藤本英雄の情報(ふじもとひでお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
藤本 英雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
藤本英雄と関係のある人
真田重蔵: この年の8月に宇高産業が新たなプロ野球チーム(のちの宇高レッドソックス)を結成して、日本野球連盟傘下の各球団の主力選手(巨人の藤本英雄、近畿の安井亀和・河西俊雄ら)に引き抜き攻勢をかけた際、ターゲットとなった真田は支度金を受け取ってしまう。 三原脩: 巨人監督時代に藤本英雄(1950年6月28日)、西鉄時代に西村貞朗(1958年7月19日)、大洋時代に島田源太郎(1960年8月11日)と佐々木吉郎(1966年5月1日)、近鉄時代に佐々木宏一郎(1970年10月6日)の完全試合を自軍監督として見届けている。 杉下茂: 名球会が発足した当時の存命者では別所毅彦、野口二郎、藤本英雄(通算200勝以上)、川上哲治(通算2000本安打以上)も同様の理由で対象外となっている。 嶋清一: 戦争がなければ職業野球(プロ野球)に入ってもっと活躍していただろう」と語ったり、大学の先輩である藤本英雄が「(岐阜商業出身の捕手・加藤三郎とともに)ぼくの知っている野球選手で、このふたりは今度の戦争で失ったのが最も悔やまれる」と記している。 稲尾和久: 得意の球種はスライダーで、青田昇は「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価している。 多田文久三: 1950年6月28日、青森市営野球場で行われた対西日本パイレーツ戦で登板予定であったが、食当たりの腹痛で登板できなくなり、多田に代わって登板した藤本英雄が日本プロ野球史上初の完全試合を達成している。 多田文久三: しかし、1947年になると、前年度23勝の近藤貞雄が負傷、同21勝の藤本英雄が中日へ移籍という状況の中で、多田は投手に再コンバート。 林義一: 卒業後は1938年に明治大学へ進学し、藤本英雄とチームメイトになったほか、後輩には甲子園で投げ合った嶋がいた。 入谷正典: 藤本英雄の2番手としてマウンドに上がったが、小林章良に2ラン本塁打を打たれて降板。 手塚明治: 当時の巨人には監督の水原茂のほか藤本英雄・内堀保など新田理論に批判的な者も多く、手塚も「くだらんからやめろ!」と言われたこともあったが、自分の理論を押し通した。 寺山修司: 1950年(昭和25年)、青森市営球場で藤本英雄が達成した日本プロ野球史上初の完全試合を現地で観戦する。 東晃平: 2024年は4月4日の西武戦で7回3安打1失点で勝利投手となり『オール先発白星でのデビューから8連勝』を果たした(藤本英雄以来82年ぶり)。 近藤貞雄: 折しも徴兵による選手不足に悩む東京巨人軍の藤本英雄監督から申し出があり、1944年に黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した。 大島信雄: 当時活躍していた藤本英雄を抑えて、セ・リーグ初代の最優秀防御率、最高勝率、新人王のタイトルに輝き、松竹のリーグ優勝にも貢献した。 三浦方義: 五戸高校2年次の1950年6月28日に青森市営球場で行われた巨人-西日本戦を観戦し、この試合で巨人先発の藤本英雄が日本プロ野球史上初の完全試合を達成したのを目撃。 松田清: 大きく割れるカーブと藤本英雄から伝授されたスライダーを武器に、3年目の1951年から実力が開花。 児玉利一: 岩本義行、杉浦清、吉田正男、藤本英雄ら錚々たるメンバーと共に六大学史上初の4連覇に貢献。 大友工: 1年目は制球力に課題がありその年から出来た二軍暮らしとなるが、既にブルペンでは当時のエース格であった別所毅彦・藤本英雄に勝るほどの速球を投げていたという。26勝の藤本英雄が痔の手術、22勝の別所毅彦が怪我で投げられない中で、大友は10月以降9試合に先発を任されるなど積極的に起用されて4勝を挙げる。 嶋清一: 当初は藤本英雄・林義一らの陰に隠れて活躍の機会は少なかった。 東晃平: これは1942年に10連勝を達成した藤本英雄以来(81年ぶり)史上3人目、2リーグ制後では史上初の快挙であった。 小島利男: 同チームがこの年、巨人の藤本英雄にプロ野球史上初の完全試合を許した時は、代打として出場し最後の打者であったが、職業野球黎明期、澤村栄治がプロ野球史上最初のノーヒットノーランを達成した昭和11年9月25日、タイガースのスタメンで4番打者を務めたが、レフトフライに討ち取られ、無安打無得点試合が達成された最初の試合でも、最後の打者となっている。 田部輝男: 同年6月28日の巨人戦で藤本英雄に日本プロ野球史上初の完全試合を喫した試合では5番打者であった。 南村侑広: 麻雀の腕は悪くないが勝負には弱く、同僚の別所毅彦に大負けして1ヶ月の負けが12万円に達した(当時の南村の月給が10万円ほど)、あるいは別所が南村と藤本英雄から勝った金で自宅を建て増しして『南藤の間』と名付けたなどの逸話がある。 山川武範: なお、同年6月28日の対西日本戦(青森)で藤本英雄が完全試合を達成したが、この試合で山川は遊撃手として先発。 石本秀一: 1942年秋に明治大学から中上英雄(藤本英雄)が巨人入りし大活躍した。 塚本博睦: 迎えた6月28日、対読売ジャイアンツ戦で、チームは藤本英雄に日本プロ野球史上初の完全試合を喫した。 服部受弘: スライダーの元祖は巨人の藤本英雄とされ、実は服部のほうが早かったことになるが、服部は「どうでもいいこと。 矢野純一: 2学年下に藤本英雄(のち巨人)がいた。 大谷翔平: 8月29日のロッテ戦(東京ドーム)で初回に自身初の2日連続となる8号本塁打を記録し、2桁勝利を挙げた投手としては1950年の藤本英雄(26勝)の7本塁打のNPB記録を更新した。 水原茂: ここで、品川は若返りのための組織の一新としてチーム改革を主張し、投手コーチ・谷口五郎、二軍監督・藤本英雄、コーチ・内堀保の更迭、平井三郎と南村侑広の現役引退を打ち出す。 |
藤本英雄の情報まとめ
藤本 英雄(ふじもと ひでお)さんの誕生日は1918年5月18日です。山口出身の野球選手のようです。
引退、卒業、現在、病気、結婚、テレビ、家族、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1997年に亡くなられているようです。
藤本英雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 藤本 英雄(ふじもと ひでお、1918年5月18日 - 1997年4月26日)は、韓国釜山生まれ、山口県下関市彦島育ちのプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。韓国名は李 八龍(이팔용)。日本名は後に中上 英雄(なかがみ ひでお)。 1940年代から50年代前半にかけての巨人の主力投手。明治大学では34勝するなどエースとして2度の優勝に貢献。1943年に巨人に入団するといきなり10連勝、翌1944年も34勝を挙げ優勝に貢献。この年に記録した、防御率0.73、19完封は日本プロ野球記録。1944年には史上最年少の25歳で監督に就任している。戦後は肩を痛めるも、スライダーをマスターして巨人の主力投手に復活し、1950年には日本プロ野球史上初の完全試合を達成した。通算成績でも防御率1.90、勝率.697の日本プロ野球記録を持つ。引退後は巨人の二軍監督・コーチを経て、社会人野球の大和証券の監督を務め都市対抗野球にも出場した。1976年に野球殿堂入り。 釜山で生まれ、8歳の時に下関市の彦島に移り、小学校4年で野球を始める。旧制下関商時代は1935年春と1937年春に甲子園へ出場。この頃は毎日彦島からの連絡船に乗って通学していたが、同じ船に同乗していた後の木暮実千代が、藤本のファンであったという。 下関商はどちらかというと法政大学系であったが、明治大学出身の迫畑正巳からコーチを受けたことから、1938年に明治大学に進学する。また、卒業に際して金鯱軍の岡田源三郎からも誘いを受けたが、進学を理由に断りを入れている。大学同期の投手に林義一がいる。藤本の直球の球威からケガを防止するため、捕手は投球練習であってもレガースとプロテクターを付けていたという。1940年に明治大学黄金時代のエース清水秀雄が中退して職業野球入りすると、藤本がエースとなり秋季リーグでは4勝無敗、防御率0.62を記録して優勝に貢献。1942年の春季リーグでも9勝1敗(うちノーヒットノーランを含む3完封)、さらには打撃でも.310でベストテンに入るなど一人気を吐いて、再び優勝に貢献した。しかし、同年9月に文部省の措置により繰り上げ卒業となった。明治大学時代は通算34勝9敗(勝利数は六大学歴代10位、明大の投手としては現在も最多)を記録している。 大学卒業に当たって、東京巨人軍のほか朝日軍・南海軍・阪急から勧誘を受ける。下関商業の先輩である巨人軍の平山菊二の誘いを受けて巨人軍代表の市岡忠男と会って入団を決心し、シーズン途中の9月25日に東京巨人軍へ入団。六大学随一の豪速球投手のプロ入りで、当時主将の水原茂が応召された直後ということもあり、9月27日の対大洋戦での初登板の際には読売新聞に先発予告が掲載されるなど大々的に宣伝され、当時の巨人主催試合の動員新記録(16,942名)を作った。しかし、この時の藤本は1か月ほど練習ができておらず調子は最低で、野口明や佐藤武夫に本塁打を打たれて3点を失い、8回からはスタルヒンのリリーフを受けてようやく勝利投手となった。監督の藤本定義によると、藤本が十分に調整をして臨んだら、当時の職業野球では到底打てるはずがなく、打てないとなると「なんだ職業野球は、六大学より弱いのか」と見られてしまう。そこで、職業野球の強さを見せておく必要があるため、藤本の調子が上がらないうちにデビューさせたという。藤本は10日ほどたつと体調も万全となり、3試合目の登板となる10月6日の朝日軍戦で2勝目を完封で飾るとその後も閉幕まで勝ち続け、新人ながら無傷の10連勝を果たす。 2年目の1943年には、前年度26勝のスタルヒンが病気で、21勝の広瀬習一が応召でそれぞれ戦列を離れる中、藤本はエースとして孤軍奮闘する。まず、5月22日の名古屋軍戦(後楽園)でノーヒットノーランを達成。また、夏場の7月16日から8月17日の1か月間に8完封を含む11連勝を記録し、100イニングでわずか自責点2、さらに8月1日から9月15日にかけて62イニング無失点と打者を圧倒した。結局、シーズンではチーム84試合中の46試合に先発し、34勝、防御率0.73、253奪三振で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠、さらに勝率.756で最高勝率を受賞し、19完封もリーグ1位で、1937年春の沢村栄治、1938年秋のヴィクトル・スタルヒンに次ぐ日本プロ野球史上3人目の投手五冠を達成した。防御率0.73、19完封は現在も日本プロ野球記録として残っている。このシーズン藤本は投手として圧倒的な成績を残すが、最高殊勲選手はリーグで唯一の三割打者であった呉昌征が選ばれたため、惜しくも選に漏れた。なお、この年に結婚して中上家の婿養子となるが、選手としての登録名は「藤本英雄」のまま引退まで通している。 1944年は投手ながら3番を打ち、監督と主将も兼任。人員不足の戦中にあってチームを支えた。25歳での監督就任は日本プロ野球史上最年少記録であり、これは未だ更新されていない。選手は産業戦士として午前中は東芝府中工場で働き、午後は野球の練習を許されたが、グラウンドはどこも芋畑になっていて使えなかったため、時々ではあったが藤本のつてで代田橋にあった明治大学グラウンドを借りて練習していたという。この状況の中で同年の春期シリーズでは、11勝3敗の勝率.786で阪神と同率首位となる。藤本は選手としても須田博(スタルヒン)の6勝に次ぐ5勝(2敗)、打率.320を記録して陣頭指揮でチームを牽引した。しかし、夏季シリーズでは国籍を理由に須田が出場できなくなり、負担がかかった藤本は調子を落として5勝6敗に終わる。チームも8勝11敗と負け越し、主力選手がほとんど残っていた阪神に優勝を掠われて巨人は7連覇を逃した。 1946年途中まで監督を兼任し、同年シーズン途中に中島治康が兼任監督として巨人に復帰したのを受けて選手専任に戻る。この年は近藤貞雄(23勝)に次ぐ21勝を挙げ、防御率2.11で再び最優秀防御率を獲得。しかし、藤本が巨人と再契約する時に受け取った5,000円の契約金について、球団代表・市岡忠男からの「シーズン後にまた返すから一旦返してほしい」の求めに応じて返還したが、シーズン後になっても返還されなかったことで球団に不信感を抱く。そのような状況の中で中部日本ドラゴンズ球団代表の赤嶺昌志の勧誘を受け、1947年に中日へ移籍する。中日への移籍については、中島との監督交代に伴う感情問題が原因ともされる。当時中日には清水秀雄・杉浦清といった明大出身の主力選手がいたが、明大関係での勧誘ではなく、かえってお互いをライバル視してしまい、簡単に団結はできなかったという。中日では17勝、防御率1.83(リーグ2位)を記録し、清水秀雄(23勝)・服部受弘(16勝)とともに中日の2位躍進の原動力となる。しかし、シーズン後半に肩を故障。8月上旬以降5連敗してしまい、勝ち星を伸ばせないまま9月末で戦列を離れた。 1948年に三原修総監督の要請で巨人に復帰するが、巨人は中日に対して6万円の移籍金を払ったともされる。シーズン初めは主に外野手として出場。今度は足を故障し、投手へと戻らざるを得なくなった。幸い、外野手に転向している間に投球ができる程度に肩は回復。投手復帰に向けた練習をしていた頃、同じく肩を痛めて二軍にいた宇野光雄とキャッチボールをしていたところ、藤本の投げたボールがぱっと右へ切れたことを宇野が指摘。これをきっかけに、ボブ・フェラーの投球術の本『ハウツウ・ピッチ』(あるいはハル・ニューハウザーの『ハウ・トゥ・ピッチング』)を参考にしてスライダーを習得。肩の故障で球威は落ちたものの復活し、1949年にはラビットボール導入でリーグ全体の投手成績が悪化する中、リーグでただ一人防御率1点台(1.94)を記録。自身3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、勝利数も24勝(リーグ2位)を挙げるなど安定した成績を残した。 1950年6月28日の西日本戦(青森)では蟹の食べ過ぎで腹痛を起こした多田文久三に代わって先発を務め、日本プロ野球史上初の完全試合を達成。藤本自身も前夜「青森での登板はないだろう」と判断して、函館から青森に移動する青函連絡船の中で徹夜マージャンに興じ、ほとんど睡眠をとらない状態で登板しての記録達成だった。しかし、この試合に新聞記者は4人いたがカメラマンがいなかったため、達成時の写真がないという華々しさが残らない結末となった(梅雨を避けての東北・北海道遠征の最中で前日の函館での試合のあと、遠征に帯同していた記者たちのほとんどが東京に戻ってしまっていたという)。当時中学生だった寺山修司がこの試合を観戦しており、バットボーイは少年時代のなかにし礼が務めた。この年も26勝(リーグ3位)、防御率2.44(同2位)の好成績を挙げる。 1951年は15勝、防御率3.13(リーグ10位)の成績だったが、23勝の松田清、21勝の別所毅彦を差し置いて、野手陣から推されて、南海ホークスとの日本シリーズ第一戦に先発登板する。この試合で10安打を打たれながら要所を押さえて完封勝利すると、第5戦でも2失点で完投勝利を挙げて胴上げ投手となった。その後も、1952年は16勝6敗、防御率2.36(リーグ6位)、1953年は17勝6敗、防御率2.08(リーグ2位)と安定的な記録を残すなど、1949年から1953年までの5年間に毎年15勝以上を記録し、別所毅彦・大友工らとともに第二期黄金時代の巨人の投手陣を支えた。1954年に指のケガにより1勝に終わる。 1955年になると球威が激減するなど急速に衰えが見られて、開幕から戦列を離れていた。唯一の登板となった10月11日の広島戦(和歌山)で、先発の堀内庄の後を受けて試合中盤の5回から登板。向かい風を活かしたカーブで好投して1安打無失点に抑え、200勝を達成。同年限りで現役を引退。 1956年は巨人の二軍監督に就任するが、あまりに規則が厳しくて選手が困ったという。1957年は一軍投手コーチに遷るが、日本シリーズで西鉄に敗れると、品川主計球団社長によって谷口五郎と共にコーチを解任された。 巨人退団後は明大の先輩である小西得郎の招聘で大和証券監督(1958年 - 1961年)を務め、1961年にはチームを都市対抗に導いた。当時大和証券の役員の一人が偶然にも藤本と同じ下関商業出身で、この話はスムーズに運ばれ、形としては小西総監督・中上監督体制となった。チームでは後に明大で監督、総監督を務める別府隆彦、1年目の小弓場保・三田晃がプレーしていた。関東学院大学と対戦した際には青木宥明にノーヒットノーランに抑えられるが、藤本は「サイドからのシュートはプロ向きかな」と感じて古巣の巨人に紹介している。 その後は日本テレビ「○曜ナイター」解説者・報知新聞評論家を務め、1968年には祖国・韓国を訪問。ソウル・釜山・大田・大邱で少年野球教室を開いたほか、韓国野球協会設立にも尽力し、野球の普及に務めた。 1973年には妻と共にアメリカカリフォルニア州ロサンゼルスへ渡り、読売新聞ロサンゼルス支局駐在員に就任。事実上は巨人の米国担当スカウトとして活動し、スコアブックをつけながら、米国各地を回った。藤本がロサンゼルスで生活していた頃、子供達家族も夏休みになると、ロスで楽しい夏休みを過ごした。英語の勉強をしながらフジテレビ「アメリカ大リーグ実況中継」解説者(1978年 - 1979年)も務め、パイレーツが1勝3敗からオリオールズに逆転で世界一となった1979年のワールドシリーズでは報知新聞に全7戦の評論を寄稿。第1戦では「朝ホテルの窓から外を見たら雪が積もっていた…」と現地から報告し、午後に雪交じりの雨が止んで試合が決行すると、気温3度の中で行われた試合の様子を伝えた。原稿の締めでは「かつて日本人は内野守備がうまいといわれたが、守備範囲の広さなど、このシリーズを見ただけでもまだまだ差がある。確かにつまらぬミスも多い。またそこが楽しい」とメジャーの魅力を語った。1976年に野球殿堂入り。 1997年4月26日午前1時22分、心筋梗塞のため東京都千代田区の東京警察病院で死去。78歳没。 非常にスタミナがあり、試合前の投球練習で少なくとも100球投げ、試合中は前半より後半、連投であれば前日より翌日の方が調子が良かった。 藤本とは巨人軍入団同期の青田昇が語ったところによると、「藤本英雄のスライダーは、投げてから手元でホップするところまではストレートと同じで、そこからスッと曲がった。後のプロ野球で藤本英雄と同じスライダーを投げたのは、稲尾和久と伊藤智仁しかいない」という。 投手ながら打撃がよく、1944年に打率.268を打って打撃成績9位に入ったほか、1950年に放った7本塁打は、2010年代に二刀流の大谷翔平が登場するまで、長く投手としての最多本塁打記録となっていた。日本シリーズでも19打数6安打で打率.316の記録を残している。1946年12月に公開された映画「二死満塁」の宣伝企画として、同年11月に読売杯争奪日本野球大会において、大映が「二死満塁にホームランを打った選手に賞金一万円」懸賞を企画した際には、投手ながら本塁打を打ち、賞金を獲得した。 二軍監督時代に知人の勧めでゴルフを始め、持前の練習熱心さを発揮して、めきめき上達しハンディーも5くらいになった。藤本の影響で、2人の息子も学生時代に入っていた野球部を辞めて、大学でゴルフ部に入った。家族で千葉カントリークラブのメンバーになり、娘も子育てが一段落してからゴルフを始めて、藤本親子でラウンドして楽しんだ。晩年は、孫もゴルフ部であったため、3世代でラウンドできた。 麻雀も好きであったが、役満に対して平和で突っ張るなど、相手が大きな手を作れば作るほど立ち向かっているところがあり、下手ではないが、勝負には弱かった。1950年に完全試合を達成した際に球団から5万円の賞金が出たが、全額が麻雀のつけとして川上哲治・青田昇・別所毅彦に取られてしまう。周囲は気の毒に思って、一時藤本をメンバーから外したところ、藤本は野球場へ移動する際に麻雀牌を1つユニフォームのポケットに入れて出かけるようになった。当時、麻雀牌を揃えることは簡単でなく、牌が1つ欠けるとゲームができなくなってしまったため、やむなく再び藤本がメンバーに加えられたという。 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録(通算成績は2000投球回以上) ※1946年は6月10日限りで中島治康と交代 最多勝利:1回(1943年) 最優秀防御率:3回(1943年、1946年、1949年) 最多奪三振:2回(1943年、1944年)※当時連盟表彰なし 最高勝率:3回(1943年、1946年、1949年)※3回は歴代3位タイ 沢村栄治賞:1回(1949年) ベストナイン:1回(1949年) 野球殿堂競技者表彰(1976年) 通算防御率:1.90 ※日本プロ野球記録(2000投球回以上) 通算勝率:.697 ※日本プロ野球記録(2000投球回以上) シーズン最高防御率:0.73(1943年) ※NPB記録 シーズン最多完封勝利:19(1943年) ※NPBタイ記録(野口二郎と並ぶ)。ほかに2完封引き分けあり。 シーズン最多先発勝利:32(1943年) ※NPBタイ記録(須田博、野口二郎と並ぶ) 新人最多連勝:10(1942年) ※1リーグ時代記録 完全試合:1回(1950年6月28日、対西日本パイレーツ戦、青森市営野球場) ※史上初 ノーヒットノーラン:2回(1943年5月22日、対名古屋戦、後楽園球場、1950年6月28日:完全試合(上述)) ※史上11人目 200勝:1955年10月11日 ※史上6人目 連続試合完封勝利:6(1943年8月2日 - 9月12日) ※NPB記録 連続イニング無失点:62(1943年8月1日 - 9月15日) ※1リーグ時代記録 完投試合最少投球数:75(1946年10月27日、対阪急軍戦) 2日連続完封勝利:2回(1943年8月16日 - 17日、9月18日 - 19日) ※2回はNPB記録 投手のシーズン最多本塁打:7(1950年) ※セ・リーグ記録。2014年に大谷翔平が10本塁打で更新 オールスターゲーム出場:2回(1951年、1953年) マダックス(100球未満完封)達成(1950年6月28日、上記の「完全試合」と同一試合 35(1942年 - 1943年) 23(1946年) 3(1947年) 17(1948年 - 1956年) 31(1957年) 注:1944年のシーズンは全6球団で背番号廃止 ^ 本来の先発は中尾碩志で中尾が体調を崩したことで藤本に登板機会が回ってきたとしている記述もある。 ^ なお、この試合では完封勝利しているだけではなく、野口二郎の連続安打試合を31(当時の連続安打試合の日本記録)で止めている。 ^ 「藤本英雄」『週刊ベースボールONLINE』。2024年10月26日閲覧。 ^ 殿堂入りリスト 中上英雄(なかがみひでお)|財団法人野球体育博物館 ^ http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/news/pdf/2015_do.pdf ^ 「藤本英雄選手の残した偉大な記録とは?【球史に名を残した偉人達】(1/1)」『【SPAIA】スパイア』2018年1月1日。2019年12月7日閲覧。 ^ 『巨人軍の男たち』87頁 ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』201頁 ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』202頁 ^ 「黄金時代と戦争時代 史上初の4連覇(12.13年)の偉業、18年に突如リーグ戦中止命令」『明治大学野球部公式サイト』 ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』205頁 ^ 『サムライ達のプロ野球』135頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』881頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』887頁 ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』217頁 ^ 『宇佐美徹也の記録 巨人軍65年』48頁 ^ 『完全試合』27-28頁 ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』208頁 ^ 『猛牛一代』189頁 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』70頁 ^ 『サムライ達のプロ野球』139頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』901頁 ^ 「【あの日のスタメン】プロ野球史上初の完全試合 1950年6月28日に巨人の藤本英雄が達成」『日テレNEWS NNN』2024年6月19日。2024年10月26日閲覧。 ^ 「【記録の泉】史上初の完全試合は50年の巨人・藤本英雄 先発予定・多田文久三の腹痛で急きょ登板〝徹マン明け〟で偉業」『サンケイスポーツ』2022年5月18日。2024年8月3日閲覧。 ^ 「その14 藤本英雄 完全試合記念楯」『野球殿堂博物館』。2024年8月3日閲覧。 ^ 『サムライ達のプロ野球』142頁 ^ 『週刊ベースボール』2010年第13号(4月5日号)、ベースボール・マガジン社、32頁 ^ 『剛球唸る!』128頁 ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』55頁 ^ PDFをダウンロードする - 野球殿堂博物館 ^ 『ベースボールマガジン2020年9月号、東映フライヤーズ暴れん坊伝説 (ベースボールマガジン別冊夏祭号) 』ベースボール・マガジン社、54頁 ^ 別府隆彦「完全試合第一号 中上英雄投手」『大学史紀要・紫紺の歴程』第2巻、明治大学大学史料委員会、1998年3月、138-144頁、ISSN 1342-9965、NAID 120002909201。 ^ 【週ベ60周年記念企画110】『特集 巨人を支える二人の1年生〜堀本と青木 特別レポート 新監督三人男の功罪』【1960年5月18日増大号】 ^ 蛭間豊章記者の「Baseball inside」 : 大谷7号は藤本英雄以来10勝投手最多タイ ^ 蛭間豊章記者の「Baseball inside」 : 野球殿堂記者投票への考察⑰(1975、76年度)規約改正で投票発表は年明けに変更。ために75年度は空白。76年は初の完全男と志ん生と縁の深かった慶大塾長を選出 ^ 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』196頁 ^ 『サムライ達のプロ野球』137頁 ^ 『ジャイアンツ栄光の70年』44頁 ^ 『青バットのポンちゃん大下弘―伝説に彩られた天才打者の実像』157-158頁 ^ 『サムライ達のプロ野球』143頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』848頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』825頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』834頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』850頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』286頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』891頁 ^ 『プロ野球記録大鑑』489頁 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.22~(主に完全試合) 北原遼三郎『完全試合』東京書籍、1994年 宇佐美徹也『プロ野球データブック・最新版』講談社文庫、1995年 宇佐美徹也『宇佐美徹也の記録 巨人軍65年』説話社、2000年 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年 青田昇『サムライ達のプロ野球』ぱる出版、1994年 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年 千葉茂『猛牛一代』恒文社、1977年 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年 Sports Graphic Number編『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1989年 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』報知新聞社、1974年 『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年 別所毅彦『剛球唸る! - 栄光と熱投の球譜(野球殿堂シリーズ)』ベースボール・マガジン社、1989年 桑原稲敏『青バットのポンちゃん大下弘―伝説に彩られた天才打者の実像』ライブ出版、1989年 山口県出身の人物一覧 明治大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 個人年度別成績 藤本英雄 - NPB.jp 日本野球機構 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE 表 話 編 歴 三宅大輔 1934 - 1935 浅沼誉夫 1935 - 1936 藤本定義 1936 - 1942 中島治康 1943 藤本英雄 1944, 1946 中島治康 1946 - 1947 三原修 1947 - 1949 水原茂(水原円裕) 1950 - 1960 川上哲治 1961 - 1974 長嶋茂雄 1975 - 1980 藤田元司 1981 - 1983 王貞治 1984 - 1988 藤田元司 1989 - 1992 長嶋茂雄 1993 - 2001 原辰徳 2002 - 2003 堀内恒夫 2004 - 2005 原辰徳 2006 - 2015 高橋由伸 2016 - 2018 原辰徳 2019 - 2023 阿部慎之助 2024 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 藤本英雄 1950.6.28 武智文雄 1955.6.19 宮地惟友 1956.9.19 金田正一 1957.8.21 西村貞朗 1958.7.19 島田源太郎 1960.8.11 森滝義巳 1961.6.20 佐々木吉郎 1966.5.1 田中勉 1966.5.12 外木場義郎 1968.9.14 佐々木宏一郎 1970.10.6 高橋善正 1971.8.21 八木沢荘六 1973.10.10 今井雄太郎 1978.8.31 槙原寛己 1994.5.18 佐々木朗希 2022.4.10 表 話 編 歴 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 表 話 編 歴 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 杉下茂 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 金田正一 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実, 堀内恒夫 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 星野仙一 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 松岡弘 1979 小林繁 1981 西本聖 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 野茂英雄 1991 佐々岡真司 1992 石井丈裕 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 西口文也 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2001 松坂大輔 2002 上原浩治 2003 井川慶, 斉藤和巳 2004 川上憲伸 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 前田健太 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2020 大野雄大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 投手:須田博 捕手:田中義雄 一塁手:川上哲治 二塁手:苅田久徳 三塁手:水原茂 遊撃手:上田藤夫 外野手:鬼頭数雄, 山田伝, 中島治康 投手:別所昭 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:杉浦清 外野手:大下弘, 坪内道則, 金田正泰 投手:別所昭, 中尾碩志, 真田重男 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:木塚忠助 外野手:青田昇, 別当薫, 坪内道則 投手:藤本英雄 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:木塚忠助 外野手:小鶴誠, 別当薫, 大下弘 表 話 編 歴 1936秋 景浦將 1937春 沢村栄治 1937秋 西村幸生 1938春 西村幸生 1938秋 V.スタルヒン 1939 若林忠志 1940 野口二郎 1941 野口二郎 1942 林安夫 1943 藤本英雄 1944 若林忠志 1946 藤本英雄 1947 白木義一郎 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 表 話 編 歴 1936秋 景浦將 1937春 沢村栄治 1937秋 御園生崇男 1938春 御園生崇男 1938秋 V.スタルヒン 1939 若林忠志 1940 須田博 1941 森弘太郎 1942 広瀬習一 1943 藤本英雄 1944 若林忠志 1946 藤本英雄 1947 御園生崇男 1948 別所昭 1949 藤本英雄 表 話 編 歴 1936秋 沢村栄治 1937春 沢村栄治 1937秋 西村幸生, V.スタルヒン, 野口明 1938春 V.スタルヒン 1938秋 V.スタルヒン 1939 V.スタルヒン 1940 須田博 1941 森弘太郎 1942 野口二郎 1943 藤本英雄 1944 若林忠志 1946 白木義一郎 1947 別所昭 1948 川崎徳次, 中尾碩志 1949 V.スタルヒン 表 話 編 歴 1936秋 内藤幸三 1937春 沢村栄治 1937秋 沢村栄治 1938春 亀田忠 1938秋 V.スタルヒン 1939 V.スタルヒン 1940 亀田忠 1941 中尾輝三 1942 野口二郎 1943 藤本英雄 1944 藤本英雄 1946 真田重蔵 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 武末悉昌 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 藤本英雄 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 大友工 1957 義原武敏 1958 藤田元司 1959 義原武敏 1960 鈴木隆 1961 中村稔 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 村山実 1965 金田正一 1966 城之内邦雄 1967 金田正一 1968 金田正一 1969 堀内恒夫 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 松本幸行 1975 外木場義郎 1976 堀内恒夫 1977 小林繁 1978 安田猛 1979 北別府学 1980 山根和夫 1981 江川卓 1982 小松辰雄 1983 江川卓 1984 山根和夫 1985 池田親興 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 小野和幸 1989 斎藤雅樹 1990 槙原寛己 1991 佐々岡真司 1992 岡林洋一 1993 荒木大輔 1994 桑田真澄 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 石井一久 1998 野村弘樹 1999 野口茂樹 2000 工藤公康 2001 石井一久 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 井川慶 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 上原浩治 2009 D.ゴンザレス 2010 吉見一起 2011 チェン 2012 内海哲也 2013 内海哲也 2014 R.メッセンジャー 2015 石川雅規 2016 K.ジョンソン 2017 井納翔一 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 奥川恭伸 2022 小川泰弘 2023 村上頌樹 2024 A.ジャクソン 表 話 編 歴 1936夏 沢村栄治 1936秋 沢村栄治 1937春 沢村栄治 1937秋 沢村栄治 1938春 V.スタルヒン 1938秋 前川八郎 1939 川上哲治 1940 V.スタルヒン 1941 須田博 1942 広瀬習一 1943 須田博 1944 藤本英雄 1946 近藤貞雄 1947 川崎徳次 1948 川崎徳次 1949 多田文久三 1950 藤本英雄 1951 別所毅彦 1952 藤本英雄 1953 別所毅彦 1954 大友工 1955 別所毅彦 1956 別所毅彦 1957 大友工 1958 藤田元司 1959 伊藤芳明 1960 伊藤芳明 1961 中村稔 1962 城之内邦雄 1963 伊藤芳明 1964 高橋明 1965 金田正一 1966 金田正一 1967 城之内邦雄 1968 金田正一 1969 金田正一 1970 高橋一三 1971 渡辺秀武 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 高橋一三 1975 堀内恒夫 1976 堀内恒夫 1977 堀内恒夫 1978 堀内恒夫 1979 新浦寿夫 1980 江川卓 1981 西本聖 1982 江川卓 1983 西本聖 1984 江川卓 1985 西本聖 1986 江川卓 1987 西本聖 1988 桑田真澄 1989 桑田真澄 1990 斎藤雅樹 1991 槙原寛己 1992 槙原寛己 1993 斎藤雅樹 1994 斎藤雅樹 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 斎藤雅樹 1998 桑田真澄 1999 B.ガルベス 2000 上原浩治 2001 上原浩治 2002 上原浩治 2003 上原浩治 2004 上原浩治 2005 上原浩治 2006 上原浩治 2007 内海哲也 2008 高橋尚成 2009 S.グライシンガー 2010 内海哲也 2011 東野峻 2012 内海哲也 2013 宮國椋丞 2014 菅野智之 2015 菅野智之 2016 菅野智之 2017 M.マイコラス 2018 菅野智之 2019 菅野智之 2020 菅野智之 2021 菅野智之 2022 菅野智之 2023 T.ビーディ 2024 戸郷翔征 日本の野球選手 韓国・朝鮮系日本人の野球選手 明治大学野球部の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) 最優秀防御率 (NPB) 最多奪三振 (NPB) 最高勝率 (野球) 沢村栄治賞 日本プロ野球完全試合達成者 NPBオールスターゲーム選出選手 二刀流の野球選手 日本の野球監督 選手兼任監督 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の監督 野球解説者 日本の野球殿堂表彰者 大和証券グループの人物 読売新聞グループの人物 下関市立下関商業高等学校出身の野球選手 山口県出身のスポーツ選手 釜山広域市出身の人物 1918年生 1997年没 Pages using the JsonConfig extension 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/22 02:02更新
|
fujimoto hideo
藤本英雄と同じ誕生日5月18日生まれ、同じ山口出身の人
TOPニュース
藤本英雄と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「藤本英雄」を素材として二次利用しています。