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若林忠志の情報 (わかばやしただし)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

若林忠志の情報(わかばやしただし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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若林 忠志さんについて調べます

■名前・氏名
若林 忠志
(読み:わかばやし ただし)
■職業
野球選手
■若林忠志の誕生日・生年月日
1908年3月1日 (年齢1965年没)
申年(さる年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
不明

若林忠志と同じ1908年生まれの有名人・芸能人

若林忠志と同じ3月1日生まれの有名人・芸能人

若林忠志と同じ出身地の人


若林忠志と関係のある人

近本光司: 「三井ゴールデン・グラブ賞」と「ベストナイン」は3年連続3度目の受賞となり、2023年度若林忠志賞の授賞者となる。


西勇輝: 阪神移籍後の2019年には、他球団から移籍した選手では初めて、阪神球団から若林忠志賞を授与された。


石本秀一: 東京セネタースの主力選手だった苅田久徳は、自著に「セネタースが内紛でごたごたし始めた頃、タイガースの若林忠志から内々に入団歓誘を受けた。


清俊彦: 1964年に西鉄ライオンズへ入団し、若林忠志ヘッドコーチの指導でコントロールを付ける。


藤村富美男: 若林忠志さん、土井垣武さん、別当薫さんら主力が毎日に抜けても、藤村さんは誘いを断った。


苅田久徳: また、日本プロ野球史上初の「隠し球」の記録者でもある(苅田自身は東京六大学時代に、法政大学のチームメイトだった若林忠志から教えてもらったと話している)。


林義一: 巧緻なピッチングは若林忠志に次いで、「二代目名人」の呼称を冠せられたほどであった。


岩本義行: 毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでも3本塁打を打ち、第6試合では4点リードされて無死満塁では毎日から同点本塁打を警戒されて敬遠された(投手は若林忠志)。


後藤次男: 母校・法大の先輩である若林忠志監督に勧誘され、大学卒業後の1948年に大阪タイガースへ入団。


中西太: 同年オフの退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受け、「若林に成績不振の責任を取らせた」とマスコミからの非難を浴びた。


呉昌征: 1949年末の2リーグ分裂騒動で若林忠志に従ってパ・リーグの毎日オリオンズに移籍。


松木謙治郎: 1950年に行われたプロ野球の「2リーグ分裂」によって若林忠志が毎日オリオンズへ引き抜かれ、藤村富美男らの要請を受けた松木は大阪タイガースの監督に復帰した。


別当薫: 1952年には平和台事件で湯浅禎夫総監督・若林忠志監督が更迭されたのをうけ監督代行となり、7月30日から閉幕まで43試合で指揮を執って30勝13敗、勝率.698と好成績を残した。


山口政信: 実際に山口に走らせて若林忠志がストップウォッチを押したところ、14秒6であった。


村山実: 通算222勝は、大学卒の投手としては若林忠志(237勝)に次ぐ歴代2位で、阪神の投手勝利数の記録でも歴代2位、通算防御率2.09はセ・リーグ記録である。


井上弘昭: ^ ただし、日本シリーズでは1950年に毎日オリオンズの若林忠志が4点リードながら満塁で当日2本塁打を打っていた松竹ロビンスの岩本義行を迎えた際に、満塁でも敬遠した例がある。


森井茂: 阪急:森弘太郎、大阪:若林忠志の投げ合いだった)で56分で更新され、1946年7月26日のパシフィックvs阪神戦(西宮球場。


石風呂良一: ^ 「若林忠志が見た夢(24)」スポーツニッポン、2009年12月17日3面


江藤晴康: 以前に武末悉昌の獲得を巡って両球団が争い、武末が南海に入ったことを「奪われた」と考えた大阪の若林忠志監督が南海の山本一人監督に抗議したところ、山本が「武末は南海、江藤は大阪ということにしよう」と口にした。


宮武三郎: 加えて当時は、三原修(早大)、小川正太郎(早大)、伊達正男(早大)、伊丹安広(早大)、若林忠志(法大)苅田久徳(法大)、島秀之助(法大)、田部武雄(明大)、松木謙治郎(明大)、菊谷正一(立大)ら多くのスター選手が活躍しており、東京六大学リーグ戦はたいへんな人気を博していた。


田中義雄: 松木は「株に手を出して作った借金の決済のために来日した」という若林忠志の証言も紹介しているが、これについては「人柄から判断して口実だったと考えられる」と記している。


藤村隆男: 御園生崇男の指導によって急成長した藤村はこの年16勝を挙げて、若林忠志(15勝)・梶岡忠義(13勝)を抑えてチームの勝ち頭となった。


島秀之助: 若林忠志とは法政大時代同期、苅田久徳は1年後輩にあたる。


岩田稔: 2013年には、糖尿病患者に対する慈善活動が評価されたことによって、阪神球団から若林忠志賞を授与。


宮武三郎: この場外本塁打は、1930年(昭和5年)10月4日の慶法1回戦の初回に若林忠志から放ったもので、場外にあった相撲場(現在の神宮第二球場)まで届いたことから「相撲場ホームラン」の異名がある(その翌1931年に外野スタンドが増築されているため神宮唯一の記録と思われる)。


石川雅規: この勝利によって、1950年の若林忠志以来2人目となる40代での勝利投手で、シリーズ史上2番目、セ・リーグでは最年長記録となった。


相沢進: この時の相沢の活躍は、当時大阪タイガースの監督を務めていた若林忠志の目に留まった。


兵頭冽: 八幡浜高校時代に若林忠志のスカウトを受け、1953年に毎日オリオンズへ入団。


末吉俊信: 83試合登板は若林忠志に次ぐリーグ歴代2位、44勝は山中正竹、江川卓に次ぐリーグ歴代3位。


本堂保次: しかし、同年オフに二塁手を求めていた阪神監督の若林忠志の誘いを受けると、本堂自身も「自分の持てる技量を存分に発揮できる球団に行きたい」として、わずか1年で阪神に復帰した。


若林忠志の情報まとめ

もしもしロボ

若林 忠志(わかばやし ただし)さんの誕生日は1908年3月1日です。

もしもしロボ

父親、卒業、結婚、現在、引退、事件、テレビ、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1965年に亡くなられているようです。

若林忠志のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

若林 忠志(わかばやし ただし、本名:タダシ・ヘンリー・ワカバヤシ(Tadashi Henry Wakabayashi)、1908年3月1日 - 1965年3月5日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii、現:ハワイ州)生まれのプロ野球選手(投手)・監督。ハワイ移民の日系2世。

ジャズ・ミュージシャンの津上研太は孫。

1908年3月1日、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii、現:ハワイ州)・オアフ島ワヒアワで出生。九人兄妹の五番目の三男。父親の代に広島県芦品郡戸手村(現:福山市)からハワイへ移民しており、父母ともに広島県芦品郡生まれの日本人。両親は日本を主な取引相手とする雑貨貿易商を営むかたわら、パイナップル缶詰会社を経営する等、事業で成功し裕福な家庭で育った。

国籍はアメリカ・日本の二重だったが、1928年に日本国籍を一旦離脱。日系外国人に退去命令が出された1941年に日本国籍を回復、アメリカ国籍から離脱した。愛称は「ボゾ」(アメリカ俗語「BOZO」は「(筋肉ばかりある)薄ら馬鹿の男」といった意味。発祥は第一次世界大戦直後)。マッキンレー・ハイスクール(英語版)時代は、アメリカンフットボールに熱心だったが、試合中に頭を蹴られ2か月の大けがをする。以後、両親からアメリカンフットボールを禁止され、次にベースボールをはじめた。元は捕手だったが、マッキンレー・ハイスクール時代の1学年上の田中義雄には敵わず、田中から投手転向を勧められ、上段から投げ下ろす剛速球を武器とするエースとなった。

1928年、スタクトン野球団のメンバーとなり、親善試合のため来日。当時日本にはまだプロ野球が存在しなかったため東京六大学の早稲田・明治・法政などと対戦した。若林の存在はたちまち話題になり、六大学のうち特に法政大学が熱心に勧誘した。若林自身も両親の母国である日本に敬愛の念を抱いており、法政入学は決定かと思われたが、日本の中学校を出ていない外来選手の獲得には法政を除く六大学各校から反対意見が噴出したため、同年7月のハイスクール卒業を待って再来日させ、9月、横浜の旧制本牧中学校(現:横浜高等学校)に4年生として編入学させた。若林にはアメリカのAAA、サンフランシスコ・シールズからの誘いもあった。1929年3月に卒業。同年4月晴れて法政大学予科に入学となった。当時の東京六大学野球は早慶明の鼎立時代で、それに対して法大野球部は弱小チーム。若林の右腕に全てがかかっていたが、1年目はハワイと日本の野球の違いに戸惑い好結果を残せなかった。1930年徐々に適応してきた秋のリーグで法大は念願の初優勝。エースとして存分の働きを見せた。

3年生となった1931年秋、肘・肩を痛めサイドスローへの転向を余儀なくされる。これにより剛速球を失い、変化球とコーナーワークを磨くことになる。1932年4月に本科経済学部に進学。この年の秋季リーグ戦で2度目の優勝を果たす。1933年1月15日、東北の大富農本間家の出である妻・房と学生結婚し、原宿穏田に居を構えていた。1934年通年1シーズン全15戦の試合形式に変更され、法大は主力が大量に卒業し戦力が低下。若林が全15戦全てに登板し、11勝3敗1分の個人成績=チーム成績を残すという空前絶後の働きを見せ、3度目の優勝に輝いた。リーグ戦通算87試合(史上最多)、43勝(史上4位。リーグ初の40勝)28敗。この他、隠し球をプロ野球で初めてやったといわれる苅田久徳にやり方を教えたのは大学時代の若林という。同年、同校体育会アメリカンフットボール部の創設に携わる。

1935年3月、法大を卒業。4月、知人の紹介で日本コロムビアに入社。ビジネスマンとして働く傍ら同社の実業団(社会人)チーム「コロムビア」にも参加し野球を続けた。給料は当時の一流会社の重役以上の500円と破格だった。

1935年7月16日に東京巨人軍が米国遠征から帰国。8月、第9回都市対抗野球大会で決勝戦進出、東京倶楽部に敗れたが最優秀選手に選ばれる。若林の元には巨人、大阪野球倶楽部設立(12月10日)に動いていた阪神電気鉄道(阪神)、大阪阪急野球協会設立(1936年1月23日)に動いていた阪神急行電鉄(阪急)が勧誘に訪れた。最初に来たのは巨人だったが、月給150円を提示され「プロ野球が隆盛に向かうように持っていく自信があるが、それにしては金額が安すぎる」として、巨人の勧誘を断る。次に阪神と阪急が来るが、若林は当時日本になかった概念「契約金」(1万円)を要求する。阪神がこれに応じて契約をまとめ、若林は本契約書サインをもって、1936年1月9日に大阪野球倶楽部に入団した。翌1月10日には大阪野球倶楽部のチーム名が大阪タイガースに決定した。

若林は妻の実家も裕福で、前述のようにハワイの実家も事業で成功していたため、父親から「野球をやらなくても食えるようにしてやっている。ハワイに戻って来い」と催促されたが、「人の援助はもう受けたくない。アメリカの野球選手は立派に一流の社会人として成功している。日本だって必ずプロ選手としてやっていける」と確信してタイガース入団を決意した。

プロ野球は最初は非常に茨の道であったが、若林は将来最も有望な事業であると堅く信じていたという。当時のタイガースは1936年の背番号を"いろは"順に定めたが、若林はこの順番とは違い18だった。若林は本来4をつけるはずだったが、4は縁起が悪いため、空番号のうち一番若い18をつけることになったのが理由である。若林が18をつけてエースとして活躍したことで「エースナンバー=18」と言われるようになる。

タイガース入団時すでに28歳になっていたが投手寿命は非常に長く、45歳まで現役を続け、1リーグ時代の技巧派の代表的投手とされている。「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル)と呼ばれ、ナックルを初めて投げたとも言われる。だが、普段はそれほど多くの球種を投げておらず、殆どはストレートとカーブで、それを制球力と緩急によって投げ分け、打者を幻惑させた。コントロールに優れ、わざとコースを3つ続けて外して3ボールとし打者の打ち気を外してから打ち取ることを楽しみにしていた。特に絶妙のコントロールで、低めで変化させる球を持つことが、長く勝てる理由だとも述べている。

特筆すべきは被本塁打の少なさで、3557回投げてわずか69本しか打たれていない。9イニング当りに換算すると0.175本、すなわち6試合投げて1本しか打たれなかったことになる。戦前のこととはいえ飛び抜けて低い数値であった。球質が重かったと言われているが、それに加えコントロールが良かったことの証明であろう。

1936年(1年目)は10勝、1937年(2年目)は17勝を挙げる。この頃は彼より若い西村幸生や御園生崇男の方が活躍していた。秋シーズン前に肩痛が悪化する。3年目の春シーズンは戦線を離脱して治療に専念し、秋シーズン終盤に復帰した。

1939年(4年目)には全盛期に入り、自己最高の28勝と勝率・防御率のタイトルを獲得。以後シーズン20勝以上を6度記録し、ヴィクトル・スタルヒンや野口二郎と共に、戦中から戦後復興期の日本を代表する投手として活躍を続けた。

1942年からは選手兼任監督に就任した。

1944年、戦前最後のシーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得した。この年の阪神のチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利(19勝)より多かった。36歳で開幕を迎えたシーズンの最多勝獲得は2005年の下柳剛(阪神)と並び史上最年長タイ記録である。また、14試合連続登板の日本記録も残している。

戦争による中断を経て、終戦後は妻の故郷である宮城県石巻市で水産会社の社長を務めていた。プロ野球再開で復帰を要請されたが年齢も40に近く、会社も軌道に乗っていたため当初は復帰を拒否した。しかし戦時に何度も召集された藤村富美男が、体がボロボロになりながら監督兼エースとして投げている、などと聞き心を動かされ復帰を決意したといわれる。1947年に監督兼選手に復帰。11月3日対中日戦(後楽園球場)の延長10回裏1死から救援登板、11回表に味方打線が勝ち越し点を奪い裏を若林が締めてゲームセット。勝ち投手となり、スタルヒンに次ぐ200勝目を挙げた。このシーズンは26勝を挙げて優勝に貢献し、二度目のMVPに選ばれた。この年39歳で20勝投手の最年長記録である。

1948年3月、若林は自身が監修・発行人となり大阪で雑誌『ボールフレンド』を創刊。また子供のために『少年ボールフレンド』を発行した。同年「タイガース子供の会」を個人で立ち上げ、少年野球の発展ひいては阪神ファンの開拓に尽力した。

1949年、41歳で15勝を挙げ、この年まで阪神在籍13年で501試合に登板し233勝を挙げた。この数字は現在も阪神の投手最多勝記録である。この間、1940年 - 1941年は助監督を、1942年 - 1944年、1947年 - 1949年は監督を兼任している。

1950年、2リーグ分裂に伴い、パ・リーグの毎日へ移籍した。彼は以前から2リーグ制論者であり、1949年に始まったプロ野球再編問題に際しては阪神と毎日を中心とする新リーグ設立を積極的に支持していたが、結局阪神が巨人と同じリーグに残ることを決定したため、フロントとの対立が深刻化した結果である。この時に別当薫・土井垣武・呉昌征らも若林と行動を共にして阪神の弱体化を招いたため、阪神サイドから裏切り者扱いされて長らくそのイメージがつきまとうようになった。この理由を、彼のアメリカナイズされたビジネスライクな価値判断に求める意見もあり、例えば水原茂は『プロ野球史再発掘』の中で、「若林は考えが進歩的で、アメリカ式の価値判断でものごとをやっていく。日本式の義理人情じゃない。阪神には義理を感じてなかった男です。…われわれは入団当時、プロの初期のときには月給いくらと決まって、それっきりでいった時代です。ところが若林はちゃんと計算して、月給いくらよこせ、いくら契約金くれということで入っているんですよ。…新しいリーグができる。それじゃ新しく、変わった新天地で、自分を高く評価判断して買ってもらおうとすぐ割り切る男ですよ。だから阪神で相当もらっていても、それは別として、毎日から評価を受けて買われるとなると、パッと切り替えるんですよ」などと述べている。だが彼にしてみれば、2リーグ制の確立に貢献したいという信念に基づく行動である。来日中だったサンフランシスコ・シールズのフランク・オドール監督と交流するうちに2リーグ制の必要性を更に痛感するようになっており、スポーツニッポン紙1950年1月21日付の座談会「僕はなぜやめたか」で退団理由を次のように語っている。

「私としては長年ご厄介になった阪神を辞めたくなかったし、辞めるにしても気持ちよく綺麗にやめたかった。しかし、シールズ軍の連中が来たときにいろいろ話を聞いてみるにつけ、連盟の首脳部および球団のオーナーに対する不満が抑えきれないものになってきた」

既に42歳になっており、選手としてはシーズンをフルに戦える余力はなかったが、11月12日の対近鉄戦では最年長完封勝利(当時)を果たしている。同年の第1回日本シリーズ第1戦に自ら志願して先発。老練な投球内容で日本シリーズ最初の勝利投手となり、毎日の日本一に貢献した。第6戦に2番手投手として登板した際、その試合で既に2本の本塁打を放っていた岩本義行を無死満塁から敬遠した。満塁での敬遠は日本プロ野球史上初である(リーグ公式戦では1975年に広島・中日戦で記録されたのが最初)。岩本自身が「ノーアウトで敬遠なんて、自分の長い野球生活でも後にも先にもない」と驚く作戦だった。

1951年は白星ゼロに終わり、翌1952年は登板もなく、引退同然の状態であった。1953年は2試合に登板したが、これは通算奪三振数がそれまで999個だったので、1000個にするためだったといわれる。黒星1個・自責点8と引き替えに三振1個をもぎ取り、同年正式に現役引退を表明した。

毎日時代も監督を兼任していたが、1950年 - 1952年は総監督の湯浅禎夫が実指揮を執っており、若林はヘッドコーチ的な立場に過ぎなかった。なお1952年は平和台事件の責任を取って、シーズン途中で二軍監督に降格している。1954年には毎日の営業担当取締役に就任するが1年限りで退職し、トンボのヘッドコーチに招かれる。しかしチームは記録的な敗数を喫し1年で退団した。この後いったんプロ野球を離れ「日本ペプシコ」社長やアメリカのテレビ映画『ローハイド』などを輸入した「PCAジャパン」日本支社長に就き、その傍ら毎日放送(テレビ・ラジオ)の野球解説者としても活動した。

1961年に大洋の二軍非常勤投手コーチとして球界に復帰。1963年は西鉄のヘッドコーチに就任。トニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウイルソンら3名の外国人選手を西鉄に紹介。また、田中勉、安部和春、若生忠男、畑隆幸、井上善夫ら若手の投手陣を指導し、長らく稲尾和久一人に頼った西鉄投手陣の立て直しを図った。西鉄は南海に14.5ゲーム差をつけられたが、これらの選手が活躍してゲーム差を逆転し10月21日にリーグ優勝を達成、若林の手腕は高く評価された。

1964年には野球殿堂入りを果たす。しかし11月に末期の胃癌が判明し、同年限りで西鉄から退団した。ただし妻の房の意向で妻と当時の西鉄監督だった中西太以外には事実が伏せられたため、「チームの不振の責任を若林1人に負わせた」として西鉄球団や中西が非難される事態となった。

1965年3月5日、57歳で死去。プロ野球葬が行われ「最期まで病床で現場復帰を懇願していた」と中西が後に語っている。

没後の2011年3月4日、阪神球団がチーム内において優秀な社会貢献活動をした者を表彰する「若林忠志賞」を創設することを決定。2011年シーズンオフから実施することを明らかにし、7月21日に阪神から正式に発表された。毎年11月の優秀な社会貢献活動をした選手は11月の球団納会などにおいて、記念盾と表彰金100万円、活動支援金100万円がそれぞれ贈呈されるほか、阪神甲子園球場内にある「甲子園歴史館」に賞のコーナーを設置して顕彰される。なお、監督・コーチ・フロントなどから「若林忠志賞特別賞」を授与する場合もある。

同じくして2011年4月8日から7月31日まで「甲子園歴史館」にて、企画展『初代エース若林忠志と助っ人外国人列伝』が開催された。

第1回(2011年) - 桧山進次郎

現役時代10年間にわたり母子生活支援施設の児童を甲子園の公式戦に招待。また児童福祉施設に図書などを寄付するなどの社会的評価を得た。

第2回(2012年) - 藤川球児

フリースクールなどに通う児童などを招待、また絶対的守護神としてチームの勝利とファンへの勇気をもたらすなど、プレー以外でのファンサービスの姿勢など、社会的な貢献を熱心に進めた。

第3回(2013年) - 岩田稔

1型糖尿病を抱えながらプロ野球選手としてプレーし、様々なハンディキャップを克服しながら日々の生活を送る子供たちに勇気を与え、また糖尿病の子供たちを公式戦に招待するといった活動を通して、糖尿病の社会的な啓蒙活動を展開。

第4回(2014年) - 久保田智之

2009年から6年間にわたり、7千人以上の子供たちを甲子園の公式戦に招待した。

第5回(2015年) - 鳥谷敬

2011年から5年間にわたり沖縄の医療施設を訪問、またフィリピンの恵まれない子供達に靴を贈るなど幅広く活動。

第6回(2016年) - 能見篤史

2014年から1勝につき10万円分の玩具を西宮市と豊岡市の児童施設に贈る活動を行う。

第7回(2017年)該当無し

第8回(2018年) - 北條史也

入団年から毎年シーズンオフに障害児入所施設や母子医療施設などを訪問し、社会貢献活動を行っている。

第9回(2019年) - 西勇輝

オリックス時代の2011年から日本赤十字社や日本財団子どもサポートプロジェクトへの寄付を毎年行っている。

2020年には、年始から新型コロナウイルス感染症が日本国内で流行していることなどを踏まえて表彰を見送った。

第10回(2021年) - 岩貞祐太

熊本地震の「復興支援」と「子どもたちへの野球振興」を目的に、2017年から2020年まで勝利数に応じて1勝につき10万円の寄付、または相当金額分の野球道具寄贈だった行ってきた。2021年は中継ぎに転向したため1ホールドにつき5万円の寄付、または相当金額分の野球道具を熊本県で活動する少年野球チームまたは少年野球を運営する団体へ寄贈することに変更。

第11回(2022年) - 原口文仁

2018年末の健康診断で大腸癌の罹患が判明したにもかかわらず、2019年1月末の手術を経てシーズン中の6月に一軍復帰を果たした経験を踏まえて、同年のオフシーズンから癌の早期発見・治療に向けた啓発活動に従事。「チャイルド・ケモ・ハウス」(神戸市内にある小児がん医療ケア施設)への訪問に加えて、2020年以降はこの施設に対して、レギュラーシーズンの一軍公式戦で記録した安打と打点の総数に1万円を乗じた金額の寄付を続けている(当該項で詳述)。

第12回(2023年) - 近本光司

入団2年目の2020年より、毎年甲子園のレフト外野席の年間予約席を購入し、故郷の淡路市在住者を年間240名招待(2020年度は無観客開催の為実施なし)する『近本シート』の実施や、淡路島や自主トレ先の沖永良部島の子どもたちを対象にした野球教室・スポーツ教室を定期的に開催するなど、離島を中心とした社会貢献活動と野球・スポーツ振興活動を行っている。

特別賞

第1回(2011年) - 阪神タイガース選手会、阪神タイガースOB会

東日本大震災復興支援募金活動をシーズンを通じて実施した。また、エコキャップ活動により社会的に高い評価を受けたため。
川藤会長を中心とし、OB会員委員のみならず、阪神・球界OBタレント等にも呼びかけ、募金活動を2011年シーズン最終戦まで実施したため。

第2回(2012年) - 該当無し

第3回(2013年) - 該当無し

第4回(2014年) - 該当無し

第5回(2015年) - 該当無し

第6回(2016年) - 該当無し

第7回(2017年) - 阪神タイガース選手会

2005年以降セ・パ交流戦やウル虎の夏などで実際に着用したユニフォームを対象とするチャリティーオークションを球団とともに開催し、ファンの支持による寄付金は累計で1億8000万円を超え、毎年恵まれない子供の試合や国内外の災害地の救済などに大いに役立っており、多年にわたり多くの寄付を募るために尽力するその姿勢が評価され、特別賞の受賞となった。

第8回(2018年) - 該当無し

各年度の太字はリーグ最高

大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に、1947年に、大阪(大阪タイガース)に球団名を変更

最多勝利:1回(1944年)

最優秀防御率:2回(1939年、1944年)

最高勝率:2回(1939年、1944年)

最高殊勲選手(MVP):2回(1944年、1947年)※1947年は投手では1リーグ制最後の受賞

野球殿堂競技者表彰(1964年)

シーズン20勝以上 6回(1939年、1940年、1942年 - 1944年、1947年)

14試合連続登板(1944年、マイク・マーシャルを凌ぐ世界記録)

最年長最多勝利投手(1944年)

最年長20勝投手(1947年)

日本シリーズ最年長勝利投手(1950年、42歳8か月)

18(1936年 - 1941年、1946年)

30(1942年 - 1943年、1947年 - 1949年、1963年 - 1964年)

33(1950年 - 1953年)

50(1955年)

60(1956年)

^ ただし、阪神では若林の移籍からしばらくは必ずしも投手の番号として定着せず、与儀眞助(内野手)や藤重登(捕手)など打者が着用した期間があった。

^ この記録は2010年9月4日、中日の山本昌によって更新されるまで、59年10か月の間破られなかった。

^ ポストシーズンにおける42歳8か月の勝利投手は、2022年時点でもNPB史上最年長となっている。

^ 1939年の勝率1位はチームの同僚、御園生崇男が記録した.824(14勝3敗)だったが、最高勝率のタイトルは.800(28勝7敗)の若林が獲得。

^ Tadashi Wakabayashi Japanese Leagues Statistics & History Baseball-Reference.com 2021年2月14日閲覧。

^ サンデー毎日 1949年8月21日 若林忠志自叙伝(自叙小傳(上))11-13頁

^ 阿部牧郎 『素晴らしきプロ野球』 中央公論新社、1994年、94頁

^ Vol.2 ハワイの剛腕|若林忠志が見た夢|エンタメ|阪神タイガース公式サイト

^ SportsClick:この人にこの技あり

^ 『東京朝日新聞』 1928年4月15日

^ 「若林投手除名につき リーグから声明 情義においてしのびぬが 将来の弊を考へて」(『東京朝日新聞』 1928年4月23日)

^ サンデー毎日 1949年8月28日 若林忠志自叙小傳(下)11-13頁

^ 史上最高の投手兼監督・若林忠志のすごさ『週刊ベースボール』2011年12月26日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-12/26, 82頁。

^ 高橋安幸 『伝説のプロ野球選手に会いに行く』 白夜書房、2008年、32頁

^ 法政大学 アメリカンフットボール部 クラブ紹介

^ "内田雅也が行く 猛虎の地(4)「タイガース」の由来は天守閣の虎!?". スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社. 4 December 2019. 2024年8月3日閲覧。

^ 日本プロ野球偉人伝vol.1 ベースボールマガジン社 P50

^ プロ野球を変えた男たち、P111

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^ 内田雅也 若林忠志が見た夢 プロフェッショナルという思想(彩流社、2011年1月)

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^ “阪神 能見に若林賞 14年から児童施設に玩具贈る活動継続”. スポニチ Sponichi Annex. (2016年11月15日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/11/15/kiji/K20161115013724780.html 2016年11月15日閲覧。 

^ “阪神・北條に若林忠志賞 オフの積極的な社会貢献活動を評価”. サンスポ. (2018年11月14日). https://www.sanspo.com/article/20181114-BI6PJ4J4BVM5FI6JF5HUBUJDG4/ 2018年11月14日閲覧。 

^ 阪神西勇輝に若林忠志賞 継続した社会貢献活動 日刊スポーツ 2019年11月13日

^ 【内田雅也の追球】阪神が育てる社会貢献の伝統 コロナで表彰見送りの「若林忠志賞」 - スポニチ Sponichi Annex(2020年11月27日)2021年3月23日閲覧。

^ 阪神岩貞 熊本へ社会貢献活動で若林忠志賞 くまモンもサプライズ登場 日刊スポーツ 2021年12月7日

^ 『2022年度(第11回)若林忠志賞について』(プレスリリース)阪神タイガース、2022年12月14日。https://hanshintigers.jp/news/topics/info_8441.html。2022年12月14日閲覧。 

^ “阪神・原口に「若林忠志賞」 19年から小児がん患者らの医療施設に寄付”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年12月14日). https://www.daily.co.jp/tigers/2022/12/14/0015890724.shtml 2022年12月14日閲覧。 

^ 2023年度(第12回)若林忠志賞 近本光司選手が受賞』(プレスリリース)阪神タイガース、2023年11月24日。https://hanshintigers.jp/news/topics/info_9036.html。2024年3月5日閲覧。 

^ “2017年度(第7回)若林忠志賞・特別賞受賞について”. 阪神タイガース公式サイト. (2017年11月20日). https://hanshintigers.jp/news/topics/info_5286.html 2017年11月20日閲覧。 

「若林忠志自叙小傳(上)(下)」『サンデー毎日 』1949年8月21日、28日

島秀之助『プロ野球審判の眼』岩波書店、1986年9月

鈴木明『プロ野球を変えた男たち』新潮社、1983年8月

山本茂『七色の魔球―回想の若林忠志』ベースボール・マガジン社、1994年10月

内田雅也『若林忠志が見た夢 プロフェッショナルという思想』彩流社、2011年1月。 

法政大学の人物一覧

阪神タイガースの選手一覧

千葉ロッテマリーンズの選手一覧

個人年度別成績 若林忠志 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

若林忠志が見た夢 - 阪神タイガース公式サイト

若林忠志賞 - 阪神タイガース公式サイト

Vol.010 法政野球の精髄〜藤田信男と若林忠志〜 - 法政大学

湯浅禎夫 1950 - 1952

別当薫 1952

若林忠志 1953

別当薫 1954 - 1959

西本幸雄 1960

宇野光雄 1961 - 1962

本堂保次 1963 - 1965

田丸仁 1966

戸倉勝城 1967

濃人渉 1967 - 1971

大沢啓二 1971 - 1972

金田正一 1973 - 1978

山内一弘 1979 - 1981

山本一義 1982 - 1983

稲尾和久 1984 - 1986

有藤道世 1987 - 1989

金田正一 1990 - 1991

八木沢荘六 1992 - 1994

ボビー・バレンタイン 1995

江尻亮 1996

近藤昭仁 1997 - 1998

山本功児 1999 - 2003

ボビー・バレンタイン 2004 - 2009

西村徳文 2010 - 2012

伊東勤 2013 - 2017

井口資仁 2018 - 2022

吉井理人 2023 - 現在

森茂雄 1936

石本秀一 1936 - 1939

松木謙治郎 1940 - 1941

若林忠志 1942 - 1944

藤村富美男 1946

若林忠志 1947 - 1949

松木謙治郎 1950 - 1954

岸一郎 1955

藤村富美男 1955 - 1957

田中義雄 1958 - 1959

金田正泰 1960 - 1961

藤本定義 1961 - 1965

杉下茂 1966

藤本定義 1966 - 1968

後藤次男 1969

村山実 1970 - 1972

金田正泰 1973 - 1974

吉田義男 1975 - 1977

後藤次男 1978

ドン・ブレイザー 1979 - 1980

中西太 1980 - 1981

安藤統男(統夫) 1982 - 1984

吉田義男 1985 - 1987

村山実 1988 - 1989

中村勝広 1990 - 1995

藤田平 1996

吉田義男 1997 - 1998

野村克也 1999 - 2001

星野仙一 2002 - 2003

岡田彰布 2004 - 2008

真弓明信 2009 - 2011

和田豊 2012 - 2015

金本知憲 2016 - 2018

矢野燿大 2019 - 2022

岡田彰布 2023 - 2024

藤川球児 2025 - 現在

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治、鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一、二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義、藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂、西沢道夫

78 松木謙治郎、浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘、小鶴誠

81 飯田徳治、岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

89 島秀之助、野村克也、野口二郎

90 真田重蔵、張本勲

91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

93 稲尾和久、村山実

94 王貞治、与那嶺要

95 杉浦忠、石井藤吉郎

96 藤田元司、衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫、小山正明

02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

03 上田利治、関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治、森祇晶

06 門田博光、高木守道、山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二、堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学、津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹、工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜、金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾、山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信、黒田博樹

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一、平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登、宮武三郎、景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

71 小西得郎、水野利八

72 中野武二、太田茂

73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄、西村幸生

78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

79 平沼亮三、谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫、小川正太郎

82 鈴木龍二、外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄、山内以九士

86 中河美芳、松方正雄

87 藤田信男、山下実

88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

89 池田恒雄、伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征、村上實

96 牧野直隆、保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志、井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟、長谷川良平

02 中澤不二雄、生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守、豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規、君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎、大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男、村山龍平

16 松本瀧藏、山中正竹

17 郷司裕、鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉、石井連藏

21 川島勝司、佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

02 フランク・オドール、正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

1937春 沢村栄治

1937秋 ハリス

1938春 苅田久徳

1938秋 中島治康

1939 V.スタルヒン

1940 須田博

1941 川上哲治

1942 水原茂

1943 呉昌征

1944 若林忠志

1946 山本一人

1947 若林忠志

1948 山本一人

1949 藤村富美男

1936秋 景浦將

1937春 沢村栄治

1937秋 西村幸生

1938春 西村幸生

1938秋 V.スタルヒン

1939 若林忠志

1940 野口二郎

1941 野口二郎

1942 林安夫

1943 藤本英雄

1944 若林忠志

1946 藤本英雄

1947 白木義一郎

1948 中尾碩志

1949 藤本英雄

1936秋 沢村栄治

1937春 沢村栄治

1937秋 西村幸生, V.スタルヒン, 野口明

1938春 V.スタルヒン

1938秋 V.スタルヒン

1939 V.スタルヒン

1940 須田博

1941 森弘太郎

1942 野口二郎

1943 藤本英雄

1944 若林忠志

1946 白木義一郎

1947 別所昭

1948 川崎徳次, 中尾碩志

1949 V.スタルヒン

1936秋 景浦將

1937春 沢村栄治

1937秋 御園生崇男

1938春 御園生崇男

1938秋 V.スタルヒン

1939 若林忠志

1940 須田博

1941 森弘太郎

1942 広瀬習一

1943 藤本英雄

1944 若林忠志

1946 藤本英雄

1947 御園生崇男

1948 別所昭

1949 藤本英雄

1950 若林忠志

1951 江藤正

1952 大神武俊

1953 大神武俊

1954 西村貞朗

1955 柚木進

1956 川崎徳次

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 中西勝己

1961 J.スタンカ

1962 土橋正幸

1963 稲尾和久

1964 J.スタンカ

1965 杉浦忠

1966 渡辺泰輔

1967 米田哲也

1968 石井茂雄

1969 石井茂雄

1970 木樽正明

1971 足立光宏

1972 山田久志

1973 江本孟紀

1974 金田留広

1975 足立光宏

1976 山田久志

1977 山田久志

1978 山田久志

1979 井本隆

1980 井本隆

1981 高橋一三

1982 松沼博久

1983 松沼博久

1984 山田久志

1985 松沼博久

1986 東尾修

1987 東尾修

1988 渡辺久信

1989 阿波野秀幸

1990 渡辺久信

1991 工藤公康

1992 渡辺久信

1993 工藤公康

1994 渡辺久信

1995 佐藤義則

1996 星野伸之

1997 西口文也

1998 西口文也

1999 工藤公康

2000 若田部健一

2001 J.パウエル

2002 松坂大輔

2003 斉藤和巳

2004 石井貴

2005 清水直行

2006 ダルビッシュ有

2007 ダルビッシュ有

2008 涌井秀章

2009 武田勝

2010 成瀬善久

2011 和田毅

2012 吉川光夫

2013 則本昂大

2014 J.スタンリッジ

2015 武田翔太

2016 大谷翔平

2017 千賀滉大

2018 千賀滉大

2019 千賀滉大

2020 千賀滉大

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

1936春夏 藤村富美男

1936秋 若林忠志

1937春 景浦將

1937秋 若林忠志

1938春 御園生崇男

1938秋 青木正一

1939 若林忠志

1940 木下勇

1941 若林忠志

1942 若林忠志

1943 三輪八郎

1944 若林忠志

1946 渡辺誠太郎

1947 若林忠志

1948 御園生崇男

1949 若林忠志

1950 内山清

1951 内山清

1952 三船正俊

1953 藤村隆男

1954 小山正明

1955 西村一孔

1956 小山正明

1957 西尾慈高

1958 渡辺省三

1959 小山正明

1960 村山実

1961 小山正明

1962 小山正明

1963 小山正明

1964 村山実

1965 G.バッキー

1966 村山実

1967 村山実

1968 村山実

1969 江夏豊

1970 江夏豊

1971 江夏豊

1972 古沢憲司

1973 江夏豊

1974 江夏豊

1975 江夏豊

1976 古沢憲司

1977 江本孟紀

1978 江本孟紀

1979 江本孟紀

1980 小林繁

1981 小林繁

1982 小林繁

1983 小林繁

1984 野村収

1985 池田親興

1986 池田親興

1987 M.キーオ

1988 仲田幸司

1989 仲田幸司

1990 中西清起

1991 野田浩司

1992 葛西稔

1993 仲田幸司

1994 湯舟敏郎

1995 湯舟敏郎

1996 藪恵壹

1997 川尻哲郎

1998 藪恵壹

1999 藪恵壹

2000 星野伸之

2001 星野伸之

2002 井川慶

2003 井川慶

2004 井川慶

2005 井川慶

2006 井川慶

2007 下柳剛

2008 安藤優也

2009 安藤優也

2010 安藤優也

2011 能見篤史

2012 能見篤史

2013 R.メッセンジャー

2014 能見篤史

2015 R.メッセンジャー

2016 R.メッセンジャー

2017 R.メッセンジャー

2018 R.メッセンジャー

2019 R.メッセンジャー

2020 西勇輝

2021 藤浪晋太郎

2022 藤浪晋太郎

2023 青柳晃洋

2024 青柳晃洋

VIAF

日本

ハワイの野球選手

日本の野球選手

横浜高等学校出身の野球選手

法政大学野球部の選手

日本コロムビア硬式野球部及びその前身チームの選手

阪神タイガース及びその前身球団の選手

千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手

阪神タイガース及びその前身球団の監督

千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督

最多勝利 (NPB)

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最高勝率 (野球)

最優秀選手 (NPB)

アメリカ合衆国の野球監督

選手兼任監督

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横浜DeNAベイスターズ関連人物

埼玉西武ライオンズ関連人物

日本の野球殿堂表彰者

日系アメリカ人の野球選手

帰化日本人の野球選手

アメリカ系日本人の野球選手

1908年生

1965年没

胃癌で亡くなった人物

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2024/11/02 01:30更新

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若林忠志と同じ誕生日3月1日生まれの人

藤田 省三_(野球)(ふじた しょうぞう)
1908年3月1日生まれの有名人 兵庫出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 藤田 省三(ふじた しょうぞう、1908年3月1日 - 1987年1月16日)は、兵庫県西宮市出身の元野球選手・コーチ・監督。 近鉄…

矢野 健太郎_(数学者)(やの けんたろう)
1912年3月1日生まれの有名人 東京出身

矢野 健太郎(やの けんたろう、1912年〈明治45年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉12月25日)は、日本の数学者。東京工業大学名誉教授。専門は微分幾何学。従三位勲二等瑞宝章。数学教育、一般へ…

木原 実_(政治家)(きはら みのる)
1916年3月1日生まれの有名人 愛媛出身

木原 実(きはら みのる、1916年3月1日 - 2010年1月18日)は、日本の歌人、詩人、政治家。 愛媛県生まれ。1931年愛媛県立今治中学校中退。十代から労働運動に関わり、1935年治安維持法…

柱谷 幸一(はしらたに こういち)
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柱谷 幸一(はしらたに こういち、1961年3月1日 - )は、京都府京都市出身の元日本代表サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代のポジションはMF、FW。同じく元日本代表でサッカー指導者の柱谷哲二…

三浦 弦太(みうら げんた)
1995年3月1日生まれの有名人 愛知出身

三浦 弦太(みうら げんた、1995年3月1日 - )は、愛知県豊橋市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ガンバ大阪所属。ポジションはディフェンダー(DF)。元日本代表。 小学校1年でサッカーを始め、…


宮澤 智(みやざわ とも)
1990年3月1日生まれの有名人 埼玉出身

宮澤 智(みやざわ とも、1990年(平成2年)3月1日 - )は、フジテレビのアナウンサー。 埼玉県入間市出身。2009年10月、第34回ホリプロタレントスカウトキャラバン横浜地区代表に選ばれる(…

小笠原 亘(おがさわら わたる)
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小笠原 亘(おがさわら わたる、1973年3月1日 - )は、TBSテレビの管理職アナウンサー。 岩手県北上市出身。北上市立北上中学校、岩手県立黒沢尻北高等学校、東洋大学社会学部卒業。 地元岩手時…

本上みらの(ほんじょう みらの)
2000年3月1日生まれの有名人 広島出身

本上みらの(ほんじょう みらの、2000年3月1日 - )は日本のタレント、ファッションモデル、スポーツ選手。広島県生まれ。身長170cm。 2000年、広島県尾道市因島に生まれる。 親の仕事の関係…

平沼 日菜子(ひらぬま かなこ)
1996年3月1日生まれの有名人 青森出身

平沼 日菜子(ひらぬま かなこ、1996年3月1日 - )は、フリーで活動する日本のタレントである。青森県八戸市出身。八戸学院大学卒業。 2014年 地元青森でTVやラジオに出演しタレント活動を開始…

成田 梨紗(なりた りさ)
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成田 梨紗(なりた りさ、1991年〈平成3年〉3月1日 - )は、日本のグラビアアイドル・タレント。東京都出身。女性アイドルグループ・AKB48の元メンバー(1期生)。 2005年10月30日、『…


田原 彩香(たはら あやか)
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田原 彩香(たはら あやか、1989年3月1日 - )は、日本のタレント、女優、フリーアナウンサー。本名同じ。 神奈川県出身。フリップアップ所属。 神奈川県立希望ヶ丘高等学校、中央大学文学部人文社…


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若林忠志と近い名前の人

若林 竹雄(わかばやし たけお)
1907年8月29日生まれの有名人 兵庫出身

若林 竹雄(わかばやし たけお、1907年8月29日 - 1937年8月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手。ポジションはFW(ウイング)。1930年に日本代表初のハットトリック達成選手となった。 旧…

若林 有子(わかばやし ゆうこ)
1996年7月1日生まれの有名人 大阪出身

若林 有子(わかばやし ゆうこ、1996年7月1日 - )は、TBSテレビのアナウンサー。大阪府出身。 大阪府で育ち、小学校を卒業してから高校2年生の時まではニューヨークで家族と共に生活していた。 …

若林 史江(わかばやし ふみえ)
1977年10月7日生まれの有名人 神奈川出身

若林 史江(わかばやし ふみえ、1977年〈昭和52年〉10月7日 - )は、日本の「株式評論家」、デイトレーダー、タレントである。所属芸能プロダクションはサムデイ所属。 神奈川県横浜市磯子区出身。…

若林 翔子(わかばやし しょうこ)
1984年9月10日生まれの有名人 広島出身

若林 翔子(わかばやし しょうこ、1984年9月10日 - )は、広島県出身のリポーター、女優、タレント、モデル。2022年時点では、宮城県で活動するローカルタレントである。 福岡放送アナウンサー・…


若林 志穂(わかばやし しほ)
1971年9月6日生まれの有名人 東京出身

若林 志穂(わかばやし しほ、1971年9月6日 - )は、日本の元女優。東京都新宿区出身。デビュー当時は市川晃一事務所、その後太田プロダクションやサンミュージックブレーンに所属した。 一時期、若林…

若林 直美(わかばやし なおみ)
1975年11月2日生まれの有名人 鳥取出身

若林 直美(わかばやし なおみ、1975年11月2日 - )は、日本の声優、舞台女優。鳥取県出身。フォレストリンク所属。 勝田声優学院13期生。 2008年3月31日までアイムエンタープライズに所…

若林 一美(わかばやし かずみ)
1961年9月20日生まれの有名人 東京出身

若林 一美(わかばやし かずみ、1961年9月20日 - )は、日本の女優。東京都荒川区出身。血液型はA型。 1961年9月20日、東京都荒川区出身。 1983年、『ペットントン』(フジテレビ)の…

若林 学(わかばやし まなぶ)
1979年6月3日生まれの有名人 栃木出身

若林 学(わかばやし まなぶ、1979年6月3日 - )は、栃木県上都賀郡粟野町出身の元サッカー選手。ポジションは、フォワード(FW)。 栃木県立宇都宮工業高等学校卒業後、1998年に仕事をしながら…

若林 理紗(わかばやし りさ)
1987年5月25日生まれの有名人 神奈川出身

若林 理紗(わかばやし りさ、1987年5月25日 - )は、日本の元アナウンサー。元山陰中央テレビ所属。フリーアナウンサー時代の所属事務所はセント・フォース。 神奈川県鎌倉市出身。身長164cm。…


若林 健治(わかばやし けんじ)
1958年2月23日生まれの有名人 東京出身

若林 健治(わかばやし けんじ、1958年2月23日 - )は、日本のアナウンサー(中部日本放送 → 日本テレビ → フリー)、ナレーター。愛称は、わかちゃん。ボイスオン所属。 東京都渋谷区出身。血…

若林 芽育(わかばやし めぐみ)
1974年8月14日生まれの有名人 栃木出身

若林 芽育(わかばやし めぐみ、1974年8月14日 - )は、フリーアナウンサー。宇都宮市議会議員(1期)。 栃木県鹿沼市出身。文教大学情報学部卒業後の1997年、鹿児島放送に入社した。6年間アナ…

若林 愛(わかばやし まな)
1986年7月26日生まれの有名人 東京出身

若林 愛(わかばやし まな、1986年7月26日 - )は、日本の歌手、作詞家、作曲家。MANA meets Blue Bajouボーカリスト、元PLIMEメンバー。東京都八王子市出身。 自身のバン…

若林 倫香(わかばやし ともか)
1996年4月23日生まれの有名人 愛知出身

若林 倫香(わかばやし ともか、1996年〈平成8年〉4月23日 - )は、日本の声優、舞台俳優である。AZクリエイティブ所属。愛知県出身。女性アイドルグループ・SKE48チームKIIの元メンバー。 …

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若林忠志
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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「若林忠志」を素材として二次利用しています。

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