末次利光の情報(すえつぐとしみつ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
末次 利光さんについて調べます
■名前・氏名 |
末次利光と関係のある人
藤井栄治: 長嶋茂雄・王貞治・末次利光の次を任され、トム・シーバーから3打数2安打を記録してチームの勝利と日本の6勝目に貢献。 松谷竜二郎: 同年をもって戦力外通告を受け、2週間の入院後に巨人の2軍監督だった末次利光の紹介で台湾プロ野球の入団テストを受けたが不合格となり、翌年2月に現役引退を決めた。 庄司智久: プロ入り4年目の1975年に代走要員として54試合に出場するも、当時はV9(1965年~1973年)メンバーの柴田勲・高田繁・末次利光がレギュラーとして絶頂期を迎えており、レギュラーはおろか一軍のベンチに定着することも出来ず、二軍生活が続いた。 松谷竜二郎: 引退後は巨人入団時の監督である藤田元司とコーチの末次利光の斡旋で建設会社に入社したが経営が不振に陥り、同業他社に転職した。 浅見源司郎: 1971年の日本シリーズ巨人対阪急第4戦(足立光宏から末次利光が満塁弾を放ちV7に王手をかけた試合)。 小谷正勝: もっとも、巨人二軍投手コーチ時代の2005年には、末次利光スカウト部長(当時)からの依頼で入団テストを視察。 中畑清: 1983年、打撃コーチの末次利光が、最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。 平光清: 1976年6月8日、巨人対阪神タイガース戦(後楽園球場) ― 巨人・末次利光が逆転満塁サヨナラ本塁打を打った試合 高倉照幸: 同年10月10日の広島戦(後楽園)で通算1500本安打を達成し、さらにこの試合において巨人は2回から7回にかけて高倉と堀内恒夫、瀧安治、末次利光と合わせて日本プロ野球記録となる6イニング連続本塁打を記録しているが、新記録は7回に高倉が打ったこの日2本目の本塁打によって達成されている。 村山実: 1973年3月21日に行われた巨人戦(オープン戦、甲子園)で引退試合が行われ、7回に登板してから高田繁・末次利光・王貞治からフォークボールで三振を奪い、有終の美を飾る。 江藤省三: ^ 太平洋戦争後の混乱期であったためと思われるが、本来の学齢より1年遅れ(同例として、1学年上の末次利光や武上四郎など)。 ウィリー=カークランド: これを見た巨人の柴田勲・末次利光が甲子園球場で真似をしたところ、逆に阪神ファンを刺激する結果となり、空き缶や中身の入った一升瓶を投げつけられた。 淡口憲治: その結果、同年は柳田俊郎、末次利光との右翼手のレギュラー争いが激化し、65試合に先発出場するものの出場機会は減少。 川上哲治: この間、城之内邦雄や中村稔、宮田征典、渡辺秀武、黒江透修の台頭や、新人選手で堀内恒夫、土井正三、末次利光、高橋一三、高田繁、関本四十四、倉田誠らの若手が主力選手として支え、加えて、B級10年選手制度で金田正一を獲得したのを始めとして、トレードで関根潤三、田中久寿男、高倉照幸、森永勝也、柳田利夫、広野功、富田勝、高橋善正ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。 山本和行: 1976年6月8日の巨人戦、2-0でリードしていながら9回裏に疲れの見えた江本孟紀をリリーフ、王貞治との勝負を避けて四球にして満塁のピンチを迎え、末次利光に逆転満塁サヨナラホームランを浴びた。 柳田真宏: 1977年、オープン戦前の練習で打った打球が同僚の末次利光の左目に当たり、末次はその後遺症で視界が狭くなってしまい、同年のシーズン終了後に現役を引退した。 山口高志: 高めのストレートに限って言えば山口だったよ」と評し、末次利光は「私がプロで対戦した中では一番速い。 村上義則: 同年10月14日には読売ジャイアンツを相手に初先発を果たすが、6回に末次利光に逆転2点本塁打を喫し、敗戦投手となる。 |
末次利光の情報まとめ
末次 利光(すえつぐ としみつ)さんの誕生日は1942年3月2日です。熊本出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。末次利光の現在の年齢は82歳のようです。
末次利光のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 末次 利光(すえつぐ としみつ、1942年3月2日 - )は、熊本県人吉市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。 旧名は民夫(たみお、1974年に改名)。 鎮西高校では2年次の1959年に投手から野手に転向。6番打者、右翼手として夏の甲子園に出場するが、1回戦で川越高に敗退。チームメイトに布田敏雄(大洋)がいた。3年次の1960年夏も中九州大会県予選準決勝に進出するが、熊本工に敗れ、甲子園には届かなかった。 卒業後は1961年に中央大学へ進学し、2年次の1962年からレギュラーとなる。東都大学野球リーグでは3年次の1963年秋季リーグ、4年次の1964年秋季リーグと2度の優勝を経験する。1回目の優勝時のエースは三浦宏(北海道拓殖銀行)、2回目の優勝時のエースは後にプロでチームメイトとなる2年下の高橋善正であった。1964年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に3番打者、左翼手として出場している。首位打者を2回、ベストナイン(外野手)を4回獲得。リーグ通算76試合出場、287打数87安打、打率.303、10本塁打、39打点。大学同期に武上四郎がいる。 1964年11月20日に読売ジャイアンツへ入団し、1年目の1965年は4月16日の中日戦(中日)9回表に関根潤三の代走で初出場。5月25日サンケイ戦(神宮)では町田行彦に代わって途中出場し、7回表に佐藤進から初安打を放つ。同27日には8番打者、左翼手として初先発出場を果たすが、無安打に終わる。2年目の1966年から一軍に定着し、5月7日のサンケイ戦(後楽園)1回裏に佐藤から左前適時打を放って初打点。6月26日の広島戦(広島市民)8回表に大羽進から左越ソロを放って初本塁打を記録。同年は47試合に外野手として先発出場を果たす。外野手層の厚い巨人では準レギュラーが長かったが、1969年には開幕から右翼手の定位置を獲得し、1970年には初の規定打席(25位、打率.249)に達する。1971年には故障もあって出場機会が減少したが、自身初の3割越えとなる打率.311を記録。同年の阪急との日本シリーズでは、10月16日の第4戦(後楽園)で足立光宏から満塁本塁打を放つなど19打数7安打7打点と活躍、日本シリーズMVPと打撃賞を獲得。末次は阪急投手陣がインコースを攻めてくるのを感じ、シリーズの10日前くらいから山内一弘二軍打撃コーチと徹底してインコース打ちを練習していた。1972年は打率.283でリーグ9位に入り、自己最高の21本塁打を記録。同年から1976年まで5年連続でオールスターに出場する。同年の阪急との日本シリーズでは第1戦で山田久志から2本塁打、19打数7安打7打点の好成績で技能賞を獲得。川上哲治監督率いるV9時代に長嶋茂雄・王貞治のON砲に5番打者としてクリーンナップを形成したが、同郷の川上からは真夏の多摩川グラウンドで付きっきりで1時間以上打たされるなど厳しくされた。荒川博コーチの門下生としては榎本喜八、王、黒江透修の次の4番目に当たり、日本刀を振るなど、かなり鍛えられた。1973年の南海との日本シリーズでは21打数8安打3打点で2度目の打撃賞を獲得。1974年にはリーグ4位の打率.316を残し、ベストナインにも選ばれている。1975年5月6日のヤクルト戦(神宮)では5番・右翼手で先発し、通算1000試合出場を達成。1976年には4月15日の阪神戦(甲子園)5回表に上田二朗からソロを放って100本塁打を達成し、6月8日の阪神戦(後楽園)では山本和行から劇的な逆転満塁サヨナラ本塁打を放った。山本の武器はフォークであったが、強気の性格を読み、2-0からストレートを見事に振り抜き、4-2で巨人の勝利になった。9月7日の阪神戦(甲子園)では満塁で大落球をしてしまい、阪神に8-6から9-8の逆転勝利されるきっかけを作ってしまうが、この時は二塁手がデーブ・ジョンソンで意思疎通が出来ておらず、グラブの土手ではじいてしまった。1977年3月20日オープン戦前の練習で同僚の柳田真宏の打球を左目に直撃し、眼底出血に網膜剥離で全治2ヶ月となった。退院後、北海道でリハビリし、10月8日の大洋戦(後楽園)で復帰した後、後遺症で視界が狭く遠近感が全然ダメになってしまい、同年のシーズン終了後に現役を引退。柳田は末次に対してその場で謝罪しているほか、2018年の週刊現代に掲載された対談でも柳田は改めて釈明した。 引退後も巨人一筋で、二軍打撃コーチ(1978年 - 1980年, 1987年 - 1991年)、一軍打撃コーチ(1981年 - 1986年)、二軍監督(1992年 - 1994年)を歴任。巨人に在籍していた「アジアの大砲」こと呂明賜は、「末次さんの教え方は最高にうまい」と語っている。 1995年に現場を離れてフロント入りし、スカウト部長を務めた。スカウト時代には阿部慎之助、木佐貫洋、亀井義行など後の主力級の選手の獲得に貢献している。2005年限りで部長職を退任し、2006年からはスカウト部シニアアドバイザーの役職に付く傍ら、巨人軍主催の少年野球セミナー「ジャイアンツアカデミー」の校長を務めた。2008年より母校・中大野球部のOB会会長、2009年4月からはジャイアンツアカデミーのフランチャイズスクール「ジャイアンツメソッド宮崎ベースボールスクール」の名誉校長に就任。 末次は無骨な性格で表情が少なく、華やかなスターが揃っていた当時の巨人軍の中にあっては極めて異色の目立たない存在であった。そのため、逆転満塁サヨナラ本塁打を放った際の翌9日の読売新聞朝刊スポーツ欄には、末次でなく、破顔一笑の表情で末次を出迎える長嶋監督を写した写真が掲載されていたほどであった。ただ、同球団の歴史では特筆されている。 巨人のヘッドコーチであった牧野茂は、当時の末次について『川上監督と同じ「肥後もっこす」だ。ニヤリとしか笑わないが、あれでも末次にしては努力している』と評している。 少年時代の今上天皇は末次のファンで、1971年の日本シリーズ第4戦を後楽園で観戦した際の新聞報道には学校の野球チームでも背番号38を付けていたとの記述がある。この試合で末次が満塁本塁打を放つと飛び上がって喜んだという。 芙美子夫人は、大学時代の恩師にあたる中央大学総監督・宮井勝成の娘である。 各年度の太字はリーグ最高 ベストナイン:1回 (1974年) 日本シリーズMVP:1回 (1971年) 日本シリーズ打撃賞:2回 (1971年、1973年) 日本シリーズ技能賞:1回 (1972年) 初出場:1965年4月16日、対中日ドラゴンズ4回戦(中日スタヂアム)、9回表に関根潤三の代走で出場 初安打:1965年5月25日、対サンケイスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、7回表に佐藤進から 初先発出場:1965年5月26日、対サンケイスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、8番・左翼手で先発出場 初打点:1966年5月7日、対サンケイアトムズ4回戦(後楽園球場)、1回裏に佐藤進から左前適時打 初本塁打:1966年6月26日、対広島カープ13回戦(広島市民球場)、8回表に大羽進から左越ソロ 1000試合出場:1975年5月6日、対ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、5番・右翼手で先発出場 ※史上180人目 100本塁打:1976年4月15日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回表に上田二朗からソロ ※史上86人目 オールスターゲーム出場:5回 (1972年 - 1976年) 38 (1965年 - 1977年) 81 (1978年 - 1994年) 末次 民夫 (すえつぐ たみお、1965年 - 1973年) 末次 利光 (すえつぐ としみつ、1974年 - 1994年) ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 【帰ってきた!ダンカンが訪ねる 昭和の侍】末次利光さん - サンスポ ^ “「水晶体にボールの縫い目」巨人V9支えた「最強5番」左目打球直撃で引退…「今もほとんど見えていない」”. スポーツ報知 (2024年6月19日). 2024年6月19日閲覧。 ^ 週刊現代 2018年12月15日号『熱討スタジアム』「巨人・末次利光の悲劇を語ろう」に柳田と末次がその思い出話を語っている。 ^ 末次利光さん、76年伝統の一戦で天国と地獄 ^ 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 ^ “集え!ジャイアンツおやG 末次さんが「逆転満塁サヨナラ本塁打」秘話”. 読売ジャイアンツ Web Site (2006年8月18日). 2009年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月6日閲覧。 ^ 岩川隆『ザ・巨人軍』徳間文庫、1983年8月、頁。ISBN 4-19-597510-7。 ^ 「浩宮さまは背番号38」朝日新聞1971年10月17日23頁 ^ “【この球団の学閥事情】巨人の巻 原監督が東海大閥を形成”. ゲンダイネット. 日刊現代 (2006年9月25日). 2007年11月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月6日閲覧。 熊本県出身の人物一覧 中央大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 個人年度別成績 末次利光 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 表 話 編 歴 1952 与那嶺要 1953 川上哲治 1954 日比野武 1955 飯田徳治 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 豊田泰光 1959 寺田陽介 1960 金光秀憲 1961 宮本敏雄 1962 吉田義男 1963 城戸則文 1964 山内一弘 1965 森昌彦 1966 柴田勲 1967 森本潔 1968 D.スペンサー 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 王貞治 1973 末次民夫 1974 有藤通世 1975 大橋穣 1976 福本豊, 柴田勲 1977 張本勲 1978 島谷金二 1979 高橋慶彦 表 話 編 歴 1953 与那嶺要 1954 本多逸郎 1955 木塚忠助 1956 関口清治 1957 和田博実 1958 川上哲治 1959 岡本伊三美 1960 鈴木武 1961 中村稔 1962 張本勲 1963 広岡達朗 1964 小池兼司 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 高倉照幸 1968 王貞治 1969 高田繁 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 末次民夫 1973 王貞治 1974 有藤通世 1975 福本豊 1976 B.マルカーノ 1977 大熊忠義 1978 D.ヒルトン 1979 三村敏之 表 話 編 歴 投 堀内恒夫 捕 田淵幸一 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 G.マーチン / 末次利光 / 若松勉 日本の野球選手 鎮西高等学校出身の野球選手 中央大学硬式野球部の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 熊本県出身の人物 1942年生 存命人物 出典のページ番号が要望されている記事 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/10/29 13:48更新
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suetsugu toshimitsu
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