横山晴久の情報(よこやまはるひさ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
横山 晴久さんについて調べます
■名前・氏名 |
横山晴久と関係のある人
長崎慶一: 東京六大学野球リーグでは1年上のエース横山晴久らを擁し、1年次の同年秋季から4季連続優勝を経験。 山本功児: 東京六大学野球リーグでは横山晴久ら強力投手陣を擁し、2年生までに3度の優勝を経験するがその後は優勝に届かなかった。 若生正広: 1年上に横山晴久、同期に池田信夫と好投手が揃い、あまり登板機会はなかった。 古賀正明: 法大には同期の横山晴久、一年下の池田信夫ら好投手がおり、公式戦の登板は2イニングのみに終わった。 上林成行: 当時の法大は山中正竹、横山晴久などの強力投手陣を擁し、出番も見込めなかった。 桑野議: エース横山晴久と投げ合うが、0-3で完封負けし甲子園出場を逸する。 山口高志: 法政大学は横山晴久と池田信夫の両投手が継投、対する関西大学は山口が一人で投げ抜き、最後は杉政忠雄の本塁打で3x-2とサヨナラ勝ちした。 奥宮種男: 小倉工の横山晴久に0-3の完封負けを喫し、甲子園出場を逸する。 深沢修一: 準々決勝に進むが小倉工のエース横山晴久に抑えられ敗退。 藤村雅美: 大学同期には横山晴久、古賀正明、中村裕二、依田優一らがいた。 山本和行: 同年の第20回全日本大学野球選手権大会では決勝で法大の横山晴久に投げ勝ち、亜大を初の日本一に導く。 平山英雄: 1回戦で小倉工と対戦、投の二本柱である横山晴久、斎藤英雄と投げ合うが、延長12回の末に1-3で敗退。 野口善男: 東京六大学野球リーグでは山中正竹、横山晴久、池田信夫ら好投手を擁し、1969年秋季リーグから3季連続優勝。 西村公一: 準々決勝で小倉工の横山晴久投手に抑えられ敗退。 小形利文: 小倉工業高では1966年、中堅手として、2年生エース横山晴久を擁し夏の甲子園に出場。 西本明和: 準決勝では横山晴久投手を擁する小倉工に苦戦するが1-0で完封勝ち。 伊達泰司: 東京六大学野球リーグでは、1年上のエース横山晴久らを擁し1969年秋季リーグから4季連続優勝を経験。 板東順司: 1回戦は森が修徳高を完封、しかし2回戦では小倉工の斎藤英雄、横山晴久らの継投に抑えられ惜敗。 |
横山晴久の情報まとめ
横山 晴久(よこやま はるひさ)さんの誕生日は1949年10月24日です。福岡出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。横山晴久の現在の年齢は75歳のようです。
横山晴久のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 横山 晴久(よこやま はるひさ、1949年10月24日 - )は、福岡県北九州市(旧・小倉市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小倉工業高校では1966年、2年生の時に、同期の左腕・斎藤英雄との二本柱で県予選を勝ち抜き、夏の甲子園に出場。まず平山英雄投手を擁した釧路江南高校、続いて鳴門高校、甲府工業高校と連破し準決勝に進むが、松山商業高校の西本明和の好投に屈し0-1で完封される。この大会では4試合登板、2先発、1完投勝利を記録した。同年秋の大分剛健国体にも出場。しかし1回戦で桐生高校の前野和博(芝工大-東芝)に抑えられ敗退。1年上のチームメイトに、中堅手の小形利文がいる。同年の秋季九州大会に進むが、1回戦で内田照文のいた熊本工に延長12回裏サヨナラ負けを喫する。 1967年夏も県予選決勝に進み、九州工業高校のエース・桑野議との投げ合いを完封で制し、夏の甲子園に出場。1回戦では海星高校を降す。2回戦では大分商業高校の河原明と互いに無失点で投げ合い、延長10回の熱戦の末、0-1で完封サヨナラ負けに終わった。8月末からは全日本高校選抜の一員としてハワイ・アメリカ西海岸遠征に参加した。1967年ドラフト会議では、南海ホークスに3位指名されるも入団を拒否。 高校卒業後は、法政大学に進学した。東京六大学野球リーグでは、1969年秋季リーグから4季連続優勝。また、1970年春季リーグから4季連続でベストナインに選ばれた。1年下の池田信夫投手とともに、法政の二本柱として活躍。1970年の全日本大学野球選手権大会準決勝では、山口高志を擁する関大と対決した。8回まで好投し池田に継投、今も選手権記録である延長20回まで進む。最後は孤軍奮闘の山口の前に2-3xでサヨナラ負けを喫したが、大学野球史に残る熱戦として知られる。1971年の全日本大学野球選手権大会では決勝で亜大の山本和行に抑えられ、準優勝にとどまった。 リーグ通算48試合登板、29勝6敗、防御率1.77、150奪三振。大学同期には古賀正明投手、中村裕二捕手、藤村正美三塁手、高岡茂夫遊撃手、依田優一、鈴木士郎(住友金属)両外野手など、好選手が揃っていた。 1971年秋のドラフト会議で、東映フライヤーズに1位指名され入団する。本格派右腕として実績も十分であり、主力投手として期待された。1年目の1972年は肩の故障で出遅れたが、8月11日には阪急を相手に初先発を果たす。同年は防御率2.25と好投を見せたが勝ち星にはつながらず、翌年以降は登板機会も減少した。しかし1975年には8先発を含む22試合に登板。4月20日にはロッテを相手に先発し、5回2/3まで無失点に抑えプロ初勝利をあげる。その後は結果を残せず、1976年には出場機会もなくなり、同年オフに実働僅か3年で引退した。引退後は、運輸会社に勤務した。 重い速球とシュートを得意球としたが、四球が多く、大きなフォームでランナーに走られやすいという欠点があった。カーブやパームボールも武器とした。 東映(東映フライヤーズ)は、1973年より日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年より日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更 初登板:1972年6月28日、対阪急ブレーブス12回戦(阪急西宮球場)、8回裏から5番手で救援登板・完了、1回無失点 初先発登板:1972年8月11日、対阪急ブレーブス14回戦(明治神宮野球場)、3回0/3を2失点で勝敗つかず 初勝利・初先発勝利:1975年4月20日、対ロッテオリオンズ前期6回戦(川崎球場)、5回2/3無失点 22(1972年 - 1973年) 32(1974年 - 1976年) ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 福岡県出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 個人年度別成績 横山晴久 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:横山晴久 2位:保坂英二 3位:平井信司(入団拒否) 4位:宇田東植 5位:内正英(入団拒否) 6位:鎌野裕 7位:千藤三樹夫 8位:山下茂之(入団拒否) 9位:野村茂(入団拒否) 表 話 編 歴 1位:藤原真(入団拒否) 2位:西岡三四郎 3位:横山晴久(入団拒否) 4位:高橋里志 5位:高畠導宏 6位:上林成行(入団拒否) 7位:矢部祐一(入団拒否) 8位:宮島義人(入団拒否) 9位:坂英男 10位:加藤秀司(入団拒否) 11位:青山常夫(入団拒否) 12位:鶴岡泰(入団拒否) 13位:山口和雄 14位:松室武 15位:村井英司(入団拒否) 16位:高瀬逸夫(入団拒否) 日本の野球選手 福岡県立小倉工業高等学校出身の野球選手 法政大学野球部の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 北九州市出身の人物 1949年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/19 23:07更新
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