若林忠志の情報(わかばやしただし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
若林 忠志さんについて調べます
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若林忠志と同じ出身地の人 |
若林忠志と関係のある人
近本光司: 「三井ゴールデン・グラブ賞」と「ベストナイン」は3年連続3度目の受賞となり、2023年度若林忠志賞の授賞者となる。 西勇輝: 阪神移籍後の2019年には、他球団から移籍した選手では初めて、阪神球団から若林忠志賞を授与された。 石本秀一: 東京セネタースの主力選手だった苅田久徳は、自著に「セネタースが内紛でごたごたし始めた頃、タイガースの若林忠志から内々に入団歓誘を受けた。 清俊彦: 1964年に西鉄ライオンズへ入団し、若林忠志ヘッドコーチの指導でコントロールを付ける。 藤村富美男: 若林忠志さん、土井垣武さん、別当薫さんら主力が毎日に抜けても、藤村さんは誘いを断った。 苅田久徳: また、日本プロ野球史上初の「隠し球」の記録者でもある(苅田自身は東京六大学時代に、法政大学のチームメイトだった若林忠志から教えてもらったと話している)。 林義一: 巧緻なピッチングは若林忠志に次いで、「二代目名人」の呼称を冠せられたほどであった。 岩本義行: 毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでも3本塁打を打ち、第6試合では4点リードされて無死満塁では毎日から同点本塁打を警戒されて敬遠された(投手は若林忠志)。 後藤次男: 母校・法大の先輩である若林忠志監督に勧誘され、大学卒業後の1948年に大阪タイガースへ入団。 中西太: 同年オフの退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受け、「若林に成績不振の責任を取らせた」とマスコミからの非難を浴びた。 呉昌征: 1949年末の2リーグ分裂騒動で若林忠志に従ってパ・リーグの毎日オリオンズに移籍。 松木謙治郎: 1950年に行われたプロ野球の「2リーグ分裂」によって若林忠志が毎日オリオンズへ引き抜かれ、藤村富美男らの要請を受けた松木は大阪タイガースの監督に復帰した。 別当薫: 1952年には平和台事件で湯浅禎夫総監督・若林忠志監督が更迭されたのをうけ監督代行となり、7月30日から閉幕まで43試合で指揮を執って30勝13敗、勝率.698と好成績を残した。 山口政信: 実際に山口に走らせて若林忠志がストップウォッチを押したところ、14秒6であった。 村山実: 通算222勝は、大学卒の投手としては若林忠志(237勝)に次ぐ歴代2位で、阪神の投手勝利数の記録でも歴代2位、通算防御率2.09はセ・リーグ記録である。 井上弘昭: ^ ただし、日本シリーズでは1950年に毎日オリオンズの若林忠志が4点リードながら満塁で当日2本塁打を打っていた松竹ロビンスの岩本義行を迎えた際に、満塁でも敬遠した例がある。 森井茂: 阪急:森弘太郎、大阪:若林忠志の投げ合いだった)で56分で更新され、1946年7月26日のパシフィックvs阪神戦(西宮球場。 石風呂良一: ^ 「若林忠志が見た夢(24)」スポーツニッポン、2009年12月17日3面 江藤晴康: 以前に武末悉昌の獲得を巡って両球団が争い、武末が南海に入ったことを「奪われた」と考えた大阪の若林忠志監督が南海の山本一人監督に抗議したところ、山本が「武末は南海、江藤は大阪ということにしよう」と口にした。 宮武三郎: 加えて当時は、三原修(早大)、小川正太郎(早大)、伊達正男(早大)、伊丹安広(早大)、若林忠志(法大)苅田久徳(法大)、島秀之助(法大)、田部武雄(明大)、松木謙治郎(明大)、菊谷正一(立大)ら多くのスター選手が活躍しており、東京六大学リーグ戦はたいへんな人気を博していた。 田中義雄: 松木は「株に手を出して作った借金の決済のために来日した」という若林忠志の証言も紹介しているが、これについては「人柄から判断して口実だったと考えられる」と記している。 藤村隆男: 御園生崇男の指導によって急成長した藤村はこの年16勝を挙げて、若林忠志(15勝)・梶岡忠義(13勝)を抑えてチームの勝ち頭となった。 島秀之助: 若林忠志とは法政大時代同期、苅田久徳は1年後輩にあたる。 岩田稔: 2013年には、糖尿病患者に対する慈善活動が評価されたことによって、阪神球団から若林忠志賞を授与。 宮武三郎: この場外本塁打は、1930年(昭和5年)10月4日の慶法1回戦の初回に若林忠志から放ったもので、場外にあった相撲場(現在の神宮第二球場)まで届いたことから「相撲場ホームラン」の異名がある(その翌1931年に外野スタンドが増築されているため神宮唯一の記録と思われる)。 石川雅規: この勝利によって、1950年の若林忠志以来2人目となる40代での勝利投手で、シリーズ史上2番目、セ・リーグでは最年長記録となった。 相沢進: この時の相沢の活躍は、当時大阪タイガースの監督を務めていた若林忠志の目に留まった。 兵頭冽: 八幡浜高校時代に若林忠志のスカウトを受け、1953年に毎日オリオンズへ入団。 末吉俊信: 83試合登板は若林忠志に次ぐリーグ歴代2位、44勝は山中正竹、江川卓に次ぐリーグ歴代3位。 本堂保次: しかし、同年オフに二塁手を求めていた阪神監督の若林忠志の誘いを受けると、本堂自身も「自分の持てる技量を存分に発揮できる球団に行きたい」として、わずか1年で阪神に復帰した。 |
若林忠志の情報まとめ
若林 忠志(わかばやし ただし)さんの誕生日は1908年3月1日です。
父親、卒業、結婚、現在、引退、事件、テレビ、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1965年に亡くなられているようです。
若林忠志のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 若林 忠志(わかばやし ただし、本名:タダシ・ヘンリー・ワカバヤシ(Tadashi Henry Wakabayashi)、1908年3月1日 - 1965年3月5日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii、現:ハワイ州)生まれのプロ野球選手(投手)・監督。ハワイ移民の日系2世。 ジャズ・ミュージシャンの津上研太は孫。 1908年3月1日、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii、現:ハワイ州)・オアフ島ワヒアワで出生。九人兄妹の五番目の三男。父親の代に広島県芦品郡戸手村(現:福山市)からハワイへ移民しており、父母ともに広島県芦品郡生まれの日本人。両親は日本を主な取引相手とする雑貨貿易商を営むかたわら、パイナップル缶詰会社を経営する等、事業で成功し裕福な家庭で育った。 国籍はアメリカ・日本の二重だったが、1928年に日本国籍を一旦離脱。日系外国人に退去命令が出された1941年に日本国籍を回復、アメリカ国籍から離脱した。愛称は「ボゾ」(アメリカ俗語「BOZO」は「(筋肉ばかりある)薄ら馬鹿の男」といった意味。発祥は第一次世界大戦直後)。マッキンレー・ハイスクール(英語版)時代は、アメリカンフットボールに熱心だったが、試合中に頭を蹴られ2か月の大けがをする。以後、両親からアメリカンフットボールを禁止され、次にベースボールをはじめた。元は捕手だったが、マッキンレー・ハイスクール時代の1学年上の田中義雄には敵わず、田中から投手転向を勧められ、上段から投げ下ろす剛速球を武器とするエースとなった。 1928年、スタクトン野球団のメンバーとなり、親善試合のため来日。当時日本にはまだプロ野球が存在しなかったため東京六大学の早稲田・明治・法政などと対戦した。若林の存在はたちまち話題になり、六大学のうち特に法政大学が熱心に勧誘した。若林自身も両親の母国である日本に敬愛の念を抱いており、法政入学は決定かと思われたが、日本の中学校を出ていない外来選手の獲得には法政を除く六大学各校から反対意見が噴出したため、同年7月のハイスクール卒業を待って再来日させ、9月、横浜の旧制本牧中学校(現:横浜高等学校)に4年生として編入学させた。若林にはアメリカのAAA、サンフランシスコ・シールズからの誘いもあった。1929年3月に卒業。同年4月晴れて法政大学予科に入学となった。当時の東京六大学野球は早慶明の鼎立時代で、それに対して法大野球部は弱小チーム。若林の右腕に全てがかかっていたが、1年目はハワイと日本の野球の違いに戸惑い好結果を残せなかった。1930年徐々に適応してきた秋のリーグで法大は念願の初優勝。エースとして存分の働きを見せた。 3年生となった1931年秋、肘・肩を痛めサイドスローへの転向を余儀なくされる。これにより剛速球を失い、変化球とコーナーワークを磨くことになる。1932年4月に本科経済学部に進学。この年の秋季リーグ戦で2度目の優勝を果たす。1933年1月15日、東北の大富農本間家の出である妻・房と学生結婚し、原宿穏田に居を構えていた。1934年通年1シーズン全15戦の試合形式に変更され、法大は主力が大量に卒業し戦力が低下。若林が全15戦全てに登板し、11勝3敗1分の個人成績=チーム成績を残すという空前絶後の働きを見せ、3度目の優勝に輝いた。リーグ戦通算87試合(史上最多)、43勝(史上4位。リーグ初の40勝)28敗。この他、隠し球をプロ野球で初めてやったといわれる苅田久徳にやり方を教えたのは大学時代の若林という。同年、同校体育会アメリカンフットボール部の創設に携わる。 1935年3月、法大を卒業。4月、知人の紹介で日本コロムビアに入社。ビジネスマンとして働く傍ら同社の実業団(社会人)チーム「コロムビア」にも参加し野球を続けた。給料は当時の一流会社の重役以上の500円と破格だった。 1935年7月16日に東京巨人軍が米国遠征から帰国。8月、第9回都市対抗野球大会で決勝戦進出、東京倶楽部に敗れたが最優秀選手に選ばれる。若林の元には巨人、大阪野球倶楽部設立(12月10日)に動いていた阪神電気鉄道(阪神)、大阪阪急野球協会設立(1936年1月23日)に動いていた阪神急行電鉄(阪急)が勧誘に訪れた。最初に来たのは巨人だったが、月給150円を提示され「プロ野球が隆盛に向かうように持っていく自信があるが、それにしては金額が安すぎる」として、巨人の勧誘を断る。次に阪神と阪急が来るが、若林は当時日本になかった概念「契約金」(1万円)を要求する。阪神がこれに応じて契約をまとめ、若林は本契約書サインをもって、1936年1月9日に大阪野球倶楽部に入団した。翌1月10日には大阪野球倶楽部のチーム名が大阪タイガースに決定した。 若林は妻の実家も裕福で、前述のようにハワイの実家も事業で成功していたため、父親から「野球をやらなくても食えるようにしてやっている。ハワイに戻って来い」と催促されたが、「人の援助はもう受けたくない。アメリカの野球選手は立派に一流の社会人として成功している。日本だって必ずプロ選手としてやっていける」と確信してタイガース入団を決意した。 プロ野球は最初は非常に茨の道であったが、若林は将来最も有望な事業であると堅く信じていたという。当時のタイガースは1936年の背番号を"いろは"順に定めたが、若林はこの順番とは違い18だった。若林は本来4をつけるはずだったが、4は縁起が悪いため、空番号のうち一番若い18をつけることになったのが理由である。若林が18をつけてエースとして活躍したことで「エースナンバー=18」と言われるようになる。 タイガース入団時すでに28歳になっていたが投手寿命は非常に長く、45歳まで現役を続け、1リーグ時代の技巧派の代表的投手とされている。「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル)と呼ばれ、ナックルを初めて投げたとも言われる。だが、普段はそれほど多くの球種を投げておらず、殆どはストレートとカーブで、それを制球力と緩急によって投げ分け、打者を幻惑させた。コントロールに優れ、わざとコースを3つ続けて外して3ボールとし打者の打ち気を外してから打ち取ることを楽しみにしていた。特に絶妙のコントロールで、低めで変化させる球を持つことが、長く勝てる理由だとも述べている。 特筆すべきは被本塁打の少なさで、3557回投げてわずか69本しか打たれていない。9イニング当りに換算すると0.175本、すなわち6試合投げて1本しか打たれなかったことになる。戦前のこととはいえ飛び抜けて低い数値であった。球質が重かったと言われているが、それに加えコントロールが良かったことの証明であろう。 1936年(1年目)は10勝、1937年(2年目)は17勝を挙げる。この頃は彼より若い西村幸生や御園生崇男の方が活躍していた。秋シーズン前に肩痛が悪化する。3年目の春シーズンは戦線を離脱して治療に専念し、秋シーズン終盤に復帰した。 1939年(4年目)には全盛期に入り、自己最高の28勝と勝率・防御率のタイトルを獲得。以後シーズン20勝以上を6度記録し、ヴィクトル・スタルヒンや野口二郎と共に、戦中から戦後復興期の日本を代表する投手として活躍を続けた。 1942年からは選手兼任監督に就任した。 1944年、戦前最後のシーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得した。この年の阪神のチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利(19勝)より多かった。36歳で開幕を迎えたシーズンの最多勝獲得は2005年の下柳剛(阪神)と並び史上最年長タイ記録である。また、14試合連続登板の日本記録も残している。 戦争による中断を経て、終戦後は妻の故郷である宮城県石巻市で水産会社の社長を務めていた。プロ野球再開で復帰を要請されたが年齢も40に近く、会社も軌道に乗っていたため当初は復帰を拒否した。しかし戦時に何度も召集された藤村富美男が、体がボロボロになりながら監督兼エースとして投げている、などと聞き心を動かされ復帰を決意したといわれる。1947年に監督兼選手に復帰。11月3日対中日戦(後楽園球場)の延長10回裏1死から救援登板、11回表に味方打線が勝ち越し点を奪い裏を若林が締めてゲームセット。勝ち投手となり、スタルヒンに次ぐ200勝目を挙げた。このシーズンは26勝を挙げて優勝に貢献し、二度目のMVPに選ばれた。この年39歳で20勝投手の最年長記録である。 1948年3月、若林は自身が監修・発行人となり大阪で雑誌『ボールフレンド』を創刊。また子供のために『少年ボールフレンド』を発行した。同年「タイガース子供の会」を個人で立ち上げ、少年野球の発展ひいては阪神ファンの開拓に尽力した。 1949年、41歳で15勝を挙げ、この年まで阪神在籍13年で501試合に登板し233勝を挙げた。この数字は現在も阪神の投手最多勝記録である。この間、1940年 - 1941年は助監督を、1942年 - 1944年、1947年 - 1949年は監督を兼任している。 1950年、2リーグ分裂に伴い、パ・リーグの毎日へ移籍した。彼は以前から2リーグ制論者であり、1949年に始まったプロ野球再編問題に際しては阪神と毎日を中心とする新リーグ設立を積極的に支持していたが、結局阪神が巨人と同じリーグに残ることを決定したため、フロントとの対立が深刻化した結果である。この時に別当薫・土井垣武・呉昌征らも若林と行動を共にして阪神の弱体化を招いたため、阪神サイドから裏切り者扱いされて長らくそのイメージがつきまとうようになった。この理由を、彼のアメリカナイズされたビジネスライクな価値判断に求める意見もあり、例えば水原茂は『プロ野球史再発掘』の中で、「若林は考えが進歩的で、アメリカ式の価値判断でものごとをやっていく。日本式の義理人情じゃない。阪神には義理を感じてなかった男です。…われわれは入団当時、プロの初期のときには月給いくらと決まって、それっきりでいった時代です。ところが若林はちゃんと計算して、月給いくらよこせ、いくら契約金くれということで入っているんですよ。…新しいリーグができる。それじゃ新しく、変わった新天地で、自分を高く評価判断して買ってもらおうとすぐ割り切る男ですよ。だから阪神で相当もらっていても、それは別として、毎日から評価を受けて買われるとなると、パッと切り替えるんですよ」などと述べている。だが彼にしてみれば、2リーグ制の確立に貢献したいという信念に基づく行動である。来日中だったサンフランシスコ・シールズのフランク・オドール監督と交流するうちに2リーグ制の必要性を更に痛感するようになっており、スポーツニッポン紙1950年1月21日付の座談会「僕はなぜやめたか」で退団理由を次のように語っている。 「私としては長年ご厄介になった阪神を辞めたくなかったし、辞めるにしても気持ちよく綺麗にやめたかった。しかし、シールズ軍の連中が来たときにいろいろ話を聞いてみるにつけ、連盟の首脳部および球団のオーナーに対する不満が抑えきれないものになってきた」 既に42歳になっており、選手としてはシーズンをフルに戦える余力はなかったが、11月12日の対近鉄戦では最年長完封勝利(当時)を果たしている。同年の第1回日本シリーズ第1戦に自ら志願して先発。老練な投球内容で日本シリーズ最初の勝利投手となり、毎日の日本一に貢献した。第6戦に2番手投手として登板した際、その試合で既に2本の本塁打を放っていた岩本義行を無死満塁から敬遠した。満塁での敬遠は日本プロ野球史上初である(リーグ公式戦では1975年に広島・中日戦で記録されたのが最初)。岩本自身が「ノーアウトで敬遠なんて、自分の長い野球生活でも後にも先にもない」と驚く作戦だった。 1951年は白星ゼロに終わり、翌1952年は登板もなく、引退同然の状態であった。1953年は2試合に登板したが、これは通算奪三振数がそれまで999個だったので、1000個にするためだったといわれる。黒星1個・自責点8と引き替えに三振1個をもぎ取り、同年正式に現役引退を表明した。 毎日時代も監督を兼任していたが、1950年 - 1952年は総監督の湯浅禎夫が実指揮を執っており、若林はヘッドコーチ的な立場に過ぎなかった。なお1952年は平和台事件の責任を取って、シーズン途中で二軍監督に降格している。1954年には毎日の営業担当取締役に就任するが1年限りで退職し、トンボのヘッドコーチに招かれる。しかしチームは記録的な敗数を喫し1年で退団した。この後いったんプロ野球を離れ「日本ペプシコ」社長やアメリカのテレビ映画『ローハイド』などを輸入した「PCAジャパン」日本支社長に就き、その傍ら毎日放送(テレビ・ラジオ)の野球解説者としても活動した。 1961年に大洋の二軍非常勤投手コーチとして球界に復帰。1963年は西鉄のヘッドコーチに就任。トニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウイルソンら3名の外国人選手を西鉄に紹介。また、田中勉、安部和春、若生忠男、畑隆幸、井上善夫ら若手の投手陣を指導し、長らく稲尾和久一人に頼った西鉄投手陣の立て直しを図った。西鉄は南海に14.5ゲーム差をつけられたが、これらの選手が活躍してゲーム差を逆転し10月21日にリーグ優勝を達成、若林の手腕は高く評価された。 1964年には野球殿堂入りを果たす。しかし11月に末期の胃癌が判明し、同年限りで西鉄から退団した。ただし妻の房の意向で妻と当時の西鉄監督だった中西太以外には事実が伏せられたため、「チームの不振の責任を若林1人に負わせた」として西鉄球団や中西が非難される事態となった。 1965年3月5日、57歳で死去。プロ野球葬が行われ「最期まで病床で現場復帰を懇願していた」と中西が後に語っている。 没後の2011年3月4日、阪神球団がチーム内において優秀な社会貢献活動をした者を表彰する「若林忠志賞」を創設することを決定。2011年シーズンオフから実施することを明らかにし、7月21日に阪神から正式に発表された。毎年11月の優秀な社会貢献活動をした選手は11月の球団納会などにおいて、記念盾と表彰金100万円、活動支援金100万円がそれぞれ贈呈されるほか、阪神甲子園球場内にある「甲子園歴史館」に賞のコーナーを設置して顕彰される。なお、監督・コーチ・フロントなどから「若林忠志賞特別賞」を授与する場合もある。 同じくして2011年4月8日から7月31日まで「甲子園歴史館」にて、企画展『初代エース若林忠志と助っ人外国人列伝』が開催された。 第1回(2011年) - 桧山進次郎
第2回(2012年) - 藤川球児
第3回(2013年) - 岩田稔
第4回(2014年) - 久保田智之
第5回(2015年) - 鳥谷敬
第6回(2016年) - 能見篤史
第7回(2017年)該当無し 第8回(2018年) - 北條史也
第9回(2019年) - 西勇輝
2020年には、年始から新型コロナウイルス感染症が日本国内で流行していることなどを踏まえて表彰を見送った。 第10回(2021年) - 岩貞祐太
第11回(2022年) - 原口文仁
第12回(2023年) - 近本光司
特別賞 第1回(2011年) - 阪神タイガース選手会、阪神タイガースOB会
第2回(2012年) - 該当無し 第3回(2013年) - 該当無し 第4回(2014年) - 該当無し 第5回(2015年) - 該当無し 第6回(2016年) - 該当無し 第7回(2017年) - 阪神タイガース選手会
第8回(2018年) - 該当無し 各年度の太字はリーグ最高 大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に、1947年に、大阪(大阪タイガース)に球団名を変更 最多勝利:1回(1944年) 最優秀防御率:2回(1939年、1944年) 最高勝率:2回(1939年、1944年) 最高殊勲選手(MVP):2回(1944年、1947年)※1947年は投手では1リーグ制最後の受賞 野球殿堂競技者表彰(1964年) シーズン20勝以上 6回(1939年、1940年、1942年 - 1944年、1947年) 14試合連続登板(1944年、マイク・マーシャルを凌ぐ世界記録) 最年長最多勝利投手(1944年) 最年長20勝投手(1947年) 日本シリーズ最年長勝利投手(1950年、42歳8か月) 18(1936年 - 1941年、1946年) 30(1942年 - 1943年、1947年 - 1949年、1963年 - 1964年) 33(1950年 - 1953年) 50(1955年) 60(1956年) ^ ただし、阪神では若林の移籍からしばらくは必ずしも投手の番号として定着せず、与儀眞助(内野手)や藤重登(捕手)など打者が着用した期間があった。 ^ この記録は2010年9月4日、中日の山本昌によって更新されるまで、59年10か月の間破られなかった。 ^ ポストシーズンにおける42歳8か月の勝利投手は、2022年時点でもNPB史上最年長となっている。 ^ 1939年の勝率1位はチームの同僚、御園生崇男が記録した.824(14勝3敗)だったが、最高勝率のタイトルは.800(28勝7敗)の若林が獲得。 ^ Tadashi Wakabayashi Japanese Leagues Statistics & History Baseball-Reference.com 2021年2月14日閲覧。 ^ サンデー毎日 1949年8月21日 若林忠志自叙伝(自叙小傳(上))11-13頁 ^ 阿部牧郎 『素晴らしきプロ野球』 中央公論新社、1994年、94頁 ^ Vol.2 ハワイの剛腕|若林忠志が見た夢|エンタメ|阪神タイガース公式サイト ^ SportsClick:この人にこの技あり ^ 『東京朝日新聞』 1928年4月15日 ^ 「若林投手除名につき リーグから声明 情義においてしのびぬが 将来の弊を考へて」(『東京朝日新聞』 1928年4月23日) ^ サンデー毎日 1949年8月28日 若林忠志自叙小傳(下)11-13頁 ^ 史上最高の投手兼監督・若林忠志のすごさ『週刊ベースボール』2011年12月26日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-12/26, 82頁。 ^ 高橋安幸 『伝説のプロ野球選手に会いに行く』 白夜書房、2008年、32頁 ^ 法政大学 アメリカンフットボール部 クラブ紹介 ^ "内田雅也が行く 猛虎の地(4)「タイガース」の由来は天守閣の虎!?". スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社. 4 December 2019. 2024年8月3日閲覧。 ^ 日本プロ野球偉人伝vol.1 ベースボールマガジン社 P50 ^ プロ野球を変えた男たち、P111 ^ Vol.6 アイデアマン|若林忠志が見た夢|エンタメ|阪神タイガース公式サイト ^ Vol.7 社会貢献|若林忠志が見た夢|エンタメ|阪神タイガース公式サイト ^ 関三穂『プロ野球史再発掘(1)』ベースボール・マガジン社、1987年、P132 - 133。 ^ 内田雅也 若林忠志が見た夢 プロフェッショナルという思想(彩流社、2011年1月) ^ “黒田 意地の大谷斬り直後に負傷降板「改めて凄い…やっぱりいい打者」”. スポーツニッポン (2016年10月26日). 2022年1月10日閲覧。 ^ 朝日新聞1963年10月10日13面「西鉄快進撃のカゲに若林コーチの功績 見事、若い投手を育成 "連れ子"の外人選手大活躍」朝日新聞縮刷版1963年10月p253 ^ “阪神が「若林忠志賞」創設…社会貢献者を表彰”. スポーツニッポン. 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1957 田中義雄 1958 - 1959 金田正泰 1960 - 1961 藤本定義 1961 - 1965 杉下茂 1966 藤本定義 1966 - 1968 後藤次男 1969 村山実 1970 - 1972 金田正泰 1973 - 1974 吉田義男 1975 - 1977 後藤次男 1978 ドン・ブレイザー 1979 - 1980 中西太 1980 - 1981 安藤統男(統夫) 1982 - 1984 吉田義男 1985 - 1987 村山実 1988 - 1989 中村勝広 1990 - 1995 藤田平 1996 吉田義男 1997 - 1998 野村克也 1999 - 2001 星野仙一 2002 - 2003 岡田彰布 2004 - 2008 真弓明信 2009 - 2011 和田豊 2012 - 2015 金本知憲 2016 - 2018 矢野燿大 2019 - 2022 岡田彰布 2023 - 2024 藤川球児 2025 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1937春 沢村栄治 1937秋 ハリス 1938春 苅田久徳 1938秋 中島治康 1939 V.スタルヒン 1940 須田博 1941 川上哲治 1942 水原茂 1943 呉昌征 1944 若林忠志 1946 山本一人 1947 若林忠志 1948 山本一人 1949 藤村富美男 表 話 編 歴 1936秋 景浦將 1937春 沢村栄治 1937秋 西村幸生 1938春 西村幸生 1938秋 V.スタルヒン 1939 若林忠志 1940 野口二郎 1941 野口二郎 1942 林安夫 1943 藤本英雄 1944 若林忠志 1946 藤本英雄 1947 白木義一郎 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 表 話 編 歴 1936秋 沢村栄治 1937春 沢村栄治 1937秋 西村幸生, V.スタルヒン, 野口明 1938春 V.スタルヒン 1938秋 V.スタルヒン 1939 V.スタルヒン 1940 須田博 1941 森弘太郎 1942 野口二郎 1943 藤本英雄 1944 若林忠志 1946 白木義一郎 1947 別所昭 1948 川崎徳次, 中尾碩志 1949 V.スタルヒン 表 話 編 歴 1936秋 景浦將 1937春 沢村栄治 1937秋 御園生崇男 1938春 御園生崇男 1938秋 V.スタルヒン 1939 若林忠志 1940 須田博 1941 森弘太郎 1942 広瀬習一 1943 藤本英雄 1944 若林忠志 1946 藤本英雄 1947 御園生崇男 1948 別所昭 1949 藤本英雄 表 話 編 歴 1950 若林忠志 1951 江藤正 1952 大神武俊 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 柚木進 1956 川崎徳次 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 中西勝己 1961 J.スタンカ 1962 土橋正幸 1963 稲尾和久 1964 J.スタンカ 1965 杉浦忠 1966 渡辺泰輔 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 石井茂雄 1970 木樽正明 1971 足立光宏 1972 山田久志 1973 江本孟紀 1974 金田留広 1975 足立光宏 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 井本隆 1980 井本隆 1981 高橋一三 1982 松沼博久 1983 松沼博久 1984 山田久志 1985 松沼博久 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 渡辺久信 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 工藤公康 1992 渡辺久信 1993 工藤公康 1994 渡辺久信 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 若田部健一 2001 J.パウエル 2002 松坂大輔 2003 斉藤和巳 2004 石井貴 2005 清水直行 2006 ダルビッシュ有 2007 ダルビッシュ有 2008 涌井秀章 2009 武田勝 2010 成瀬善久 2011 和田毅 2012 吉川光夫 2013 則本昂大 2014 J.スタンリッジ 2015 武田翔太 2016 大谷翔平 2017 千賀滉大 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1936春夏 藤村富美男 1936秋 若林忠志 1937春 景浦將 1937秋 若林忠志 1938春 御園生崇男 1938秋 青木正一 1939 若林忠志 1940 木下勇 1941 若林忠志 1942 若林忠志 1943 三輪八郎 1944 若林忠志 1946 渡辺誠太郎 1947 若林忠志 1948 御園生崇男 1949 若林忠志 1950 内山清 1951 内山清 1952 三船正俊 1953 藤村隆男 1954 小山正明 1955 西村一孔 1956 小山正明 1957 西尾慈高 1958 渡辺省三 1959 小山正明 1960 村山実 1961 小山正明 1962 小山正明 1963 小山正明 1964 村山実 1965 G.バッキー 1966 村山実 1967 村山実 1968 村山実 1969 江夏豊 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 古沢憲司 1973 江夏豊 1974 江夏豊 1975 江夏豊 1976 古沢憲司 1977 江本孟紀 1978 江本孟紀 1979 江本孟紀 1980 小林繁 1981 小林繁 1982 小林繁 1983 小林繁 1984 野村収 1985 池田親興 1986 池田親興 1987 M.キーオ 1988 仲田幸司 1989 仲田幸司 1990 中西清起 1991 野田浩司 1992 葛西稔 1993 仲田幸司 1994 湯舟敏郎 1995 湯舟敏郎 1996 藪恵壹 1997 川尻哲郎 1998 藪恵壹 1999 藪恵壹 2000 星野伸之 2001 星野伸之 2002 井川慶 2003 井川慶 2004 井川慶 2005 井川慶 2006 井川慶 2007 下柳剛 2008 安藤優也 2009 安藤優也 2010 安藤優也 2011 能見篤史 2012 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 能見篤史 2015 R.メッセンジャー 2016 R.メッセンジャー 2017 R.メッセンジャー 2018 R.メッセンジャー 2019 R.メッセンジャー 2020 西勇輝 2021 藤浪晋太郎 2022 藤浪晋太郎 2023 青柳晃洋 2024 青柳晃洋 VIAF 日本 ハワイの野球選手 日本の野球選手 横浜高等学校出身の野球選手 法政大学野球部の選手 日本コロムビア硬式野球部及びその前身チームの選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の監督 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督 最多勝利 (NPB) 最優秀防御率 (NPB) 最高勝率 (野球) 最優秀選手 (NPB) アメリカ合衆国の野球監督 選手兼任監督 高橋ユニオンズ関連人物 横浜DeNAベイスターズ関連人物 埼玉西武ライオンズ関連人物 日本の野球殿堂表彰者 日系アメリカ人の野球選手 帰化日本人の野球選手 アメリカ系日本人の野球選手 1908年生 1965年没 胃癌で亡くなった人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/02 01:30更新
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