淡口憲治の情報(あわぐちけんじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
淡口 憲治さんについて調べます
■名前・氏名 |
淡口憲治と関係のある人
堀内恒夫: コーチ陣はヘッドコーチに須藤豊、投手コーチに池谷公二郎、外野守備走塁コーチに弘田澄男、二軍から阿波野秀幸(投手)、淡口憲治(打撃)、上田和明(内野)、高田誠(バッテリー)が昇格、二軍監督は高橋一三(前二軍投手コーチ)が就任、堀内は「人間的に信頼でき、技術があり、動けるコーチを選んだ。 佐藤義則: 1988年、4月8日の近鉄との開幕戦(阪急西宮球場)では9回途中まで淡口憲治、ベン・オグリビーに計3本塁打を打たれ、敗戦投手となった。 鈴木康二朗: 初奪三振:1976年4月4日、対読売ジャイアンツ2回戦(明治神宮野球場)、9回表に淡口憲治から 高田繁: 俊足・強肩・強打と走攻守の三拍子揃った外野手として、V9時代の巨人を支えるが、1975年は打撃の低迷に苦しみ、淡口憲治の台頭もあってシーズン後半には出場機会が減る。 湯口敏彦: キャンプ初日に同部屋のチームメイト・淡口憲治が話しかけても反応しない、窓の外で物音がしたり車のエンジン音がすると、急に「怖いよう!」と恐怖を露わにする、全員が寝静まった深夜には宿舎内をうろつき回る、夜中に大声を上げるなど、再び精神的な異変が現れたため、翌日には監督からキャンプの合流を差し止められ、多摩川への帰宿を命じられた。 山岡勝: 1986年に有田修三との2対1の交換トレードで、淡口憲治と共に近鉄バファローズに移籍。 但田裕介: 大会では準々決勝で山本功児、淡口憲治のいた三田学園を降し、準決勝では博多工の岩崎清隆と投げ合い完封勝利。 有田修三: 1986年、淡口憲治・山岡勝との交換トレードで読売ジャイアンツ(巨人)に移籍した。 伊藤菊雄: スカウト時代には村瀬広基、河埜和正、淡口憲治、小林繁、西本聖、駒田徳広、吉村禎章、村田真一、川相昌弘、斎藤雅樹、水野雄仁、桑田真澄、橋本清らの獲得に携わった。 渡辺省吾: 三田学園高等学校時では、淡口憲治、羽田耕一とともに第42回選抜高等学校野球大会に出場している。 長岡学: 「報道では『高校時代に対外試合で30本の本塁打を放った』と伝えられているが、実際の本塁打数は50本以上」と自ら豪語するほどの長打力と俊足の持ち主であったことに加えて、当時の近鉄の一軍外野陣に淡口憲治・栗橋茂などのベテラン選手が揃っていたことから、入団当初は「将来の4番打者候補」として期待されていた。 小林繁: トレード期限は1979年1月31日に設定され、新浦寿夫、高田繁、淡口憲治、西本聖らと共に小林の名も取り上げられた。 笹本信二: 大会では下手投げエース落合登を擁して勝ち進み、準々決勝は淡口憲治・羽田耕一のいた三田学園に1-0で完封勝利、しかし準決勝では北陽高に2-6で敗れる。 日下隆: 淡口憲治 柳原隆弘: 1986年には新井宏昌、淡口憲治が移籍してきたこともあり、段々と出場機会が減る。 羽田耕一: 1年先輩の淡口憲治とクリーンナップを組み準々決勝に進出するが、鳴門高に敗れる。 長嶋茂雄: 江川・西本聖・角三男・藤城和明・鹿取義隆・赤嶺賢勇・山倉和博・笠間雄二・中畑清・淡口憲治・篠塚利夫・松本匡史・平田薫・山本功児・中司得三・河埜和正・中井康之・二宮至の18人が参加。 梶本勇介: ヤクルト時代は淡口憲治コーチから研究熱心で前向きと評されていた。 鈴木田登満留: 俊足の上に外野守備も及第点で、打撃の方は後年の淡口憲治を右打ちにしたようなタイプだった。 山本功児: 1学年後輩に淡口憲治(元巨人・近鉄)、2学年後輩に羽田耕一(元近鉄)がいた。 中西弘明: 1年上のチームメイトに淡口憲治、甲斐以外の同期に羽田耕一がいた。 迫丸金次郎: 初出場・初打席・初安打:1978年4月13日、対横浜大洋ホエールズ4回戦(藤崎台県営野球場)、5回裏に淡口憲治の代打で出場、大川浩から 稲葉篤紀: この年より日本ハム一軍打撃コーチに就任した淡口憲治の指導のもと長打力の強化に取り組み、自己3番目の打率.307、打点75と自己最多の26本塁打を記録、チームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献、プレーオフでは斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス)から優勝を決めるサヨナラ適時打、中日ドラゴンズとの日本シリーズでは17打数6安打、打率.353、本塁打2、打点7を記録し、MVPを獲得するなど勝負強さを見せつけた。 足立光宏: 6回に1-2と逆転されなお1死満塁となったとき、足立は「もっと騒げ」とつぶやいて、打者の淡口憲治をシンカーで投手ゴロの本塁→一塁の併殺打に打ち取り、ピンチを脱した。 鈴木貴久: 初出場:1986年5月4日、対南海ホークス3回戦(藤井寺球場)、6回裏に淡口憲治の代打で出場 松本匡史: 初本塁打:1977年5月10日、対大洋ホエールズ6回戦(川崎球場)、7回表に淡口憲治の代打で出場、間柴茂有からソロ ベン=オグリビー: 守備位置であるレフトはラルフ・ブライアントや淡口憲治などが守っていたため主に指名打者での出場だった。 藪上敏夫: 近畿大会では準決勝で山本功児、淡口憲治のいた三田学園に敗れるが、翌1969年春の選抜への出場を決める。 定岡正二: その結果、有田と淡口憲治・山岡勝による1対2の交換トレードが1985年内に成立した。 近藤貞雄: 同年6月30日ナゴヤ球場での巨人戦9回表4対2で2点リードの場面で星野が通算3割3分以上打たれ、苦手としている巨人の打者・淡口憲治から同点本塁打を打たれる。 |
淡口憲治の情報まとめ
淡口 憲治(あわぐち けんじ)さんの誕生日は1952年4月5日です。兵庫出身の野球選手のようです。
引退、母親、家族、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。淡口憲治の現在の年齢は72歳のようです。
淡口憲治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 淡口 憲治(あわぐち けんじ、1952年4月5日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、評論家。 出生地は徳島県で、幼少期より西宮市に在住、当時自宅は阪急ブレーブスの本拠地の西宮球場の近くだったが、当人は阪神タイガースファンだった。神戸市立本山第一小学校時代には、作家の中島らもと同級生であった。中学生時代より野球部で活動、当人出場の試合を観に来ていた三田学園高校野球部監督に誘われて同校に進学、三田学園では中堅手として活躍。2年時の1969年、一塁手の山本功児と共に春の選抜へ出場する。磯田雅士らの好投もあって準々決勝に進むが、堀越高の但田裕介に抑えられ惜敗。1970年の選抜にも1年下の遊撃手、羽田耕一とクリーンナップを組んで連続出場するが、前年と同じく準々決勝で、笹本信二のいた鳴門高に敗れる。1年下には羽田以外に、投手の甲斐富士男、捕手の中西清治がいた。 1970年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。ドラフト前にはヤクルト、広島からも指名するという話を受けていたが、このドラフト会議にて指名順12番目のヤクルト、3番目の広島より先に2番目の巨人が指名して交渉権が確定し、当人は阪神ファンで巨人は嫌いな球団だったということで、指名されたことを聞いた時には力が抜けたという。当時の監督川上哲治の期待が大きく、入団1年目より一軍に昇格を果たす。 1974年頃から頭角を現した。 1975年には左翼手、右翼手としてレギュラーに定着、規定打席不足ながらも打率.293の成績を残す。 1976年には日本ハムから張本勲がトレードで移籍入団し左翼手に入る。その結果、同年は柳田俊郎、末次利光との右翼手のレギュラー争いが激化し、65試合に先発出場するものの出場機会は減少。10月12日に優勝のマジック1とした試合の4回裏2アウト満塁で安仁屋宗八の2球目のスライダーを叩いて10号本塁打を放ったが、これは同時に日本プロ野球通算700本目の満塁本塁打であった。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、第6戦に山口高志から3点本塁打を放つ。 1977年は柳田真宏が打撃好調で右翼手に定着、さらに出場機会が減少した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全5試合に代打として起用されるが無安打に終わる。 1979年オフの長嶋茂雄監督による「地獄の伊東キャンプ」にも参加する。 1980年には張本、柳田がチームを去り、再び右翼手の定位置を獲得。規定打席には届かなかったが打率.294を記録した。 1981年のリーグ優勝にも貢献。同年の日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第4戦の7回に、中押しとなる2点適時二塁打を放ちチーム日本一に力を添えた。 1983年には左翼手に回る。同年はプロ入り初の規定打席到達を果たし、打率.302(13位)を記録した。西武ライオンズとの日本シリーズは不振が続いたが、第6戦に代打で1安打を記録している。 1984年以降は駒田徳広や吉村禎章といった若手の台頭もあり、段々と出場機会が減少していった。 1985年オフに、有田修三とのトレードで山岡勝とともに近鉄バファローズへ移籍。元々は有田と定岡正二とを交換することが近鉄・巨人両球団間で合意に達していたが、巨人から通告を受けた定岡は「トレードならユニフォームを脱ぐ」とトレードを拒否して現役を引退した。そこで淡口が対象となった。淡口も、大阪府を本拠地とする近鉄に移籍すれば当時西宮市に住んでいた母親にいつでも顔を見せることができる、とトレードを承諾。 1986年に115試合出場、打率.297の成績を残し、同い年で同じ近鉄移籍1年目の新井宏昌と共に外野のレギュラーを獲得。 1988年の「10.19」にも出場。長打で1死二塁の好機をつくるなどの活躍をした。本人曰くこの当時、家族を東京に置いての単身赴任生活に疲れていたということで、この年限りで引退するつもりでいたが、マネージャーから「もう一年やりましょう。来年は優勝しましょう」と説得されて現役を続行することにしたという。 1989年の日本シリーズで古巣・巨人と対戦し、第2戦で桑田真澄から同点タイムリーを放つ。この日本シリーズを花道に現役を引退。V9を知る選手としては最後の選手となった。 引退後は1990年から2005年まで巨人の打撃コーチ、二軍監督を務めた。巨人コーチ時代は新人時代の松井秀喜、清水隆行などに「ウォーキング打法」を教え、主力打者に育て上げた。二軍監督時代の2002年1月12日、「サタデー・ウェイティング・バー」(エフエム東京)の「家族特集・成人式」に広告代理店勤務の長男と出演し、子供から見た野球選手の父親とはどういう姿なのかというテーマで、対談形式で語った。 2006年から2007年までは巨人時代の同僚・高田繁がゼネラルマネージャーを務めていた日本ハムで一軍打撃コーチを務めた。日本ハムでは、それまで数年に1回3割台を打つ程度であった稲葉篤紀を覚醒させるなど、短中距離打者(特に左打者)の指導に実績を残した。 2008年からは東京ヤクルトスワローズ監督に転身した高田の縁で、ヤクルトの二軍打撃コーチに就任した。 2009年からは一軍打撃コーチに転任。 2010年5月26日にはチームの打撃不振の責任をとって進退伺を球団に出したが、高田前監督と球団の説得で残留した。 2011年から2012年まで二軍打撃コーチを務めた。 2013年からはスポーツ報知評論家。 打席で構える際に2、3度腰を振る特徴的なフォーム(ヒップダンスと言われた)で、王貞治を上回るスイングスピードから球界最速ともいわれる打球を放ったことから、当時の長嶋茂雄監督は淡口のバッティングを超音速旅客機・コンコルドになぞらえ『コンコルド打法』と命名した。一方肩が弱いのが弱点でもあった。 巨人時代のプロ2年目に「ネンキン」との愛称がついた。同年の春季キャンプにて、監督の川上哲治が淡口を見て「とても十九歳の青年とは思えない。まるで年金を頼りにしている退職者みたいに、ゆうゆうとしている」と評したことに由来する。 初出場・初先発出場:1971年5月25日、対ヤクルトアトムズ9回戦(明治神宮野球場)、2番・右翼手として先発出場 初安打:1972年5月25日、対ヤクルトアトムズ8回戦(明治神宮野球場)、6回表に渡辺孝博から 初本塁打・初打点:1972年7月19日、対大洋ホエールズ15回戦(後楽園球場)、5回裏に坂井勝二から 1000試合出場:1983年6月11日、対ヤクルトスワローズ8回戦(明治神宮野球場)、5番・左翼手として先発出場 ※史上235人目 100本塁打:1986年6月10日、対ロッテオリオンズ8回戦(川崎球場)、1回表に荘勝雄から右中間へ3ラン ※史上145人目 1000本安打:1988年5月31日、対ロッテオリオンズ7回戦(川崎球場)、9回表に牛島和彦から右前安打 ※史上151人目 1500試合出場:1988年6月15日、対阪急ブレーブス10回戦(西京極球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上88人目 開幕戦代打本塁打:1975年4月5日、対大洋ホエールズ戦1回戦 ※セ・リーグ2人目 35(1971年、1974年 - 1985年) 55(1972年 - 1973年) 7(1986年 - 1989年) 77(1990年 - 2007年) 79(2008年 - 2012年) ^ 週刊ベースボール 2024年10月14日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 淡口憲治・1』(64頁 - 66頁) ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 週刊ベースボール 2024年11月4日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 淡口憲治・3』(64頁 - 66頁) ^ 佐藤純一氏が明かした仰木監督との思い出/パ伝説 ^ “近鉄・加藤哲郎が明かした「巨人はロッテより弱い」発言の真相”. 文春オンライン. (2020年11月25日). https://bunshun.jp/articles/-/41791?page=1 2020年12月1日閲覧。 ^ SUNTORY SATURDAY WAITING BAR 2002年1月12日の放送 ^ 燕コーチ陣体制確認、淡口打撃コーチ残留 サンケイスポーツ 2010年5月28日 ^ “左投手に弱い? “コンコルド打法”淡口憲治が戦ったレッテル/プロ野球20世紀・不屈の物語【1975~89年】”. ベースボールマガジン社. (2020年5月27日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200527-11 2020年5月28日閲覧。 ^ 日刊スポーツ1977年9月14日2面「どうなっているかな?淡口の愛称『ネンキン』とは」 ^ 週刊ベースボール2012年4月16日号96ページ 読売ジャイアンツの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 個人年度別成績 淡口憲治 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:湯口敏彦 2位:大北敏博 3位:淡口憲治 4位:樋沢良信 5位:森下敏秀(入団拒否) 6位:高橋英二 7位:魚満芳 日本の野球選手 三田学園高等学校出身の野球選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 北海道日本ハムファイターズ関連人物 東京ヤクルトスワローズ関連人物 日本の野球監督 兵庫県出身のスポーツ選手 1952年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/20 04:03更新
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awaguchi kenji
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