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藤本 定義さんについて調べます
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藤本定義と関係のある人
三宅大輔: ^ 但し、巨人軍の球団史では、リーグ公式戦開始時の藤本定義を初代監督としている(巨人軍5000勝の記憶p.14ほか)。 谷本稔: 1955年、高校の監督が藤本定義監督の兄であった事から大映スターズに入団。 高野百介: 松本商業学校(現・松商学園高等学校)時代は同校にベンチコーチとして在籍していた藤本定義の指導を受け、1928年春と夏の甲子園に連続出場し、夏の大会ではエースとして大活躍した中島治康と共に、同校の優勝に貢献した。 石本秀一: プロ野球草創期、藤本定義率いる東京巨人軍との毎年の優勝争いが「伝統の一戦」の始まりである。デイリースポーツから出版された政岡基則著「猛虎の群像 そして星野」(2003年)では、阪神監督として歴史に名を残しているのは“鬼の石本秀一”、“猛虎魂のルーツ”といわれる松木謙治郎"、そして“名伯楽の藤本定義”の三人にしぼって間違いあるまい、と書いている。1937年11月に甲子園球場を会場に行われた現在のオールスターゲームの前身となる職業野球東西対抗戦第1回大会の西軍の監督を務める(東軍監督・藤本定義)。 田部武雄: 帰国後、巨人が巡業試合で東京鉄道局野球部(現JR東日本硬式野球部)に2敗したため、東京鉄道局の藤本定義が巨人の監督に招聘されたが、東京鉄道局がマークしたのが田部と沢村栄治だった。 藤本英雄: 監督の藤本定義によると、藤本が十分に調整をして臨んだら、当時の職業野球では到底打てるはずがなく、打てないとなると「なんだ職業野球は、六大学より弱いのか」と見られてしまう。 南部忠平: 元プロ野球監督・藤本定義は早稲田大学時代からの友人で、藤本が監督を務めていた阪神タイガースで、臨時ランニングコーチを務めたことがある。 呉昌征: 東京巨人軍監督の藤本定義と嘉義農林の近藤兵太郎が松山商業のOB同士で交流があったこともあり、1937年に巨人軍に入団。 飯尾為男: 1951年の新居浜東高校2年生の時に、愛媛県の審判部長であった後藤二郎により、松山市営球場でキャンプをしていた大映スターズの監督・藤本定義に紹介される。 王貞治: 5月3日の対藤本定義率いる阪神タイガース戦(7回戦、後楽園球場)では史上初の1試合4打席連続本塁打を記録した。 青田昇: 新人時代の監督であった藤本定義から声がかかり、1958年12月30日に青田は12年ぶりに阪急に復帰するが、左足首骨折の後遺症で十分な働きができず、1959年12月11日に現役引退を表明した。 杉下茂: 後日、天知に呼び出されて東京・新橋の料亭へ行くと、阪神タイガース監督の藤本定義がおり、天知からの「藤本さんの野球を勉強してこい」の一言で阪神タイガースの一軍投手兼ヘッドコーチに就任した。 青田昇: 1961年11月15日に阪神タイガースの藤本定義監督が「来年、ウチへ来てコーチとして助けてくれんか?」と要請し、青田がこれを受けて阪神の打撃コーチ(実質はヘッドコーチ)に就任。 川上哲治: 当時の監督の藤本定義も川上の打撃に注目して打者として育てようと考えていたが、チームは投手が不足していたので投手も兼任させた。 水本勝己: 2022年8月27日、新型コロナウイルス感染のため休養となった中嶋聡監督に代わり、プロ野球史上初となる“元NPB球団在籍選手かつ一軍公式戦未出場者による監督代行”として一軍の指揮を執り、同日の対埼玉西武ライオンズ戦(京セラドーム大阪)で6-0と勝利し、1968年に阪神タイガース監督を務めた藤本定義以来、“プロ野球一軍公式戦出場経験のない監督”として54年ぶりの勝ち星を記録した。 藤本勝巳: 藤本定義からは「一見して不器用に見えるが実は身体は軟らかく、バッティングがナイーブ」と評された。 本堂保次: 太陽ロビンス監督時代の藤本定義が本堂のサイン盗みを阻止することに挑んだが、試合後本堂から「(実際には藤本が出していなかった)スクイズのサインだけは見破れなかった」と言われ、それ以外のすべてのサインは本堂の見抜いたとおりであったことに驚愕した、という逸話が『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(1991年)に記されている(同書P57)。 新山彰忠: 南海は鶴岡一人監督が法大の先輩でOB会の一員であり、巨人は高校時代の恩師・前川が元巨人の投手であったこと、阪神は藤本定義監督と前川の線などが有力な新山獲得へのルートと見られていた。 古葉竹識: なお、古葉の監督時代より遡ると、藤本定義、鶴岡一人、三原脩、水原茂など名監督と呼ばれた監督で自ら三塁コーチスボックスに立っていた者は多い。 藤本勝巳: 同年12月5日に島倉千代子と結婚した(媒酌は藤本定義夫妻)。 高須清: 5年のブランクの後(大日本麦酒の社業に戻ったり、応召されたりしたこともある)、1946年に藤本定義監督に誘われる形で、パシフィックに入団して球界復帰を果たした。 鶴岡一人: 同じ関西を本拠地とする阪神タイガースから藤本定義の後任監督として1968年10月23日就任要請があったが、交渉の席で鶴岡が球団組織に対して言及すると阪神側が及び腰となり10月26日に交渉が決裂。 辻佳紀: 藤本定義監督は直情径行型の村山実に「村山は気が弱いところがある。 戸倉勝城: 同年途中から、藤本定義に代わって監督に就任する。 天知俊一: 杉下は1964年に阪神タイガース一軍投手コーチに就任したが、これは杉下が天知に呼び出されて東京・新橋の料亭へ向かうと、そこに天知と監督の藤本定義がおり、天知に「野球はオレの野球だけじゃない。 野田誠三: 藤本定義 木暮力三: 戦後の1946年に、かつて巨人監督だった藤本定義が監督に就任したパシフィックに入団。 前川八郎: その実力が評価されて、監督の藤本定義とともに巨人軍に引き抜かれた。 ジョー=スタンカ: 阪神の監督藤本定義は「スタンカに3度もひねられたのが敗因」と語った。 伊勢川真澄: 1948年に太陽ロビンス(パシフィックから改名)監督の藤本定義が金星スターズの監督に移ると、ヴィクトル・スタルヒンとともに藤本に従って金星に移る。 |
藤本定義の情報まとめ
藤本 定義(ふじもと さだよし)さんの誕生日は1904年12月20日です。愛媛出身の野球選手のようです。
卒業、引退、退社、テレビ、現在、解散、再婚、事件に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1981年に亡くなられているようです。
藤本定義のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督。 東京巨人軍初代監督(形式的には第3代監督)で、巨人と阪神の両方で監督を務めたことがある唯一の人物である。監督として通算3200試合・1657勝はいずれもNPB歴代3位。 1904年12月20日に愛媛県松山市で生まれる。愛媛県立松山商業学校に進学し、全国中等学校優勝野球大会には第6回から第9回まで4大会連続で出場している。 1920年(大正9年)の第6回全国中等学校優勝野球大会では野手として出場し、準決勝で慶応普通部と対戦。延長16回の激戦の末に3-4で敗退した。 1921年(大正10年)の第7回全国中等学校優勝野球大会から投手としてマウンドに立った。準々決勝で京都一商に投打で圧倒され、1-7で敗退した。 1922年(大正11年)の第8回全国中等学校優勝野球大会では準決勝で好投手浜崎真二を擁する神戸商と対戦し、白熱した投手戦の末に内野守備の乱れを突かれて1-2のサヨナラ負けを喫した。 松山商業野球部は1923年(大正12年)の第11回関西学生連合野球大会(美津濃運動具店主催)と近県中等学校野球大会(山口高商主催)でそれぞれ優勝し、さらに大毎軍や明大野球部とも対戦するなどして実力向上に努めた。同年夏の第9回全国中等学校優勝野球大会では優勝候補の一角にあげられていたが、2回戦で甲陽中と対戦し、9回表に逆転3ランを放たれて敗退した。
1923年の松山商業野球部(前列左から2人目が藤本定義)
伊丹安広(左)と藤本定義(右)
1924年に早稲田大学に進学し、藤本が繰り出すカーブは「カーブの藤本」と言われるほどに鋭く変化し、これを武器に投手として活躍する。1925年秋季に復活した「早慶戦」では10月20日の第2戦に登板して勝利投手となった。1929年(昭和4年)に商学部を卒業した後は大阪鉄道局吹田を経て、1933年秋からは東京鉄道局の監督として迎えられた。この時点では選手を引退したわけではなく、1935年に行われた巡業試合では、第1回アメリカ遠征から帰国した東京巨人軍と対戦して2勝を挙げた。なお、この時の巡業において東京巨人軍は36勝3敗の成績を残しており、3敗のうち2敗が藤本に抑えられてのものだったため、その手腕を見込まれて東京巨人軍の監督に招聘された。 東京巨人軍から監督就任を打診された藤本は、1936年6月16日に第2回アメリカ遠征から帰国した時点で監督として合流した。同年から始まった公式戦に臨むも、直後の夏季大会では2勝5敗と惨敗に終わる。こうした経緯により、東京巨人軍の球団史では藤本を初代監督として位置付けている。藤本はこの結果をアメリカ遠征の驕りと考え、鍛え直すために兵役を終えたばかりの三原脩を助監督兼任選手として復帰させ、群馬県館林市の分福球場で「茂林寺の特訓」と呼ばれる猛練習を行った。その甲斐あって秋季大会では公式戦第1回の優勝を果たし、藤本は7年間の在任中の9シーズンで7度の優勝を遂げるという第一次黄金時代を築く。 1941年9月、球団幹部による幹部会の二次会が開かれた際にマネージャーの飯泉春雄と些細なことから口論となり、飯泉が藤本を殴打した。藤本は即刻辞意を表明して監督職務を放棄、飯泉も退社し、専務だった市岡忠男や球団上層部が双方の説得に当たるも、実績に見合う報酬を与えられないことへの不満や球団内部における派閥争いを背景に、藤本は容易に復帰要請に応じなかった。そこへ現場代表として主将の水原茂も説得に加わったことでようやく藤本の態度も軟化し、1ヶ月後の10月末から再び指揮を執っている。しかし、1942年に東京巨人軍が5連覇を達成すると同年12月の定期総会で辞意を表明し、後任として中島治康を推薦する。辞意の理由としては表向きでは「7年間の監督生活で疲れ切った」と述べていたが、実際は前年のトラブルを始め、市岡らフロントとの確執に耐えられなくなったことと、太平洋戦争の激化が理由だった。藤本は1943年1月14日をもって正式に辞任し、東京巨人軍の運営会社である株式会社大日本東京野球倶楽部の取締役も兼任しており、こちらも辞意を表明したものの球団は監督辞表のみ受理した。 監督を辞任した後は、田村駒治郎が経営する「田村駒」の秘書に迎えられる。第二次世界大戦末期の相次ぐ空襲によって自家を失った藤本は、東京の田村駒別邸に身を寄せていたが、田村が藤本を迎えたのは将来的に朝日軍の監督に就任してもらう意向があったためだった。 戦後の1946年に、藤本は田村の意向に沿う形でパシフィックの監督として球界に復帰する。終戦直後の混乱期で各チームとも選手の獲得に奔走していたが、第二次世界大戦による中断期の申し合わせによって「選手はかつて所属していた球団に復帰する」「他球団に入団する場合は前所属球団の了承を得る」などの取り決めが存在した。ところが藤本は「戦争が終わって日本もイチから出直す。職業野球も同じ。選手も自由に球団を選ぶべき」と主張し、戦前に東京巨人軍に在籍していたヴィクトル・スタルヒン、白石勝巳や、大阪タイガースに所属していた藤井勇、藤村隆男を勧誘して入団させる。この事態に日本野球連盟から「それぞれ巨人と阪神に優先交渉権があるため、パシフィックの選手とは認められない。よって試合への出場は見合わせられたい」との通告が出された。藤本としては職業野球の中断時に球団側が選手の面倒を見ずに放出したこと(とりわけ白石に対しては藤本が就職の世話までしていた)や、公式戦が開始されるとファンから「なぜ白石を試合に出さない?なぜ藤井を出さない?」という期待が高まっていたこともあり、藤本は通告を無視して両者を試合に出場させる。連盟は度重なる協議を行った結果、同年10月4日になって前年までの給与を旧所属球団から受け取っていなかったことから白石らのパシフィックへの帰属は認めるが、2人を出場させた5月の4試合は、帰属が決定する前の試合として無効、没収試合として9-0で相手球団の勝利としたほか、パシフィックには制裁金1万円、藤本には制裁金200円および1週間の試合出場停止の裁定を出した。それでも藤本は選手の待遇改善にはまだまだ足らないと考えて「日本野球選手会」を発足させ、初代会長に就任した。 1947年12月4日をもって藤本はパシフィックの監督の辞任し、退団した。その後は1948年から1956年まで金星スターズの監督を務めたのち、1957年から1959年は阪急ブレーブスを率いた。 1959年12月14日、藤本は大阪タイガースのヘッド兼投手コーチに就任した。監督の金田正泰が藤本に「後ろ盾」になってもらおうと要請したもので、金田は神戸市本山にあった藤本の自宅を自ら訪ねて「私を助けてください」と頭を下げた。東京巨人軍出身者としてライバルのタイガース入りに抵抗感があった藤本は、大日本東京野球倶楽部初代総監督も務めた市岡や、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二と相談した結果、受諾した。鈴木は藤本のタイガース入りについて「巨人・阪神戦が一生注目を浴びる」と推薦までしていた。 藤本の在任中は球団社長だった戸沢一隆と傍目も羨むほどに馬が合い、2年目の1961年にはタイガースのキャンプを高知市営球場で行うことを提案した。これが実現し、本拠地である阪神甲子園球場を離れてのキャンプは1953年(鹿児島県立鴨池野球場)以来だったが、監督の金田には決定まで全く知らされていなかった。そのためか、キャンプでは金田から「若手投手の育成」を理由に二軍を指導するよう指示され、一軍から藤本を遠ざける事態となった。これによって歯車が狂い始めて開幕を迎えても最下位に沈み、同年5月30日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)からは一軍ベンチに合流した。チームの不振が続く中、同年8月6日早朝に戸沢はチーム遠征先の東京都文京区本郷の「清水旅館」に向かい、金田に休養を通達すると同時に、午前11時に東大球場での練習前に藤本の代理監督就任を全選手に通達した。翌朝の「スポーツニッポン」では「球団側、予定の行動」との見出しで解説があり、記者だった荒井忠は「金田さんは戸沢さんの支持を受けてないので、やがては藤本さんの手に(監督の)権利が渡ると見越していた」と書いた。 藤本は同年7月19日に監督へ就任し、後半戦は37勝27敗1分と勝ち越しに成功した。選手には「これが優勝ベースだ。この味を忘れるな」と語りかけ、藤本自身もチームに自信とまとまりが芽生えてきたことを実感し始めていた。1962年には「打倒巨人」を掲げ、巨人OBの青田昇をヘッドコーチに招聘し、投手陣は杉下茂によって解雇寸前だったジーン・バッキーに身体の使い方から投球方法まで徹底的に鍛えさせ、同年と1964年にはリーグ優勝を果たした。阪神の監督として2度優勝を達成したのは1リーグ時代の石本秀一・若林忠志に次いで3人目だが、藤本の後は岡田彰布まで59年間現れなかった。1965年10月28日には総監督に就任し、後任の監督として杉下を起用させたが、シーズン途中の1966年6月13日に杉下が監督を辞したことで監督に復帰した。1968年10月21日に勇退を申し入れ、同年11月19日には阪神タイガースの球団技術顧問に就任した。監督としての実働期間は29年間になり、これは歴代最長の記録となっている。また、所属球団が5球団にもなり、これは三原脩・石本秀一と並ぶ最多タイ記録で、藤本が一軍監督を務めた1968年は、プロ野球選手としての経験がない人物による一軍監督の最後の例となっている。 1970年からは現場を離れ、報知新聞の専属評論家として活動したほか、1974年には野球殿堂入りを果たした。さらに同年から1979年まではサンテレビボックス席(阪急戦)解説者を務めた。 1981年2月18日に死去、76歳没。 2010年代に、1936年の職業野球年度優勝決定戦となった東京巨人軍と大阪タイガース(洲崎球場)の第3戦の模様を、観客が8ミリカメラで撮影した映像が発見され、藤本が東京巨人軍の攻撃時に一塁側のベースコーチに立って、攻撃の指揮を執る姿が確認された。 戦前は、前述の「茂林寺の猛練習」にもあるようにスパルタ監督のイメージが強いが、戦後は「伊予の古タヌキ」の異名をとるほど、知略を前面に出していた。また、選手の人心掌握に優れた監督で、自身が投手だったこともあって特に若手投手をかわいがった。戦地での手榴弾投げなどで肩を痛め、東京巨人軍から冷遇されていた沢村栄治を親身に世話し、ロシア系だとしてチームメートから虐められることもあったヴィクトル・スタルヒンを常に庇った。 タイガース時代には江夏豊を宿舎の自室に呼び、お茶を飲みながらスタルヒンと沢村の話を聞かせたという。晩年の1979年に江夏が広島東洋カープで初めて優勝を経験した際にも藤本は杖を突きながら現れ、「良かったなぁ」と泣きながら祝福した。 1937年には「同一球団の2連戦には初戦に沢村栄治、2戦目にヴィクトル・スタルヒンまたは前川八郎を起用する」「先発投手には事前に登板日を予告する」などから、現在の先発ローテーションに繋がる起用方法を持っていたとされる。戦後の1957年から1959年にかけて阪急ブレーブス監督時代に日本で初めて「先発ローテーション」を本格的に導入し、当時エースだった米田哲也・梶本隆夫を一定間隔で先発起用した。また、当時は一般的だったエースの連続起用に対して「30勝投手を出すのは監督の恥」と批判した。これは大阪タイガース監督就任時も維持し、1962年は小山正明・村山実、1964年はジーン・バッキーの活躍で優勝を果たした。これは小山、村山を軸にペナントレースの焦点となる巨人戦から逆算して考えて先々まで決めていたため、「巻紙ローテーション」とも呼ばれた。藤本は東京鉄道管理局勤務時代に統計係として国鉄各駅の乗降人数を集計整理する業務を担当した経験を持ち、これが「先発ローテーション制」確立に役立ったと言われている。 ただし、現在のように先発・中継ぎ・抑えの「投手分業制」は嫌っており、常に先発完投型の投手像を追及していた。その言葉通り、1962年の完投数は小山:26、村山:23、1964年のバッキーは24完投している。 1946年にパシフィックの監督に就任した際に、戦前に他球団に所属していた選手を入団させたことで没収試合を経験することとなった。 同年からプロ野球は復活したが、戦後の混乱期の中で選手契約についても議論が割れていた。具体的には、プロ野球が1944年に一時休止になった時点で「いずれかの球団に所属していた選手はそのチームに戻るべき」という意見と、「戦後新しくスタートするのだから戦前の所属球団にこだわる必要はない」という意見である。 藤本は移籍容認派で、「戦争が終わって、日本もイチから出直すのだから、職業野球もイチから出直す。よって選手も自由に球団を選ぶべきだ」と述べ、プロ野球が中止されて球団が解散した時に、選手のその後の支援を何もせずに一方的に解雇したにもかかわらず、選手の保有権を主張する球団の対応に不満を持っていた。そして、藤本率いるパシフィックにヴィクトル・スタルヒンと白石勝巳(東京巨人軍)、藤井勇(阪神軍)を、巨人・阪神両球団の許可無く入団させた。これに対して日本野球連盟は「調査の必要もあり、様々な意見を聞いて慎重に決定する必要がある。それまでは対象になる選手の出場を一時見合わせるように」という全球団に対して通告を出していた。 しかし上記の理由から連盟の調査は長引き、ファンからも3選手の出場を望む声があがったことで、藤本は5月20日のセネタース戦、5月23日のグレートリング戦、5月24日の阪急軍戦、5月26日のグレートリング戦(いずれも阪急西宮球場)の合計4試合に、白石と藤井の2選手を連盟の許可なく出場させた。これを知った巨人と阪神は日本野球連盟に提訴した。 藤本は前述の球団の対応への不満に加え、戦前に巨人軍の選手だった青田昇・前川八郎が阪急軍と契約し、白石や藤井と同様に試合に出場していたにもかかわらず不問にされた上に、その阪急の球団代表が藤本を批判していたことを引き合いに出して反論した。 その後、日本野球連盟は10月14日に「戦前の所属球団から給与を受けていなかったため、3選手へのパシフィック移籍は了承するが、白石と藤井が出場した5月の4試合はパシフィックの選手である裁定が出る前とみなし、『没収試合』とする」という裁定を下した。同時に藤本へ対して10月10日から10月18日までの出場停止処分と制裁金200円を命じられた(当時の大人の入場料は3円)。パシフィックにとっては没収試合を宣告された4試合のうち3試合は負けていたため影響は少なかったが、5月26日のグレートリング戦は7-4で勝利していたため、没収試合で勝敗が入れ替わった。なお、その4試合以後にスタルヒン・藤井・白石が出場した試合についてはパシフィックの選手である裁定が出た後とみなされたため、没収試合とならなかった。 そしてこの没収試合は、巨人の戦後初年度優勝を逃す一因にもなった。この年はグレートリングが65勝38敗2分け(勝率.631)、巨人が64勝39敗2分け(勝率.621)であり、裁定が無ければプレーオフという結果になっていただけに、巨人にとっては間接的に優勝争いのライバルに1勝を献上する形となってしまった。 東京巨人軍で7回の優勝を果たした時代は戦前の1リーグ制だったため、リーグ優勝を果たして日本シリーズに出場したのはタイガース監督時代の1962年・1964年のみでいずれも敗退している。通算1000勝以上の監督で、日本シリーズでの優勝経験がないのは西本幸雄、別当薫で、別当にはリーグ優勝の経験もない。 監督として、退場処分を7度記録している。 阪神タイガースに入団し、その後広島東洋カープ、日本ハムファイターズなどで活躍した江夏豊は、自身の著書においてタイガース監督時代の藤本の立場を示すエピソードについて語っている。 江夏が1967年のオールスターゲームに出場した際に、川上哲治(セントラル・リーグ監督)の指示によって3連投を行った。当時の江夏はその結果に満足していたが、オールスター戦が明けて最初の巨人戦において、試合前に藤本は巨人監督の川上を自軍のベンチに呼び出し、「おい、哲!うちの豊(江夏)を乱暴に使いやがって!この馬鹿野郎!」と物凄い剣幕で叱った。上記のように選手を酷使することを嫌っていた藤本だが、かつての教え子とはいえ、ライバル球団の監督を直接叱るという意外な出来事に対し、既に名監督として評価されていた川上は直立不動で藤本の話を聞いていた。 入団まもない江夏は藤本から非常にかわいがられ、野球人として最晩年に差し掛かっていた藤本は、孫のような年齢の江夏の目には好々爺のような存在に映り、藤本自身も前述の沢村、スタルヒンのように野球の昔話を聞かせるのが大好きだったという。そんな藤本がこの時に限って突然、鬼監督のように川上を怒鳴りつけ、天下の川上であれどなすすべなく立ち尽くしている光景に、江夏は衝撃を受けたという。 最初の妻は第二次世界大戦中の1945年に死別し、その直後に田村駒治郎の世話で田村の遠縁の女性と再婚している。 3200試合 1657勝1450敗93分 勝率.533(試合数・勝数・敗数いずれも歴代3位) リーグ優勝9回(1リーグ制7回、2リーグ制2回) Aクラス20回、Bクラス11回 野球殿堂競技者表彰(1974年) 22 (1936年 - 1938年) 30 (1939年 - 1942年、1946年 - 1959年) 60 (1960年 - 1961年途中) 61 (1961年途中 - 1968年) ^ 藤本は職業野球公式戦が開始された1936年から監督に招聘されており、球団史では藤本を初代監督としている。 ^ その藤本のことを江夏は「おじいちゃん」と呼んでいたと明かしている。 ^ データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム ^ 松山商業高校野球部百年史編集委員会 『松商野球部百年史』 2003年、51-52頁 ^ 『松商野球部百年史』 54-55頁 ^ 『松商野球部百年史』 56-57頁 ^ 『松商野球部百年史』 59-60頁 ^ 愛媛新聞社 『愛媛の野球100年史』 1994年、427-431頁 ^ 早稲田大学校友会 『会員名簿 昭和36年度版』 1962年、1061頁 ^ 前掲『国鉄スワローズ1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』P22 ^ 前掲『ジャイアンツの歴史』p.83 ^ . 読売巨人軍公式サイト. https://www.giants.jp/G/museum/g_history/+2020年4月6日閲覧。 ^ 前掲『プロ野球40年史』p.47 ^ 『戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯』112頁 ^ 『戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯』163頁 ^ 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』筑摩書房、2001年、pp40 - 41 ^ 藤本定義『実録プロ野球四十年史』。鈴木龍二『鈴木龍二回顧録』 ^ 【内田雅也の猛虎監督列伝~<11>第11代・金田正泰】「排斥運動」の自業自得 代理は自ら招いた名将。 ^ 1937年秋・1938年春 ^ 1944年・1947年 ^ 2005年・2023年 ^ 幻の“日本シリーズ” ~フィルムからよみがえる選手たち~ NHK『クローズアップ現代』2015年6月11日放送 ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p30 ^ [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P30-P31 ^ 前掲『ジャイアンツの歴史』p.103 ^ 前掲『プロ野球40年史』p.118 ^ 『ベースボールマガジン別冊 日本プロ野球「事件史」』(ベースボール・マガジン社刊)p.67 ^ 前掲『日本プロ野球「事件史」』p.67 ^ “プロ野球の“退場王”は?ロッテ・井口監督は自身2度目【上位一覧】”. デイリースポーツ online (2022年5月14日). 2022年6月24日閲覧。 ^ 前掲『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』p.72 越智正典 『ジャイアンツの歴史』 恒文社、1974年。 ベースボール・マガジン社編著 『日本プロ野球40年史』 ベースボール・マガジン社、1976年 『ベースボールマガジン2002年秋季号 日本プロ野球「事件史」』ベースボール・マガジン社、2002年 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』筑摩書房、2001年 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.12巨人監督に招聘、p.13「茂林寺の猛練習」、p.14初のリーグ優勝、初代監督としての紹介 上田龍『戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯』新日本出版社、2009年 堤哲『国鉄スワローズ1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』交通新聞社、2010年 愛媛県出身の人物一覧 早稲田大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 松竹ロビンスの選手一覧 大映ユニオンズの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 サンテレビボックス席 - 野球解説者として出演した番組。 藤本 定義 - 野球殿堂博物館 データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 三宅大輔 1934 - 1935 浅沼誉夫 1935 - 1936 藤本定義 1936 - 1942 中島治康 1943 藤本英雄 1944, 1946 中島治康 1946 - 1947 三原修 1947 - 1949 水原茂(水原円裕) 1950 - 1960 川上哲治 1961 - 1974 長嶋茂雄 1975 - 1980 藤田元司 1981 - 1983 王貞治 1984 - 1988 藤田元司 1989 - 1992 長嶋茂雄 1993 - 2001 原辰徳 2002 - 2003 堀内恒夫 2004 - 2005 原辰徳 2006 - 2015 高橋由伸 2016 - 2018 原辰徳 2019 - 2023 阿部慎之助 2024 - 現在 表 話 編 歴 永井武雄 1936 伊藤勝三 1936 小西得郎 1936 - 1938 高田勝生 1938 - 1940 竹内愛一 1941 - 1943 坪内道則 1944 藤本定義 1946 - 1947 長谷川信義 1948 石本秀一 1949 小西得郎 1950 新田恭一 1951 - 1952 表 話 編 歴 坪内道則 1946 - 1947 藤本定義 1948 - 1956 松木謙治郎 1956 - 1957 表 話 編 歴 三宅大輔 1936 - 1937 村上実 1937 山下実 1938 - 1939 村上実 1939 山下実 1940 井野川利春 1940 - 1942 西村正夫 1943 - 1944, 1946 - 1947 浜崎真二 1947 - 1953 西村正夫 1954 - 1956 藤本定義 1957 - 1959 戸倉勝城 1959 - 1962 西本幸雄 1963 - 1973 上田利治 1974 - 1978 梶本隆夫 1979 - 1980 上田利治 1981 - 1990 土井正三 1991 - 1993 仰木彬 1994 - 2001 石毛宏典 2002 - 2003 レオン・リー 2003 伊原春樹 2004 仰木彬 2005 中村勝広 2006 テリー・コリンズ 2007 - 2008 大石大二郎 2008 - 2009 岡田彰布 2010 - 2012 森脇浩司 2013 - 2015 福良淳一 2016 - 2018 西村徳文 2019 - 2020 中嶋聡 2021 - 2024 岸田護 2025 - 表 話 編 歴 森茂雄 1936 石本秀一 1936 - 1939 松木謙治郎 1940 - 1941 若林忠志 1942 - 1944 藤村富美男 1946 若林忠志 1947 - 1949 松木謙治郎 1950 - 1954 岸一郎 1955 藤村富美男 1955 - 1957 田中義雄 1958 - 1959 金田正泰 1960 - 1961 藤本定義 1961 - 1965 杉下茂 1966 藤本定義 1966 - 1968 後藤次男 1969 村山実 1970 - 1972 金田正泰 1973 - 1974 吉田義男 1975 - 1977 後藤次男 1978 ドン・ブレイザー 1979 - 1980 中西太 1980 - 1981 安藤統男(統夫) 1982 - 1984 吉田義男 1985 - 1987 村山実 1988 - 1989 中村勝広 1990 - 1995 藤田平 1996 吉田義男 1997 - 1998 野村克也 1999 - 2001 星野仙一 2002 - 2003 岡田彰布 2004 - 2008 真弓明信 2009 - 2011 和田豊 2012 - 2015 金本知憲 2016 - 2018 矢野燿大 2019 - 2022 岡田彰布 2023 - 2024 藤川球児 2025 - 現在 表 話 編 歴 1950 小西得郎 1951 水原茂 1952 水原茂 1953 水原茂 1954 天知俊一 1955 水原円裕 1956 水原円裕 1957 水原円裕 1958 水原円裕 1959 水原円裕 1960 三原脩 1961 川上哲治 1962 藤本定義 1963 川上哲治 1964 藤本定義 1965 川上哲治 1966 川上哲治 1967 川上哲治 1968 川上哲治 1969 川上哲治 1970 川上哲治 1971 川上哲治 1972 川上哲治 1973 川上哲治 1974 与那嶺要 1975 古葉竹識 1976 長嶋茂雄 1977 長嶋茂雄 1978 広岡達朗 1979 古葉竹識 1980 古葉竹識 1981 藤田元司 1982 近藤貞雄 1983 藤田元司 1984 古葉竹識 1985 吉田義男 1986 阿南準郎 1987 王貞治 1988 星野仙一 1989 藤田元司 1990 藤田元司 1991 山本浩二 1992 野村克也 1993 野村克也 1994 長嶋茂雄 1995 野村克也 1996 長嶋茂雄 1997 野村克也 1998 権藤博 1999 星野仙一 2000 長嶋茂雄 2001 若松勉 2002 原辰徳 2003 星野仙一 2004 落合博満 2005 岡田彰布 2006 落合博満 2007 原辰徳 2008 原辰徳 2009 原辰徳 2010 落合博満 2011 落合博満 2012 原辰徳 2013 原辰徳 2014 原辰徳 2015 真中満 2016 緒方孝市 2017 緒方孝市 2018 緒方孝市 2019 原辰徳 2020 原辰徳 2021 高津臣吾 2022 髙津臣吾 2023 岡田彰布 2024 阿部慎之助 VIAF 日本 日本のアマチュア野球選手 愛媛県立松山商業高等学校出身の野球選手 早稲田大学野球部の選手 早稲田大学出身の人物 JR東日本硬式野球部及びその前身チームの選手 日本の野球監督 野球解説者 日本の野球殿堂表彰者 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の監督 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の監督 松竹ロビンス関連人物 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督 大映ユニオンズ関連人物 オリックス・バファローズ及びその前身球団の監督 阪神タイガース及びその前身球団の監督 20世紀日本の実業家 愛媛県出身のスポーツ選手 1904年生 1981年没 外部リンクがリンク切れになっている記事/2021年9月 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 書きかけの節のある項目 Reflistで3列を指定しているページ 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2024/11/12 14:21更新
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fujimoto sadayoshi
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