山本功児の情報(やまもとこうじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山本 功児さんについて調べます
■名前・氏名 |
山本功児と関係のある人
里崎智也: 2003年、5月4日の対ダイエー戦の延長11回表、3対3の同点の場面でロッテ監督の山本功児は清水将海の代打に井上純を送る。 ジミー大西: 当時の野球部監督は読売ジャイアンツに在籍していた山本功児の兄で、怖かったという。 後藤利幸: イチローが「あれぐらいの投手に抑えられるのが一番腹が立ちますよ」と発言し、当時の山本功児監督がやり返すという一幕があった。 淡口憲治: 2年時の1969年、一塁手の山本功児と共に春の選抜へ出場する。 宇野勝: 8月26日の読売ジャイアンツ戦で、7回裏の守備の際に山本功児の打った飛球を捕ろうとしたところ、目測を誤ってボールを頭部に当てるエラーを喫したことが宇野ヘディング事件として知られる。 福浦和也: なお、息子の名前の一部に彼の才能を見出した山本功児元監督にあやかり、「功」の字が使われている。 落合博満: 巨人から移籍の山本功児が一塁手に、有藤道世が三塁手から右翼手に回り、その後継として三塁手に起用される。 河本育之: その間にブライアン・ウォーレンが抑えを務め、一軍復帰後も同年のシーズンに就任した山本功児監督の方針もあり、主に敗戦処理に回された。 中畑清: 王の後任の一塁手には、大洋から移籍の松原誠や山本功児が入ったが打撃不振が続き、5月27日対大洋戦で中畑が戦線復帰して一塁手に収まる。 柴田保光: 入社後のある大会で本田技研鈴鹿相手に投げたが、山本功児に本塁打を打たれた。 立川隆史: 近藤昭仁監督から山本功児監督に変わった1999年は、一軍デビュー以来の背番号「52」を「24」に変更。 松村彰士: 1年上に藤村正美、高岡茂夫、森貞周治、1年下に山本功児がおり、なかなか活躍の機会はなかった。 長嶋茂雄: 江川・西本聖・角三男・藤城和明・鹿取義隆・赤嶺賢勇・山倉和博・笠間雄二・中畑清・淡口憲治・篠塚利夫・松本匡史・平田薫・山本功児・中司得三・河埜和正・中井康之・二宮至の18人が参加。 サブロー: 登録名は現役時代と変わらずサブローで、背番号は恩師である山本功児がかつて着用していた86。 稲尾和久: この年に巨人から移籍してきた山本功児は「雰囲気がいい。 山本幸二: 当時の巨人には同姓同音名(名前の漢字が違う)の山本功児が在籍していたため、音声上は区別するのが困難であった(背番号も本人は43、山本功児は44と1つしか違わなかった)。 但田裕介: 大会では準々決勝で山本功児、淡口憲治のいた三田学園を降し、準決勝では博多工の岩崎清隆と投げ合い完封勝利。 藪上敏夫: 近畿大会では準決勝で山本功児、淡口憲治のいた三田学園に敗れるが、翌1969年春の選抜への出場を決める。 川井貴志: 2000年は当時の一軍監督・山本功児から先発・中継ぎ要員に抜擢。 福浦和也: ボールを捉える技術に長け、元監督の山本功児からは「バッティングに関しては天才的なセンスの持ち主で、バットコントロールは天性のものだ」と評された。 山本雅夫: 入れ替わりでロッテに移籍した同姓の山本功児の背番号44を引き継いだ。 岩下守道: 後年、巨人の後輩で王貞治の控え一塁手でもある山本功児に、やはり川上の控えであった自分自身の姿を重ね気にかけていたという。 黒田真治: 同期のドラフト外入団組には、外園正や平田薫、ドラフト指名組には篠塚利夫、中畑清、山本功児らがいた。 大江弘明: 大商大堺高では、山本功児の兄が監督であった。 ロイ=ホワイト: 1982年は前半戦は山本功児が使われたために、ホワイトの出番が少なかったが、後半戦はほぼ常時出場する。 新井宏昌: 当初は小柄で線も細くプロ野球各球団のスカウトにマークされる選手ではなく、卒業後は1年先輩の山本功児が進んだ本田技研鈴鹿に行く予定であったが、当時南海の選手兼任監督であった野村克也が日米大学野球の新井のプレーに目が留まり、ドラフト前のスカウト会議「新井という選手は際どいボールをしれっと見逃す。 郭泰源: あれじゃ何年も投げられない」、山本功児からは「あんな変化球ばかり投げないでもっとビシビシ速いボールを投げればいいのに勿体無いですよ」、島田誠からは「完全な変化球ピッチャーですよ。 小宮山悟: 山本功児監督が就任した1999年は7勝に終わる。 山口高志: 6月24日の準決勝では、「プロ予備軍」とも呼ばれた法政大学(長崎慶一・山本功児らが所属)と対戦、今も選手権記録として残る延長20回の熱戦となる。 山本武白志: 実父は元プロ野球選手・監督の山本功児。 |
山本功児の情報まとめ
山本 功児(やまもと こうじ)さんの誕生日は1951年12月25日です。大阪出身の野球選手のようです。
卒業、引退、事件、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2016年に亡くなられているようです。
山本功児のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山本 功児(やまもと こうじ、1951年12月25日 - 2016年4月23日)は、大阪府堺市出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)・監督。左投げ左打ち。息子に元プロ野球選手の山本武白志がいる(ほか、前妻との間に3子がいる)。 実家が当時の南海ホークスの練習場であった中百舌鳥球場と選手寮(秀鷹寮)の近くでパン・菓子屋を営んでおり、幼少期は南海選手から可愛がられていたと、皆川睦雄が野球中継解説時に語っている。また、実父は当時の監督であった鶴岡一人と懇意にしており、二軍選手はもちろんのこと、上記の皆川以外にも杉浦忠、穴吹義雄、野村克也らの主力選手もからもよく声をかけられていて、「功児、合宿所に遊びに来い」と度々誘いを受け、選手寮の食堂で選手たちと食事をともにするだけでなく、帰る前に湯船に浸かっていくこともあったという。その中でも特に可愛がっていたのは穴吹で、堺市の浜寺公園にあった自宅にも、ちょくちょく招いてもらっていた。 三田学園では1年生からレギュラーとなる。エース吉岡邦広を擁し、五番打者、一塁手として1967年夏の兵庫大会決勝に進んだが報徳学園に敗れ、準優勝。3年次に1969年春の第41回選抜大会に出場。準々決勝に進んだが堀越高の但田裕介(阪神)に抑えられ、1-2で惜敗し、ベスト8。同年夏は兵庫大会準々決勝で滝川高に敗れ、ベスト8。1学年後輩に淡口憲治(元巨人・近鉄)、2学年後輩に羽田耕一(元近鉄)がいた。1969年度ドラフト会議にて同年のシーズンオフに監督に就任した野村克也から度々誘いを受け、地元の球団の南海ホークスから3位指名(1位は佐藤道郎、2位は門田博光)を受けるも拒否し、法政大学経営学部に進学。理由は法政大学に進学した兄がプロ入りできなかったことで、「法政の野球部はそんなにレベルが低いところなのか」を試す為であった。 東京六大学野球リーグでは横山晴久ら強力投手陣を擁し、2年生までに3度の優勝を経験するがその後は優勝に届かなかった。リーグ通算86試合出場、282打数79安打、打率.280、3本塁打、44打点。ベストナイン(一塁手)2回。1972年、1973年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。大学同期に投手の前村泰正、三塁手の佐々木幸治らがいる。 大学卒業後は本田技研鈴鹿に入社。1974年には西濃運輸、1975年には新日鉄名古屋の補強選手として都市対抗野球大会に連続出場。1974年の第1回社会人野球日本選手権大会にも出場し、本塁打を放った。同年の社会人野球キューバ遠征に参加、1975年には第2回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出されている。同年のドラフト会議にて読売ジャイアンツから5位指名を受け、入団。 1976年から一軍で起用されるが、本来の守備位置である一塁手には王貞治がおり、外野手も兼ねて出場機会の確保を目指す。 1977年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは第4戦の7回に代打として起用され、山田久志から自身のシリーズ初安打を放つ。 1979年は主に右翼手として51試合に先発出場、打率.291の好成績を残した。同年のシーズンオフ、長嶋茂雄監督による「地獄の伊東キャンプ」にも参加する。 1980年は7試合に四番打者として起用された。同年オフに王貞治が引退。 1981年には中畑清と一塁手の定位置を争う。守備には定評があったが打撃面での不調もありレギュラーは奪えなかった。 同年8月26日の中日ドラゴンズ戦では代打として出場、星野仙一を相手にショートフライに打ち取られると思いきや、中日の遊撃手の宇野勝がまさかの失策を犯してしまい、山本もダイヤモンドを一周して同点となる本塁を目指したが本塁で補殺された。 1982年4月20日の中日戦では星野からサヨナラヒットを打った。同年は主に左翼手として70試合に先発を果たすが、打率は低迷が続く。 1984年は、三宅宗源との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。同年は開幕から一塁手、五番打者に定着し、初めて規定打席に到達、打率.301(9位)を記録している。 1985年も中心打者として活躍、打率.293(14位)の好成績を挙げ、1984年から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞。 1986年は開幕から落合博満が一塁手に回り、左翼手として起用される。6月には一塁手に戻るが、9月に故障もあって定位置を斉藤巧に譲った。この結果出場機会が大きく減少する。 1987年は序盤に故障欠場するが、その後は中日へ移籍した落合博満に代わり、23試合に四番打者として起用される。規定打席には届かなかったが、打率.319を記録した。 1988年は愛甲猛が一塁手に定着、コーチ兼任となり同年限りで現役を引退。 1989年から1993年までの5年間、ロッテ一軍打撃コーチを務めた。 1994年は二軍打撃コーチに回る。 1995年から1996年までの2年間、再び一軍打撃コーチを務めた。 1997年から1998年までの2年間は二軍監督を務めた。 1999年から2003年までの5年間、千葉ロッテマリーンズの監督となるが、一度もAクラスには浮上できず、2003年に退団、成績不振による事実上の解任だった。監督辞任後は一家でハワイに移住する予定であった。 2003年シーズンオフに就任した巨人の堀内恒夫監督からの要請があったため、2004年二軍ヘッド兼打撃コーチとして古巣に復帰。 2005年からは一軍ヘッド兼打撃コーチに就任するがチームの不振で堀内監督は辞任し、山本も同年のシーズン限りで退団。ここで初めて現場から離れたこととなり、復帰もなかった。 2006年から2007年まではラジオ日本「ジャイアンツナイター」解説者・スポーツ報知評論家を務めた。 2008年に慢性心不全を発症してからは病院への入退院を繰り返しながら療養に努めていたが息子の武白志(むさし)が九州国際大学付属高校への進学を機に同校のある福岡県へ妻と共に移住した。2012年10月から12月まで「山本功児 なんとなく幸せ」と題して、『東京スポーツ』紙上で半生を振り返るコラムを連載した。 2016年4月23日、肝臓癌のため北九州市内の自宅で死去。64歳没。 山本の指導者としての経歴は、現役最終年となる1988年の選手兼任打撃コーチに始まり、二軍打撃コーチ、二軍ヘッドコーチ、二軍監督、一軍打撃コーチ、一軍ヘッドコーチ、一軍監督と、野手出身の指導者として主要なポジションをすべて経験するという稀有なキャリアを持つ。特に古巣である巨人に復帰した2004年の二軍ヘッド(のちに打撃コーチ兼任)というポジションは通常ありえない役職であった。この二軍ヘッドコーチという役職はすでに組閣を終えた後に、堀内監督が山本をどうしても復帰させたい、としたため急きょ作ったものであった。翌2005年には一軍ヘッド兼打撃コーチに昇格した。 ロッテの二軍打撃コーチ時代の1994年開幕直後、山本は当時高卒入団1年目の投手で共に打撃センスがあった福浦和也と小野晋吾の2人を呼び出しバッティング練習をさせ、福浦に「おまえ、今すぐにバッターへ転向しろ」と福浦に打者転向を命じた。福浦は当初は拒否したが、その後も山本は執拗に福浦に打者転向を迫り、オールスター明けには打者に転向させた。福浦は「ある意味で、山本さんに無理やりという感じじゃないですか(笑)。」と振り返っている。なお、小野はその後も投手として活躍している。 ロッテの監督としての選手起用については、当初は大塚明や立川隆史など生え抜きの若手を積極的に起用したものの決定的な実力不足を痛感し、ベテラン勢や外部補強選手を中心に戦いながらサブローや里崎智也、小林宏之などの台頭を気長に待つことになる。こうして監督を務めた5年間、チームは全て5位か4位に終わっているが、年々勝率を上げ2003年には借金1にまでチームを戻したところで辞任した。特に2003年の9月・10月は22勝8敗1分で勝率.733という好調ぶりだった。 二軍監督から一軍監督時代の間に獲得・育成した選手が第2次バレンタイン政権下でのリーグ優勝・日本一に貢献することとなり、その手腕が評価された。 山本は熱血漢ゆえにファンや審判とやり合うことも多く、2002年3月19日のオープン戦で川口亘太塁審に「しっかり見ろよ、川口。このタコ!」と暴言を吐いて退場となった。オープン戦で監督が退場処分を受けるのは、1982年の阪神安藤統男監督以来20年ぶり2人目だった。さらに、2003年9月9日にも同じく川口審判に暴言を吐いて退場となった。また、2003年5月31日のダイエー戦で、小林宏の(登板過多による)故障を危惧した女性ファンが試合終了後に「壊れちゃう」と山本に言い寄ったところ、山本が「(小林宏は)2日休んでるんだ、バカヤロー!」とやり返した。ほか、「立川の打順は下げたんじゃない。勝手に下がったんだ!」など名言には事欠かない。 退団が決まった2003年の最終戦では、選手側から「試合後に監督を胴上げしよう」という提案があった。そして試合終了後、胴上げをするべく選手達がベンチから出ようとしたところ、山本は「胴上げは次の監督にやってあげてくれ。ありがとう」と涙ながらに固辞した。そして2年後(2005年)、チームは31年ぶりのリーグ優勝並びに日本一を果たし、次期監督であるボビー・バレンタインの胴上げが実現した。 1999年から2001年まで二軍監督、2002年に一軍ヘッドコーチを務めた平野謙は「正直を言えば、一軍と密に連絡を取り合っていたわけではありません。いや、僕が勝手にやっていたわけではなく、割と一方的に、一軍から「こいつを上げてくれ」「こいつを落とすから」という感じで言ってきて、「二軍に誰かいいヤツいないか」みたいな意見を求められたことは、ほぼほぼなかったですね。別に功児さんの批判をしているわけじゃないですよ。(平野がロッテで)兼任コーチになった時、親身になってアドバイスをしてもらったこともありますしね。ちょっと野球観が合わなかった部分はあった。僕もそこで自分からすり寄って合わせられるタイプじゃありませんしね。ただ、選手でもなかったし、別に反発も何もないですよ。」と回顧している。しかし後年、西武時代の同僚である石毛宏典のYouTubeチャンネルに出演した際には、山本に意見を述べても「今は俺が監督だから俺の意見を聞いてくれ。」や「俺が監督を辞めたらお前らは好きなようにやってくれ。」と言われた事を暴露した上で、「もう無理だと思った。」と述べた。 2001年からロッテ二軍打撃コーチ、半年で一軍打撃コーチに格上げされた秦真司も、山本と身近に接した感想として「ユニフォームを着ると豹変し、瞬間湯沸かし器のように熱くなり、見境がなくなってしまう性格」「ミスがあったり、チームが負けたり、気に入らないことがあると、灰皿が飛んでくる」「当時の選手達は山本の顔色をうかがいながらプレーしていた」「コーチが手を差し伸べようとすると、『選手を甘やかすな!』と一喝され、周囲の意見には耳を貸してくれなかった」と述べており、その結果として「選手、コーチは味方であるはずの山本と戦っているような状態だった」と語っている。 2002年に一軍打撃コーチを務めた高畠導宏は山本と選手の指導を巡って対立している。「たった一試合ヒットが出なかっただけで、監督は選手のフォームを変えさせようとするんです。それで打撃コーチの高畠さんと衝突していました。チーム内にも不満がたまっていました。」と球団職員もいうように、首脳陣の間では不協和音が聞こえるようになった。高畠は2002年限りでロッテを退団した。 打席に入り構える際に身体を幾度か揺り篭の様に左右に揺らす(但しバットを持つ手は不動)独特の構えがあった。 現役当時、山本の法政大学野球部の5学年先輩に当たる広島東洋カープの4番打者である山本浩二と同音の姓名であったため、主に広島戦で偽物を意味する「ニセこうじ」と野次を飛ばされることが多々あった。また巨人でも1982年に山本幸二という同音姓名の捕手が入団したため、功児のロッテ移籍までの2年間は区別するのが困難であった(背番号も功児と一番違いの43番)。「ニセこうじ」と呼ばれたことに対しては、「偽者と野次られるのも、同姓同名の偉大な先輩がいてこそ」と、浩二への尊敬の念も含めて答えていた。 巨人選手時代、控えとなる場合が多い中、元同僚で阪神へ移籍した小林繁には抜群に相性が良く、小林が登板する試合にはフル出場することが多かった。 44という背番号については、「ハンク・アーロンと同じ番号で気に入っている」と言い、巨人時代、活躍を認められて小さい番号に変更する話もあったもののこれを拒否し、ロッテに移籍後も同じ番号を背負い続けた。 好きな歌はフランク・シナトラで有名なマイ・ウェイである。カラオケで披露する時、決まって最後のフレーズを「♪~私には愛するロッテがあるから」と変えて歌っていた。 ジャイアント馬場のファンでサインを貰い少年の様に喜んでいた一幕があった。 熱血漢な性格であり、人情味を見せることがあった。良くも悪くも山本の特徴であり、それに関係するエピソードは多い。
2003年のシーズン最終戦、ロッテのフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きた時「何で最後の試合の前に…。こんなことがあってはいかん。」 という怒りのコメントを述べている。この時、山本はすでに監督の辞任が決まっており、山本自身も最後の試合であったが自分よりも部下への気遣いから怒りをあらわにした。 コーチ、監督時代、1時間でも2時間でもつきっきりで打撃指導するなど指導熱心であった(スタンドのファンから「山本イズム」と書かれた垂れ幕が掲げられた)。だが、先述のように監督になってからは「一打席ヒットが出ないだけで、すぐに選手のバッティングフォームを変えさせようとする」など極端な面もあり、首脳陣との軋轢が生じてオフに退団するコーチが多かった。 また一本槍な性格がゆえに、思い込みから失言してしまうこともあった。黒木知宏が浦和で怪我と闘っていた時期、マスコミに復帰時期を尋ねられ、「練習していない人間を一軍に上げるわけにはいかない」と発言してしまう。黒木はランニングを続けたあまりにランニングコースのみ草が禿げあがる「黒木ロード」のエピソードを持ち、誰もが認める程練習熱心な選手であったため、この発言は黒木ファンの反感を買ってしまった。 2008年にパ・リーグの首位打者を獲得したリック・ショートは2002年オフに山本自ら渡米し、スカウトした選手である。 チームの成績は低迷したが、山本に見出された選手からは慕われていた。
2005年5月18日の対広島戦においてロッテの小林雅英が通算150セーブを達成したとき、小林雅はヒーローインタビューで「山本監督に感謝しています」と発言があった。 一塁手として歴代最多となる10度のゴールデングラブ賞を受賞した駒田徳広は、「私の一塁手としての師匠は山本功児さん。」と語っており、山本からファーストの守備のイロハを叩き込まれたと語っている。また、名球会のイベント参加時には、山本から貰ったというファーストミットを持参し、「現役時代は契約の関係で使えなかったが、尊敬する山本さんから貰ったミットで初めてプレーできた。」と述べた。 2023年シーズンより千葉ロッテマリーンズの二軍監督に就任したサブローは、師匠の山本にあやかって、山本の監督時代と同じ背番号86を着用し、「誰よりもマリーンズの勝利を願っていた功児さんがなしえなかった優勝を果たすため、2軍監督の立場でバックアップし、チームに貢献したい」とコメントした。 山本が慢性心不全を発症した2008年の時点で、長男の武白志は小学4年生(10歳)であった。当時、自宅で武白志の打撃練習に立ち会っていた山本は心臓への負担を減らす目的で診察した医師からペースメーカーの装着を勧められた。しかしペースメーカーの装着によって(利き腕である)左腕を使った運動がしにくくなることも告げられたため、「(自宅でのトスバッティングなどで)武白志にボールを投げてやりたい」という理由で装着を断念した。武白志が中学校へ進んでからは入院の頻度が増えたにもかかわらず、退院中に自宅で武白志の練習相手を務めた。 清原和博が平沼定晴から死球を受けたことで乱闘になり、山本は平沼に付き添い清原を怒鳴った一人だが、後に巨人のコーチに山本が赴任してからは後腐れのない関係となり、清原の「ハイタッチ拒否事件」に関しても清原に対してかなり親身になっていた。 打者として特別記録を残したとはいえないが、シーズンによったとはいえ勝負強さや左投手に対する強さは評価されており、満塁でも打力を発揮したことから左の長距離打者として認められることもあった。 実兄は大阪商業大学堺高等学校で硬式野球部の監督を務めていた。 各年度の太字はリーグ最高 ダイヤモンドグラブ賞:2回(一塁手部門:1984年、1985年) 初出場:1976年4月6日、対大洋ホエールズ1回戦(後楽園球場)、9回裏に小川邦和の代打として出場 初打点:1976年4月7日、対大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、8回裏に小林繁の代打として出場、小谷正勝から犠飛 初安打:1976年4月16日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、9回表に上田武司の代打として出場、宮本幸信から単打 初本塁打:1976年6月26日、対中日ドラゴンズ12回戦(後楽園球場)、8回裏に河埜和正の代打として出場、渡部司からソロ 初先発出場:1976年8月24日、対大洋ホエールズ19回戦(後楽園球場)、6番・一塁手として先発出場 初盗塁:1979年8月5日、対中日ドラゴンズ18回戦(ナゴヤ球場)、7回表に二盗(投手:三沢淳、捕手:木俣達彦) 1000試合出場:1986年4月17日、対近鉄バファローズ5回戦(平和台球場)、5番・左翼手として先発出場 ※史上261人目 代打の代打で満塁本塁打:1987年6月13日、対近鉄バファローズ戦 ※史上3人目、パ・リーグ初 オールスターゲーム出場:2回(1982年、1985年) 44(1976年 - 1988年) 85(1989年 - 1993年) 72(1994年) 86(1995年 - 2003年) 87(2004年 - 2005年) ^ 実例として、ヘッドコーチが広野功→袴田英利→醍醐猛夫→平野謙→高代延博と、就任以来毎年のように交代していた。 ^ DeNAが九国大付・山本と合意、父は功児氏 今夏甲子園で3発(スポーツニッポン 2015年11月16日付記事) - ウェイバックマシン(2015年11月19日アーカイブ分) ^ 週刊ベースボール 1986年 昭和61年 プロ野球選手写真名鑑 ^ 日常生活の中にいつでもプロ野球選手がいた ^ 【心に残るホークス遺産】藤田学氏、戦前から半世紀…若タカ鍛えた大阪・堺市の「中モズ球場」(1/3ページ) - サンスポ ^ 『巨人・ロッテの低迷期を支えた男 山本功児 なんとなく幸せ』- 東京スポーツ 2012年10月18日 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 中畑清氏 戦友山本氏を悼む ポジション奪っても嫌な顔ひとつしなかった― スポニチ Sponichi Annex 野球 ^ “【8月26日】1981年(昭56) 宇野勝ヘディング事件 星野仙一が怒ったもう一つの理由”. スポーツニッポン (2007年8月26日). 2012年8月23日閲覧。 ^ 年度別成績 1984年 パシフィック・リーグ | NPB.jp 日本野球機構 ^ “ロッテ山本監督が退任/5年間でAクラスなし”. 四国新聞社. (2003年9月29日). https://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20030929000415 2023年6月3日閲覧。 ^ http://news.goo.ne.jp/article/gooeditor/sports/gooeditor-20131022-01.html?page=2 ^ 報知新聞 2002年3月20日 ^ 報知新聞2003年6月1日 ^ “ロッテ・川井が亡き母に捧げる今季2つ目の白星”. サンケイスポーツ (2002年8月6日). 2003年2月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2003年2月14日閲覧。 ^ 週刊ベースボール2021年2月8日号、平野謙の人生山あり谷あり、感謝あり、33回、楽しくてたまらなかった社会人コーチ時代、90頁 ^ YouTube『石毛宏典TV』2021年6月21日公開より ^ ロッテ二軍コーチに就任 開幕半月で一軍行きを命じられた【秦真司 間近に見た「名将」の真実】 ^ 門田隆将著『甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(講談社、2005年)202頁 ^ 大打者との数奇な巡り合わせ、名一塁手・山本功児逝去。「いぶし銀」として存在感を発揮したプロ野球人生 ベースボールチャンネル 2016年4月24日 ^ ONを唸らせた好守 故・山本功児氏を悼む 巨人、ロッテで活躍 ZAKZAK 2016年4月26日 ^ ロッテ、2軍監督に「サブロー」 背番号は故山本氏の86 (2022/11/17 サンケイスポーツ) ^ こうして起きた「ハイタッチ拒否事件」 ^ 山本功児氏が肝臓がん死去 息子の1軍姿見る前に… ^ 週刊ベースボール 2014年6月30日号 97ページ 大阪府出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 個人年度別成績 山本功児 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 湯浅禎夫 1950 - 1952 別当薫 1952 若林忠志 1953 別当薫 1954 - 1959 西本幸雄 1960 宇野光雄 1961 - 1962 本堂保次 1963 - 1965 田丸仁 1966 戸倉勝城 1967 濃人渉 1967 - 1971 大沢啓二 1971 - 1972 金田正一 1973 - 1978 山内一弘 1979 - 1981 山本一義 1982 - 1983 稲尾和久 1984 - 1986 有藤道世 1987 - 1989 金田正一 1990 - 1991 八木沢荘六 1992 - 1994 ボビー・バレンタイン 1995 江尻亮 1996 近藤昭仁 1997 - 1998 山本功児 1999 - 2003 ボビー・バレンタイン 2004 - 2009 西村徳文 2010 - 2012 伊東勤 2013 - 2017 井口資仁 2018 - 2022 吉井理人 2023 - 現在 表 話 編 歴 1972 大杉勝男 1973 C.ジョーンズ 1974 W.パーカー 1975 加藤秀司 1976 加藤秀司 1977 加藤秀司 1978 柏原純一 1979 柏原純一 1980 小川亨 1981 柏原純一 1982 柏原純一 1983 片平晋作 1984 山本功児 1985 山本功児 1986 ブーマー 1987 ブーマー 1988 清原和博 1989 愛甲猛 1990 清原和博 1991 J.トレーバー 1992 清原和博 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 J.フランコ 1996 片岡篤史 1997 髙木大成 1998 髙木大成 1999 小笠原道大 2000 小笠原道大 2001 小笠原道大 2002 小笠原道大 2003 福浦和也 2004 松中信彦 2005 福浦和也 2006 小笠原道大 2007 福浦和也 2008 A.カブレラ 2009 髙橋信二 2010 小久保裕紀 2011 小久保裕紀 2012 稲葉篤紀 2013 浅村栄斗 2014 T-岡田 2015 中田翔 2016 中田翔 2017 銀次 2018 中田翔 2019 内川聖一 2020 中村晃, 中田翔 2021 中村晃 2022 中村晃 2023 中村晃 2024 山川穂高 表 話 編 歴 1位:佐藤道郎 2位:門田博光 3位:山本功児(入団拒否) 4位:薮上敏夫 5位:中山孝一 6位:鈴木治彦(入団拒否) 7位:堀井和人 8位:山田克己(入団拒否) 9位:北尾一喜 10位:堀内三郎 表 話 編 歴 1位:篠塚利夫 2位:岡田忠雄 3位:中畑清 4位:猪口明宏 5位:山本功児 6位:柿木孝哉(入団拒否) 表 話 編 歴 達摩省一 大戸洋儀 宮井勝成 山口高志 森部繁幸 藤田康夫 萩野友康 中村憲史朗 上田芳央 米谷延夫 中沢邦男 田中昭雄 山本功児 坂口雅久 吉沢敏雄 東門明 山口円 山下大輔 生田啓一 長崎慶一 伊達泰司 池田和雄 藤波行雄 表 話 編 歴 宮井勝成 篠原一豊 矢野暢生 田村政雄 中村憲史朗 小林秀一 田尾安志 峰尾晃 楠城徹 中西清治 吉田秀雄 山本功児 垣野多鶴 中畑清 佐野仙好 山下大輔 樋野和寿 鍛治舎巧 宇山秀明 藤波行雄 迫丸金次郎 中井順二 日本の野球選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 野球日本代表選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 日本の野球監督 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督 野球解説者 Honda鈴鹿硬式野球部及びその前身チームの選手 法政大学野球部の選手 三田学園高等学校出身の野球選手 大阪府出身のスポーツ選手 堺市出身の人物 1951年生 2016年没 肝癌で亡くなった人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2011年7月-12月 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 典拠管理識別子が1つもない記事
2024/11/21 18:09更新
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yamamoto kouji
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