佐々木宏一郎の情報(ささきこういちろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐々木 宏一郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐々木宏一郎と関係のある人
竹之内雅史: 同13日の近鉄戦(平和台)で佐々木宏一郎から同点になるソロ本塁打を放って初本塁打を記録するが、この年はウエスタン・リーグで既に11本打っており、一軍でもその力を証明する一発となっている。 蓬萊昭彦: 同8日の南海戦(西武)に8番・左翼手でプロ入り初の先発出場を果たし、2回裏に佐々木宏一郎から犠飛を放ちプロ入り初打点を記録。 永淵洋三: 初本塁打:1968年4月16日、対東映フライヤーズ1回戦(日本生命球場)、2回裏に佐々木宏一郎の代打として出場、石川緑からソロ 高代延博: 初安打:1979年4月12日、対南海ホークス前期3回戦(後楽園球場)、5回裏に佐々木宏一郎から 武智文雄: その後は近鉄の二軍投手コーチ(1963年 - 1964年)を務め、佐々木宏一郎を育てた。 大石弥太郎: チーム防御率12球団最下位の投手陣において、佐々木宏一郎・金城基泰に次ぐ好成績を挙げた。 八重沢憲一: 初安打・初本塁打:同上、2回裏に佐々木宏一郎からソロ 平沢隆好: 3年目の1978年4月13日に近鉄戦(大阪)で初登板を果たし、8回表から星野秀孝・佐々木宏一郎の3番手で2回を無失点に抑えた。 竹之内雅史: 初本塁打・初打点:1968年8月13日、対近鉄バファローズ16回戦(平和台球場)、5回裏に佐々木宏一郎から左越同点ソロ 蓬莱昭彦: 初打点:同上、2回裏に佐々木宏一郎から犠飛 武智文雄: 以下6位則本昂大、7位佐々木宏一郎、8位阿波野秀幸、9位吉井理人、10位柳田豊。 島本講平: 1975年シーズン途中に佐々木宏一郎との交換トレードにより近鉄バファローズに移籍。 若菜嘉晴: 初本塁打:1976年8月1日、南海ホークス後期3回戦(平和台球場)、8回裏に佐々木宏一郎からソロ 蓬莱昭彦: 同8日の南海戦(西武)に8番・左翼手でプロ入り初の先発出場を果たし、2回裏に佐々木宏一郎から犠飛を放ちプロ入り初打点を記録。 武智文雄: 佐々木宏一郎は岐阜県出身、アンダースローの投球フォーム、並びに完全試合達成者である点が武智と共通している。 三原脩: 巨人監督時代に藤本英雄(1950年6月28日)、西鉄時代に西村貞朗(1958年7月19日)、大洋時代に島田源太郎(1960年8月11日)と佐々木吉郎(1966年5月1日)、近鉄時代に佐々木宏一郎(1970年10月6日)の完全試合を自軍監督として見届けている。 乗替寿好: 27日には近鉄の太田幸司、佐々木宏一郎と投げ合い8回を4安打と好投、自己唯一の完投を記録するが終盤に崩れ敗戦投手となった。 別当薫: 前年4位躍進の原動力となった投手陣は佐々木宏一郎がリーグ最多の73試合に登板し、久保・徳久をはじめ4人が2桁勝利を挙げた一方、23敗で最多敗の徳久をはじめ5人が2桁敗戦を喫するなど好不調の波が激しく、防御率・被安打・自責点ともにリーグ最下位。 岩崎忠義: 初安打:1967年10月17日、対近鉄バファローズ25回戦(東京スタジアム)、8回裏に成田文男の代打で出場、佐々木宏一郎から単打 板東里視: 鈴木啓示が「プロ入り初のキャンプは同じ部屋の佐々木宏一郎さんの寝言、板東里視さんの歯ぎしり、牧野伸さんのいびきが酷くて夜もしんどかった。 蓬萊昭彦: 初打点:同上、2回裏に佐々木宏一郎から犠飛 基満男: 初打点:1967年5月13日、対近鉄バファローズ4回戦(今治市営球場)、4回表に佐々木宏一郎から適時三塁打 トニー=ソレイタ: 大阪スタヂアムでの対南海ホークス3回戦(ダブルヘッダー第2試合)の1回、佐々木宏一郎から3号3点本塁打を左中間に放つと、3回にも同投手から中堅へソロ、5回には三浦政基からまた左中間に3点本塁打、8回藤田学のストレートを右翼スタンドにライナーで入る6号本塁打を放った。 |
佐々木宏一郎の情報まとめ
佐々木 宏一郎(ささき こういちろう)さんの誕生日は1943年8月30日です。岐阜出身の野球選手のようです。
引退に関する情報もありますね。1989年に亡くなられているようです。
佐々木宏一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 佐々木 宏一郎(ささき こういちろう、1943年8月30日 - 1989年5月22日)は、岐阜県揖斐郡池田町出身のプロ野球選手(投手)・解説者。 史上11人目の完全試合達成者。 1960年代後半から1970年代前半にかけての近鉄バファローズにおいて、アンダースローの技巧派として鈴木啓示・清俊彦と共に主力投手の1人として活躍した。 岐阜短大付属岐阜では、1960年秋季中部大会県予選準決勝に進むが、県岐阜商に敗退。 1961年夏の甲子園県予選でも準決勝に進出するが、またも県岐阜商に敗れた。 1962年、大洋ホエールズにテスト入団。120人の応募者の中で唯一のテスト合格者であり、1年目から早速一軍での登板機会があった。4試合に登板して1勝を挙げるが、同年シーズン途中に日石から同姓の佐々木吉郎が加入したため、「佐々木は2人もいらない」という不可解な理由で同年オフに解雇される。佐々木宏一郎本人は「人生の理不尽を感じた」が、「野球ができればどこでもよい」と自らに言い聞かせた。なお、佐々木吉郎も1966年に完全試合を達成。 1963年に近鉄バファローズへ移籍。別当薫監督と故郷・岐阜の先輩でもある武智文雄二軍投手コーチに鍛えられ、アンダースローから繰り出される切れの良いシュートとスライダーを武器に、次第に頭角を現した。 1964年にはリーグ最多の73試合に登板、10勝を記録し初めて規定投球回(14位、防御率3.13)に達する。 1969年は15勝7敗、防御率2.35(3位)を記録。最も活躍したのは1970年で、10月6日の南海ホークス戦でプロ野球史上11人目となる完全試合を達成している。同年にはシーズン10連勝を記録し、最終的に最高勝率(17勝5敗、勝率.773)のタイトルも獲得した。なお、防御率2.05は新人王にも選ばれた佐藤道郎(南海)に次ぐリーグ2位であった。 1975年シーズン途中に島本講平外野手との交換トレードで南海ホークスへ移籍し、野村克也選手兼任監督の大胆さと緻密さの重なり合ったリードから「相手を翻弄するテクニック」を教えられて蘇る。移籍後は主に中継ぎで起用され、1981年オフに現役を引退。プロ野球選手として20年という長期間を過ごしたが、在籍した3球団でリーグ優勝を1度も経験できなかったことが心残りであったという。 普段は口数も少なく物静かな性格であったが、1967年8月3日の対阪急ブレーブス戦では阪急ファンのヤジに立腹してスタンドのファンにボールを投げつけて負傷させ、パ・リーグから厳重戒告と制裁金の処分を科されている。 引退後はKBS京都「近鉄エキサイトアワー」解説者(1982年)を経て、心斎橋でスナック『ササ』を経営した。 1989年5月22日、肝臓癌のため、住之江区内の病院で逝去。享年45。 近鉄バファローズの入団テストに合格した際、佐々木の獲得を推挙したのは投手コーチだった武智文雄である。佐々木は、武智の現役時代と同じ背番号「16」を背負い、近鉄の主力投手として活躍し、1970年に球団史上2人目の完全試合を達成した。佐々木の入団当時は背番号「16」を武智が付けていたが、入団翌年の1964年に佐々木と武智が背番号を交換した。 また、近鉄球団で初の完全試合を達成したのは、佐々木を指導した武智である(1955年6月19日、大映スターズ戦)。武智はパールス時代の球団創成期よりエースとして活躍し、1954年には26勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得。そして、近鉄球団の投手では初の通算100勝も達成している。 さらに、2人の完全試合はいずれも大阪スタヂアムで成し遂げられたもので、右下手からの変則投法であった点も武智と佐々木は共通していた。なお、プロ入り当初はサイドスロー気味のフォームで投げていた佐々木にアンダースローへの転向を勧めたのも武智である。「アンダースローになって球威が増した」と武智は評している。 近鉄球団に在籍した期間のみの成績で通算100勝以上を記録したのは、55年の球団史において武智(100勝)・佐々木(113勝)・鈴木啓示(317勝)のわずか3人だけである。 近鉄時代のチームメートだった土井正博も佐々木と同じく、西武移籍後の1981年に現役を引退しているが、水島新司作の「あぶさん」ではシーズン終盤の西武ー南海戦で試合冒頭、引退登板として打者一人だけに登板しているが、この試合でかつての僚友への餞としてトップバッターを務め、キャッチャーフライに討ち取られ、労を労った際に、佐々木に「俺も決心がついた」と話し、佐々木もダグアウトに戻った際、景浦に「土井も今季限りだそうだ」と語るシーンが描かれている。因みに両者ともチーム在籍中、選手として優勝の美酒を味わう事はなかったが、近鉄は佐々木の南海移籍後に初めて、西武も土井の引退翌年に西鉄時代の1963年以来の(福岡から所沢に移転後では初めて)優勝をしている。 引退後、KBS京都で解説を担当したが1年で辞めている。夫人によれば、佐々木本人はもうちょっとやりたかったようだが、もともとの喋り下手に加え、KBS側からの「7:3くらいで近鉄を応援した放送を」という要請に反して、完全に中立的なトーンで解説を行っていたことが影響したという。 引退後に開いたスナック「ササ」には完全試合達成時の佐々木のピッチングフォームを撮影した写真パネルが飾られ、電話番号も下4桁が現役当時の背番号から0016とし、コースターは球形で数字の16とボールの縫い目を描いたもの、さらに箸置きも野球帽を形どったものにするなど、随所にベースボールスナックとしての特色を出すための工夫を凝らしていたという。佐々木は客に対しての愛想はあまり良くなかったが、常連客達はむしろそれを気に入っていたのだという。なお、「ササ」は佐々木の死去後も夫人の手で切り盛りされていたが、1994年に閉店した。 各年度の太字はリーグ最高 最高勝率:1回 (1970年)
初奪三振:同上、3回裏にドン・ニューカムから 初勝利:1962年8月11日、対国鉄スワローズ20回戦(川崎球場)、3回表に2番手で救援登板、6回1/3を無失点 初先発:1963年6月10日、対南海ホークス11回戦(日生球場)、1回無失点 初先発勝利:1963年7月21日、対南海ホークス21回戦(大阪スタヂアム)、8回2/3を5失点(自責点3) 初完投勝利:1963年8月17日、対東映フライヤーズ20回戦(日生球場)、9回2失点 初完封勝利:1964年7月14日、対阪急ブレーブス17回戦(日生球場) 初セーブ:1977年8月6日、対クラウンライターライオンズ後期4回戦(長岡市悠久山野球場)、6回表に2番手で救援登板・完了、4回1失点 1000奪三振:1971年7月4日、対阪急ブレーブス18回戦(日生球場)、1回表に福本豊から ※史上40人目 100勝:1971年10月4日 対南海ホークス23回戦(日生球場)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上55人目 500試合登板:1974年5月26日、対南海ホークス前期9回戦(大阪スタヂアム)、先発登板で6回4失点 ※史上30人目 600試合登板:1979年4月16日、対近鉄バファローズ前期3回戦(大阪スタヂアム)、7回表1死に2番手で救援登板、1回2/3を1失点 ※史上17人目 完全試合:1970年10月6日、対南海ホークス23回戦(大阪スタヂアム)、投球数99・奪三振4・内野ゴロ10・内野フライ7・外野フライ6 ※史上11人目 63打席連続無安打:1966年4月10日 - 1966年10月4日、近鉄球団記録、パ・リーグ2位、開幕からのものとしてはプロ野球記録 オールスターゲーム出場:2回 (1968年、1969年) 56 (1962年) 62 (1963年) 16 (1964年 - 1975年途中、1980年途中 - 同年終了) 32 (1975年途中 - 1980年途中) 53 (1981年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、248ページ ^ “10.19から30年 猛牛よ永遠に…300勝鈴木、豪打ノリ…近鉄の歴代投打5傑”. フルカウント. (2018年1月31日). https://full-count.jp/2018/01/31/post104880/2/ 2020年2月24日閲覧。 ^ 『完全試合』(北原遼三郎著、東京書籍刊、1994年)、p.292。 ^ 永谷脩『「野村学校」の男たち 復活・変身37選手が明かした「ノムラの教え」』徳間書店、2009年9月26日、ISBN 4198628173、p222。 ^ 前記『完全試合』、P310。 ^ 前記『完全試合』、P303-304。 ^ 前記『完全試合』、P315。 ^ 個人打撃連続記録(3) Archived 2013-12-03 at the Wayback Machine.パ・リーグ公式サイト 岐阜県出身の人物一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 個人年度別成績 佐々木宏一郎 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 藤本英雄 1950.6.28 武智文雄 1955.6.19 宮地惟友 1956.9.19 金田正一 1957.8.21 西村貞朗 1958.7.19 島田源太郎 1960.8.11 森滝義巳 1961.6.20 佐々木吉郎 1966.5.1 田中勉 1966.5.12 外木場義郎 1968.9.14 佐々木宏一郎 1970.10.6 高橋善正 1971.8.21 八木沢荘六 1973.10.10 今井雄太郎 1978.8.31 槙原寛己 1994.5.18 佐々木朗希 2022.4.10 表 話 編 歴 1950 野村武史 1951 中谷信夫 1952 柚木進 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 中村大成 1956 植村義信 1957 稲尾和久 1958 秋本祐作 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 皆川睦男 1963 田中勉, 森中千香良 1964 J.スタンカ 1965 林俊彦 1966 皆川睦男 1967 石井茂雄 1968 村上雅則 1969 清俊彦 1970 佐々木宏一郎 1971 山田久志 1972 佐藤道郎 1973 八木沢荘六 1974 竹村一義 1975 鈴木啓示, 野村収 1976 山田久志 1977 稲葉光雄 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 間柴茂有 1982 工藤幹夫 1983 高橋直樹 1984 石川賢 1985 石本貴昭 1986 渡辺久信 1987 工藤公康 1988 郭泰源 1989 星野伸之 1990 野茂英雄 1991 工藤公康 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 郭泰源 1995 平井正史 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 黒木知宏 1999 篠原貴行 2000 小野晋吾 2001 田之上慶三郎 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 斉藤和巳 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉 2010 杉内俊哉 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 岸孝之 2015 大谷翔平 2016 和田毅 2017 千賀滉大 2018 M.ボルシンガー 2019 山岡泰輔 2020 石川柊太 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 伊藤大海 日本の野球選手 岐阜第一高等学校出身の人物 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 日本プロ野球完全試合達成者 NPBオールスターゲーム選出選手 最高勝率 (野球) 野球解説者 岐阜県出身のスポーツ選手 1943年生 1989年没 肝癌で亡くなった人物 Webarchiveテンプレートのウェイバックリンク ISBNマジックリンクを使用しているページ 2024/10/29 19:42更新
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