別当薫の情報(べっとうかおる) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
別当 薫さんについて調べます
■名前・氏名 |
別当薫と関係のある人
藤村富美男: タイガースも若林忠志、別当薫、土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、「わしゃタイガースの藤村じゃ」の言葉とともに、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。 野村克也: 2006年は前年に続き最下位に終わり、飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁に次いで史上5人目の両リーグ最下位の監督になった。 後藤修: スポーツニッポンでも評論を行っていたが、スポニチ時代の1972年には混戦のセ・リーグ優勝争いを佐藤栄作辞任後の「三角大福中」による自民党総裁選になぞらえ、V8を狙う巨人は福田赳夫、伝統と玄人芸を誇る名門・阪神は大平正芳、大洋は別当薫監督でなく青田昇ヘッドコーチを田中角栄にし、中日は与那嶺要監督で三木武夫、ヤクルトは中曽根康弘とした。 山田哲人: トリプルスリー・100打点の同時達成は1950年の別当薫・岩本義行以来、65年ぶりであり、プロ野球史上3人目。 星野仙一: 前年優勝チームの最下位は史上5度目で、星野は飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁、野村克也に次いで史上6人目の両リーグで最下位の監督となった。 青田昇: 1972年はシーズン途中で別当薫監督が休養したのを受けて、8月31日から青田が監督代行を務める。 桑田武: 桑田は自身を重要視しない監督の別当薫の起用法に立腹し、シーズンのある日に別当と掴み合いの大喧嘩をした。 藤村隆男: 同年オフに若林忠志・土井垣武・別当薫等が毎日オリオンズに引き抜かれて阪神が弱体化した中で、同い年のライバルであった梶岡忠義とともに1950年代前半の阪神投手陣を支えた。 山内一弘: プロ1年目の1952年、チームの先輩である別当薫の打撃フォームを参考にして熱心に打撃練習に取り組む。 岩下守道: 翌1962年に監督が別当薫に替わると出場機会が激減し、同年オフに現役引退。 広瀬叔功: 広瀬が打率4割をキープしていた1964年当時、近鉄バファローズ監督だった別当薫は、「日本一の選手は誰か」との問いに対し、「みんな長嶋、王と騒ぐが、本当の意味の日本一ということなら、それは広瀬をおいて他にない」と言い切っていた。 榎本喜八: 入団テスト時、榎本の数打席を見ただけで、往年の名選手でもあった監督の別当薫や、一塁手の西本幸雄が目を見張ったとされる。 小前博文: 旧制甲陽中学校(現・甲陽学院中学校・高等学校)時代は別当薫や森下重好と共に1938年春、1938年夏と甲子園に出場。 宮崎一夫: しかし、監督・別当薫とそりが合わず、エースの荒巻淳を優遇する投手起用方針に対して意見するなど、しばしば言い争うことがあった。 辻恭彦: 伊藤勲・福嶋久晃に次ぐ3番手捕手として記録以外でチームに貢献し、1977年には試合前練習で別当薫監督に「ダンプ、お前まだ動きそうだからもっと打ってくれ。 大島信雄: 1938年の選抜も野村との投手2枚看板として出場し、準々決勝では旧制甲陽中学の別当薫と投げ合い、甲子園初先発を3-0の2安打完封勝利で飾るが、東邦商業との準決勝は野村をリリーフしたものの2-6で敗れた。 永射保: 当時、安田猛が遅いボールで王貞治をキリキリ舞いさせるのを見て、速球派をやめて遅いボールで生きて行こうと決意し、2年目の同年オフに別当薫監督と長谷川良平コーチと相談して腕を下げ、変則フォームに改造した。 斎藤明夫: 1978年は、別当薫監督から若さと度胸の良さを買われ、新本拠地横浜スタジアムの開場戦に先発。 土井正三: 当初は実家の近所に在住していた別当薫を慕っていたことから、別当が監督を務めていた近鉄バファローズへの入団を希望していたが、別当が監督を解任されたことにより近鉄への入団を諦め、巨人への入団を決めた。 西本幸雄: 同年11月14日限りで退任した別当薫に代わって監督に就任。 基満男: 1980年は二塁手に専念、監督の別当薫から振り子打法の助言を受けた。 林義一: 1947年には全大阪との3位決定戦で別当薫と投げ合ったが、敗戦投手となった。 須藤豊: 須藤は小倉の旅館に到着後に聞いて途方に暮れるが、旅館の二階からたまたま降りてきた別当薫監督に事情を説明すると「せっかく来たんだから、上がれ」と言ってくれた。 森下重好: この年は本塁打王となった別当薫の43本塁打に次ぐ30本塁打を記録。 中畑清: 球団史上同一監督が連続して4シーズン以上指揮を執るのは1968 - 1972年の別当薫以来43年ぶりとなり、1978年の横浜移転後では監督15人目(大矢明彦が2期務めたため16代目)にして初となった(球団名がベイスターズになってからでも初)。 山口政信: さらにダイナマイト打線と呼ばれる藤村、別当薫、金田正泰、土井垣武、本堂保次らを中心としたかつてない強力打線が結成されたことで、山口の存在は軽視されるようになった。 武智文雄: 佐々木が近鉄の入団テストを受けた際、当時の監督だった別当薫は獲得に乗り気ではなかったが、武智が「自分が責任を取るから、なんとか入れてもらいたい」と別当を説得し、入団にこぎつけた。 大下弘: 最終的には、打率.305でリーグ11位に入り、本塁打も38本で藤村富美男(46本)・別当薫(39本)の阪神勢に次ぐ好成績を挙げ、2年ぶりのベストナインに選出されている。 若林忠志: この時に別当薫・土井垣武・呉昌征らも若林と行動を共にして阪神の弱体化を招いたため、阪神サイドから裏切り者扱いされて長らくそのイメージがつきまとうようになった。 金田正泰: 同年には結婚して日本に帰化するが、シーズンオフに別当薫・土井垣ら主要打者が毎日オリオンズに引き抜かれた。 |
別当薫の情報まとめ
別当 薫(べっとう かおる)さんの誕生日は1920年8月23日です。兵庫出身の野球選手のようです。
卒業、事件、引退、テレビ、結婚、映画、現在に関する情報もありますね。1999年に亡くなられているようです。
別当薫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 1999年4月16日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。 セ・パ両リーグ分立前後に走れる長距離砲として活躍した外野手で、1948年から1953年まで6年連続でベストナイン外野手に選ばれた。1948年に阪神に入団し、藤村富美男とダイナマイト打線の中核をなす。1950年パ・リーグの毎日に移籍すると、43本塁打、105打点で二冠王を獲得して毎日の日本一に大きく貢献し、最高殊勲選手に選ばれる。また、同年は打率.335、34盗塁で日本プロ野球初のトリプルスリーを達成した。1952年と1954年から選手兼監督を務めると、以降近鉄・大洋・広島で20年に亘って指揮を執り、監督としても1237勝を挙げた。1988年野球殿堂入り。 実家は材木商。旧制甲陽中学校時代はエース兼四番で、1937年と1938年には春の選抜、1938年には夏の選手権と甲子園に出場。卒業後は旧制新潟高校を志望していたがかなわず慶應義塾大学へ進学する。東京六大学リーグ通算35試合出場、133打数47安打、打率.353、1本塁打。1942年の春季には当時史上最高打率の.500を打って首位打者に輝く。1943年10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦と呼ばれる試合)では慶大の4番・中堅手として出場。戦後、1946年春季に再開した東京六大学の戦後初優勝に主将として貢献した。同年秋に慶大を繰り上げ卒業後は一旦家業を継ぐが、1947年にノンプロチームである全大阪の一員として出場した都市対抗で優勝を逃したことからプロ転向を決意。優勝は逃すも、全徳島との3位決定戦では林義一に投げ勝っている。すでに27歳になっていたが、中学時代からのファンであった景浦將が在籍していた大阪タイガースへ入団する。 1年目の1948年はオープン戦緒戦にいきなり本塁打を放つと、甲子園・鳴海・後楽園のトーナメント大会8試合で7本塁打を放ち、三大会とも別当の強打で大阪が優勝した。公式戦に入っても個人打撃成績トップをひた走ったが、6月27日の対南海戦で盗塁で滑り込んだ際に左足を骨折して3か月戦列を離れた。後半戦には復帰して首位打者・青田昇(.308)を大きく上回る打率.328を記録したが、規定打席に52足りず首位打者を逃した。2年目の1949年はラビットボールと呼ばれる飛ぶボールが採用され、別当自身も体調万全で本領を発揮。藤村富美男とともにダイナマイト打線の中軸を打ち、シーズン安打数2位を記録したうえで打率.322、39本塁打、126打点と打ちまくった。また、前年の笠原和夫を超える129得点の日本記録を樹立(翌年に小鶴誠が更新)。 同年オフの2リーグ分裂騒動では、若林忠志・本堂保次・土井垣武らとともにパ・リーグの毎日オリオンズに引き抜かれて移籍する。1950年は打率.335(リーグ2位)、43本塁打、105打点を記録して本塁打・打点の二冠王を獲得。さらにシーズン20回の猛打賞を打つなど、毎日の優勝に大きく貢献し、最高殊勲選手にも選出された。なお、この年には盗塁も34個を数え、岩本義行(松竹)とともにプロ野球史上初の「3割・30本・30盗塁」(トリプルスリー)を記録している。松竹との日本シリーズでも打率.500、3打点と活躍し、日本シリーズMVPにも選ばれている。 1951年からは飛ぶボールが廃止され本塁打は減少するが、リーグ4位の打率.309を記録するなど好成績を維持。同年7月26日の近鉄戦では二盗、三盗、本盗と連続して成功させるパーフェクトスチールを達成。1952年には平和台事件で湯浅禎夫総監督・若林忠志監督が更迭されたのをうけ監督代行となり、7月30日から閉幕まで43試合で指揮を執って30勝13敗、勝率.698と好成績を残した。1953年は選手専任に戻るが、打率.305を打ちこの年まで6年連続でベストナインを獲得した。1954年から選手兼任監督に就任。山内一弘・榎本喜八・葛城隆雄を育て、須藤豊を見出だしてレギュラーの二塁手に起用し、手腕を発揮した。自身は1957年を最後に現役を引退。 引退後は監督に専念し、1959年まで指揮を取った。 退団後の1960年はドジャースの客員としてメジャーリーグを視察し、アメリカ流のトレーニングや野球方式を学んだ。 帰国後は大毎(1961年一軍打撃コーチ兼球団取締役)、近鉄(1962年 - 1964年監督)、大洋(1967年ヘッドコーチ, 1968年 - 1972年・1977年 - 1979年監督, 1980年 - 1981年球団代表兼常務取締役)、広島(1973年監督)で監督・コーチ・フロントを歴任。監督生活の合間を縫って、日本テレビ解説者(1965年 - 1966年, 1974年 - 1976年)を務めた。 オリオンズ以外は中下位球団を率いていた事情もあり1度も優勝には恵まれず、通算1000勝以上で優勝経験がないただ一人の監督となっているが、大洋監督時代は1期目に松原誠・江尻亮、2期目に高木由一・田代富雄を育てた。 フロント入りした際には毎日時代の人脈から、後に一軍監督も務める須藤を二軍監督に招聘した。 1976年7月には「日本プロ野球コーチ団」団長として山田潔・大橋勲を引き連れ、初めて中国で野球指導を行う。 大洋退団後はフジテレビ解説者(1982年 - ?)を務め、1988年には野球殿堂入り。 晩年は清原和博の個人的な臨時打撃コーチとしてシーズンオフに指導していた時期があった。 本籍地の三重県尾鷲市の尾鷲市営野球場前にはバットを構えた姿の銅像が建てられている。 1999年4月16日、心不全のため死去。享年78歳。 近鉄では打の軸には前年に大鉄高校を2年で中退して入団したものの、一軍出場もなく僅か1年で整理対象選手となっていた土井正博を抜擢。別当は土井の長距離打者としての才能を見出だして4番に起用し、周囲の雑音をものもせずに使い続け、実戦の中で鍛え上げたのは語り草となっている。土井は「18歳の4番打者」として一躍話題を呼ぶが、結果は出なかった際は「弱小球団の単なる話題作り」と非難されたこともあった。土井は後に「根本さんとの出会い、そして別当さんとの出会いがなければその後の土井正博はなかったと言ってもいいでしょう。別当さんは山内さん、葛城さん、榎本さんらの才能を見抜いて育てた方でしたから最下位続きでぬるま湯につかっていた近鉄というチームを若手の抜擢で作り直そうとしたのでしょう。別当さんは勝つ監督ではない。育てる監督です。優勝はなくても山内さん、榎本さん、僕、松原誠と、2000安打を打った打者をこれだけ育てているんです。素質を見抜く眼力、そして、何があろうと、コイツはと思った選手を使い続ける信念がありました。どの球団でも、その後への土台作りをした監督。もっと評価されるべき。」と述べている。 初シーズンは相変わらず最下位であったものの、ジャック・ブルームフィールドが.374の高打率で首位打者を獲得し、またそれまで目の出なかった久保征弘が「クボ・ボール」という独特の落ちる球を駆使し、28勝で最多勝を獲得するなど活躍。投手陣は久保の29勝をはじめ、黒田勉とグレン・ミケンズがローテーションを守ったが打線の援護がなく、黒田は8勝23敗と大きく負け越した。打撃陣はブルーム、土井の活躍もありチーム打率リーグ2位の.252を記録するも、本塁打70本はリーグ5位に終わり、盗塁数も64個でリーグ最下位に終わった。対戦成績では前年が首位との差が51.5ゲームだったのに対し、この年は優勝の東映に8勝18敗と大きく負け越したが、21ゲーム差へと縮まった。2位の南海に12勝14敗、4位の大毎に13勝13敗とそれぞれ健闘した。 2年目の1963年は最下位脱出が期待されたが、4月は開幕ダッシュに失敗して首位の南海と7ゲーム差の最下位で終了。5月以降はブルームや関根潤三、小玉明利、土井正博など打線の活躍で3位に浮上すると前年優勝の東映とのAクラス争いが終盤まで続いた。東映の不調もありチームは9年ぶりのAクラス復帰を狙ったが、残り5試合を優勝を争う南海と西鉄相手に全敗し4位に転落。力及ばず東映とのAクラス争いに負けたものの貯金1でシーズンを終え、翌年に期待を持たせる結果となった。投手陣は前年最多勝の久保が20勝こそ逃したものの19勝と2.36で防御率1位、徳久利明がチームトップの20勝、2年目の山本重政が9勝17敗と負け越しながらもチームトップの168奪三振を記録するなど好調でこの3人がチーム勝ち星の4割を稼いだが、救援陣の不調もありチーム防御率はリーグ5位であった。打撃陣は前述のブルームが首位打者、4番の土井がリーグ最多二塁打を記録するなど打線が好調で本塁打は98本のリーグ5位ながらも、チーム打率と二塁打がリーグ1位を記録した。 最下位→4位と浮上し、1964年はAクラス入りを狙うチームとして開幕ダッシュ成功と行きたかったが、最下位で4月を終了。5月には13勝14敗1分と健闘するも6月以降は負けが込み、最下位に定着。9月に6連勝して上位陣を脅かすも時すでに遅く、5位の西鉄同様マッチレースを繰り広げる南海・阪急などの草刈り場となり最終的に優勝の南海に28.5ゲーム差、5位西鉄には9ゲーム差を付けられて全日程を終了。前年4位躍進の原動力となった投手陣は佐々木宏一郎がリーグ最多の73試合に登板し、久保・徳久をはじめ4人が2桁勝利を挙げた一方、23敗で最多敗の徳久をはじめ5人が2桁敗戦を喫するなど好不調の波が激しく、防御率・被安打・自責点ともにリーグ最下位。打撃陣は4番の土井がチームトップの28本塁打を放つなど打線が前年同様好調で打率ベスト10に4人を送り込んだが、守備が粗く失策はリーグ最下位の165個を記録。 大洋では1期目の1968年は顔ぶれこそ前年と不変であったが、一方で4番の桑田武が別当との確執からスタメンを外れ、外野手の松原が三塁手にコンバートされた。投手陣では森中千香良・島田源太郎・平松政次・山下律夫などがローテーションに入ってそれなりの成績を収めたが、打線の援護で勝つ試合も多くチーム防御率3.71はリーグ5位であった。打撃陣では松原をはじめ、前年レギュラー定着の江尻や前年首位打者を争った近藤和彦、正捕手の伊藤勲などがそれなりの成績を残してチーム本塁打131本でリーグ3位を記録した。4年連続Bクラスの影響もあったのか開幕から成績がふるわなかったが、最終的には5位で終えた。対戦成績では4連覇した巨人に12勝14敗と健闘したが、4位のサンケイに8勝18敗と大きく負け越しAクラス入りはならなかった。この年から帽子マークは「T」からホエールズの「W」に変更され、大洋最後の1992年まで続いた。 1969年 - 1971年は、3年連続Aクラス3位をキープ。1969年は5月に巨人と同率ながら阪神に次ぐ2位とまずまずの滑り出しであったが、巨人が独走した6月以降はゲーム差が開き、7月以降は中日やアトムズと3位争いを展開。9月終了時点で2位の阪神に0.5ゲーム差と接近するが、終盤は一進一退の試合が続いて波に乗れず巨人の5連覇を許した。それでもシーズン勝ち越しは果たせなかったが、三原脩監督時代の1964年以来5年ぶりのAクラスとなった。チームは優勝の巨人に11勝13敗2分と健闘し、2位阪神には14勝12敗と勝ち越したものの、5位のアトムズには9勝16敗1分と相性が悪く5割越えはならなかった。投手陣では3年目の平松と山下律夫が2桁勝利を挙げ、高橋重行・森中などもローテーションを守ってチーム防御率リーグ3位の3.19を記録した。打撃陣では4番の松原が奮闘し、近藤和・江尻などもそれなりの成績を残してチーム本塁打125本はリーグ4位と健闘した。この年には後に12球団勝利を達成する野村収が入団するが、シーズン終盤の1試合登板にとどまった。 1970年は中塚政幸を外野手にコンバートし、1番には重松省三、3番には松原、4番には江尻が入るなど戦力を一新。攻撃型オーダーでスタートしたチームであったが、開幕ダッシュには程遠く4月は首位の巨人と3ゲーム差ながら最下位で終了。5月以降は徐々に順位を上げ、6月には3位に浮上するとその後は阪神を抜いて2位となり、常に巨人を追いかける展開が続いた。9月終了時点では3位ながらも巨人に4.5ゲーム差と肉薄するが、最後は巨人とマッチレースの阪神に突き放されて3位に終わり、悲願であるペナント奪回はならなかった。チームは6連覇の巨人に14勝11敗1分と逆に勝ち越したが、阪神に11勝15敗、4位の広島に11勝14敗1分と負け越した。投手陣は平松・山下・高橋・坂井勝二がローテーションを守りそれなりの成績を収めた。特に平松はカミソリシュートを武器に25勝を挙げて最多勝となり、沢村賞も受賞した。それ以外には鬼頭洋が6月9日のヤクルト戦(川崎)でノーヒットノーランを演じたほか、2年目の野村やルーキーの間柴茂有が中継ぎで一軍に定着するなど、明るい話題が続出した。打撃陣はチーム本塁打が優勝の巨人と25本差の106本の5位に終わった。 1971年はこの年こそ11年ぶりの優勝が期待されたが、4月は巨人が開幕ダッシュに成功したこともあり波に乗れず、5月は3位とAクラスに踏みとどまるも6月には一気に最下位に転落。夏場以降は阪神やヤクルトなどとAクラス争いを演じ、9月にヤクルト・阪神が相次いで脱落すると中日・広島との2位争いを繰り広げ、最後は引き分けが多かったものの広島を抜いて3位を守った。投手陣は大エース平松が17勝を挙げて2年連続の最多勝となったほか、坂井・山下・高橋などもそれなりの成績を収め、チーム防御率はリーグ1位の2.31を叩き出した。一方で打撃陣は中塚・江尻・松原などが奮闘するも、それ以外の打者が貧打に喘ぎチーム打率.215、チーム本塁打も82本とリーグ最下位に終わり、それ以上の貯金はならなかった。 最後の1972年はアメリカからクリート・ボイヤーとジョン・シピンの外国人コンビが入団、ロッテから江藤慎一をトレードし打線を強化したものの、前年から引き続き、投手陣が脆弱であったために低迷。そんな中でセ・リーグは阪神(村山実選手兼任監督→金田正泰代行)、広島(根本陸夫監督→森永勝也代行)と監督途中交代が連続、大洋でも8月に連敗が続いたため、8月31日より別当が「優勝が絶望的になった」として休養に入り退任。 慶大の同窓生だった当時のオーナー・松田耕平が将来の球団代表としてのフロント入りを前提に自ら招聘した。広島の歴代監督で唯一チームと全く関係のない監督であり、広島では開幕後もチームは好調で、6月には5年ぶりに首位に浮上し前年最下位からの優勝の声が出始めると前半戦を3位で終了。後半戦も勢いが持続するかと思われたが打線が前半と打って変わって貧打に喘ぎ、ズルズルと後退。借金を1桁にとどめたものの60勝67敗3分と2年連続の最下位に終わった。結局、当時東洋工業(現:マツダ)の社業で多忙だった松田に代わって球団運営を仕切っていた西野襄との確執もあり、1年で退任。松田による球団代表就任構想も実現しなかった。この事態を重く見た松田は体調不良を理由に辞任となった西野の後任として、日本蹴球教会から東洋工業に復帰して総務課長を務めていた重松良典を球団代表に抜擢した。 2期目の1977年はこの年レギュラー入りの高木をはじめ中塚・松原・シピンが打ちまくったものの、投手陣は平松・間柴・斉藤明夫などがローテーションを守った。チームは7月まで五分五分の成績であったが、8月以降は負けが込み始めた。それでも9月時点で5位につけ最下位脱出は目前に思われたが10月に入ると躓き、最終的に2年連続の最下位に終わったが勝率は前年からやや改善された。打撃陣はこの年急成長の田代やベテラン松原などの活躍で優勝した巨人の181本に次ぐリーグ2位の176本を放ち、重量打線は健在であった。投手陣は新人の斉藤が負け越しながらも新人王に輝き、平松・杉山知隆などもそれなりの成績を残したが、チーム防御率が4.45から4.94まで落ち込んだ。後半戦開幕後の8月2日に大洋は「翌年から横浜市に本拠地を移転する」と正式に発表し、翌年から本拠地を横浜スタジアムに移転したため、川崎を本拠地として使用したのはこの年が最後となった。対戦成績では優勝の巨人に相変わらず弱く10勝16敗と負け越したが、2位のヤクルトには12勝12敗2分と健闘した。 1978年は移転に伴い球団名を「横浜大洋ホエールズ」改称し、ホーム用のロゴを「YOKOHAMA」に変更してチームカラーも港町・横浜に相応しくマリンブルーに、ビジター用の上着もマリンブルーに変更するなどユニフォームを一新した。開幕から前年覇者の巨人やヤクルトと首位を争い、8月時点では巨人と3.5ゲーム差につけた。終盤は投打ともに息切れして広島に抜かれたものの、中日の故障者続出に助けられて4位で終えた。投手陣ではベテラン平松と2年目の斉藤に加えて、この年日本ハムからトレードで復帰した野村が2桁勝利を挙げた。特に野村はこの年17勝を挙げて別当の期待に応える活躍を見せ、チームの4位躍進の原動力となり全体の防御率もリーグ2位の3.90を記録。打撃陣は巨人へ移籍したシピンの穴埋めとして、メジャーリーグからフェリックス・ミヤーンが加入して打撃・守備でチームに貢献。本拠地移転もあり本塁打は前年の176本から132本へ減少したが、不動の4番松原や田代や高木ら打線の活躍で打率はリーグ3位となった。対戦成績では最下位の阪神に19勝5敗2分と勝ち越したが、それ以外では中日に14勝12敗と勝ち越すのがやっとであった。 最後の1979年は優勝を狙うべくクラウンから基満男を、中日からジーン・マーチンをそれぞれ獲得。前年覇者のヤクルトが開幕から8連敗を喫したこともあり、チームは一時は首位に立つなど健闘。前半戦は首位の中日と3.5ゲーム差の3位で終えるが、後半戦に入ると広島が抜け出してゲーム差が広がり5位に転落。10月6日に広島の優勝が決定した後、チームは消化試合で張り切り最終成績は1964年以来15年ぶりの2位となったが、後半戦は首位争いに絡めなかった。投手陣は野村・平松・斉藤に加えて2年目の遠藤一彦が先発兼抑えとして活躍し、平松が2.39で防御率1位となったものの、南海から移籍の佐藤道郎がセの環境に慣れず成績を落とし、チーム防御率も4.05でリーグ4位に後退。打撃陣はマーチンが28本塁打を打ち2位躍進の原動力となり、ミヤーンが首位打者を獲得するなどチーム打率はリーグ3位の.268であったが、チーム本塁打は135本で最下位であった。チームはAクラス争いの阪神に17勝7敗2分と勝ち越したが、優勝の広島に8勝16敗2分と負け越したのが大きく響いた。 身長180cmの恵まれた体格ながら、柔らかで無理のない打撃フォームで、内角低めに絶対的な強さがあった。脚も速く、当時は南海の飯田徳治とともに走れる重量打者として名を馳せた。 監督時代の1970年代に出演したHOYAメガネ・バリラックスIIのCMが今でも語り継がれるなど、おおよそプロ野球選手とは思えない知的な印象から「球界の紳士」と呼ばれたが、現役時代は強打はもちろん攻走守の三拍子揃った選手として活躍し、アグレッシブなプレーを身上としていた。 「ミス神戸」と結婚。新妻は雑誌のインタビューで、食事に関して「栄養面にも気を使いますが、食器にも気をつけています。美しい器で食べれば、食欲増進につながります」と言った。当時世の中は食糧難の時代、「器で食べさせる」という発言は驚天動地の発想に近かったという。 作家の佐藤愛子にとって別当は女学生時代の憧れの人であり、不倫関係にあった。 2008年に出陣学徒壮行早慶戦を映画化した『ラストゲーム 最後の早慶戦』では、彼をモデルとした別当なる人物が登場し、加藤竜治が演じた。また同年にD-BOYSが劇作化した『ラストゲーム〜最後の早慶戦〜 (劇作品)』では、同じく彼がモデルの別府豊が登場し、中村優一と瀬戸康史のダブルキャストで演じた。2010年の再演版では荒井敦史が演じた。 学徒出陣では、日吉台地下壕で戦況を受信する通信兵として硫黄島玉砕の打電を受信した。 別当薫の漫画画像を用いたTシャツを、ジェフ・ブリッジスが『フィッシャー・キング』、『ビッグ・リボウスキ』などの作品で身につけている。 各年度の太字はリーグ最高 ※1 1954年から1955年までは140試合制 ※2 1958年から1962年、1968年から1996年までは130試合制 ※3 1967年、三原脩監督休養の6月3日から7月10日までと、三原監督復帰後辞任した10月4日から閉幕まで指揮(42試合18勝21敗3分 勝率.462) ※4 1972年、8月31日より休養(104試合52勝50敗2分 勝率.510)。監督代行は青田昇 ※5 通算成績は、実際に指揮した試合 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更 本塁打王 :1回(1950年) 打点王 :1回(1950年) 最多安打:1回(1950年)※当時連盟表彰なし 最高殊勲選手(MVP):1回(1950年) ベストナイン:6回(外野手部門:1948年 - 1953年) 野球殿堂競技者表彰(1988年) 日本シリーズ最高殊勲選手賞:1回(1950年) 最多安打(当時連盟表彰なし):1回(1950年) ※1994年より表彰 1イニング3盗塁(1951年7月26日) ※日本記録 3年連続最多長打(1950 - 1952年) ※パ・リーグ最長タイ記録 オールスターゲーム出場:5回(1951年 - 1955年) 25(1948年 - 1956年) 50(1957年 - 1959年、1977年 - 1979年) 51(1961年、1973年) 35(1962年 - 1964年) 52(1967年 - 1972年) ○曜ナイター - 日本テレビ系列におけるプロ野球中継。現行のタイトル「DRAMATIC BASEBALL」。 ^ 同年に岩本義行も達成。 ^ 清原が西武入団時の師匠だった土井正博の進言によるものと言われている。 ^ 石本秀一は広島県出身であり、根本とジョー・ルーツは監督になる前にカープでコーチを経験、それ以外は外国人・外様・生え抜きを問わず全員OBである。 ^ この幹部の独断的運営は当時球団内でも問題視され、前監督・根本陸夫の休養・辞任も、この幹部との対立が原因だったという。 ^ 空いた川崎球場にはロッテが移転。 ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』285頁 ^ “阪神・中野 初回先頭打で先制点お膳立て 近本と最多安打争うリーグ2位111本”. デイリースポーツ online (2022年7月24日). 2022年7月24日閲覧。 ^ ベースボールマガジン、2021年 01 月号 特集:横浜大洋ホエールズ マリンブルーの記憶 (ベースボールマガジン別冊新年号) 54-55頁 ^ Walter O'Malley : Dodger History : International Relations ^ 日中国交正常化による日中間の野球交流がその後の中国の野球活動へ及ぼした影響―1945年から1960年までと1972年から1989年までの両期間の野球活動の比較― ^ 日本プロ野球監督列伝―1936-2014、2014年、P47、ベースボール・マガジン社 ^ 広島東洋カープ70年史 (B.B.MOOK1491)、2020年、P37、ベースボール・マガジン社 ^ 今日も野球日和 第36回 「チームを変えた人事 きっかけとなった出来事」 (駒沢悟)- 東広島市・竹原市のグルメ、ショッピング、暮らしに役立つ情報満載のポータルサイト ジモ通、プレスネット2016年10月1日号掲載。 ^ さらば、東京巨人軍。清水哲男著、2001年2月 ISBN 978-4103943020 ^ 佐藤愛子『マドリッドの春の雨』角川書店、1989年1月1日、ISBN 4041359279 ^ “日吉台地下壕”. 慶應義塾機関誌 三田評論2011年4月号 (2011年4月1日). 2022年5月2日閲覧。 ^ “Jeff Bridges in The Fisher King” (July 2005). July 27, 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月2日閲覧。 ^ “デュードも大好きな偉大なベースボールプレイヤーTシャツ!”. vincentvega (2016年6月16日). 2022年5月2日閲覧。 ^ “Kaoru Betto Baseball Raglan T-shirt worn by The Dude (Jeff Bridges) in The Big Lebowski”. 2022年5月2日閲覧。 ^ “The Big Lebowski Kaoru Betto ベースボールラグランTシャツ”. amazon. 2022年5月2日閲覧。 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年 兵庫県出身の人物一覧 慶應義塾大学の人物一覧 出陣学徒壮行早慶戦 阪神タイガースの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 個人年度別成績 別当薫 - NPB.jp 日本野球機構 野球殿堂 別当薫 表 話 編 歴 湯浅禎夫 1950 - 1952 別当薫 1952 若林忠志 1953 別当薫 1954 - 1959 西本幸雄 1960 宇野光雄 1961 - 1962 本堂保次 1963 - 1965 田丸仁 1966 戸倉勝城 1967 濃人渉 1967 - 1971 大沢啓二 1971 - 1972 金田正一 1973 - 1978 山内一弘 1979 - 1981 山本一義 1982 - 1983 稲尾和久 1984 - 1986 有藤道世 1987 - 1989 金田正一 1990 - 1991 八木沢荘六 1992 - 1994 ボビー・バレンタイン 1995 江尻亮 1996 近藤昭仁 1997 - 1998 山本功児 1999 - 2003 ボビー・バレンタイン 2004 - 2009 西村徳文 2010 - 2012 伊東勤 2013 - 2017 井口資仁 2018 - 2022 吉井理人 2023 - 現在 表 話 編 歴 藤田省三 1950 - 1952 芥田武夫 1952 - 1957 加藤久幸 1958 千葉茂 1959 - 1961 別当薫 1962 - 1964 岩本義行 1965 - 1966 小玉明利 1967 三原脩 1968 - 1970 岩本堯 1971 - 1973 西本幸雄 1974 - 1981 関口清治 1982 - 1983 岡本伊三美 1984 - 1987 仰木彬 1988 - 1992 鈴木啓示 1993 - 1995 佐々木恭介 1996 - 1999 梨田昌孝 2000 - 2004 表 話 編 歴 渡辺大陸 1950 中島治康 1951 有馬義一 1951 小西得郎 1952 - 1953 永沢武夫 1954 藤井勇 1955 迫畑正巳 1956 - 1958 森茂雄 1959 三原脩 1960 - 1967 別当薫 1968 - 1972 青田昇 1973 宮崎剛 1974 秋山登 1975 - 1976 別当薫 1977 - 1979 土井淳 1980 - 1981 関根潤三 1982 - 1984 近藤貞雄 1985 - 1986 古葉竹識 1987 - 1989 須藤豊 1990 - 1992 江尻亮 1992 近藤昭仁 1993 - 1995 大矢明彦 1996 - 1997 権藤博 1998 - 2000 森祇晶 2001 - 2002 山下大輔 2003 - 2004 牛島和彦 2005 - 2006 大矢明彦 2007 - 2009 尾花髙夫 2010 - 2011 中畑清 2012 - 2015 アレックス・ラミレス 2016 - 2020 三浦大輔 2021 - 現在 表 話 編 歴 石本秀一 1950 - 1953 白石勝巳 1953 - 1960 門前眞佐人 1961 - 1962 白石勝巳 1963 - 1965 長谷川良平 1965 - 1967 根本陸夫 1968 - 1972 別当薫 1973 森永勝也 1974 ジョー・ルーツ 1975 古葉竹識 1975 - 1985 阿南準郎 1986 - 1988 山本浩二 1989 - 1993 三村敏之 1994 - 1998 達川晃豊 1999 - 2000 山本浩二 2001 - 2005 マーティ・ブラウン 2006 - 2009 野村謙二郎 2010 - 2014 緒方孝市 2015 - 2019 佐々岡真司 2020 - 2022 新井貴浩 2023 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 2024 桑原将志 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 山本一人 1952 柚木進 1953 岡本伊三美 1954 大下弘 1955 飯田徳治 1956 中西太 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 山内和弘 1961 野村克也 1962 張本勲 1963 野村克也 1964 J.スタンカ 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 足立光宏 1968 米田哲也 1969 長池徳二 1970 木樽正明 1971 長池徳二 1972 福本豊 1973 野村克也 1974 金田留広 1975 加藤秀司 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 C.マニエル 1980 木田勇 1981 江夏豊 1982 落合博満 1983 東尾修 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 石毛宏典 1987 東尾修 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 西口文也 1998 松井稼頭央 1999 工藤公康 2000 松中信彦 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 城島健司 2004 松中信彦 2005 杉内俊哉 2006 小笠原道大 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 内川聖一 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 柳田悠岐 2016 大谷翔平 2017 D.サファテ 2018 山川穂高 2019 森友哉 2020 柳田悠岐 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 大下弘 1952 深見安博 1953 中西太 1954 中西太 1955 中西太 1956 中西太 1957 野村克也 1958 中西太 1959 山内和弘 1960 山内和弘 1961 野村克也, 中田昌宏 1962 野村克也 1963 野村克也 1964 野村克也 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 野村克也 1968 野村克也 1969 長池徳二 1970 大杉勝男 1971 大杉勝男 1972 長池徳二 1973 長池徳二 1974 C.ジョーンズ 1975 土井正博 1976 C.ジョーンズ 1977 L.リー 1978 B.ミッチェル 1979 C.マニエル 1980 C.マニエル 1981 T.ソレイタ, 門田博光 1982 落合博満 1983 門田博光 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 秋山幸二 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 O.デストラーデ 1991 O.デストラーデ 1992 O.デストラーデ 1993 R.ブライアント 1994 R.ブライアント 1995 小久保裕紀 1996 T.ニール 1997 N.ウィルソン 1998 N.ウィルソン 1999 T.ローズ 2000 中村紀洋 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 T.ローズ 2004 松中信彦, F.セギノール 2005 松中信彦 2006 小笠原道大 2007 山﨑武司 2008 中村剛也 2009 中村剛也 2010 T-岡田 2011 中村剛也 2012 中村剛也 2013 M.アブレイユ 2014 E.メヒア, 中村剛也 2015 中村剛也 2016 B.レアード 2017 A.デスパイネ 2018 山川穂高 2019 山川穂高 2020 浅村栄斗 2021 杉本裕太郎 2022 山川穂高 2023 G.ポランコ, 近藤健介, 浅村栄斗 2024 山川穂高 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 飯田徳治 1952 飯田徳治 1953 中西太 1954 山内和弘 1955 山内和弘 1956 中西太 1957 中西太 1958 葛城隆雄 1959 葛城隆雄 1960 山内和弘 1961 山内和弘 1962 野村克也 1963 野村克也 1964 野村克也 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 野村克也 1968 G.アルトマン 1969 長池徳二 1970 大杉勝男 1971 門田博光 1972 野村克也, 大杉勝男 1973 長池徳二 1974 長池徳二 1975 加藤秀司 1976 加藤秀司 1977 L.リー 1978 B.マルカーノ 1979 加藤英司 1980 C.マニエル 1981 T.ソレイタ 1982 落合博満 1983 水谷実雄 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 ブーマー 1988 門田博光 1989 ブーマー 1990 O.デストラーデ, 石嶺和彦 1991 O.デストラーデ, J.トレーバー 1992 ブーマー 1993 R.ブライアント 1994 石井浩郎 1995 イチロー, 初芝清, 田中幸雄 1996 T.ニール 1997 小久保裕紀 1998 N.ウィルソン 1999 T.ローズ 2000 中村紀洋 2001 中村紀洋 2002 T.ローズ 2003 松中信彦 2004 松中信彦 2005 松中信彦 2006 小笠原道大, A.カブレラ 2007 山﨑武司 2008 T.ローズ 2009 中村剛也 2010 小谷野栄一 2011 中村剛也 2012 李大浩 2013 浅村栄斗 2014 中田翔 2015 中村剛也 2016 中田翔 2017 A.デスパイネ 2018 浅村栄斗 2019 中村剛也 2020 中田翔 2021 島内宏明 2022 山川穂高 2023 近藤健介 2024 山川穂高 表 話 編 歴 投 荒巻淳 捕 土井垣武 一 飯田徳治 二 本堂保次 三 中谷順次 遊 木塚忠助 外 別当薫 / 大下弘 / 飯島滋弥 表 話 編 歴 投 江藤正 捕 土井垣武 一 飯田徳治 二 山本一人 三 蔭山和夫 遊 木塚忠助 外 大下弘 / 別当薫 / 飯島滋弥 表 話 編 歴 投 柚木進 捕 土井垣武 一 飯田徳治 二 岡本伊三美 三 蔭山和夫 遊 木塚忠助 外 大下弘 / 別当薫 / 飯島滋弥 表 話 編 歴 投 川崎徳次 捕 松井淳 一 飯田徳治 二 岡本伊三美 三 中西太 遊 木塚忠助 外 堀井数男 / 別当薫 / 大下弘 表 話 編 歴 投手:須田博 捕手:田中義雄 一塁手:川上哲治 二塁手:苅田久徳 三塁手:水原茂 遊撃手:上田藤夫 外野手:鬼頭数雄, 山田伝, 中島治康 投手:別所昭 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:杉浦清 外野手:大下弘, 坪内道則, 金田正泰 投手:別所昭, 中尾碩志, 真田重男 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:木塚忠助 外野手:青田昇, 別当薫, 坪内道則 投手:藤本英雄 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:木塚忠助 外野手:小鶴誠, 別当薫, 大下弘 表 話 編 歴 1950 岩本義行, 別当薫 1953 中西太 1983 簑田浩二 1989 秋山幸二 1995 野村謙二郎 2000 金本知憲 2002 松井稼頭央 2015 山田哲人, 柳田悠岐 2016 山田哲人 2018 山田哲人 日本の野球選手 甲陽学院高等学校出身の野球選手 慶應義塾大学野球部の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 本塁打王 (NPB) 打点王 (NPB) 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の監督 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の監督 広島東洋カープ及び広島カープの監督 プロ野球チームの経営者 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 兵庫県出身のスポーツ選手 1920年生 1999年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/19 22:41更新
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bettou kaoru
別当薫と同じ誕生日8月23日生まれ、同じ兵庫出身の人
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