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山本 和行さんについて調べます
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山本和行と関係のある人
チャーリー=マニエル: 初打点:1976年4月10日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、1回表に山本和行から先制適時二塁打 中尾孝義: 初本塁打:1981年4月21日、対阪神タイガース3回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に山本和行から逆転決勝2ラン 山本浩二: 1981年、6月23日の対阪神戦(阪神甲子園球場)では6回に山本和行から満塁本塁打を放った。 王貞治: 9月11日宮本洋二郎から雨中の34号ソロ(後楽園、通算520号)でストリークを開始して、13日先発上田次朗のスライダーを打って35号ソロおよび江夏の直球を打って36号ソロ(後楽園)、14日谷村智啓から雨中の37号2ラン(後楽園)、17日のダブルヘッダーでは第1試合に渋谷幸春から38号ソロ、第2試合に稲葉光雄から39号ソロと土屋紘から40号2ランで、この2試合は6打数4安打4四球(後楽園)、19日はルーキー山本和行のフルカウントでの6球目のシュートを41号2ラン(甲子園)、20日は村山実の4球目の真ん中高めのフォークを42号ソロ(甲子園)。 末次利光: 1976年には4月15日の阪神戦(甲子園)5回表に上田二朗からソロを放って100本塁打を達成し、6月8日の阪神戦(後楽園)では山本和行から劇的な逆転満塁サヨナラ本塁打を放った。 安藤統男: 5月に入ると、先発の山本和行を呼んで意図を話し、再び救援に転向させた。 猪俣隆: その後、山本和行の背番号25を受け継ぎ、先発に中継ぎにと様々な形で登板したものの、1993年シーズンに唯一の2桁勝利となる11勝(12敗)を挙げたのをピークに以後は相次ぐ故障などで低迷。 杉山重雄: 同じ年齢の左腕投手である亜大の山本和行とは格好のライバルであり、リーグ戦で何度も投げ合っている。 門田博光: 穴吹義雄監督も門田と山本和行のトレードを阪神に打診したが、安藤統男監督が断ったので話が流れている。 石井昭男: 初本塁打:1980年5月3日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、3回表に山本和行からソロ 島貫省一: 初打席・初安打・初打点:同上、1回裏に山本和行から2点適時打 王貞治: 翌10月11日は8回裏第5打席にフルカウントで山本和行が投じた高めのボール球のシュートを捉え、右翼ポールの金網を直撃する「最短距離で経済的」かつファウルにならずに「儲けた」715号2点本塁打(シーズン48号)を放ち(球審:丸山博)、一気にルースを抜いた。 矢野祐弘: 山本和行投手を擁し1971年春に東都大学野球リーグで亜大3回目の優勝を果たすと、全日本大学野球選手権大会で法政大学を破り亜大を全国大会初優勝に導いた。監督・総監督の時を通じて、大橋穣、山本和行投手、古屋英夫、大石大二郎、宮本賢治投手、古川慎一、阿波野秀幸投手、佐藤和弘、与田剛投手、小池秀郎・高津臣吾・川尻哲郎ら1990年の亜大3枚看板投手を育てた。 畑野実: 同年の明治神宮野球大会でもエース山本和行を擁する亜大を降し初優勝。 丸山博: 歴史的な試合にも立会い、1976年10月11日、読売ジャイアンツ対阪神タイガース第23回戦(後楽園球場)にて王貞治(巨人軍)が山本和行(阪神)から8回裏、ベーブ・ルースの通算714本塁打を抜く通算715号本塁打を打ったゲームの球審を務めていた。 三村敏之: 1966年には遊撃手として、2年生エース山本和行を擁し夏の甲子園県予選決勝に進出。 村田兆治: 当時の広島県には、山本和行を擁する広島商、大田垣耕造のいた尾道商、1967年に夏の甲子園準優勝を果たした広陵高など強豪がひしめいており、厳しい競争が続いた。 中村勝広: 1972年はオープン戦で活躍し、ドラフト1位の山本和行、3位の望月充の活躍と合わせて「久々のルーキー豊作年」といわれた。 河西俊雄: 1962年に一年のみコーチを務めるが、その後はまたスカウトで、藤田平・江夏豊・山本和行・掛布雅之といった大物選手の担当を務めた。 藤川球児: 4月13日、東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。 藤江清志: 弱体投手陣と言われていた状況下で小林繁・江本孟紀・山本和行の3人を軸に、工藤一彦・伊藤文隆・大町定夫・福間納・中田良弘・藤原仁を育てた。 吉田義男: 一方、江夏が抜けた投手陣は交換で獲得した江本孟紀を先発に据えると共に、山本和行と安仁屋宗八の2人を「ダブルストッパー」として抑えに起用した。 衣笠祥雄: 450本塁打:同上、8回表に山本和行から左越ソロ ※史上8人目 山本浩二: 星野は対戦打率.351、10本塁打、江川は対戦打率.346、14本塁打、牛島はフォークを武器にしていたが山本は「グラブの開き方で分かった」と対戦成績は41打席で12安打、2本塁打、打率.364、上田二朗は対戦打率.324、10本塁打、山本和行は対戦打率.359、11本塁打、西本聖は対戦打率.342、10本塁打と得意としている。 皆川睦雄: 在任中は山本和行をリリーフエースに、池内豊を中継ぎエースにそれぞれ配置転換して投手陣を整備したが、米田哲也とは相性が悪かった。 伊原春樹: 福山工との準決勝で本塁打を放ち決勝に進出するが、広島商の山本和行に完封を喫し、甲子園出場を逸する。 柳原隆弘: 初出場:1978年4月4日、対阪神タイガース1回戦(明治神宮野球場)、5回裏に梶間健一の代打として出場、山本和行の前に凡退 中井康之: 初打席・初安打・初本塁打・初打点:1979年4月11日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回表に小俣進の代打で出場、山本和行からソロ ※史上13人目の初打席初本塁打 福島知春: 4月19日の阪神戦(甲子園)で8回表に伊藤弘利から単打を放ち初安打、5月6日の阪神戦(後楽園)で5回裏に伊藤から初打点、同28日の阪神戦(甲子園)で7回表に山本和行からソロ本塁打を放ち初本塁打を記録。 鹿取義隆: 他チームのクローザーでは、津田恒実や山本和行、江夏豊のような味方に安心感を与える投手に感心したという。 |
山本和行の情報まとめ
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山本 和行(やまもと かずゆき)さんの誕生日は1949年6月30日です。広島出身の野球選手のようです。
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選手としての特徴、メジャーリーグへの挑戦などについてまとめました。引退、テレビ、事件に関する情報もありますね。山本和行の現在の年齢は74歳のようです。
山本和行のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山本 和行(やまもと かずゆき、1949年6月30日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 広島商業高校では1966年夏、2年生の時にエースとして夏の甲子園県予選決勝に進出。伊原春樹のいた北川工を完封し、第48回全国高等学校野球選手権大会に出場。しかし1回戦で桐生高の前野和博(芝工大-東芝)に抑えられ1-3で敗退する。1年上のチームメートに三村敏之遊撃手(後に広島東洋カープ監督)がいた。翌1967年夏も、県予選決勝で広陵高の宇根洋介(近大-電電中国)と投げ合うが惜敗、甲子園出場を逃した。広陵高は甲子園で準優勝。宇根は1年下だが、県内では福山電波工(現近大広島高福山校)の村田長次(兆治)、尾道商の大田垣耕造(シドニー五輪日本代表監督)両投手らが同学年で鎬を削っていた。 進学した亜細亜大学でも2年からエースとなる。東都大学野球リーグでは1971年春季リーグで4年振りに優勝。中大の高橋善正が持つ1季9勝のリーグ記録に並び、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれた。同年の第20回全日本大学野球選手権大会では決勝で法大の横山晴久に投げ勝ち、亜大を初の日本一に導く。同年の第2回明治神宮野球大会では中沢邦男、畑野実らのいた日大に敗れ準優勝。リーグ通算63試合登板、33勝26敗、防御率1.83、351奪三振。 広島県出身の山本は広島入団を切望していたが、同年のドラフト1位で阪神タイガースに入団(後に監督となる中村勝広は2位、望月充が3位)。契約金1000万円、年俸180万円。当時の阪神は江夏豊、村山実、上田次朗、権藤正利ら一流投手が揃った投手王国時代で、山本は「カープじゃないのか」と思ったのと同時に「これは大変なところに行くことになった」と不安になったと述懐している。独自に研究していたフォークボールを武器に1年目から先発として起用される。 1974年は32試合に登板、6勝を記録した。 1975年3月21日のオープン戦(対近鉄戦)で先発し好投。一方その対戦相手・鈴木啓示は4回4失点でマウンドを下り、西本幸雄監督から「少しは向こうのピッチャーを見習え!」と叱責された。1975年から主にリリーフとして起用されるようになる。 1976年には6勝3敗18セーブ、防御率2.92という好成績を残した。1976年6月8日の巨人戦、2-0でリードしていながら9回裏に疲れの見えた江本孟紀をリリーフ、王貞治との勝負を避けて四球にして満塁のピンチを迎え、末次利光に逆転満塁サヨナラホームランを浴びた。この試合では「なぜ(右打者の末次対策として、ダブルストッパーのもう一人だった右投手の)安仁屋宗八に替えなかったのか?」と吉田義男監督の采配を疑問視する声もあった。同年10月11日の巨人戦では、王貞治にベーブ・ルースの記録を抜く通算715号本塁打を喫している。 1977年にはリーグ最多の58試合に登板し9勝5敗9セーブ、初めて規定投球回にも達し防御率3.71(リーグ7位)を記録。同年は新浦寿夫、鈴木孝政と並びリーグ最多セーブ投手となる。 1978年から先発投手に転向。 1980年には15勝11敗2セーブを残した。 1982年は、監督に就任した安藤統夫の方針で、再びリリーフに転向し、リリーフながら15勝(8敗)をマーク、また26セーブ、40セーブポイントで最優秀救援投手のタイトルを獲得する。同年は防御率2.41(自己最高のリーグ3位)も記録した。 1984年には10勝24セーブ、34セーブポイントで再び最優秀救援投手に輝き、セ・リーグを代表する抑え投手として君臨した。この1984年オフにメジャー移籍の話が持ち上がったが、阪神球団からの許可が降りずに断念している。 1985年には中西清起とのダブルストッパーで5勝11セーブをあげ、21年ぶりのリーグ優勝の原動力となる。このシーズンには通算100勝と100セーブをともに巨人戦で記録した。しかし、9月4日にナゴヤ球場での中日戦の試合前練習中にアキレス腱を断裂し、シーズン終盤は出場できなかった。日本シリーズにも登板できなかったが、山本は日本シリーズ優勝決定後にチームメイトに胴上げされた。 1986年は11勝15セーブを挙げて復活。 1988年限りで引退。現役通算700試合登板は、2018年9月4日に藤川球児が更新するまで球団最多記録。先発でも抑えでも好成績を残した。 引退後は朝日放送・サンテレビ解説者(1989年 - 1991年)を経て、広島で二軍投手コーチ(1992年, 1995年)、一軍投手コーチ(1993年 - 1994年)を務めた。在任中は紀藤真琴を先発に転向させ、能力を一気に開花させた。退団後はテレビ大阪解説者(1996年 - 1998年)を経て、1999年からはNHK解説者を務めている。 選手としての特徴山本の決め球はフォークボールだった。フォークボールは人から投げ方を教わる場合が多いが、山本はあえて“フォークのスペシャリスト”として知られていた入団当時の村山実監督にも教えを請わず、自己流でフォークを開発。しかもグラブの中で握りを決めず、モーション途中の左腕を下げた時点で瞬時にフォークへ握り変えるという投球スタイルで直球とフォークボールを投げ分けた。 1979年6月2日、江川事件の末巨人に入団した江川卓の初登板試合では阪神の先発投手として完投勝利している。このとき、打者として打席に立った江川は、最初の打席で初球のストレートがあまり速くなかったことから「プロってこんなレベルか」と思ったところ、そのあと「打ちごろ」とみて振った投球がいずれも空振りとなって三振を喫した。江川はそれがフォークボールだったと気づき、「やばいぞ、プロはこんな高いレベルなのか」と考えを改めたとのちに語っている。 1983年5月5日の対巨人戦(後楽園球場)で、1点リードの9回二死一塁から原辰徳に逆転サヨナラ本塁打を浴びる。このとき、三塁手の掛布雅之は遊撃手の平田勝男と「ここは絶対にインコースはない」と話していたところにインコースのストレートを投げて被弾したことに驚き、試合後山本から「ストレートで抑えられる自信があった」と聞かされたことが強烈な印象として残っているという。 打撃については通算438打数81安打(.185)7本塁打39打点と、投手の中では傑出しているわけではないが、次のような記録を残している。 新人時代の1972年7月20日の対広島戦で猛打賞を記録。日本プロ野球での新人投手の猛打賞はこのあと、2010年に中澤雅人(ヤクルト)が達成するまで、38年間マークする者がいなかった。 1981年6月23日、対広島戦で満塁本塁打を放つ。これによりチーム3試合連続満塁本塁打の日本記録にも貢献している。しかしこの試合では本塁打を放った後、今度は山本浩二に満塁本塁打を浴びるという珍記録も残し、勝ち投手にはなれなかった。 メジャーリーグへの挑戦考え方が個人主義で"阪神の変わり者"といわれ、阪神がハワイでキャンプをやった時、メジャーリーグ関係者から「アメリカで野球をしないか」と誘われて以来、すっかりその気になってしまい、これが高じて1984年オフにメジャーリーグへの移籍を球団に訴え、ロサンゼルス・ドジャースに入団がほぼ決まりかけていた。事前に渡米し練習にも参加、年俸も住む家も背番号25も決まっていたが当時はFA制度はなく球団の保有権の問題もクリアできず断念した。 2024/06/25 22:42更新
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yamamoto kazuyuki
山本和行と同じ誕生日6月30日生まれ、同じ広島出身の人
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