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藤川球児の情報 (ふじかわきゅうじ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

藤川球児の情報(ふじかわきゅうじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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藤川 球児さんについて調べます

■名前・氏名
藤川 球児
(読み:ふじかわ きゅうじ)
■職業
野球選手
■藤川球児の誕生日・生年月日
1980年7月21日 (年齢43歳)
申年(さる年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
高知出身

(昭和55年)1980年生まれの人の年齢早見表

藤川球児と同じ1980年生まれの有名人・芸能人

藤川球児と同じ7月21日生まれの有名人・芸能人

藤川球児と同じ出身地高知県生まれの有名人・芸能人


藤川球児と関係のある人

湯浅明彦: 2010年9月30日の『サンテレビボックス席』で阪神対横浜ベイスターズ22回戦の実況を担当していたが、阪神の2点リードで迎えた9回表無死1・2塁から藤川球児が村田修一に逆転本塁打を許した瞬間、「行くな!行くな!超えるな!」と絶叫。


今成亮太: 2012年:上本博紀から借りたビジター仕様のユニフォーム姿で、上本の癖を真似ながら公式戦では立たない右打席で藤川球児と対決した(結果は藤川へのゴロ)。


八木沢荘六: 自身と同じ年に阪神へ入団した藤川球児とは反りが合わず、藤川が八木沢の退団後に出された自著では実名を伏せながらもコーチ在任中の態度や扱いを批判されている。


前佑囲斗: 2006年のオールスターゲームで藤川球児が全球予告ストレートで勝負し小笠原道大とアレックス・カブレラから連続空振り三振を奪った映像を見てから、球の質で三振を取る投球に惹きつけられ、藤川球児を憧れのプロ野球選手としている。


広末涼子: 元阪神タイガースの藤川球児は中学時代の同級生である。


寺本四郎: 明徳義塾高校時代は、高知商業高校の藤川球児、高知高校の土居龍太郎と並んで高知三羽烏と称された。


城島健司: 直後に代走を送られて退くと、試合中にもかかわらず藤川球児の音頭で胴上げされた。


クレイグ=ブラゼル: のちにトラッキーや関本賢太郎も加わるようになったほか、オールスターゲームに出場して本塁打を放った際には久保康友・城島健司・藤川球児といったチームメイトのみならず、巨人のラミレス・阿部、中日の和田一浩も参加していた。


矢野輝弘: 2008年には、チームから藤川球児・新井貴浩と共に北京オリンピックの野球日本代表へ参加。


才木浩人: セットアッパーの藤川球児が戦線を離脱した9月下旬には、藤川に代わってセットアッパーを務めた。


奥村武博: 1999年には、高知市立高知商業高等学校からドラフト1位で入団した藤川球児の教育係を球団から任されていた。


宇佐美徹也: なお、稲尾の記録は2005年に藤川球児が更新したが、宇佐美は1978年以来毎年刊行していたプロ野球全記録をその年から病気療養を理由として刊行しなくなっており、藤川の記録更新の際もコメントや逸話は特に残っていない。


佐久間みなみ: 『S-PARK』メーンキャスターへの就任直後(2022年春)に、自身初のNPB(日本プロ野球)・MLB(メジャーリーグ)現地取材(いずれも藤川球児が同行)で以下の記録の達成に遭遇してからは、「(強運を)持っているアナウンサー」とも呼ばれている。


井上一樹: 8月30日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)では、1点ビハインドの9回表二死から代打で登場すると、藤川球児から同点本塁打を放った。


鞘師智也: 初打席:同上、9回表に藤川球児から遊撃ゴロ併殺打


千賀滉大: レギュラーシーズン最終登板となった11月4日のロッテ戦では、3回裏にパ・リーグ史上最速(NPB史上では藤川球児に次ぐ2番目)で通算1000奪三振を達成した。


山本和行: 現役通算700試合登板は、2018年9月4日に藤川球児が更新するまで球団最多記録。


吉田正尚: 3月19日は3回裏の第2打席で藤川球児から京セラドーム3階席前面の壁を直撃する本塁打を打った。


宮出隆自: 同年5月25日の地元の松山中央公園野球場での試合で阪神の藤川球児から一軍初本塁打を放った。


切通猛: スカウトとしては関本賢太郎、濱中治、藤川球児を発掘。


川尻哲郎: 2002年は故障で出遅れ一軍での初登板が7月4日となったが、藤川球児、安藤優也、藤田太陽といったローテーションの谷間を務めた投手の中では5勝4敗、防御率3.02と一番の成績を残した。


葛西稔: 2003年、当時同じ二軍投手コーチであった山口高志の助言を受けた藤川球児のフォーム改造の指導にあたり、後の藤川の成長のきっかけを作った事でも知られる。


菊地原毅: ^ セ・リーグ記録としては1984年の福間納を超え、2005年に藤川球児が更新した


浅尾拓也: プロ入り時には好きな選手として川上憲伸(中日)・藤川球児(阪神)を挙げていた。


永川勝浩: 最終的に藤川球児と並んでリーグ2位となる38セーブを記録。


鞘師智也: その後回ってきた初打席では藤川球児のストレートを弾き返すも併殺打。


渡辺亮: その久保田が不調の時期には、単独でセットアッパーを務めたことによって、「渡辺 ・ウィリアムス ・藤川球児 」という継投のパターンが定着。


平野佳寿: 平野にとってはNPB公式戦150個目のホールドで、前日(12日)までにNPBの公式戦だけで213個のセーブを挙げていたことと相まって、パ・リーグの球団に所属する投手では初めて(セ・リーグを含めれば藤川球児に次いでNPB2人目)の「同一投手による公式戦通算150ホールドと通算200セーブ」という記録の達成に至った。


田村勤: 22セーブを挙げ、当時の球団記録である10連続セーブを達成(2008年4月23日に藤川球児が更新)した。


北條史也: 4月3日の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)では、7回表に藤川球児の代打で出場すると、一軍公式戦での初安打を石田健大からのソロ本塁打で記録した。


藤川球児の情報まとめ

もしもしロボ

藤川 球児(ふじかわ きゅうじ)さんの誕生日は1980年7月21日です。高知出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、ストレートに関する調査などについてまとめました。引退、離婚、兄弟、結婚、テレビに関する情報もありますね。藤川球児の現在の年齢は43歳のようです。

藤川球児のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

藤川球児の真向勝負

藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、高知県高知市出身の元プロ野球選手(投手、右投左打)、野球解説者、タレント、YouTuber。2021年より阪神タイガースの「Special Assistant(SA、特別補佐)」を務める。

1999年に阪神入団。その後、メジャーリーグベースボール(MLB)に挑戦しシカゴ・カブス、テキサス・レンジャーズに在籍、日本球界復帰後は独立リーグ・四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスでもプレーした。2016年に阪神へ復帰、2020年に現役引退

少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。幼少期に両親が離婚し、4人兄弟を母が女手一つで育て、あまり裕福ではなかった。加えて、兄の順一と自分が野球をやっていたためお金がかかり、母には借金があった。

高知商業高校に進学すると、2年生の時に第79回全国高等学校野球選手権大会に右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れたが、豊田大谷高校の古木克明と共に2年生では2人だけ高校日本代表に選出された。ちなみに在学中は、寺本四郎・土居龍太郎らと共に「高知三羽烏」と呼ばれていた。

1998のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから1位で指名。契約金1億円、年俸700万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は30。入団発表の記者会見では、「10年後には(阪神でセントラル・リーグの)優勝を3回、そのうちに1回は胴上げ投手を経験しているはず」などと発言したため、当時一軍の監督として会見に同席していた野村克也から「藤川君は野球以外に何か才能を持っていそう」という表現で話術を褒められた。担当スカウトは切通猛。前述の通りあまり経済的に余裕のない母子家庭出身であるため、藤川は後に「あのままプロに行っていなかったらただ借金だけ抱えて…」と語っている。

1999年には、二軍で体力の強化を優先。ウエスタン・リーグの公式戦でも3試合の登板にとどまった。

2000年にフレッシュオールスターゲームに選出されてリリーフで登板し、初めて一軍登録もされてプロ初登板を果たしたが、野村監督の期待に応えることはできなかった。同年、高校時代から交際していた女性と結婚して同学年・松坂世代のプロ野球選手で最初の既婚者となった。

監督が星野仙一に代わった2002年から背番号を名前の「きゅうじ」に掛けた92に変更。先発投手として積極的に起用されて12試合に登板し、9月11日の対ヤクルトスワローズ戦で8イニングを1失点に抑えて初勝利を挙げ、フレッシュオールスターゲームのウエスタン・リーグ先発投手も務めたが、同年は前出の1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。2003年4月11日の対読売ジャイアンツ戦の9回、4点差の2死から登板して同点に追いつかれ(結果的に引き分け)、チームは翌日から快進撃を続けて優勝を達成したものの、このシーズンの藤川の登板は17試合(1勝1敗)にとどまった。

2003年のファーム日本選手権ではセーブを記録し胴上げ投手になったが、日本シリーズでは登板機会がなかった。なおこの年に球団から戦力外通告を受ける可能性があったこと、またヤクルトと広島東洋カープからトレードの申し入れがあり具体的な話も進んでいたことが、同年オフにコーチから昇格して新監督となった岡田彰布によって明かされている。

2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、当時二軍投手コーチだった山口高志のアドバイスを受けフォームを改造し、高校の先輩でもある一軍投手コーチの中西清起の助言で中継ぎに転向した。このフォーム改造・ポジション転向によってシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35三振を奪った。

2005年は背番号を22へ変更。この時「佐々木(主浩)さん、高津(臣吾)さんと同じ背番号で光栄です」と語っている。シーズンではセットアッパーに定着すると、ジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに勝利の方程式「JFK」を形成。6月14日から7月20日にかけてプロ野球記録となる17試合連続ホールドを記録し、6月には月間MVPを受賞。オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の対巨人戦では、当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板をし、最終的に登板数は80試合を記録。また、同年53ホールドポイント(HP)で初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第3戦で登板し、橋本将に適時二塁打にされ降板し、チームは敗れた。翌日の第4戦も敗れ、4連敗でシリーズを終えた。

2006年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。背番号は、同じ「22」を着ける里崎智也に配慮して24を選んだ。アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。

シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑えの久保田が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点となり、豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の対広島戦で失点し、連続無失点試合数は38, 連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスターゲーム第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、先頭打者のアレックス・カブレラへの投球前に、全球ストレートを予告し、1回もバットに当てさせず空振り三振に取り、続く小笠原道大に対しても全て直球を投じて空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。なお同年は中日ドラゴンズと優勝を争う状況だった阪神だが、7月30日の対ヤクルト戦で藤川に初めて延長3イニングを投じさせるほど決定打を欠いて引き分ける戦いぶりに象徴される様に、オールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。そんな中、首の寝違えで8月12日より登録抹消されていた藤川は8月27日の対巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスメディアからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と号泣しながらコメントした。結局チームは優勝を逃したが、藤川自身は2年連続の最優秀中継ぎ投手を獲得した。

2007年は開幕から抑えとして安定した投球を見せた。7月20日のオールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の対巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板をして2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録(前々年の岩瀬仁紀と並ぶ、右投手としては新記録)となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得。オフには球団にポスティングシステムの行使を申請し、「自分の気持ちにウソをついたまま来年プレーするのがイヤだった」としてメジャーリーグ(MLB)挑戦を希望していることを表明したが、ポスティング行使は球団に拒否された。

2008年は5月4日の対中日戦で李炳圭にサヨナラ本塁打を打たれるなどの苦難がありながらも、オールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、オールスター直後の北京オリンピック野球日本代表に選ばれ、星野仙一監督の構想した7・8・9回を担当する「トリプル抑え」の一角として指名された。五輪では準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を打たれた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが終始安定した投球で応え、9月25日の対横浜戦で通算100セーブを達成。しかし、中日とのクライマックスシリーズファーストステージでは、1勝1敗で迎えた3試合目で9回にタイロン・ウッズに決勝打を打たれてチームは敗退。オフには年俸4億円で契約更改し「メジャー挑戦の思いは持ち続けるが、阪神に入って10年。酸いも甘いも知った。来年はもう1回、阪神で巨人を倒したいという気持ちが強い」と語った。

2009年は開幕前の3月に開催された第2回WBCの日本代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。背番号22をつけ、1次予選・2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残した。しかし、直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったことから、準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め、自身は登板なしに終わった。この際、抑えの経験がないダルビッシュに求められ気構えや調整方法などについて助言した。大会終了後、この起用法に不満があるとして日本代表を引退するかのような報道が多数されたが、後日自身の公式サイト内のブログで「悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいという発言は一切していない」「代表を引退するとも言っていない」と報道を完全否定した。

シーズンでは5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調にあえぎ、前年までと比較して登板数が大きく減少したが、6月以降は負けなしの5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。この年のオフも「あえてしゃべらなくても、やることは同じ。どんな状況でも全力で前を向いてトライしていかないといけない。ポスティングは交渉の中で伝えていこうと思う。球団の了承がない限りメジャーに行けない」として2011年以降のメジャー挑戦のためポスティングシステムの行使を球団に申請したが、「やすやすとは出したくない。ビジネス以前の問題」として拒否された。

2010年は開幕から16試合連続無失点を記録し、例年以上の好調ぶりを見せた。この年は他の中継ぎ投手の不調でセットアッパーが固定できず、交流戦と夏場を中心に、本来の抑え投手の役目に加えてセットアッパーのポジションも兼任することとなった。結果として例年よりイニングをまたぐ登板が増え、1イニング以上の登板した試合はシーズン全体で12試合に及んだ。4月13日、東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。ファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で6年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦の9回に登板し、里崎智也・片岡易之・中島裕之を迎えて投じた16球全て直球で、三者連続三振に仕留めた。9月5日の対広島戦で通算150セーブを達成。9月に入ると久保田の復調でイニングまたぎ登板は減ったが、制球が定まらず9月だけで2本の逆転本塁打を打たれたり、それ以外でもピンチを招く場面がたびたびあった。この年の被本塁打はプロ入り後ワーストの7本を数え、防御率・WHIPはそれぞれ2.01と1.08で、いずれも中継ぎに定着した2005年以降では最低の数字であった。

2011年も抑えとして活躍し、前半戦は26試合に登板して防御率0.76(自責点2)で前年に続いてファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で7年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦では2007年同様にセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場して試合を締めた。8月25日の対巨人戦で同点の場面で登板し3者連続三振で1回を抑え、この登板で通算100ホールドを記録し、史上初の通算100ホールド・100セーブの2つを達成した投手となった。10月21日の対横浜戦でセーブを挙げ4年ぶりの40セーブに達し、最終的に41セーブを挙げて二度目の最多セーブ投手を獲得した。なお、シーズン中に三度、東京ドームでサヨナラ打を浴びている(實松一成・古城茂幸・藤村大介)。オフにはこの年取得した国内FA権を行使せず残留。契約更改の交渉でも球団から2000万アップの年俸4億2000万円を提示されたが、優勝を逃したことを理由に固辞し、翌年の海外FA権取得を見据えての単年契約の4億+出来高払いで更改した。

2012年は、この年からチームがキャプテン制度を定めたのに伴い、野手キャプテンの鳥谷敬と並んで投手キャプテンに選ばれた。横浜DeNAベイスターズとの開幕戦こそ救援失敗したが、この年も抑えとして活躍し、4月11日の対広島戦で通算200セーブを達成した。オフには海外FA権を行使し、「2007年のオフに初めてお話しさせていただいた、メジャーリーグへの思いはずっと抱き続けておりました。今年に入ってからはすべての可能性を考え、熟慮した末、やはり、長年の目標に挑戦したい気持ちは強く、考えが変わることはありませんでした」として、アーン・テレムと団野村を代理人としてMLB挑戦を表明した。

2012年12月2日にシカゴ・カブスと2年総額年俸950万ドル+出来高(3年目は年俸550万ドルの球団オプション。交代完了が一定数以上の場合は年俸600万ドルで自動更新)で契約合意し、12月7日に契約。背番号は11となった。入団会見では「すべてが挑戦。しっかりと結果を出すために努力を重ねたい」と語った。

2013年、渡米前に羽田空港で「向こうで(現役の)最後までやるつもりでやってくる」と語った。開幕戦となった4月1日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦の9回二死の場面でメジャー初登板し、2球でメジャー初セーブを挙げた。4月7日には不振のカルロス・マーモルに代わりクローザーとして起用されることが発表された。4月12日の対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦では2点リードの場面で登板し、3安打1死球1暴投の3失点で逆転を許したものの、その裏に味方が逆転したためメジャー初勝利を挙げた。しかし、13日に右前腕部の張りで故障者リスト入り。5月10日の対ワシントン・ナショナルズ戦で復帰し、復帰後は7試合の登板で防御率1.17・WHIP 0.55と好投を続けていたが、5月26日の対シンシナティ・レッズ戦で右前腕部の張りを再発させ降板した。トミー・ジョン手術を受けることが5月29日に球団から発表され、6月11日に手術を受けてシーズンを終えた。

2014年3月30日に前年の手術の影響で、15日間の故障者リスト入りし、5月3日に60日間の故障者リストへ異動した。7月16日にリハビリのためA級ケーンカウンティ・クーガーズに異動。8月6日に故障者リストから復帰した。オフにFAとなった。

2014年12月16日に年俸100万ドル+出来高の1年契約(翌年の契約は年俸200万ドル+出来高の球団オプション)でテキサス・レンジャーズと契約。背番号は21。

2015年は右脚付け根の張りで故障者リスト入りして開幕を迎えた。5月14日に復帰し移籍後初登板。しかし2試合の登板で3失点を喫したのち17日にDFAとなって40人枠から外れ、22日に自由契約となった。

レンジャーズを自由契約となった後、ニューヨーク・ヤンキースと契約合意寸前まで行ったのだが、メディカルチェックで手術した肘の状態が引っかかり契約は土壇場で破談、藤川自身も引退を覚悟し、失意で帰国することになった。日本では古巣・阪神が先発投手として獲得を調査していることが明らかになり、一部では「阪神復帰が決定的」とも報じられた。しかし、「地元の子どもたちに夢を与えたい」との思いから出身地である高知で野球人生を再スタートすることを決意し、阪神からのオファーを拒否して四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスへの入団を決めた。これには、かつての藤川のチームメイトであり、当時阪神球団の駐米スカウトを務めていたジェフ・ウィリアムスおよびアンディ・シーツ両名からのシビアな報告に球団側が及び腰になっていたことが背景にあった、と報じるメディアもあった。

6月8日に高知市内で開かれた入団記者会見では、登板する試合ごとに高知と契約を結ぶ形となり、藤川自身は無報酬であること、また登板試合のチケット売上から10%を児童養護施設に寄付することを発表する一方、オファーがあればNPBに復帰する可能性については否定しなかった。高知と藤川との間に契約文書はなく、試合外での行動については球団ではなく藤川の所属するエイベックス・スポーツが管理する異例の形であった。背番号は11。

6月20日に高知市野球場で行われた香川オリーブガイナーズ・徳島インディゴソックス連合チームとのオープン戦に先発し、4回を1失点という内容であった。2015年シーズンのNPB復帰期限だった7月31日までにオープン戦3試合に登板したが、NPB球団との契約には至らなかった。これに伴い、高知球団は8月4日に藤川と、リーグの基準に従った形で後期シーズン(ポストシーズンを含む最終戦まで)の契約を締結した。ただし、引き続き報酬は受け取らない条件で、以前同様常時チームには帯同しないと報じられている。8月6日の対徳島戦に先発し、リーグ公式戦に初登板したが、先頭打者への5球目の投球が頭部に接触したため「危険球」として退場処分になった。翌8月7日の対愛媛戦で、チームが6-2とリードした5回から登板し、5イニングを無失点・12奪三振の内容で、アイランドリーグ公式戦で初勝利を挙げた。地元の高知で開かれた9月7日の対香川戦では、先発投手として登板すると、被安打3の完封で2勝目を記録。公式戦での完封勝利は、阪神の投手としてウエスタン・リーグ公式戦で2完封勝利を挙げた2000年以来15年ぶりであった。

球団では9月10日に、藤川との契約を2015年シーズン限りで終了することを発表。当初は、最終登板として同月16日の対徳島戦での先発を予定していた。しかし、発表直後に左足首を痛めたため先発を回避。同カードおよび、チームのシーズン最終戦(同月17日の対香川戦)ではベンチに入ったものの、登板機会のないままシーズンを終えた。

在籍中には、阪神を含め複数のNPB球団関係者が藤川の投球を視察。高知との契約期間満了直後には、中日やヤクルトが、藤川の獲得を視野に調査を進めていることが報じられた。

阪神では、渡米前のチームメイトだった金本知憲が、2015年10月17日に一軍監督へ就任。金本は監督就任の直後に藤川へ接触するとともに、球団として復帰を受け入れる姿勢を改めて示した。ヤクルトも水面下での交渉で藤川サイドに2年契約を提示していたが、条件面などで折り合いが付かなかったことから、藤川は阪神への復帰を決断。11月14日には、阪神との入団契約で合意に達したことが球団から発表された。契約期間は2年で、期間中の年俸総額は推定4億円。同月24日には、球団と正式に契約を結んだ後に、入団記者会見で背番号18の付いたユニフォーム姿を披露した。

首脳陣は藤川の復帰が決まった時点で、2014年から藤川の渡米前の背番号(22)を着用していたクローザー・呉昇桓の残留を前提に、藤川へ先発陣の一角を担わせることを構想。当時一軍の投手コーチだった香田勲男も、藤川に対して先発向けの調整を求めた。ちなみに金本は、藤川の役割について、「先発の準備をしておけば途中から中継ぎにいける(転向できる)。中継ぎの準備しかしていなかったら、先発(への転向)はしんどい」と説明している。

2016年には、先発投手としての調整を春季キャンプ以降も継続。オープン戦では、3月6日の対巨人戦(甲子園)でNPB復帰後初登板を果たすと、先発でチーム最多の2勝を挙げた。公式戦では、中日との開幕カード第3戦(3月27日・京セラドーム大阪)で、先発投手としてNPB復帰後初の公式戦登板。4月3日の対DeNA戦(横浜)にも先発すると、6回を2被安打無失点という好投で、NPB復帰後初勝利を挙げた。また、NPBでは2003年9月19日の対巨人戦(東京ドーム)以来、自身4580日ぶりの先発勝利であった。しかし、14年ぶりの甲子園での先発登板となった4月10日の対広島戦で、自己ワーストの7失点と復帰後初黒星を記録。結局、5試合の先発登板で1勝2敗、防御率6.12と振るわなかったため、5月中旬から再び救援投手に転向。同月18日の対中日戦(甲子園)では、本来のクローザーであるマテオやセットアッパーのドリスが体調不良でベンチ登録を外れたことから、1点リードの9回表に復帰後初めてクローザーとして登板。NPBでは2012年9月15日の対巨人戦(東京ドーム)以来のセーブを挙げた。さらに、ドリスが登録を抹消された4月19日の対中日戦(甲子園)でも、同点で迎えた9回表に登板。復帰後初の連投であったが、チームが9回裏にサヨナラ勝ちを収めたことによって、復帰後初の救援勝利を記録した。7月26日の対ヤクルト戦(甲子園)では、8回表に登板すると、大引啓次からの三振によってNPB/MLB通算1000奪三振を達成した。なお、救援投手としては38試合に登板。チーム事情に応じてセットアッパーやクローザーを担いながら、甲子園で16登板試合連続無失点を記録したほか、4救援勝利(4敗)、3セーブ、10ホールド、救援防御率3.58という成績でシーズンを終えた。

2017年には、背番号を復帰前の22へ戻すとともに、セットアッパーとしてレギュラーシーズンをスタート。4月6日の対ヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、延長10回表からの救援登板で2イニングを無失点に抑えると、原口文仁のサヨナラ本塁打によってシーズン初勝利を挙げた。また、この救援勝利によってNPB公式戦での通算HPが155に達し、ウィリアムスの持つ球団記録(154HP)を更新した。同月中旬以降は桑原謙太朗がセットアッパーに定着したことなどから、点差の開いた展開やビハインドの局面での登板機会が増加。この年のセ・パ交流戦最初の試合であった5月30日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では、8点リードの9回裏に登板すると、先頭打者・角中勝也の見逃し三振によってNPB史上146人目のNPB一軍公式戦通算1000奪三振を達成。所要イニングは771回2/3で、野茂英雄による従来の最短記録(871回)を大きく下回った。レギュラーシーズンでは、一軍公式戦52試合の登板で、3勝無敗、6ホールドを記録。前述した起用法の影響で2004年以来13年ぶりにセーブを記録できなかったものの、防御率は2.22で、WHIPも前年から大幅に向上した。

2018年には、レギュラーシーズンの開幕から、主に中継ぎで登板。セ・パ交流戦の期間中からは、一軍の救援陣で戦線離脱者が相次いでいたことを背景に、セットアッパーやクローザーも務めた。6月16日の対楽天戦(楽天生命パーク)では、1点リードの9回裏に急遽クローザーとして登板すると、無失点で凌いだ末に公式戦2年ぶりのセーブを記録した。7月21日の対DeNA戦(京セラ)7回表には、宮﨑敏郎から見逃しで三振を奪ったことによって、救援登板では球団史上初めてのNPB一軍公式戦通算1000(先発登板を含めれば1093)奪三振を記録。9月5日の対広島戦(マツダ)では、球団史上最多の一軍公式戦通算701試合登板を達成した。球団史上最長の14連戦が見込まれていた9月下旬に、右肘痛で戦線離脱を離脱。シーズン全体では、自責点が付かない場面での救援失敗も多く、「勝利の方程式」への再定着までには至らなかった。それでも、前年を上回る53試合に登板。150km/h台の球速を再び連発するようになったストレートを武器に、5勝3敗2セーブ21ホールド、防御率2.32という成績を残した。シーズン終了後の契約更改では、この年に二軍監督を務めた矢野が一軍監督へ就任したことを背景に、クローザーへの本格復帰に挑戦する意向を明かしている。

2019年には、オープン戦からコンディションが上がらないまま、中継ぎ陣の一角として開幕を迎えた。開幕後も不調で、4月6日の対広島戦(マツダ)で1イニング2本塁打を打たれるなど精彩を欠いたため、翌7日から自身の希望で二軍調整。その一方で、一軍へ再び昇格した4月27日の対中日戦(ナゴヤドーム)から6月11日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフオク!ドーム)まで18試合連続無失点を記録した。その間には、5月8日の対ヤクルト戦(神宮)で通算142ホールドの球団記録を記録。6月11日の対ソフトバンク戦で通算のホールド数が150に達したことによって、「同一投手による150セーブ・150ホールド」というNPB史上初の記録を樹立した。オールスターゲームにも、セ・リーグの監督推薦選手として7年ぶりに出場。甲子園での第2戦(7月13日)で9回表から登板すると、オール直球で三者凡退に抑えた。ヤンガービス・ソラーテ内野手が入団した7月には、当時不調だったドリスが外国人枠との兼ね合いで登録を抹消された26日からクローザーに再転向。当初はドリスが一軍へ復帰するまでの暫定措置だったが、実際には転向後に好投を続けたため、ドリスの復帰後もシーズン終了までクローザーを務めたほか、8月31日の対巨人戦(甲子園)で通算235セーブ(当時のNPB現役投手最多記録)を達成した。レギュラーシーズン全体では、4勝1敗16セーブ23ホールド、防御率1.77、セーブ率100%、奪三振率13.34という好成績で、シーズン最終盤の6連勝とクライマックスシリーズ(CS)進出に貢献。また、(カブス時代の2セーブを含めた)通算のセーブ数が243にまで達したことによって、名球会入りの基準の1つである「(MLBを含めた)公式戦通算250セーブ」のクリアを射程圏内に収めた。CSでも、DeNAとのファーストステージ、巨人とのファイナルステージに2試合ずつ登板すると、いずれも無失点で凌いだ。

2019年4月の登録抹消中に、現役からの引退を球団に申し出た。この年には、球団がシーズン中に態度を保留。藤川自身も一軍への復帰後にクローザーへ返り咲いたことから、シーズン終了後(12月10日)の契約交渉で、球団側と話し合った末に翌2020年も現役生活を続けることを決めた。その際に、推定年俸2億円(前年から6000万円増)という条件で契約を更改。契約期間は1年で、更改後の記者会見でも、「来年(2020年)から2年以上現役を続ける気はもうないので、単年で契約を結んだ」と明言している。

2020年には、ドリスの退団(MLBトロント・ブルージェイズへの移籍)などを背景にクローザーの役割を担うことが想定されていたが、実際には前年に続いてオープン戦から調子が上がらなかった。レギュラーシーズンの開幕後は、2セーブを挙げた一方で救援の失敗が相次いだため、右上肢のコンディション不良を理由に2度にわたって登録を抹消。2度目の抹消中に、この年限りで現役を引退する意向を、改めて球団に申し入れた。球団は、この申し入れを受諾したうえで、8月31日に球団本部長の谷本修を通じて藤川の引退を発表。発表の際には、前年の引退の申し出から現役続行までの経緯に加えて、藤川から「右肩のコンディションが手術を要するほどにまで悪化している」との報告を受けていることが初めて明らかにされた。「(年頭からの新型コロナウイルス感染拡大に伴う影響で)球場に5,000人までしか観客を入れられない状況が続いているので、自分からもできるだけ早く発表したい」という意向に沿って、チームがシーズンを折り返した9月1日に引退記者会見を開催。27歳頃から引退を意識していたことを明かしたうえで、引退を決断した理由に「1年間にわたって身体のコンディションを整えることが難しくなったので『プロとして失格』(と悟ったこと)」を挙げた。また、通算250セーブの達成に固執しない姿勢を示しながらも、「阪神へ入団する時に『3回優勝する』と言っていた(前述)にもかかわらず、22年目のシーズンでまだ2回しか経験できていない。今年は3回目のチャンスが来ているので、もう一発頑張りたい」という表現で後半戦の一軍復帰を誓った。10月15日に一軍昇格。11月15日の巨人戦(甲子園)で引退試合が行われた。自身は4点ビバインドの9回表に登板。先頭の坂本勇人、続く中島宏之を連続で空振り三振に打ち取ると、最後は重信慎之介を二飛に打ち取って降板。全球ストレート勝負で有終の美を飾った。試合後は引退セレモニーが行われ、ファンや関係者に感謝の言葉を伝えた。

引退直後にYouTube公式チャンネルを開設、YouTuberとしての活動を開始した。 2021年から、NHKの野球解説者、スポーツ報知の野球評論家を務め、在阪民放局の野球中継にもゲスト解説者として出演する。その傍ら、阪神の「Special Assistant(SA、特別補佐)」に就任することが発表された。チーム運営、選手、スタッフへのサポートの他、少年野球や女子野球へのサポートも含めた幅広く活動するとしている。また、名球会の入会条件(投手は 200勝 もしくは250セーブ)を達成してはいないが、名球会の入会規定に相当する記録保持者として理事会にて推薦を受け、会員の4分の3以上の賛成を得たため、2022年12月9日に特例枠で名球会入りを果たした。

選手としての特徴

オーバースローの投球フォームで、全盛期には平均球速約149km/h、最速156km/hを記録していたストレートを最大の武器とし、変化球はフォーク、カーブ、スライダーを操った。

ストレートは打者の手元で浮き上がるように「伸びる」のが特徴であり、その球筋・球威から「火の玉ストレート」と称された。ストレートを投じる際は、人差し指と中指を揃え完全に密着させた独特の握りで、リリース時にはピンポン玉のように浮かび上がらせることを意識しボールを潰すような感覚で投げる。また、できるだけ前でボールをリリースするために、投手板から踏み込んだ左足までが7足分という広いストライドを作る。さらにタイミングをずらすために、打者の振り出してくるタイミングとキャッチャーミットにボールが届くまでの時間を体で感じながら、体の開きや腕の振り、リリースポイントを微妙に変えるという。

清原和博は藤川のストレートを「20年見た中でナンバーワン(のストレート)。火の玉や」と称賛しており、2006年のWBCで藤川との対戦経験を持つアレックス・ロドリゲスは「あんなストレートは見たことがない。下から上がってくるんだぜ」と証言している。捕手として藤川のストレートを受けることが多かった矢野燿大は、後述する「プロ野球は死なず―ストレートという名の魔球」の特集内で「大袈裟に言うと『魔球』に近い。プロの選手が真っすぐを待っているにもかかわらず、その真っすぐで空振りを取れる。そんな投手は今のプロ野球界にはいない。間違いなくナンバーワンのストレート」と評している。

アレックス・ラミレスとの対戦成績は、通算49打数17安打で打率.347と分が悪かった。ただし、ラミレスは対戦したクローザーの中でベストの投手と発言している。

NPBにおいて主戦リリーフ投手として活躍した2005年から2012年までの期間は、通算奪三振率12.81という高い値を記録。2010年まではストレートでの空振り率約30%(リーグ平均約8%)を記録していた。しかし、2011年に平均球速が約147km/hまで落ち、その影響から空振り率が20パーセント弱にまで下落。トミー・ジョン手術から復帰した2014年には平均球速90.6 mph(約145 km/h)とさらに微減した。このようにストレートの平均球速などについては年々減少傾向にあった一方で、毎年投球回を上回る奪三振数を記録。2011年は変化球を多用することで特にフォークでの空振りを増やし奪三振率12.59と高い数字を保った他、2018年には40試合以上に登板したセ・リーグ救援投手の中でトップの被打率.159を記録するなど、高い投球術を誇るリリーバーとして長く活躍した。高知へ入団してから阪神への復帰直後までの先発再転向時代はスライダーやカーブなども多用していた。

阪神復帰後の2016年には通算投球回数767回1/3でNPB/MLB通算1000奪三振を達成。2017年には通算投球回数771回2/3でNPB通算1000奪三振を、NPB在籍期間での1000奪三振達成者における野茂英雄の最速記録(871投球回)を大幅に上回るペースで達成した。

藤川は抑え投手として三振やフライでアウトを取ることにこだわっているが、これは野手の守備力という外的要素を排除したいが故の考えであり、その考えの根底には、MLBで主流のFIPの存在がある。

ストレートに関する調査

日刊スポーツによる調査

『日刊スポーツ』大阪版が独自にスピードガンで計測した2006年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川のストレートの比較では、初速と終速の差はクルーンがおおむね10km/h前後で藤川はおおむね13km/h前後だった。藤川とクルーンのリリースポイントを調べると、藤川の方が10cm前だった。藤川は身長184cm(当時)でクルーンは188cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、平均的な投手は踏み出す足をプレートから6足半の場所に置くが、藤川は7足目であった。

姫野龍太郎による調査

2006年11月23日に放送されたテレビ朝日の『報道ステーション』の番組内での特集「プロ野球は死なず―ストレートという名の魔球」では、ボールに回転を過剰にかけることによりマグヌス効果を発生させ、進行方向に対して垂直上向きの揚力を発生させることにより一般の選手よりもボールの落下を減らし、打者にボールの下を空振りさせているのではないかという仮説が提唱された。数値流体力学者の姫野龍太郎による調査の結果、あるプロ野球選手15人のストレートの回転数の平均値が1秒間に37回転(2220rpm)であるのに対し、藤川のストレートは1秒間に45回転(2700rpm)していることが判明。また、一般的な投手が投げるボールの回転軸の傾きは水平軸に対して約30度であるのに対し、クルーンと松坂大輔は約10度であった。しかし、藤川の場合その二人よりもさらに傾きが少ない約5度だったため、より効率的にボールに揚力が発生していると考察された。

2024/06/14 22:09更新

fujikawa kyuuji



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