足立光宏の情報(あだちみつひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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芦岡俊明: 初本塁打:1978年9月28日、対阪急ブレーブス後期13回戦(川崎球場)、4回裏に足立光宏からソロ 大杉勝男: 大杉は第7戦の6回裏に足立光宏からレフトポール際に本塁打を放った。 植田征作: 1958年の都市対抗野球にチーム初出場を果たすが、2回戦(初戦)で全鐘紡の足立光宏(大阪大丸から補強)らに抑えられ完封負け。 石井茂雄: その後は梶本隆夫・米田哲也・足立光宏らと共に1960年代の阪急の主力投手として活躍し、1964年には自己最高の28勝をマークするも、小山正明(大毎)が30勝を挙げたため最多勝には届かなかった。 嵯峨健四郎: 足立光宏から、二塁手の頭を越えるヒットを放ち、不名誉な記録を漸くストップさせた。 竹之内雅史: 100本塁打:1974年8月23日、対阪急ブレーブス後期7回戦(阪急西宮球場)、9回表に足立光宏から左越ソロ ※史上80人目 ジム=ラフィーバー: 初本塁打:1973年4月20日、対阪急ブレーブス前期1回戦(後楽園球場)、1回裏に足立光宏から右中間へ先制決勝ソロ 末次利光: 同年の阪急との日本シリーズでは、10月16日の第4戦(後楽園)で足立光宏から満塁本塁打を放つなど19打数7安打7打点と活躍、日本シリーズMVPと打撃賞を獲得。 大石清: 1967年頃の阪急投手陣には足立光宏、米田哲也、梶本隆夫ら10年選手が先発陣に腰をすえていたこともあり、大石はリリーフに転向して復活する。 上田武司: 同年の阪急との日本シリーズでは、10月17日の最終第5戦(後楽園)で7番打者として先発、5回に足立光宏からダメ押しの2点適時二塁打を放ちチーム日本一に力を添える。 西本幸雄: 西本の教え子には阪急時代には米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、森本潔、長池徳士、福本豊・山田久志・加藤秀司の「花の44年トリオ」、近鉄では鈴木啓示、佐々木恭介、梨田昌孝、羽田耕一、平野光泰、井本隆、栗橋茂、柳田豊などが挙げられる。 浅見源司郎: 1971年の日本シリーズ巨人対阪急第4戦(足立光宏から末次利光が満塁弾を放ちV7に王手をかけた試合)。 宮崎昭二: 足立光宏に次ぐパ・リーグ防御率第2位を記録した。 上田利治: さらに、第7戦の6回裏1死からヤクルトの大杉勝男が阪急の先発・足立光宏から左翼線上に放った打球を左翼線審の富澤宏哉が「本塁打」と判定したことに激怒した。 山田久志: 1976年1月に足立光宏は和歌山県那智勝浦町での自主トレーニングに山田を誘い、その場で「俺はこうや」とシンカーの握り方を示したという。 富澤宏哉: 4番打者・大杉勝男一塁手が阪急・足立光宏投手の投じた内角シュートをすくい上げレフトポール際へ。 高橋博士: 初打席・初安打:同上、9回表に足立光宏から単打 山口高志: 先発・抑えを問わずに起用された山口を足立光宏は「使われすぎ。 山田久志: 山田が入団した頃の阪急は、ヨネカジコンビと呼ばれた米田哲也、梶本隆夫の他、石井茂雄、足立光宏など一流投手の揃った投手王国で、山田は「俺なんかどうやって入っていったら…」と不安だったという。 山本一義: 1975年はレギュラーから外れたがリーグ初優勝を経験し、阪急との日本シリーズ第4戦では2回表に足立光宏から本塁打を放つ。 山田久志: 米田哲也・石井茂雄・足立光宏らを押しのけてエースに成長した。 王貞治: プロ入りの同期には村山実、板東英二、河村保彦、江藤愼一、田中俊幸、張本勲、足立光宏らがいる。 松岡弘: 4試合に登板し2勝2セーブを記録、最終第7戦では足立光宏に投げ勝ち完封勝利を飾った。 流敏晴: 足立光宏、山田久志に続くアンダースロー。 問矢福雄: 初打席・初安打:1971年7月23日、対阪急ブレーブス14回戦(東京スタジアム)、5回裏に広瀬宰の代打として出場、足立光宏から単打 嵯峨健四郎: 1963年の7月から先発陣の一角として起用され、8月22日には阪急ブレーブスの足立光宏と投げ合い、初勝利を完封で飾った。 高田繁: 同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、最終第7戦で足立光宏から本塁打を放つ。 仲根正広: 初安打:同上、足立光宏から 岩下光一: 初本塁打:1962年4月24日、対阪急ブレーブス4回戦(西京極球場)、6回表に足立光宏から2ラン 山田久志: 初勝利こそ8回二死まで投げながらベテラン・足立光宏のリリーフを仰いだものの、100勝・150勝・200勝・250勝・最後の勝利(登板日は阪急最後の公式戦でもある)でもある284勝など初勝利以外の節目の勝利は、すべて完投勝利である。 |
足立光宏の情報まとめ
足立 光宏(あだち みつひろ)さんの誕生日は1940年3月10日です。大阪出身の野球選手のようです。
卒業、現在、引退、事件、ドラマに関する情報もありますね。去年の情報もありました。足立光宏の現在の年齢は84歳のようです。
足立光宏のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 足立 光宏(あだち みつひろ、1940年3月10日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。阪急ブレーブスの主戦投手として、1967年のリーグ初優勝から1978年に至る「黄金時代」を支えた。 足立忠太郎の長男として大阪府大阪市此花区において生れる。本籍地の兵庫県氷上郡遠坂村(現・丹波市青垣町遠阪)は、丹波足立氏の本拠地で、光宏はその嫡流子孫の一人にあたる。足立家の祖は、藤原北家流・遠兼の子遠元で、遠兼が武蔵国足立郡(現・東京都足立区近郊)に移り足立氏を称した。承元3年(1209年)丹波国氷上郡佐治庄の新補地頭職となった遠元の孫の遠政が、足立一族を率いて武蔵国より佐治庄小倉へ移住し、山垣城・遠阪城を本拠として築き、丹波足立氏の祖となった。 父・忠太郎は成人後に氷上郡の本貫を離れた。父は大阪でメリヤス工場を営んでいたが、大阪大空襲に罹災して自宅も工場も焼失し、光宏自身も空襲から何度も逃げる経験をして「人間として性根も腹も据わったね。プロでもピンチでびびったことがないもん」と回想している。焼け出されたため兵庫県尼崎市の親類宅に移り、田畑を走り回る「ガキ大将」の少年時代を過ごす。貧しい生活の中、小学5年生の時に父からグラブを買い与えられ、道具を大切に使う習慣が身についたという。その後、大阪市内に戻った。 大阪市立下福島中学校時代までは我流のフォームで「上からも横からも投げた」という。大阪市立西高等学校1年生時に肘に軟骨ができたことから、1年の休養を余儀なくされた。休養を経て痛みは消えたが、再発への不安から痛みのないフォームを模索するうち徐々に腕の位置が下がり、アンダースローで投げるようになった。 高校卒業後は勧誘を受けて社会人野球の大阪大丸に進む。野球チームを持つ製薬会社からも勧誘があったが、就職先で仕事ができる(高校が商業科だったため、そろばんと簿記の知識があった)ことが決め手だった。 1958年の第29回都市対抗野球大会に、ルーキーながら全鐘紡の補強選手として出場。2回戦で東洋紡岩国を降し勝利投手となる。準々決勝では先発してニッポンビールの北川芳男らと投げ合い、完投するも0-1で惜敗。この大会での好投がプロのスカウトの目に留まる。 1959年に阪急ブレーブスに入団。読売ジャイアンツ(巨人)、阪神タイガース、広島カープなどからも誘われたが、東京嫌いで巨人は眼中になく、「やりがいが一番ありそう」だったことと「ほのかにヨネカジさんにも憧れがあった」という理由で阪急を選んだ。開幕戦だった4月10日の対東映フライヤーズ戦で7回から登板して3イニングを抑え、勝利投手となる。しかし、その後は伸び悩んだ。当初の球種は直球とカーブだけであったが、下手投げ特有の浮き上がる速球を武器とした(同じく浮き上がる速球が武器の投手として杉浦忠が有名だが、若い頃、杉浦を想定してのバッティング投手をやらされることがよくあったという)。加えて、コントロールの良さにも定評があった。1962年、春のキャンプから好調だったが、監督の戸倉勝城に干されて登板のチャンスを得られず、5月初旬の沖縄遠征からも漏れてしまった。しかし、5月24日の対南海戦に初先発すると、いきなり1試合17奪三振のプロ野球記録(当時)をマーク。同年は米田哲也(20勝)・梶本隆夫(14勝)に次ぐ8勝に防御率1.96を挙げて頭角を現す。 1963年に監督に就任した西本幸雄に足立は多用され、47試合、200イニングス超の登板を果たす。しかし、内から湧き出る力がバランス良く球に乗り移らずいたずらに空転している感じで、勝ち星を伸ばせず、6勝18敗、防御率3.45に終わった。負けが多くても使ってくれた西本への信頼感に応えるため、足立は練習に力を入れた。1964年には13勝を挙げて初めて規定投球回に到達してリーグ10位の防御率2.78を記録。以降、1964年15勝、1965年17勝と勝ち星を伸ばす。1967年には20勝10敗・防御率1.75で最優秀防御率のタイトルを獲得して阪急の初優勝に大きく貢献、投の米田・梶本、打のスペンサー・長池を抑えてMVP にも選ばれた。V9さなかの巨人との日本シリーズでも4試合に登板。第2戦では堀内恒夫と投げ合い完投するものの0-1で惜敗。第4戦は金田正一に投げ勝ち完投勝利、第5戦もリリーフで2勝目を挙げる。チームは2勝4敗で日本一を逃すが、同シリーズの敢闘賞を受賞した。 しかし、翌1968年のキャンプ中に肩を故障、オープン戦でもそれを押して登板しさらに悪化した。右手では顔を洗えないほどの重傷であったが、トレーニングを続けるうちに痛みが和らいでいき、9月末には先発に復帰する。巨人との日本シリーズでは2試合に先発。第2戦では5失点を喫し5回に降板、敗戦投手となった。1969年も5月に故障し2勝と低迷。しかし巨人との日本シリーズは全6試合のうち5試合に登板。第2戦では宮本幸信をリリーフして延長10回サヨナラ勝ち、第5戦では完投勝利を飾った。 故障によってそれまでの球威は失われたが、この間に習得したシンカーを武器に復活。1971年は19勝、防御率2.49(山田久志に次ぐリーグ2位)を記録した。また、前年の1970年から17連勝を記録した。この記録は2022年に山本由伸に更新されるまでは球団記録だった。プロ野球全体でも2022年現在8位の記録である。この年、日本プロ野球で最後の没収試合となった7月13日の対ロッテオリオンズ戦で、(ロッテ側の責で没収となったため)勝利投手となった。 巨人との日本シリーズでは2試合に先発するがいずれも敗戦投手となる。翌1972年も16勝、防御率2.63(リーグ5位)を記録し、初のダイヤモンドグラブ賞を獲得。巨人との日本シリーズでは第3戦で堀内恒夫に投げ勝ち完投勝利。巨人に阻まれ日本一はならなかったが、米田哲也・梶本隆夫・山田久志らとともに阪急黄金時代を支えた。足立は当時について、「この頃はもう三振取るのに3球投げるのもしんどくて、1球でいかに打ち取るかを考えていた。それには相手を打ち気にさせて芯を外す。それがシンカーのシンカ(真価)ですしな」と駄洒落を交えて振り返っている。コントロールが良かったにもかかわらず、この頃から死球が増え始めたが、「球が遅いので、踏み込まれないように時々警告の意味を込めて内角を厳しく攻めた」結果だという。 33歳で迎えた1973年には体力的な衰えと技術的な壁に苦しみ、再び4勝と低迷する。背景にはこの年から審判がセットポジションでの静止を厳格に見るようになり、モーションまでの時間が短い足立はボークを7つも取られてリズムが狂った面もあった。今度は以前からの持ち球であったカーブに磨きをかけ、2種類のカーブを投げ分ける技術に加えて、さらに打者の呼吸や狙いを外す駆け引きも身につけ、1974年から3年連続2桁勝利を記録した。1975年の広島東洋カープとの日本シリーズでも3試合に先発するが、勝敗はつかなかった。1976年には足立からシンカーを盗み学んだ山田が26勝を挙げると、足立自身も17勝を挙げ、阪急の完全優勝(2シーズン制の前後期ともに優勝)に貢献する。巨人との日本シリーズでは3試合に先発、阪急3連勝のあと巨人に3連敗を喫して逆王手をかけられた最終第7戦ではクライド・ライトに投げ勝って完投勝利し、悲願の打倒巨人を果たした。この年日本一が決まったのは周りが約5万人の巨人ファンの観客の後楽園球場だったということで、当時のマスコミにおいては「一人で5万人と戦った男」と評された。 1977年シーズン終盤、長年アンダースローの低い投球姿勢を支え続けた膝を故障(左膝関節炎)する。左膝の骨が摩耗し、水がたまるようになっていた。登板時には膝をテーピングとサポーターで固定し、投げ終わるたびに膝から水を抜く対応を余儀なくされた。それでも日本シリーズでは巨人に完封勝ちした。1978年には足立は公式戦はあきらめ、日本シリーズに賭けようと決める。公式戦は故障の影響もあってわずか4勝に終わるが、ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは2試合に先発。第3戦で完封勝利、最終第7戦では大杉勝男に疑惑の本塁打を浴びるなど2失点で敗戦投手となるが、シリーズ敢闘賞を獲得している。1979年からは一軍投手コーチ兼任となるも、勝ち星を挙げることはなく、登板の機会がなかった1980年限りで現役引退した。1979年限りでの引退ともされるが、1980年もコーチ兼任で選手登録がされている。 フィールディングに長け、ダイヤモンドグラブ賞を通算4度受賞している。また、通算暴投数は4であり、3000イニング以上の投手(史上28名、2021年終了現在)の中では最も少ない。 引退後は1981年から1985年まで阪急二軍投手コーチを経て、1986年より阪急・オリックスのスカウトとなる。 2009年2月より関西学院大学硬式野球部の臨時コーチに就任し、2017年まで務めた。 現役時代のトロフィーやユニフォームの大半は、阪神・淡路大震災で西宮市の自宅が被災して転居した際に処分した。ブレーブスOBによるトークイベントには「そういう場は苦手」という理由で出演を固辞し、現役時代の映像も見ないという。 日本シリーズに強く、ON砲のいるV9巨人に対し好成績を挙げた数少ない投手である。日本シリーズ通算9勝(5敗)は歴代3位タイ。そのうち巨人戦で8勝4敗の好成績を残している。巨人のV9時代、阪急の対巨人成績は8勝20敗だが、阪急が挙げた8勝のうち5勝が足立によるものである。 3回目となる1969年の日本シリーズの時に、短期決戦では公式戦と違って「勝つためには1点やるときにはやったらええんやな」という「極意」を得たと述べている。 1976年の日本シリーズでは、阪急が3連勝の後3連敗。そして11月2日の第7戦に当時36歳の足立が登板した。巨人のチャンスになれば5万人のジャイアンツコールが起こる雰囲気だった。6回に1-2と逆転されなお1死満塁となったとき、足立は「もっと騒げ」とつぶやいて、打者の淡口憲治をシンカーで投手ゴロの本塁→一塁の併殺打に打ち取り、ピンチを脱した。このときの「もっと騒げ」について足立は、自分への声援と考えれば奮い立つことと、声援で淡口が「冷静さを失う」からだと述べている。続く7回に森本潔が逆転本塁打を放ち、終盤に近づくと観客から場内にものが投げ込まれた。そのとき再び足立は「もっと騒げ」を口にした。足立は完投勝利を挙げ、阪急の2年連続日本一、打倒巨人に貢献した。足立はこのシリーズを振り返り、「緊張感がなかったわけじゃないけど、我を忘れるということはなかった。向こう(巨人)も興奮しているので、こっちは冷静なほうが扱いやすかった」、「ONは2人いると怖いが、1人だけ(王貞治)なら全部歩かせればいいんだから怖くない。勝負しなきゃならない場面でもホームランさえ打たれなければいいという気持ちで五分の力で投げればいい。他の打者と勝負したほうが楽に決まってる」と語っている。実際、足立は第2戦、第4戦では王に本塁打を許しているが、大一番となった第7戦では王に2四球を出したものの要所を締めて完投勝利した。 また膝を故障した1978年はシーズン4勝6敗という成績だったが、シーズン終盤から日本シリーズに照準を合わせ調整。ヤクルトとの同年の日本シリーズでは第3戦で鈴木康二朗と投げ合い完封を果たした。この時のインタビューで「日本シリーズは西宮(5戦目)で終わりますよ」と発言した。1977年の日本シリーズ第2戦(対巨人)と2試合連続の完封はシリーズタイ記録で、この2完封を挟んで25イニング連続無失点を記録している。また、阪急の投手で日本シリーズで完封を記録しているのは足立のみである。しかし同年シリーズの第7戦では大杉勝男に疑惑の本塁打を打たれた。それがきっかけで日本シリーズ史に残る1時間19分にわたる中断事件が起きるが、足立は同事件が原因で肩を冷やしてしまうとともに故障していた膝に水が溜まり(足立は膝の水を抜きながらシリーズを戦っていた)、再開と同時に降板を余儀なくされている。これが足立にとっての日本シリーズ最後の登板となった。大杉への1球について「ゴロを打たすつもりが、甘く入ったわ」と述べ、悔いはないとしている。 入団2年目で山田が急成長した1970年、足立は「そのうち20勝しよるぞ」と感じ、球速が出なくなった自分は「このままやと、メシが食えんぞ」と危機感を覚え、肩への負担を抑える目的で打たせて取るピッチングをするため、シンカーを磨いて復活した。 足立の回想では1975年のシーズン中、ストレート中心のピッチングに限界を感じ始めた山田久志に、シンカーの投げ方の教えを請われたが、足立は「覚えんでええ」と断った。これは「直球で勝負できる時期は、それを生かした投球をするものである」という自身の経験によるものだったが、後に「自分より若い山田がシンカーを覚えたら大変な脅威になると感じた。チームに同じタイプの投手は2人いらないですからね」と正直な気持ちも吐露している。 後にシンカーの投げ方を教えたものの、これも手取り足取りの指導ではなく、「俺はこう握るが、投げ方は人それぞれ違う。後は自分で考えろ」とヒントを与えたに留めている。また、山田自身はシンカーの習得に必死になっていた頃であったため、後年に「最初から教われば『ああ、こういうものか』で終わったかもしれない。自分で苦心していた時期だったのですごく参考になった」と語っている。 同じアンダースローで球の速い山田が投げると打者の目が慣れて自分の緩い球が通用しにくいため、山田の投げた後に登板することを極端に嫌っていた。 各年度の太字はリーグ最高 最優秀防御率:1回 (1967年) 最優秀選手:1回 (1967年) ベストナイン:1回 (1967年) ダイヤモンドグラブ賞:4回 (1972年、1974年 - 1976年) 日本シリーズ敢闘賞:3回 (1967年、1972年、1978年)※史上最多 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1969年) 日本シリーズ最優秀投手賞:2回 (1976年、1977年) パ・リーグプレーオフ技能賞:1回 (1975年) パ・リーグプレーオフ優秀投手賞:1回 (1977年) 初登板・初勝利:1959年4月10日、対東映フライヤーズ1回戦(駒澤野球場) 初本塁打:1964年3月15日、対西鉄ライオンズ2回戦(平和台球場)、若生忠男から(通算で唯一) オールスターゲーム出場:6回 (1964年、1966年、1967年、1971年、1972年、1976年) 16 (1959年 - 1980年) 71 (1981年 - 1985年) ^ シーズン最後の登板の前は山田より防御率は上回っていたが、コーチから「あと1つで20勝」と言われて投げた試合で痛打され、逆転された。 ^ “プロ野球20世紀の男たち 足立光宏&山田久志「阪急黄金時代に輝いた2人のサブマリン」”. 週刊ベースボールONLINE (2019年9月4日). 2022年10月30日閲覧。 ^ 『丹波氷上郡佐治庄地頭足立氏系図』 ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 71–72. ^ Number(編) 1986, p. 60. ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 73–74. ^ Number(編) 1986, p. 61. ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 75–76. ^ Number(編) 1986, p. 62. ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 78–79. ^ Number(編) 1986, p. 64. ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 80–81. ^ “【オリックス】山本由伸、球団新記録18連勝 7回2失点の粘投で3勝目 昨年5月から負けなし”. 日刊スポーツ. (2022年4月9日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202204090000713.html 2022年4月10日閲覧。 ^ “【オリックス】山本由伸、球団新記録18連勝 オール先発白星は楽天田中将大に次ぐ2人目”. 日刊スポーツ. (2022年4月10日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202204100000097.html 2022年4月10日閲覧。 ^ “【帰ってきた!ダンカンが訪ねる 昭和の侍】足立光宏さん、日本球界“最後”の男 (1/3ページ)”. サンケイスポーツ. (2018年12月1日). https://www.sanspo.com/article/20181201-GPVTCB3ORNOHFGNGW4TSW2AGRU/ 2022年10月30日閲覧。 ^ 『阪急ブレーブス 黄金の歴史 1936→1988 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社〈B.B.mook〉、2011年、 ^ 週刊ベースボール 2023年11月6日号『あの日、あのとき、あの場所で』(59頁) ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 89–90. ^ 近藤唯之 1986, p. 53. ^ 近藤唯之 1986, p. 56. ^ SportsClick:しゅりんぷ池田のひとくちコラム! ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 92. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 93. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 91. ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 86–88. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 90. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 83. ^ Number(編) 1989, p. 67. ^ Number(編) 1989, p. 70. Sports Graphic Number 編『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1986年10月1日。 Sports Graphic Number 編『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1989年9月1日。 近藤唯之『引退 そのドラマ』新潮社〈新潮文庫〉、1986年。 読売新聞阪神支局『阪急ブレーブス 勇者たちの記憶』中央公論新社、2019年9月10日。ISBN 978-4-12-005232-3。 大阪府出身の人物一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 個人年度別成績 足立光宏 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 稲尾和久 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 秋山登 1961 堀本律雄 1962 安藤元博 1963 高橋明 1964 J.スタンカ 1965 宮田征典 1966 城之内邦雄 1967 城之内邦雄 1968 金田正一 1969 高橋一三 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 村田兆治 1975 山田久志 1976 足立光宏 1977 足立光宏 1978 松岡弘 1979 山根和夫 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 山本一人 1952 柚木進 1953 岡本伊三美 1954 大下弘 1955 飯田徳治 1956 中西太 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 山内和弘 1961 野村克也 1962 張本勲 1963 野村克也 1964 J.スタンカ 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 足立光宏 1968 米田哲也 1969 長池徳二 1970 木樽正明 1971 長池徳二 1972 福本豊 1973 野村克也 1974 金田留広 1975 加藤秀司 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 C.マニエル 1980 木田勇 1981 江夏豊 1982 落合博満 1983 東尾修 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 石毛宏典 1987 東尾修 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 西口文也 1998 松井稼頭央 1999 工藤公康 2000 松中信彦 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 城島健司 2004 松中信彦 2005 杉内俊哉 2006 小笠原道大 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 内川聖一 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 柳田悠岐 2016 大谷翔平 2017 D.サファテ 2018 山川穂高 2019 森友哉 2020 柳田悠岐 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 柚木進 1952 柚木進 1953 川崎徳次 1954 宅和本司 1955 中川隆 1956 稲尾和久 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保田治 1963 久保征弘 1964 妻島芳郎 1965 三浦清弘 1966 稲尾和久 1967 足立光宏 1968 皆川睦男 1969 木樽正明 1970 佐藤道郎 1971 山田久志 1972 清俊彦 1973 米田哲也 1974 佐藤道郎 1975 村田兆治 1976 村田兆治 1977 山田久志 1978 鈴木啓示 1979 山口哲治 1980 木田勇 1981 岡部憲章 1982 高橋里志 1983 東尾修 1984 今井雄太郎 1985 工藤公康 1986 佐藤義則 1987 工藤公康 1988 河野博文 1989 村田兆治 1990 野茂英雄 1991 渡辺智男 1992 赤堀元之 1993 工藤公康 1994 新谷博 1995 伊良部秀輝 1996 伊良部秀輝 1997 小宮山悟 1998 金村暁 1999 工藤公康 2000 戎信行 2001 N.ミンチー 2002 金田政彦 2003 斉藤和巳, 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 ダルビッシュ有 2011 田中将大 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平 2016 石川歩 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 山本由伸 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 L.モイネロ 表 話 編 歴 投 足立光宏 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 D.ブレイザー 三 森本潔 遊 大下剛史 外 張本勲 / 土井正博 / 長池徳二 表 話 編 歴 1972 足立光宏 1973 成田文男 1974 足立光宏 1975 足立光宏 1976 足立光宏 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 東尾修 1984 東尾修 1985 東尾修 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 西崎幸広 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 郭泰源 1992 郭泰源 1993 野田浩司 1994 工藤公康 1995 工藤公康 1996 西崎幸広 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 西口文也 2003 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 松坂大輔 2006 松坂大輔 2007 ダルビッシュ有 2008 ダルビッシュ有 2009 涌井秀章 2010 涌井秀章 2011 田中将大 2012 田中将大 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 涌井秀章 2016 涌井秀章 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 L.モイネロ 表 話 編 歴 1950 若林忠志 1951 江藤正 1952 大神武俊 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 柚木進 1956 川崎徳次 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 中西勝己 1961 J.スタンカ 1962 土橋正幸 1963 稲尾和久 1964 J.スタンカ 1965 杉浦忠 1966 渡辺泰輔 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 石井茂雄 1970 木樽正明 1971 足立光宏 1972 山田久志 1973 江本孟紀 1974 金田留広 1975 足立光宏 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 井本隆 1980 井本隆 1981 高橋一三 1982 松沼博久 1983 松沼博久 1984 山田久志 1985 松沼博久 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 渡辺久信 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 工藤公康 1992 渡辺久信 1993 工藤公康 1994 渡辺久信 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 若田部健一 2001 J.パウエル 2002 松坂大輔 2003 斉藤和巳 2004 石井貴 2005 清水直行 2006 ダルビッシュ有 2007 ダルビッシュ有 2008 涌井秀章 2009 武田勝 2010 成瀬善久 2011 和田毅 2012 吉川光夫 2013 則本昂大 2014 J.スタンリッジ 2015 武田翔太 2016 大谷翔平 2017 千賀滉大 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平 表 話 編 歴 1936春夏 宮武三郎 1936秋 北井正雄 1937春 石田光彦 1937秋 石田光彦 1938春 宮武三郎 1938秋 小田野柏 1939 浅野勝三郎 1940 重松通雄 1941 浅野勝三郎 1942 橋本正吾 1943 天保義夫 1944 笠松実 1946 天保義夫 1947 天保義夫 1948 天保義夫 1949 今西錬太郎 1950 天保義夫 1951 天保義夫 1952 天保義夫 1953 柴田英治 1954 梶本隆夫 1955 柴田英治 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 梶本隆夫 1959 米田哲也 1960 梶本隆夫 1961 米田哲也 1962 石井茂雄 1963 梶本隆夫 1964 米田哲也 1965 足立光宏 1966 石井茂雄 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 米田哲也 1970 米田哲也 1971 米田哲也 1972 足立光宏 1973 足立光宏 1974 竹村一義 1975 山田久志 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 山田久志 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 山田久志 1984 山田久志 1985 山田久志 1986 山田久志 1987 佐藤義則 1988 佐藤義則 1989 佐藤義則 1990 星野伸之 1991 佐藤義則 1992 星野伸之 1993 星野伸之 1994 星野伸之 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 星野伸之 1998 星野伸之 1999 小林宏 2000 小林宏 2001 金田政彦 2002 E.ヤーナル 2003 吉井理人 2004 具臺晟 2005 川越英隆 2006 川越英隆 2007 川越英隆 2008 金子千尋 2009 小松聖 2010 金子千尋 2011 木佐貫洋 2012 A.フィガロ 2013 金子千尋 2014 金子千尋 2015 B.ディクソン 2016 金子千尋 2017 金子千尋 2018 西勇輝 2019 山岡泰輔 2020 山岡泰輔 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山下舜平大 2024 宮城大弥 日本の野球選手 大丸硬式野球部及びその前身チームの選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 最優秀防御率 (NPB) 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 大学野球指導者 大阪府出身のスポーツ選手 1940年生 存命人物 出典のページ番号が要望されている記事 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/25 15:55更新
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adachi mitsuhiro
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