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杉浦忠の情報 (すぎうらただし)
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【12月4日】今日誕生日の芸能人・有名人

杉浦忠の情報(すぎうらただし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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杉浦 忠さんについて調べます

■名前・氏名
杉浦 忠
(読み:すぎうら ただし)
■職業
野球選手
■杉浦忠の誕生日・生年月日
1935年9月17日 (年齢2001年没)
亥年(いのしし年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
愛知出身

(昭和10年)1935年生まれの人の年齢早見表

杉浦忠と同じ1935年生まれの有名人・芸能人

杉浦忠と同じ9月17日生まれの有名人・芸能人

杉浦忠と同じ出身地愛知県生まれの有名人・芸能人


杉浦忠と関係のある人

中西太: 中西は1回の第一打席で先発の杉浦忠からスリーランを放った。


スタン=ミュージアル: シーズン終了後にカージナルスが日米野球で来日した際は、稲尾和久と杉浦忠から本塁打を放っている。


森中千香良: 野村克也、皆川睦雄、杉浦忠らと共に南海の黄金時代を支えた。


広永益隆: 監督が杉浦忠から田淵幸一に代わった1990年には、規定打席未満ながら打率.313を記録したほか9月26日のオリックス戦(西宮)で山沖之彦から放った本塁打が、日本プロ野球通算6万号本塁打になった。


藤田元司: 1959年の日本シリーズでは、杉浦忠(南海ホークス)の4連投4連勝の陰で第2戦から第4戦まで先発登板し、合計22回を投げる(4試合シリーズでは杉浦の32回に次ぐ記録)が、ここでも奮闘報われず2敗を喫する。


山本功児: また、実父は当時の監督であった鶴岡一人と懇意にしており、二軍選手はもちろんのこと、上記の皆川以外にも杉浦忠、穴吹義雄、野村克也らの主力選手もからもよく声をかけられていて、「功児、合宿所に遊びに来い」と度々誘いを受け、選手寮の食堂で選手たちと食事をともにするだけでなく、帰る前に湯船に浸かっていくこともあったという。


香川伸行: 杉浦忠が監督に就任した1986年には、打撃を生かすため三塁手へのコンバートも経験し 、実際に21試合で三塁手として出場した。


義原武敏: 杉浦忠と投げ合うが、初回から乱調となり敗戦投手。


広瀬叔功: 西鉄ライオンズのエース、稲尾和久との一瞬を巡る駆け引きは、西鉄打線と杉浦忠の対決とともに、西鉄-南海戦の白眉だった。


野村克也: 杉浦忠、広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。


森滝義巳: 1956年に立教大学に進学すると長嶋茂雄・杉浦忠らの2年後輩となる。


足立光宏: 当初の球種は直球とカーブだけであったが、下手投げ特有の浮き上がる速球を武器とした(同じく浮き上がる速球が武器の投手として杉浦忠が有名だが、若い頃、杉浦を想定してのバッティング投手をやらされることがよくあったという)。


村山実: 杉浦忠が近鉄バファローズの投手コーチを務めていた頃、太田幸司が「村山さんを見習ってスピードをつけたい」とフォーム改造に取り組もうとすると、「村山のフォームは上半身の使い方が強引で、ある意味邪道。


坂崎一彦: 南海との日本シリーズでは4連敗を喫するが、第3戦では9回裏に杉浦忠から同点本塁打を放つなど、16打数5安打、2打点と気を吐いた。


牧野宏: エース、中心打者として活躍するが、東京六大学野球リーグは当時、長嶋茂雄、杉浦忠らの立大全盛期であり、法大は優勝に届かなかった。


和田毅: 6月19日の対楽天8回戦(PayPay)では、1回表一死から3者連続三振を奪い、2回表に島内宏明を三振に打ち取った時点で、杉浦忠の持つ最多奪三振の球団記録1756を超える1757奪三振を記録、この試合では6回1失点で勝利投手となり、日米通算150勝を併せて達成した。


皆川睦雄: 同い年、同チームで、同じくアンダースロー(に当時は分類されることが多かった)の杉浦忠とは、「本格派」と「技巧派」、「太く短く」と「細く長く」など、対比されることが多い。


ねじめ正一: 『天使の相棒 杉浦忠と長嶋茂雄』ホーム社 2003


鶴岡一人: 告別式の弔辞では、杉浦忠が「親分、ここから御堂筋が見えますか」と、鶴岡への追悼の言葉を述べた。


大友工: シーズンでは30勝6敗、勝率.833を挙げ、2度目の最多勝利と最優秀勝率を獲得したが、30勝以上かつ敗戦数が一桁であった投手は2リーグ分裂後は大友を含めて3人のみであり(1957年の稲尾和久、1959年の杉浦忠)、セ・リーグでは大友のみである。


稲尾和久: 稲尾も16勝(9敗)で、南海の新人エース・杉浦忠の20勝(3敗)に成績で水をあけられていた。さらに、杉浦忠の雑談を聞いて、投球時の変化球の球の握りを南海の主砲・野村克也に見破られていることを察知した。


柚木進: コーチ時代には皆川睦雄・杉浦忠・森中千香良・三浦清弘・新山彰忠らを育てるなど南海黄金時代を陰で支えた。


今竹七郎: 杉浦忠


和田毅: 8月3日の対日本ハム戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム)で4安打1失点でシーズン10勝目を完投勝ちし、ホークスでは1960年の杉浦忠以来となる新人から3年連続の2桁勝利を達成。


加藤秀司: 1987年、阪急時代の監督であった西本が立教大学の後輩で当時南海監督の杉浦忠に仲介し、南海へ移籍。


渡辺秀武: 先発が流れて気の抜けた渡辺は遊びで杉浦忠を真似てアンダースローで投げたところ、伸びのある直球が行った。


村上雅則: 当初派遣は6月中旬までの予定であったが、この年ジョー・スタンカ、杉浦忠の両輪に野村克也や広瀬叔功を擁して日本一になるなど戦力は充実しており、帰還要請はなかった。


保坂幸永: 2年後輩の杉浦忠ともバッテリーを組んだことがあった。


トニー=バナザード: 練習態度や野球に対する取り組みは非常に真面目な選手であり、88年に近鉄に所属していたリチャード・デービスが大麻所持で逮捕された際、南海の杉浦忠監督は、「ウチの2人の外国人(バナザードとライト)は、酒もタバコもやらずに練習も真面目で、私生活で問題を起こす心配がないので有難い」とコメントしている。


杉山光平: 首位打者を獲得した1959年の夏、北海道遠征のとき、杉浦忠の友人が経営するスポーツ用具店に出向いたとき、店内の商品ではなく、倉庫の片隅にあった1本の古いバットを手にすると、「気に入った、ゆずってくれ」と持ち帰った。


杉浦忠の情報まとめ

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杉浦 忠(すぎうら ただし)さんの誕生日は1935年9月17日です。愛知出身の野球選手のようです。

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現在、兄弟、卒業、事件、引退、テレビ、映画、家族、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。2001年に亡くなられているようです。

杉浦忠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年〈昭和10年〉9月17日 - 2001年〈平成13年〉11月11日)は、愛知県西加茂郡挙母町(現:豊田市若宮町)出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者・評論家。

日本プロ野球 (NPB) 史上5人目・パ・リーグ初の投手5冠を達成し、「史上最強のアンダースロー」「魅惑のアンダースロー」などと呼ばれた。

現在の豊田市若宮町で生まれる。5人兄弟の四男で、「忠」の名は「南総里見八犬伝」から取られたもので、父・定治は、長男を「仁」、次男を「智」、三男を「孝」、四男を「忠」、五男を「義信」と命名した。挙母町立第一小学校(現:豊田市立挙母小学校)、挙母市立東部中学校(現:豊田市立崇化館中学校)を卒業。小学4年から野球を始め、中学時代は5番打者で中堅手を守った。挙母高校野球部時代は無名の速球投手でコントロールも悪かった。当時はアンダースローではなく、オーバースローの本格派投手だった。高校3年夏は愛知県大会3回戦で敗退した。立教大学進学後は同期の長嶋茂雄・本屋敷錦吾と3人で「立教三羽ガラス」と呼ばれた。

大学1年春から登板があり、もともとオーバースロー投手であったが、大学2年の時にサイドスロー(アンダースローと呼ばれることなどもある)に転向した。杉浦自身は、転向の理由を「メガネ」としている(当時のメガネはガラスとセルロイドで重かった)。「上手投げ時代のフォームは上下動が激しかったので、投げるたびにずれて苦労していた」「それで、頭の位置を一定にさせるためにサイドスローがよいのではないかと思い、実際、やってみると見違えるようにコントロールが良くなった」「オーバースローで投げていたときの方が、ボールは速かったね。自分でいうのもおかしいが、滅茶苦茶に速かったと思う」と語っている。2年春閉幕後の「砂押排斥事件」の後、自主練習の期間があり、そのときにフォームを変えたもので、「砂押監督時代なら反対されてできなかったと思う」と述べている。また、1955年(当時・大学2年生)ごろには長嶋と共に野球部の合宿所を抜け出し、自身の地元・愛知県に本拠地を置く中日ドラゴンズの球団事務所を訪問。その上で「軍隊のような立教野球部が嫌になったので、大学を中退して中日で野球をやり、金を稼ぎたい。契約金はいらない」と申し出たが、応対した中日の球団代表から申し出を拒否された。

東京六大学野球リーグでは1957年春、秋季リーグ連覇に貢献し、秋の早大戦では森徹、木次文夫らの強力打線を抑え、ノーヒットノーランを達成した。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で興津達雄らのいた専大を降し優勝した。リーグ通算36勝(立教OBとして最多)12敗、防御率1.19、233奪三振、ベストナイン2回。勝利の大半を占める28勝は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。1955年には第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学野球リーグ選抜チーム)に選出された。

卒業後は日本ビールか朝日新聞社への入社も考えていたが、1958年に南海ホークスへ入団した。入団の際には当時南海の主力選手で大学の先輩でもある大沢昌芳を通じ、長嶋茂雄と共に少なからぬ額の栄養費を受け取っており、両者の南海入団は確実視されていた。その後、翻意して読売ジャイアンツへ入団した長嶋と、義理堅く南海へ入団した杉浦との対比が現在でも語り草となっている。長嶋が予想に反して巨人へ入団したことを聞き、心配になって杉浦の元へ来た鶴岡(山本)一人だが、杉浦は「心配ですか?僕がそんな男に見えますか?」とだけ言って笑顔を浮かべたことに、鶴岡は「その静かな口調の底に、『僕は一度決めたことを破るような男ではありませんよ』という強い鉄石のような心が隠されていた(と、後になって分かった)」と語っている。

入団後は新人ながら開幕投手を務め、対東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を挙げた。鶴岡が試合後に「固くなったのか?と聞くと、『固くなりました』と言っていた」と言ったように立ち上がりこそ不安定だったが、味方の大量援護に落ち着きを取り戻したものだった。下手から浮き上がる速球と横に大きく曲がるカーブで相手打者を手玉に取り、この年は27勝を挙げて新人王を獲得、鶴岡を「これでやっと西鉄を叩くことが出来る」と喜ばせた。

2年目の1959年は38勝4敗(勝率.905)という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献し、MVPを満票で獲得、日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では第1戦から4連投し、4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シーズンに続いて日本シリーズMVPを獲得した。試合後に記者団の問いに、杉浦は「一人になったら、嬉しさが込み上げてくるでしょう」と言ったつもりだが、「一人になって泣きたい」という言葉が一人歩きしたと、自叙伝で語っている。同年には54回2/3連続無失点のパ・リーグ記録を樹立しているが、この記録は直前の8月26日から9月9日にかけて43回連続無失点を記録し、9月13日の対西鉄ライオンズ戦で失点、15日の対近鉄パールズ戦で2回に1失点した直後の3回から作られたものである。また、同年は日本プロ野球史上5人目、リーグ分立後は2人目となる投手五冠王(勝利、防御率、奪三振、完封数、勝率)を達成しているが、この記録は2022年現在までに杉浦の他に沢村栄治(読売ジャイアンツ、1937年春)、ヴィクトル・スタルヒン(読売ジャイアンツ、1938年秋)、藤本英雄(読売ジャイアンツ、1943年)、杉下茂(中日ドラゴンズ、1954年)、江川卓(読売ジャイアンツ、1981年)、斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス、2006年)、山本由伸(オリックス・バファローズ、2021・2022年)の8名しか達成していない大記録である。しかも杉浦の五冠は、各部門で2位以下を大きく引き離しての達成であり、スケールの大きさは史上最高ともいえるものだった。

1960年も31勝を挙げ、シーズン30勝以上を2度以上記録したのも杉浦以外にはスタルヒン、野口二郎、別所毅彦、杉下、稲尾和久、金田正一、権藤博だけの大記録を達成した。1961年5月には通算100勝を達成、プロ入りから僅か3年1ヶ月、188試合目での史上最速記録だった。この年も9月初旬に20勝に到達するが、まもなく右手が痺れる不調を訴える。阪大病院で診察を受けると、最初は2-3日休めば投げられるとの診察が出た。しかし、連投による右腕の血行障害(動脈閉塞)が判明し、9月15日に東大病院で手術を受け太股の血管の移植手術を受け、残りはリハビリに費やすなど、シーズン閉幕まで戦列を離れた。1962年には復帰したが、1963年とそれぞれ14勝止まりとなり、故障後は握力が大きく落ち、50球ほど投げただけで腕が強張るようになってしまった。1964年は症状がやや緩和して20勝を挙げ、1965年も開幕から6連勝と好調だったが、5月下旬頃から症状が再び悪化し、医師から「3イニング以上は投げられない」と診断された。そこで鶴岡は6月以降杉浦をリリーフ専任にし、抑えの切り札として起用することにした。杉浦は「僕が(抑えの切り札としては)パ・リーグの元祖ですかね。リリーフ成功率は高かったですよ。前の投手が出したランナーを返したことは無かったと思います。セーブ制度があればかなり行ったでしょうね」と語っている。また、野村克也は1977年にこの杉浦の起用法を模倣して完投能力を失っていた江夏豊をリリーフに転向させ、成功を収めている。

杉浦はこの年限りでの現役引退を決め、翌1966年から南海の一軍投手コーチに就任することになったが、ジョー・スタンカの退団などで投手陣が手薄になったことから、開幕直前の4月5日にコーチ兼任で現役に復帰した(但しコーチ兼任は1967年まで)。現役復帰に際して鶴岡が「投球回数は三回まで、救援に使うことになるだろう」とコメントした通り、リリーフで起用され好成績を残してはいたものの故障が完全に癒えたわけではなく、杉浦は何度も球団に引退の意思を訴えたがその度に強く慰留された。1969年オフに野村が選手兼任監督に就任した際にも引退させてほしいと訴えたが、野村から「ベテランと若手、選手とコーチのパイプ役になってベンチにいてくれ、チームとして必要なことだから」と頼み込まれ、痛みをこらえて現役を続行した。幸い1970年に新人の佐藤道郎が抑えの切り札として定着したこともあり、杉浦は同年オフに改めて引退の意思を野村に伝えた。野村も「なんとか、いままで残ってもらったが、いつまでも無理はいえなかった」と引き留めを断念し、12月4日に球団も引退の申し入れを了承した。

杉浦の引退試合には翌1971年3月25日に大阪球場で行われた巨人とのオープン戦が充てられ、5回終了時に試合を中断してのエキシビジョン形式で、大学の同窓で親友の長嶋茂雄との対決に登板した。長嶋が杉浦の投じた2球目をセンター前に弾き返しヒットを放つと、マウンドの杉浦のもとへ野村と長嶋が駆け寄って握手を交わした。試合後、杉浦は「向う(長嶋)も真剣に打ってくれて……。妙なことをしてもらうよりあのほうがうれしかった。悔いのない野球生活でした」と語った。

プロでは完全試合、ノーヒットノーランとは縁が無かったが、1964年には被安打1本だけの準完全試合を達成している。

通算187勝を挙げているが、200勝以上が入会基準である名球会には加入していない。そのため、落合博満が「あの杉浦さんが入れない名球会に意味があるの?」と疑問を呈したように、日本プロ野球史上屈指の名投手であることに疑問の余地はない。なお、落合は通算2371安打を放っており、野手の入会条件である通算2000安打を満たしているが、入会を辞退している。

現役引退後は毎日放送解説者・スポーツニッポン評論家(1971年 - 1973年)を経て、立教の大先輩・西本幸雄監督に請われ、近鉄バファローズ一軍投手コーチ(1974年 - 1977年)を務め、1975年には球団史上初のリーグ後期優勝に貢献。在任中は鈴木啓示に「力で投げるんやったら相撲取り呼んでこい」とリリース時以外は力を抜く投球術を指導し、太田幸司が「村山さんを見習ってスピードをつけたい」とフォーム改造に取り組もうとすると、「村山のフォームは上半身の使い方が強引で、ある意味邪道。それでも見事に剛球を投げ分けた。形だけ真似してもぶっ壊れるだけだ」と諭して中止させ、村田辰美に肘や下半身の使い方も教えた。その後は1978年から再び毎日放送解説者、1985年9月22日に南海が緊急会見を開き、翌1986年から杉浦が南海の監督を務める事を発表した。16試合残っていた中で監督の穴吹義雄には事前に知らせていなかったが、穴吹は「当然でしょう。こういうのは早く発表した方がいい。土台作れたと思う。あとは杉浦君が花を咲かせてくれるでしょう。」と述べた。

1年目はシーズン前に「香川サード転向」「門田・デビッド・グッドウィンの60番トリオ」といった構想を打ち出したが、香川は打撃不振で5月末に2軍落ちして2ヶ月で頓挫、60番トリオもグッドウィンが度重なる故障から不振に陥る。一方、ルーキーの西川佳明が10勝を挙げ、西武の清原和博と新人王を争いを演じ、パ・リーグ特別賞に輝く。終盤には井上祐二を抑えで起用し、定着させている。デビットは25本塁打、打率・285を記録、山村善則が115試合出場、山本和範がチームトップの打率を残した。

1986年オフ、一軍打撃コーチに長池徳士に声をかけ、1987年、佐々木誠、湯上谷宏の1番・2番が定着、藤本修二が15勝、山内和宏が10勝、加藤英司(巨人を自由契約となり、西本が仲介して移籍してきた)の現役生活の最後を飾る奮闘、同年9月初めまで久々の優勝争いを演じ、球団最多の観客動員を記録した。門田と加藤が通算2000安打をマーク、門田が126試合に出場、3年ぶりに31本塁打を放ち、18年目で通算3500塁打、1000得点、2000試合と重圧な記録を記した。3年目の1988年は、4月23日に「私の目の黒いうちはホークスは売らん」と語っていた川勝傳オーナーが亡くなった。5月に13勝9敗1分と勝ち越して最下位を脱出すると、日本ハムや阪急やロッテとAクラス争いを展開。球団売却話がくすぶり、新オーナーとなった吉村茂夫は7月末のオールスターブレイクに首脳陣を集め「身売りはしない」とチームの動揺を鎮めるように語った。9月を8勝11敗で負け越すと4位から順位を落として5位に終わった。9月10日、遠征先・東京のホテルで長池は杉浦に呼ばれ「オレは今季限りで身を引く。次の監督をやってほしい。」と監督就任要請を受けた。長池は驚き、次期監督はチーフコーチの藤原満と目されていた。「順位も上がってきた。杉浦さんが続ければいいじゃないですか」と言ったが、「いや、オレはもうダメだ」と退任の意思は固いようだった。13日、吉村オーナーが大手スーパー・ダイエーと球団売買の交渉をしていると認めた。球団譲渡の条件として「ホークスの名称を残す」、「杉浦監督の留任」を挙げた。門田が本塁打44本、打点125で二冠、打率.311、長打率、出塁率、四死球でもリーグでダントツ、MVP、正力松太郎賞も授与されている。吉田博之が1985年に次ぐ118試合でマスクをかぶり初の規定打席到達。チームの得点力はリーグ2位(578)だったが、山内和、藤本修、山内孝徳ら主力が軒並み不振、チーム防御率4.07とリーグ4位、失策113とリーグ最低。10月12日の西武戦、13日の阪急戦と地元・大阪球場で連続サヨナラ勝ちをして、迎えた15日の近鉄戦、超満員の3万2000人の観衆を飲み込んだ大阪球場、6対4で勝利し、有終の美を飾った。南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで「長嶋君が(現役を)引退した時に『読売巨人軍は不滅です』と、こういう言葉を使ったわけですけれども…ホークスは不滅です!」「ありがとうございました、(福岡に)行ってまいります!」とのスピーチを残した。長池は杉浦から「あの話はなくなった」と話があり、「オレが九州に行き、監督を続けることになった。」、さらに新たなコーチ陣を編成するために身を引いてくれたと言われ、長池は「反論のしようもなかった。3日間だけ監督の気分を味わったのだった。」と述べている。

引き続き、1989年、福岡ダイエーホークスの初代監督となる。門田がオリックスに移籍し、大型連敗を繰り返して最下位を走ったものの、夏場に巻き返す。トニー・バナザードと新外国人のウィリー・アップショーは夏場によく打った 。特に8月はバナザードが打率・349、8本塁打、23打点の大活躍で月間MVP。アップショーも打率・326、9本塁打、19打点と打線を牽引した。8月は14勝10敗1分けと初の勝ち越し、この2人のガッツあふれるバッティングが、他の選手にも好影響を及ぼした。後半に入ると、岸川勝也が当時の日本タイとなるシーズン3本のサヨナラ本塁打を記録するなど打線が粘り強さを発揮。10月5日の西武戦(西武)では8点差をひっくり返し大逆転勝利を挙げるなど(スコアは13対12)、「閉店間際のダイエー野球」は優勝を争う西武・近鉄・オリックスにとって脅威となった。最終的に3球団と互角の勝負を繰り広げ順位を4位まで上げ、優勝した近鉄には13勝11敗2分で勝ち越し、8月以降は28勝19敗3引分けといい形でシーズンを終了し、シーズン終了後に勇退した。投手陣では吉田豊彦が10勝を挙げてローテーション入り、加藤伸一が初の二桁勝利の12勝を挙げ、井上が27SPでチーム初のタイトル(最優秀救援投手)を取った。2年目の村田勝喜、新人・松本卓也の台頭もあり、中継ぎとして矢野実が50試合登板した。野手では佐々木、藤本博史、岸川が台頭、バナザードとアップショーの両外国人で67本塁打を打ち、本塁打数は166本でリーグ2位であった。

その後は1990年にフロント入りし、球団取締役として地元への働きかけに尽力し、1993年9月20日に退団が発表された。ホークス退団後は、1994年から九州朝日放送解説者・スポーツニッポン評論家を務めた。KBCでは「仏の杉浦、鬼の河村(英文)」で人気を博した。柔らかい、穏やかな語り口から人気を得たが、柔らかいながらも時には叱咤激励のコメントを出すこともあった。当時のキャッチコピーは「マイクの前のジェントルマン」で、後年は「球界の紳士」とも紹介されていた。1999年にダイエーが優勝を決めた試合でのラジオ放送では、かつてのフレーズ「一人になって泣きたい」をもじり、「一人で中洲で酒を飲みたい」と中継内でコメントした。翌日のテレビ中継では、副音声での解説を担当。和田安生アナウンサーと「ビールを飲みながら野球を見る」というコンセプトで放送したが、杉浦は酒を飲みながら野球を見るのは初めてであり、放送内で「なかなかええもんやな」と話している。また1996年には、出身地の豊田市から初となる市栄誉賞を授与されている。母校である豊田西高校(旧:挙母高校)の野球部激励会には毎年、他のOBたちとともに出席していたが「プロ経験者が教えると迷惑がかかる。現役の指導者も困るだろう」との考えから、練習の見学では選手とネット越しに話していたという。1997年7月5日から同年8月31日には豊田市郷土資料館で、杉浦の思い出の品を集めた展示会「キミは杉浦を見たか」が開かれた。

2001年よりプロ野球マスターズリーグ・大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。吉田義男監督不在時には3試合のみ代理監督を務めた。同年11月11日、大阪ロマンズの遠征先で宿泊していた札幌市中央区のホテルで、急性心筋梗塞のため死去。66歳没。浄土真宗本願寺派堺別院で行われた告別式では、山門前に集まったファンが掲げる南海ホークス球団旗と球団歌「南海ホークスの歌」の合唱で見送られた。

杉浦の功績を称え、マスターズリーグの最優秀投手に与えられる「杉浦賞」に名を冠している。没後、豊田西高校のグラウンド脇には杉浦の南海のユニフォーム姿の胸像(高さ1.85 m)が建立されている。

地面ギリギリから浮かび上がるようなストレートと大きな横のカーブが武器であった。カーブは変化が大きく、ストライクと思って空振りした左打者の体にあたることもしばしばだった。野村克也は、その著書で、「榎本(喜八)は外角からの切れ味鋭いカーブに空振りしたのに、球が腹に食い込むように当たった」とのエピソードに触れている。

杉浦のフォームは、「手首を立てたアンダースロー」といわれる独特の手首の使い方に特徴があった。オーバースローをそのまま上体を横に倒しただけで、腕は肩より下がることはなく、ボールに独特の回転と切れを与えた。加えて天性の関節の柔らかさ(特に股関節)がサイドスロー投法にはまり、流れるようなフォームから威力抜群の速球を生む要因となった。このフォームは、巨人の大友工の連続写真を新聞記者からもらい研究した結果、辿り着いたものだという。

全盛時、杉浦が投げるとき、バックネット裏やベンチにいる者にまで、手首を返す「ピシッ」という音が聞こえたという。

野村は自著の中で、杉浦の類まれなる下半身の強靱さと、筋肉の質の良さについて語っている。野村によると、1960年オフに、サンフランシスコ・ジャイアンツが来日した際に、触れさせてもらったウイリー・メイズの腕の筋肉と、杉浦の腕を触ったときの感触がまるで同じで「おまえの体はメイズ並みだな」と、ため息が出たという。広瀬叔功も「足も速くて、何より体が柔軟だった」と証言しており、腰と膝を悪くしていた春先のこととはいえ「私(広瀬)は南海に入ってから、競走して負けたことはほとんど皆無だった。しかし、スギやん(杉浦)には負かされたことがある」 と述べている。

しかし、後年、シンカーを覚えたことで持ち味を殺してしまったともいう。酷使され、少しでも投球数を減らしたかった杉浦は同い年の技巧派アンダースロー、皆川睦男が大きく沈むシンカーを武器に、1球で内野ゴロを打たせ、1アウトを取るのを見て羨ましがったのだという。「皆川のようなシンカーを覚えたい」と相談された野村は、サイドスローでシンカーを投げようとすると、ボールを放すときに手の捻りを逆回転させなければならず、杉浦の持ち味であるストレートに悪影響を及ぼすとして大反対し、スライダーを勧めたが、杉浦は反対を押し切ったという。野村は、「もし杉浦があのとき、沈む球にこだわらなければ、勝ち星は確実に増えていただろう」と説得に折れたことへの後悔の念を綴っている。

野村は、「対戦した中で一番凄かったのは稲尾だけど、おれが受けた中では杉浦が最高のピッチャーだ。右打者の背後からカーブが曲がってくるんやで。背中を通る軌道の球がストライクになってくる。しかも真っすぐは明らかに浮き上がってきた」「内角への速いスライダーを右打者に投げさせてみたら、面白いようにバットが折れてさ。本当に楽しかったよ」「日本プロ野球界で数少ない本格派のエース」と賛辞を贈る一方、「捕手としてバッテリーを組んでいると、実に退屈だった。杉浦の投げたいように投げさせていれば、まともな打球は飛ばない。捕手の出る幕はなかった」とも語っている。

ホークスの同僚で1954年・1955年に2年連続で最多勝を獲得した宅和本司は「杉やんの投球を見た時に『上には上がいた』と愕然とした。ピッチングの哲学にしても、ボール一つ無駄にしない。だから私の知る限り、杉やんが敬遠したのを見たことがない。四球を嫌って、いかに最少投球数でアウトを重ねるかを考えた。阪急の山田久志も素晴らしいアンダースローだったがタイプが違った。杉やんは下から投げるんだが、手首が立って上から投げる軌道を描く。西鉄戦は杉浦と稲尾のエース対決になるわけだが、私がブルペンに行こうと思ったら、親分(鶴岡)に『お前はベンチでジッとしとけ』と止められた。今日はリリーフはいらんということだろう。それほど信頼されていた。38勝した2年目なんていつ負けるんだろうと思って見ていた。もうあんなピッチャーは出てこない」と語っている。

1959年の日本シリーズでの杉浦について、長嶋は、「地面に沈み込むようなアンダースローの右腕から投げ込まれる速球が、右打者の背中から外角へと走っていく。まったく打てませんでした」と述懐している。

張本勲は、「パ・リーグの投手のトップ3は、稲尾、杉浦、そして、土橋正幸」、「すごいのは杉浦さんのカーブ。ウチの西園寺昭夫さんは『当たる!』と尻もちをついた。それが、ググッと曲がってストライク。これを見た杉浦さんがクスクス。つられて球審さんまでクスクス(笑)」、「杉浦さんは「オレのカーブは大き過ぎて困ったんだ。もう少し小さく鋭く曲がるヤツが欲しいなあ」と嘆いていましたが、何というぜいたくな嘆きでしょう」などと回顧している。また、アンダースローの投手では「1.杉浦忠、2.秋山登、3.山田久志」の順で球の威力がある投手と評している。

山田久志は杉浦のカーブについて次のように回顧している。「私は杉浦さんの現役時代にかろうじて間に合ってるんです。これは幸運だったですね。杉浦さんのカーブが信じられない曲がり方をするので『カーブについて教えてください』と頼み込んだことがありました。杉浦さんは快く『来なさい』と大阪スタヂアムのロッカーに連れて行ってくれた。で、カーブの投げ方を見せてくれたのですが『エーッ!?』でした。説明するのは難しいのですが、とにかくあんな投げ方はできっこありません。ただ、ヒジから上が立ったままなのは、私と同じでした。これでないとサブマリン投手のボールは速くならんのです」。

1958年の秋、セントルイス・カージナルスが来日しての日米親善野球では、カージナルスの14勝2敗という成績であったが、日本の2勝のうちの1勝は、杉浦が完投勝利(9対2)したものであった。三振したカージナルスの4番、スタン・ミュージアルは、帰国の際に「あの21番を付けたピッチャーが、もっとも印象に残った」とコメントしている。

『プロ野球ここだけの話』第17回「潜航御礼!サブマリンここだけの話」に於いては、松沼博久・山田久志・渡辺俊介の三名が歴代のアンダースロー三傑について問われた際、三者とも一致して名を上げた投手が杉浦であった。

なお、杉浦自身が、打者として対戦してみたい投手は「自分自身」であるという。理由は「自分の投げる球がどれほどのものか見てみたいから」と語っている。

現役時代、同世代の大投手・稲尾和久とは対戦も多くライバルであったが、同時にマウンドマナーなど学ぶところも多く、稲尾の仕草を自分のものとするように努めたという。

稲尾との投げ合いになったある試合で、稲尾が投げた後の1回裏に杉浦がマウンドに行くと、1回表に稲尾が投げたのだから投球の際に踏み込んだ部分はそれなりに掘られているはずなのに、マウンドはきれいにならされていた。杉浦は「初回だからかな?」程度に思っていたという。しかし2回裏、3回裏、それ以降も同様にきれいにならされていて、ロージンバッグもすぐ手の届く位置に置かれていた。「もしや稲尾がならしているのでは?」と感じ、実際にその通りであったため、杉浦は稲尾を「すごいピッチャーだと思った」という。杉浦は「それからはすぐ稲尾の真似をしました」「(しかし)ぼくはピンチの後ではマウンドが荒れていることなどつい忘れてしまうのですが、彼はたったの一度も、マウンドが荒れた状態でぼくに(マウンドを)渡したことはなかった」と語っている。

1958年の秋、セントルイス・カージナルスを迎えての日米親善野球で、中西太、稲尾と杯を傾ける機会があった。杯を重ねるごとに、杉浦の語気が鋭くなり、やがて二人をつかまえて「太さん、稲尾、ここに座れ」「来年は絶対に勝つからな!」と息巻いたという。中西は「大逆転で優勝を逃がした悔しさが胸の中にたぎっているような声だった」と述懐している。なお、杉浦は「途中からプッツンと記憶が切れてしまった」「あとから聞いた」と述べている。

野村が著書の中で頻繁に取り上げているエピソードの一つに、ある年のオールスター戦でベンチが一緒になった際、野村が稲尾の癖を熱心に研究していることを杉浦が喋ってしまい(杉浦は野村の研究熱心さを稲尾に誇るつもりで発言した)、稲尾が癖を直して対戦して来たため、新たに研究し直さなければならなくなったというものがある。野村は、「(三人で)セ・リーグの打撃練習を見てたら、杉浦が『サイちゃん(稲尾)、野村はよう研究しとるで』っていうわけだよ。そうしたら、稲尾の顔色がパッと変わった。それだけのことなんだけど、オールスターが終わって稲尾との初対決のとき、1球様子を見たれと思って見逃したら、インコースに来るはずの球が外角に。ありゃと思って稲尾の顔を見たらにたぁっと」と語っている。

なお、杉浦の自著によると、稲尾と杉浦が投げ合って勝敗に関わった試合は、24勝24敗の五分である。

稲尾が持っていて自分にはない長所は、手本として素直に受け入れようという態度で稲尾に接した杉浦であるが、その一方で、セ・リーグの華やかな存在に対しては、徹頭徹尾逆をいってやるという反抗精神に燃えていた。杉浦の落ち着いたマウンドさばきや静かな語り口は、そのような対抗心から生まれたものだといい、金田正一、村山実、藤田元司など華やかに脚光を浴びるセ・リーグの投手が派手なアクションをすれば、杉浦は静かに顔をうつむき加減にしてマウンドを降り、彼らが大きな声でしゃべれば、杉浦は小さな声で静かに語ったという。

例えば、杉浦の最大の特徴である、ゆっくりしたバックスイング、大きな腕の振り、スローモーションのようなフォームは、「金田、村山、藤田の切れのいい、素早いモーションに対抗して考え出したことなのです。彼らが喜怒哀楽をオーバーに表現すればするほど、ぼくは無表情で、より紳士ぶってやったものです」というものだという。

鶴岡と杉浦の関係を、南海の控え捕手であった鈴木孝雄は「だれも入り込めない仲。でもベタベタしたところは一切ない。周囲には見えない絆だった。でも、あの二人には見えていたのかもしれない」という。

杉浦夫人は、「ある時、お風呂に入っていて右腕が真っ白になった。もう血が通わなくなっていた。私が主人に野球のことで口を出したのはその時が初めてです。『どうして監督さんに、もう投げられないかもしれませんって言わないの?』と聞いたら怒鳴られた。『バカヤロー!こういう体になっても投げるのがエースなんだ!』って」「付き合っている当時から『おれはサムライの時代に生まれたかった』という人。世のため、人のためというような人。それくらい鶴岡さんにほれ込んでいました」「勝ち試合は当たり前で、負けてるゲームに投げるのもエースの仕事だと。絶対に自分からマウンドを降りるような人じゃなかった。だから毎日投げていたような気がします」と語っている。

広瀬叔功は、ある時杉浦に「親分に褒め言葉、言われたことあるか?」と尋ねたところ、しばらく考え込んでから「そう言えば、全然ないなあ」と微笑みながら答えたという。広瀬も同様に鶴岡から直接褒められたことは無かったといい、「多分、それでいいのだ。言葉にしなくても分かり合えるものはある。人生最大の感激を運んでくれた愛弟子であってさえも、直接には何も語りかけない。それが親分だったし、親分とスギやんの絆には、言葉など不要だったのかもしれない」と述懐している。

現役時代は野村との関係は良好で、杉浦・野村と広瀬叔功の三人で地元でも遠征先でも連れ立って遊び回っており、下戸の野村も機嫌よく酒の席に付き合ってくれていたという。そのため三人揃っての門限破りも日常茶飯事で、鶴岡からは、黒澤明監督の映画『隠し砦の三悪人』をもじって「南海の三悪人」と呼ばれていた。杉浦は、野村が三冠王を獲得した1965年12月に刊行した初の著書に寄せたコメントで「ボクが言うのもおかしいが、野村君という人間をいちばんよく知っているのは、ボクじゃないかと思う。とにかく頭のいい男だ。そのおかげで、ボクのピッチングがどれだけ救われたかわからない」と語っている。

しかし、この友情は杉浦の引退直後に野村と伊東芳枝(のちの野村沙知代)とのダブル不倫が始まったことで崩壊する。南海に留まって沙知代と激しく衝突していた広瀬とは異なり、引退後は南海を離れて解説者および近鉄のコーチを務めていた杉浦は直接関わりを持つことはなかったが、1977年9月に野村が沙知代の度重なる現場介入(公私混同)を理由にシーズン途中で監督を解任されると、野村は同年10月に『週刊文春』に発表した「独占手記」と題する文章の中で、自分が解任に追い込まれた原因は鶴岡派の陰謀によるものであり、「鶴岡親分の最優秀門下生」である杉浦が監督になれなかったために様々な嫌がらせをされたと主張し、1969年オフの兼任監督就任直後に杉浦が引退しようとしたのは自身が監督になれなかった事への腹いせであるとし、その時に杉浦に対して面と向かって「お前、監督になりたかったんとちがうか」と言ってやった。と主張した。さらに野村は、1965年11月に鶴岡が南海退団の意思を表明した際に、他の幹部選手達と共に鶴岡邸へ退団を思い止まるよう頼みに行った際に、鶴岡から「三冠王?……ちゃんちゃらおかしいよ」「ホームラン王?……ちゃんちゃらおかしいよ」「ほんとに南海に貢献したのは杉浦だけじゃ」と言われたと主張した)。しかし実際には、鶴岡は1960年代前半の時点で「自分の後任は、第一候補は蔭山、第二候補が野村」とする構想を周囲に明示していた。この構想は球団内で広く共有されており、球団後援会も1969年オフに「もうなんといっても、野村は監督を引き受けなきゃいかん。鶴岡さんの次は蔭山さん、その後は野村というのが南海の監督路線だったが、蔭山さんが急死して、飯田さんがいわばピンチヒッターとしてはいってこられただけのこと。野村は引き受けるべきだ」と明言して野村の兼任監督就任を後押ししており、解任後の野村が繰り返し主張した杉浦の監督就任工作は実在しない。

南海は当初14を用意していたが、六大学選抜チームでフィリピン遠征をした際に着けていた21に替えてもらったという。カウント2ストライク1ボールと追い込み、そこから勝負するのが投手と思っていたことによる。引退試合時の新聞報道では「永久欠番になる」と記されていた。正式に球団がこれを定めたかどうかは不明で、1971年には着用者はなかったものの、同年のドラフト会議で1位指名された野崎恒男が1972年から使用することになり、「欠番」扱いは1シーズンのみであった。

1960年の秋、優勝争いをするシカゴ・ホワイトソックスから、南海に「杉浦を貸してほしい」との申し入れがあった。残り十数試合のみのレンタルであったが、実現すれば、日本人大リーガー第一号になるところであった。鶴岡監督も「日本野球のためになる。チャンスだから、やってこい」と賛成し、パスポートも取り、渡米寸前までいった。しかし、直前になって、大毎と優勝争いをしており、優勝の望みが一縷でもある以上出すわけにはいかない、との理由で球団からストップがかかり、実現しなかった。

当時の六大学では、立教大学と明治大学の野球部のしごきの激しさは群を抜いていた。砂押邦信監督のスパルタ訓練に悲鳴をあげ、合宿所では上級生の鉄の規律に震え上がり、合宿所を抜け出したことがあるという。

長嶋茂雄引退時に発行された「報知グラフ」への寄稿文では、合宿所を抜け出したのは「二度ほど」としている。

自身の回顧録では、1年生春のシーズン終了後の脱走について記している。シーズン中に肩を痛め、「もう肩は治らないんのではないか」と思い詰め、また上級生のしごきのすさまじさに押しつぶされそうになり、シーズン終了を待って実家に帰った。このときは、砂押監督の指示で部のマネジャーが迎えに来て、しぶしぶ合宿所に舞い戻ったという。

野村克也は、「お山の大将然とし、自己中心的な人間の多い投手の中にあって、杉浦忠は全く珍しいタイプの選手だった。一言でいえば彼は常に紳士的だった」「いつももの静かで謙虚であり、控えめにしていた」「電話で珍しく杉浦がつっけんどんな応対をしている時は、相手は決まって奥さんだった」と語っている。

カラオケの十八番は、志賀勝の「女」であった。冒頭の「志賀勝や!」の台詞部分を「杉浦や!」に変えて歌っていたという。

自宅が老朽化し、家族が家の建て替えを提言した時、杉浦は「この家には愛着がある。嫌なら出て行けばいいだろう」と提言を受け入れなかった。後年、KBC解説者として福岡で解説を行っていた時期も、大阪府堺市の自宅から通っていた。なお、この自宅は杉浦の没後の2010年12月25日に全焼している。

各年度の太字はリーグ最高

南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

最多勝利:1回 (1959年)

最優秀防御率:1回 (1959年)

最多奪三振:2回 (1959年、1960年) ※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

最高勝率:1回 (1959年)

最高殊勲選手(MVP):1回 (1959年)

新人王 (1958年)

ベストナイン:1回 (1959年)

野球殿堂競技者表彰(1995年)

最優秀投手:1回 (1959年)

日本シリーズMVP:1回 (1959年)

日本シリーズ最優秀投手賞:1回 (1959年)

豊田市栄誉賞(1996年)

初登板・初先発・初勝利:1958年4月5日、対東映フライヤーズ1回戦(駒澤野球場)、7回2失点

初奪三振:同上、1回裏に毒島章一から

初完投勝利:1958年4月20日、対毎日大映オリオンズ2回戦(川崎球場)、9回2失点

初完封勝利:1958年9月24日、対東映フライヤーズ22回戦(大阪スタヂアム)

1000投球回:1959年10月2日、対阪急ブレーブス28回戦(阪急西宮球場) ※史上89人目

100勝:1961年5月6日、対西鉄ライオンズ5回戦(平和台野球場) ※史上32人目

1000奪三振:1961年7月29日、対西鉄ライオンズ17回戦(大阪スタヂアム)、9回表に城戸則文から ※史上23人目

1500投球回:1963年6月27日、対東映フライヤーズ13回戦(明治神宮野球場) ※史上48人目

150勝:1964年5月26日、対東京オリオンズ14回戦(大阪スタヂアム) ※史上17人目

1500奪三振:1965年5月2日、対阪急ブレーブス5回戦(阪急西宮球場)、8回裏にダリル・スペンサーから ※史上13人目

2000投球回:1965年5月19日、対東映フライヤーズ7回戦(大阪スタヂアム) ※史上28人目

500試合登板:1968年5月24日、対阪急ブレーブス9回戦(阪急西宮球場)、6回裏2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を無失点 ※史上22人目

投手三冠王:1回 (1959年)※史上9人目

投手4冠:1回 (1959年)※史上6人目

投手5冠:1回 (1959年)※史上5人目、パ・リーグ初、20世紀のパ・リーグ史上唯一

シーズン勝ち越し34:1959年 ※歴代最多

54.2イニング連続無失点(1959年9月15日 - 10月20日)

新人から3年連続開幕投手(1958年 - 1960年) ※2リーグ制以降唯一の記録だったが、後に則本昂大が4年連続(2013年 - 2016年)で更新

初回先頭打者から3者連続被本塁打:1964年7月17日、対阪急ブレーブス戦(大阪球場)、1回表に衆樹資宏、河野旭輝、ダリル・スペンサーに被本塁打 ※史上初

日本シリーズ4連投4連勝:1959年 ※稲尾和久以来史上2人目、無敗は唯一

日本シリーズ4勝:同上 ※稲尾和久以来史上2人目

オールスターゲーム出場:6回 (1958年 - 1961年、1964年、1965年)

21 (1958年 - 1970年)

70 (1974年 - 1977年)

71 (1986年 - 1988年)

81 (1989年)

MBSベースボールパーク - MBSラジオの中継番組の現行タイトル。

    KBC解説者時代にも火 - 木曜にネット受けでの出演があった(ネットワークの関係で月・金曜はABCラジオ『ABCフレッシュアップベースボール〈現行タイトル〉』が、土・日曜はラジオ大阪『ラジオ大阪ドラマティックナイター〈番組末期のタイトル〉』がネット受け)。

    S☆1 BASEBALL - 毎日放送時代(1978年 - 1985年)に出演した、TBS系列の中継番組の現行統一タイトル。稀にTBS制作分(大洋対巨人戦など)にも出演することがあった。

    KBCホークスナイター - KBCラジオの中継番組の現行タイトル。

      MBS解説者時代にも火 - 木曜・1973年までの土・日曜にネット受けでの出演があった(ネットワークの関係で月・金曜はRKBラジオ『RKBエキサイトホークス〈現行タイトル〉』がネット受け)。

      スーパーベースボール - 毎日放送時代( - 1973年)・KBC時代に出演した、NETテレビテレビ朝日系列の中継番組の現行統一タイトル。毎日放送時代にはNETテレビ・広島ホームテレビ制作中継に出演することもあった。

      BASEBALL Real&Live - 毎日放送時代( - 1973年)に出演した、東京12チャンネル→テレビ東京系列の中継番組の現行タイトル。

      『僕の愛した野球』(海鳥社:1995年9月)

      ^ 杉浦が中日に入団しようとした理由について、坪内道典(中日OBで、杉浦にとって立教大学の先輩に当たる)は自著『風雪の中の野球半世記』で「(杉浦の)地元球団だったからだろう」と推測しているほか、元中日球団代表・高田一夫(任期:1961年〈昭和36年〉 - 1964年〈昭和39年〉)は「杉浦は『愛知県出身だから、中日ファンだ』と言っていた」と証言している。後に杉浦は坪内から真偽について問われ「そんなことがありましたねえ」と話したほか、長嶋も高田と親交のあった近藤唯之からこの件について問われて動揺を見せている。

      ^ 坪内は自著で杉浦と長嶋が中日の球団事務所を訪れて入団を願い出た出来事について「1955年(昭和30年)9月、杉浦・長嶋は2人で西銀座の中日球団事務所を訪れ、応対した中村三五郎球団代表に対し『中日に入団させてほしい』と申し出たが、中村から諭されて帰された」と述べている。一方、近藤唯之は自著『プロ野球 運命の出会い』 (2006) で、親交のあった高田一夫(当時:球団代表代行)の「2人は2年生の暮れごろ、名古屋の中日本社に突然がやってきて『中日に入団させてほしい』と申し出た。しかし、球団代表代行を務めていた自分が『とにかく卒業してからこい。大学生は勉強が本分なんだから』と説教した」という証言を取り上げている。

      ^ この逸話を取り上げた杉井輝応は、長嶋と親交のあった鶴田浩二について取り上げた自著『鶴田浩二』 (1997) で「(もし2人の中日入団が実現していたら、杉浦が入団した)南海の御堂筋パレード(優勝パレード)は名古屋の広小路(優勝)パレードになっていたかも知れない。(長嶋が入団した)巨人のV9は中日のV9になっていたかも知れない。中日は惜しい逸材を逃したものだ」と述べている。

      ^ 長嶋の翻意は母と兄が懐柔されたためとも言われている。また長嶋はプロ入り後、立教時代に受け取った栄養費と同額の金を返還している。

      ^ 同年は小野正一(大毎オリオンズ)が奪三振以外の投手四冠だったが、小野の五冠を阻んで最多奪三振を獲得したのも杉浦だった。

      ^ 杉浦の188試合での通算100勝は、スタルヒン(165試合)、藤本・田中将大(共に177試合)、野茂英雄(185試合)に次ぐ歴代5位の記録である。

      ^ 当時は認定放送持株会社移行前のため、旧法人(現・MBSメディアホールディングス)。

      ^ なお、杉浦以外の二人について、松沼は山田と金城基泰、山田は秋山登と皆川睦男、渡辺は山田と仁科時成の名を挙げた。

      ^ 年間34勝以上を挙げた他の6投手は、いずれもその年に6敗以上しているため

      ^ 山田佳美「新収蔵資料紹介 昭和の大投手 杉浦忠 関係資料」(PDF)『豊田市郷土資料館だより』第105号、豊田市郷土資料館、2019年9月17日、8頁、2024年9月2日閲覧。 

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      ^ 『中日新聞』2001年11月12日夕刊社会面15頁「元南海エース 4連投日本一 杉浦忠氏死去」(中日新聞社)

      ^ 『中日新聞』2002年11月17日朝刊西三河版20頁「故杉浦忠さん 球児見守る姿“現役” グラウンド脇に胸像 母校・豊田西高」(中日新聞社)

      ^ 野村克也「楽天はなぜ強くなれたのか 巨人の「天才野球」をしのいだ力」PHP新書 2014年

      ^ 野村克也「エースの品格 一流と二流の違いとは」小学館 2008年

      ^ 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』84頁

      ^ 『“週刊ベースボールONLINE 野村克也の野球論 本物の野球はどこへ行った「温故知新」”. 2015年5月31日閲覧。

      ^ 野村克也「名選手にドラマあり 脳裏に焼き付くあのシーン」小学館新書 2014年

      ^ 野村克也「私が見た最高の選手、最低の選手」東邦出版 2013年

      ^ 「週刊ベースボールONLINE レジェンドたちに聞け 第1回 張本勲 2014年3月7日」

      ^ 『“速球派のアンダースロー投手”. 2015年5月31日閲覧。

      ^ 「週刊ベースボールONLINE レジェンドに聞け 第14回 山田久志 2014年6月5日」

      ^ 「Sports Graphic NUMBER PLUS August 1999」文芸春秋社

      ^ サブマリン投手 ( 野球 ) - 人生いろいろ - Yahoo!ブログ

      ^ 中西太「西鉄ライオンズ 獅子たちの「闘争」」ベースボールマガジン社 2014年

      ^ 「ホークス75年史 1938-2013」ベースボールマガジン社 2013年

      ^ 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』95頁

      ^ 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』65頁

      ^ 野村克也『運鈍根』221頁

      ^ 『週刊文春』1977年10月13日号、154-161頁

      ^ 『週刊ベースボール』1965年12月8日号、12頁

      ^ 『週刊ベースボール』1969年11月10日号、31頁

      ^ 「栄光の背番号3 長島茂雄」報知新聞社 1974年

      ^ 読売新聞 (2010年12月25日)

      野村克也『運鈍根』(日本社、1965年)

      広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』(ベースボールマガジン社、2014年)

      杉井輝応「長嶋茂雄」『鶴田浩二』(第1刷発行)有限会社セイント・マークス(発売元:扶桑社)、1997年6月16日、244-246頁。ISBN 978-4594022617。 

      近藤唯之「第3話 長嶋茂雄 VS. 王貞治 元中日球団代表が語った仰天エピソード」『プロ野球 運命の出会い 男たちの人生を変えたもの』(第1版第1刷)PHP研究所〈PHP文庫〉、2006年4月19日、56-63頁。ISBN 978-4569666082。https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-66608-2。 

      鶴岡一人『鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史』恒文社、1977年

      愛知県出身の人物一覧

      立教大学の人物一覧

      福岡ソフトバンクホークスの選手一覧

      個人年度別成績 杉浦忠 - NPB.jp 日本野球機構

      選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

      高須一雄 1938 - 1939

      三谷八郎 1939

      高須一雄 1940

      三谷八郎 1941 - 1942

      加藤喜作 1942

      高田勝生 1943

      加藤喜作 1943 - 1944

      鶴岡一人(山本一人) 1946 - 1965

      (蔭山和夫 1965オフ)

      鶴岡一人 1966 - 1968

      飯田徳治 1969

      野村克也 1970 - 1977

      広瀬叔功 1978 - 1980

      ドン・ブレイザー 1981 - 1982

      穴吹義雄 1983 - 1985

      杉浦忠 1986 - 1989

      田淵幸一 1990 - 1992

      根本陸夫 1993 - 1994

      王貞治 1995 - 2008

      秋山幸二 2009 - 2014

      工藤公康 2015 - 2021

      藤本博史 2022 - 2023

      小久保裕紀 2024 - 現在

      60 ヴィクトル・スタルヒン

      62 池田豊

      63 中島治康

      64 若林忠志

      65 川上哲治、鶴岡一人

      69 苅田久徳

      70 天知俊一、二出川延明

      72 石本秀一

      74 藤本定義、藤村富美男

      76 中上英雄

      77 水原茂、西沢道夫

      78 松木謙治郎、浜崎真二

      79 別所毅彦

      80 大下弘、小鶴誠

      81 飯田徳治、岩本義行

      83 三原脩

      85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

      88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

      89 島秀之助、野村克也、野口二郎

      90 真田重蔵、張本勲

      91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

      92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

      93 稲尾和久、村山実

      94 王貞治、与那嶺要

      95 杉浦忠、石井藤吉郎

      96 藤田元司、衣笠祥雄

      97 大杉勝男

      99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

      00 米田哲也

      01 根本陸夫、小山正明

      02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

      03 上田利治、関根潤三

      04 仰木彬

      05 村田兆治、森祇晶

      06 門田博光、高木守道、山田久志

      07 梶本隆夫

      08 山本浩二、堀内恒夫

      09 若松勉

      10 東尾修

      11 落合博満

      12 北別府学、津田恒実

      13 大野豊

      14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

      15 古田敦也

      16 斎藤雅樹、工藤公康

      17 伊東勤

      18 松井秀喜、金本知憲

      19 立浪和義

      22 髙津臣吾、山本昌

      23 アレックス・ラミレス

      24 谷繁元信、黒田博樹

      09 青田昇

      10 江藤慎一

      11 皆川睦雄

      13 外木場義郎

      16 榎本喜八

      17 星野仙一、平松政次

      18 原辰徳

      19 権藤博

      20 田淵幸一

      23 ランディ・バース

      59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

      60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

      62 市岡忠男

      64 宮原清

      65 井上登、宮武三郎、景浦將

      66 守山恒太郎

      67 腰本寿

      68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

      69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

      70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

      71 小西得郎、水野利八

      72 中野武二、太田茂

      73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

      74 野田誠三

      76 小泉信三

      77 森茂雄、西村幸生

      78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

      79 平沼亮三、谷口五郎

      80 千葉茂

      81 佐伯達夫、小川正太郎

      82 鈴木龍二、外岡茂十郎

      83 内村祐之

      84 桐原眞二

      85 田中勝雄、山内以九士

      86 中河美芳、松方正雄

      87 藤田信男、山下実

      88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

      89 池田恒雄、伊達正男

      90 佐伯勇

      91 中澤良夫

      92 吉田正男

      94 廣岡知男

      95 呉昌征、村上實

      96 牧野直隆、保坂誠

      97 山本英一郎

      98 中尾碩志、井口新次郎

      99 吉國一郎

      00 福島慎太郎

      01 武田孟、長谷川良平

      02 中澤不二雄、生原昭宏

      03 松田耕平

      04 秋山登

      05 志村正順

      06 川島廣守、豊田泰光

      07 松永怜一

      08 嶋清一

      09 大社義規、君島一郎

      10 古田昌幸

      12 長船騏郎、大本修

      13 福嶋一雄

      14 相田暢一

      15 林和男、村山龍平

      16 松本瀧藏、山中正竹

      17 郷司裕、鈴木美嶺

      18 瀧正男

      19 脇村春夫

      20 前田祐吉、石井連藏

      21 川島勝司、佐山和夫

      22 松前重義

      23 古関裕而

      24 谷村友一

      02 フランク・オドール、正岡子規

      03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

      1950 別当薫

      1951 南村不可止

      1952 別所毅彦

      1953 川上哲治

      1954 杉下茂

      1955 別所毅彦

      1956 豊田泰光

      1957 大下弘

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      1960 近藤昭仁

      1961 宮本敏雄

      1962 土橋正幸, 種茂雅之

      1963 長嶋茂雄

      1964 J.スタンカ

      1965 長嶋茂雄

      1966 柴田勲

      1967 森昌彦

      1968 高田繁

      1969 長嶋茂雄

      1970 長嶋茂雄

      1971 末次民夫

      1972 堀内恒夫

      1973 堀内恒夫

      1974 弘田澄男

      1975 山口高志

      1976 福本豊

      1977 山田久志

      1978 大杉勝男

      1979 高橋慶彦

      1980 J.ライトル

      1981 西本聖

      1982 東尾修

      1983 大田卓司

      1984 長嶋清幸

      1985 R.バース

      1986 工藤公康

      1987 工藤公康

      1988 石毛宏典

      1989 駒田徳広

      1990 O.デストラーデ

      1991 秋山幸二

      1992 石井丈裕

      1993 川崎憲次郎

      1994 槙原寛己

      1995 T.オマリー

      1996 T.ニール

      1997 古田敦也

      1998 鈴木尚典

      1999 秋山幸二

      2000 松井秀喜

      2001 古田敦也

      2002 二岡智宏

      2003 杉内俊哉

      2004 石井貴

      2005 今江敏晃

      2006 稲葉篤紀

      2007 中村紀洋

      2008 岸孝之

      2009 阿部慎之助

      2010 今江敏晃

      2011 小久保裕紀

      2012 内海哲也

      2013 美馬学

      2014 内川聖一

      2015 李大浩

      2016 B.レアード

      2017 D.サファテ

      2018 甲斐拓也

      2019 Y.グラシアル

      2020 栗原陵矢

      2021 中村悠平

      2022 杉本裕太郎

      2023 近本光司

      2024 桑原将志

      1953 大友工

      1954 杉下茂

      1955 別所毅彦

      1956 稲尾和久

      1957 稲尾和久

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      1960 秋山登

      1961 堀本律雄

      1962 安藤元博

      1963 高橋明

      1964 J.スタンカ

      1965 宮田征典

      1966 城之内邦雄

      1967 城之内邦雄

      1968 金田正一

      1969 高橋一三

      1970 堀内恒夫

      1971 堀内恒夫

      1972 堀内恒夫

      1973 堀内恒夫

      1974 村田兆治

      1975 山田久志

      1976 足立光宏

      1977 足立光宏

      1978 松岡弘

      1979 山根和夫

      1950 別当薫

      1951 山本一人

      1952 柚木進

      1953 岡本伊三美

      1954 大下弘

      1955 飯田徳治

      1956 中西太

      1957 稲尾和久

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      1960 山内和弘

      1961 野村克也

      1962 張本勲

      1963 野村克也

      1964 J.スタンカ

      1965 野村克也

      1966 野村克也

      1967 足立光宏

      1968 米田哲也

      1969 長池徳二

      1970 木樽正明

      1971 長池徳二

      1972 福本豊

      1973 野村克也

      1974 金田留広

      1975 加藤秀司

      1976 山田久志

      1977 山田久志

      1978 山田久志

      1979 C.マニエル

      1980 木田勇

      1981 江夏豊

      1982 落合博満

      1983 東尾修

      1984 ブーマー

      1985 落合博満

      1986 石毛宏典

      1987 東尾修

      1988 門田博光

      1989 R.ブライアント

      1990 野茂英雄

      1991 郭泰源

      1992 石井丈裕

      1993 工藤公康

      1994 イチロー

      1995 イチロー

      1996 イチロー

      1997 西口文也

      1998 松井稼頭央

      1999 工藤公康

      2000 松中信彦

      2001 T.ローズ

      2002 A.カブレラ

      2003 城島健司

      2004 松中信彦

      2005 杉内俊哉

      2006 小笠原道大

      2007 ダルビッシュ有

      2008 岩隈久志

      2009 ダルビッシュ有

      2010 和田毅

      2011 内川聖一

      2012 吉川光夫

      2013 田中将大

      2014 金子千尋

      2015 柳田悠岐

      2016 大谷翔平

      2017 D.サファテ

      2018 山川穂高

      2019 森友哉

      2020 柳田悠岐

      2021 山本由伸

      2022 山本由伸

      2023 山本由伸

      2024 近藤健介

      1950 荒巻淳

      1951 蔭山和夫

      1952 中西太

      1953 豊田泰光

      1954 宅和本司

      1955 榎本喜八

      1956 稲尾和久

      1957 木村保

      1958 杉浦忠

      1959 張本勲

      1961 徳久利明

      1962 尾崎行雄

      1965 池永正明

      1967 高橋善正

      1969 有藤通世

      1970 佐藤道郎

      1971 皆川康夫

      1972 加藤初

      1973 新美敏

      1974 三井雅晴

      1975 山口高志

      1976 藤田学

      1977 佐藤義則

      1978 村上之宏

      1979 松沼博久

      1980 木田勇

      1981 石毛宏典

      1982 大石大二郎

      1983 二村忠美

      1984 藤田浩雅

      1985 熊野輝光

      1986 清原和博

      1987 阿波野秀幸

      1988 森山良二

      1989 酒井勉

      1990 野茂英雄

      1991 長谷川滋利

      1992 高村祐

      1993 杉山賢人

      1994 渡辺秀一

      1995 平井正史

      1996 金子誠

      1997 小坂誠

      1998 小関竜也

      1999 松坂大輔

      2001 大久保勝信

      2002 正田樹

      2003 和田毅

      2004 三瀬幸司

      2005 久保康友

      2006 八木智哉

      2007 田中将大

      2008 小松聖

      2009 攝津正

      2010 榊原諒

      2011 牧田和久

      2012 益田直也

      2013 則本昂大

      2014 石川歩

      2015 有原航平

      2016 高梨裕稔

      2017 源田壮亮

      2018 田中和基

      2019 高橋礼

      2020 平良海馬

      2021 宮城大弥

      2022 水上由伸

      2023 山下舜平大

      2024 武内夏暉

      1950 荒巻淳

      1951 江藤正

      1952 野口正明

      1953 川崎徳次

      1954 宅和本司, 田中文雄

      1955 宅和本司

      1956 三浦方義

      1957 稲尾和久

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      1960 小野正一

      1961 稲尾和久

      1962 久保征弘

      1963 稲尾和久

      1964 小山正明

      1965 尾崎行雄

      1966 米田哲也

      1967 池永正明

      1968 皆川睦男

      1969 鈴木啓示

      1970 成田文男

      1971 木樽正明

      1972 山田久志, 金田留広

      1973 成田文男

      1974 金田留広

      1975 東尾修

      1976 山田久志

      1977 鈴木啓示

      1978 鈴木啓示

      1979 山田久志

      1980 木田勇

      1981 今井雄太郎, 村田兆治

      1982 工藤幹夫

      1983 東尾修, 山内和宏

      1984 今井雄太郎

      1985 佐藤義則

      1986 渡辺久信

      1987 山沖之彦

      1988 渡辺久信, 西崎幸広, 松浦宏明

      1989 阿波野秀幸

      1990 渡辺久信, 野茂英雄

      1991 野茂英雄

      1992 野茂英雄

      1993 野田浩司, 野茂英雄

      1994 伊良部秀輝

      1995 K.グロス

      1996 K.グロス

      1997 西口文也, 小池秀郎

      1998 西口文也, 武田一浩, 黒木知宏

      1999 松坂大輔

      2000 松坂大輔

      2001 松坂大輔

      2002 J.パウエル

      2003 斉藤和巳

      2004 岩隈久志

      2005 杉内俊哉

      2006 斉藤和巳

      2007 涌井秀章

      2008 岩隈久志

      2009 涌井秀章

      2010 和田毅, 金子千尋

      2011 D.ホールトン, 田中将大

      2012 攝津正

      2013 田中将大

      2014 金子千尋

      2015 大谷翔平, 涌井秀章

      2016 和田毅

      2017 東浜巨, 菊池雄星

      2018 多和田真三郎

      2019 有原航平

      2020 千賀滉大, 石川柊太, 涌井秀章

      2021 山本由伸

      2022 山本由伸

      2023 山本由伸

      2024 有原航平, 伊藤大海

      1950 荒巻淳

      1951 柚木進

      1952 柚木進

      1953 川崎徳次

      1954 宅和本司

      1955 中川隆

      1956 稲尾和久

      1957 稲尾和久

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      1960 小野正一

      1961 稲尾和久

      1962 久保田治

      1963 久保征弘

      1964 妻島芳郎

      1965 三浦清弘

      1966 稲尾和久

      1967 足立光宏

      1968 皆川睦男

      1969 木樽正明

      1970 佐藤道郎

      1971 山田久志

      1972 清俊彦

      1973 米田哲也

      1974 佐藤道郎

      1975 村田兆治

      1976 村田兆治

      1977 山田久志

      1978 鈴木啓示

      1979 山口哲治

      1980 木田勇

      1981 岡部憲章

      1982 高橋里志

      1983 東尾修

      1984 今井雄太郎

      1985 工藤公康

      1986 佐藤義則

      1987 工藤公康

      1988 河野博文

      1989 村田兆治

      1990 野茂英雄

      1991 渡辺智男

      1992 赤堀元之

      1993 工藤公康

      1994 新谷博

      1995 伊良部秀輝

      1996 伊良部秀輝

      1997 小宮山悟

      1998 金村暁

      1999 工藤公康

      2000 戎信行

      2001 N.ミンチー

      2002 金田政彦

      2003 斉藤和巳, 松坂大輔

      2004 松坂大輔

      2005 杉内俊哉

      2006 斉藤和巳

      2007 成瀬善久

      2008 岩隈久志

      2009 ダルビッシュ有

      2010 ダルビッシュ有

      2011 田中将大

      2012 吉川光夫

      2013 田中将大

      2014 金子千尋

      2015 大谷翔平

      2016 石川歩

      2017 菊池雄星

      2018 岸孝之

      2019 山本由伸

      2020 千賀滉大

      2021 山本由伸

      2022 山本由伸

      2023 山本由伸

      2024 L.モイネロ

      1950 野村武史

      1951 中谷信夫

      1952 柚木進

      1953 大神武俊

      1954 西村貞朗

      1955 中村大成

      1956 植村義信

      1957 稲尾和久

      1958 秋本祐作

      1959 杉浦忠

      1960 小野正一

      1961 稲尾和久

      1962 皆川睦男

      1963 田中勉, 森中千香良

      1964 J.スタンカ

      1965 林俊彦

      1966 皆川睦男

      1967 石井茂雄

      1968 村上雅則

      1969 清俊彦

      1970 佐々木宏一郎

      1971 山田久志

      1972 佐藤道郎

      1973 八木沢荘六

      1974 竹村一義

      1975 鈴木啓示, 野村収

      1976 山田久志

      1977 稲葉光雄

      1978 山田久志

      1979 山田久志

      1980 木田勇

      1981 間柴茂有

      1982 工藤幹夫

      1983 高橋直樹

      1984 石川賢

      1985 石本貴昭

      1986 渡辺久信

      1987 工藤公康

      1988 郭泰源

      1989 星野伸之

      1990 野茂英雄

      1991 工藤公康

      1992 石井丈裕

      1993 工藤公康

      1994 郭泰源

      1995 平井正史

      1996 星野伸之

      1997 西口文也

      1998 黒木知宏

      1999 篠原貴行

      2000 小野晋吾

      2001 田之上慶三郎

      2002 J.パウエル

      2003 斉藤和巳

      2004 岩隈久志

      2005 斉藤和巳

      2006 斉藤和巳

      2007 成瀬善久

      2008 岩隈久志

      2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉

      2010 杉内俊哉

      2011 田中将大

      2012 攝津正

      2013 田中将大

      2014 岸孝之

      2015 大谷翔平

      2016 和田毅

      2017 千賀滉大

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      2019 山岡泰輔

      2020 石川柊太

      2021 山本由伸

      2022 山本由伸

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      2024 伊藤大海

      1950 米川泰夫

      1951 阿部八郎

      1952 柚木進

      1953 米川泰夫

      1954 宅和本司

      1955 河村久文

      1956 梶本隆夫

      1957 梶本隆夫

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      1960 杉浦忠

      1961 稲尾和久

      1962 米田哲也

      1963 稲尾和久

      1964 尾崎行雄

      1965 尾崎行雄

      1966 田中勉

      1967 鈴木啓示

      1968 鈴木啓示

      1969 鈴木啓示

      1970 鈴木啓示

      1971 鈴木啓示

      1972 鈴木啓示

      1973 成田文男

      1974 鈴木啓示

      1975 東尾修

      1976 村田兆治

      1977 村田兆治

      1978 鈴木啓示

      1979 村田兆治

      1980 木田勇

      1981 村田兆治

      1982 松沼博久

      1983 山沖之彦

      1984 佐藤義則

      1985 佐藤義則

      1986 渡辺久信

      1987 阿波野秀幸

      1988 小川博

      1989 阿波野秀幸

      1990 野茂英雄

      1991 野茂英雄

      1992 野茂英雄

      1993 野茂英雄

      1994 伊良部秀輝

      1995 伊良部秀輝

      1996 工藤公康

      1997 西口文也

      1998 西口文也

      1999 工藤公康

      2000 松坂大輔

      2001 松坂大輔

      2002 J.パウエル

      2003 松坂大輔

      2004 新垣渚

      2005 松坂大輔

      2006 斉藤和巳

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      2008 杉内俊哉

      2009 杉内俊哉

      2010 ダルビッシュ有

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      2012 田中将大

      2013 金子千尋

      2014 則本昂大

      2015 則本昂大

      2016 則本昂大

      2017 則本昂大

      2018 則本昂大

      2019 千賀滉大

      2020 千賀滉大, 山本由伸

      2021 山本由伸

      2022 山本由伸

      2023 山本由伸

      2024 今井達也

      1953 川崎徳次

      1954 西村貞朗

      1955 中村大成

      1956 島原幸雄

      1957 稲尾和久

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      2002 J.パウエル

      2003 斉藤和巳

      2004 岩隈久志

      2005 斉藤和巳

      2006 斉藤和巳

      2007 成瀬善久

      2008 岩隈久志

      2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉

      2010 杉内俊哉

      2011 田中将大

      2012 攝津正

       投  杉浦忠

       捕  野村克也

       一  榎本喜八

       二  岡本伊三美

       三  葛城隆雄

       遊  豊田泰光

       外  杉山光平 / 高倉照幸 / 山内和弘

      1950 若林忠志

      1951 江藤正

      1952 大神武俊

      1953 大神武俊

      1954 西村貞朗

      1955 柚木進

      1956 川崎徳次

      1957 稲尾和久

      1958 稲尾和久

      1959 杉浦忠

      1960 中西勝己

      1961 J.スタンカ

      1962 土橋正幸

      1963 稲尾和久

      1964 J.スタンカ

      1965 杉浦忠

      1966 渡辺泰輔

      1967 米田哲也

      1968 石井茂雄

      1969 石井茂雄

      1970 木樽正明

      1971 足立光宏

      1972 山田久志

      1973 江本孟紀

      1974 金田留広

      1975 足立光宏

      1976 山田久志

      1977 山田久志

      1978 山田久志

      1979 井本隆

      1980 井本隆

      1981 高橋一三

      1982 松沼博久

      1983 松沼博久

      1984 山田久志

      1985 松沼博久

      1986 東尾修

      1987 東尾修

      1988 渡辺久信

      1989 阿波野秀幸

      1990 渡辺久信

      1991 工藤公康

      1992 渡辺久信

      1993 工藤公康

      1994 渡辺久信

      1995 佐藤義則

      1996 星野伸之

      1997 西口文也

      1998 西口文也

      1999 工藤公康

      2000 若田部健一

      2001 J.パウエル

      2002 松坂大輔

      2003 斉藤和巳

      2004 石井貴

      2005 清水直行

      2006 ダルビッシュ有

      2007 ダルビッシュ有

      2008 涌井秀章

      2009 武田勝

      2010 成瀬善久

      2011 和田毅

      2012 吉川光夫

      2013 則本昂大

      2014 J.スタンリッジ

      2015 武田翔太

      2016 大谷翔平

      2017 千賀滉大

      2018 千賀滉大

      2019 千賀滉大

      2020 千賀滉大

      2021 山本由伸

      2022 山本由伸

      2023 山本由伸

      2024 有原航平

      1938秋 鈴木芳太郎

      1939 政野岩夫

      1940 清水秀雄

      1941 神田武夫

      1942 神田武夫

      1943 清水秀雄

      1944 清水秀雄

      1946 松川博爾

      1947 別所昭

      1948 別所昭

      1949 柚木進

      1950 柚木進

      1951 江藤正

      1952 江藤正

      1953 柚木進

      1954 大神武俊

      1955 柚木進

      1956 柚木進

      1957 野母得見

      1958 杉浦忠

      1959 杉浦忠

      1960 杉浦忠

      1961 J.スタンカ

      1962 J.スタンカ

      1963 J.スタンカ

      1964 三浦清弘

      1965 杉浦忠

      1966 森中千香良

      1967 皆川睦男

      1968 皆川睦男

      1969 泉嘉郎

      1970 西岡三四郎

      1971 西岡三四郎

      1972 西岡三四郎

      1973 江本孟紀

      1974 江本孟紀

      1975 江本孟紀

      1976 山内新一

      1977 山内新一

      1978 山内新一

      1979 藤田学

      1980 山内新一

      1981 山内新一

      1982 山内新一

      1983 山内孝徳

      1984 山内和宏

      1985 山内孝徳

      1986 山内孝徳

      1987 山内孝徳

      1988 西川佳明

      1989 山内孝徳

      1990 藤本修二

      1991 村田勝喜

      1992 村田勝喜

      1993 村田勝喜

      1994 吉田豊彦

      1995 工藤公康

      1996 工藤公康

      1997 武田一浩

      1998 工藤公康

      1999 西村龍次

      2000 西村龍次

      2001 西村龍次

      2002 田之上慶三郎

      2003 斉藤和巳

      2004 斉藤和巳

      2005 和田毅

      2006 斉藤和巳

      2007 斉藤和巳

      2008 杉内俊哉

      2009 和田毅

      2010 杉内俊哉

      2011 和田毅

      2012 攝津正

      2013 攝津正

      2014 攝津正

      2015 攝津正

      2016 攝津正

      2017 和田毅

      2018 千賀滉大

      2019 千賀滉大

      2020 東浜巨

      2021 石川柊太

      2022 千賀滉大

      2023 大関友久

      2024 有原航平

      VIAF

      日本

      日本の野球選手

      立教大学野球部の選手

      福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手

      最多勝利 (NPB)

      最多奪三振 (NPB)

      最優秀防御率 (NPB)

      最高勝率 (野球)

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      最優秀選手 (NPB)

      NPBオールスターゲーム選出選手

      日本の野球監督

      福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の監督

      大阪近鉄バファローズ関連人物

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      日本の野球殿堂表彰者

      野球解説者

      愛知県立豊田西高等学校出身の人物

      愛知県出身のスポーツ選手

      1935年生

      2001年没

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2024/12/03 13:29更新

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江崎 鐵磨(えさき てつま)
1943年9月17日生まれの有名人 愛知出身

江﨑 鐵磨(えさき てつま、1943年〈昭和18年〉9月17日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(8期)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、消費者及び食品安全、海洋政策)、領土問題担当大臣、…

加藤 雷也(かとう らいや)
1988年9月17日生まれの有名人 愛知出身

9月17日生まれwiki情報なし(2024/12/02 21:08時点)

鈴木 ちひろ(すずき ちひろ)
1997年9月17日生まれの有名人 愛知出身

鈴木 ちひろ(すずき ちひろ、1997年〈平成9年〉9月17日 - )は、日本の女性モデル、タレント、レースクイーン。愛称は「ちーちゃん」。愛知県出身。 2019年1月の東京オートサロンで『プロジェ…


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杉浦忠と近い名前の人


杉浦 滋男(すぎうら しげお)
1935年12月15日生まれの有名人 東京出身

杉浦 滋男(すぎうら しげお、1935年12月15日 - 1997年12月6日)は、日本の男性アナウンサー。 東京都出身・日本大学法学部卒業だが、北海道に憧れていたことから、北海道放送にアナウンサー…

杉浦 友紀(すぎうら ゆき)
1983年5月14日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 友紀(すぎうら ゆき、1983年5月14日 - )は、NHKのアナウンサー。 愛知県名古屋市生まれ、岡崎市育ち。父親の仕事の関係で1歳半から5歳までアメリカ・サンフランシスコに住み、帰国後岡崎…

杉浦 加奈(すぎうら かな)
1988年11月10日生まれの有名人 北海道出身

杉浦 加奈(すぎうら かな、1988年11月10日 - )は、日本のファッションモデル、タレント。北海道出身。アミューズ、オスカープロモーション所属を経て、現在はクリエートジャパンエージェンシー所属。…

杉浦 幸(すぎうら みゆき)
1969年4月5日生まれの有名人 東京出身

杉浦 幸(すぎうら みゆき、1969年4月5日 - )は、日本の女優、女流雀士、元アイドル歌手。 デビュー当時は、株式会社ホリプロに所属していたが1990年に退社。2011年2月をもって株式会社ファ…

杉浦 亜衣(すぎうら あい)
1990年8月22日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 亜衣(すぎうら あい、1990年8月22日 - )は、日本のタレント、モデル、女優である。愛知県安城市出身。プラチナムプロダクション所属。 2007年、「ミスセブンティーン」オーディションに応…


杉浦 未幸(すぎうら みゆき)
1971年10月14日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 未幸(すぎうら みゆき、旧芸名及び本名:杉浦 美雪(読み同じ)、1971年(昭和46年)10月14日 - )は、日本の女性モデル、タレント。元アイドルである。独身。 この節は検証可能な参考文献…

杉浦 舞(すぎうら まい)
1979年3月1日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 舞(すぎうら まい、1979年3月1日 - )は、TBSスパークル(旧:キャスト・プラス)所属のフリーアナウンサー。 愛知県碧南市出身。血液型はO型。既婚。 早稲田大学第一文学部哲学科教育学専…

杉浦 里穂(すぎうら りほ)
1992年2月3日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 里穂(すぎうら りほ、1992年2月3日 - )は、日本の女性ファッションモデル、アイドル。血液型O型。スペースクラフト所属。愛知県半田市出身。 2001年12月16日、バンダイ「Jeweld…

杉浦 圭子(すぎうら けいこ)
1958年11月20日生まれの有名人 広島出身

杉浦 圭子(すぎうら けいこ、旧姓・清水、1958年11月20日 - )は、日本のフリーアナウンサー。元日本放送協会アナウンサー。 広島県広島市安佐南区出身。広島市立八木小学校、広島女学院中学校・高…

ピーコ(本名:杉浦 克昭)
1945年1月18日生まれの有名人 神奈川出身

ピーコ(1945年〈昭和20年〉1月18日 - 2024年〈令和6年〉9月3日)は、日本のタレント、ファッション評論家・ジャーナリスト、シャンソン歌手である。本名は杉浦 克昭(すぎうら かつあき)。 …


おすぎ(本名:杉浦 孝昭〈すぎうら たかあき〉)
1945年1月18日生まれの有名人 神奈川出身

おすぎ(1945年〈昭和20年〉1月18日 - )は、日本のタレント、映画評論家である。横浜市立桜丘高等学校、阿佐ヶ谷美術専門学校卒業。プラムクリークス所属。本名は杉浦 孝昭(すぎうら たかあき)。フ…

杉浦 慶子(すぎうら けいこ)
1987年9月2日生まれの有名人 東京出身

杉浦 慶子(すぎうら けいこ、1987年9月2日 - )は、日本の声優、舞台女優。東京都出身。演劇集団 円、円企画所属。東京アナウンス学院卒業。 太字はメインキャラクター。 ポムカンパニー 広島に…

杉浦 宏策(すぎうら こうさく)
1926年9月15日生まれの有名人 出身

杉浦 宏策(すぎうら こうさく、1926年9月15日 - )は、日本の俳優、声優。旧芸名:杉浦 宏(すぎうら ひろし)。東京府出身。 1942年、劇団かもしか座の舞台で俳優デビュー。ムーランルージュ…

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杉浦忠
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