年12月14日 (年齢48歳)
卯年(うさぎ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
千葉出身

(昭和50年)1975年生まれの人の年齢早見表

福浦和也と同じ1975年生まれの有名人・芸能人

福浦和也と同じ12月14日生まれの有名人・芸能人

福浦和也と同じ出身地千葉県生まれの有名人・芸能人


福浦和也と関係のある人

根元俊一: また、前年に引退した福浦和也がコーチに就任し、背番号が入団当初に着用していた70となったため、背番号が87に変更となった。


杉内俊哉: 2004年6月1日の対千葉ロッテマリーンズ戦で福浦和也に満塁本塁打を打たれるなど2回7失点で降板直後、悔しさのあまり、帽子とグローブを投げつけた直後、城島健司の制止を振り切ってベンチを素手で殴打して両手の小指付け根を骨折し、全治3か月。


堀幸一: 6月11日の対広島戦では、1イニング最多となる15得点を記録した6回の途中から福浦和也(この回2打席目)の代走として出場、その後も攻撃が続き「代走」のまま打席が廻ってくるという珍事があった。


小野晋吾: マウンドに立ち、打席に立った同期入団の福浦和也を三球三振に打ち取った後、ファンへ挨拶をし、ナインに胴上げされ、グラウンドを1周して選手生活を終えた。


ヘクター=カラスコ: 初奪三振:同上、9回表に福浦和也から空振り三振


早坂圭介: 現役引退を決意した際に先輩の福浦和也から『(自分が)華やかな時、いい時に周りに誰がいた?圭介がどん底になった時、周りに誰がいる?どん底の時に周りにいる人は大切な人だと思う。


能見篤史: この登板では、チーム3個目の死球を福浦和也に与えたことがきっかけで、その裏に藤田宗一による金本知憲への死球で乱闘を招いている。


大松尚逸: 1イニングで3度打席に入ったのはプロ野球史上初であり、この回先頭打者の福浦和也はイニング途中で代走として堀幸一と交代した関係で3打席を記録したのは大松一人だった。


ダン=セラフィニ: 牽制の技術に長けており、チームメートの福浦和也からは「投球と判別できないほど」と評された。


細川亨: 9月26日の対千葉ロッテ戦では1点リードの8回から途中出場したが、9回にアレックス・グラマンが福浦和也に同点タイムリーを許し、続くサブローのヒットで本塁を狙った二塁走者の早川大輔が細川の顔面に左肩でタックルし、細川はボールは離さずスリーアウトチェンジとなった。


近藤昭仁: その中で小坂誠・福浦和也といった新戦力を見出だして台頭させたが、1年目(1997年)はチームの防御率3点台に対して打線が振るわず最下位に終わる。


吉田修司: 6月2日の千葉ロッテマリーンズ戦では、9回1死満塁のピンチで福浦和也を遊ゴロ併殺に仕留めて史上11人目の1球勝利を記録し、「今日は楽をさせてもらったよ」と苦笑した。


城所龍磨: 7月15日対ロッテ戦9回裏1点リード二死二塁、抑えのデニス・サファテ登板中、福浦和也のレフト線ヒットの返球を悪送球にしてしまい岡田幸文が楽に生還、打者の福浦も二塁へと進め、12回延長引き分けとなった。


土肥義弘: ロッテとのクライマックスシリーズでは、第1戦の延長11回に福浦和也に決勝ソロ本塁打を打たれ、敗戦投手となった。


黒木知宏: オープン戦としては異例の前売り券25,000枚が完売、当日券も発売10分で売り切れるなど、28,926人の満員の観客を集めて行われ、同期入団のサブロー、同級生の楽天・礒部公一、最後は福浦和也と対戦し、サブローを三振、礒部を三塁ゴロ、福浦も三振に打ち取った。


駒田徳広: 現役通算安打2006本は2021年現在、現役引退した名球会員の中では千葉ロッテマリーンズの福浦和也(通算2000本)に次ぐ少ない記録である。


トッド=リンデン: 2009年10月6日のロッテ戦で、中谷仁のスクイズ失敗により三本間で挟まれた際、ロッテの福浦和也のグラブを肘打ちしてボールを弾き飛ばし守備妨害を宣告された。


和田康士朗: 2019年も支配下登録されることなく、年間通して二軍で暮らしたが、選手兼任コーチの福浦和也指導の下で打撃フォームを矯正すると、9月は月間打率.346、3本塁打を記録。


高木啓充: 初奪三振:2008年6月9日、対千葉ロッテマリーンズ4回戦(明治神宮野球場)、8回表に福浦和也から空振り三振


小笠原道大: 千葉ロッテマリーンズの福浦和也との首位打者争いには敗れたが、打率.339(リーグ2位)を記録。


山本功児: ロッテの二軍打撃コーチ時代の1994年開幕直後、山本は当時高卒入団1年目の投手で共に打撃センスがあった福浦和也と小野晋吾の2人を呼び出しバッティング練習をさせ、福浦に「おまえ、今すぐにバッターへ転向しろ」と福浦に打者転向を命じた。


高井雄平: 投手としてNPBの球団に入った選手の年俸が、野手転向後に1億円まで達した事例は石井琢朗・福浦和也・糸井嘉男に次いで雄平が4人目である。


醍醐猛夫: 投手として入団したものの、肩と肘を痛め、投球も出来ない日々を送っていた1年目の福浦和也に野手転向を勧めた。


里崎智也: しかし延長11回裏に今度は里崎の頭部付近への投球があり、次打者福浦和也の頭部への死球により有銘兼久が危険球退場になるなど、禍根を残した。


清田育宏: 5月24日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で福浦和也の代走としてプロ初出場を果たすと、同26日の広島東洋カープ戦(千葉マリンスタジアム)で、ソリアーノからプロ初安打を放つ。


伊良部秀輝: 福浦和也は引退間近の取材で「若手の頃は、らぶさん(伊良部)に可愛がってもらった」と語り、小野晋吾、黒木知宏、藪田安彦などの後輩達も口を揃えて「色々とアドバイスをしてくれる後輩思いの優しい先輩だった」と話している。


立川隆史: 2003年は出場試合数、本塁打、打点とも自己最多を記録し、同期の福浦和也らとともにマリーンズの下位脱出に貢献したものの、終盤は井上純に定位置を奪われてしまった。


フリオ=ズレータ: ロッテの一塁手には福浦和也がいたため、主に指名打者としての出場(ただし、福浦の故障により一塁手での出場も数試合あった)。


川上憲伸: 7回二死までは完全試合(福浦和也に四球)、9回無死までノーヒットノーランペース(代打のサブローに右前安打)と好投した。


吉井理人: 代表チームでの活動を優先する時期には、一軍ヘッド兼打撃コーチの福浦和也がチーム全体の指導に当たっていたが、自身もコーチ陣とのオンラインミーティングに参加。


福浦和也の情報まとめ

もしもしロボ

福浦 和也(ふくうら かずや)さんの誕生日は1975年12月14日です。千葉出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

選手としての特徴、人物などについてまとめました。現在、テレビ、結婚、母親、引退、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。福浦和也の現在の年齢は48歳のようです。

福浦和也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

福浦 和也(ふくうら かずや、1975年12月14日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(内野手、左投左打)。現在は千葉ロッテマリーンズの一軍ヘッド兼打撃コーチ。

現役時代は地元出身のフランチャイズ・プレイヤーとして千葉ロッテマリーンズに26年間所属。球団史上3人目の2000安打達成者であり、「幕張の安打製造機」の異名をとった。

熊本県出身の父と千葉県生まれの母との間に、当時の東葛飾郡浦安町に生まれ、4歳の時に習志野市に転居した。習志野市立大久保東小学校1年の時に父の影響で野球を始め、習志野市の野球チーム「あずまクラブ」に所属。この頃はテレビで巨人の試合をよく観ていて、篠塚和典や吉村禎章らに注目していた。また、小学6年生の頃から習志野高校を志望し、プロ野球選手を夢見るようになったという。習志野市立第二中学校ではリトルリーグで一時期プレーしていた関係でバスケ部に入部するが、数か月後に野球部へ転部する。1年後にはエースとなり、3年春に市内大会で優勝を果たす。中学時代に同郷の井上貴朗と投げ合ったこともある。

習志野市立習志野高等学校では1年時からレギュラーになり、2年時からは4番に定着。高校通算20本塁打を記録した。2年秋頃からは最速142km/hのストレートとカーブのコンビネーションを武器にエースとしても活躍した。2年夏(1992年)の県大会では東京学館技術との4回戦で本塁打を放つ。チームはベスト8に進出するが、準々決勝で立川隆史を擁する拓大紅陵に敗退。秋季関東大会県予選の準々決勝では、暁星国際高に8回コールド負け。3年春(1993年)には練習試合でノーヒットノーランを達成している。夏の県大会では3回戦で野田北高に敗退。

1993年のドラフトで地元球団・千葉ロッテマリーンズに投手として7位指名され入団。指名がなければ社会人チームで野球を続ける進路を考えていたという。この年はドラフト会議における逆指名元年で、同時に始まったフリーエージェントも相俟って各球団指名選手数を絞る中、唯一ロッテは7人目を指名し、全球団を含めてこのドラフト会議での最終指名者となった。支配下登録選手枠70名の最後という扱いで背番号は70に決まった。

1994年、入団してすぐに肩の故障に悩まされ、投球練習がほとんどできない状態に陥る。当時二軍打撃コーチだった山本功児から呼び出され、同期の小野晋吾と共にフリーバッティングを指示されたところ、快打を連発して打者への転向を打診される。しばらくは投手へのこだわりから固辞するが、山本からの必死の説得で7月に転向を決める。その後は、同期の大塚明らと連日の特守で鍛えられながらも、一軍出場がないまま3年間をファームで過ごす。なお、一軍で通用する守備力を手に入れられたのは、この頃に佐藤兼伊知二軍守備コーチに絞られたおかげだと後年語っている。同年10月8日のイースタン・リーグ最終戦で、横浜ベイスターズの友利結から放った二塁打がファームでの初安打となる。成績は7試合で打率.125、0本塁打、1打点。

1995年、入団2年目のシーズンはレン・サカタ二軍監督が若手を積極起用した影響もあり、ファームで76試合に出場し、打率.263、5本塁打、23打点と飛躍し、ジュニアオールスターに出場。また、8月のイースタン月間MVPを受賞する。

1996年、3年目も一軍昇格はなく、54試合で打率.235、0本塁打、9打点と低迷したが、9月は打率.333と好調だった。シーズンオフは黒潮リーグで腕を磨いた。また、自分を追い込むためオフに退寮し、自発的にトレーニングを管理するようになる。

1997年、春季キャンプの時から近藤昭仁監督に目を掛けられ、7月5日に初の一軍昇格。その日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(千葉マリン)に「7番・一塁手」でスタメン出場し、ウィリー・フレーザーからプロ入り初安打(中前安打)を記録。同月15日の対日本ハムファイターズ戦では初のサヨナラ打、8月1日の対西武ライオンズ戦では初本塁打を放つなど活躍し、「3番・一塁手」としてレギュラーに定着。67試合に出場して打率.289の成績を残した。シーズンオフに高校時代から交際していた女性と結婚

1998年、背番号を9に改め、開幕からレギュラーとして129試合に出場。初の規定打席にも到達し、打率.284の成績で打撃ランキング12位を記録。7月10日の対日本ハム戦では石井丈裕からプロ初のサヨナラ本塁打を放っている。なお、チームは6月13日からプロ野球記録の18連敗を喫するが、その間も全てスタメン出場している。連敗前までは打率3割を超えていたが、連敗中に調子を落としたことに不甲斐なさを感じていたという。「七夕の悲劇」と呼ばれる7月7日の対オリックス戦(グリーンスタジアム神戸)では1安打1打点と奮起するが土壇場で勝利を逃し、後年になっても忘れられない試合として語っている。

1999年は、フランク・ボーリックや初芝清などに一塁のポジションを奪われ、スタメンでの出場は前年の半分ほどに減少したが、打率.277、得点圏打率.361と安定した成績を残した。また、シーズン終盤からは外野を守ることが多くなった。

2000年、石井浩郎の加入で外野での出場が前年よりも増加。オープン戦から好調を維持して、一時は4割近い打率で打撃ランキングのトップに立っていた。シーズン中に母親を亡くすという不幸に見舞われるがレギュラーとして定着し、初のオールスターゲーム出場を果たす。シーズン成績は僅かに3割に届かず、打率.296で終えたことを反省し、ワンプレーを大切にすることを強く意識するようになる。

2001年、腰痛で欠場することもあったが、一塁手のレギュラーに復帰。小笠原道大との首位打者争いで、9月14日時点で打率.326と、小笠原の.344に差を付けられていたが、そこから閉幕まで55打数27安打(.491)で一気に小笠原を抜き去り、打率.346で首位打者を獲得した。また、初の2桁本塁打となる18本塁打を記録した。対左打率.387と左投手を得意とし、2ストライクに追い込まれた後の打率もリーグトップの.304の成績を残した。この年は「振ればヒット」という不思議な感覚に包まれていたという。オフの契約更改で、1億円プレーヤーとなる。

2002年、ストライクゾーンが変更された影響でバッティングを崩したうえに、厳しくなったマークでリーグ最多の17死球を喫するが、2年連続で打率3割を記録。得点圏打率は.247と前年より1割近く落としたが、2ストライク後の打率.272はリーグトップであった。

2003年、初の全試合出場を達成し、いずれも自己最多となる172安打・21本塁打・76打点を記録。3年連続の打率3割、史上初の2年連続40二塁打、シーズン2度の1試合5安打を達成し、10月5日の対西武ライオンズ戦ではサヨナラ二塁打を放ち、史上2人目となるシーズン50二塁打を達成した。なお、シーズン172安打は2010年に西岡剛に更新されるまで、球団3位の記録であった。守備面では3年ぶりに外野を守る機会もあったが、一塁手部門で初のゴールデングラブ賞を獲得した。

2004年、前年韓国で56本塁打を記録した一塁手の李承燁が入団したが、この年も打率.314(リーグ9位)・11本塁打の成績で一塁手のレギュラーを守った。両リーグ最多の42二塁打、自身の記録を更新するNPB史上初の3年連続40二塁打、8月20日の対福岡ダイエーホークス戦では通算1000安打を達成。6月1日の同対戦では杉内俊哉から初の満塁本塁打を放った。また、2度目となるオールスターゲームと、シーズンオフに開催された日米野球にも出場した。

2005年、故障もありやや低調なシーズンだったが、終盤の追い込みで5年連続の打率3割と3年連続の70打点を達成。本塁打は一桁の6本に終わったが、得点圏打率.333、満塁打率.556、犠飛はリーグトップの9本を記録した。また、5月12日の対阪神タイガース戦では通算1000試合出場を達成している。ボビー・バレンタイン監督による日替わりのマリンガン打線において、唯一福浦だけがシーズンを通して「3番・一塁手」に固定され、チームの31年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献。阪神タイガースとの日本シリーズ第3戦(阪神甲子園球場)では桟原将司からシリーズ史上17本目となる満塁本塁打を放った。なお、優勝したアジアシリーズでは腰痛のため選手登録はされなかった。3度目のオールスターゲーム出場と2度目のゴールデングラブ賞受賞を果たす。

2006年、3・4月度の成績がリーグトップの43安打、打率.420と好調で初の月間MVPを受賞。入団13年目での初受賞は、リーグ史上2番目に遅い記録であった。7月に死球により左手を骨折し、約1か月間の戦線離脱もあったが、6年連続の打率3割を達成。成績は打率.312(リーグ5位)、4本塁打。なお、前述の理由により出場が決まっていたオールスターゲームは辞退。シーズンオフの日米野球には2大会連続の出場となった。同年、FA権を取得。

2007年、開幕直後に右脇腹の肋骨を骨折して1か月間離脱。復帰後は5月まで打率3割を維持していたが、怪我の影響で打率を徐々に落とし、打率.258・4本塁打という一軍では自己最低の成績に終わり、規定打席にわずか1打席届かなかった。前年まで左投手に対して3割近く打っていたが、この年は打率.181に終わった。一方、得点圏打率は.339の成績を残し、打点は前年より多い57を記録。8月3日の対日本ハム戦では、史上46人目の通算300二塁打を達成する。また、守備で見せる動きは健在で、自身3度目のゴールデングラブ賞を獲得。オフには複数年契約が切れ、メジャー挑戦も視野に入れたFA宣言も噂されたが、宣言せずに残留した。

2008年、腰痛や首痛などの故障に苦しみ、前年以上に成績を落とす。スタメン出場も減少し、指名打者や代打での出場が多くなった。8年続いていたシーズン100安打も途切れ、二塁打が9本と長打率も大きく減少。一方で、打率.252ながら前年より四球が増加し、出塁率は.352の成績を残した。

2009年、シーズン当初はここ数年と同様に低調で、打率は2割台前半、得点圏打率は1割台、長打率も2割台後半に沈み、打順は主に2番や8番で堀幸一やゲイリー・バーナム・ジュニアと併用されていた。しかし、8月から徐々に調子を上げ、8月と9月の2か月間で49安打、打率.363と勝負強さと長打力を取り戻してシーズン終盤には再び3番に定着。3割には届かなかったものの2年ぶりに100安打、3年ぶりに規定打席に到達した。また、5月2日の対福岡ソフトバンク戦で、史上99人目、球団史上10人目の1500安打、8月19日の対オリックス戦では1500試合出場を達成。

2010年、慢性的な腰痛や、金泰均の加入などを考慮して指名打者に転向する。ここ数年の不振から脱却し、序盤は7番や代打で出場していたものの後半戦は里崎智也、サブローの離脱や大松尚逸の不振から6番や5番を打つことも多くなり、9月8日の対オリックス戦では不振の金泰均に代わって、7年ぶりに4番でのスタメン出場を果たした。規定打席には到達しなかったものの最終的に打率.295を記録し、本塁打も13本と2004年以来の2桁を記録。3月22日の対埼玉西武戦では通算100号本塁打を達成。史上258人目だが、1539試合での到達は6番目に遅い記録であった。また、代打率.364と代打の切り札としても結果を残した。5月13日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)では6回表一死満塁の場面で代打出場し、真田裕貴からライトポール際へ大飛球を放ち、最初は一塁塁審にファウルを宣告されるも、2010年から導入されたビデオ判定により本塁打と認定され「代打逆転満塁ビデオ判定弾」となった。ビデオ判定導入以降ファウルが本塁打に覆ったのは初の事例である。クライマックスシリーズファーストステージの対埼玉西武戦では、延長11回に土肥義弘から勝ち越しソロ本塁打を放ち、勝利に貢献。チームはファイナルステージも突破し、日本シリーズでも中日ドラゴンズを破り、シーズン3位から5年ぶりの日本一を達成。1年を通した活躍で、指名打者部門で初のベストナインを受賞した。

2011年、開幕戦で3点本塁打を放つ活躍などで、シーズン序盤は4番を任されるものの不振に陥る。6月は月間打率.346と持ち直したが、7月から9月にかけては1割台と再び低迷。8月以降はスタメンを外れることが多くなり規定打席にも到達しなかった。最終的に80安打で打率.223、本塁打3、打点43と一軍での自己最低の成績でシーズンを終え、チームも1998年以来となる最下位に沈んだ。三振は72を記録し、例年より三振率の高いシーズンでもあった。なお、4月13日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で史上30人目の通算350二塁打を達成。1654試合での達成は歴代3位のスピード記録である。

2012年、春先はスタメン出場も多く、4試合連続打点の活躍で一時はチームトップの打点を稼いでいたが、交流戦以後は試合終盤における代打での出場が多くなり、45安打で打率.250、本塁打数は一軍に定着してから初めて0に終わる。一方、代打では5打席連続安打を記録するなど勝負強い打撃を見せ、7月18日の対東北楽天戦で代打サヨナラ犠飛、8月29日の同対戦では9回裏に代打で同点打を放つなど、この年の代打成績は打率.424、打点8の成績を残した。

2013年は、2年ぶりに4番に入るなどシーズン序盤は一塁手でスタメン出場することもあったが、井口資仁の一塁へのコンバートや、G.G.佐藤、クレイグ・ブラゼルの加入により、前年を下回る78試合の出場にとどまった。本塁打は0本、打率・打点も前年を下回ったが、9月は月間打率.429と好調で、9月30日の対北海道日本ハム戦では、球団最多11度目のサヨナラ打となる犠飛を放ち試合を決めた。また、8月2日の対オリックス戦で放った安打で通算1828安打となり、堀幸一の安打数を抜いて球団歴代3位となった。

2014年は、1997年以来17年ぶりに開幕を二軍で迎えた。6月に一軍登録されると、自己最多となる4打席連続適時打を放つなど、7月は打率.371と好調を維持。8月以降は低迷し、出場試合数および安打数はそれぞれ43試合、26安打と自己最少であったが、打率.283、代打率.474の成績を残した。9月9日の対埼玉西武戦では延長11回に代打サヨナラ二塁打を放ち試合を決める。自身の持つ球団最多記録を更新する通算12本目のサヨナラ打であり、リーグの通算記録では4位タイとなる。

2015年、シーズン初スタメンだった4月9日の対オリックス戦で5年ぶりとなる1試合2本塁打を放つが、4月下旬から尿管結石のため一時登録を抹消される。5月に復帰後はスタメン出場もしばしばあり、最終的に73試合に出場で47安打、打率.272の成績を残した。6月15日の対東京ヤクルトスワローズ戦で、史上48人目、球団記録では4人目の通算2000試合出場を達成した。また、クライマックスシリーズファーストステージの対北海道日本ハム戦では、スタメン出場した2試合で7打数4安打の成績を残すが、ファイナルステージでは無安打に終わった。

2016年、春季キャンプで左足首を痛めた影響で一軍昇格は7月13日と出遅れるが、その日の対福岡ソフトバンク戦での出場で、本拠地QVCマリンフィールドでの通算1000試合出場となった。その後は、8月19日に左背筋痛で一時登録を抹消されるなどして、一軍では自己最少となる36試合の出場で、20安打、7打点に終わる。

2017年、2年連続で開幕一軍からは外れたものの、4月12日に一軍昇格。一塁手を務めた選手の不振や負傷離脱などもあり、一塁手としての出場機会が増えた。7月7日の対オリックス戦では4年ぶりに犠飛を記録。自身が持つ球団の通算記録を75と更新し、パ・リーグでは単独5位となった。その後は一時打率が2割を下回るが、9月は月間打率.304の成績を残す。9月12日の対オリックス戦では5年ぶりに1試合4打点を記録した。また、同日に2018年シーズンも現役続行することが確実になり、球団幹部より通算2000安打達成にむけて後押しする方針が明言された。10月19日には、2018年より選手兼打撃コーチとなることが発表された。監督に就任した井口資仁の現役引退によって球団最年長選手となり、さらに松井稼頭央と並んで球界最年長野手となる。

2018年、一軍打撃コーチ兼内野手としてシーズンを迎え、「7番・DH」で5年ぶりに開幕戦のスタメンに名を連ねた。42歳3か月での開幕スタメンは、1978年の野村克也(42歳9か月)に次ぐ球団の年長記録となる。4月10日の対埼玉西武戦が通算2162試合目の出場となり、榎本喜八を抜いて球団の最多新記録となった。5月10日に鳥越裕介ヘッド兼内野守備・走塁コーチのヘッドコーチ専任により、小坂誠二軍内野守備・走塁コーチが一軍に昇格。一軍ベンチ入りコーチ8枠が埋まるため、コーチ登録を抹消して選手専任となった。9月9日の対西武戦で球団史上4人目となる42歳以上での本塁打を記録。そして9月22日の西武戦、第4打席に小川龍也から右越え二塁打を放ち史上52人目の通算2000安打を達成。試合後の会見では翌年の現役続行を宣言し、その後は首痛の治療を優先して登録を抹消された。10月8日の試合前には名球会の入会セレモニーが開かれ、連盟表彰、習志野市民栄誉賞、名球会ブレザーが授与された。最終的には82試合に出場し打率.210、打点11、OPS.505という成績を残した。

2019年は上原浩治と並んで球界最年長選手となり、選手兼任で二軍打撃コーチに就任するが、1月24日に同年限りでの現役引退を表明した。球団からコーチに重きを置いてと言われた時点で引退の気持ちが強まったといい、「若手をしっかりと指導をしてチームが強くなって優勝できるように頑張っていきたい」とコメントし。球団は背番号9を準永久欠番とすることを決めた。シーズン中はほとんどコーチ業に専念し、選手としては二軍で代打で起用されたり、4月20日に開催された「福浦和也デー」などのイベントに姿を見せた。5月11日のイースタン・リーグ習志野市秋津球場の試合では習志野高校時代の野球部同期と始球式に登板し、6月14日の「ALL for CHIBA習志野市」の試合では同校野球部の元監督・石井好博による始球式の打席に立った。最終的には二軍で16試合に出場し打率.267、打点4、OPS.694という成績を残した。

9月23日、引退試合となる対日本ハム戦に合わせて同年初の一軍昇格。福浦自身はAクラス争いを考慮して出場を固辞するが、井口監督のはからいで「7番・DH」で先発出場した。当日は監督・コーチ・選手全員が背番号「9」を背負い、ストッキングも福浦と同じオールドスタイルで臨んだ。また、球場最寄りの海浜幕張駅職員や京成バス運転手らもユニフォームを着用したほか、駅内やバス車内での応援歌放送、駅電光掲示板へのメッセージ表示、近隣ホテルでのイルミネーションなど、球団史上前例のない取り組みが行われた。試合前の始球式では福浦の次男がマウンドに上がり、福浦が打席に立った。試合は4打数無安打に終わったが(現役最終打席は捕飛)、9回にDHを解除して一塁の守備に入り、二死から平沼翔太の放ったライナーをダイビングキャッチするファインプレーで自らウイニングボールを掴み取った。試合後の引退セレモニーでは松井稼頭央、高橋由伸、上原浩治など同学年の人物をはじめ、ベニー・アグバヤニ、今江年晶、西岡剛、サブローなど福浦とゆかりのある人物からビデオメッセージが流された。福浦は引退の挨拶として「応援が勇気となり、身体を動かし続けることができました」とファンに感謝を述べ、「幸せな野球人生でした」と語った。その後は初芝清らから花束を受け取り、紙吹雪が舞う中を長男と次男を伴って場内を一周。最後はチームメイトからの胴上げで背番号と同じ9回宙を舞った。

2020年シーズンから、二軍ヘッド兼打撃コーチに就任。背番号は入団当初と同じ「70」となった。2022年からは一軍打撃コーチに配置転換となる。

2023年からは、一軍ヘッド兼打撃コーチに配置転換された。春季キャンプとオープン戦の間、監督に就任した吉井理人がワールド・ベースボール・クラシック日本代表の投手コーチとして活動する期間は監督代行を務めた。

選手としての特徴

打撃

安定した縦軌道のスイングから広角にライナーではじき返す打撃が特徴。ボールを捉える技術に長け、元監督の山本功児からは「バッティングに関しては天才的なセンスの持ち主で、バットコントロールは天性のものだ」と評された。また、現役晩年時の監督・井口資仁や習志野高の先輩・掛布雅之は福浦の特筆すべき点としてバッティングの柔らかさを挙げ、タイミングを崩されても対応できる能力を高く評価している。

左投手の外寄りの球を苦手としていたが、首位打者を獲得した2001年に打率.408を記録して克服したことで飛躍を果たし、同年から6年連続で打率3割以上を記録。2010年代は5年間で代打打率.315を記録するなど、代打の切り札としても名を馳せた。二塁打が多いのも特徴で、放った二塁打は全安打の19.4%と高い割合を占め、2度のシーズン最多二塁打と史上唯一の3年連続40本以上の二塁打を記録している。元監督のボビー・バレンタインは「故障さえなければ常に3割を打つ実力があり、メジャーに来ても二塁打を量産しただろう」と評している。

打席においては左のお尻に力を入れることを意識しながら左脇を開け、打つポイントを体の近くに置くことでギリギリまでボールを見極めてスイングをする。若い頃から様々なフォームを試行し、かつては「振り子打法」で注目されたこともあったが、腰痛や年齢的な衰えなどから見直されていった。後年はいかに力を抜いて構え、インパクトの瞬間に力が入るようなフォームを模索していたという。また、調子のバロメーターの1つとしてファウルボールの方向を挙げており、レフト方向へライナー性のファウルが打てる時は調子が良く、バックネット方向へファウルが飛ぶ時はタイミングが合っていないという感覚を持っている。

守備・走塁

一塁の守備は柔らかいグラブさばきと正確なスローイングに定評があり、守備の名手とも評された。また、股関節の柔らかさを生かし、逸れた送球や難しいワンバウンドの送球も容易に捕球する上手さがあり、今江敏晃は「福浦さんがいなかったらチームの失策は倍に増えている」と語っている。UZRで使用するゾーンデータを基にした「一塁線に強い一塁手のランキング」で1位、「一・二塁間に強い一塁手ランキング」でも2位にあがるなど、ポジショニングの良さや守備範囲の広さが窺える。また、レンジファクターは2000年代の上位5傑の内3つを福浦が占めるなど、例年高い数値を記録した。ただし、過去に外野を務めていたこともあったが、故障の影響で肩力には自信がなかったという。

均整のとれた体格から足が速そうに見られることもあったが、一塁到達4.77秒と鈍足である。走塁に対する意欲は高くなく、通算盗塁数は2000安打到達者で最も少なかった。

人物

愛称は「はっちゃく」。マイペースながらも周りの人たちには憎まれない独特の雰囲気が『あばれはっちゃく』のようだとして、渡辺英昭が名付けた。本人のブログでも使われており、「はっちゃく」という地酒も発売されている。

家族は夫人と2男。なお、息子の名前の一部に彼の才能を見出した山本功児元監督にあやかり、「功」の字が使われている。

人のフォームを観察するのが好きで、打者に転向後は良い打者の長所を取り入れようと物真似を繰り返した。左打者では前田智徳、松井秀喜、イチロー、ケン・グリフィー・ジュニアなどを参考にし、二軍時代は「今日は前田さん」「今日は松井さん」などと宣言して打席に入っていた。

2002年から「KAZUYA PROJECT」と称して、児童福祉施設や特別支援学校の子どもたちを球場の「KAZUYAシート」に招待したり、シーズンオフに学校を訪問するなどの交流を続けていた。

2000年に亡くなった母親への思いから「KAZUYA PROJECT」の一環として「Mother's Day Project」を開始し、母の日に子どもたちが母親への感謝を伝える取り組みを行っていた。また、母の日の試合で活躍を見せた際は、母の日を意識したコメントを残している。

一軍初昇格を果たした頃の試合で、強風に流された難しい飛球を捕球できたことを喜んでいたら、マウンド上の小宮山悟に激怒されたことが忘れられない思い出だという。原因はプロが飛球を捕ったくらいで喜ぶなという理由からだが、当時は訳が分からず困惑しきりで、その様子を見ていた一塁走者のイチローに「どうした?何で怒られてんの?」と気遣われたという。

2013年9月9日には代打で勝ち越し適時打を、2014年9月9日には代打でサヨナラヒットを、2018年9月9日には自身3年ぶりの本塁打を放っている。2014年には自身の背番号にちなみ「9月9日だから打たせてくれたのかな」とコメントを残している。

大松尚逸を弟のように可愛がっており、これまで様々なアドバイスをしてきた。大松が戦力外通告を受けた際には、後輩へのエールを込めて大松の登場曲で打席に立った。そして、東京ヤクルトスワローズへ入団した大松は、試合で福浦の登場曲「願い」を使用して思いに応えたという。

ロッテでプレーする地元出身選手を輩出することを目標に、サブローと共同でオーナーとなり、中学硬式野球チーム「千葉幕張ボーイズ」を設立した。

2024/06/14 02:54更新

fukuura kazuya


福浦和也と同じ誕生日12月14日生まれ、同じ千葉出身の人

湯浅 枝里子(ゆあさ えりこ)
1984年12月14日生まれの有名人 千葉出身

湯浅 枝里子(ゆあさ えりこ、1984年12月14日 - )は、日本の女優・歌手。千葉県出身。 趣味はスノーボード、特技はダンス・ドラム・歌・和太鼓。所属事務所は、宝映テレビプロダクション。 2…

君島 りさ(きみしま りさ)
12月14日生まれの有名人 千葉出身

君島 りさ(きみしま りさ、12月14日 - )は日本の女性声優。千葉県出身。アトリエピーチ所属。主にアダルトゲームに出演している。血液型O型。 アニメが好きで、小学校低学年の頃に声優という存在を…

けいたろう(けいたろう)
12月14日生まれの有名人 千葉出身

けいたろう(12月14日 - )は、日本の俳優、男性声優。千葉県出身。身長 174cm。C&Oプロダクション所属。 きらりん☆レボリューション(2007年 - 2008年、音楽番組司会、秘…

篠田 歩(しのだ あゆむ)
1979年12月14日生まれの有名人 千葉出身

篠田 歩(しのだ あゆむ、1979年12月14日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、現指導者。千葉県我孫子市出身。妻はお笑いタレントの北陽・伊藤さおり。 布佐中学1年よりバレーボールを始める…

渡邊 亜希子(わたなべ あきこ)
1981年12月14日生まれの有名人 千葉出身

渡邊 亜希子(わたなべ あきこ)は、千葉県生まれの日本の作詞家。 林明日香の1stアルバム 『咲』収録曲の半数分を手がけ作詞家デビュー。 その後純文学誌『群像』(講談社)で短編小説を発表するなど…

谷崎 まお(たにざき まお)
1982年12月14日生まれの有名人 千葉出身

12月14日生まれwiki情報なし(2024/06/16 03:11時点)

小沢 愛美(おざわ まなみ)
1985年12月14日生まれの有名人 千葉出身

12月14日生まれwiki情報なし(2024/06/16 19:40時点)

石垣 菜乃花(いしがき なのか)
1999年12月14日生まれの有名人 千葉出身

12月14日生まれwiki情報なし(2024/06/17 16:13時点)


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


福浦和也と近い名前の人

福浦 健次(ふくうら けんじ)
1942年9月13日生まれの有名人 東京出身

福浦 健次(ふくうら けんじ、1942年9月13日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 中央商業高等学校(現:中央学院大学中央高等学校)では大型左腕投手として知られ、1961年に阪神タ…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
福浦和也
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

NORD (アイドルグループ) OCTPATH WATWING さくらしめじ DISH// Number_i SUPER★DRAGON PRIZMAX 三四郎 King & Prince 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「福浦和也」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました