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能見篤史の情報 (のうみあつし)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

能見篤史の情報(のうみあつし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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能見 篤史さんについて調べます

■名前・氏名
能見 篤史
(読み:のうみ あつし)
■職業
野球選手
■能見篤史の誕生日・生年月日
1979年5月28日 (年齢45歳)
未年(ひつじ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
兵庫出身

(昭和54年)1979年生まれの人の年齢早見表

能見篤史と同じ1979年生まれの有名人・芸能人

能見篤史と同じ5月28日生まれの有名人・芸能人

能見篤史と同じ出身地兵庫県生まれの有名人・芸能人


能見篤史と関係のある人

真弓明信: しかし、打線ではシーズン途中に入団したクレイグ・ブラゼルの活躍、鳥谷敬と新井の後半戦での復調、投手陣は入団以降伸び悩みが続いていた能見篤史をエースとして一本立ちさせた好材料もあり、8カード連続で勝ち越すなど順調に勝ち星を重ね、ヤクルトの失速もあり猛烈な3位争いを繰り広げた。


石原慶幸: 1000安打:2018年5月11日、対阪神タイガース7回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、3回裏に能見篤史から左前安打 ※史上292人目、38歳8か月での達成は史上最年長


坂本勇人: 2014年は3月28日の阪神戦(開幕戦・東京ドーム)で能見篤史から通算100号本塁打を達成。


大山悠輔: 2013年の能見篤史以来球団史上3人目(4度目)となる「日本生命賞」を受賞した。


中村悠平: 2012年は、怪我により登録抹消された相川に代わり捕手を務めることが増え、6月29日の阪神タイガース戦ではプロ初本塁打を能見篤史から記録した。


福留孝介: しかし、他球団での現役続行を希望したため、11月6日にはこの年限りで能見篤史・上本博紀と共に退団することが球団から正式に発表された。


川口知哉: 最高球速140 km/h台の直球と落差の大きいカーブを武器に当時「西のドクターK」と呼ばれ、甲子園不出場ながら「東のドクターK」として有名な選手であった井川慶、鳥取城北高校の能見篤史と並んで高校生左腕三羽ガラスと呼ばれた。


岩貞祐太: 2016年1月の合同自主トレーニングでは、チームメイトの能見篤史から、能見の勝負球であるフォークボールの投げ方やチェンジアップを生かす配球術を学んだ。


奥浪鏡: 初打席・初安打:同上、2回表に能見篤史から中前安打


岡田明丈: 初安打:2016年7月9日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、6回表に能見篤史から中前安打


渡邉恒樹: 2004年の社会人野球日本選手権大会では野間口貴彦(シダックス)・能見篤史(大阪ガス)と優秀選手賞を受賞した。


岩貞祐太: この試合での投球内容に捕手出身の矢野監督が「チームの士気が上がらない」と苦言を呈したことや、一軍の中継ぎを担える左投手がベテランの能見篤史しかいないことから、一軍のブルペンを預かる金村曉投手コーチの方針で中継ぎへ本格的に転向。


藤原良平: 鳥取城北高等学校出身のプロ野球選手は川口和久、能見篤史に続いて3人目である。


坂田遼: 初盗塁:2013年5月19日、対阪神タイガース1回戦(西武ドーム)、3回裏に二盗(投手:能見篤史、捕手:藤井彰人)


井川慶: 全国大会出場はなかったが名前は知られており、川口知哉・能見篤史と並んで「高校生左腕三羽烏」と呼ばれた。


菅野智之: セ・リーグ投手での2か月連続受賞は2013年の能見篤史以来7年ぶり8人目、また8度目の受賞は2008年の山本昌以来12年ぶりとなるセ・リーグ投手最多タイ記録となった。


歳内宏明: 8月19日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)5回裏には、能見篤史・歳内・山本翔也による継投で、球団史上ワーストの公式戦1イニング12失点を記録。


三木亮: また、その起用法から打席に立つ機会は少なかったが、 シーズン78試合目の出場となった10月13日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)では、シーズン10打席目で能見篤史からダメ押し適時打となるシーズン初安打を放った。


伊藤将司: 選手としては能見篤史を尊敬している。


田中雅彦: 初打席:同上、9回表に能見篤史から右飛


中谷仁: 初本塁打:2009年6月21日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、5回表に藤原紘通の代打で出場、能見篤史から左越2ラン


尾花高夫: これは1956年から1959年に大洋の秋山登が記録した四年連続リーグ最多敗戦投手以来の記録で右投手では尾花以降これを越えた選手は現れていない(左投手では2014年から2016年にかけて阪神の能見篤史がタイ記録となった)。


森田一成: 初出場:2011年7月26日、対中日ドラゴンズ10回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に能見篤史の代打として出場


山岡泰輔: 広島市出身ながら、幼少期から叔父の影響で阪神タイガースの試合をよく観ていたと言い、中でも能見篤史に憧れていたという。


赤木誠: 2023年10月2日、オリックス×日本ハム(京セラドーム大阪)のラジオ中継(HBCラジオへの裏送り制作分、解説:能見篤史)で、平野佳寿(オリックス)が史上4人目のNPB/MLB公式戦通算250セーブを達成した瞬間を実況(☆)。


水樹奈々: 他に、マット・マートン、赤星憲広、能見篤史、原口文仁もお気に入りの選手として挙げている。


岩田稔: なお、契約更改の前に自身より年上の能見篤史投手が退団(コーチ兼任でオリックスへ移籍)していたため、更改によって阪神一筋の生え抜き選手としては現役最年長の投手になった。


藤浪晋太郎: また、5月・6月に能見篤史、7月にランディ・メッセンジャーが月間MVPを受賞していたため、藤浪の受賞により阪神の投手が4か月連続で受賞となった。


松本直樹: 初安打:2019年8月24日、対阪神タイガース19回戦(明治神宮野球場)、6回裏に能見篤史から中前安打


才木浩人: 中学3年生の冬に地元の野球教室で能見篤史から指導を受けた際に、「投球フォームがきれい」と称賛された。


能見篤史の情報まとめ

もしもしロボ

能見 篤史(のうみ あつし)さんの誕生日は1979年5月28日です。兵庫出身の野球選手のようです。

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経歴、選手としての特徴などについてまとめました。引退、卒業、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。能見篤史の現在の年齢は45歳のようです。

能見篤史のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

能見 篤史(のうみ あつし、1979年5月28日 - )は、兵庫県出石郡出石町(現:豊岡市)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、コーチ、野球解説者、野球評論家。

2005年から2020年まで投手として阪神タイガースへ在籍した後に、2021年から投手コーチ兼任でオリックス・バファローズへ移籍。2022年限りで現役を引退した。

阪神投手時代の2019年にNPBの一軍公式戦における40代の投手としてのシーズン最多登板数記録(2022年シーズン終了時点)、オリックス移籍後の2021年に通算1,500奪三振を歴代最年長(小宮山悟と並ぶ41歳11か月)で達成した。また、阪神・オリックスの両球団で、一軍公式戦におけるセーブとホールドの球団最年長記録を達成。NPBの投手では初めて、最年長セーブと最年長ホールドの球団記録を40代に複数の球団で樹立している。

経歴

プロ入り前

神戸市で出生した後に、兵庫県警察の警察官だった実父が出石町内の駐在所へ赴任したことから、自身も生後4か月から中学校を卒業するまで同町で過ごした。

小学校3年時に実父が指導者をしていた出石町内の軟式野球チーム「小坂プラッキーズ」で野球をスタート。その後、鳥取城北高校普通科体育コースへ進学すると、硬式野球部のエースとして活躍した。2年時には、夏の鳥取大会で準優勝を経験。秋には、秋季県大会での優勝を経て、秋季中国地区大会でチームのベスト4進出に貢献した。3年時の春季県大会ではノーヒットノーランを達成している。

在学中は全国大会と無縁であったが、上記の実績から、川口知哉(平安)・井川慶(水戸商業)とともに「高校生左腕三羽ガラス」と称されるほど注目された。NPBの一部球団もドラフト会議の指名に向けて動いていたが、当時大阪ガス硬式野球部の監督だった竹村誠から熱心な誘いを受けた末に、同社へ入社した。

大阪ガスへの入社後は、熱心なファンですら投げる姿をほとんど見られなかったほど故障が相次いでいて、一時は「幻の投手」とまで呼ばれた。入社5年目の2002年には、「来年もダメだったら社業に戻る」と考えていたという。しかし、竹村の後任として監督に就任した湯川素哉から、「(左肘が)痛くても投げなさい。どうせなら、(左肘を)壊して辞めないか」という「最後通告」を受けたことから一念発起。左肘に痛みを抱えながら投げ込みの球数を増やしたところ、その成果を湯川に認められたことから、対外試合での登板機会を徐々に増やした。

2003年の第30回社会人野球日本選手権大会では、予選から好調を維持したまま、本大会で決勝に進出。決勝で日産自動車と対戦したが、延長11回に伊藤祐樹の適時打でサヨナラ負けを喫した。翌2004年には、後に阪神でもチームメイトになる渡辺亮・久保康友らと共に、第22回ハーレムベースボールウィーク日本代表として第22回ハーレムベースボールウィークに出場。その後に催された日本選手権でも、2年連続で本大会への出場を果たすと、野村克也監督率いるシダックス戦で野間口貴彦との投げ合いを制するなど活躍した。JFE西日本との決勝戦にもリリーフで登板したが、延長15回表に福竹政人のソロ本塁打で決勝点を与えたため、2年連続で敗戦投手になった。

2004年のNPBドラフト会議自由獲得枠で、当時井川がエースとして活躍していた阪神タイガースに、契約金1億円、年俸1500万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は14。担当スカウト池之上格。

阪神時代

2005年、開幕一軍入りを果たしたが、6月中旬に二軍へ降格。7月末に一軍へ再び昇格すると、9月には一軍公式戦で2連勝を記録したものの、一軍公式戦の通算防御率は5点台に達した。10試合に登板したウエスタン・リーグ公式戦では、投球回(38回)を上回る41三振を記録するとともに、22被安打、15与四球でWHIP0.97、防御率1.42を記録。セントラル・リーグ優勝で臨んだ日本シリーズでも、救援での登板を経験した。

2006年、左のセットアッパーとして前年のセ・リーグ優勝に大きく貢献したジェフ・ウィリアムスが、膝の手術を受けた影響でレギュラーシーズンの開幕に出遅れたため、開幕から中継ぎとして一軍公式戦で登板。チームが4敗を喫した開幕からの10試合には継投の失敗が相次いだ影響で、3試合で自身に黒星が付いた。セ・パ交流戦の期間中にウィリアムスが復帰すると、二軍へ降格。降格後には、ウエスタン・リーグ公式戦6試合の登板で、防御率3.60を記録した。シーズン終了後にハワイ・ウィンターリーグへ派遣。

2007年、井川がMLBのニューヨーク・ヤンキースへ移籍したことに伴い一軍公式戦での開幕から先発ローテーションに入ったが、4月末までに5試合の登板で1勝3敗と不振だった。中継ぎへの再転向後も不安定な投球が続き、5月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦(阪神甲子園球場)では9回表に救援登板して1回5失点を記録した。この登板では、チーム3個目の死球を福浦和也に与えたことがきっかけで、その裏に藤田宗一による金本知憲への死球で乱闘を招いている。翌28日に二軍へ降格したが、8月中旬に先発要員として一軍へ復帰。復帰直後の4試合では、8月18日の対広島東洋カープ戦(京セラドーム大阪)で一軍公式戦初完封を挙げるなど3勝を挙げた。ウエスタン・リーグ公式戦では7試合に登板。チームトップタイ(リーグ2位)の6勝、防御率2.51、通算投球イニング43回で37奪三振を記録した。また、被安打35、与四球15でWHIP1.12と安定していた。

2008年は中継ぎでスタート。5月7日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(東京ドーム)で7回裏に救援登板すると、アレックス・ラミレスに本塁打性の打球を打たれたが、外野席の最前列にいた観客が打球を手で押さえたことから、審判団の協議で二塁打として判定される珍事に見舞われた。同年の一軍公式戦での登板は11試合で、プロ入り後初の未勝利でシーズンを終えた。ウエスタン・リーグ公式戦では、29試合に登板してリーグ6位の5勝、チームトップ(リーグ2位)の11セーブ、リーグ5位の52奪三振を記録。防御率0.83、WHIP0.90という好成績を残した。

2009年、自身と同じ左投手の岩田稔など、投手陣に故障者が相次いだことを背景に、レギュラーシーズンの開幕から一軍の先発ローテーションに入った。6月までは先発登板の試合で打線の援護に恵まれず、7月上旬には救援で3試合に登板した。7月19日の対巨人戦(東京ドーム)に9回を2安打無失点12奪三振の好投で勝利投手になってからは、11試合の先発登板で9勝2敗と好調。セ・リーグ3位の165回を投げて、プロ入り後初めて最終規定投球回に到達した。また、防御率2.62、13勝(いずれもリーグ4位)、リーグ2位の154奪三振など、チームの投手陣トップの成績を記録。対巨人戦では内海哲也との先発対決に4試合連続で投げ勝ったほか、対広島戦では7試合の登板で4勝、防御率1.45という好成績を残した。

2010年、2年連続でレギュラーシーズンの開幕から一軍の先発ローテーションを担ったが、5月2日の対巨人戦で走塁中に右足楔状骨の剥離骨折に見舞われたため、4か月もの戦線離脱を余儀なくされた。9月9日の対中日ドラゴンズ戦(いずれも甲子園)で一軍に復帰すると、勝敗は付かなかったものの、7回2失点10奪三振と好投。復帰後の対巨人戦で2勝を挙げたことによって、前年7月から始まった同カードので連勝を7にまで伸ばした。レギュラーシーズン全体でも、一軍公式戦で8勝無敗を記録。9月には、5試合の登板で3勝、防御率1.29を記録するなど好調で、セ・リーグ投手部門の月間MVPに初めて選ばれた。

2011年、入団後初めてレギュラーシーズンの開幕投手として臨んだ4月12日の対広島戦に、7回途中3失点でシーズン初勝利。4月19日の対巨人1回戦(いずれも甲子園)では、一軍公式戦7者連続三振の球団最多タイ記録を達成した。5月3日の対巨人4回戦(東京ドーム)での9回完投勝利によって、1979年に小林繁が達成した同カード8連勝の球団記録に並んだものの、6月26日の9回戦(甲子園)で黒星を喫したことで連勝が止まった。それでも、レギュラーシーズン全体では、自己最多の200回1/3を投げて12勝を記録した。

2012年、前年に続いてレギュラーシーズンの開幕投手に起用されると、シーズン序盤は好調。中盤は巨人相手に3連敗を喫するなどの不振に陥ったが、4試合に登板した9月には、3勝1敗、防御率0.55という好成績で球団選定の月間MVPを受賞した。レギュラーシーズンのチーム最終戦であった10月9日の対DeNA戦(甲子園)では、1回表に2三振を奪った末に降板したことによって、杉内俊哉と同数(172)ながらセ・リーグ最多奪三振のタイトルを確定させた。同タイトルを阪神の投手が獲得したのは、2006年の井川以来6年ぶりで、2年連続のシーズン2桁勝利も達成。シーズン終了後には、翌2013年に開催される第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表候補に入った。

2013年、NPBのオープン戦期間中に開かれた第3回WBCに、日本代表の一員として参加代表入りした。東京ドームで開催された2次ラウンドでは、代表合宿からの好調を買われて、対台湾代表戦の先発に起用された。2回裏までは好投したものの、3回裏に突如制球を乱すと、二死満塁から押し出し四球で先制点を献上。結局、2回2/3を自責点1という内容で交代したが、試合自体は延長10回の末に4-3で日本代表が勝利した。日本代表の2次ラウンド1位通過を経て臨んだ決勝ラウンドでは、プエルトリコ代表との準決勝(サンフランシスコ・AT&Tパーク)において、1点ビハインドの6回表から2番手で登板。7回表無死一塁から1回0/3を投げたものの、8回表にアレックス・リオスから2点本塁打を打たれて自責点2で降板すると、日本代表も1-3で敗れた。

NPBのレギュラーシーズンは、開幕戦への登板を回避。4月に爪が割れるアクシデントがあったが、5月6日の対巨人戦(東京ドーム)では、笠原将生から一軍公式戦初本塁打を記録するとともに、完投勝利を挙げた。シーズン成績は11勝7敗で、3年連続の2桁勝利、自己最多の6完投勝利を記録。

2014年、3月28日の対巨人戦(東京ドーム)で2年ぶりに開幕投手を務めたが、序盤での4点リードを守れず、5回途中10被安打10失点(全て自責点)の乱調で大敗を喫した。5月16日の対横浜DeNAベイスターズ戦(甲子園)から6月14日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)まで2桁奪三振を続けた結果、5試合連続2桁奪三振のセ・リーグ最長記録を達成したが、同年は自己ワーストの13敗を記録。防御率も3.99で、6シーズンぶりに2点台を突破するなど安定感を欠いた。しかし、レギュラーシーズン2位で迎えたクライマックスシリーズ(CS)では、10月12日に広島とのファーストステージ第2戦(甲子園)に先発すると、8回を無失点と好投。チームはこの試合を引き分けで終えたものの、シリーズ規定によってファイナルステージ進出が決まった。リーグ優勝の巨人と対戦したファイナルステージでは、10月18日の第4戦(東京ドーム)で先発。5回94球2失点という内容で交代すると、救援陣の逃げ切りによって勝利投手になるとともに、チームも日本シリーズ進出を果たした。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでは、甲子園での第2戦に先発。6回2失点と好投しながら敗戦投手となった。その後は登板の機会がなく、チームも球団史上2回目のシリーズ制覇を逃した。日本シリーズの終了後は、11月11日に甲子園で催された「日本プロ野球80周年記念試合」で、阪神・巨人連合チームの先発投手としてMLBオールスターチームを2回無失点に抑えた。また、レギュラーシーズン中に取得した国内FA権を行使したうえで、阪神と3年契約を結んだ。

2015年は、レギュラーシーズンで自身2年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げたが、前年と同じ13敗で2年連続のリーグ最多敗戦を記録。防御率も3.72と、規定投球回に達した投手では最も悪かった。クローザーの呉昇桓が故障で離脱したシーズン終盤には、中継ぎで2試合に登板したが、いずれの試合でも打ち込まれている。チームがレギュラーシーズン3位で迎えた巨人とのCSでは、ファーストステージの第3戦(東京ドーム)で先発投手として5回1失点と好投したがチームは敗れ、日本シリーズ進出を逸した。

2016年は8勝12敗、防御率3.67を記録。シーズンを通してローテーションを守ったものの、3年連続でリーグ最多敗戦を記録した。NPBの一軍公式戦において、同じ投手が3年連続でリーグ最多敗戦を記録した事例は、1986年から1988年までの尾花高夫(ヤクルト)以来で、左腕投手では初である。シーズンの終盤には、自身と同じく先発ローテーションの一角を担っていた岩崎優に続いて中継ぎへ転向。一軍の救援陣に左投手が少なかったことによる措置であったが、中継ぎ登板で1ホールドを挙げるなど好投を続けたことから、シーズン終了後にはセットアッパーへの転向も視野に調整を進めた。

2017年、岩崎を本格的にセットアッパーへ転向させるチーム方針の下で、先発に再び専念。レギュラーシーズンでは一軍公式戦での救援登板がなく、先発登板23試合で6勝6敗という成績を残した。シーズン防御率は3.72ながら、4試合に登板した5月には、防御率0.43を記録するなど好調だった。逆に、7月に3連敗を喫してからは、2か月にわたって白星から見放された。それでも、レギュラーシーズンの最終登板であった9月28日の対DeNA戦(横浜)では、93球を投げて同年唯一の完投勝利を挙げている。チームのレギュラーシーズン2位で臨んだDeNAとのCSファーストステージ(甲子園)では、1勝1敗で迎えた第3戦(10月17日)の先発を任されたものの、一死しか取れずに3点を失って1回表の途中で降板。チームはこの試合に敗れたことによって、広島とのファイナルステージ進出を逸した。

2018年、レギュラーシーズンの開幕から一軍の先発ローテーションに入っていたが、5月までに登板した3試合で0勝2敗、防御率7.53と振るわず、5月11日の広島戦登板後から二軍で調整。元々肩の仕上がりが早いことに加えて、一軍の救援陣から戦線を離脱する投手が相次いだことを背景に、6月からセットアッパーへ本格的に転向した。6月9日の対千葉ロッテマリーンズ戦(甲子園)では、同点の延長11回表から救援で登板すると、チームのサヨナラ勝ちによってシーズン初勝利を記録。6月28日の対DeNA戦(横浜スタジアム)では、同点の8回裏に1回を無失点で抑えると、チームの勝利によって一軍公式戦通算100勝目を挙げた。日本プロ野球では歴代135人目で、阪神の生え抜き投手では選手では1985年の山本和行以来33年ぶりの記録である。8月16日の対広島戦(京セラドーム大阪)では、9回表にクローザーのラファエル・ドリスが先頭打者・會澤翼へ投じた初球が頭部死球で危険球とみなされて退場処分を受けたため、無死一塁の場面で緊急登板。そのまま抑えてチームの勝利につなげたことから、入団14年目にして一軍公式戦初セーブを挙げた。レギュラーシーズン全体では、一軍公式戦45試合の登板で、4勝3敗1セーブ、防御率2.56を記録。救援に専念した6月以降は、42試合の登板で4勝1敗1セーブ、防御率0.86という好成績を収めたほか、9月11日の対中日戦(甲子園)では球団の40代投手としては初めてのホールドを記録した。シーズン終了後には、矢野燿大の一軍監督就任に伴って先発への再転向も検討されたが、矢野との面談で中継ぎに専念する意向を伝えている。また、中日で43歳までプレーを続けていた左投手の岩瀬仁紀が、シーズン終了後に現役を引退。能見自身は、39歳だった12月14日に推定年俸1億1000万円(前年から1000万円減)という条件で阪神との契約を更改したことによって、NPB現役最年長の左腕投手になった。

2019年、開幕から中継ぎに専念。ナゴヤドームでの対中日戦では、阪神の40代投手としては歴代3人目の一軍公式戦勝利を8月14日に記録したほか、9月15日の登板でシーズンの登板数が50試合に達した。40歳以上の現役投手がNPBのレギュラーシーズンで一軍公式戦50試合に登板した事例は、2017年に42歳で達成した岩瀬に次いで2人目である。最終的に自己最多の51試合に登板。入団後初めて公式戦に先発しなかったものの、1勝2敗18ホールドという成績で、チームの2年ぶりCS進出に貢献した。シーズン防御率は4.30と高く、7月にはリフレッシュを兼ねての二軍調整を経験したが、シーズン終了後の12月11日には推定年俸9500万円(前年から1500万円減)という条件で契約を更改した。

2020年、年頭から新型コロナウイルスへの感染が拡大している影響で、当初3月20日に予定されていたレギュラーシーズンの開幕が誕生日より後(6月19日)まで延期されたものの、41歳にして開幕から救援陣の一角を担った。6月20日に巨人との開幕カード第2戦(東京ドーム)8回裏にシーズン初登板を果たしたことによって、阪神一筋で41歳のシーズンにも現役で在籍した投手としては若林忠志(1リーグ時代の1941年)以来2人目の公式戦登板を達成。7月19日の対中日戦(甲子園)では、先発で登板した2018年5月11日の対広島戦(マツダ)以来の打席へ立った(記録は見逃し三振)一方で、救援投手としてチームのリードを守った末にシーズン初勝利を挙げた。41歳のシーズンに現役で阪神に在籍していた投手では若林(1941年)・下柳剛(2009年)に次ぐ打席と勝利で、2009年から始まった一軍公式戦での連続勝利シーズン記録も、この試合での勝利によって中西清起以来の12シーズンにまで伸ばした。同年は開幕直後から調子が上がらず、7月の前半には、一軍への帯同を続けていながら2週間登板の機会がなかった。9月3日の対ヤクルト戦(甲子園)では、7回表二死二・三塁からの救援登板で対戦した山崎晃大朗を投ゴロに仕留めながら、マウンド付近で跳ねた打球が自分の身体を直撃。その影響で体勢を崩してゴロの処理に手こずったため、1点を献上したばかりか、わずか1球を投げただけで交代を余儀なくされた(記録は能見の適時失策)。9月8日からの対DeNA3連戦(横浜)には全試合で登板したものの、3点リードの4回表から救援した3戦目(10日)には、2者連続のソロ本塁打などで打者4人から一死しか取れずに降板。9月11日付で、1年2か月ぶりに出場選手登録を抹消された。しかし、抹消後に一軍から複数の選手が新型コロナウイルスに感染したことを受けて、NPBが定める「感染拡大防止特例2020」に沿った代替選手の1人として9月25日に再昇格。再昇格後は、シーズン終了まで一軍に帯同した。帯同中の10月21日には翌年の戦力構想から外れていることを通告された。しかし、他球団での現役続行を希望したため、11月6日にはこの年限りで福留孝介・上本博紀と共に退団することが球団から正式に発表された。翌7日には広島・石原慶幸の引退試合として開催された対広島戦(マツダ)8回裏に、石原の現役最終打席限定で登板。全5球のストレート勝負で石原の引退に花を添えた(記録は右飛)。さらに、チームのシーズン最終戦であった同月11日の対DeNA戦(甲子園)で、チームが1点を勝ち越した直後の9回表に登板。140km/h台のストレートで1イニングを無失点に抑えた末に、セーブで阪神での投手生活を締めくくった。この試合には41歳5か月で登板したため、一軍公式戦における阪神投手の歴代最年長セーブも達成。一軍公式戦全体では、チームで4番目に多い34試合に登板。防御率4.74、1勝1セーブ4ホールドを記録した。12月2日付でNPBから自由契約選手として公示。

オリックス時代

2020年12月8日に、オリックス・バファローズが能見の獲得を発表した。契約期間は1年、推定年俸は3500万円。背番号は26で、契約を機に投手コーチとの兼任を始めた(詳細後述)。

2021年、前年のレギュラーシーズン途中から一軍の監督を代行していた中嶋聡が一軍監督へ正式に就任したことを背景に、捕手出身の中嶋と春季キャンプの前に会談。その結果、投手としての起用を優先する方針が立てられたため、先発への再転向を前提に春季キャンプを「A組」(実戦形式の練習が主体のグループ)で過ごした。オープン戦以降も一軍に帯同していたが、実際には救援で起用されていて、レギュラーシーズンでも開幕戦から中継ぎで登板。41歳10か月で登板した4月10日の対日本ハム戦(京セラドーム)で移籍後初めてのホールドを挙げたことにより、オリックスの歴代最年長ホールド記録を達成した。阪神時代にも2018年9月11日の対中日戦(前述)から球団の最年長ホールド記録を保持しているが、セ・パ両リーグで40代にして最年長ホールドの球団記録を樹立した投手は能見が初めてである。5月には、中嶋からクローザーを任されていた平野佳寿やタイラー・ヒギンス(いずれも右投手)が体調不良で軒並み戦線を離れたため、中嶋の方針で抑えに転向。転向後初めて登板した5月2日の対ソフトバンク戦(京セラドーム大阪)で移籍後初セーブを記録。このセーブは(前身球団を含めた)オリックス投手の歴代最年長記録である。5月8日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では、9回表にブランドン・レアードからの空振り三振でNPB史上57人目の一軍公式戦通算1,500奪三振を(小宮山悟に並ぶ)歴代最年長(41歳11か月)で達成した末に、シーズン2セーブ目を挙げている。なお、平野とヒギンスが戦線に復帰したセ・パ交流戦からは中継ぎへ再転向。42歳になった直後の6月2日には、一軍公式戦としては移籍後初めて甲子園球場で行われた対阪神戦に6回裏から登板し1回を無失点に抑えた。阪神戦には翌3日にも登板したが、10日の対巨人戦(京セラドーム)7回表の登板中に松原聖弥からの打球を左脚の下部に受けた影響で、翌11日に出場選手登録を抹消。実際には大事に至らなかったため、交流戦の終了後に再び登録されたが、抹消期間中も投手コーチとして一軍に帯同した。リーグ戦の再開後もチームの事情で登録と抹消を繰り返したものの、一軍公式戦では通算26試合の登板で2セーブと5ホールドを挙げたほか、コーチとしても前年にパシフィック・リーグの最下位だったチームを25年ぶりのリーグ優勝に導いた。チームの全日程終了後の10月27日に優勝が確定した直後には、無観客ながら京セラドームでプロ入り後初めての胴上げを経験している。11月27日にほっともっとフィールド神戸で行われたヤクルトとの日本シリーズの第6戦に、延長11回表無死からワンポイントリリーフとして登板。日本シリーズでの登板は、阪神時代の2014年にソフトバンクとの第2戦に先発して以来7年ぶりの登板で、村上宗隆を5球で左飛に抑えた。日本シリーズ終了後の12月8日に、推定年俸4500万円(前年から1000万円増)という条件で「投手コーチ兼任の選手」として契約を更新。もっとも、契約の更新に際しては、翌2022年限りで現役を退く意向を球団に伝えていた。

2022年には、レギュラーシーズンの開幕から一軍に帯同。開幕当初は投手コーチに専念していたが、チーム事情との兼ね合いで出場選手登録が見送られていたため、4月21日まではNPBの規定で試合中のベンチ入りを控えていた。翌22日付でコーチ登録の抹消と出場選手登録がNPBから公示されたことに伴って、コーチとしてのベンチ入りも再び可能になったが、新型コロナウイルスへの感染が5月11日に判明。実際には症状が出ていなかったにもかかわらず、同月の下旬まで隔離療養を余儀なくされた。投手としては、セ・パ交流戦のシーズン最終試合であった6月12日の対阪神戦(京セラドーム大阪)を皮切りに、出場選手の登録と抹消を繰り返しながら一軍公式戦4試合に救援で登板。出場選手登録の抹消期間中はコーチとしての再登録も為されなかったものの、実際には一軍に帯同しながら、ベンチ以外の場所(主にブルペン)で投手の指導を続けた。9月に入ってから、この年限りで現役を退く意向を改めて表明。一軍監督の中嶋やゼネラルマネジャーの福良淳一(中嶋の2代前の監督)からは翻意を促されたものの、9月15日に球団を通じて現役引退を正式に発表すると、翌16日に臨んだ引退記者会見では「コーチとして指導していた投手が試合を通じて成長していく姿を嬉しく感じるようになった時点で、選手としての(現役続行に向けた)気持ちがかなり薄れたこと」を引退の理由に挙げた。この会見を受けて、球団は京セラドーム大阪におけるレギュラーシーズン最終戦(9月30日の対ロッテ戦)終了後に能見の引退セレモニーを開催。能見自身は、セレモニーへ臨む前に8回表無死から「打者1人限定」という条件でシーズン5試合(阪神時代からの通算で474試合)目の登板を果たすと、左打者の安田尚憲を145km/hのストレートで空振り三振に仕留めるとともに、公式戦では最後のホールドを記録。試合後には引退セレモニーに続いて、チームメイトから8回にわたって胴上げをされた。翌日の10月1日に出場選手登録を抹消されたが、チームが9月中にクライマックスシリーズ(CS)進出を決めていたことから、抹消後にはポストシーズンを終えるまで現役生活を続けることを明言。チームが前年に続いて対戦したヤクルトとの日本シリーズでは、「(前年のシリーズのように本気で)能見に投げさせたい」という中嶋の意向と相まって、「『投手』としての出場選手登録」が10月27日の第5戦(京セラドーム大阪)で実現した。この試合では実際にベンチへ入っていたものの、登板までには至らず、第6戦から登録を再び抹消。それでも、チームが第7戦(いずれも神宮)に勝利した10月30日に、阪神時代には経験できなかった「日本シリーズの制覇」をもって現役生活を終えた。 なお、福良は能見に対して、2023年シーズンもコーチ専任でチームに残留することを引退会見の直後から要請。しかし、本人は要請を固辞したうえで、「(球界の)外から野球を勉強したい」との意向を示した。結局、球団はこの意向に沿って、コーチとしての契約を更新しないことを2022年11月7日に発表。この発表をもって、能見の退団が正式に決まった。

現役引退

2023年からは、スポーツニッポンの野球評論家として活動。野球解説者としても、現役時代に阪神とオリックスへ在籍した経験を背景に、毎日放送グループ(MBSテレビ・MBSラジオ)・日本テレビ・読売テレビ・関西テレビ・TBSテレビ(主にBS-TBS・TBSチャンネルでの放送分)・NHK大阪放送局・サンテレビが制作する両球団の試合中継へ随時出演している。同年6月13日には、自身初の著書『#みんな大好き能見さんの美学(ポーカーフェイスの内側すべて明かします)』がベースボール・マガジン社から刊行。

選手としての特徴

スリークォーターのワインドアップ投法から投げる平均球速140km/hのフォーシーム・スライダー・フォークボールを軸に、チェンジアップも交える。決め球はフォークで、高い精度を誇る。リリーフ時には最速151km/hを記録した。2008年までは力に頼ったフォームで投げていたが、2009年からはしっかりと腕を振ることを意識した打者のタイミングを外すフォームに改良。2010年頃までは、サイドスロー気味のフォームも時折織り交ぜていた。なお、2018年の中継ぎ転向後はワインドアップを封印していたが、阪神での公式戦最終登板ではワインドアップを再び披露している。

阪神時代は広島戦に強く(26勝18敗)、特に敵地のマツダスタジアムでプロ初完封を含む14勝(11敗、旧市民球場は1勝2敗)は2022年シーズン終了時までは、ホームの広島の選手に交じり同球場の通算勝ち星のトップ10の中に入るほどだった。逆にヤクルト戦に唯一の負け越しで(11勝16敗)、特に敵地の神宮では4勝(10敗)しかあげられず相手5球団の本拠地球場では唯一の負け越しだった。

少年野球チームで監督を務めていた実父と同じく、マウンドでポーカーフェイスを貫いていることが特徴。もっとも、オリックスへの移籍後は「自然体でのプレーを心掛けている」とのことで、阪神時代から一転してマウンド上で笑顔やガッツポーズを何度も見せている。

阪神時代にはクローザーを本格的に経験しておらず、一軍の公式戦で初めてセーブを挙げた時の年齢は39歳2か月だった。以降のセーブは、40代に入ってから記録している。また、オリックス時代に41歳11か月で公式戦通算1,500奪三振を達成した際には、「(奪三振は)捕手との共同作業で、捕手に助けられている部分もある。僕だけに焦点が当てられているが、捕手がいなくては(記録を達成)できない」という表現で、阪神時代からバッテリーを組んできた歴代の捕手に感謝の意を示している。

2024/06/23 00:33更新

noumi atsushi


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