もしもし情報局 > 1909年 > 6月28日 > 野球選手

中島治康の情報 (なかじまはるやす)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

中島治康の情報(なかじまはるやす) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

中島 治康さんについて調べます

■名前・氏名
中島 治康
(読み:なかじま はるやす)
■職業
野球選手
■中島治康の誕生日・生年月日
1909年6月28日 (年齢1987年没)
酉年(とり年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
長野出身

中島治康と同じ1909年生まれの有名人・芸能人

中島治康と同じ6月28日生まれの有名人・芸能人

中島治康と同じ出身地長野県生まれの有名人・芸能人


中島治康と関係のある人

野村高義: しかし、当時の巨人の外野は伊藤健太郎・呉波・中島治康らで層が厚かったことから出場機会に恵まれず、21試合の出場でわずか1安打に終わった。


高野百介: 松本商業学校(現・松商学園高等学校)時代は同校にベンチコーチとして在籍していた藤本定義の指導を受け、1928年春と夏の甲子園に連続出場し、夏の大会ではエースとして大活躍した中島治康と共に、同校の優勝に貢献した。


三原脩: 三原はこれを受諾し、3日後の6月6日に大学の後輩にあたる監督の中島治康に配慮する形で助監督兼技術顧問として復帰した。


真野春美: 立大時代首位打者獲得)、中島治康(のち巨人)がいる。


鶴岡一人: 放った10本塁打は1938年の秋季リーグで記録した巨人・中島治康とともに戦前の最多タイ記録である。


藤本定義: しかし、1942年に東京巨人軍が5連覇を達成すると同年12月の定期総会で辞意を表明し、後任として中島治康を推薦する。


田中資昭: 結果、三原は総監督に祭り上げられて水原茂が新監督となるが、田中は中島治康・平山菊二とともに新球団の大洋ホエールズへ移籍した。


林清一: 同年は中島治康が復帰するまで右翼手のレギュラーを務め試合数の半分近くの48試合に先発出場するが、翌1947年は平山菊二・小松原博喜の加入によって林の出番が減少してわずか8試合の先発出場に留まり、同年限りで引退した。


平山菊二: 結局、郷里・下関を本拠地とする大洋ホエールズがプロ野球に新規参入したことから、中島治康とともに平山は新球団に譲渡される形で移籍した。


沢村栄治: 故障による衰えのため戦力にはならなかった一方で、沢村は持ち前の明るい性格で若い選手の兄貴分となり、主将としてチームのまとめ役に回って新人監督の中島治康をよく助けた。


沢村栄治: 早稲田大学OBの三原脩・中島治康、法政大学OBの苅田久徳らかつて大学野球で活躍したメンバーが軒並み参加する中で、沢村はヴィクトル・スタルヒンとともに中等野球界からメンバーに選ばれる。


藤井勇: 同年秋には、初優勝を果たしたチームでクリーンナップを打ち、打点王・中島治康に1打点差となる36打点を挙げた。


三田政夫: しかし、当時の巨人の外野は伊藤健太郎・呉波・中島治康・平山菊二がおり出場機会には恵まれず、1939年までの2年間で59試合出場、通算15安打に終わった(花の13年組では、内海〈通算20試合出場、1安打〉に次いで少ない)。


大下弘: 9月5日の中部日本戦で12号・13号を連発し、1938年に中島治康が打った11本を抜いて年間本塁打記録を塗り替えた。


川崎徳次: 1946年10月に監督の中島治康の勧誘もあり読売ジャイアンツに入団してプロ野球界に復帰。


本堂保次: シーズン26二塁打:1940年(前年の中島治康を超える戦前最多、1946年に藤村富美男が更新)


永沢富士雄: 1937年は一塁手のレギュラーとなって五番または六番を打ち、春秋通算で46打点と中島治康(67打点)に次ぐチーム2位の打点を記録した。


大下弘: 最多連続試合本塁打:4、1949年8月25日 - 28日 ※達成当時NPB史上2位(一時、1リーグ時代の日本プロ野球記録とされたが、1972年に1938年の中島治康の5試合連続の記録が発見されている)


遠藤忠二郎: 1938年秋季シーズンに中島治康(巨人)に次ぐ、5本塁打(バッキー・ハリス〈イーグルス〉と並んでタイ記録)をマークし、長打力も見せつけた。


中尾碩志: この試合の4回には、無死一塁から野口二郎にライト前に落ちる打球を打たれるが、右翼手・中島治康の好返球で、一塁走者尾茂田叶が二塁封殺され、ライトゴロになる幸運もあった。


白石勝巳: しかし、翌1948年春に巨人が別府でキャンプを張ると、監督の三原脩や、中島治康・千葉茂らから「帰って来いよ、また一緒にやろうよ」と声がかかり、白石は再び巨人に復帰した。


藤本英雄: 1946年途中まで監督を兼任し、同年シーズン途中に中島治康が兼任監督として巨人に復帰したのを受けて選手専任に戻る。


鈴木田登満留: 遠征先の宿舎で、花瓶の水がドロドロに腐っているのを見つけた中島治康から「全部飲んだら10円やるがどうだ」と持ちかけられたところ、瞬く間に全部飲み干してしまい(1分もたたないうちにもどしてしまったが)、まんまと10円をせしめた。


岡豊: 不滅の熱球(1955年) - 中島治康


岩下守道: 1950年夏に宇野光雄二軍監督の勧めで一塁手へ転向、さらに郷里の先輩で大洋の監督であった中島治康に野手転向の報告を行った際に勧められて、左打者になる。


長野久義: シーズン3度の右ゴロは球団では中島治康以来70年ぶりだった。


王貞治: 中島治康、野村克也に次ぐNPB史上3人目・セ・リーグ初の三冠王達成者。


中島治康の情報まとめ

もしもしロボ

中島 治康(なかじま はるやす)さんの誕生日は1909年6月28日です。長野出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

引退、事件、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1987年に亡くなられているようです。

中島治康のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

中島 治康(なかじま はるやす、1909年〈明治42年〉6月28日 - 1987年〈昭和62年〉4月21日)は、長野県東筑摩郡中山村(現:松本市)出身のプロ野球選手(外野手)・監督、スポーツライター。

愛称は「班長」。

巨人軍草創期の4番打者。職業野球リーグが開始されると、数多くの打撃タイトルを獲得し、巨人の第一期黄金時代の主軸打者として活躍。特に1938年秋季には打率.361、本塁打10、打点38の圧倒的な成績でNPB史上初の三冠王となり「打撃王」の名を高めた。1943年には監督に就任し、兵役で選手が払底している中で巨人を優勝に輝く。戦後、1950年の両リーグ分立(プロ野球再編問題)に際して大洋ホエールズに移籍し、監督も務めた。引退後は、読売新聞運動部に在籍し、スポーツライターとしてアマチュア野球論に健筆を奮った。1963年に野球殿堂入り。

松本商業(旧制、現:松商学園高)でエース・4番打者として鳴らし、1928年の夏の甲子園で優勝した。のちにプロ入りしたチームメイトに高野百介がいる。早稲田大学商学部に進むと野手に転向。東京六大学リーグ通算18試合出場、49打数12安打、打率.245、0本塁打、4打点。藤倉電線を経て1934年に大日本東京野球倶楽部に入団。そのまま巨人軍結成に参加する。 1935年に一度退団するが、翌1936年よりリーグ戦が始まると、春季リーグから右翼手のレギュラーとしてクリーンナップを打ち、7月15日には球団第1号の本塁打を放っている。秋季リーグからは主に4番打者を務め、この年の春・夏・秋通算でチームトップの打率.267を記録した。1937年春は本塁打王(4本)、秋は打点王(37打点)、1938年春は首位打者(打率.345)と次々と打撃タイトルを獲得する。同年秋、10月11日から11月5日までの11試合の間に、5試合連続を含む8本塁打、1試合4安打5回を含む28安打(打率.583)、20打点の固め打ちで、打率.361、10本塁打、38打点と打撃3部門とも2位以下を大きく引き離す圧倒的な成績を挙げ、NPB史上初の三冠王となり、最高殊勲選手にも選ばれた。当時は三冠王という概念はなく、1965年に野村克也が三冠王を獲得した際に、1937年と1938年における春季・秋季を別シーズンあるいは合わせて1シーズンと見なすか明確な判断が下されていなかったことから、中島の記録をどう取り扱うかが問題となった。NPBコミッショナーの内村祐之による裁定によって、春・秋それぞれを独立したシーズンと扱うことが確認され、1938年秋の中島がNPB初の三冠王と認定された。なお、この年は春秋通算でも打率.353、11本塁打、63打点と三部門いずれもトップの成績を残している。また、シーズン10本塁打は1939年の鶴岡一人と並ぶ戦前最多タイ記録となっているが、鶴岡の92試合に対して中島はわずか38試合で記録を打ち立てたものである。シーズン長打率.6258は戦前の最高記録。

その後も、1940年まで四番打者を1941年以降は川上哲治に続く五番打者を務める傍ら、1940年(67打点)・1942年(60打点)と二度の打点王を獲得するなど、1939年から1943年までの巨人の第一次黄金時代に主軸打者として大きく貢献した。また、1942年のシーズン終了後の1月14日(1943年)に監督を辞任した藤本定義に替わって、1943年には選手兼任監督を務めて54勝27敗(勝率.667)で五連覇を達成するとともに、3本塁打(リーグ4位)、32打点(リーグ3位)と主軸打者としても十分な成績を残した。1944年応召により退団する。結局、戦前に通算44本の本塁打を放ったが、これは2位の景浦将・苅田久徳の25本に圧倒的な差を付けてトップとなっている。

戦後、1946年シーズン途中の6月13日に再び選手兼任監督として復帰。六番・右翼手のレギュラーとして58試合に出場して、打率.272、34打点を記録する。監督としても、グレートリング・阪神と三つ巴で激しくペナントを争うが、最終戦である11月3日の対セネタース戦で敗れ、64勝39敗(勝率.621)でグレートリングに1.0ゲーム差の2位に終わった。翌1947年は開幕からチームが不調で、29試合(10勝19敗〔勝率.345〕)を消化した6月初旬に三原脩が助監督・技術顧問に就任して指揮を執ったため、実態として中島は監督職を解任された状態になった。また、同年以降は小松原博喜・呉新亨(萩原寛)にレギュラーを譲って控えに回る。なお、1949年4月に三原ポカリ事件で監督の三原脩が出場停止となった際には、約3ヶ月間に亘って選手兼任で監督代行も務め、37勝25敗(勝率.597)の記録を残している。

1950年に大洋ホエールズに移籍。1951年に選手兼任監督となったが、19勝26敗(勝率.422)と結果が出ず、6月末限りで途中交代となる(後任は球団専務の有馬義一)。大洋での2年間はいずれも3割以上の高打率を残すが、同年限りで現役を引退。中島曰く「人として許し難いことがあった」とここでプロ野球とは一線を引き、読売新聞運動部に在籍し、野球記者として東京六大学野球や高校野球観戦を続けアマチュア野球論に健筆を奮った。1963年に野球殿堂入り。

晩年「プロ野球は性に会わん」と言っていたとも伝わるが、巨人に対する愛情を持ち続けていたという。川上派と長嶋派の対立が激化した1980年代前半、川上・長嶋両者を凌ぐ存在が必要と考えた千葉茂は、プロ野球界から離れていた中島を担ぎ出して巨人軍OB会長に据えた。会長職は1982年から1984年まで務めている。

1987年4月21日に急性心不全のため死去。77歳没。

類い希なパワーと悪球打ちでボール打ちの名人として知られる。これは、次の投球を打つと決めたらどんな悪球でも絶対に変更せずに必ず打ったためで、学校の授業の時間割りのようによほどのことがない限り変更しないことに因んで、「時間割り」というあだ名もあったという。得意にしていたセネタースの金子裕に対しては、ワンバウンド投球を後楽園球場右翼席に打ち込んで本塁打したという伝説がある。ホームランバッターながら三振が少なく、加えて打ち気が強く四球を選ぶことを好まなかったため四球も少なかった。

打撃フォームはいわゆるバケツに片足を突っ込むと言われる極端なアウトステップであったが、膝と腰を初め身体に非常に柔軟性があったことから肩が残って体が開かず、あらゆるコースの投球を自在に広角に打ち分けた。カーブ打ちにも優れ、川上哲治は入団してから1年間中島の打撃を観察して学びカーブに自信を付けて首位打者を獲得するなど、カーブ打ちの生きた教科書とも呼ばれた。

守っては、打者が打てそうもないとみるや思い切った前進守備を取り、その強肩でしばしば右翼手前に飛んだ打球をライトゴロにした。特に、1941年にはシーズン5度(二塁送球3・一塁送球2)のライトゴロを完成させるなど、通算20個のライトゴロを成立させている。また、100メートルを11.2秒程で走る俊足を飛ばして右翼線際の飛球をよく好捕した一方で、右中間の打球に対しては判断が極端に早くて、自分が捕れないとみると絶対に捕球に走らず、「おーい、呉いけ!ゴーゴー」と全て当時の中堅手・呉波に任せた。これには呉も閉口し「班長は、みんな俺に捕らせる」とこぼしていたという。

のちに、巨人の主力打者となる川上哲治・青田昇の素質を見いだしたとして、以下の話がある。

声が大きく藤本定義監督から号令係を命じられたことで生まれた班長のニックネームで慕われた。投手が少しでも変な球を投げると、右翼の守備位置から「どこに投げとるんだぁ、しゃんとせい!」「ストライクを放るんだぁ」と大声で怒鳴り、エースのスタルヒンに対しても四球でも出そうものなら「こら、スタ公、真ん中へ投げんか!」と同様であった。一方で、投手が好調な時は「いいぞいいぞ、その調子!」と激励し続けるなど、試合開始から終了まで大声で喋りっぱなしであった。また、グラウンドでは一切笑顔を見せない独特の風格に人気があった。

一見、大豪傑に見えたが、非常にまじめな性格で、酒は一滴も飲まずせいぜい麻雀をする程度であった。シーズン終了後の納会ではいつも酒も飲まずにニコニコしてチームメイトと騒いでいた。宴が盛り上がる中「班長!ボツボツやりませんか」と声がかかると、中島は佐渡おけさを朗々と歌い、宴席は静まり返りみな聞き惚れていたという。

見かけによらず達筆で、沢村栄治から頻繁にラブレターの代筆を頼まれていたが、面倒がらずに律儀に引き受けていた。巨人の選手が優勝の寄せ書きを書く際、色紙の真ん中は必ず空けてあり、最後に中島が貫禄のある字で「昭和×年×月×日、巨人軍優勝記念」と書くのが常であった。

兵役に就いた期間が短く下士官(一説では軍曹)で終わったが、軍隊でも一向に階級など気にしなかった。将校であった中尾輝三が台湾行きの輸送船に乗って横浜港あたりに停泊していた際に中島が訪ねてきたが、中島は士官室の扉を開けるといきなり「中尾はおるか!」と大声で言った。居並ぶ将校連は騒然となったため、中尾は将校連を必死で宥めたという。

1940年5月24日の対東京セネタース戦では4回に本塁打、5回に二塁打、7回に三塁打を記録し単打が出ればサイクル安打第1号になるところだったが、次の打席で右中間を破って全力疾走し二塁打にしてしまったためにその機会を逃してしまった。

各年度の太字はリーグ最高

1946年は6月13日からシーズン終了まで

1947年は開幕から6月2日まで

1949年は4月16日から7月20日まで三原修の出場停止による監督代理

1951年は開幕から6月30日まで

首位打者:2回 (1938年春、1938年秋)

本塁打王:2回 (1937年春、1938年秋)

打点王:4回 (1937年秋、1938年秋、1940年、1942年)

最高出塁率:1回(1938年秋)※当時は連盟表彰無し

最多安打:3回 (1938年春、1938年秋、1942年) ※当時は連盟表彰無し

最高殊勲選手(MVP):1回 (1938年秋)

ベストナイン:1回 (1940年)

野球殿堂競技者表彰(1963年)

三冠王:1回、1938年秋 ※NPB史上初

連続試合本塁打:5、1938年10月11日 - 10月22日 ※1リーグ時代記録

連続試合安打:22、1938年5月7日 - 6月21日 ※戦前記録

シーズン本塁打:10、1938年 ※戦前記録

シーズン長打率:.626、1938年 ※戦前記録

12 (1934年)

3 (1936年 - 1942年)

30 (1943年、1946年 - 1951年)

^ 中島、プロ野球史上初の三冠王に

^ 『ジャイアンツ栄光の70年』36頁

^ これは2023年の夏の甲子園終了時点で、長野県勢唯一の夏の甲子園の優勝である。

^ “巨人、史上初の球団通算1万号本塁打 中井がメモリアル弾”. スポニチアネックス (2017年9月26日). 2017年9月26日閲覧。

^ “打点王(1リーグ) - プロ野球”. 日刊スポーツ. https://www.nikkansports.com/m/baseball/professional/record/rbc/pf-rbc_1l_m.html 2020年3月19日閲覧。 

^ 『宇佐美徹也の記録巨人軍65年: 栄光の巨人軍65年の歩み』26頁

^ . 読売巨人軍公式サイト. https://www.giants.jp/G/museum/g_history/+2020年4月6日閲覧。 

^ 『プロ野球記録大鑑(昭和11年-平成4年)』545頁

^ また、1938年の春秋を合算した場合は前述の通り中島の本塁打は11本となり、事実上単独での戦前最多本塁打記録となる。

^ 1949年に藤村富美男が更新

^ 『プロ野球記録大鑑(昭和11年-平成4年)』357頁

^ 『宇佐美徹也の記録巨人軍65年: 栄光の巨人軍65年の歩み』55頁

^ 『完全版 プロ野球人国記 信越・北陸編』(ベースボール・マガジン社) ISBN 978-4-583-03800-1

^ 『サムライ達のプロ野球』46頁

^ 球界因縁のライバル(20) 長嶋VS川上(下)

^ 甲子園「名投手」「名選手」百選 中島治康

^ 『朝日新聞』1987年4月21日付夕刊 (4版、13面)

^ 『サムライ達のプロ野球』43頁

^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』251頁

^ 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』213頁

^ 『サムライ達のプロ野球』44頁

^ 『プロ野球記録大鑑(昭和11年-平成4年)』966頁

^ 『サムライ達のプロ野球』44-45頁

^ 『サムライ達のプロ野球』40頁

^ 『サムライ達のプロ野球』39頁

^ 『巨人軍の男たち』18頁

^ 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』225頁

^ 『サムライ達のプロ野球』42頁

^ 『プロ野球記録大鑑(昭和11年-平成4年)』519 - 521頁

^ 当時の日本ではまだサイクル安打が認知されていなかった。

^ 『プロ野球記録大鑑』413頁

^ 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』昭和9年

宇佐美徹也『宇佐美徹也の記録巨人軍65年: 栄光の巨人軍65年の歩み』説話社、2000年

宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年

『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年

『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年

千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年

青田昇『サムライ達のプロ野球』ぱる出版、1994年

『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』報知新聞社、1974年

長野県出身の人物一覧

早稲田大学の人物一覧

読売ジャイアンツの選手一覧

横浜DeNAベイスターズの選手一覧

読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧

野球殿堂 中島治康

渡辺大陸 1950

中島治康 1951

有馬義一 1951

小西得郎 1952 - 1953

永沢武夫 1954

藤井勇 1955

迫畑正巳 1956 - 1958

森茂雄 1959

三原脩 1960 - 1967

別当薫 1968 - 1972

青田昇 1973

宮崎剛 1974

秋山登 1975 - 1976

別当薫 1977 - 1979

土井淳 1980 - 1981

関根潤三 1982 - 1984

近藤貞雄 1985 - 1986

古葉竹識 1987 - 1989

須藤豊 1990 - 1992

江尻亮 1992

近藤昭仁 1993 - 1995

大矢明彦 1996 - 1997

権藤博 1998 - 2000

森祇晶 2001 - 2002

山下大輔 2003 - 2004

牛島和彦 2005 - 2006

大矢明彦 2007 - 2009

尾花髙夫 2010 - 2011

中畑清 2012 - 2015

アレックス・ラミレス 2016 - 2020

三浦大輔 2021 - 現在

三宅大輔 1934 - 1935

浅沼誉夫 1935 - 1936

藤本定義 1936 - 1942

中島治康 1943

藤本英雄 1944, 1946

中島治康 1946 - 1947

三原修 1947 - 1949

水原茂(水原円裕) 1950 - 1960

川上哲治 1961 - 1974

長嶋茂雄 1975 - 1980

藤田元司 1981 - 1983

王貞治 1984 - 1988

藤田元司 1989 - 1992

長嶋茂雄 1993 - 2001

原辰徳 2002 - 2003

堀内恒夫 2004 - 2005

原辰徳 2006 - 2015

高橋由伸 2016 - 2018

原辰徳 2019 - 2023

阿部慎之助 2024 - 現在

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治、鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一、二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義、藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂、西沢道夫

78 松木謙治郎、浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘、小鶴誠

81 飯田徳治、岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

89 島秀之助、野村克也、野口二郎

90 真田重蔵、張本勲

91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

93 稲尾和久、村山実

94 王貞治、与那嶺要

95 杉浦忠、石井藤吉郎

96 藤田元司、衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫、小山正明

02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

03 上田利治、関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治、森祇晶

06 門田博光、高木守道、山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二、堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学、津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹、工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜、金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾、山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信、黒田博樹

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一、平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登、宮武三郎、景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

71 小西得郎、水野利八

72 中野武二、太田茂

73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄、西村幸生

78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

79 平沼亮三、谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫、小川正太郎

82 鈴木龍二、外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄、山内以九士

86 中河美芳、松方正雄

87 藤田信男、山下実

88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

89 池田恒雄、伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征、村上實

96 牧野直隆、保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志、井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟、長谷川良平

02 中澤不二雄、生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守、豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規、君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎、大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男、村山龍平

16 松本瀧藏、山中正竹

17 郷司裕、鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉、石井連藏

21 川島勝司、佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

02 フランク・オドール、正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

1938秋 中島治康

1973 王貞治

1974 王貞治

1985 R.バース

1986 R.バース

2022 村上宗隆

1965 野村克也

1982 落合博満

1984 ブーマー

1985 落合博満

1986 落合博満

2004 松中信彦

1937春 沢村栄治

1937秋 ハリス

1938春 苅田久徳

1938秋 中島治康

1939 V.スタルヒン

1940 須田博

1941 川上哲治

1942 水原茂

1943 呉昌征

1944 若林忠志

1946 山本一人

1947 若林忠志

1948 山本一人

1949 藤村富美男

投手:須田博

捕手:田中義雄

一塁手:川上哲治

二塁手:苅田久徳

三塁手:水原茂

遊撃手:上田藤夫

外野手:鬼頭数雄, 山田伝, 中島治康

投手:別所昭

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:杉浦清

外野手:大下弘, 坪内道則, 金田正泰

投手:別所昭, 中尾碩志, 真田重男

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:木塚忠助

外野手:青田昇, 別当薫, 坪内道則

投手:藤本英雄

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:木塚忠助

外野手:小鶴誠, 別当薫, 大下弘

1936秋 中根之

1937春 松木謙治郎

1937秋 景浦將

1938春 中島治康

1938秋 中島治康

1939 川上哲治

1940 鬼頭数雄

1941 川上哲治

1942 呉波

1943 呉昌征

1944 岡村俊昭

1946 金田正泰

1947 大下弘

1948 青田昇

1949 小鶴誠

1936秋 藤村富美男, 山下実, 古谷倉之助

1937春 中島治康, 松木謙治郎

1937秋 高橋吉雄

1938春 ハリス

1938秋 中島治康

1939 鶴岡一人

1940 川上哲治

1941 服部受弘

1942 古川清蔵

1943 岩本章, 加藤正二, 古川清蔵

1944 金山次郎

1946 大下弘

1947 大下弘

1948 青田昇, 川上哲治

1949 藤村富美男

1936秋 古谷倉之助

1937春 景浦將

1937秋 中島治康

1938春 景浦將

1938秋 中島治康

1939 川上哲治

1940 中島治康

1941 川上哲治

1942 中島治康

1943 青田昇, 野口明

1944 藤村富美男

1946 山本一人

1947 藤村富美男

1948 藤村富美男

1949 藤村富美男

日本の野球選手

松商学園高等学校出身の野球選手

早稲田大学野球部の選手

早稲田大学出身の人物

全藤倉及びその前身チームの選手

読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手

横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手

日本の野球監督

選手兼任監督

読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の監督

横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の監督

首位打者 (NPB)

本塁打王 (NPB)

打点王 (NPB)

最優秀選手 (NPB)

日本の野球殿堂表彰者

日本のジャーナリスト

スポーツライター

読売新聞グループの人物

長野県出身のスポーツ選手

1909年生

1987年没

ISBNマジックリンクを使用しているページ

野球に関する記事

プロジェクト人物伝項目

2024/11/20 13:06更新

nakajima haruyasu


中島治康と同じ誕生日6月28日生まれ、同じ長野出身の人

松井 瑠美子(まつい るみこ)
1986年6月28日生まれの有名人 長野出身

松井 瑠美子(まつい るみこ、1986年6月28日 - )は、日本の女優、声優。長野県出身。特技はソフトボール。 あしたの私のつくり方 あいつはママのボーイフレンド(シロネロス) ミッシング -サイ…

酒井 高男(さかい たかお)
1921年6月28日生まれの有名人 長野出身

酒井 高男(さかい たかお、1921年6月28日 - 2022年4月25日)は、日本の機械工学者、東北大学名誉教授。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧制伊那中学(長野県伊那北高等学校)を…

青空 千夜(あおぞら せんや)
1930年6月28日生まれの有名人 長野出身

6月28日生まれwiki情報なし(2024/11/24 18:17時点)

葉山 夏樹(はやま なつき)
1939年6月28日生まれの有名人 長野出身

葉山 夏樹(はやま なつき、1939年6月28日 - )は、日本の実業家。田辺三菱製薬株式会社の初代代表取締役社長や、日本製薬工業協会副会長を務めた。 長野県木曽郡山口村(現在の岐阜県中津川市)出身…

黒坂 黒太郎(くろさか くろたろう)
1949年6月28日生まれの有名人 長野出身

黒坂 黒太郎(くろさか くろたろう、本名:黒坂 正文、1949年(昭和24年)6月22日 - )は、日本の音楽家。コカリナ(木製のオカリナ)の創始者、演奏者、作曲家、シンガーソングライター。 長野県…


久保田 祥江(くぼた さちえ)
1976年6月28日生まれの有名人 長野出身

久保田 祥江(くぼた さちえ、1976年6月28日 - )は、元信越放送 (SBC) のアナウンサー。 長野県飯田市出身。埼玉大学卒業。 大学を卒業後、1999年に信越放送に入社。入社してすぐに『…

菊池 彩花(きくち あやか)
1987年6月28日生まれの有名人 長野出身

菊池 彩花(きくち あやか、本名:長島 彩花、1987年6月28日 - )は、日本の元スピードスケート選手。富士急行所属。平昌オリンピックのスピードスケート女子チームパシュート金メダリスト。2018年…

市川 美余(いちかわ みよ)
1989年6月28日生まれの有名人 長野出身

市川 美余(いちかわ みよ、1989年〈平成元年〉6月28日 - )は、日本の元カーリング選手。現役時代は中部電力カーリング部(ポジションはサード)に所属し、主将を務めた。 長野県北佐久郡軽井沢町出…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


中島治康と近い名前の人

中島 めぐみ_(アナウンサー)(なかじま めぐみ)
1987年6月5日生まれの有名人 奈良出身

中島 めぐみ(なかじま めぐみ、1987年6月5日 - )は、関西テレビコンテンツデザイン局アナウンス部所属のアナウンサー。現姓は林。 奈良県出身。帝塚山中学校・高等学校卒業、 同志社女子大学学芸学…

中島 健人(なかじま けんと)
【Timelesz】
1994年3月13日生まれの有名人 東京出身

中島 健人(なかじま けんと、1994年〈平成6年〉3月13日 - )は、日本の歌手、俳優、声優、タレント。男性アイドルグループ・Sexy Zoneの元メンバー。愛称はケンティー、ケンティ。ファンネー…


中島 翔哉(なかじま しょうや)
1994年8月23日生まれの有名人 東京出身

中島 翔哉(なかじま しょうや、1994年8月23日 - )は、東京都八王子市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・浦和レッズ所属。ポジションはミッドフィールダー(攻撃的ミッドフィールダー、サイドハーフ)…

中島 芽生(なかじま めい)
1990年4月21日生まれの有名人 大阪出身

中島 芽生(なかじま めい、1990年4月21日 - )は、日本テレビのアナウンサー。 大阪府大阪市出身。大阪教育大学附属高等学校平野校舎、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。 大学在学時には『BSフ…

中嶋 涼子(なかじま りょうこ)
7月16日生まれの有名人 出身

中嶋 涼子(なかじま りょうこ、1986年7月16日 - )は、日本のインフルエンサー、タレント。 東京都大田区出身。小学校3年時の9歳で脚が不動となり横断性脊髄炎と診断され、以後車いすで生活する。…

中島 身依(なかしま みえ)
1991年8月4日生まれの有名人 鹿児島出身

中島 身依(なかしま みえ、1991年8月4日 - )は、鹿児島県を拠点に活躍する日本の女性ファッションモデル、ラジオパーソナリティー。血液型B型。身長162cm。元清友エンターテイメント事業所属。現…

中島 舞(なかじま まい)
1983年12月13日生まれの有名人 東京出身

中島 舞(なかじま まい、本名同じ、1983年12月13日 - )は、東京都多摩地域出身の元・タレント。 東京都立国際高等学校1年生の時に、芸能プロダクション「(株)ローレン」(現・サムライム)のス…


中嶋 野乃(なかじま のの)
1993年2月9日生まれの有名人 大阪出身

中嶋 野乃(なかじま のの、1993年2月9日 - )は、日本の女優、モデル、タレント、プロ雀士。 大阪府出身。 2022年に日本プロ麻雀連盟の試験に合格し、2023年にプロデビューする。 20…

中島 知子(なかじま ともこ)
1971年8月26日生まれの有名人 京都出身

中島 知子(なかじま ともこ、1971年(昭和46年)8月26日 - )は埼玉県出身のお笑い芸人、タレント、女優、AV監督。現在は大分県を拠点にしているとされている。 松嶋尚美と共に漫才コンビ「オセ…

中島 早貴(なかじま さき)
【ハロプロ】
1994年2月5日生まれの有名人 埼玉出身

中島 早貴(なかじま さき、1994年2月5日 - )は、日本の女優、歌手、元アイドルであり、℃-uteの全活動期(2005年 - 2017年)、ガーディアンズ4のメンバーである。愛称は、なっきぃ、中…

中島 亜由美(なかしま あゆみ)
4月22日生まれの有名人 兵庫出身

中島 亜由美(なかしま あゆみ、4月22日 - )は、日本のタレント。兵庫県姫路市出身。パートナーズプロ所属。 この節には内容がありません。 加筆して下さる協力者を求めています。 (2021年2月…

中島 明子(なかじま あきこ)
2001年9月27日生まれの有名人 東京出身

中島 明子(なかじま あきこ、2001年9月27日 - )は日本の女優。劇団東俳所属。東京都出身。 劇団東俳にて芸能活動を開始(2015年) 元・T*shineベイビ→ズ(2014年5月 - 201…


キャシー中島(きゃしーなかじま)
1952年2月6日生まれの有名人 出身

キャシー中島(キャシーなかじま、英: Kathy Nakajima、1952年2月6日 - )は、日本のタレント。日本におけるハワイアンキルトの第一人者でもある。所属事務所は株式会社スタジオ・…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
中島治康
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

Snow Man フェアリーズ D☆DATE A.B.C-Z カスタマイZ まなみのりさ X21 猿岩石 さくら学院 ココリコ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「中島治康」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました